松山

2006.08.22

坂の上の雲の世界 ~子規堂・子規記念博物館・秋山兄弟誕生地~

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「坂の上の雲」の主人公の一人である正岡子規は、俳句や短歌の革新を手がけた事を始めとして、日本文学史上に大きな足跡を残した人物でした。松山において彼の足跡を辿るとすれば、まず子規堂から始める事になるでしょう。

子規堂は、子規の生家の一部を保存復元したものであり、正宗寺という寺の境内に建っています。これは子規の文学仲間であった正宗寺住職の仏海禅師が子規の業績を記念するために移設したもので、実際の生家跡には石碑が建っている様ですね。

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これは子規堂の入り口にある旅立ちの像。子規が松山を発ち東京に向ったのは1883年(明治16年)6月の事で、この時子規は17歳でした。この像はその旅立ちの日の朝に、草鞋を結ぶ子規の姿とされます。この像には元になった写真があり、後年箱根を旅した時の姿の様をモデルにしている様ですね。

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子規堂には多くの資料が展示されていますが、坂の上の雲との関連で言えばこの書斎でしょうか。小説では松山中学において友達となった秋山真之を、子規が自宅に招く場面で登場しています。まだ中学生に過ぎない子規が既に自分の書斎を持っている事に真之が驚くのですが、実際にはわずか三畳に過ぎず、この頃の士族の暮らし向きが窺えるエピソードですね。この部屋で子規は、貸本を借りては写本をし、自らの蔵書を増やして行ったと言います。ここはまさに子規の原点となった場所と言うべきなのでしょう。

子規堂は入場料50円。ここには子規堂の他にも、坊っちゃん列車の客車、子規の遺髪を納めた「子規居士髪塔」などがあります。松山市駅からほど近かく、一度は訪れておきたい場所ですね。

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子規堂以上に子規の資料を豊富に有しているのが「松山市立子規記念博物館」です。ここを訪れれば子規の全てが判ると言っても過言ではないほど、展示の内容は充実しています。仮に細かい資料を読まなくてもビデオがいくつもあって、それを見ているだけでも子規の事、明治の日本の事が判る仕組みになっています。少し時間を多めに取って、じっくり見て回る事をお勧めします。場所は道後公園の一角にあり、道後温泉に立ち寄るついでに訪れるのも良いでしょう。入館料は400円、高校生以下は無料です。休刊日は年末及び月曜日又は休日の翌日。

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こちらは、坂の上の雲の後二人の主人公、秋山好古と真之兄弟の誕生の地です。

好古は日本騎兵の父と呼ばれた人で、日露戦争において当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を相手に回し、見事に勝利を納めた事で知られています。陸軍大将にまで昇進し、退役後は故郷の北予中学の校長を務めました。この写真ではちょっと判りませんが、非常に個性的な顔つきで、日本人と言うより中国の大人を思わせる様な独特の風貌の持ち主ですね。いかにも明治の日本に生きたというに相応しい、強靱な人格を持っていた人物という気がします。

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こちらは、弟の真之の像です。真之は、日露戦争における連合艦隊の主任参謀として東郷平八郎を補佐し、日本海軍を勝利に導いた人として知られます。バルチック艦隊発見の報告電報に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と加えたエピソードでも知られますが、これは「荒波の為に水雷艇などの小型船舶は出撃出来ず、主力艦だけで出撃する」旨を簡潔に伝えた名文とも言われます。真之の風貌は兄とは違ってとても秀麗で、いかにも参謀にふさわしい明晰な頭脳の持ち主であった事を窺わせます。

秋山兄弟の生家は戦災によって焼失しましたが、平成16年に再建され公開されています。わずか4間がある小さな家に過ぎませんが、下級武士の家に生まれながら大志を抱いて上京して行った秋山兄弟を偲ぶには、丁度良い場所かも知れません。場所は松山城ロープウェイ乗り場からすぐ近く、休館日は年末年始及び月曜日となっています。入館料は大人200円、高校生以下は無料です。

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2006.08.19

坂の上の雲の世界 ~愚陀佛庵~

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今松山を訪れると、『「坂の上の雲」を軸とした21世紀のまちづくり』というフレーズを良く耳にします。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する3人の松山人、正岡子規、秋山好古、秋山真之の生き様を軸にして、日本一の街作りを目指そうという動きです。具体的には、市内各所にある関連箇所をピックアップし、有機的に関連づける事によって町おこしに繋げようと言うのですね。屋根のないミュージアムというのがキャッチフレーズになっていますが、単なる観光客誘致だけではなく、市民の意識向上から教育環境の改善に至るまでを含んだ、大々的な構想なのですね。これは2008年に放送が予定されているNHKの21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」とも連動している様です。

その拠点となるのが松山城周辺のフィールドミュージアムセンターフィールド。松山地方裁判所の東隣に建設されている坂の上の雲ミュージアムが、この構想の中心施設となります。このミュージアムは単なる小説の展示場に止まらず、市内の関連施設に関する情報発信の場として位置づけられている様ですね。総工費30億円と言いますから、さぞかし見事な施設が出来上がる事でしょう。

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このミュージアムに隣接してあるのが「萬緑荘」と「愚陀佛庵」です。「愚陀佛庵」とは、夏目漱石が松山赴任中に下宿していた家の事で、漱石の別号から名付けられたものです。元は二番町という市街地にあり、上野義方宅の離れとして建てられた家でした。漱石は1895年(明治28年)の6月に移って以来、翌年4月に熊本へ転任して行くまでここに住みました。

「愚陀佛は 主人の名なり 冬籠」 漱石

この愚陀佛庵で特筆すべきなのは、漱石と子規が同居していた事実がある事です。子規は明治28年3月から日清戦争の従軍記者として中国に渡っていましたが、その帰りの船中で結核を発病し、兵庫県の須磨の地で療養を余儀なくされていました。そして、わずかに体力の回復を見たため、故郷の松山にて療養生活を続けるべく帰郷します。しかし、すでに子規の実家は人手に渡っていたため、漱石の勧めでその下宿に転がり込んだのでした。同年8月27日の事で、それから52日間に渡る共同生活が始まったのです。

「桔梗生けて しばらく仮の 書斎哉」 子規

愚陀佛庵では、2階に漱石、1階に子規が暮らしていました。この頃すでに子規は俳壇で重きをなしており、松山の俳句結社「松風会」の同人が子規を慕って連日のごとく訪れてきました。そのあまりの賑やかさに漱石は迷惑だった様ですが、次第に自身もその輪の中に入り、俳句の道に目覚めていった様ですね。10月29日、子規は療養生活を切り上げて松山から東京へと向かい、二人の共同生活は終わりを告げました。この間の様子は「坂の上の雲」にも描かれており、親分肌の子規に翻弄されつつも、親友との生活を楽しむ漱石の様子が活写されています。

明治の文壇に偉大な足跡を残した二人が暮らした愚陀佛庵は、残念ながら昭和20年7月の松山大空襲により焼失してしまいました。今の建物は昭和57年に再建されたもので、漱石が最初に下宿した「愛松亭」跡にほど近い現在の位置が選定され、愚陀佛庵に関する各種の資料を駆使して、細部に至るまで忠実に再現されているとの事です。なお、子規記念博物館においても、再現された愚陀佛庵を見る事が出来ます。

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愚陀佛庵が建っているのは、萬翠荘の敷地にあたります。萬翠荘とは、旧松山藩の子孫にあたる久松定謨伯爵が、別邸として建てたものでした。1922年(大正11年)の建築で、愛媛県庁なども手がけた木子七郎という人の設計になります。鉄筋コンクリート造で、地上3階、地下1階、純フランス風という外観はなかなか見事なものがありますね。

現在は愛媛県美術館分館郷土美術館となっており、主として郷土出身の美術家を顕彰する展示会が開かれています。

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館内の一階部分は無料で公開されており、大正ロマンの香りのする洋館の雰囲気を味わう事が出来ます。このステンドグラスは階段の踊り場の壁面に嵌められているもので、ハワイから輸入したものだそうですね。何故ハワイに特注したのかは判りませんが、玄関から入ってすぐのところにあり、一際目を惹く見事なものです。

「坂の上の雲」は司馬作品の中でも傑作の一つで、青年期にあった日本の苦悩と、苦闘の果てにようやくたどり着いた栄光が描かれています。松山も、向上心に溢れる明治の日本の精神にあやかって街作りを進めようとしており、大河ドラマの放映時には大勢の観光客で賑わう事でしょうね。ただ一点、このキャンペーンが戦争賛美の方向に向かわないかだけが気掛かりです。

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2006.08.18

坊ちゃんの世界 ~五志喜~

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「ある日の晩大町と云う所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。」(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

大街道からほど近いところに松山中央郵便局があります。その隣にあるのは蕎麦屋ではなく、五色素麺で知られる「五志喜」という郷土料理の店でした。創業300年近くになるという老舗であり、漱石もきっとここを知っていた事でしょう。同じ麺類から蕎麦屋を連想したと言う説は、ちょっと無理があるかなあ...。

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五色素麺とは白の素麺をベースに、黄(卵)、緑(抹茶)、赤(梅肉)、茶(蕎麦)の色を付けたもので、器によそうと五色が絡み合って、とてもカラフルにかつ涼しげに見えます。正岡子規は、「文月のものよ五色の絲そうめん」と詠んでおり、昔から夏の風物詩として定着していた様ですね。

この日頂いたのは「鯛飯そうめん」の松です。「鯛めし」もまた松山の郷土料理なのですね。宿泊先の古湧園の夕食でも出てきましたが、洗練された味わいの古湧園に対し、こちらはいかにも郷土料理らしい素朴な味わいです。どちらが上と言う訳ではなく、両方が味わえたのはついていたと思います。五色そうめんもまた見た目が美しく、そしてなかなか美味しかったですよ。

ちょっと面白いと思ったのが、「松」「竹」「梅」の3ランクがあった場合、大阪周辺では「松」が一番上に来るのですが、ここでは一番下になるのですね。このランク付けが地方によって違いがあるというのは初めて知りました。

この日は平日だったのですが、五志喜には観光客ばかりでなく、近くの勤め人と思われる人達も昼食を食べに訪れていました。古くから松山に根付いた店らしく、地元の人から今も愛され続けているのですね。

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2006.08.17

坊ちゃんの世界 ~道後温泉~

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「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛る。」(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

漱石をしてこう言わしめた道後温泉本館の夜の佇まいです。この建物が完成したのは1894年(明治27年)の事で、漱石が松山に赴任する前年の事でした。当時の道後温泉町の町長であった伊佐庭如矢が、温泉客の誘致を目的として13万5千円という巨費を掛けて築き上げたです。松山中学一の高給取りであった漱石の月給が80円ですから、いかに巨額であったかが判るというものでしょう。あまりの高額さに周囲は猛反対に転じ、伊佐庭町長は命の危険すら感じたと言いますから相当なものだった様ですね。

いわば現在のテーマパークの走りとでも言うべきものですが、今や松山の顔として誰一人知らない者はないという状況を鑑みれば、伊佐庭町長の賭けは大成功に終わったと言えそうですね。この町長は、本館の建設と併せて松山市内から道後温泉に通じる軽便鉄道を建設しており、道後温泉の繁栄の基礎を築いたと言われています。実に先見の明がある人だった様ですね。伊佐庭如矢が建てた本館は、この日も入浴客で引きも切らないという盛況ぶりでした。

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「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。」

現在の道後温泉本館は、大きく神の湯と霊の湯に分かれています。神の湯が銭湯も兼ねた大浴場、霊の湯がこぢんまりとしている分入浴客も少なめで、ゆっくりと楽しめる様になっています。神の湯は附属する脱衣場を利用するコース、2階の大広間で浴衣を借りてお茶とせんべいを頂くコースがあり、霊の湯は大広間で茶菓の接待を受けるコースと3階個室を利用するコースがあります。料金等の詳細はこちらを参照してください。

この大広間というのがくせ者で、男女共同になっているのですね。部屋にはしきりも何もなく、行李箱を一つ貸してくれるだけで、こんなところで服を脱いで浴衣に着替えて良いのかと、初めて来た時にはとまどったものです。女性客にとってはなおさらでしょうね。天目に乗せてお茶を出すという接待は、漱石の当時と変わっていません。

「湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は十三四人漬ってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。」

このエピソードのとおり、神の湯の壁面には「坊ちゃん泳ぐべからず」の木札が貼り付けてあります。確かに深さも広さも十分で、誰も居なければつい泳いでみたくなりますよね。ただ、温泉は熱めで、長く入っているとのぼせてしまうでしょう。

今回入ってみて気付いたのですが、かすかに塩素臭がしており、この点が以前とは違っていました。これは、一時期全国的に騒ぎになったレジオネラ菌対策として、愛媛県の条例で塩素投入を義務づけたせいなのですね。安全性との引き替えとは言え、温水プールに入っている様で、せっかくの風情が壊れてしまう事も事実です。別の殺菌方法を開発するなど、何か良い解決策は無いものなのでしょうか。

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これは道後温泉駅の近くにあるカラクリ時計です。毎正時ごとにせり上がり、中から坊ちゃんの登場人物の人形20体が現れるという仕掛けになっています。一番下は道後温泉の湯船になっており、クルクル回っているので光りの輪の様になっていますね。この時計の側には明治時代のお巡りさんに扮したボランティアの方が居て、面白おかしく解説をしてくれます。最終10時まで残って居られましたから、お疲れ様の一言ですね。

なお、夏休み、春休み及び年末年始には、30分毎にカラクリが動作する様になっています。

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今回泊まったホテルは古湧園。道後温泉本館から少し坂を上ったところにある老舗のホテルです。今回は3連泊をしたのですが、何より良かったのは食事が美味しかった事ですね。以前道後で泊まったホテルの食事が今ひとつで、今回もあまり期待していなかっただけに、とても嬉しい驚きでした。魚を中心としたメニューで、毎回工夫を凝らした料理が出てきます。実は、私は魚系はあまり好きではなかったのですが、ここの料理を食べて認識を改めました。煮魚が美味しいと思ったのは今回が初めてではなかったかしらん?料亭の味と言っても過言では無いと思います。仲居さんを始めとした従業員の対応も良く、このホテルにして大正解でした。

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2006.08.16

坊ちゃんの世界 ~大街道・銀天街~

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「それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並はあれより落ちる。」(夏目漱石 「坊ちゃんより」)

ここに出てくる大通りというのは、大街道(おおかいどう)の事でしょうか。大街道とは松山きっての繁華街の事で、北は松山城に登るロープウェイ乗り場のあたりから商店街が続き、電車通から南側はアーケード街に変わります。

このアーケード街の特徴は、とにかく道幅が広いこと。それもそのはず、ここはかつて国道だったのですね。坊ちゃんではかなり狭い道の様に書かれていますが、国道時代に拡幅されたという事なのでしょうか。こんなにゆったりとした繁華街は京都にも大阪にも無いので、ちょっとうらやましいですね。オープンカフェの様なテーブルと椅子がそこかしこにあったのですが、全然邪魔になっておらず、休憩には丁度良かったです。

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南北に続く大街道に、東西方向に逆L字型に繋がるもう一つのアーケード街が「銀天街」です。道幅はやや狭くなりますが、その分人通りが多く感じられる賑やかな通りですね。西に抜けると「いよてつ高島屋」に通じており、大街道と共に松山の中心部をなすと言って良いのでしょう。ちなみに、銀天街とは、昭和28年に出来たアーケードの色が銀色だった事から付いた名前だとか。今は半透明の屋根になっており、当時の面影は無い様ですね。

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その銀天街で見つけた四国リーグ「マンダリンパイレーツ」を応援する横断幕です。この四国リーグがどの程度の盛り上がりを見せているか興味があったのですが、この横断幕以外にはこれと言って見つける事が出来ませんでした。タクシーの運転手さんに聞いてもサッカーのJ2に居る愛媛FCの方が人気だという事で、四国リーグに対する注目度はいまいちの様ですね。地域リーグというのは面白い試みと思えるだけに、ちょっと寂しい気がします。

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「それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。」

この坊ちゃんが食べた団子を食べてみようと、銀天街のお店でみたらし団子を食べてきました。素朴な味わいで、まずまず美味しいといったところでしょうか。ところが後で知ったのですが、ぼっちゃんが食べたのはあんこを乗せて食べる団子で、みたらし団子ではなかったようですね。私がみたらしと思っていたのは、昔見た映画の影響かしらん?そう言えば、お土産に「坊ちゃん団子」を買って帰るのを忘れたなあ...。

松山は人口50万を誇る大都市なだけに、繁華街も実に賑やかですね。観光を一通り終えた後も、ここに来れば十分に楽しむ事が出来そうです。

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2006.08.15

坊ちゃんの世界 ~坊ちゃん列車~

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(道後温泉駅にて)

「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。」(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

坊ちゃんに登場するこの汽車は、三津と松山(現在の松山市駅)を結ぶ伊予鉄道高浜線を走っていました。当時の伊予鉄道は、正規の鉄道に比べて狭い線路幅であるなど簡易な規格で建設出来た軽便鉄道であり、その動力である機関車も後のD51などと比べれば半分程度の大きさしかありません。その頃はまだ日本では機関車は製造されておらず、ドイツのクラウス社から輸入されたもので、当時の貨幣で9700円、現在の価値に換算すると約2億円もしたとされています。開業は1888年(明治21年)の事であり、漱石が松山に赴任する7年前の出来事でした。

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(子規堂にて)

マッチ箱の様だと形容されたのは、この客車の事でしょう。確かにマッチ箱の様に真四角で、機関車と同じくとても小柄に出来ています。開業当時の三津と松山間の料金は3銭5厘(下等)で、所要時間は28分でした。概ね1時間30分ごとに運行されていた様ですね。1954年(昭和29年)にディーゼル化されるまで現役で走っていたと言い、小説にちなんで坊ちゃん列車と呼ばれていました。

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「やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。」

坊ちゃんでは、主人公が道後温泉(作品中では住田)へ行く場面でも汽車が登場します。こちらは、伊予鉄道とは別に、温泉客の誘致を目的として道後温泉組合が始めた道後鉄道でした。この道後鉄道は漱石が赴任した1895年(明治28年)の8月に開業しており、漱石は真新しい列車に乗って温泉通いをしていたのでしょうね。大街道を始点として道後温泉にまで続いていましたが、現在の城南線は後の松山電気軌道の路線を引き継いだものであり、直接の繋がりは無い様です。また、道後鉄道は開業から5年後に伊予鉄道と合併して姿を消しており、坊ちゃんが発表された当時はすでに伊予鉄道に吸収されていました。

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坊ちゃん列車は1号車が梅津寺パークに保存展示されているほか、復元模型が伊予鉄道本社など数カ所で見ることが出来ます。これは子規記念博物館前に展示されているもので、旅行者にとっては一番見やすい場所にあると言えるかも知れません。

8月19日追記
その後調べて判ったのですが、この子規記念博物館前の坊ちゃん列車は、「坊ちゃん百年展」に合わせて伊予鉄道本社前から移設されたものだったのですね。これからずっと常設される訳ではなく、平成18年9月10日(日)までの特別展示なのだそうです。

現在市内を走っている坊ちゃん列車はかつての機関車を復元したもので、ディーゼルを動力として2両が運行されています。1号車と14号車がモデルになっていますが、それぞれ細かい意匠が異なっている様です。道後温泉と松山市駅及びJR松山駅間を結んでおり、道後温泉、大街道、松山市駅前、JR松山駅前、古町の各駅から乗車が可能です。予約は不要で、各乗車駅から直接乗って料金を払えば良いのですが、一乗車につき300円(小人150円) と通常の電車の倍の料金設定になっていますね。時刻表などの詳細についてはこちらを参照してください。

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2006.08.14

坊ちゃんの世界 ~ターナー島~

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『「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。...
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。』(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

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坊ちゃんに登場したターナー島が現実にあります。それがこの四十島。三津浜の西北、高浜町一丁目横山の沖合150mに浮かぶ無人島です。

一見して、松がわずかに生えているだけで、赤シャツが激賞した風景には程遠い様に映ります。実は、かつてはこの島に見事な松が生えていたのですが、残念なことに枯れてしまったのですね。

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こちらが古写真に見るターナー島。作品に描かれたのはこの光景だったのですね。ところが、昭和50年代の初め頃、全国的に猛威を振った松食い虫の被害によって、この松が枯れてしまったのです。そして、荒波に揉まれる四十島自体もまた、浸食によっていつしかやせ細ってしまったのでした。

一時は四十島には一本の木も無くなってしまっていたのですが、わずかずつながら松の木が蘇りつつあります。これは、地元の篤志家が、長年に渡って努力を積み重ねて来た結果なのですね。土壌の無い岩だらけの島に、土を運んでは苗を植え、台風や渇水による度重なる被害を乗り越えて、やっと現状にまで至っているのです。この努力がやがて実を結び、ターナー島の名にふさわしい姿にまで蘇る日が来るのかも知れません。

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これは、ターナー島を見渡す海岸にあった正岡子規の句碑です。

「初潮や 松に浪こす 四十島」

この句は明治25年に詠まれたもので、明治39年に発表された坊ちゃんよりも14年前の作品です。どうやらこの島は「坊っちゃん」によって有名になるよりずっと以前から、名勝として知られていた様ですね。漱石もそれを踏まえて作品に登場させたのでしょう。あるいは、この句を作った子規から教えてもらったと考えるのが一番自然かも知れないですね。

今回ターナー島を訪れるにあたって、アクセス方法を色々と探してみました。ところが、島を紹介するページはあっても、どうやって行けば良いかを書いたところは皆無なのですよね。それもそのはず、行ってみて判ったのですが、高浜駅から歩いて行くしか方法が無いのでした。距離にして1km弱ですから歩けない距離ではありませんが、案内板もなく、初めての人はきっと迷うと思います。我が家の場合、あまりの暑さに辟易して、JR松山駅からタクシーで訪れたので難なくたどり着きましたが、当初の予定通り電車に乗っていたら、きっと大変な目に遭っていた事でしょう。これからこのあたりを観光の拠点とする計画があるようですが、駅からバスを出すか、レンタサイクルを置いて欲しいところです。自転車なら三津浜とセットで、楽しい時間が過ごせる事でしょうね。

アクセスに難はあるにせよ、瀬戸内を前にした光景は素晴らしいものがありました。まるで船に乗った坊ちゃん達の姿が見える様な気もしましたしね。時間を割いて、わざわざ寄っただけの値打ちは十分にあったと思っています。

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2006.08.12

坊ちゃんの世界 ~松山市三津浜~

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「ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。」(夏目漱石著「坊っちゃん」より)

これは、小説・坊ちゃんの主人公が、赴任先の四国のとある町の入り口にたどり着いた時の描写です。作品中に明確に書かれている訳ではありませんが、この町は漱石が英語教師として赴任した事がある松山の事だとされています。当時の松山の海の玄関口は三津浜港であり、小説に描かれた光景も三津浜のものという事になりますね。

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三津浜港は、宮前川という川の河口に開けた港で、その歴史は古く、はるか古代にまで遡るとされています。

一説に依れば、万葉集にある額田王の

「熱田津に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎいでな」

という歌に出てくる熱田津とは、この三津浜の事ではないかとも言われています。以来、伊予の玄関口、あるいは水軍の根拠地として重要視され、江戸期には魚市場が開設されて商業の町として発展しました。現在は主要な港の機能は松山観光港に移されており、本州と四国を結ぶ何本かのフェリーの発着場となっている他は、主として漁船の基地となっている様ですね。

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「見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。」

この艀の光景を彷彿とさせるのが、三津の渡しです。この渡し船の歴史も古く、1469年に、当時この地方を支配していた河野氏の一族河野通春が港山城主であったときに利用したのが始まりとされます。港山城とは三津とは川を挟んだ対岸にある城で、港の警護を目的として築かれていました。江戸期にあっては松山藩の御船手の配下として運行され、三津浜の繁栄を支えています。明治以後もそのまま引き継がれて現在に至っています。

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この渡し船の正式名称は「松山市道高浜2号線」。要するに市道の一部なのですね。このため、松山市の手で運行が続けられており、年中無休で運賃は無料です。運行時間は午前7時から午後7時までとなっており、三津浜に行く事があれば是非乗ってみる事をお勧めします。船上からの景色は風情があって、なかなか良いですよ。

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三津浜には、かつての繁栄ぶりを彷彿とさせるものがそこかしこに残っています。例えば、これは渡し船のすぐ側にあった西性寺という浄土真宗のお寺なのですが、小振りながら非常に洒落た山門を持っていますね。また、司馬良太郎の小説「坂の上の雲」の主人公である明治の青年、正岡子規、秋山好古、真之兄弟達が、大志を抱いて松山から旅立ったのも、三津浜からでした。ここはまだ観光化されておらず、JRの駅でタクシーの運転手に聞いても、いったい何を見に行くのかという反応しか返ってきません。しかし、三津浜を見直そうという動きは始まっており、近い将来観光コースとして脚光を浴びる事になるかも知れません。

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2006.08.11

丸ポストのある風景@道後温泉

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道後温泉で見つけた丸ポスト二つ。

まずは、道後温泉駅にあった丸ポスト。松山の町を走る路面電車をバックに撮ってみました。夜の電車の灯りに、ちょっとした旅情が感じられません事?

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こちらは道後商店街にあった丸ポスト。湯上がりに土産物を探しがてらそぞろ歩く人達が、丸ポストの前を次々に通り過ぎて行きます。古い温泉街には丸ポストが似合いますね。

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