西郷どん

2018.01.14

西郷どん 第二話「立派なお侍」

小吉といった西郷が、六年後には吉之助と名乗りを変えました。西郷は生涯に何度も名前を変えており、この時も吉之介が正しく、最後に名乗ったのが吉之助でした。ちなみに、諱の隆盛も本当は父の諱で、正しくは隆永でした。明治維新後、位階を授けられるときに、間違えて届け出られたとの事です。名前一つとっても謎の多い人物ですね。

さて、西郷は郡方書役助という役職に就きました。役職と言ってもわずか四石という下級役人で、西郷はこれを10年務めています。ドラマにあった様に西郷は地道に働き、農村の実態をつぶさに知りました。そして、苦しむ農民を見て奉行に年貢の減免を訴えたり、時には自らの俸給からいくばくかの金を融通してやったりもしていました。

ドラマには出てこなかったのですが、彼の上役に迫田利済という人が居て、この上役が良く出来た人だった様です。この迫田が最初に西郷に影響を与えた人物で、西郷が農民に目を向ける様になったのは迫田に依るところが大きいと言われます。

この迫田は、ある年台風の被害があったとき、藩から被害の大小に係わらず決して年貢の減免はするなと通達があったのですが、これを不服とし、役を降りてしまいました。その時、自宅の壁に書いたという歌が今に伝わっています。

虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな 絶てばおのれもともに枯れなん

虫とは為政者、五ふしとは稲つまりは農民、農民が倒れれば為政者も共倒れになるという意味ですね。ドラマで西郷が調所に訴えていたのはこの歌を踏まえてのことでしょう。

薩摩藩がなぜここまで農民に厳しくしたのかと言えば、偏に武士階級が他藩に比べて多かったからです。一説には他藩の4倍ほども居たというのですから、それを支える農民はたまったものではなかったでしょうね。さらには、実質的に支配していた奄美諸島や琉球国に対しても搾取同然の施策を敷いており、被支配者に対する苛烈さは、薩摩という強国が持っていた黒歴史とでもいうべきものでした。

西郷は卑役ながらこの黒歴史に背を向け、農民達に寄り添った施策をしようとします。そして、藩に対して建白書をいくつも出し、やがてそれが斉彬の目にとまり、後の飛躍へのきっかけとなって行きます。

斉彬が父の斉興に嫌われていたのは前回にも書きましたが、その要因は三代前の重豪にまで遡ります。元々、薩摩藩には幕府から命じられた木曽川改修工事の際に出来た借金があったのですが、重豪は幕府の老中松平定信の行った質素倹約を旨とした改革に反発し、開化、積極策を打ち出しました。藩士に華美、浪費を奨励し、自らも率先して行ったのですね。また、将来への投資として藩校造士館を創設し、薬草園を造り、天文暦法を研究する明時館を建設するなどしました。この浪費が祟り、薩摩藩は500万両という莫大な借金を抱える事となったのです。

この借金を返したのが調所広郷でした。彼は大坂の商人と交渉し、500万両を250年賦、無利子という条件を飲ませ、事実上借金を棒引きにしてしまいます。そして、奄美大島や琉球で産出される砂糖、大島紬、琉球絣などを藩の専売制にし、さらには琉球国を通じての密貿易で富を得ました。こうして、江戸、大坂、鹿児島にそれぞれ50万両もの非常金を積み上げたと言われます。調所が薩摩藩で重用される訳ですね。

斉彬はせっかく調所が改革した薩摩藩の経済を、根底から覆す人物と見られていました。重豪の再来として忌み嫌われていたのですね。そこに斉興の愛妾である由良が絡んでくるのですが、そのあたりは次回以降に描かれる様です。どんな展開になるのか、楽しみにして待ちたいと思います。

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2018.01.08

西郷どん 縁の地 ~清水寺~

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京都には西郷隆盛縁の地がいくつかありますが、清水寺もその一つです。塔頭の一つ、成就院の住職であった月照上人が西郷の良き協力者だったのです。

月照は公家と交流があり、とりわけ近衛家とは親しく交わっていました。幕末の混乱期にあっては勤皇思想に目覚め、成就院の住職の座は弟の信海に譲り、自らは在野の勤皇家と近衛家の橋渡しなどを行うなど、勤皇僧として知られる様になっていました。西郷もまた、朝廷工作のために月照に近づき、親交を深めています。島津斉彬が急死したとき、殉死しようとした西郷を引き留めたのが月照だった事は良く知られるところです。

安政の大獄が始まった時には、二人は一橋慶喜を将軍に立て、井伊直弼を大老の座が引きずり下ろすという朝廷工作を行っています。しかし、これが上手く行かず、逆に幕府に知れるところとなった事から、幕吏に追われる身となってしまいました。

西郷は月照を伴って鹿児島まで逃亡しますが、薩摩藩では二人を庇う余裕が無く、日向に追いやってしまいます。前途に絶望した西郷は、逃避行の途中で月照と抱き合って錦江湾に飛び込み、心中を図りました。二人ともすぐに助け上げられたのですが、月照は助からず、西郷だけが生き残ってしまいました。西郷は生涯これを悔い、自らを土中の死骨と称する様になります。

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清水寺の北惣門前には、西郷と月照を顕彰するために、石碑が建てられています。右が西郷が詠んだ弔歌、中央が月照の詠んだ辞世の歌です。ちなみに左は月照の弟の信海の歌で、やはり安政の大獄に連座して捉えられ、獄死したのでした。

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こちらは、最後まで月照に付き従った下僕、重助の碑です。重助は月照の遺骸を南州寺に葬った後幕吏に捉えられ、獄舎に繋がれます。厳しい尋問と拷問を受けたあげく翌年に釈放され、清水寺に茶屋を開く事を許されますが、謀反人として長く白眼視されていました。しかし、明治になってから以後、西郷との再会を果たし、その弟の従道から月照を助けた忠僕と称えられ、この石碑が建てられました。

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現在、清水寺にある忠僕茶屋はその重助の子孫の方が経営されており、月照上人が生きていた証を今に伝えています。

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その忠僕茶屋と似たような茶店に舌切り茶屋があります。良く舌切り雀と関係があるのかと誤解されていますが、この茶屋もまた月照と関わりがあります。

月照上人が鹿児島へ向けて落ちて行った後、幕府はその行方を求めて清水寺の寺男近藤正慎を捕らえ、行き先を聞き出そうとしました。しかし、近藤は厳しい責め苦にも関わらず、頑として口を割ることはなく、最後は頭を壁に打ち付け、舌をかみ切って自ら命を絶ち、秘密を守り通しました。清水寺では、近藤に免じてその子孫に茶屋を開く事を許し、今に至っているのが舌切茶屋なのです。こうしてみると、ちょっと怖い店名ではありますね。

この近藤の顕彰碑もまた、西郷の弔歌の脇に見ることが出来ます。

次に清水寺に行かれる事があったら、西郷と月照の関わりを求めて、境内を散策してみるのも一興ですよ。


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2018.01.07

西郷どん 第一話「薩摩のやっせんぼ」

大河ドラマ西郷どんが始まりました。これから一年間、ねこづらどきでもその展開を追っていきたいと思います。

冒頭、上野の西郷像の除幕式から始まりましたが、その時夫人の糸がこんな人ではなかったと言った事はよく知られています。その理由は、西郷の写真は一枚も無く、銅像は様々な人(弟の従道など)から想像して創作されたものであり、その容貌が本人とは似ても似つかぬものだったからと言われます。その一方で孫の吉之助氏の話として、西郷は礼儀正しい人であり、浴衣姿の様な無様ななりで人前に出るような人ではなかったからだとも言い、糸夫人は終生それが不満だったとも伝えられます。どちらが正しいかは良く判らない様ですね。

さて、時は1840年に遡ります。小吉と呼ばれた西郷が数えで14歳の時ですね。当時の薩摩では、城下の町を方限(ほうぎり)といういくつかの郷に分けており、その郷ごとに教育が行われていました。これを郷中(ごうちゅう、または、ごじゅうとも)教育と言い、7、8歳から24歳までの青少年で構成されていました。このうち10歳までを小稚児、14、5歳までを長(おせ)稚児、それ以上は二才(にせ)と呼ばれました。それぞれの段階で頭があり、その下を統べるという仕組みでした。だからこの当時の小吉は長稚児の頭という事になりましょうか。

西郷が居たのは下鍛冶屋郷中で、わずか70戸ほどの小さな集落でしたが、大久保利通や吉井友実、大山巌、東郷平八郎など後の明治を支えた人材を排出しました。長州藩の松下村塾と比肩する希有な存在と言えましょうか。

ドラマにあった様に郷中同士の争いは結構あったらしく、西郷の下鍛冶屋町も上方限の少年達と争いになり、その場は素手で組み討ちして下鍛冶屋町の勝ちとなりました。しかし、恨みを持った上方限の横堀三郎という少年が、後日西郷を襲って鞘ごと刀で切りつけ、その際に鞘が割れて西郷の肩を傷つけたのでした。このため西郷は腕の曲げ伸ばしが不自由になり、剣術が出来なくなったのはドラマで描かれたとおりです。この後、西郷は学問で身を立てようと決心したと言われます。

そのドラマで出てきた妙円寺詣でですが、本来は島津義弘の菩提寺である妙円寺に、夜間静かに参ったものでした。西郷たちが争ったのはこの妙円寺詣での帰りの事です。先を競って走ったのは日新寺詣でで、義弘の父である島津日新の菩提寺に参るのが目的でした。ドラマでこれを入れ替えたのは、日新寺詣での方が威勢が良いからでしょうか。なお、後の糸婦人が一緒に走ったというのは創作です。

さて、西郷が仕えたいと訴えた斉彬ですが、島津家の世子であり、幕府に対する人質扱であったため、原則として江戸住まいでした。藩主となるまでに国元に帰ったのは三度であり、1840年には記録されていません。実際に国元に帰っているのは1846年の事で、琉球国にやって来て開国を求めたフランス船に対応するためでした。この時、斉彬は琉球王に対して、交易と交際だけは認め、キリスト教の布教は認めないという方針を示し、見事に事を納めています。もし、西郷が斉彬の人となりを知ったとすれば、この事件の際かと思われます。

斉彬は非常に優れた人で、同時代の人々にも英明な人物として高く評価されていました。しかし、藩主となったのは当時としては異例に遅い43歳の時で、その理由は父である斉興が容易に後を譲らなかったからでした。その理由としては、ドラマで軽く触れられていた様に斉彬が薩摩藩の能力を超えた改革をしようとし、藩を潰しかねない浪費家と見られていたからでした。薩摩藩はその少し前に五〇〇万両という膨大な借金を返済したばかりだったのですね。その斉彬がどうやって藩主となったかはこれから描かれるのでしょう。

次回からは大人になった西郷が登場する様ですね。やっせんぼと言われた西郷が、これからどの様に成長していくのか、楽しみにして待ちたいと思います。

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