一豊と千代が眠る寺 妙心寺塔頭・大通院 ~功名が辻~
一年間に渡って山内一豊・千代夫妻の生涯を描いてきた大河ドラマ「功名が辻」も、いよいよ最終回を迎えます。その最後にあたって紹介すべきは、やはり二人の霊が眠る大通院を措いて他には無いでしょう。
現在では土佐の太守・山内家の菩提寺として知られる大通院ですが、意外な事にその開基は一柳直末という豊臣政権下の一大名でした。直末は一豊の同僚とでも呼ぶべき人物で、ドラマにこそ出てきませんでしたが、共に豊臣秀次の宿老を勤めたという経歴の持ち主です。当時の石高は美濃で三万石を領しており、この点でも長浜で二万石を領していた一豊とほぼ同格ですね。この直末が1586年(天正14年)に妙心寺第五十八世南化国師を開山に迎え、開創したのが大通院の始まりとされています。この寺を前の大通院と呼び、現在の大通院と区別している様ですね。
一豊夫妻は、この南化国師に帰依するところが深く、国師から禅の教えを受けていました。ドラマにあった様に、一豊と千代はその義子である「拾」を後継者争いの渦に巻き込まない様にと出家させるのですが、その預けた先が国師の居るこの大通院でした。「拾」は南化国師の下で修行に励み、後に湘南国師と呼ばれる迄に大成しています。そして大通院の二世となり、以後この寺は山内家の菩提寺となったのでした。これを後の大通院と呼ぶ様です。
現在の大通院の境内に残る霊屋(みたまや)は、千代の17回忌(1633年(寛永10年))に、湘南国師が建立したものです。その内部には、写真の様に一豊夫妻の無縫塔が並んでいます。無縫塔とは禅僧の墓石に用いられる形式なのですが、二人が生前から禅宗に帰依していた事によるものとされています。右が一豊の墓で左が千代の墓なのですが、一説に依ると千代の墓石の方が大きいそうですね。これは一豊夫妻の力関係を表しているとも言いますが、果たしてどんなものなのでしょうね。
背後には二人の戒名を刻んだ位牌が安置されています。千代の戒名は「見性院殿潙宗紹劉大姉」であり、この法名からこの霊屋は「見性閣」と呼ばれています。また、一豊の戒名は「大通院心峰宗大居士」と言い、この寺の名の由来になったと言いますが、すると以前の名称は何だったのでしょうね?
千代はこの石塔の下に眠り、先に亡くなった一豊は土佐にある墓から分骨をして千代の隣に葬られています。夫婦二人が仲良く並ぶ墓は、大名としては珍しい存在なのだそうですね。それだけ山内家にとっては、千代の存在が大きかったという事なのでしょう。
境内には大河ドラマの主役の二人である川上隆也と仲間由紀恵が、一豊夫妻を演じるにあたって参拝に訪れた際のパネルが掲示してありました。時代劇を演じる俳優は、こういうところを必ずきちんと押さえる様ですね。ちなみに、川上隆也はこの後も大通院を訪れたそうなのですが、本人が名乗るまではだれもそうとは気付かなかったそうです。いくら何でもと思いますが、やっぱり一豊公の影はどこまで行っても薄いままなのかなあ...。
現在の大通院は、本堂の他に見性閣と墓地がある程度なのですが、かつては妙心寺の塔頭群の中でも一・二を争う大寺でした。その庭も都林泉名所図絵に依れば非常に広大なもので、湘南国師が各地の奇岩奇木を集めて山水の景勝を形作ったという名庭でした。しかし、残念な事に、明治維新の際の廃仏毀釈のあおりを受けて書院などの殿舎は破却され、庭石は平安神宮の庭園の造営の為に持ち去られたという事です。
大通院を訪れたのは平成18年12月9日の事で、名残の紅葉がまだありました。折からの雨で散ったもみじの葉が綺麗でしたよ。ここの紅葉も盛りの頃には、さぞかし見事だった事でしょうね。
本堂の前では、寒ボケが花を咲かせていました。いかにも冬に咲く花らしく、淡淡とした色合いですね。これから春まで、冬枯れの景色の中で、貴重な彩りとなって咲き続ける事でしょう。
大通院は普段は非公開寺院なのですが、現在は特別公開期間中であり、平成18年12月17日まで拝観が可能です。拝観料は600円、拝観時間は10時から16時までとなっています。大河ドラマの締めくくりとして、一度訪れてみられてはいかがでしょうか。
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