旅行・地域

2012.08.31

夏の旅2012 ~下関市巡り~

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長く続けた夏の旅のレポートですが、最後は源平と幕末以外の下関を巡って締め括る事とします。まずは火の山公園から始めましょうか。

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火の山は壇ノ浦の北側にある小高い山で、かつて狼煙台があった事からこの名が付いている様です。標高は268mあり、見晴らしはとても良いですね。頂上までドライブウェイが通じており、ロープウェイでも登る事が出来ます。ただし、ロープウェイの方は、運行期間が限定されている様ですから注意が必要です。

ここは以前は下関市民の憩いの場であり、休日には大変賑わったそうですね。ところが、最近では登る人が少なくなり、訪れるのは観光客ばかりになっているのだとか。タクシーの運転手さんは、レジャーの多様化が原因かなとおっしゃっていましたが、ちょっと勿体ない気もしますね。

その展望台の近くには、戦艦大和の砲弾が展示してありました。瀬戸内海から引き上げられたもので、鉄甲弾と書かれていましたから、この尖った先端で相手の船の装甲を打ち抜くのでしょうね。平和な公園には相応しくないけれど、これも歴史の一証人として貴重な存在かとも思えます。

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壇ノ浦にはちょっとした名所があって、それが関門トンネルの人道ですね。海の下を歩いて九州に渡れるという道です。

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長さは780mで、歩いて行ってもそう苦にはならない距離です。海の底を歩いて渡り、外に出れば九州と言うのですから面白いですよね。

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これが門司側から見た景色です。一緒に渡った息子達は、初の九州上陸だと言って喜んでいましたよ。

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赤間神宮の西隣には、春帆楼という老舗の料亭があります。日清戦争の時、講和条約が結ばれたのがこの場所でした。今は春帆楼は建て替えられていますが、講和記念館があってその中に交渉が行われた部屋が再現されています。当時の調度品まで再現してあって、歴史の一場面を見る様で興味深かったです。

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春帆楼には、ふくの碑というのもありました。下関では、河豚の事を「ふく」と濁らずに呼ぶのですね。この碑は次の様な話に基づいて建てられています。

明治の頃、ふくは毒魚として法令で食べる事を禁止されていました。明治21年、春帆楼に伊藤博文公が訪れたのですが、その時に海が荒れて出すべき魚がありませんでした。困った女将は、やっと手に入ったふくを料理しておそるおそる出したのだとか。伊藤公はこれを食べて、あまりの美味さにこれは何の魚かと尋ねます。女将が正直にふくですと白状すると、伊藤公は毒魚ではないかと戸惑います。そこで女将が、ちゃんと料理して食べれば大丈夫なのですと答えると、伊藤公はこんなに美味しい魚を食べないのは勿体ないと言いだし、時の山口県令と交渉し、禁令を解かせました。

こうして春帆楼はふく料理店の第一号となり、その百周年を記念して建てたのがこのふくの碑なのだそうです。下関ならではの、ちょっと面白い話ですよね。

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下関に縁のある人物として、乃木大将が居ます。日露戦争で戦った事で知られる乃木大将は長府藩士だったのですね。

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軍神と称えられた乃木大将は、そのまま神として神社に祀られています。境内には銅像のほか、復原した旧家、乃木記念館などがあります。

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この旧家は恐ろしく狭いですね。武士とは言っても、下の階級だとこんなものだったのかな。記念館では、日露戦争に関連した展示がありました。私としては、爾霊山という書が興味深かったですね。203高地を表したもので、やはり歴史の一証人として価値のあるものだと思いました。

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最後に立ち寄ったのが住吉神社です。新下関駅の近くにあり、長門国の一宮という由緒のある神社ですね。

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住吉神社は5柱の神を祀っており、そのため5つの社殿を有しているのですが、それを横に並べて連結した九間社流造という特異な形態をしています。こんな形の社殿は、ちょっと見た事が無いですね。室町時代の建築ですが、保存状態が良く、国宝に指定されています。

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境内には、武内宿禰が植えたという楠の木がありました。幹廻り60mという大木で、下関のパワースポットになっているそうですね。私も障らせて頂き、力を分けて貰いました。

さて、長々としたレポートにお付き合い頂き、ありがとうございました。二泊三日にしては、中身の濃い旅行だった事が判って頂けたかと思います。まあ、正直言って、詰め込み過ぎだったのですけどね。宮島、山口、萩、下関と、どこも興味深い場所ばかりでした。駆け足の旅行だったので、出来ればもう一度訪れて、理解を深めたいものだと思っています。あと、食べ物が美味しかった事が嬉しかったな。

お世話になった広島と山口の人に感謝しつつ、今年の旅のレポートを終わりたいと思います。

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2012.08.27

夏の旅2012 ~下関 龍馬の足跡~

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坂本龍馬は生涯の内に何度となく下関を訪れていますが、その晩年にはここを本拠地としていました。龍馬は伊藤助太夫邸の離れを借り、自然堂と名付けておりょうと共に住んでいたのです。

伊藤助太夫は下関を代表する豪商で、九州の諸大名が参勤交代の時に泊まる本陣の主でした。伊藤家は鎌倉時代から続くという名家であり、大年寄りとして下関の町政を司ってもいた様です。攘夷志士を援助した事で知られ、中でも龍馬とは深い繋がりがありました。いま残っている龍馬の手紙の中で、二番目に多いのが助太夫宛てなのだそうですね。自然堂を借りたのも、自然な成り行きだったという事でしょうか。

龍馬はほとんど外を飛び回っていたので、ここに住んでいたのはわずかな期間だけですが、それでもおりょうと仲睦まじく暮らす姿はあった様ですね。良く知られるエピソードとしては、稲荷町(下関にあった遊郭街)で遊び朝帰りした龍馬におりょうが噛みついたのですが、困った龍馬が三味線をつま弾きながら即興で俚謡を唄うと、おりょうも思わず吹き出して機嫌が直ったという話が伝わります。

今はその跡地には何もなく、春帆楼隣にある駐車場の入り口に、「本陣伊藤邸跡」と記した石碑が建つのみです。

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長府には、龍馬と親交のあった三吉慎蔵の生家跡があります。慎蔵は寺田屋事件の時に龍馬と共に戦った事で知られ、その後も龍馬が死ぬまで交流は続いていました。龍馬は自分が不慮の死を遂げる事を想定し、もしもの事があったらおりょうを頼むと慎蔵に言い残してもいたのですね。

不幸にもこの手紙は遺言となり、慎蔵はその言葉通りにおりょうを自宅に引き取って世話をしています。そして、おりょうを伴って京都の龍馬の墓に参り、最後は土佐の坂本家にまで送り届けました。本当に律儀な人だったのですね。

ここは生家跡ですが、もう一つ屋敷跡という史跡もあった様です。残念な事に今回は生家跡を見た事で満足し、屋敷跡がある事までは気が回りませんでした。龍馬が訪れ、おりょうが暮らしたのはそちらの方だった様ですね。ちょっと惜しい事をしたな。

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長府は城下町であり、こうした土塀があちこちに散在しています。なかなか風情のあるところですね。今は保存整備が進められているという事で、さらに良い雰囲気になるのかも知れません。ただ、破壊が進み過ぎており少し遅かったという見方もある様ですが、せっかくの資産なのだから大事にして欲しいですね。

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このほか、下関の龍馬関連の史跡には、龍馬が世話になった商人・白石正一郎宅跡、おりょうと一緒に花火を上げて遊んだという巌流島などがあります。これらの史跡には「龍馬と下関」という案内板が掲げられているのですが、大河ドラマ「龍馬伝」が放映された折、下関が俄に注目されたため、急遽整備されたものの様ですね。

高杉晋作の史跡と比べると寂しい感じもしますが、二人を合わせて維新史を巡る旅をするのも楽しいと思いますよ。

明日は平家に戻って、赤間神宮を紹介します。


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2012.08.25

夏の旅2012 ~下関 高杉晋作の足跡~

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下関を訪れて判ったのは、この町が晋作贔屓だという事でした。晋作の史跡が多く残り、町を歩くと晋作という名の店に出会ったりします。町を挙げて、晋作に惚れ込んでいる感じですね。

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晋作が下関に残した足跡で最も大きなものは、功山寺の挙兵でしょうか。この時期、長州藩は蛤御門の変で敗れ、四カ国艦隊の砲撃を受け、幕府の征長軍に四辺を包囲されているという最悪の状況にありました。長州藩では、幕府に恭順するという俗論党が主流をなし、晋作たち改革派は風前の灯火といった状態で逼塞していたのです。

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このままでは長州が滅びると憂慮した晋作は、逃亡先の九州から舞い戻ると、長府に集結していた諸隊に向かって決起を呼びかけます。しかし、どの隊長も晋作の挙兵を無謀と見なし、誰も応じようとはしませんでした。わずかに伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊と、脱藩浪士の集まりである遊撃隊のみが賛同し、晋作は総計80余名での挙兵を決意します。

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挙兵にあたって晋作は、この時功山寺に居た五卿(禁門の変で都落ちした七卿のうちの五人。一人は亡くなり、もう一人は生野の変で挙兵し、その後潜伏していました。)にあいさつすべく立ち寄ります。晋作は挙兵の主旨を短く言い、出陣祝いの酒を所望し、やがて馬上の人となりました。この時、晋作が五卿に向かって言った台詞が有名ですね。

「今から長州男児の肝っ玉をお目に掛けます。」

冒頭の銅像は、その時の姿を現しているのでしょう。この日、境内には雪が積もっていたと言います。どこまでも劇的に出来ている男ですね。元治元年(1865年)12月15日の事でした。

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晋作は軍勢を率いて長府から下関に向かい、まず藩の出先である新地会所(厳島神社隣)を襲いました。ここにあるはずの兵糧と軍資金を得る事が目的でした。会所には抵抗出来る程の人数は居らず、占拠はあっさりと成功します。

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晋作が次に向かったのは、三田尻の海軍局でした。ここでも晋作は海軍局の占拠に成功し、三隻の軍艦を手に入れています。一説に依れば、海軍局では幕府軍の包囲を受けて謹慎しており、襲撃されても抵抗出来る状態には無かったと言い、各艦長たちも、幕府軍に船を奪われるくらいなら、いっそ晋作に協力しようと考えたと言われます。

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あっと言う間に下関を占拠し、軍艦を三隻手に入れた晋作を見て、諸隊は動揺します。そして、雪崩を打つ様に晋作の下に転じていったのでした。この頃、晋作が本部を置いていたのがこの了圓寺です。

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諸隊を率いて俗論党を一掃し、改革派の藩政府を打ち立てた晋作でしたが、今度は藩内の攘夷派に命を狙われるはめに陥ります。彼は藩政の改革のために、下関を支藩から取り上げて外国に開港しようとしたのですね。ところが、これが事前に漏れてしまい、支藩の藩士と攘夷派の怒りを買ったのでした。

写真はひょうたん井戸と言い、刺客団から命を狙われた晋作が、この中に1日隠れていたという伝説が残っています。この時、ずっと水に浸かっていたせいで晋作は体調を崩し、後に死に至る結核を患ったとも伝わっているようですね。

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晋作の最後の仕事は、第二次長州征伐のために来襲した幕府軍と戦う事でした。彼は海軍総督として参戦し、周防大島の奪還、小倉の攻略などに活躍し、長州藩を勝利に導きました。しかし、やがて持病の結核が悪化し、療養生活を余儀なくされてしまいます。

慶応3年(1867年)4月14日、晋作は波乱に満ちた短い生涯を閉じました。享年29歳。彼の劇的な生き様は多くの人を魅了し、今もなお慕う人は多いですね。その最後の地には、高杉東行終焉の地と記した石碑が建てられています。

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みもすそ川公園には、長州藩が外国艦への砲撃に使ったという長州砲が復原されています。立派な台車があり、砲身を上下させるハンドルも付いているという点では思っていた以上ですが、砲身は短く、大した威力は無かっただろうなと想像は付きます。よくこれで戦おうと考えたものだと思ってしまいますが、関門海峡の狭さを考えるとそれなりに効果はあったのかなとも思えますね。

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晋作は、この外国艦隊の砲撃には直接参加していませんが、二度大きく係わっています。一度目は外国艦隊の反撃に遭い、フランス軍によって砲台が占拠された時で、下関の防衛を任された晋作は奇兵隊を創設しています。これは上士からなる正規兵がまるで役に立たなかったためで、晋作は下士以外に百姓、町人から隊士を募集し、新たな戦力としたのでした。奇兵とは正規兵に対する反語ですね。この奇兵隊が端緒となり、様々な階層から集まった諸隊が結成されて行き(最大160以上とも)、やがて長州藩兵の主力となるに至ります。

もう一度は、四カ国艦隊が来襲した時で、脱藩の罪で自宅で監禁されていた晋作が呼び出され、外国との和議交渉を任されています。晋作は相手の要求を全て呑みつつも、賠償の請求は幕府に押しつけ、また彦島の租借の申し出は頑としてはね付けるなど、見事に役目を果たしたとされます。この時24歳だったと言いますから、大したものではありますね。

以上、下関にある晋作の足跡をざっと巡ってみましたが、思っていた以上に残っているものですね。それだけ晋作が下関の人達に愛されている証拠と言えるのかも知れません。なお、ここに紹介仕切れなかった史跡としては、桜山神社(晋作が創設した招魂社)、日和山公園(晋作没後90年を記念した陶製の像が建っている)などかあります。私としては、晋作の墓がある東行庵に行きたかったな。もう一度下関を訪れてみたいものです。

次は晋作の盟友、龍馬の足跡を巡ります。

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2012.08.24

夏の旅2012 ~萩 高杉晋作旧宅~

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高杉晋作の旧宅は、菊屋横丁と呼ばれる一角にあります。晋作は、天保10年(1839年)8月20日に、高杉小忠太の長男としてここで生まれました。高杉家は200石取りの上士の家柄で、代々毛利家に仕えてきた名門でした。世が世なら、晋作も上級藩士として穏やかな一生を送った事でしょうね。しかし、時代がそうはさせませんでした。

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晋作は8歳の時に寺子屋・吉松塾に入っているのですが、ここで久坂玄瑞と出会っています。この事が、後の晋作の生涯に大きな意味を持って来ます。14歳の時に藩校の明倫館に入学し、ここでは秀才として通っていました。そのまま行けば藩のエリートコースまっしぐらだったのでしょうけど、19歳の時に大きな出逢いが待っていました。松下村塾に入り、吉田松陰の門下生となったのです。この時、晋作を松下村塾に誘ったのが久坂だったのでした。

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松陰の影響を受けた晋作は、やがて尊皇攘夷運動に身を投じる事になります。彼の波乱に満ちた人生の始まりでした。そして、抜擢、脱藩、謹慎、入牢、逃走、帰藩を繰り返しながら、奇兵隊の創設、外国艦隊との交渉、長州藩を勤皇藩へと旋回させた功山寺の挙兵、幕府軍との戦いと勝利など、大きな足跡を残していきます。

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晋作は下関で、29歳の生涯を閉じています。「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と称えられた革命児である一方、父母には忠孝の道を貫いたと言われ、妻のまさとの間に一子を儲けて高杉家を存続させ、その恩に報いたとされます。現在を基準とすると、およそ捉えきれない生き方をした事は確かでしょうね。晋作については、下関でもう一度触れる事になります。

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高杉晋作旧宅の付近も、白い土塀が残る風情のある区域です。木戸旧宅と違って部屋の中には入れませんが、萩に行けば押さえておきたい場所の一つですね。

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萩には20数年前にも訪れているのですが、その間に大きく変わっていました。当時は江戸時代の地図があれば間に合うと言われ、信号も市内に一カ所しかないなどと喧伝されるほど旧体然としていたのですが、今は大きな道路が郊外を貫き、市内も随分と開発されています。主な観光名所は変わっていないのですが、時代の流れを感じさせられた旅でもありました。

やはり1日で山口と萩を見て回るというのは無理があり、省略した場所が沢山ありました。今度はじっくりと腰を落ち着けて、時間を掛けて回りたいですね。見逃した秋芳洞や秋吉台にも行きたいな。心残りではありましたが、次の目的地である下関へと向かいます。

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夏の旅2012 ~萩 木戸孝允旧宅~

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木戸孝允は、天保4年6月26日に下呉服町の和田家の長男として生まれました。幼名は小五郎、生家は藩医の家柄でした。この旧宅は、その和田家の家なのですね。

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長男なのですからそのまま和田家を嗣ぎそうなものなのですが、生まれつき病弱であったため、和田家では姉に婿養子を娶って跡継ぎとしました。そして、小五郎は8歳の時に向かいの桂家に末期養子として出されます。ここで桂姓となり、桂小五郎と名乗る様になりました。

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しかし、桂家では養母までが亡くなったために、小五郎は和田家に引き取られ生母の下で過ごす事になります。ですので、この家が生家であると同時に育った家でもある訳ですね。

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和田家が藩医であったのに対し、桂家は150石の大組士という家柄でした。このため、小五郎は医者ではなく武士として身を立てていく事になります。そして、17歳の時に藩校の明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に師事し、その門下生となりました。松陰は小五郎を見て、「事をなすの才あり」と高く評価したと言われます。そして、小五郎もまた、生涯を通して松陰に対する門人の礼を取り続けました。

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藩医の家から出た小五郎は、より武士らしくあらんとして剣術修行に打ち込み、やがて藩内で頭角を現します。そしてそれが認められ、20歳の時に剣術修行のために江戸に出ます。この時に家を出るまで、ここで過ごしたのですね。

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その後の小五郎の活躍は、改めて書くまでもないでしょう。勤王の志士として波瀾万丈の生涯を送り、やがて維新の三傑と称される程の人物となって行くのです。

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木戸姓になったのは34歳の時で、藩命によるとされています。孝允と名乗ったのは37歳の時で、45歳で亡くなるまで木戸孝允として過ごします。ですので、この家も木戸孝允旧宅と呼ばれているのですね。私的には桂小五郎の方が馴染みやすいのだけどな。

この旧宅の周囲は旧い町並みが保存されており、風情のある場所ですよ。近くには青木周弼旧宅、円政寺などがあり、じっくりと歩いて回る事をお薦めします。

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2012.08.23

夏の旅2012 ~萩 吉田松陰の足跡~

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萩では、まず吉田松陰の足跡から辿る事にしましょうか。松陰は、言うまでもなく数多くの志士たちを育てた事で知られる人物です。

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その教育の舞台となったのが松下村塾ですね。松下村塾自体は、松陰の叔父である玉木文之進が設立したのが始まりで、松陰もまたこの塾で学んでいます。松陰は三代目の塾長に当たり、当時はアメリカ密航を企てた罪で、実家の杉家に幽閉されている身でした。

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当初は家族相手に講義を行っていましたが、次第に近隣の子弟たちが集まる様になり、私塾へと発展して行きました。藩校としては明隣館がありましたが、そこには入れない様な身分の者たちが集い、さらには評判を聞きつけて高杉晋作の様な上士身分の者も通う様になります。塾の講義は風変わりなもので、松陰が教えるばかりではなく、塾生同士が議論をし合い、松陰もそれに加わるといった具合だった様です。また、学問以外にも水練なども行っていた様ですね。

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松陰がこの塾を主催したのはわずかに3年ばかりの事でしたが、その間に排出した人材は、その後の時代を動かすにに足る者たちばかりでした。主な名を上げれば、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎などですね。なお、桂小五郎はこの塾には来ていませんが、明倫館時代の松陰に師事した事があり、松陰門下の一人として数えられます。

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塾の跡は松陰神社として整備されており、塾の建物と杉家の旧宅は当時のまま保存されています。この狭くて粗末な塾から、数多の人材が群がり出たという事からは、歴史の不思議さを感じずには居られませんね。なお、境内にある宝物殿「至誠館」では、松陰関係の資料を見る事が出来ます。

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松下村塾から山手に上がったところに、松陰の生家跡があります。東光寺のすぐ近くで、城下を見下ろす見晴らしの良い場所ですね。つまりは城下からは遠く離れた僻地であり、わずか二十六石とはいえ、武士の屋敷がなぜそんな所にあったのかと言えば、城下の火事で焼け出されてしまったからでした。家財が全て焼けてしまって城下での暮らしが立たなくなり、藩の許しを得て、百姓仕事を兼ねる為に田園地帯に出て来たのですね。松陰が生まれる14年前の事だったそうです。

敷地跡がブロックで区切られており、当時の間取りが判る様になっています。また、この生家跡から少し山を登った所に、冒頭に掲げた松陰の銅像が建てられています。下田でアメリカ艦隊に乗り込む時の姿で、弟子の金子重輔を従い、沖合の艦隊を眺めているところなのだとか。明治100年を記念して建てられたものなのだそうです。

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その生家跡から程近い場所に、松陰の墓がありました。松陰の百ヶ日忌に弟子達の手によって建てられたもので、遺髪が納められているとの事です。

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その同じ敷地内には、高杉晋作の墓もありました。彼の遺体は遺言によって下関市吉田に埋められたのですが、生まれ故郷の萩から遠く離れている為、ここに遺髪と臍の緒を埋めて招魂墓としたとの事です。

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そして、高杉と共に松陰門下の双璧と謳われた久坂玄瑞の墓もありました。彼は蛤御門の変で亡くなっていますが、師の側で眠らせてやりたいと遺族は考えたのでしょうね。

松陰縁の史跡としては、この他に野山獄舎跡や明倫館跡などがありますが、今回は時間が無くて回りきれませんでした。

松下村塾に関しては、松陰神社のホームページに詳しいですよ。

明日は木戸孝允旧宅と高杉晋作旧宅へと回ります。

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2012.08.22

夏の旅2012 ~瑠璃光寺~

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山口市の観光で、外せないものはやはり瑠璃光寺でしょう。この五重塔は大内文化を今に伝える唯一の遺構であり、気品に溢れた名塔です。

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瑠璃光寺の前身は香積寺と言い、大内義弘によって建てられました。義弘は6カ国の守護を兼ねた守護大名で、大内氏隆盛の基を築いた人物です。しかし、守護大名の勢力を削ろうとする3代将軍足利義満と対立し、応永6年(1399年)に堺で幕府軍と戦って戦って敗れ、戦死してしまいます。

後を継いだのが弟の盛見で、兄の菩提を弔うべく五重塔の建立に着手しました。盛見は没落しようとする大内氏を支え、防長二州の守護に返り咲くなど良く勢力を回復したのですが、永享3年(1431年)に九州で戦いに敗れて亡くなってしまいます。塔が完成したのは、その11年後の嘉吉2年(1442年)の事でした。義弘の死から数えると43年を経過しており、完成までにかなりの長期間を要した事が窺えます。

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香積寺は大内氏の滅亡後もこの地にあったのですが、慶長9年(1604年)に毛利輝元によって萩城の資材とするため(要するに金が無かったため)に破脚されてしまいます。しかし、五重塔だけは用材にならなかったのでしょうか、ただ一基のみこの地に残されました。その後、90年近く塔だけが放置されていたのですが、元禄3年(1690年)に至って別の地にあった瑠璃光寺がこの地に移され、以後は同寺の塔として管理される様になります。

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今は周囲一帯が香山公園として整備され、寺の境内というより緑地という雰囲気ですね。屋根に比べて塔身が細く、繊細かつ優美な姿をしています。二層目にだけ高欄があるというのも、面白い仕様ですね。何か意味があるのでしょうか。日本三名塔の一つに数えられ、国宝に指定されているのも成る程と頷ける美しさです。

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公園内には、義弘の父であり、大内氏の本拠を山口と定めた弘世の像が建てられています。京都の文化を山口に移し、大内文化の基を開いた人物として知られており、その縁で銅像が建てられているのでしょうね。馬の顔ははるか京都を望み、弘世は足下の山口を見ているという姿なのだそうですよ。

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この銅像のほか、幕末に薩長の志士が集ったという沈流亭や、手を叩くと鳴るという、うぐいす張りの石畳があります。上の写真がうぐいす張りの石畳で、本当にいい音が響きましたよ。ただ、狙って作ったものではなく、偶然音が反響する様になったものなのだとか。面白い現象ですね。

五重塔は夜間もライトアップされており、その姿を見る事が出来なかったのが心残りです。

明日は山口を出て萩へと向かいます。

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2012.08.21

夏の旅2012 ~山口市内 洞春寺など~

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今回の旅行はタクシーを利用したもので、山口市と萩市を一日で巡るという強行軍でした。このため、山口市内はざっと見て回る程度になってしまい、個々にじっくり拝観する時間が無かったのが残念です。

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ここは毛利元就公(洞春公)の菩提寺である洞春寺です。古くは大内氏の建てた国清寺があったのですが、毛利氏が防長を支配する様になってからは、同家の菩提寺となっています。

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冒頭の写真にある山門は国清寺創建(応永11年(1404年))当時のものと言われ、室町時代の禅宗様式を良く残すものとして重要文化財に指定されています。また、この観音堂は、元は上宇野令滝の観音寺(大通院)にあったのですが、大正4年に洞春寺に移築されました。二層に見えますが、下の屋根は飾りである裳階ですね。永享2年(1430年)の建立で、やはり室町時代の様式を良く止めているとして重要文化財に指定されています。

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山口市は今は県庁所在地ですが、長州藩時代には萩に藩庁がありました。関ヶ原の合戦に敗れた後、防長二州に押し込められた毛利家は山口に主城を築こうとしたのですが、その勢力の回復を恐れた江戸幕府が、地勢に優れた山口ではなく、交通の不便な萩を指定してそこに押し込めたと言われます。

幕末になると、長州藩では山口に政治堂を置き、事実上山口に首都を移し替えました。さすがに城を築く訳には行かず政庁だけだった様ですが、やはり防長二州においては、山口が中心となるに相応しい土地だったのですね。

その跡が県庁となっている訳ですが、幕末当時の面影を伝えるものとして、この門が残されています。いかにも武家の門らしい、いかめしい門構えですね。

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現在の県庁は鉄筋コンクリートの近代的な物となっていますが、旧い県庁も県政資料館として保存されています。京都にも数々の足跡を残している武田五一(他二名と合作)が設計したもので、重厚な洋式建築ですね。後期ルネッサンス様式と和風様式が融合した優れた建築物であるとして、重要文化財に指定されています。

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面白い場所があると言って、タクシーの運転手さんが連れて行ってくれたのが菜香亭です。山口市で有名だった料亭跡ですね。

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歴史は古く、明治10年頃に開業されました。命名したのは井上馨で、「香」の字は自らの薫の音から取って付けたとされます。

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井上が贔屓にした事によって、山口の著名人が利用する料亭となり、菜香亭は繁盛を続けます。その繁栄振りを示す物として、歴代総理大臣の扁額がずらりと飾られているのですね。山口県出身の総理は8人居るそうですが、そのうちの7人が筆を振るっており、残る一人の桂太郎は掛け軸を残しています。一番新しいのは安部元総理で、わざわざ東京から贈ってきたのだとか。

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ここは、戦後に佐藤派の根城となっていたそうです。佐藤元総理を中心に、田中角栄氏、竹下登氏らが宴会に興じる様子が写真として残されていましたよ。今は料亭を廃業し、建物は山口市に寄贈され、現在の地に移築、復原されました。戦前、戦後の政治史に興味のある方には、面白い場所でしょうね。

明日は瑠璃光寺を紹介します。

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2012.08.20

夏の旅2012 ~サビエル聖堂~

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山口市で、最初に訪れたのはサビエル聖堂です。小高い丘の上に立つ、カトリック教会の聖堂ですね。

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サビエル聖堂は、戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエルが、大内義隆の許しを受けて山口で布教した事を記念して建てられたもので、現在の建物は2代目にあたり、平成10年に完成しています。このザビエル像が手を置いているのは井戸で、彼が人の集まる場所を選んで説教をしていた事を表しているのだとか。

なお、山口では「サビエル」と濁らないのが正式で、聖堂の名もそうなっています。

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サビエル聖堂を訪れるのは20数年ぶりの事で、前回は旧聖堂の頃でした。ザビエルの生まれたザビエル城を模したもので、今とはまるで違った風格のある建物でした。とは言っても昭和27年の建築でしたから、それほど古いという訳でも無かったのですけどね、荘厳な雰囲気に感激したのを覚えています。

残念な事に平成3年に火事で燃えてしまい、旧聖堂は失われました。現在の建物は全く違う姿となっており、わずかに2本の塔が名残を止めている程度かな。寂しい気はしますが、これはこれでセンスの良い、立派な聖堂ですね。

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この鐘は平和を祈念してローマ教皇から世界5大陸に贈られたという大聖年の鐘の一つで、日本では広島教区が選ばれたそうです。9時から17時の間は誰でも鳴らす事が出来ると言うので叩かせて貰ったのですが、わずかに触れた程度で大きな音が鳴ったのには驚かされました。良く出来た鐘は、響きも半端ではないという事ですね。とても澄んだ良い音でしたよ。

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内部は撮影禁止なので写真はありませんが、以前とは違って明るい雰囲気になっていました。地階にはザビエル関連の資料があって、興味深いものがありましたよ。でも、ここは観光名所というより祈りの場と言うべきなのかな。

カトリック教に興味のある人には、お薦めの場所でしょうね。

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2012.08.18

夏の旅2012 ~湯田温泉~

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初日の宿泊先は、湯田温泉を選びました。山口市の郊外にある温泉地ですね。ここは狐によって見つけられたという伝説を持つ事から、駅前では巨大な白狐が出迎えてくれます。

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温泉街には、流行の足湯が6カ所設けられています。これはその一つですが、旅の疲れをちょっと癒すには良いでしょうね。

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ここでも狐が入浴客を出迎えてくれます。ただ、可愛げの無い、少し怖い狐ですね。

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かと思うと、こんなユーモラスな狐も置かれています。またゆう太くんとゆう子ちゃんというゆるキャラも居る様です。

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この日の宿は松田屋ホテルでした。創業300年以上という老舗で、湯田温泉では最も格式の高いホテルの一つです。維新の志士たちにも利用され、宿に拠れば坂本龍馬も来た事があるのだとか。旅館にはそうした資料も展示されていますよ。

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司馬遼太郎さんの街道を行くにも出て来る宿で、調和の取れた落ち着いた旅館として紹介されています。実際そのとおりで、心配りの効いた気持ちの良い宿でした。

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そして何より、食事が美味しかったのが嬉しかったですね。洗練された料理の数々は、さすが老舗旅館だけの事はありました。

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これは椀物の甘鯛の潮仕立て。この後には鱧のフライと松茸のフライが出て来ました。この時期外れの松茸は、街道が行くの中でも出て来るので聞いてみたのですが、地元産では無かった様ですね。ただ、今でも早松茸は採れる事は採れるとの事で、わずかばかりながら手に入る事もあるそうです。

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そして、山口ならではの蕎麦が瓦蕎麦です。蕎麦を油で炒めてつゆで食べるというもので、少し変わった風味でした。余所では食べた事がない、独得の味わいですね。

湯田温泉は、泉質の柔らかい、良いお湯でした。掛け流しというのも贅沢で、気持ちの良いものですね。足の疲れもすっと取れましたよ。

明日はここから山口市内の観光へと出掛けます(20日にアップします)。

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