功名が辻

2006.12.10

一豊と千代が眠る寺 妙心寺塔頭・大通院 ~功名が辻~

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一年間に渡って山内一豊・千代夫妻の生涯を描いてきた大河ドラマ「功名が辻」も、いよいよ最終回を迎えます。その最後にあたって紹介すべきは、やはり二人の霊が眠る大通院を措いて他には無いでしょう。

現在では土佐の太守・山内家の菩提寺として知られる大通院ですが、意外な事にその開基は一柳直末という豊臣政権下の一大名でした。直末は一豊の同僚とでも呼ぶべき人物で、ドラマにこそ出てきませんでしたが、共に豊臣秀次の宿老を勤めたという経歴の持ち主です。当時の石高は美濃で三万石を領しており、この点でも長浜で二万石を領していた一豊とほぼ同格ですね。この直末が1586年(天正14年)に妙心寺第五十八世南化国師を開山に迎え、開創したのが大通院の始まりとされています。この寺を前の大通院と呼び、現在の大通院と区別している様ですね。

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一豊夫妻は、この南化国師に帰依するところが深く、国師から禅の教えを受けていました。ドラマにあった様に、一豊と千代はその義子である「拾」を後継者争いの渦に巻き込まない様にと出家させるのですが、その預けた先が国師の居るこの大通院でした。「拾」は南化国師の下で修行に励み、後に湘南国師と呼ばれる迄に大成しています。そして大通院の二世となり、以後この寺は山内家の菩提寺となったのでした。これを後の大通院と呼ぶ様です。

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現在の大通院の境内に残る霊屋(みたまや)は、千代の17回忌(1633年(寛永10年))に、湘南国師が建立したものです。その内部には、写真の様に一豊夫妻の無縫塔が並んでいます。無縫塔とは禅僧の墓石に用いられる形式なのですが、二人が生前から禅宗に帰依していた事によるものとされています。右が一豊の墓で左が千代の墓なのですが、一説に依ると千代の墓石の方が大きいそうですね。これは一豊夫妻の力関係を表しているとも言いますが、果たしてどんなものなのでしょうね。

背後には二人の戒名を刻んだ位牌が安置されています。千代の戒名は「見性院殿潙宗紹劉大姉」であり、この法名からこの霊屋は「見性閣」と呼ばれています。また、一豊の戒名は「大通院心峰宗大居士」と言い、この寺の名の由来になったと言いますが、すると以前の名称は何だったのでしょうね?

千代はこの石塔の下に眠り、先に亡くなった一豊は土佐にある墓から分骨をして千代の隣に葬られています。夫婦二人が仲良く並ぶ墓は、大名としては珍しい存在なのだそうですね。それだけ山内家にとっては、千代の存在が大きかったという事なのでしょう。

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境内には大河ドラマの主役の二人である川上隆也と仲間由紀恵が、一豊夫妻を演じるにあたって参拝に訪れた際のパネルが掲示してありました。時代劇を演じる俳優は、こういうところを必ずきちんと押さえる様ですね。ちなみに、川上隆也はこの後も大通院を訪れたそうなのですが、本人が名乗るまではだれもそうとは気付かなかったそうです。いくら何でもと思いますが、やっぱり一豊公の影はどこまで行っても薄いままなのかなあ...。

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現在の大通院は、本堂の他に見性閣と墓地がある程度なのですが、かつては妙心寺の塔頭群の中でも一・二を争う大寺でした。その庭も都林泉名所図絵に依れば非常に広大なもので、湘南国師が各地の奇岩奇木を集めて山水の景勝を形作ったという名庭でした。しかし、残念な事に、明治維新の際の廃仏毀釈のあおりを受けて書院などの殿舎は破却され、庭石は平安神宮の庭園の造営の為に持ち去られたという事です。

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大通院を訪れたのは平成18年12月9日の事で、名残の紅葉がまだありました。折からの雨で散ったもみじの葉が綺麗でしたよ。ここの紅葉も盛りの頃には、さぞかし見事だった事でしょうね。

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本堂の前では、寒ボケが花を咲かせていました。いかにも冬に咲く花らしく、淡淡とした色合いですね。これから春まで、冬枯れの景色の中で、貴重な彩りとなって咲き続ける事でしょう。

大通院は普段は非公開寺院なのですが、現在は特別公開期間中であり、平成18年12月17日まで拝観が可能です。拝観料は600円、拝観時間は10時から16時までとなっています。大河ドラマの締めくくりとして、一度訪れてみられてはいかがでしょうか。


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2006.10.14

前の土佐太守 長曽我部盛親の足跡 ~功名が辻~

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(京都市上京区柳図子。相国寺の西、烏丸通を西に渡り、上立売通の一筋北にあたります。)

巧妙が辻を駆け抜け、遂には土佐24万石の太守となった山内一豊。その一豊と明暗を分けたのが前の土佐の太守長曽我部盛親でした。

盛親は1575年(天正3年)に、一代で四国を切り従えた英雄、元親の4男として生まれました。元親には4人の男子があり、嫡男の信親が跡取りと定められていたのですが、島津氏と戦った戸次川の戦いで信親が戦死してしまいます。元親は新たな跡継ぎに、次男親和と三男親忠を差し置いて、末の息子である盛親を指名しました。四男を跡継ぎにすることについては家中においても反対が多かったのですが、元親は反対派の処罰を断行し、強引に盛親を跡継ぎに据えてしまいます。

1599年(慶長4年)に豊臣秀吉が亡くなってから間もなく、元親もまたこの世を去りました。秀吉亡き後の混沌とした世相の中、俄に長曽我部氏の当主となった盛親は、たちどころに困難な局面に直面します。大阪方と徳川方に別れた双方の陣営にとって、土佐24万石はどうしても味方に引き入れたい勢力であり、盛親の元には様々な誘いの手が伸びて来ました。そんな中で盛親が下した決断は、徳川方に味方するというものでした。土佐24万石は長曽我部氏が独力で切り従えた領地であり、豊臣氏の軍門に下ったとはいえその恩顧を受けた訳ではなく、大阪方に与する積極的な理由は何も無かったのですね。対する徳川家は、かつて小牧・長久手の戦いの際に一度は同盟を結んだ相手であり、また、戦になれば徳川氏の方に分があると盛親なりに見極めたのでしょう。

徳川氏に味方すると決めた盛親は、出陣に先立ち、家康の下へ使者を派遣します。このまま行けば土佐24万石は安泰のはずでした。ところが、この使者が近江路に設けられた大阪方の関所で怪しまれ、行く手を阻まれてしまったのです。家康との連絡手段を失った盛親は、やむなく大阪方に荷担する事になります。千代から一豊に向けて放った使者が無事にこの関所をくぐり抜け、千代のもたらした大阪方決起の知らせが一豊第一の戦功の元となり、さらには土佐の太守たらしめた事に比べると、何とも歴史の皮肉としか言い様がありません。

盛親は土佐6300の軍勢を引き連れ、大阪方の一将として伏見城、安濃津城攻めの主力として働きます。しかし、肝心の関ヶ原においては、同じ南宮山に陣取った毛利勢に行く手を阻まれ、戦況を傍観している間に敗軍の将になってしまいました。命からがら土佐に逃げ帰った盛親は、井伊直政を通して謝罪を申し入れます。直政は、謝罪するなら盛親自らが大阪に出てこなければ駄目だと告げ、盛親はこれに従いました。

ところが、盛親が土佐を発つ直前に、兄の親忠が自害してしまいます。これは、藤堂家とつながりのあった親忠が、徳川家の威光を背景に盛親に取って代わろうとするのではないかと疑われ、盛親自らが手を下したとも、盛親の預かり知らぬところで家臣が手を回したのだとも言われますが、定かではありません。しかし、このことが盛親にとっては命取りとなってしまいます。

大阪において八方陳弁に努めた盛親でしたが、家康はその兄殺しを限りなく不快に思い、土佐の国主にあるまじき振る舞いであるとして、盛親を追放してしまったのです。その実、家康は組下大名に対する恩賞を必要としており、どのみち盛親を許すはずも無かったのでしょうけどね。しかし、土佐を取り上げるための格好の口実を与えてしまった事は事実でした。

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(柳図子から東を望む。正面に見える緑は相国寺の森。左の壁は室町小学校。図子(ずし)とは辻子とも書き、京の町の再開発の中で生まれた道で、平安京に由来する東西、あるいは南北の通りを結ぶ連絡道として付けられた細道を指します。多くの場合はその道沿いにも町が成立し、町名ともなっています。)

土佐を追放された盛親は、名を大岩祐夢と改め、京都の柳図子に住まう事になりました。彼は天下の罪人であり、その身辺には常に京都所司代の監視の目が光っていたといいます。彼には元より収入は無く、わずかに旧臣からの仕送りで息を繋いでいました。しかし、その仕送りも途絶え勝ちで、やむなく彼はこの地で寺子屋を開く事にします。土佐24万石の大名だった盛親が、子供相手の寺子屋の師匠として露命を繋いだのでした。落ちぶれ果てたその姿は、しかし、徳川方の監視の目を誤魔化すには都合が良かったと思われます。

盛親が柳図子に住んで10余年の月日が流れました。天下は徳川家のものになったとは言え、まだ大阪城には豊臣氏が健在であり、争乱の種が消えた訳ではありませんでした。さらには大名の改易が相次ぎ、世間には主家を失った浪人が溢れ、世情は混迷の度合いを深めていました。かつて秀吉の死によって天下が乱れた様に、今度は家康の死と同時に天下が動くと予測されていたのです。この事を誰よりも知っていたのは家康自身でした。彼は自らの命が果てる前に徳川家の未来を盤石のものとするため、豊臣家を滅ぼしに掛かったのです。

家康は、豊臣家の莫大な財産を消費させる為に、秀頼に対して、長く続いた戦国の間に荒れ果てた神社仏閣を、その私費でもって修復する様に持ちかけていました。豊臣氏の名を高めるためという名目でしたが、今でも秀頼が修復したとされる社寺が各地に残っているのはこの為です。そしてその一つに、秀吉が開いた方広寺がありました。地震で崩れたまま放置されていた大仏殿の再建が成り、後は開眼法要を待つばかりになっていました。家康はその開眼法要に合わせて鋳造された鐘に刻まれた鐘銘に因縁を付け、豊臣氏に対して大阪城からの退去を迫まったのです。(方広寺鐘銘事件。)豊臣氏がこの要求を受け入れる筈もなく、東西の手切れが確実のものとなりました。

天下の権は徳川氏にあるものの、豊臣氏には秀吉が築いた大阪城と莫大な財産が残されており、天下に充満する浪人を集めれば、十分に対抗しうるだけの戦力にはなります。京都にあった盛親の下にも、豊臣方から誘いの手が伸びました。前の土佐太守という存在は大きく、彼が立てば長曽我部の遺臣が馳せ参じるであろうと期待されたからです。盛親は遂に決意し、豊臣氏に与する事に同意します。

彼は京都所司代の目を誤魔化すために、東西手切れにあたっては徳川方の陣を借り、功名手柄を立てたいと言って戦支度を始めました。そして、柳が図子を発って南に下り、そのまま大阪城に入ってしまったのでした。途中、彼の旗の下に長曽我部の遺臣が次々に集まり、大阪に着いた頃には数千もの軍勢に膨れあがっていたと言われます。

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1614年(慶長19年)11月に行われた大阪冬の陣は主として籠城戦であり、盛親の持ち場ではほとんど戦らしい戦はありませんでした。そのまま講和となり、一旦は戦は収まります。しかし、徳川方は約定を違えて大阪城の堀を全て埋めてしまった上で、豊臣氏に対して、浪人の追放か、あるいは国替えかの選択を迫りました。豊臣方は勝ち目が無くなったと知りつつ、再度の戦いを選びます。

翌1615年(元和元年)4月に始まった大阪夏の陣においては、盛親は5300の軍勢を率いて八尾方面の戦線を受け持ちました。そして、藤堂家の軍勢を相手に奮戦し、9分どおりまでこれを破ったのですが、あろう事か同じ戦線に居た木村重成の軍勢が井伊勢に敗れてしまいます。背腹に敵を受ける事となった長曽我部勢は戦線を支える事が出来ず、一敗地にまみれてしまったのでした。かろうじて大阪城に逃げ帰った盛親でしたが、手勢のほとんどを失っており、もはや戦う事はできませんでした。

盛親は大阪落城の際にも自害せず、脱出を試みています。いつか再起の日が来る事を信じて、落ち延びようとしたのですね。しかし、八幡にまで来た時に蜂須賀勢に捕らえられ、彼の身柄は二条城へと移されます。そして、見せしめの為に城外に晒された後、六条河原において斬首されたのでした。最後まで罪人扱いで、武士らしい切腹は認められなかったのですね。

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彼の身体は河原に放置され、首は三条河原に晒されました。この首を引き取って供養したのが当時の蓮光寺の住職であった蓮光和尚です。彼は寺子屋時代の盛親と親交があり、その縁で供養を申し出たのですね。写真はその蓮光寺に残る盛親の墓です。波乱の人生を送った盛親でしたが、今では境内の隅でひっそりと静かに眠っていました。

一豊とは対照的な運命を辿った盛親ですが、土佐においては今でも彼を慕う人が多いと聞きます。土佐人にとっては、長曽我部氏こそ誇るべき郷土の英雄なのですね。ドラマにおいては描かれる事は無いでしょうけれども、一豊の陰に回った盛親の足跡を辿ってみるのもまた一興ではないかと思います。


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2006.10.07

斉藤道三縁の寺 妙覚寺 ~功名が辻~

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織田信長の岳父にして、美濃の蝮と怖れられた斉藤道三。その道三が若い頃に修行に励んだとされるのがこの妙覚寺です。

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妙覚寺は日蓮宗の寺で、1378年(永和4年)に日実上人によって創建されました。初めは四条大宮、後に二条衣棚に移り、さらに秀吉の命により現在の地へと移転しています。ですから道三が修行したのは、二条衣棚にあった時代という事になりますね。

もっとも、最近の説では美濃の蝮は二人居たと言われ、妙覚寺で修行し、美濃国へ渡って累進したのは父の秀龍、その後を受けて美濃の国主となったのが秀龍の子道三であったとされます。法蓮坊と呼ばれたのは、果たして父と子のどちらだったのでしょうね。

信長は道三との縁があった故でしょうか、本能寺と共にこの妙覚寺を京都における宿所としていました。本能寺の変の際にはその嫡子信忠が宿にしており、信忠を狙った明智軍に襲撃されて焼き払われるという災難に見舞われています。

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道三・信長と縁のあった妙覚寺ですが、秀吉との縁もあって、この大門は聚楽第の裏門であったとも伝わっています。これだけ多くの戦国時代の英雄豪傑達と深く関わった寺というのも、そう多くはないでしょうね。

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これだけの歴史を持つ妙覚寺も、今は訪れる人もほとんど居ない様です。広大な境内はほとんどが駐車場か空き地になっており、がらんとした印象を受けます。名のある寺だけに、ちょっと寂しい光景ですね。そんな中でも庭木や花は手入れされており、由緒ある寺らしさをわずかに伝えていました。

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妙覚寺の拝観料は500円、ただし事前の予約が必要です。塀越しに見る客殿には楓の木が多く、紅葉時分にはさぞかし綺麗に色付く事でしょうね。洛中にあって紅葉が楽しめる貴重な寺とも言えそうです。

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2006.10.01

ねねの寺 高台寺 ~功名が辻~

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豊臣秀吉亡き後、その菩提を弔うために北政所(ねね)が建てた寺が高台寺です。開創は1606年(慶長11年)の事で、大阪城に拠る淀殿~秀頼ラインに対する牽制の意味があったのでしょう、徳川家康が大規模な財政援助を行ない、壮大な規模を誇る寺に仕立て上げました。

その後の度重なる火災で多くの堂宇が失われ、かつ明治以後は税金対策の意味もあって境内地を次々に手放した為に現在の寺域にまで縮小してしまいましたが、石塀小路のあたりまでを含めて付近一帯が全て高台寺の境内であったと言えば、おおよその見当が付くことでしょう。

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高台寺は、最初は曹洞宗の寺として始まったのですが、1624年(寛永元年)7月に建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘し、臨済宗へと改宗しました。これは、北政所の兄である木下家定が三江紹益と親交があった事が関係していると考えられています。

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北政所は秀吉の死後に出家し、「高台院湖月尼」と号しました。高台寺の名はここから来ている訳ですが、三江紹益を迎えたその年の9月に高台院は亡くなり、亡骸は境内の一角にある霊屋の下に葬られました。

この霊屋は1605年(慶長10年)の建立で、内部には中央の厨子に大随求菩薩を祀り、向かって右の厨子に秀吉像、左の厨子には北政所が片膝立座法をしている木像が安置されています。この膝を立てて座る姿は当時の高貴な女性の正式な作法とされていたものですが、そうとは知らない人がこれを見て「北政所は下賤の出であるが故に不作法な人だった」と言い立てて、一時期話題になった事もあります。なお、北政所は、この自身の木造の下に葬られているとの事です。

また、厨子や須弥壇には秋草や松竹などの華麗な蒔絵が施されており、安土桃山時代の漆工芸の粋を集めた傑作として、高台寺蒔絵の名で呼ばれています。

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高台寺には、いくつかの茶室が現存しています。この遺芳庵は現在の見学コースでは最初に目にすることになる茶室で、安土桃山期の豪商である灰屋紹益が、その夫人の吉野太夫をしのんで建てたものと伝えられます。正面の壁全面に開けられた大きな丸窓が特徴で、婦人の名にちなんで吉野窓と呼ばれています。

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こちらは、東の高台に立つ傘亭。千利休の意匠による茶席であり、伏見城から移築したと伝えられます。天井が竹で放射状に組まれており、その形が唐傘の様に見える事から傘亭と呼ばれています。正確には安閑窟といい、重要文化財に指定されています。

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傘亭と並んで建っている時雨亭です。傘亭と同じく利休作と伝えられ、伏見城から移築したものとされています。茶室にしては珍しく2階建てになっており、茶席は2階にしつらえられています。茶会の時は写真の様に扉を全て開き、自然の風や音を感じながらお茶を頂くという趣向になっています。重要文化財。

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実は、高台寺の中に入ったのは20年ぶりの事なのですが、すっかり観光化されているのには驚きました。以前は非公開が原則で、特別公開がある時にだけ入る事が出来たのです。常時公開になったのは10年ほど前からの事でしょうか。以来、周辺が急速に整備されて来たのは知っていましたが、内部も随分と手が入っていたのですね。優れた文化財に触れられるのは嬉しいのですが、あまりにも俗化されてしまうのもどうかなと思ってしまいます。

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とは言え、庭園の素晴らしさには変わりなく、秋の紅葉シーズンを迎えれば、どんなにか見事だろうと思わずには居られません。もみじの色付く頃、もう一度ここを訪れてみようかなとも思っています。


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2006.09.23

織田信長公本廟 阿弥陀寺 ~巧妙が辻~

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織田信長が明智光秀に襲われて命を落としたのは本能寺での事でした。その信長の墓所として伝わるのは、本能寺総見院などいくつかあり、この阿弥陀寺(あみだじ)もその中の一つです。

阿弥陀寺は天文年間(1532~1554)清玉(せいぎょく)上人によって開創された浄土宗の寺院です。当初は今の地ではなく、西の京蓮台野芝薬師寺西町(現在の今出川大宮東)にあり、八町四方の境内と11の塔頭を構える大寺でした。そして、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の命によって現在の地(寺町今出川上がる)に移転し、現在に至っています。

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この清玉上人が織田家と親交があった事が縁で、本能寺の変の折りには上人とその弟子達が本能寺に駆けつけ、焼け跡から信長とその家臣達の遺骸を運び出し、当寺に埋葬したと伝えられています。上の写真が信長とその嫡男である信忠のものと伝えられる墓で、一緒に戦って死んだ家臣達もまたここに葬られていると言われます。これが事実だとすると、清玉上人は、二条御所にも回って信忠の遺骸をも運び出した事になりますね。

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そして、この3基の墓石は、信長に殉じた森坊丸、力丸、欄丸の3兄弟の墓です。彼等は信長の小姓であり、特に欄丸は寵愛を受けていた事で知られていますよね。本能寺の変でも信長の側にあり、本能寺に火を放ったのは彼だったとされます。信長に愛された彼等3兄弟は、その死後も信長の側にあって小姓として仕え続けているという訳ですね。

阿弥陀寺には、このほか信長親子の木像が安置されているとの事ですが、普段は公開されていないようです。

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阿弥陀寺の境内では、一群の萩が咲いていました。訪れたのは台風の余波があった日で、前日の雨と折からの強風によって散らされた花が、紫色の川を形作っていました。

阿弥陀寺は寺町通に連なる数多い寺院の一つで、気を付けていないと見過ごしてしまうような控えめな佇まいです。訪れる人も少なく、この日も墓参りと思われる人達が何人か居ただけで、とても静かな境内でした。信長とその一族について思索するには、とても良い環境だと言えそうです。

阿弥陀寺は寺町今出川の交差点から北へ歩いて10分ほど、門前にある「織田信長公本廟」の石碑が目印になります。

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2006.09.10

伏見城遺構 豊国神社唐門 ~功名が辻~

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京都の東山、京都国立博物館の北隣に豊国神社があります。その名から連想されるごとく豊臣秀吉を祀った神社で、一般に「ホウコクさん」と呼ばれていますが、神社の名称としては「とよくに」と読むのが正しい呼称です。ちなみに、大阪城にある豊國神社は「ほうこく」と読むので、ちょっと混乱しそうですね。

秀吉は1598年(慶長3年)に63歳で亡くなった後、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜ります。そして遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、その麓には壮麗な廟社が造営されました。この廟社が豊国神社の前身となる訳ですが、残念ながらこれは豊臣氏の滅亡後、徳川幕府の手によって破壊される事になってしまいます。徳川幕府にとっては前政権を連想させるものを残すのは都合が悪かったのでしょう、秀吉を葬った廟は跡地が平になるほどに破壊され、さらに秀吉の御霊は神号を奪った上で新日吉神社に移されてしまいました。その徹底した破壊ぶりから考えると、政治的配慮のみならず、家康は自分の上に君臨していた秀吉に対して激しい憎悪を抱いていたのかもしれないとも思えてきます。

時が遷り明治に至ると、秀吉は天下を統一しながらも幕府を開かなかった功臣として再評価され、豊国神社の再興が布告される事になります。そして、1880年(明治13年)に方広寺の跡地に社殿が再建され、別格官幣社として復興されました。また、廟についても阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されています。このあたり、人の世の毀誉褒貶の移り変わりの激しさには、考えさせられるものがありますね。

現在の社殿の正面に聳える唐門は伏見城の遺構と伝えられているもので、二条城から南禅寺の金地院を経てここに移築されるという数奇な運命を辿ったとされています。安土桃山期を代表する建造物とされるだけあって、その大きさにも係わらず見るからに軽快な印象を受け、また随所に華麗な装飾が施された見事な門です。大徳寺、西本願寺の唐門と合わせて京都の三唐門とされており、この門を見るだけでもここを訪れる価値はあると言えるでしょう。

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現在では秀吉にあやかって出世開運の神様として慕われており、唐門には豊臣家の旗印であった瓢箪を象った絵馬が奉納されています。江戸期にはとても考えられなかった現象でしょうね。ちなみにこの絵馬は、一枚500円で奉納する事が出来ます。

すぐ隣には鐘銘事件で知られる方広寺もあり、豊臣家の栄枯盛衰を偲びに、合わせて訪れてみられてはいかがでしょうか。


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2006.09.03

伝・聚楽第遺構 梅雨の井 ~功名が辻~

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以前に紹介した聚楽第について、唯一現存する遺構とされる「梅雨の井」を訪れてきました。前回訪れた時には見つけられなかったのですが、それもそのはず、大宮通から入り組んだ路地の奥にあったのです。

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梅雨の井とは、聚楽第図屏風に描かれているという井戸の事で、この水で豊臣秀吉がお茶を点てたという伝承を持っています。その名の由来は、梅雨時分になるとこの井戸の水があふれ出し、あたりを水浸しにしたというところから来ており、近くにある出水通の名もこの井戸にちなむものだとか。

「梅雨の井」は長く地元の水源として親しまれ、昭和25年に井戸の枠組みが崩壊してしまった後も、ボーリングが施されて地下水の使用は継続されていました。現在は地下から伸びる鉄パイプが錆び付き、水は全く出なくなっている模様です。

ところで、「梅雨の井」が本当に聚楽第の遺構にあたるのかと言うと、必ずしもはっきりとはしない様です。例えば現地に貼ってあったこの推定復元図に依れば、「梅雨の井」の周辺は東の堀の中央部にあたり、これが事実だとすると、「梅雨の井」は聚楽第が破却された後に改めてその跡地に穿たれたものと推測出来る事になります。(ちなみに、ここの地名も東堀町となっており、この説を補強しています。)ただし、この聚楽第の縄張りについては複数の説があって確定したものは無く、一つの復元図を元に「梅雨の井」が聚楽第と直接の繋がりは無いと言い切れるものではありません。真相は、このあたりを発掘調査しない限り明確には出来ないのでしょうね。

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「梅雨の井」を訪れて驚いたのは、周辺があまりにも荒れ果てていた事でした。周囲は板囲いで囲われており、井戸に近づく事は出来ません。井戸の前の土地も雑草で覆われており、とても史跡と呼べる状況ではありませんね。

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これには背景があって、かつてここには八雲神社という社がありました。バブル経済が盛んな頃この地にも地上げの手が伸び、神社とその周辺の土地は買収され、社と共に「梅雨の井」も撤去される事になっていました。このことに危機感を抱いた地元の有志が井戸の保存運動を展開し、かろうじて破壊を免れたのです。その後、保存に向けての運動は継続され、「梅雨の井」の保存に関する誓願が京都市議会にて採択されるにまで至りましたが、現状を見ると必ずしも進展を見ていない様ですね。

正確な経緯が判らないためこれ以上のコメントは差し控えますが、現状はあまりにも悲しく、関係者の努力によっていつか円満な解決を見て欲しいものだと思います。そして、「梅雨の井」の歴史的位置づけが明確になれば、なお嬉しいですね。

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2006.08.20

淀城跡 ~功名が辻~

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浅井長政とお市の方の娘にして、豊臣秀頼の母となった茶々。その通称である淀殿の名は、京都の南郊にある淀の地に城を賜った事からそう呼ばれる様になりました。

現在目にする事が出来る淀城は1623年(元和9年)に松平定綱によって築かれたもので、淀殿が居た城とは直接関係がありません。京都に対する押さえとして重要な役割を担ったこの城も、明治維新以後、城の建物は全て破却され、現在では堀と石垣の一部を残すのみとなっています。内部は児童公園があるだけで、荒れた感じのする寂しい城跡ですね。これまでも石垣の補修など保存のための手入れはされている様ですが、もう少しどうにかすれば良いのにとここを訪れるたびに思ってしまいます。しかし、どうやら京阪淀駅の立体化工事にあわせて整備する計画が立てられているようですね。どんな具合に生まれ変わるのか、今から楽しみです。

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淀殿が居た淀城は、今の城跡より500mほど北に行った納所(のうそ)という場所にあったと推定されています。城の遺構は全く残されておらず、妙教寺という寺にある石碑だけが、わずかにその存在を伝えています。

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これがその石碑で、現在の淀城と区別するために「淀古城」と呼ばれている事が判りますね。ここには、淀殿の城が築かれる前に、戦国時代に築かれた城がありました。石碑には、戦国時代の初めに細川管領家が築いたとあり、その後三好三人衆の一人である岩成友通の居城となり、さらに淀殿が住んだとあります。実際にはこの間に、山崎の合戦の際に明智光秀が拠点の一つとした事もありました。

淀殿がここに住んだのは1589年(天正17年)の事で、最初の子供である鶴松(お捨)を産むための城として与えられました。豊臣秀長によって修復が行われたとされるこの城は、産所とは言いながらも天守を持つ本格的なもので、近年の調査により城下町も形成されていたらしい事が判って来ました。石碑のある場所は、その本丸があった場所だと伝えられていますが、実際にどうだったかまでは定かではありません。

秀吉の後嗣の母となり淀殿と呼ばれる様になった茶々でしたが、鶴松はわずか3歳でこの世を去り、失意の淀殿は淀城を後にして大阪城へと移り住みました。主を無くした城は1594年(文禄3年)に廃城となり、城の廃材は伏見城の建材として流用されたと言います。

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妙教寺には、幕末の鳥羽伏見の戦いの際に東軍が放った砲弾の弾痕が残る柱などもあり、幕末史のファンにとっても是非押さえておきたい場所でもあります。ちょっと入り組んでいて判りにくい場所にあるのですが、付近には旧鳥羽街道の雰囲気が多分に残っており、昔の旅人気分で散策してみるのも良いと思いますよ。

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2006.08.13

豊臣秀次の菩提寺・慈船山 瑞泉寺 ~功名が辻~

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1591年(天正19年)、豊臣秀次は叔父の秀吉から関白の位を譲り受け、豊臣政権の後継者としての地位を確立したかの様に見えました。しかし、その2年後に秀吉の実子秀頼が生まれると、秀次の立場は微妙なものへと変わります。そして1995年(文禄4年)7月15日、秀次は秀吉から謀反の疑いを掛けられ、高野山にて自害して果てるに至りました。

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世にも希な惨劇はここから始まります。秀吉は秀次の一族の抹殺を命じ、秀次の実子のみならず、正室、側室、さらには侍女に至るまで、縁のある人たち全てを処刑してしまったのでした。場所は京都・鴨川の三条河原、秀次の死から半月後、8月2日の出来事です。

刑場には土壇が築かれ、その上に秀次の首が西向きに据えられていました。この日刑場に連れてこられたのは、3人の若君と2人の姫君、そして正室、側室など34人の女性達でした。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着します。そして、変わり果てた秀次に対面した後、次々と惨殺されて行ったのでした。当日は大勢の見物客が訪れ、そのあまりの凄惨さに目を覆ったと伝えられます。彼女たちの死骸は身内の者に引き渡される事は無く、その場に掘られた大穴に次々と放り込まれました。そしてその上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたと言います。秀吉はこの塚を畜生塚と名付け、道行く人達への見せしめとしたのでした。

切腹を命じられた秀次には、殺生関白という汚名が着せられています。例えば、鉄砲の稽古と称して罪もない農民を撃ち殺した、不義の噂がある側室が妊娠するとその腹を割って胎児の顔を確かめた、殺生禁断の地である比叡山において鹿狩りを行った、夜な夜な町に繰り出しては「千人斬り」と称される辻斬りを行った、などの悪行が今に伝えられています。

その一方で、ルイス・フロイスが著した日本史には「(秀次は)若年ながら深く道理と分別をわきまえており、謙虚かつ思慮深かい人物であった。そして良識ある人物と会談することを好んだ。」とあり、殺生関白とは正反対の人物像が浮かび上がります。また、近江八幡を所領としていた頃には、城下の発展に功績があり、後の近江商人勃興の基礎を築いたとも言われています。

最近の研究では、殺生関白の逸話についてはどれも根拠に乏しく、秀吉側によって創作された可能性が高いのではないかとされています。どうやら、秀次もまた勝者によって貶められた敗者の一人と言うべきなのかも知れないですね。

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畜生塚は、その後の鴨川の氾濫によって原型を失い、いつしか人々から忘れられた存在になっていました。1611年(慶長16年)、高瀬川を開削していた角倉了以は、工事がこの地に至ったのを機に畜生塚を訪れました。しかし、そのあまりに荒れ果てた様子に驚き、墓を整備すると共に、秀次一族の菩提を弔う寺を建てる事を思い立ちます。了以の弟は医師として秀次に仕えていたことがあり、その縁もあってか了以は秀次に同情的だった様ですね。

了意は浄土宗西山派の立空桂叔和尚を開山に迎え、寺号を秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から取って瑞泉寺と名付け、また高瀬川を行き交う船の様子から山号を「慈船山」としました。さらにその後も角倉家の寄進によって堂宇が整備されたのですが、1788年の天明の大火で焼け落ち、1805年(文化2年)頃に再建されて現在に至っています。なお、この本堂が建っている場所は、かつて畜生塚のあった跡地であると伝えられています。


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今に残る秀次の墓は了意によって建立されたもので、中央の四角い石が秀次の首を納めたとされる石櫃です。また、秀次の墓を取り囲むようにして五輪の塔がありますが、これらは昭和17年に財団法人豊公会によって建立された側室たちの墓石です。彼女たちは、実に没後350年を経て、ようやく墓を得る事が出来たのですね。

瑞泉寺は三条木屋町という繁華街の中にありながら、あまりその存在を知られていない寺です。境内も狭く、大勢で押しかけるには向きません。しかし、その反面、とても町中にあるとは思えない静かな寺であり、秀次とその一族を襲った悲劇を偲ぶにはふさわしい雰囲気を持っています。京都の三条を訪れる事があったら、少し時間を潰して立ち寄られて見られてはいかがでしょうか。

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2006.08.05

京都・洛南 伏見城跡 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が聚楽第に続き、自らの隠居所として築いた城、それが伏見城です。

伏見城は当初、宇治川沿いの丘陵地である指月山に築かれました。現在ではかつての面影はまったくありませんが、位置としてはJR桃山駅の南、大光明寺陵の付近であったと思われます。築城されたのは1592年(文禄元年)の事で、全国の大名に命じて25万人を動員し、わずか5ヶ月で完成したと言います。当時の豊臣家の威勢を窺わせるエピソードですね。ところが、この城は1596年(慶長元年)の大地震により倒壊してしまい、秀吉は改めて木幡山への築城を命じました。これが現在に残る伏見城の跡地へと繋がる事になります。

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伏見城の跡地は、主要な部分が現在の桃山御陵とほぼ重なっています。この明治天皇陵がある場所がかつての本丸跡と推定されており、陵墓の奥の山上に天守閣が聳えていたものと思われます。なお、桃山御陵は参道とこの参拝所以外は立ち入り禁止になっており、伏見城の跡地を探索する事は出来ません。

この明治天皇陵は、当時の日本が威信を賭けて築いた陵墓だけに、さすがに立派なものですね。この東隣には昭憲皇太后陵があり、二つを併せて桃山御陵と呼ばれています。塵一つ落ちていないと言うほどに手入れが行き届いており、とても荘厳な雰囲気があたり一帯を覆っています。

また、ここには御香宮神社方面から続く広々とした参道と、明治天皇陵の南に続く230段の石段があり、付近の人達のジョギングやウォーキング、さらには学生達のトレーニングのコースとして利用されている様ですね。この日も、何人ものトレーニング姿の人達とすれ違いました。

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正直なところ、かつての伏見城を偲ばせるものはとても少ないのですが、その中の一つがこの治部池です。桃山御陵から桓武天皇陵へと抜ける道の中程にあり、鬱蒼と茂る山林の中に静まるこの池を、フェンス越しながら見る事が出来ます。

この池は、その名から推測出来る様に石田三成に縁があります。伏見城内において三成の屋敷があった場所は、その官名「治部少輔」から取って治部少丸と呼ばれていました。治部池はこの治部少丸と御花畠山荘の間にあった内堀の跡と推定されている、貴重な伏見城の遺構の一つなのですね。

見るからにいわくのありそうな池ですが、武者の亡霊が出るという伝説もあるそうですね。関ヶ原の戦いで敗れた三成か、あるいは伏見城落城の際に命を落とした武者の霊が未だにこの辺りをさまよって居るのでしょうか。

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ここは、柏原陵と呼ばれる桓武天皇陵です。桓武天皇は言うまでもなく平安京を開いた事で知られ、歴代の天皇の中でも特に強大な権力を有していたと考えられています。その陵墓も11町四方(約1.2km)四方という巨大なもので、鎌倉期までは皇室の尊崇も厚く、広く世に知られた存在でした。しかし、その後の戦乱により次第に荒廃し、江戸期にはどこにあったのか判らないという状況になっていました。現在のこの陵墓は幕末に柏原陵として推定されたもので、確かな根拠に基づくものではありません。おおよそこのあたりにあった事は確かで、江戸期からいくつかの候補地が上げられていますが、確証と言えるほどのものは出ていない様ですね。

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桓武天皇陵の東に聳えているのが、伏見桃山城模擬天守です。この天守は、1964年(昭和39年)に開業した伏見桃山キャッスルランドという遊園地のランドマークとして建てられたコンクリート造のものです。この場所は伏見城の御花畠山荘と呼ばれていた場所にあたり、ここに天守があったという訳ではありません。また、その姿も姫路城になどを参考としており、実際の伏見城を写したものでは無く、建設当時は誤解を与える元だとして不評を買っていました。

キャッスルランドは経営不振から2003年(平成15年)に閉園になり、その際にこの天守も取り壊される事になっていました。まあ歴史的価値が無いものですから仕方が無かったのでしょうけど、長年シンボルとして親しんできた地元から反対の声が上がり、現在は京都市の施設として存続される事に決まっています。

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そのキャッスルランド跡地は京都市の運動公園として再整備され、平成19年度から開園する予定になっています。この天守は今度は公園のランドマークとして、末永く市民に親しまれて行く事でしょうね。

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伏見城は、1600年に起こった関ヶ原の戦いの際に、上方に残った東軍の拠点として、戦乱の渦に巻き込まれました。城を守ったのは鳥居元忠以下800の将兵達。西軍の率いる大軍に包囲された伏見城は衆寡敵せず、落城、炎上してしまいました。その際に将兵達が切腹して果てた廊下の板が、供養の為に正伝寺養源院などに移され、血天井として今に残されています。

戦いに勝った徳川氏は伏見城を再建し、大阪城に依る豊臣氏に対する西の拠点としました。そして、豊臣氏の滅亡と共にその役割を終え、1623年(元和9年)に廃城となっています。その際に城の建物は各地に移され、江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓などが現在にまで伝わっています。そして、地元伏見に残っているのが、この御香宮神社の表門です。かつての伏見城の大手門と伝えられており、確かに神社と言うより城にある方がふさわしい、がっちりした構えの無骨な門ではありますね。

伏見城の跡地は江戸期に桃畑として開墾され、花所として有名になり「桃山」と呼ばれる様になりました。安土桃山時代の桃山とはここから来ているのですね。伏見城の遺構は桃山御陵の建設とその後の宅地開発などによって多くが失われており、当時を推測する事は困難です。しかし、ここに掲げたように歴史を楽しむ手掛かりは幾つもあり、また地名にも福島大夫町、毛利長門町、羽柴秀長町など、功名が辻にも出てきそうな大名達縁のものが多く残されています。地図を片手に、当時を偲びながら散策を楽しんでみるのも一興ではないでしょうか。

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