西郷どん

2018.12.16

西郷どん 最終回 「敬天愛人」

明治37年、京都。
敬天愛人の額を見つめながら、父隆盛を回想する菊次郎。

時代から取り残された侍達を、抱きしめ、飲み込み、連れ去ったのだと菊次郎。

明治10年8月27日、延岡。
傷ついた者たちを残し、鹿児島へと向かった隆盛達。

一日西郷に接すれば一日の愛が生じ、三日接すれば三日の愛が生じる、
親愛の情は日々つのりもはや去る事は出来ない、
ただただ生死を共にしたいのです、最後まで隆盛に従った者の言葉でした。

険しい山道を越えていく隆盛たち。

延岡。
糸たちを尋問する山県。
そこに現れた従道。
遅れた事を謝る従道に、政府軍の偉い方が頭を下げるんではなかと、
冷たく言い放つ糸。

そこに隆盛一行が見つかったという知らせ。
鹿児島だと従道。

450キロを踏破し、鹿児島に帰り着いた隆盛達。

城下を占拠した新政府軍を見て、
もう一暴れと切り込んだ隆盛達。

一度は敵陣を占拠したものの、大軍に押し戻された隆盛達。

東京、大久保邸。
博覧会など捨てて鹿児島へ行ったらどうかと満寿。
口が過ぎると大久保。

従道に連れられて鹿児島に帰った糸たち。

この戦を止めさせてと琴。
無理だと従道。
兄を討つと言うのか、ならば二度と薩摩の地を踏むなと琴。
黙って出て行く従道。

城山。
夜、風琴を弾く新八。
もっと賑やかなやつがよかと隆盛。
それならばとラ・マルセイエーズを弾く新八。
賑やかに盛り上がる一同。

生き残った者、372人。

太政官。
隆盛から託された鹿児島の地図を見ながら、
回想にふける大久保。

鹿児島、政府軍本営。
総攻撃を迫る部下に、
心から隆盛が俗に成り下がったと思っている者は居るのかと山県。
使者を送りましょう、西郷先生以下隊長連中の自裁、
それを降伏の条件とすると川路。
そこに届いた大久保からの電信。

大久保の命は明朝4時、総攻撃を下す、
ただし、夕刻五時までに降伏すれば隆盛の命は助けるというものでした。
一蔵どんは甘いと微笑みながら、こんな情けは受けられんと隆盛。
先生だけは生きてくれ、そうすればいつかまた誰かが立ち上がると一同。

東京、上野。
博覧会会場で外国人要人を案内する大久保。
戦争中に博覧会などしていて良いのかと外国人。
心配ご無用、日本国から戦そのものがなくなりますと大久保。

城山。
この国から戦をなくすためにも死なねばならない、
自分が死ねば士族たちも新しい生き方を探し始めるだろう、
日本国のためにも自分は死なねばならんのだと隆盛。

東京。
隆盛が降伏しなかった事を知らされた大久保。

演説の最中、声を詰まらせる大久保。

城山。
百姓や町民の軍も強かった、これなら外国とも戦えると隆盛。
ここは最高の死に場所だと桐野。
笑いの絶えない一同。

短刀を前に、斉彬の予言した時代が来るとつぶやく隆盛。

翌朝、総攻撃の時間。
一同に向かって、おはんらが侍の最後を務めるんじゃ、
日本の誇りじゃと微笑む隆盛。

開始された攻撃。
隆盛を先頭に山を駆け下る一同。

西郷家。
遠くに響く砲声を聞きながらじっと耐えている糸たち。

次々に倒れる西郷軍。

磯の別邸で砲声を聞いている久光。

荒れ狂う桐野。
川路の銃弾に倒れた桐野。

血みどろになって倒れた新八。

鹿児島、本営。
結果を見ること無く、東京へ戻る従道。

ついに撃たれた隆盛。

同時刻、おやとさあでございもしたと城山に向かって頭を下げる糸。
そこに戻って来たツンとゴジャ。

東京、大久保邸。
吉之助さあと泣き叫ぶ大久保。

京都市役所。
父は天を敬い、身を捨てても人を愛しましたと菊次郎。

慶喜邸。
隆盛の死を知り、なぜ自分の様に逃げなかった、牛男と慶喜。

最接近した火星を見上げ、あれは西郷さんだと長屋の人々。
とうとう星になってしまったか、西郷どんと海舟。

奄美大島。
火星を見上げながら島唄を歌う愛可奈。

隆盛のために建てた豪邸で、泣きながら鰻を食べる従道。

西郷家。
義足を付けて自力で歩ける様になった菊次郎。

一同を前に隆盛の最後の言葉を伝える糸。

自分が死んだことで、
おかしい事をおかしいと言えなくなるとは思わないでほしい、
これからの国作りはおはんらにたくされちょ、
逆賊西郷隆盛の子であることを恥じることはありもはんと糸。

父は西郷星としてあがめられていると子達。
それはちがう、旦那様は人にあがめられて喜ぶ人ではない、
いつも低いところで弱い者に寄り添ってあちこち走り回っていた、
誰よりも心の熱く、ふとか人でしたと糸。

翌年。
参内途中の馬車の中で隆盛の地図を見る大久保。
そこに襲ってきた刺客達。
おいはまだ死ねぬとつぶやき、
かつて隆盛が迎えに来た時を思い出しながら息を引き取った大久保。

城山。
仰向けに倒れ、青空を見上げながらもうここらでよかとつぶやいて逝った隆盛。
その身体の向こうにそびえる桜島。

「最終回は西南戦争の終結と隆盛の死、そして大久保の死までが描かれました。壮大なドラマがようやく終わったというのが今の感想です。」

「隆盛の最後の言葉が「もうここらでよか」というのは良く知られた逸話ですが、その最期は切腹ではなく、別府晋介によって介錯されたとも、桐野利秋によって射殺されたとも言われます。いずれにしてもその首が発見されている事から、誰かが首を刎ねた事は確かなのでしょう。」

「敬天愛人を座右の銘とした稀代の英雄の死に様としては、一人で静かに迎えたドラマの描き方はいささか寂しいものがありましたが、このドラマらしい演出だったとも思います。壮絶な死に方はこの主人公には似合わないともいえるでしょうか。」

「西郷の人気がその死の直後から高かったのは確かで、赤く輝く火星を庶民が西郷星と呼んで崇めたというのは事実です。しかし、政府に弓を引いた賊臣であった事もまた事実で、公然とは西郷を褒め称える事は許されませんでした。その名誉が回復されるのは明治22年の事で、明治憲法発布の際に行われた大赦によって正三位が追贈され、賊臣から功臣へと返り咲きました。この裏には、脈々と流れ続けていた西郷人気があったためと言われます。」

「西郷はその後、時代の変化によって様々に扱われる様になります。時には忠君愛国の理想像として、また時には大陸進出の際の先駆者として、そして戦後は敬天愛人の言葉どおり平和を愛した人として称えられてきました。このドラマはそのどれでもなく、生身の西郷を描こうとした様に思えます。すなわち、時に土臭く、時に時勢に疎く、時に優しく、時に非情であるという多面な顔を見せてくれました。」

「西郷は常に微笑みを絶やさない人だったと言われますが、最終回では特に微笑みが印象的でした。西郷に一日接すれば一日の愛が生じ、三日会えば三日の愛が生じる、ついには生死を共にするしか無くなると言ったのは豊前から西郷軍に参戦した人だったのですが、生粋の薩摩人でなくてもそうなってしまう、それだけ人を引きつける魅力を備えた人だったのでしょう。生身の西郷さんに一度会ってみたいのは私だけではないでしょうね。」

「無論、ドラマでも描かれた様に完全無欠な人ではなく、欠点も多くありました。人の好き嫌いが激しく、平和志向どころか戦争好きだったとも言われます。西南戦争はその欠点が現れた最たるもので、なぜ大久保の真意を質すためだけに、1万5千もの大軍を引き連れていく必要があったのでしょう。それで戦争をする気はなかったと言っても通る話ではなく、西南戦争で亡くなった数多の犠牲者は、いわば西郷の私情のために死んでいった様なものです。このあたりが未だに西郷隆盛という人物を理解出来ないところです。」

「ドラマでは自分が死ねば日本から戦が無くなると言っていましたが、もしそれが真意だったとすればごく少数の側近だけを連れて東京に行けば良い話で、大軍など必要なかったはずです。西郷の思い上がりだったのか何だったのか、真の理由はともかく、西南戦争によって薩摩のそして日本の多くの有意の人材を失いました。西郷が別の道を選んでいたら、明治日本はまた違った国になっていたのかも知れません。」

「最後に、一年を通して西郷隆盛という人を追い続けて得た結論は、良くも悪くも不思議な魅力に富んだ人、それが今の私の西郷観です。全体像というのはとても計りきる事が出来そうにもありませんね。とてつもなく大きな人だった事だけは確かです。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.12.09

西郷どん 第四十六回 「西南戦争」

太政官。
西郷討伐の詔をと願い出た大久保。

明治10年2月18日、川尻。
炎上した熊本城天守と熊本城下。

二日後深夜、夜襲を受けた西郷軍。
捕らえた鎮台兵から西郷軍は賊軍となったと聞いた隆盛たち。

いきり立つ一同に、戦う決意を示した西郷。
西南戦争の勃発。

政府軍八千の南下の知らせ。
吉次峠と田原坂を守ると決めた西郷軍。
おいの身体はおはんらにあずけたでと隆盛。

田原坂。
震える菊次郎。
開始された戦闘。

太政官。
続々と集まる西郷軍への援軍にうろたえる三条たち。

西郷軍の切り込み隊に対抗するため、
警視抜刀隊を編成し、現地に向かった川路。

激闘の続く田原坂。
主として薩摩士族で編成された抜刀隊と戦う西郷軍。
同士討ちとなった薩摩士族たち。

ついに田原坂を突破された西郷軍。

東京、従道家。
自分が行って兄を止めると従道。
それでは兄弟で戦う事になると清。
自分も兄と一緒に戦いたいと従道。
それだけは止めてくれと清。

九州。
足を打たれた菊次郎。
銃弾に倒れた小兵衛。

野戦病院を訪れ、死んだ小兵衛に涙する隆盛。

鹿児島。
隆盛を止めるべく久光の下に訪れた勅使。
道理の通らぬ事は出来ぬと断った久光。

人吉へと逃れた西郷軍。
傷つき、殺してくれと頼む菊次郎を背負って歩く隆盛。

京都。
死の床で、西郷君、ええかげんにせんかと言い、
この世を去った木戸。

東京。
投獄されている大山。

大久保に会い、何があった、友だったろうがと問い詰める大山。
隆盛は友である前に大罪人、
隆盛が生きている限り不平士族は収まらないと大久保。
話を逸らすな、お前の中で何があったのかが知りたいと大山。
これを日本で最後の戦にする、そのために西郷とその一派を滅ぼす、
それが政府の出した答えだと大久保。
それは政府ではなく、おはんが出した答えじゃろがと大山。
おいが政府じゃと大久保。
これでお別れか、先に行って有馬と待っている、
お前だけ極楽に行こうとしてもずりーと足をひっぱてやると大山。

鹿児島、西郷家。
従道のはからいで、一家を保護に来た政府軍。
私たちは西郷隆盛の家族、敵の助けは受けないと追い返した糸。

武器、食料を集めに戻った久武。
久武から小兵衛が死に、菊次郎が撃たれた事を聞いた糸。
自分を菊次郎のところに連れて行って欲しいと糸。

延岡、野戦病院。
足を切断された菊次郎。

3500まで激減し、俵野まで追い詰められた西郷軍。

軍の解散を宣言した隆盛。

その夜、軍服を燃やした隆盛。
そこに現れた糸。

父と共に戦うという菊次郎に投稿しろと命じた隆盛。

糸と最後の夜を過ごした隆盛。
旦那様が西郷吉之助でなく、ただの人だったらどんなに良かったかと糸。
糸を抱きしめる西郷。

「今回は西南戦争が描かれました。この戦争がまさか一回で描かれるとは思っていなかったのですが、戦いの詳細を描いてもドラマの主題には沿わないという意向だったのでしょうか。」

「前回も書きましたが、西郷軍の一番の過ちは、戦争の大義名分を持たない事でした。政府に尋問の筋これありとは言っていましたが、突き詰めれば隆盛を暗殺しようとした大久保への私憤であり、政府を相手に戦う理由としてはあまりにも脆弱でした。この批判は開戦当時からあり、隆盛に同調しようとしていた土佐の板垣は、隆盛は私情に流された愚か者であり、不平士族を代表しようとした江藤や前原たちよりも数等劣ると攻撃しています。また、木戸はこの戦いは全く無意味で、隆盛と大久保、川路、桐野たちを一同に会わせればそれで済む話ではないかと日記に記しています。彼が死ぬ間際にうわごとで、西郷、いい加減にせいと言った事は有名で、隆盛の私憤のために多くの人命が失われていく事が許せなかったのでしょう。」

「もし、隆盛が真に人民の為に立ち上がったと宣言していれば、歴史は変わったかも知れません。それが良かったかどうかは判りませんが、少なくとも西郷軍の一方的な惨敗という結果にはならなかったと思われます。その事を一番良く知っていたはずの隆盛がなぜ無謀な挙兵を行ったかについては、今もって謎とされます。」

「一説には隆盛は自分の名声に自信を持っており、自分が立つというただそれだけの事で全国から不平士族が立ち上がり、新政府などたち行かなくなると思っていたとも言われます。だとすればとんでもない思い上がりだったと言わなければならないでしょうね。」

「また一説には、私学校生徒たちの暴発を抑えきれず、彼らに俗名を着せないために自らの命を投げ出したのだとも言われます。しかし、その後の隆盛の言動から見ると、最初から甘い見通しと戦略とも言えない拙い軍略で動き出したという批判は免れそうにもありません。幕末の頃の策士とも言うべき変幻自在さから見ると、別人としか思えないところがやはり謎ですね。」

「謎と言えば、戦いにおいても隆盛は自ら戦闘を指揮する事はせず、もっぱら後方に居て兎狩りや揮毫に明け暮れていたと言います。部下を信頼していたと言えばそれまでですが、鳥羽伏見の戦いでは周囲が止めるのも聞かずに前線に飛び出して行った同じ人物とは思えません。」

「唯一陣頭指揮を執ったのは敗戦の色も濃厚となった8月15日の事で、弾雨が降り注ぐ中で立ち続けていたと言われます。この時はもはや前途に希望は無く、ここが死に場所と決めていたのかも知れませんね。しかし、結局は生き続け、なおも逃避行を続ける事となります。」

「この様に不可解な事だらけの西南戦争における隆盛なのですが、ドラマではどう決着をつけるのでしょうね。次回はいよいよ最終回、どんな主題を持ってくるのか楽しみに待ちたいと思います。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.12.02

西郷どん 第四十五回 「西郷立つ」

明治8年、増え続ける私学校の生徒たち。

はるばる庄内から駆けつけた元庄内藩士たち。

その様子を憂う大久保。
密偵を内部に送り込んでいた川路。

開墾すべき土地を探し歩く隆盛。

大島から引き取られてきた菊草。

明治9年3月。

廃刀令に反発する私学校の生徒たち。
隆盛と私学校のためにと受け入れた桐野たち。

続けて発せられた秩禄処分に反発し各地で起きる反乱。
それを軍事力で押さえ込んだ新政府。

暴発寸前の私学校。
それをかろうじて抑えた隆盛。

反乱の気配ありと電信が入った太政官。
隆盛暗殺を示唆した川路。
反発する従道。
大久保は隆盛は立たないと信じていると川路。

吉之助さあ、立たんでくいやいとつぶやく大久保。

坊主を刺殺せよと発せられた電信。

電信を受け取り、別府晋介に仲間になれと切り出した中原。
その言葉を聞き、中原を捕らえた生徒たち。

温泉に漬かる隆盛親子。
そこにもちたらされた私学校生徒たちの暴発の知らせ。
しもうたと隆盛。

私学校暴発の報に接した太政官。
来たるべき事態に備えよと大久保。

私学校。
吊されている中原を見て、下ろせと隆盛。
桐野たちを殴り飛ばし、
おはんらのやった事は国家に対する反逆じゃと絞り出す様にしゃべる隆盛。
その隆盛に暗殺命令の電文を見せる桐野。
中原も自白したと篠原。

出来る事はただ一つ、我が身を捨て政府の政を正すのみと桐野。
判った、みんなで東京へ行って全国士族の思いを伝え、
政府の政のあり方を問い質す、そしてみんなで薩摩に帰ってくると隆盛。
同意する生徒たち。

敬天愛人と揮毫する隆盛。

西郷家。
自分も行くと菊次郎。
反対する糸。
戦になるかもしれんと隆盛。
自分の道は自分で決めると菊次郎。
判ったと隆盛。

その夜。
踏み止まる事は出来ないのかと糸。
できんと隆盛。
新しい国を見せてくれるのかと糸。
答えられない隆盛。

私学校。
政府に問いただすためだけに行くと隆盛。
その趣旨は自分が全国に撒いてやると大山。

明治10年2月17日。
50年ぶりの大雪となった鹿児島。

駆けつけた久武。
久光の言葉を伝えた海江田。

大雪の中出陣した隆盛たち。
大島の歌で見送る菊草。

隆盛立つの報に接した太政官。
自分が隆盛に会いに行くと大久保。
必死に止めた岩倉。

「今回はいよいよ隆盛が西南戦争へと立ち上がるまでが描かれました。ちょっとドラマの展開では慎重だった西郷が決起を決意するまでの過程の描き方が弱いという気がしたのですが、元々のコンセプトが西郷性善説に立っているから仕方がないのかな。」

「明治9年に出された廃刀令、さらには秩禄処分は、士族たちの不満を最大限に膨らませました。その結果が神風連の乱や秋月の乱、さらには萩の乱として現れるのですが、いずれも規模が小さく、また計画性もなかった事から、容易に平定されてしまいます。これらの騒乱に対して、私学校の生徒たちはこの機に乗じて共に立たんと勇み立ちます。従来の説ではこれに対して隆盛は生徒たちを叱りつけ、国難をもって好機とみなすとは何事かと決起論を退けたとされてきました。」

「しかし、昭和50年頃に発見された隆盛の友人に当てた手紙には、萩の乱の報を聞いた隆盛は近年にない愉快と言い、既に前原一誠(萩の乱の首謀者)は大坂あたりまで手に入れ、熊本は既に立ち、鳥取、岡山、島根あたりもこれに応ずるはず、さらにこの先四方に蜂起する者が現れるだろうと楽しみにしていますと書いています。さらに、自分がひとたび立てば天下を驚かす事をなすつもりですと記しています。」

「ここから判る事は、隆盛の下には相当に偏向した情報しか集まらなくなっていた事、隆盛はむしろ喜んでそれを聞いていた事、そして最後には自らが立つ事を決めていた事などですね。」

「政府の密偵の報告にはさらに激越な事が記されています。そこには隆盛が桐野以下数人の幹部と激論を交わした時、隆盛は自分の志が伸びないのは大久保一蔵があるからで、彼の肉を食っても飽き足らないと激論を吐いたとあります。これを聞いた桐野たちはすぐにも立ち上がろうと言いますが、隆盛は民情は兢兢としている、変動がすぐに来るから暫く時機を待てとこれを押さえたと報告書にはあります。」

「大久保と隆盛は無二の親友として語られる事が多いのですが、実際には郷中の先輩と後輩で、隆盛の方が年長のいわゆる長老(おせんし)でした。決してドラマの様な同輩ではなかったのですね。その後輩の大久保が憎むべき新政府の実権を握っているとあらば、その肉を食っても飽き足らないと言ったとしてもおかしくはありませんでした。」

「ドラマでは密偵として送り込まれていた中原が捕まり、隆盛の暗殺と弾薬の回収を自白した事になっていましたが、実際には別々の出来事で、弾薬の回収は政府が薩摩の暴発を恐れて実施した事、中原が鹿児島に来たのは川路が数十名の巡査たちを帰郷の名目で鹿児島に送り込んだ一員としてでした。」

「川路の後ろには大久保があり、大久保が隆盛の暗殺を企てたかどうかについては諸説があって、事実は藪の中です。しかし、隆盛たちはこれを信じて大久保に真意を質すことを名目に上京を目指したのでした。」

「また、私学校の生徒たちが弾薬庫を襲撃した際に、隆盛がしまったと言ったというのは有名な話です。これは従来は若い者が戦争の引き金となる事をしでかしてしまったと後悔する言葉と解釈されていましたが、隆盛が決起を心中決意していたとすれば時機を早まった事を後悔して発した言葉という事になります。これも時間を遡る事が出来れば、本人に聞いてみたいところですね。」

「ただ、隆盛は上京の兵を挙げましたが、それはあくまで大久保に真意を質す事を目的としており、戦争をするつもりでは無かったと言うから驚きます。大軍を率い、途中新政府軍の居る陸路を通って東京を目すのですから戦争にならない方がおかしいのですが、薩摩軍は隆盛の声望を信じ切っており、彼が行く先には必ず味方する者が続出し、先を妨げる者など居ないと思っていた様です。また、桐野たちは薩摩軍の力を信じ切っており、立ち塞がる者があればたちどころにこれを排除できると単純に考えていました。」

「さらには、隆盛は陸軍大将のままであり、鎮台兵にも命令を下す権限を持っていました。彼の命令があれば鎮台兵は一も二も無く動くものと信じており、事実熊本鎮台には薩摩軍が到着すれば整列してこれを迎えるべしという通達を出しています。」

「しかし、これらははことごとく裏目に出ます。隆盛たちが掲げたのは、何度も言いますが、あくまで隆盛暗殺の真意を問いただすというものであり、いわば個人的な恨みを晴らすという事でした。これでは戦争の大義は立たず(元より戦争する気はなかった様ですが)、新政府に反発し薩摩軍に味方しようとしていた者たちも二の足を踏んでしまいます。さらには、熊本鎮台への高圧的な命令はかえって反発を招き、かれらの戦意を向上させただけの結果に終わりました。」

「最初からボタンの掛け違えをしたまま隆盛たちは進発してしまいます。次回はその結果がどうなるかが描かれる様ですね。ドラマの隆盛がどうふるまうのか、楽しみに待ちたいと思います。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.11.25

西郷どん 第四十四回 「士族たちの動乱」

鹿児島に戻って農耕や狩猟にいそしむ隆盛。

静かに暮らす隆盛の下に、続々と東京から帰ってきた薩摩士族たち。

彼らに東京へ帰れと諭す隆盛。
隆盛に東京に戻ってもらうために帰ってきたのだと晋介。
口々に帰京を促す士族達。
しかし、がんとして撥ね付けた隆盛。

薩摩に帰ってきた薩摩士族の数は600人に及びました。
職を失った彼らが暴発する事を恐れる大山県令。

隆盛を日々訪ねてくる士族達。
行方をくらます隆盛。

隆盛に逃げんでくいやんせと伝えて欲しいと晋介。
勝手な事を言わんでくいやい、
あなたたちには腹が立って仕方がない、
旦那様は新か国を作るために走ってこられた、
これからはあなたたちが走る番だと糸。
一言も無く引き上げる晋介たち。

内務省を訪れた川路と新八。
参議兼内務卿として権力の頂点に立つ大久保。
二人に西国の士族の不満を抑える役目を命ずる大久保。
なぜ隆盛は政府を去ったのかと新八。
自分の役目は終わった、そう言って薩摩に帰ったと大久保。
私情は捨て警察のために献身したいと川路。

そこに岩倉卿が襲われたという知らせ。
土佐なまりのやつらに襲われたと岩倉。

三日後、土佐藩士の仕業と判明した襲撃事件。
さらに反乱の火の手が広がる恐れがあると木戸。
既に佐賀では江藤の一派が集まっていると伊藤。
佐賀より薩摩ではないのかと木戸。
隆盛は絶対に立たないと大久保。

鹿児島。
温泉で療養する隆盛。
甥の望みは静かに暮らす事、一蔵が作る世を見たいという事だと隆盛。

大久保の留守宅を襲った暴漢たち。
東京へと旅だった満寿たち。

明治7年2月15日、佐賀の乱勃発。

士族たちの暴発を心配する晋介たち。

夜陰、西郷家を訪れた江藤たち。
西郷の決起を促す江藤に、政府を潰そうとは思っていないと隆盛。
失望したと言い残し、去って行く江藤。

大久保自らが率いる政府軍に捕らえられ、
まともな裁判も受けずに斬首、さらし首となった江藤。

太政官。
さらし首とはやり過ぎではと木戸。
二度とこの様な事を起こさないため、江藤君の最後の役目と大久保。

大久保邸。
対峙する満寿とおゆう。

帰宅した大久保。
突然現れたおゆうに狼狽する大久保。
満寿とこれからの事を取り決めさせてもらった、
これからうちに来るのは1と6の付く日とおゆう。

束の間の団らんを楽しむ大久保。

鹿児島。
江藤への処分を書き立てる新聞を読む隆盛。
みんな震え上がっていると雪蓬。
それが政府の思惑かと隆盛。

政府への反発を強める士族達。
憂慮する晋介たち。

大山県令に士族たちの学校を作ろうと頼みに来た隆盛。
そこに現れた新八。
西洋で見たのは、煤煙の中でネズミの様に暮らしている人々だった、
そんな国を作る手伝いはしたくない、
それよりも隆盛の作る士族の学校の手伝いをしたいと新八。

西郷家。
風琴を手に西洋のオペラを歌う新八。

そこに現れた半次郎。
隆盛の力で政府を変え、世直しをする、
そのためなら命は要らないと半次郎。
その半次郎に学校の手伝いをしてくれと頼む隆盛。
納得のいかない半次郎。

明治7年6月、私学校設立。

アメリカから帰国した菊次郎。

私学校に乱入した不審者。
恐ろしく強い不審者は半次郎でした。
私学校に加わった半次郎。

内務省。
西国の不平士族が増えているとの報告を聞く大久保。
私学校にも続々と志願者が増えていると聞き、
密偵の数を増やせと命ずる大久保。

「今回は薩摩に帰った隆盛が私学校を作るまでが描かれました。火薬庫の様な鹿児島にあって、不平士族を抑えようとした隆盛の苦心が良く伝わってきました。」

「隆盛は帰国後、狩猟と湯治に精を出していました。この生活は相当な長期間に及んだそうで、その姿は農夫同然だったと言われます。しかし、彼を慕って多くの士族が帰郷するに及び、彼らを捨て置く訳にも行かなくなりました。そこで彼が起こしたのが私学校です。私学校は戊辰の戦で多くの死傷者を出した事を受け止め、彼らの後継者として道義、尊皇、愛民の心を持つ士官を育てる事を目的としていました。」

「その士官たちを育てる目的は、近いうちに起こるであろうロシアとの衝突に備えるためであったと言われます。これから判る事は、少なくとも隆盛には内乱の意図は無かったという事でした。」

「江藤が佐賀の乱に敗れ、隆盛に救いを求めた時にも隆盛はこれを断っています。この事からも隆盛には反乱の意思は無かったと言えるでしょう。」

「しかし、大久保の放った密偵者からは、隆盛が土佐グループと共謀し、新政府を転覆させようという報告が上げられていました。事実、岩倉卿は旧土佐藩士たちに襲われ、ますますその信憑性が高まっていました。」

「もっとも、ドラマにあった様に新政府内では、西郷が鹿児島に居る限り暴発は無いという観測もありました。これは大山巌が鹿児島に帰った時、隆盛自らが暴発は起こさせないと語った事が伝えられており、不思議な安心感に包まれていたとも言います。」

「ドラマでは晋介たちは隆盛を政府に再出仕させるために帰国したとありましたが、新政府の側でも鹿児島の不穏な空気を一掃するために、西郷を東京に呼び戻すために様々な動きをしています。先の大山巌が派遣されたのもその一環で、最後には明治帝自らが勅使を派遣し再出仕を求めたのですが、隆盛はとうとう首を盾に振りませんでした。」

「政府に出仕する事を断り続けた隆盛は、相変わらず農耕と湯治にいそしんでいました。明治9年には娘の菊草の婚約も整い、私人としての隆盛はごく平穏で幸せな生活を送っていたのでした。それを覆すのが大久保の放った密偵達なのですが、それは次回に描かれる様ですね。いよいよ西南戦争の勃発となるのか、緊張した回になりそうです。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.11.18

西郷どん 第四十三回 「さらば、東京」

明治6年10月14日、太政官会議。

隆盛の朝鮮派遣に関して、冒頭から激しく対立する大久保と隆盛。

富国強兵を主張する大久保と朝鮮居留民の安全を主張する隆盛。

大久保と岩倉の罷免をと三条に迫る江藤。
狼狽するばかりの三条。
突如として寝返り、隆盛側に付いた岩倉。

後刻。
岩倉を責め、参議を辞任すると伝える大久保。
狼狽する三条。
自分も辞めると岩倉。
遂に人事不省に陥った三条。

西郷邸。
せめてもの護身用にとピストルを渡す従道。
これは不要と返す隆盛。

10月18日、太政官。
三条が倒れた事を伝え、会議を中止する岩倉。

三条邸。
見舞いに訪れた隆盛。
病を押して大久保の企みを伝える三条。

明治帝に会う岩倉。

後日の太政官。
冒頭、自らが太政大臣代理と宣言した岩倉。

(回想)
岩倉に明治帝に隆盛が朝鮮に行き、
命を落とすやもしれんと伝えて欲しいと大久保。

朝鮮国使節派遣取りやめの叡慮を伝える岩倉。
紛糾する会議。
朝鮮国の居留民の事を託し、辞意を表明した隆盛。

いきり立つ桐野たち。
兵を動かしてはならんと一喝する隆盛。

明治6年12月24日。
政府に辞表を届け出た隆盛。
隆盛に続いた江藤、後藤、板垣達。

内務卿となった大久保。

岩倉邸。
祝いに集まった長州閥の一同。
隆盛の下野によって騒動が起こるかもと木戸。
よろしゅう頼むと岩倉。
隆盛はそんな男では無いと木戸。

隆盛邸を訪れた木戸。
条約改正の失敗と長州の者たちの汚職の責任を取ると木戸。
まだこれからだ、木戸には政府に残ってもらわねばと隆盛。
厚く握手を交わした両雄。

大久保邸。
帰りを待っていた隆盛。
薩摩に帰る前に挨拶に来たという隆盛。

自分は土俵際で岩倉卿にしてやられた、
あれはおはんのした事かと隆盛。
ああ、そうじゃと大久保。
なぜここまでずる賢い頭の使い方をせねばならんと隆盛。
おいには理想とする政府の姿がある、
それを邪魔する者は排除すると大久保。
それはおいの事かと隆盛。
おはんの人を信じる政は甘かと大久保。
一蔵どんはおいを政府から追い出したかったとなと隆盛。
ああ、と大久保。
なぜはっきりそう言うてくれんかった、
おいとおはんの喧嘩なら腹を割って話せば済んだ、
周りを巻き込む事はなかった、
こんな回りくどい事はすかんどと隆盛。
卑怯者とでもなんとでも言え、憎め、すべて覚悟の上と大久保。
無理を言うな、おはんを嫌いになれるはずがないと隆盛。
おいのまけじゃ、後はおもいっきりやれ、
おいは薩摩で畑でも耕しながら見ている、たのんだどと隆盛。

翌朝、鹿児島へと旅発った隆盛。
これが二人の最後の別れでした。

一人見送りに来た従道。
自分は西郷の名に恥じぬよう最後まで食いつくと従道。
たまには帰ってこいと隆盛。

「今回は征韓論に破れ、隆盛が下野するまでが描かれました。隆盛と大久保、二人の理想がぶつかり合う様は迫力がありました。実際、あの二人が激論したら誰も口を挟めなかったでしょうね。」

「ドラマではかなりの省略がありましたが、大筋では史実どおりでした。一旦は大久保を裏切り隆盛の論に与した三条太政大臣と岩倉でしたが、彼らが何より恐れていたのは隆盛を覆う声望と彼を慕う陸軍の将兵、各地の不平士族たちの反乱でした。それが覆ったのは三条が人事不省に陥った事で、これを奇貨とした大久保と岩倉が決定をひっくり返したのでした。」

「三条が人事不省に陥った背景には隆盛の脅しがあったと言われ、もし閣議の決定どおりの奏上が行われなかった時は、自分は自殺するよりないという手紙を三条に送りつけています。西郷の死によって引き起こされるであろう陸軍や士族の反乱を恐れた三条は、極限状態に置かれたのでした。そして、大久保と隆盛の板挟みになった三条は、遂に精神的に耐えきれなくなってしまったのでした。」

「大久保は岩倉と諮り、明治帝自らが岩倉を太政大臣代行に任じる様に工作しました。当時の法制では、太政大臣が職務を遂行出来ないときは、左大臣または右大臣がこれを代行するとありました。しかし、それでは三条が決めた隆盛派遣をそのまま奏上するよりなくなります。そこで明治帝を背後から動かし、勅命をもって岩倉に代行を命じさせたのです。これにより、岩倉は自らの意思に沿って振る舞う事が可能となったのでした。」

「隆盛は奏上が行われる前日に江藤らと共に岩倉邸を訪れ、翌日の参内で自らの派遣を奏上するよう念押しをしています。しかし、岩倉は勅命を盾に自らの意見も同時に奏上すると言って一歩も引かず、ついに隆盛たちを退けたのでした。岩倉卿の持つ凄みは、この時をもって如実に発揮されたと言うべきでしょうか。」

「隆盛がその気になれば、岩倉を無視して自らが明治帝に直訴する事も出来たはずです。そうなれば、隆盛びいきであった明治帝は隆盛の望みを聞き入れたかも知れません。しかし、彼はここで身を引き、それ以上の動きには出る事はありませんでした。このあたりが隆盛の謎とされる部分で、その理由ははっきりとは分かっていません。」

「岩倉が奏上したのは隆盛の派遣という決議がなされた事と岩倉自身の考え、つまり今は富国強兵に務めるべき時期であり、隆盛の派遣は時期尚早というものでした。明治帝は岩倉の意見を良しとし、隆盛の派遣は退けられたのです。」

「自らの望みが絶たれた事を知った隆盛は全ての官位、地位を辞職して東京を去ります。ただし、陸軍大将の地位と従三位という官位はそのまま止め置かれました。」

「東京を去るにあたって、西郷が大久保を訪ねたという逸話は、伊藤博文の後日談にあります。司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」では、後は頼むと隆盛が言い、いつでんそうしゃ、おいが知るものかと大久保が答えたとありますが、どうやらそれは伊藤の談を元にした司馬氏の創作の様ですね。そもそも、一次資料では伊藤は隆盛が東京を去った日に大久保を訪ねていないし、大久保の日記にも記載はありません。伊藤の後日談からして怪しいのですが、両雄の別れとしてはドラマのごとくあって欲しいという気はしますね。」

「しかし、研究者によっては大久保にしてやられた隆盛は、大久保を君側の奸としてひどく憎むようになっていたとも言います。仲が良かった分、その反動は大きかったのかも知れません。」

「隆盛自身はドラマの台詞にあった様に、農耕に従事して静かに余生を暮らそうとしていたのかも知れません。しかし、世間は隆盛の下野をきっかけに騒然とし始めます。次回は佐賀の乱とその後が描かれる様ですね。その時西郷がどう動くのか、楽しみに待ちたいと思います。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.11.11

西郷どん 第四十二回 「両雄激突」

アメリカ留学のため、東京へ出た菊次郎。
菊次郎に農業を学んでこいと隆盛。
アメリカへ旅立った菊次郎。

東京。
大久保からの手紙を読む隆盛。
西洋の強大さを説き、今少し留守を頼むと大久保。

使節団との盟約を違い、次々と新政策を進める隆盛。

不正を働き、政府を追い出された井上。
長州の勢力が居なくなった太政官。

新たに参議となった後藤、江藤、大木。
留守政府を動かし始めた隆盛。

徴兵制を血税と聞き、生き血を取られると誤解した庶民。

学制の改革、鉄道の敷設、太陽暦の採用などを決めた留守政府。
使節団に気を遣う三条。
明治6年5月5日、火事となった宮中。

火事騒ぎで倒れた隆盛。
心臓に病を得てしまった隆盛。

使節団より一足早く帰国した大久保。
大久保に冷たい留守政府の面々。

西郷邸。
見舞いに訪れた大久保。
西洋の凄さを語り、
政府を立て直すために今の参議を辞めさせると大久保。
江藤たちは良くやってくれていると隆盛。
この人事は無効と大久保。
今の政府に大久保たちが加わる事で良いのではと隆盛。
船頭が多すぎて政にならないと大久保。
皆で議論すれば良いと隆盛。
議論など無用、
ドイツのビスマルクは議論無しで300の諸国侯をまとめ上げたと大久保。
欧米に追いつくには前に進む力だけ、
それに逆らう者は追い出せば良いと大久保。
だったら政府に居なくても良い、薩摩に帰れ、
政府は自分と江藤たちで十分だと隆盛。
一人立ち去る大久保。

明治6年6月。
朝鮮国との関係悪化が浮上して来た太政官。
すぐに軍を派遣すべきと板垣。
それでは戦になってしまう、
ここは礼節を尽くし、全権大使を派遣すべきだと隆盛。
その大使は殺されるやも知れぬ、
そんな危ない役目を誰にやらせるのかと板垣。
自分が行くと隆盛。
岩倉の帰国を待つべきと三条。
これは何のための政府か、国家の大事に何も決められないなら、
今すぐこの国家を辞めたらよかと叫ぶ隆盛。
押し黙る一同。

2ヶ月後、天子様への上奏も済み、内定した隆盛の派遣。

大久保邸。
大久保を訪ねてきた隆盛。
病を装い、合わない大久保。
政府には大久保が必要だと伝えてくれと隆盛。

明治6年9月13日。
帰国した使節団。

明治帝に詫びを入れる岩倉。
岩倉を叱責した明治帝。

岩倉を宴席に招いた長州の面々。
自業自得と山県たちを見放そうとする岩倉。
長州の巻き返しのため、隆盛を責める伊藤。
西郷と大久保が仲違いをしたと聞き、気が変わった岩倉。
そこに現れた大久保。

太政官。
西郷から逃げ回る三条。

10月14日、再開された閣議。
大久保を参議に復帰させた岩倉。
朝鮮派遣を切り出した隆盛。
真っ向から反対した大久保。
隆盛を見るその目は、もはや友のものではありませんでした。

「今回は使節団の帰国と征韓論が議論されるまでが描かれました。鋭く対立する両雄の迫力が見応えがありましたね。」

「ドラマでは帰国した大久保が留守政府からつまはじきにされ、隆盛からも国へ帰れとまで言われていましたが、大久保の帰国と共に辞意を表したのは隆盛の方でした。どうやら使節団派遣の際に大久保帰国と入れ替わりに隆盛が身を引くという約束が取り交わされていた様なのですが、今少し隆盛の力を必要とした大久保が勝海舟の手を借りて隆盛を慰留したのでした。」

「しかし、大久保はなぜか大蔵省には出仕せず、関西方面への視察を名目に東京を離れてしまいます。このあたり隆盛と大久保の間にどんなやりとりがあったのか資料には残っていないのですが、両者の間に隙間が生じたのではないかと推測されています。」

「その大久保の留守の間に沸き起こったのが征韓論でした。ドラマにあったように当時の朝鮮国は、維新を成し遂げた日本を西洋化した禽獣同然の国として相手にせず、国交断絶状態にありました。征韓論の萌芽は明治二年にあり、当時強硬論を主張したのが木戸でした。しかし、ロシアとの樺太問題、欧米使節団の派遣など他の重大問題に紛れ、言わば棚上げとなっていたのです。」

「使節団派遣の際も征韓論は議論されたのですが、やはり穏健論が多数派を占め、使節団帰国までは凍結という事で決着しています。」

「この問題が再び俎上に上ったのは明治6年5月31日に朝鮮からもたらされた報告書からでした。ドラマにあったように日本人による貿易(もっとも密貿易でしたが)が朝鮮国の取り締まりで困難になっている事、倭館の門前に日本を無法の国と侮辱する掲示があったと記されていたのでした。」

「この問題に強硬論を主張したのは板垣で、朝鮮国に軍艦数隻を派遣し、軍事的圧力を背景として国交樹立を迫ろうと主張したのでした。これに反対し、まずは非武装の使節を派遣すべきと主張したのが隆盛でした。」

「隆盛は征韓論そのものに反対したのではなく、まずは自分が朝鮮国に渡り、十中八九は殺されるであろうから、それを大義名分として軍を派遣すれば良いと考えたのですね。」

「元々は征韓論からは遠かった隆盛が急に自らの遣韓を思い立った背景には、外務卿の副島種臣が中国に渡り、台湾問題で大きな成果を上げて帰国した事が関係していると言われます。自らも副島のごとくありたいと願った隆盛は、征韓論に飛びついたと言うのですね。」

「もう一つ、隆盛の健康問題もありました。ドラマでは宮中の火事の後、急に倒れた様に描かれていましたが、隆盛の体調不良はそれ以前から顕著で、特に胸痛がひどく明治4年の時点で明らかになっていました。自分の命が残り少ないと悟った隆盛は、言わば最後のご奉公として朝鮮国に渡る事を願ったと言うのです。」

「隆盛は、かつて自らを土中の死骨と嘆いたごとく、死に損ないという思いが常にありました。幕末、単身で長州藩に乗り込み交渉に当たった様に、自らの命を的にして交渉に臨むというのは隆盛の行動に良く見られます。つまりは死に所を常に求めていたとも言えるのですね。隆盛の征韓論はその集大成ともいうべきものだとも言われます。」

「しかし、大久保にすれば隆盛が殺されれば戦争になる事は避けられず、到底認められる事ではありませんでした。両雄の対立は避けられるものでは無かったのですね。大久保のために弁護するとすれば、ドラマの様に薩長閥のために西郷を葬ろうとしたとしたのは明らかな誤解で、彼なりの正義感に基づいた行動でした。ドラマの大久保はちょっと可哀想な役廻りになっていますね。」

「次回は征韓論を巡る両雄の議論が交わされる様です。予告ではかなり迫力があるものの様ですね。どんな描き方がされるのか楽しみに待ちたいと思います。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.11.04

西郷どん 第四十一回 「新しき国へ」

廃藩置県の憂さを晴らすため、
錦江湾で一晩中花火を上げさせた久光。

欧米使節団を派遣する事を決めた新政府。

今こそ実権を握る好機と捉える留守居組の参議たち。

日本の窮状を救うため、天子様の行幸を提案する隆盛。
賛同する大久保。

鹿児島。
菊次郎にもちかけられた留学。
行くかどうかは自分で決めろと糸。

不満が高まる鹿児島。
その不満を大山たちにぶつける久光。

東京。
使節団に加わる事になった川路。
フランス製の香水を身にまとい、陸軍少将となった桐野。
侍従を拝命した新八。

宮中改革に乗り出した隆盛。
天子様に相撲を取り、
御簾内から出て全国を行幸する様進言する隆盛。
隆盛の言を入れた明治帝。

11月、欧米渡航の勅命。

大蔵省を担当し、財政も司る事になった隆盛。
後藤と江藤に注意し、何も変えてはいけないと岩倉。
吉之助さあ、頼んだどと大久保。
気をつけてのうと隆盛。
肩を抱き合う二人。

サンフランシスコに旅立った使節団。

早速実権を握るべく動き出した江藤たち。
それを押さえる隆盛。

各地で頻発する一揆や打ち壊し。
徳川の世の方が良かったのではないかと噂する人々。

山城屋事件。
汚職にまみれた山県有朋。
山県を斬ろとうする桐野。

山県に陸軍大輔の役目を降りさせた隆盛。

久光の使いとして来た海江田。
自分を県令にしろと要求する久光。
断固断る隆盛。

天子様に全国を行幸してもらうつもりだと隆盛。
つまり薩摩にも来るという事かと海江田。
その折りには久光公にもお目通りを願うつもりだと隆盛。

鹿児島。
天子様のお供で隆盛が帰ってくると聞き、大騒ぎになる西郷家。

明治帝に拝謁し、その洋装に驚いた久光たち。

これがお前と、兄、斉彬が作りたかった新しい国かと問う久光。
今は思い描いていた国とはかけ離れている、
国の腐敗一つ取ってもどうにも出来ない、
おいは蹴り飛ばされるに違いないと隆盛。

こんやっせんぼと叱り飛ばす久光。
最後までやり抜け、それでも倒れた時には薩摩に帰ってこい、
後は若い者に任せればよかと久光。

留学を願い出た菊次郎。

「今回は欧米視察団の派遣と留守政府の苦難が描かれました。大久保と隆盛の別れは、久しぶりに二人の友情を感じさせるものでした。」

「久光もまた豹変しましたね。急に隆盛の理解者となり、名君ぽくなりました。実際にそうだったら、隆盛の苦悩ももっと少なくて済んだでしょうにね。」

「使節団の派遣の主たる目的は不平等条約の改定にあり、新政府は1年後に迫った一回目の改定期限を諦めて5年程伸ばし、その間に対等の条約を結ぶに相応しい法制の整備と産業の振興を図る事としました。そのために諸外国の実態を実地に見ると共に多くの留学生を伴い、異国の文化、文明を移植しようと図ったのです。」

「それにしても、国内に難題を抱えた状態で、国の根幹を成す人材の大半を国外に出すと言うのは大英断でした。それは隆盛という重鎮が居たからこそ出来たとも言えますが、全てを任された隆盛が割りを食ったとも言えます。」

「使節団と留守居政府の間には勝手に新政策を実施したり、人事異動をしてはならないという取り決めが交わされました。当初の使節団の派遣は十ヶ月となっており、その程度の期間であればこの約定を守る事は容易いと思われました。しかし、実際に使節団が帰ってきたのは1年9ヶ月後の事でした。これだけの長期の間、何もせずに済ますというのは無理というもので、留守居政府は徴兵制や学制の改革、地租改正など次々に新政策を断行して行く事となります。そして、その事が使節団と留守居政府の溝を深める事となって行きます。」

「山城屋事件はドラマにあったごとく、陸軍大輔の職にあった山県有朋が同郷の山城屋和助に陸軍省の公金65万円(当時の歳入の1%)という大金を貸し与え、その見返りを受けていたという事件です。この背後には徴兵制を推進しようとする山県と、士族のみの志願兵制を推進しようとする桐野たちの反目があったとも言われますが、結果としては山県の辞任と隆盛の近衛都督・参議兼陸軍元帥就任という形で収束を見ました。この事もまた、広い意味では使節団との約束違反でした。」

「明治帝の行幸は主として西国で行われ、真の目的は久光を明治帝に拝謁させ、その機嫌を取る事にありました。しかし、実際には久光の機嫌は良くなるどころか洋装で現れた明治帝を見た事で怒りを爆発させ、西郷をさらに責める事となります。久光は明治帝に随行していた徳大寺宮内卿に対し十四箇条からなる旧制に戻して欲しいという嘆願書を出し、隆盛を罷免しなければ自分は上京しないと強い調子で訴えました。ドラマの様な物わかりの良い国父様に戻っていれば、隆盛はどんなにか楽だった事でしょうか。」

「ドラマでは村田新八が侍従になっていましたが、あれは西郷が推し進めていた宮中改革の一端で、女官に囲まれた明治帝を外国の皇帝のごとく教育するために、新八や吉井友実、山岡鉄舟ら、自分の信頼出来る剛毅かつ清廉な人物を周辺に送り込もうとしていたのですね。」

「今回のドラマで最も心に響いたのは糸さんの台詞で、子供を手放すのは痛みを伴う、しかし、子供が自分で決めた事は尊重しなければならないという事でした。親子の情はこうして紡がれてきたものであり、いつの時代でも変わりのないものなのですね。ちょっとじーんと来た一幕でした。」

「次回は征韓論が出てくる様ですね。対立を深める大久保と隆盛、クライマックスに向けての助走がいよいよ始まる様です。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.10.28

西郷どん 第四十回 「波乱の新政府」

久光を東京に呼び出すために鹿児島を訪れた岩倉と大久保。
仮病を使って上京を断る久光。

久光を東京に呼び出すには訳があるはずと隆盛。
各藩が握っている徴税権を新政府が持つようにするため、
藩を潰すのだと大久保。

天子様を守る名目で各藩から兵を集める、
その威力をもって不平を抑えてはどうかと隆盛。
よろしく頼むと大久保。

早速皆を集め、御親兵の話をする隆盛。
乗り気になる一同。

久光を再度説得する大久保。
悪いようにはしないという大久保の言葉に、鋭く反発した久光。
自分は島津家ではなく天子様に仕える身と大久保。
それがお前の本性かと久光。
新政府にも国父様の席を設けて待っています、
それが私の恩返しと言って立ち去る大久保。
一蔵、行かんでくれと哀願する久光。

明治4年2月、上京した隆盛。

大久保邸。
それぞれの思惑を持ち集まった江藤、板垣、後藤ら参議たち。
そこに到着した隆盛。

歓迎の豪華な宴会。
その場で露わとなる各参議たちの対立。
長州ですら反対派を抑えきれないと木戸。
苦り切る大久保。

宴の後。
薩長土肥、時間を掛けて皆の足並みを揃える事が肝要と隆盛。
ここが新しい国作りの山場、時間は掛けられない、
ここは自分に付いてきてくれと大久保。
判ったと隆盛。

8000人からなる御親兵を抱える事となった新政府。

上京して来た半次郎たち。
長屋住まいの隆盛に驚く一同。
一同をもてなす長屋の人々。

太政官会議。
廃藩置県を巡って対立する参議たち。
金が無いなら自分たちの給金を減らし、
質素倹約に務めれば良いと言い放つ隆盛。
黙り込む一同。

昼時。
料亭の仕出し料理を楽しむ参議たち。
その中で一人手弁当で済ます隆盛。

料亭。
今更質素倹約など出来るかと岩倉。
大久保はんから西郷にあんじょう言うてくれと三条。

西郷家。
なぜ皆の足を引っ張るような事をすると大久保。
過ぎた金をもらって過ぎた暮らしをするために来た訳では無い、
これでは横山安武の言うとおりだと隆盛。
政をする者は、か弱き民の手を握らなければならない、
そんな事はただのきれい事だと大久保。
そうじゃろかと隆盛。
立派な屋敷に住むのも、贅を尽くした物を食べるのも、
異国に舐められないためだ、
劣った暮らしをする者を相手に対等に話をする者など居ない、
これは100年先の暮らしを考えてのことだと大久保。
黙って大久保を見つめる隆盛。
頼む、吉之助さあと言って立ち去る大久保。


大久保邸。
木戸を呼び出した大久保。
このままでは土佐、肥前が主導権を握ってしまう、
私に手を貸して下さいと大久保。
西郷は大丈夫なのかと木戸。
それは心配ご無用と大久保。

数日後。
ついに下った廃藩置県の詔勅。
それを聞いて激怒する江藤、板垣。
こんな政府はやってられるかと出て行こうとする板垣たち。
足手まといは出て行ってもらって結構と大久保。
なぜ西郷は姿を見せない、
西郷が居なければ御親兵は動かないと木戸。
進退窮まったかに見えた大久保。
そこに遅れて現れた隆盛。

袂を分かつと言う板垣たちに待ったをかけ、
新政府が一枚岩にならなければ廃藩置県は出来ない、
後を安心して任せられると信じてもらわねば反乱が起きてしまうと隆盛。
そうならないために御親兵が居ると大久保。
御親兵も同じ、すべての民にこんなつまらん政府と思わせてはいけない、
戊辰で死んだ八千の魂が、
我らの肩に乗っているのだと隆盛。
もう一度話し合い、その答えを正々堂々とやれば良い、
それでも出てくる膿は反乱でも何でもおいが引き受けもんそと隆盛。
黙って席に戻る参議たち。

会議の後。
もう来ないのかと思ったと大久保。
実は迷っていた、でもやっと心を決めたと隆盛。
おいは何か間違っていたかと大久保。
何十年後に皆が良かったと思える日本にする、
それがおはんのやっている政だろう、
存分にやればよか、
おはんが抱えきれんもんはおいが引き受けると隆盛。

明治4年7月14日、廃藩置県断行。

「今回は廃藩置県が断行されるまでが描かれました。どこかダークに染まっていく大久保と、それでも友を信じて行こうとする純真な隆盛との対比が鮮やかでした。そして、今後の隆盛を襲うであろう悲劇を予感させる回でもありました。」

「ドラマでは急進的な大久保と慎重派の木戸という役回りでしたが、実際には反対でした。廃藩置県を急いだのは木戸を筆頭とする長州閥で、大久保は慎重論者でした。これが逆転したのは木戸が隆盛を説得したからで、木戸の言う諸外国と対等に渡り合うには廃藩置県は避けて通れないという理論を隆盛が飲んだのでした。」

「実を言えば、隆盛もまた私情としては廃藩置県に反対でした。やはり封建制度の中で育った隆盛としては、主家を潰すのは忍びなかったのですね。しかし、木戸に諭され、それが時の流れだと悟った時、全てを受け入れる決心をしたのでした。」

「隆盛はこれに先立ち、薩摩を発つときに約束していた新政府の刷新に手を染めていました。すなわち、政府の高官の削減、人員整理を強行していたのですね。当然の反動として彼らの恨みを西郷は受けていたのですが、廃藩置県を断行すればそれ以上の非難が自分に集中する事は判っていました。しかし、それを覚悟で木戸の論を受け入れたのですね。」

「佐々木高行の後日談に依れば、隆盛が参議たちを一喝したのは、詔勅が下った7月14日の翌日の事でした。詔勅は下したものの、その後をどうするかを巡って各参議が紛糾していた時、遅れてきた隆盛は彼らの意見を少し聞くや、この上各藩に異論がある時は、兵をもって打ち潰すのみと大喝したのです。この一言で参議たちは黙るほかはありませんでした。」

「明治維新が革命であるとすれば廃藩置県こそがその核心とも言うべきもので、西郷隆盛なくしては実現は無理だったと思われます。まさに彼の面目躍如と言ったところですが、その内心には血を流すような痛みと覚悟を隠していたのですね。」

「もっとも、藩主クラスの人たちの中には、廃藩置県を喜んで受け入れた者も少なからずあった様です。それは各藩の財政難が深刻で、ほとんどの藩が借金を抱え込んでいたのですね。廃藩置県によってその負債は新政府が負う事になり、苦しい藩政から解放されたと喜んだ人も多かったのでした。」

「しかし、ほとんどの士族にとっては死活問題であり、その怨嗟の声をどう裁くかは新政府に課せられた大きな課題となります。その矢面に立つのが隆盛であり、次回はそこが描かれる様ですね。隆盛に課せられた悲哀がどう表現されるのか、楽しみに待ちたいと思います。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.10.21

西郷どん 第三十九回 「父、西郷隆盛」

明治37年、京都市役所。
市長として赴任した西郷菊次郎。

助役の川村に問われるまま、父、隆盛について話し出す菊次郎。

明治2年、鹿児島。
隠居生活を送る隆盛。

奄美大島。
菊次郎を迎えに来た糸と熊吉。

くれぐれも糸に菊次郎の養育を頼む愛加那。
引き受けた糸。

武村。
借金を返し終え、屋敷を構えた隆盛。
家族の一員となった菊次郎。

さっそく郷中教育を受ける菊次郎。

久光に呼び出された隆盛。
維新後、下級武士が力を持ち、旧秩序を乱していると、
久光に非難される隆盛。

武村。
今ひとつなじめずに居る菊次郎。

東京。
参議会議。
中央集権に急進的な大久保。
それを心配する木戸。

日本各地で噴出する新政府に対する不満。

武村。
東京に一緒に行って、新政府に対する抗議をしてくれと
隆盛に頼む横山安武。
東京では大久保が新しい日本を作っている、
民百姓の事も考えていると隆盛。
民百姓だけではなく、自分たちの事も大事、
いずれ侍の世は終わると横山。
それもやむなしと隆盛。
憤然として帰る横山。

東京、集護院。
門前で抗議の自害を果たした横山。

さらに頻発する一揆や暴動。
暗殺された大村益次郎。

東京。

騒然とする世を憂うる岩倉。
西郷を呼び出すために従道を呼び出した大久保。

鹿児島。
戊辰の戦で亡くなった戦士たちの御霊を弔って歩く西郷。

帰郷した従道。
フランス帰りの従道を歓迎する一同。

その夜。
隆盛にフランスのポリスの話をする従道。
それは良い、士族に仕事を与えられると隆盛。

一緒に東京に来て欲しいと従道。
自分には政に参加する資格が無いと隆盛。
死んでいった者たちのためにも、
政府直属の強い軍を作って欲しいと従道。

東京に行く決心をした隆盛。
菊次郎のためにもう暫く家に居て欲しいと糸。
その話を聞いていた菊次郎。

翌朝。
父と母に隆盛の東京行きを直談判した菊次郎。
東京に行く事となった隆盛。

「今回から西田敏行が菊次郎として登場しました。なんと、今までナレーションをしていたのは菊次郎だったのですね。なんだか取って付けたような設定ですが、まあいいか。」

「そしてオープニングがまた少し変わりましたね。隆盛と大久保という両巨頭のすれ違いが象徴されている様で、なかなか興味深いところです。」

「明治2年頃の西郷は隠居生活を望んでいましたが、凱旋した下級士族が発言権を増し、明治新政府が藩籍奉還を行った事で藩政府の人材が不足し、乞われて藩の執政職に就いていました。ドラマのような野良仕事に精を出す姿ではなかったのですね。」

「西郷は維新の功労者として2千石の禄典を与えられ、幕末以来続いていた借金生活からようやく抜けだし、武村に屋敷と田畑を持つ事が出来ていました。また、朝廷からは正三位という高い官位を授けられています。もっとも、この官位と禄典については久光に遠慮をし、後に辞退する事になります。」

「久光との関係は、隆盛はドラマにあった様に常に非難される立場に晒されていました。久光は幕府は否定していたものの、封建制度そのものは維持を願っていたのでした。それを覆そうとする新政府の動きは久光には不満そのもので、そのはけ口の対象となったのが隆盛だったのですね。」

「隆盛はやはり封建制度で育った人らしく、藩主に対する忠義は絶対のものでした。なので、久光から非難される事は何より辛かったのですね。そのストレスが隆盛の健康を蝕み、益々体調不良を進行させていました。隆盛は温泉療養に何度となく出かけていましたが、屡々下血をするという程、身体を壊していたのです。」

「その隆盛にとってわずかに救いとなったのは、菊次郎を引き取った事でした。菊次郎から見た父は、甚だ喜び遊ばされている様に見えたそうです。」

「その隆盛が東京に出る事になったのは、従道に説得された訳では無く、その後岩倉具視が勅使として派遣され、それに対して隆盛が新政府の改革案を示し、それが受け入れられたからでした。それは国力に見合った陸海軍の整備、外交においては信義、礼節を欠いてはならない、政府の高官となるものは驕奢な生活をしてはならないといった内容でした。ドラマで横山が諫死した様に、一部の政府高官のおごり高ぶった生活ぶりは、庶民の非難する的となっていたのですね。それは隆盛としても許せるものではありませんでした。」

「自分の意見が受け入れられると知った隆盛は新政府入りを承諾しました。一つには久光から距離を置けるという事に救いを感じたのかも知れません。この後も久光との軋轢は続くのですが、それはともかくとして隆盛が中央に出る事によって新政府は新たな局面を迎える事となります。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.10.14

西郷どん 第三十八回 「傷だらけの維新」

大村益次郎の指揮により、半日で壊滅した彰義隊。
しかし、更に抵抗の度合いを増した東北越諸藩。

京。
兵も金も無い新政府。
全てを薩摩で引き受けた西郷。

鹿児島。
援軍を集めるため帰郷した西郷。
久方ぶりの団らん。

菊次郎に書物を送る糸。

久光を説得し、増援軍を編成し越後に派遣した西郷。
その様子を見ていた吉二郎。

早朝、刀を持って家を出ようとする吉二郎。
それを見とがめ、止めた信吾。

戦に出たいと西郷に直談判をした吉二郎。
その熱意にほだされた西郷。

越後に出立した吉二郎たち。

数日後、ガトリング砲を有する長岡藩に苦戦をしているとの報告を受け、
自ら出陣した西郷。

越後に着いた西郷の下にもたらされる数々の援軍要請。
そんな中届いた、吉二郎が撃たれたという知らせ。
しかし、兵の命は皆同じと軍議を続ける西郷。

1500人の死傷者を出し、新政府軍の勝利で終わった北越戦争。

傷病兵を見舞う西郷。
侍働きが出来て嬉しかったと言い、西郷の腕の中で亡くなった吉二郎。

その後も函館まで戦い続けた新政府軍。

明治へと生まれ変わった日本。

明治元年10月、東京城に入った明治天皇。

東京城の一室。
二人で話し合う西郷と一蔵。

突然、全て終わった、薩摩に帰りたいと言い出した西郷。
これから全てが始まるのだ、
新しい国を作ろうと言い出したのはおはんだと一蔵。
そのために全てを壊した、多くの者を死なせた
その責めを負わねばならんと西郷。
それが新しい国を作るという事じゃろがと一蔵。
すまん、一蔵どんと西郷。
勝手な事を言うな、共に新しい国を作るために戦って来たんじゃと一蔵。
腰から小さな袋を取り、一蔵の前に置き、
世界に負けん国を作ってくいやいと言い残し、立ち去る西郷。
袋の中にあったのは、かつて見た鹿児島と書かれた地図でした。
後に残され、乾いた笑い声を上げる一蔵。

鹿児島。
吉二郎の妻、園に遺髪を渡す西郷。
泣き崩れる園。

吉二郎が西郷のためにと残していった銭を渡す糸。

西郷家の出納帳を見て、一人泣く西郷。

その夜、剃髪した西郷。

「今回は戊辰戦争の終結から西郷の退隠までが描かれました。心を鬼にして戦う西郷と、弟を亡くし泣き崩れる生身の西郷の対比が鮮やかな回でした。」

「彰義隊を壊滅させた後西郷は鹿児島へと帰りますが、それは増援要請と共に、自らの療養のためでもありました。体調を崩していたらしい西郷は帰郷後すぐに日当山温泉に湯治に向かい、新政府軍が戦っている最中、50日も鹿児島に止まっています。」

「長岡で激戦があったのは事実で、河合継之助率いる長岡藩は寡兵ながら良く戦い、新政府軍を苦しめたのでした。しかし、西郷の援軍が到着した時には大勢は決しており、西郷自身の出番はありませんでした。」

「吉二郎がこの戦場で倒れたのも事実ですが、西郷が看取ったというのは記録になく、ドラマの演出でしょう。でも、流れ的には許される範囲かなとも思いますね。」

「その後の西郷は陣頭指揮を執る事はなく、北陸道征討総督府の働きによって東北諸藩は降伏に追い込まれました。西郷は米沢を経て庄内へと入ります。ドラマではスルーされてしまいましたが、ここで庄内藩に対して取った寛大な処置が後の西郷像を決定的なものとしました。すなわち、賊軍に対しても降伏して来たものはこれを許し、対等以上に扱う度量の大きな徳を持った人物という評価が定着したのです。西郷の座右の銘として知られる敬天愛人という言葉を世に広めたのも庄内の人たちでした。」

「西郷はその後、新政府の要請を無視して鹿児島へと帰ってしまいます。その理由は良く判っていないのですが、鳥羽伏見の戦いの直後に家族に宛てた手紙には、戦が終わった後には隠居すると認められており、早くから退隠する心づもりであった事は確かです。」

「ドラマでは吉二郎の死を悲しんだ西郷が剃髪したかの様に描かれていましたが、実際には越後に発つ前に既に髪を切っていた様です。これは藩主に無断で隠居する事を意味し、後に久光の怒りを買う原因の一つともなるのですが、ドラマではどこまで重みを置くのでしょうね。」

「鹿児島に帰った西郷は再び日当山温泉で湯治を行っており、体調の悪さが退隠を願った理由の一つだったのでしょう。吉二郎を死なせた事も引き籠もる気持ちを更に強くさせたのかも知れません。いずれにしても西郷は静かな余生を願っていた様ですが、彼を覆っていた名声がそれを許しませんでした。西郷はこれからも激動の時代に翻弄されながら生きていく事となります。」

(参考文献)
「西郷隆盛」 「西郷隆盛 維新150年目の真実」 家近良樹著 「西郷隆盛 手紙で読むその実像」 川道麟太郎著 「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 「勝海舟と西郷隆盛」 松浦玲著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧