京都・洛南

2009.10.16

京都・洛南 にごり酒~月の桂~

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中秋の名月の日に行った上賀茂観月祭で、御神酒として振る舞われたのが月の桂のにごり酒でした。頂いたのは杯に一杯だけだったのですが、その鮮烈な味わいにすっかり参ってしまいました。そこで、京都へ行った帰りに伏見に寄り道をし、求めてきたのがこの一本という訳です。

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早速頂きましたが、発泡酒よろしく、この酒は泡立っているのですね。炭酸ガスを含んでいるそうで、開ける前に吹きこぼれに注意と書かれていましたが、うっかり瓶を振ったりすると栓を開けたとたんに溢れだしてしまいそうです。(写真は最初の一杯ですので、上澄みに近いため色が薄めです。本来はもっと白濁した色なのですが、下に溜まった成分をそっと混ぜるのは難しそうですね。)

そういう事もあってか、口に含むと随分と刺激的です。この感触は好みが分かれそうですが、泡が弾ける刺激もまたこの酒の味わいと言えそうです。

味は、とにかく旨いの一言ですね。普通の日本酒より旨味の成分が多いのでしょう、あっさりとしているのに濃厚な味わいがします。喉越しはあくまですっきりとしており、いくらでも飲めるといった感じでした。実際、これ一本をゆこと二人してあっと言う間に開けてしまいましたから、せっかくのお酒を勿体ないという気すらしましたね。アルコール度は17度ですから、日本酒としては少し強めといったところかな。

この純米酒は720ml瓶で1683円と、ちょっと高めですね。でも、一度飲むと止められないという気がします。どこでも売っているというものではないところが残念ですね。

ただ、送料と手数料を気にしなければ、通販で買うという手もありますので、気になる方はお試し下さい。お薦めですよ。

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2009.02.06

京都・洛南 第43回京の冬の旅 非公開文化財特別公開~安楽寿院~

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第43回京の冬の旅、6箇所目は安楽寿院を訪れて来ました。

安楽寿院は、平安時代末から鎌倉時代にかけて京都の南郊に存在した鳥羽離宮の流れを汲む、真言宗智山派の寺院です。

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鳥羽離宮は白河上皇により造営が開始され、その子鳥羽上皇もまた拡充に努めました。その離宮の東殿を寺に改めたのが安楽寿院です。上皇とその皇后である美福門院の後世の安楽を願って建てたと言われ、当初は莫大な荘園を有しており、堂塔伽藍を備えた大寺として栄えていました。しかし、時代と共に各地の荘園が横領されて行き、さらには南北朝の争乱によって離宮と共に荒廃してしまいます。

のち安土桃山時代に豊臣秀吉の援助を受けて復興を遂げる事が出来、現在にまで続いて来ました。

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安楽寿院にはかつて2基の三重塔が存在し、うち一基は鳥羽上皇が自らの墓所として建立したもので、その死後は遺志のとおりに遺骨が塔に葬られました。

今一つの三重塔は、美福門院の墓所として建てられました。死後においても鳥羽離宮の地において、二人で永久に睦まじくありたいと願ったのですね。ところが美福門院は亡くなる際に高野山に葬る様にと遺言したため、鳥羽上皇と誓ったはずの思いは実現する事なく終わってしまいます。このあたりの美福門院の心変わりの理由は、永遠の謎としか言い様が無いですね。

主を失った三重塔には、二人の子供である近衛天皇が葬られたのですが、慶長の大地震の際に鳥羽上皇の三重塔と共に倒壊してしまいます。後に豊臣秀頼の援助によって多宝塔として再建されたのですが、塔が復元されたのは近衛天皇陵だけで、鳥羽上皇陵には塔は現存しません。

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安楽寿院の境内には、付近から出土した釈迦三尊石像と薬師三尊石像が祀られています。実はもう一つ阿弥陀三尊も出土したのですが、最も保存状態が良いことから、京都国立博物館に寄託されています。

この像の顔の部分が摩滅しているのが判るでしょうか。実は近在の人々の間で、この石像の削り粉を水に溶かして塗ると子供の瘡の薬になると信じられたため、長年の間に削られてしまい、顔の判別も出来かねる程になってしまったのだそうです。

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安楽寿院の付近では、鳥羽離宮の庭園で使われていたとされる景石が多く発掘されているのですが、その石を活用すべく、収蔵庫周辺に庭が復元されています。ほとんどは高野川流域産の石なのだそうですが、中には和歌山県産と思われる緑色片岩などもあるそうです。

ちなみに石に書かれている数字は出土箇所を表しているそうですが、ちょっと無粋に過ぎるという気もしますね。

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安楽寿院の御本尊は木造阿弥陀如来坐像です。鳥羽上皇が念侍していたと伝えられ、胸に卍が刻まれている事から、卍阿弥陀と呼ばれています。保存状態が良く、とてもそんなに古い仏像とは思えない程でしたよ。

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安楽寿院の西にある冠石です。鳥羽上皇が鳥羽離宮に入った時に、この石の上に冠を置いて離宮の増築のための中心地としたと伝えられています。

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安楽寿院の西北、老人ホームの駐車場の一角に残る石造五輪塔です。阿弥陀信仰によって建立されたと推定されており、その優れた造形から重要文化財に指定されています。

安楽寿院は鳥羽離宮の遺構とまでは言えなくても、随所にその遺風を残しており、他の寺院とは一風変わった風情を楽しむことが出来ますよ。

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2009.02.05

京都・洛南 第43回京の冬の旅 非公開文化財特別公開~東寺 五重塔~

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第43回京の冬の旅、5箇所目は東寺の五重塔です。JRで京都を訪れた場合、真っ先に目に入るのがこの塔であり、京都のシンボルともなっている存在ですね。

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この角度から見上げた姿をアップすると、塔の上部に「土方歳三 山本耕史」という文字が見える人も居るのではないでしょうか。「新選組!」のオープニングでは、この塔と土方のテロップを重ねる事にこだわっていたそうですから、今でもこの塔を見ると力強いハミングがどこからともなく聞こえて来る気がします。

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特別公開においては、普段入ることが出来ない塔の一層部分を拝観する事が出来ます。常時公開している塔としては八坂の塔がありますが、どんな具合に似ていて、どこが異なるのかと興味がありました。

内部に祀られている仏様は五智如来であり、これは八坂の塔と共通していますね。ただ、五体が揃っている八坂の塔に対し、東寺の場合は仏像は4体しかありません。では残り一体はどこかと言うと、芯柱が大日如来として位置付けられているのですね。大日如来とは宇宙そのもの、五智如来の中心に位置する仏様です。四体の中央に位置し、かつ塔を上から下まで貫く芯柱こそ、大日如来に相応しいということなのでしょう。

ガイドの方に依れば、推測ではありますが、芯柱にはかつて大日如来が描かれていたのではないかと考えられているそうです。明治の廃仏毀釈の際に、この塔の内部の極彩色の絵はほとんど見えなくなるまでに削られてしまったのですが、芯柱に描かれていた大日如来もまた同じ運命を辿った可能性が高いとの事でした。

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東寺は通常拝観の部分でも沢山の見所があります。例えばこの金堂は国宝であり、一歩中に入ると重要文化財の薬師三尊・十二神将と出会う事になります。

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薬師三尊は丈六の薬師如来を中心に、向かって右側に日光菩薩、左側に月光菩薩を配したもので、金色に輝く様は神々しいばかりですね。そして、その台座の周囲を緻密な彫刻を施された十二神将が取り囲むという、あまり他では見たことが無い様な形式に驚かされました。

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豪華と言う点では、こちらの講堂の方がさらに上を行きます。建物こそ重要文化財ですが、中には14体の国宝、5体の重要文化財の仏像がひしめき合っており、これほど絢爛たる御堂は他には例が無いでしょうね。これらの仏像群は、弘法大師が唱えた曼荼羅を具現化するためのもので、立体曼荼羅と呼ぶのだそうです。

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講堂の北に位置する食堂では、「オリンパス フォトパス写真展」が開かれていました。これは、写真を掛け軸に仕立ててみてはどうかという発想の下に開かれた写真展であり、フォトパスとはオリンパスの写真投稿サイトの名称の様ですね。

とても写真とは思えない掛け軸として完成された作品もあれば、これはどうなんだろうと首をかしげたくなる作品まで多岐に渡っていましたが、なるほど新しい写真の楽しみ方の一つになるかも知れない試みでしたね。

なお、この写真展は2月1日で終了しており、今はもう見ることが出来ません。

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2009.02.02

京都・洛南 第43回京の冬の旅 非公開文化財特別公開~東寺塔頭・観智院~

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第43回京の冬の旅、4箇所目は東寺の塔頭、観智院です。

観智院は東寺の塔頭の中でも第一とされ、別格本山の格式を持ちます。創建は1308年(延慶元年)の事で、後宇多法皇が東寺西院に3年間参籠され、二十一院を建立されたうちの一つでした。開山は当時の真言教学の第一と言われた杲宝(ごうほう)であり、以後代々学僧が居住して、当院の住持が東寺の別当職を兼ねていました。江戸期には、徳川家康がこの寺が所蔵する多くの経文や書籍を調査して、真言一宗の勧学院と定めています。

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この寺の本尊は、学問の寺にふさわしく五大虚空蔵菩薩が祀られています。虚空蔵とは広大無辺の知恵を無尽に蔵している事を言い、その知恵を5つの形に表したものがこの一連の像とされます。元はと言えば唐の長安にあった青龍寺金堂の本尊であったもので、山科安祥寺の恵運が847年に入唐した際に日本に請来したのでした。その後安祥寺が荒廃し、風雨に晒されるままになっていたものを、当時のこの寺の住職が引き取り、修復した上で改めて本尊として祀ったのです。

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この寺の見所は多いのですが、一つには国宝に指定されている客殿が上げられます。現在の建物は1605年(慶長10年)に完成したもので、床の間、違い棚、付き書院、それに溜まりの間を備えた本格的な書院造の住宅建築です。

そして、床の間に描かれた「鷲の図」、襖に描かれた「竹林の図」は、共に宮本武蔵の筆と伝えられています。寺伝に依れば、吉岡一門との決闘に勝った後、武蔵が追手から逃れる為に3年の間この寺に隠れ住んでいたと言い、その時に描かれたのがこれらの絵だとされています。

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更に付け加えるに、客殿の外の廊下は歩くと音がする鶯張り、その外側の濡れ縁は下が見通せるすのこ状になっており、いずれも敵の侵入に備えた造りだとされています。そして、床の間には武蔵が刀を隠した跡だとされる切れ込みがあり、廊下の天井は紙天井で、屋根からの侵入を防ぐ工夫がされていると言われています。

これらの話がどこまで本当かは判りませんが、絵の方は半ば消えかけてはいるものの、書き手の気韻が伝わってくる様な勢いのある筆使いであり、武蔵が書いたと言われれば、なるほどそうかも知れないと思える出来映えである事は確かです。

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客殿の前に広がるのが五大の庭です。昭和50年頃に作られた新しい庭で、弘法大師が唐から日本に帰る時に遭遇したという法難を表した造りになっています。右の築山が唐の国、左の築山が日本を表し、青い砂の部分は東シナ海になります。

弘法大師が唐の港を出港し、東シナ海の半ばに差し掛かった頃、暴風雨に遭遇しました。あわやと思われた時に、弘法大師が独鈷杵(一つ上の写真)を投げ入れたところ、仏法を守護する龍、神亀、鯱が現れて、たちまち海が収まったのでした。

庭石はそれぞれ龍や亀、鯱、船等を象っており、これほど具象的な庭はちょっと珍しいかも知れないですね。

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こちらは四方正面の庭で、今は山茶花が咲いていました。秋には中央のもみじが鮮やかに色付いていた事でしょうね。

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奥に進めば茶室「楓泉観」があります。貴人口を持つ本席と奥の席の二つの部屋からなる書院風の茶室で、奥の間の床柱は樹齢1000年という南天が使われています。二つの部屋の間の天井はかなり低く、背が高い人は頭がつかえるほどなので注意が必要ですよ。

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楓泉観の前にもまた、路地庭が広がっています。その中にしつらえられていた鹿威しなのですが、どういう訳かしずくが落ちる程度しか水が出ておらず、音が出るまでには数時間は掛かりそうな気配でした。何かの具合で水が止められていたのでしょうね。

観智院は見かけよりも内部の方がかなり広く、とても見応えのある寺ですよ。

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2009.02.01

京都・洛南 第43回京の冬の旅 非公開文化財特別公開~伏見稲荷大社 お茶屋~

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第43回京の冬の旅、3箇所目は伏見稲荷大社のお茶屋を訪れてきました。伏見稲荷には子供の頃から何度も参拝しているのですが、茶室や庭があったとは初耳で、どんな場所なのか楽しみにしていたところです。

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お茶屋は、本殿の手前を南に入ったところにありました。普段はまず足が向かない方向であり、これまで知らなかったのも当然だったのかも知れません。

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今回公開されているのは、茶室であるお茶屋と以前は神官の住居であった松の下屋、それに松の下屋庭園です。総面積が600坪とかなり広大な敷地であり、こんな場所があったとは意外な思いがしましたね。

なお、園内は写真撮影が禁止されているため内部の画像はなく、掲載した写真と本文とは関連はありません。

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お茶屋は、1606年(慶長11年)に、禁中非蔵人として出仕していた当社の神官である羽倉延次が、後水尾院より拝領したものとされています。茶室とは言ってもこぢんまりとしたものではなく、広々とした座敷が4つ連なった書院形式のものです。

ただ、形式としては確かに床の間と違い棚、付き書院を供えた書院造りなのですが、違い棚を床の間よりも奥に引っ込めて段違いにしている、付き書院の窓を火頭窓にしている、漆の菱形格子の欄間を備えている、凝った意匠の釘隠しを使っているなど遊び心が随所に見られることから、書院が数寄屋造り化していく過程を示す数少ない貴重な遺構とされ、重要文化財に指定されています。

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松の下屋は、神官の言わば社宅として使われていた建物で、大正時代の建築になるそうです。非常に堂々した構えで、石造りの敷居や瓦敷きの玄関など、社宅にしてはとても凝った贅沢な造りですね。

ここでの一番のみどころは棟方志功画伯の手による襖絵で、極彩色の「御牡丹図」や「御鷹図」など、版画が中心の画伯にしては珍しい、肉筆画を見る事が出来ます。とても奔放な筆使いと大胆な色使いで、なかなか見応えがありましたよ。

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松の下屋庭園は、稲荷山の麓の斜面を利用した池泉回遊式庭園です。松の下屋のすぐ前に池があり、その向う側には四季折々に彩りを添える植物が植えられた斜面が広がっています。その斜面に巡らされた園路に入ると、歩く程に変化していく景色を楽しめる様になっており、その途中には瑞芳軒という茶室がしつらえられています。神社というより、貴族の別荘を思わす様な庭園ですね。

写真を撮れなかったのが残念ですが、稲荷大社にこれほどの庭と茶室があったとは驚きであり、見に行っただけの事はあったと思います。特別公開ならではの面白さですね。


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2009.01.31

京都・洛南 千本鳥居~伏見稲荷大社~

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伏見稲荷大社を訪れてきました。ここに来るのは2年半ぶりの事になりますね。前回は夏の終わりで、まだまだ暑かった事を覚えていますが、今回は真冬です。でも、この神寂びた雰囲気は、いつの季節でも変わりませんね。

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お稲荷さんならではのこの数多くの鳥居は、商売繁盛を祈願するため商売人達が奉納したものです。ずっと見て行くと、地元京都だけでなく、大阪や神戸、さらには東京の企業に至るまで様々な名前を見る事が出来ます。

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俗に千本鳥居と呼ばれるのは、奥の院の手前で参道が2本に分かれるところから先の部分の事を指します。鳥居はぐっと小さくなるのですが、その密度は反対に濃くなり、文字通り鳥居で出来たトンネルの中を歩く様な形になります。

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参道の外側を見るとこんな感じで、まるで鳥居で出来たシェルターの様ですね。

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この鳥居も全て信者から奉納されたもので、本当に何本あるのでしょう?耐用年数がどれくらいあるのか判りませんが、中には今ではもう無くなってしまった会社もあった様な。

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前に人が居るとそうでも無いけど、一人だけになってしまうとかすかに不安を感じてしまいますね。あの向こう側はどうなっているのだろうと、ふと考えてしまう、そんな不思議さを湛えた空間です。

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2008.09.26

寺田屋再建説を京都市が確認

京都・伏見の寺田屋について調査を行っていた京都市が、最建説が事実であったと公表しました。
報道によると、文献資料など9点の資料の調査を行った結果、

1.鳥羽伏見の戦いの直後に出された瓦版の焼失範囲に寺田屋が含まれている

2.1906年に記された「寺田屋伊助申立書」に寺田屋が焼失した旨が記されている

3.お登勢がおりょうに宛てた手紙の中に「かり屋」とあり、焼失後に仮屋を建てたものと考えられる

4.寺田屋事件を記した石碑の中に「寺田屋違址」という文言がある

などの理由から、寺田屋は鳥羽伏見の戦いにおいて焼失した事が確認されたとの事です。これから京都市のホームページでは最建説について明記し、寺田屋に対して展示方法の改善を求めもると共に、観光協会などにも誤解を与える様な表記はしないよう要請したそうです。

これに対して旅館側ではまだ全面的には納得していない様子で、あくまで寺田屋は一部が被災したに過ぎず、現在の建物は基本的に当時のものを引き継いでいると主張していますね。

うーん、しかし、これって何なのでしょう。

京都市の行った調査というのは、これまで幕末史研究者が指摘して来た事を追認したというに過ぎず、わざわざ改めて発表する程の事なのでしょうか。京都市には研究者には出来ない調査、例えば建物そのものを調べて、焼けた痕跡や継ぎ足した部分が有るのかどうかなどの事柄確認をして欲しかったところてす。そうすれば、旅館側の主張についても、全面的に否定出来たでしょうにね。

どうにも中途半端な調査であるとの印象が強く、またいつかの日か論争が再燃しそうな気がしますね。

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2008.09.07

京都・洛南~寺田屋再建説について~

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今日放映される「篤姫」では、寺田屋事件が登場します。寺田屋事件とは、伏見の船宿「寺田屋」において薩摩藩同士が壮絶な斬り合いを行った事件の事で、有馬新七など9名の藩士が命を落としています。詳しくは本家の方に書いていますが、幕末史を飾る悲劇の一つとして知られています。

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維新後、事件の地に立派な石碑が建てられたのですが、最近この碑文にある一節が新たな波紋を呼びました。それが次の写真にある部分で、花に隠れて見えにくいのですが、「寺田屋遺址」と記されているのが判るでしょうか。これを素直に読めば、かつて寺田屋があった跡という意味に取れます。

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新聞の報道に依れば、幕末から変わらぬ姿で続く船宿とPRしている寺田屋の主張に疑義があるとして、京都市が調査に乗り出したとあり、その根拠の一つとしてこの石碑にある一文が挙げられています。

寺田屋再建説についてはこの碑文の他にもいくつか根拠があって、私の知っているものは以下のとおりです。

1.鳥羽伏見の戦いにおける被災地として、複数の資料が寺田屋のある地域を示している。

2.寺田屋の女将であるお登勢が書いた手紙の中に、被災した寺田屋の再建の目処がようやく立ったと記されている。

3.明治後、寺田屋の跡継ぎが戊辰戦争で寺田屋が焼失したと申し立てている。

4.建物の登記が明治38年になっている。

などが挙げられます。最後の登記については、従前からあった建物を新たに保存登記したとも考えられますが、1~3の資料から寺田屋が被災した事は事実と言って良いと思われます。探せば他にもある事でしょうね。

これに対して寺田屋側では、被災した事は否定しないが、それは部分的なものであり、建物としては当時のものを引き継いでいると主張している様です。なるほど、言われてみれば先の根拠だけでは全燃したという証明にはなっておらず、寺田屋側の主張も一理あるという事になりそうですね。

そこで先の碑文が登場する訳ですが、再建説においては寺田屋はかつてこの碑文があった場所にあり、明治以後に少し西側にあたる今の位置に建て替えられたのではないかと考えられています。しかし、これも碑文の文言は事件の跡地という意味で船宿の跡地という意味とは限らないと言えなくもなく、決定的な反証にはならないでしょうね。京都市もそのあたりを踏まえて建物や文献の精査をする事にした様ですが、これでやっと論争に決着が付く事でしょう。

ただし、もし寺田屋側の主張が正しかったとしても、部屋の間取りなどは大きく変わっています。私が最初に疑問に思ったのは、龍馬の部屋で龍馬が襲われた際の様子を再現しようとした時でした。どう考えても龍馬の手紙にある記述とは間取りが異なっており、不審に思ったのです。それがきっかけとなって調べて行く内に再建説を知ったという訳ですが、それはさておいたとしても、幕末そのままの姿を残しているという寺田屋の説明には問題があると思われます。せめて、江戸時代の船宿の風情を色濃く反映しており、龍馬がここで暮らした空気を残しているとでもしておけば良いのにと思うのですが。
(追記:現在の寺田屋のパンフレットでは、船宿そのままではなく旅館として改造してある旨が明記されているそうです。私が持っているパンフレットは2004年のもので、その後改訂されていたのですね。情報が古くて申し訳なかったのですが、間取りが変わっているという事に関しては寺田屋側も認めているという事です。)

それにしても寺田屋再建説は何年も前から言われていた事であり、幕末史ファンの間ではほぼ常識となっていたはずです。それが今になってなぜ問題になっているのか判らないのですが、背景には2年後の大河ドラマとして龍馬伝が決まった事があるのかな。そして、篤姫の寺田屋事件の回の放送に合わせるかの様に記事が出た事も意図的な感じがしなくもありません。何を今さらというのが正直な感想ですね。

最後に誤解の無い様に言っておきますが、私は今の寺田屋に価値が無いとは思っていません。寺田屋事件があった事は紛れもない事実ですし、龍馬が定宿としていた事も、お登勢やおりょうがそこで暮らしていた事も虚構ではありません。建物も船宿の姿を今に伝える貴重な遺構であると思われますし、総合して幕末史を語る史跡と言っても良いのではないでしょうか。そのあたりをきちんと評価した上で、今後も末永く残して欲しい施設だと思っています。

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2008.07.28

京都・洛南 蓮2008~東寺~

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東寺の蓮が盛りを迎えています。場所は東門から入ってすぐ左手にあり、宝蔵を取り囲む堀で咲いています。

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咲いているのは八重咲きの花。離れた位置にあるので小さく見えますが、蓮としては並の大きさの花でしょうか。

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こちらは西側の堀。東と違って堀を覆う様な樹木が無い分、明るい感じがしますね。

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花は散り際のものが多く、少し盛りを過ぎつつあるのかなという気もしますが、蕾も多くあったのでまだ暫くは楽しめるものと思われます。

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東の堀の花と比べて色が濃いのは、日当たりの差なのでしょうか。それとも品種が違っているとか。

東寺の蓮は有料区域にある池でも咲いている様ですが、ここの堀なら無料で見る事が出来ます。五重塔とのコラボレーションはこの寺ならではの光景で、一度は見に行かれても損はない思いますよ。

(撮影日 平成20年7月26日)

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2008.06.29

京都・洛南 紫陽花苑~藤森神社~

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藤森神社の紫陽苑に行ってきました。藤森神社には2つの紫陽花苑があり、併せて3500株もの紫陽花が植えられています。

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平面的にはさほど広くはないのですが、一面に植えられた紫陽花の森の中を縫う様に小径が巡らされ、文字通り花に埋もれる様にして苑内を歩く事になります。ですから、思ったよりも時間が掛かる事になりますよ。

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詳しい品種までは判りませんが、とにかく沢山の種類がある事だけは確かです。それにしても、紫陽花の花色は土壌のPHによって決まると聞くのですが、ここでは様々な色が混在しています。いったい、どのような管理を行っているのでしょうね。

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どの花も見事なのですが、やはり目に付く花というのはあります。これはよく見る花ではあるのですが、この優しい色合いは何度見ても良いものだと思います。

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こちらは第二紫陽花苑で咲いていた白い紫陽花です。これはアナベルなのでしょうか。赤と青が基調になっている中にあって、一際清楚に輝いて見えました。

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花色という点では、この深い紫の花が気に入りました。一つ一つの花びらの中で赤紫と青紫が複雑にグラデーションを描き、全体としてはとても奥行きを感じさせる花色になっています。

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紫陽花苑のある藤森神社は、203年に神功皇后によって創建されたと伝えられる、大変古い歴史を持つ神社です。菖蒲の節句はこの神社が発祥の地とされ、各家庭に飾られる武者人形には藤森神社の神が宿ると言われています。つまり、知らない間に藤森神社のお世話になっていたのですね。

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その関係があるからでしょう、本殿の左手には金太郎像が置かれています。このポーズは熊を投げ飛ばした時の姿なのでしょうか。また、上の写真は神社縁の武将かと思ったのですが、ホームページには神鎧像とあり、これも武者人形という事なのでしょう。ただ、これらの像の前には説明書きが無く、せっかくの金太郎もなぜここにあるのか由来が判りません。せめてホームページにでも記載してくれないものかしらん?

紫陽花苑の期間は約一ヶ月とされていますが、花の咲き具合によって変わります。今は最終盤に差し掛かったとは言えまだまだ見頃ですから、とりあえずは来週末(7月6日)までは開放されるそうです。その後は花の具合によって決められるそうなので、行かれる前に神社に確認をされる事をお勧めします。

藤森神社ホームページ

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