新選組

2012.02.27

今日は「新選組の日」だそうですが

先日、左サイドバーのブログパーツを「今日は何の日」に更新しました。前のプロ野球速報のサービスが終了したため差し替えたのですが、まあ毎日色々な日があるものですね。たとえば今日は絆の日とあります。何でも、バレンタインデーとホワイトデーの中間にあたるこの日を、恋人同士の絆を深めて貰う日にしたいという事で結婚プランナー達が決めたのだとか。私はまた震災絡みかと思ったのですが、全然違いましたね。

で、他にもあるだろうかと調べてみたら、「新選組の日」とありました。ん、何だそれはと思ったのですが、更に調べてみると由来は二通りある様ですね。

一つは、新選組の前身である浪士組が結成された日であるとする説。

もう一つは、浪士組を会津藩お預かりにするよう建白書が提出された日であるとする説。

これなんですが、二つともおかしいのですよ。

まず、浪士組が結成された日をいつにするかは微妙なのですが、小石川伝通院に集合が掛けられたのが文久3年2月4日、編成が発表されたのが翌5日、江戸を発ったのが8日の事です。27日は既に京都に着いた後でした。

次いで、会津藩お預かりの建白書の件ですが、芹沢、近藤を初めとする京都残留者17名は、確かに会津藩に対して嘆願書を出しているのですが、それは3月10日の事です。それも会津藩に預かって欲しいとは一言も書かれて居らず、単に京都に残って将軍警護の任に当たりたいので、市中警護を命じて貰えば有り難いという内容でした。これが認められたのは3月12日の事ですね。また、壬生浪士組に新選組の名が与えられるのは、8月18日の事です。

手持ちの資料で調べた限りでは2月27日には特記すべき事件は何も起こっていないのですが、どこか私の知らない資料に何か書いてあるのかな。ちなみに、ウィキペディアの新選組の項には、浪士組が江戸を出立した日が2月27日となっていますね。これもどこから来た記述なんだろう。

「新選組の日」と言っても、良く判らない日が一人歩きをしているというのが今のところの感想です。

参考文献:「新選組始末記」 子母澤寛 「新選組2245日」 伊藤成郎 「新選組」 松浦玲 「新選組を歩く」 別冊歴史読本 「新選組全史」 木村幸比古

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2011.08.22

京都・洛中  海鮮茶屋 池田屋はなの舞 居酒屋編

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延暦寺に泊まった翌日、夏休みの締めとして家族で池田屋はなの舞に寄ってきました。以前に昼のランチを食べに入った事はあるのですが、夜の居酒屋としては初めてです。

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お盆という事もあってか店は繁盛しており、ほぼ満席でした。一つの小上がりをカーテンで仕切って二つに分けるという方式で席を増やしていましたね。まあ、飲んでしまえば隣の事なんて気にならないから、これでも問題はないのですが。

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最初に頼むドリンクで目に付いたのは、薄桜鬼とのコラボであるカクテルでした。ゲームのキャラクターにちなんだネーミングがされたカクテルで、例えばこれは「斎藤の志」というラムネベース&ジン&ソーダのカクテルです。ほとんどジュースと言って良い味で、うっかり調子に乗って飲み過ぎてしまいそうでしたよ。

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こちらははなの舞サラダ。いわゆる海鮮サラダで、わさびドレッシングとのコラボが美味しかったです。ただ、504円は少し高いんじゃないかしらん?

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これはたこわさ。どこにでもある定番メニューですが、ぴっりとしていてなかなか美味でした。ただ、料理全般に味が濃く、やはり若者向きですね。

池田屋は、居酒屋としてはまず標準的で、家族でも楽しめるという点では○でしたね。でも、やはり池田屋跡にあるという事は特別で、新選組ファンにとってはこれ以上ないというシチュエーションでした。次はやはり宵々山に来なくてはなりますまい。

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実は、この日は20歳になった息子と初めて来る居酒屋デビューなのでした。息子が生まれて以来、成人を迎えたら一緒に飲みに行きたいと妻と話していたのですが、それがやっと実現したのです。息子と飲めるというのは、うーん、何とも良いものですね。

実感としては20年も経ったとは思えないのですが、振り返ってみると確かにそれだけの年月が過ぎているのですよねえ。妻と二人して、ちょっぴり感慨に耽った夜でした。

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2011.06.03

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その6~

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(三条制札場跡)

(慶応2年8月、そのはよちよち歩きを始め、片言もしゃべれる様になっていた。鹿内はそのを溺愛した。溺愛しているという評判が隊内に流れると、誰もが鹿内を白眼視する様になった。彼らはみな、人並みな幸福の外にいる。妻子という幸福を持つ鹿内に対する嫉みから、鹿内に辛く当たった。また、鹿内の印象が酷く小さく、貧相なものに変わっていた。何時の間にか、志士としての精神が萎んでいたのかもしれない。)

このあたりの鹿内の描写は、吉村貫一郎の姿を彷彿とさせます。彼は故郷に5人の妻子を残してきており、その家族に宛てた送金をずっと続けていたと伝えられています。無論、家族構成は全く違っていますが、妻子をそこまで大事にしたという隊士は異色の存在ですからね、作者はやはり意識していた事でしょう。

ちなみに、吉村に本当に妻子が居たかどうかについては確証は無い様です。確認出来るのは兄夫婦とその子ども達だけで、送金が事実だったとすればその甥や姪に宛てたものだったのでしょうか。

(8月29日の夜、三条大橋の袂にある制札場の制札が、何者かに抜かれて黒く塗りつぶされ、鴨川に捨てられるという事件が起こった。制札に書かれていたのは、長州人を見つけたら直ちに知らせる事、そうすれば褒美を与えるが、もし匿ったりしたら朝敵とみなすというものであった。この制札を捨てるという事は、幕府に対する侮辱である。)

(奉行所ではやむなく制札を新調して立てたが、またしても塗りつぶして捨てられた。これを何度が繰り返したが、奉行所の手に余るという事で新選組に取り締まりを依頼した。)

(下手人は、長州藩に同情的な土佐藩士か、それに同調する過激浪士だろうと推察された。うわさでは10数人という大人数であるという。)

(近藤と土方は原田の十番隊に出動を命じ、さらに剣術師範数名を応援に付けた。土方はさら、探索方として鹿内と橋本会助を指名した。)

(原田は隊を三つに分けた。一班を三条小橋東畔北側にある酒店に詰めさせ、二班を三条大橋東詰の茶店の奥に待機させた。そして自らは主力10人を率いて先斗町の町会所に陣取った。二人の探索者は、三条大橋の上で菰を被った乞食に変装して座った。)

(数日は何事もなかった。夜更けと共にこの態勢を解いて解散し、日暮れと共に再びこの態勢に入った。)

(9月12日の夜、空は数辺の雲が掛かるだけの晴夜だった。午後十時を過ぎる頃には月が沖天に掛かり、あたりを真昼の様に照らした。鹿内は菰の中で脇差し一本を抱いて座っている。時折、雲が月を隠す度にほっとした。闇だけが鹿内を守ってくれるのである。)

(雲が去って月が鹿内を照らし出した時、南から声が沸き起こった。そして、河原伝いに足音が聞こて来る。鹿内は人影が八つ、九つと近付いてくるのを見た。)

(やがて人影は鹿内のところにやってきた。彼らは宮川助五郎、藤崎吉五郎、安藤謙治ら八名の土佐藩士であった。彼らは鹿内をただの乞食と見て、銅銭を投げてよこした。鹿内は立ち上がって、先斗町会所にまで知らせようとした。それが彼に科せられた役目である。しかし、胴が震えて腰が橋板に吸い付いた様に動かなかった。)

(彼の脳裏には小つるの顔が浮かんだ。そして、そのの甘酸っぱい肌の匂いが鼻に満ちた。彼は死を恐れた。今立ち上がっては、土佐者達になますの様に斬り殺されてしまう。)

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(先斗町会所跡)

(しかし、橋本は違った。彼は悠々と歩き出し、制札場を越えようとしている土佐者たちに良い月夜でございますとあいさつさえして通り過ぎた。彼が先斗町会所に知らせた事で、原田の隊が出動した。)

(橋の上では大乱闘になった。土佐藩士達は歴戦の勇士であり、必死に戦ったため新選組隊士も斬られた。しかし、やがて酒屋と茶店から応援が駆けつけると人数で上回り、新選組が有利となった。土佐藩士では、藤崎が原田に斬られて即死、安藤が重傷を負いながら逃げ延びたが、死を悟って河原町の路上で切腹、宮川は全身に傷を負って意識を失ったところを捕縛された。あとはいずれも深傷を負いながらも、河原に飛び降りるなどして四方に逃げ延びた。)

(事件後、京都守護職から感状と褒美が下され、事件で働いた者に与えられた。原田以下四名に20両、ほか五名に15両、さらに橋本には15両などである。しかし、鹿内は黙殺された。)

この事件は史実であり、経過はほぼこの小説のとおりでした。作者が下敷きにしたのは子母澤寛の新選組始末記であり、その元ネタは西村兼文が著した新撰組始末記にあります。

作者によって脚色されているのは鹿内が全く動けなかったという点で、新撰組始末記に依れば、臆した浅野は橋の上を通る事が出来ずに一旦河原へと降り、鴨川の中を渡って東詰の隊士達に知らせたとあります。この遠回りのために東詰の隊士達は出動が遅れ、手柄を逃したと苦情が出されたのでした。

一方の橋本は、土佐者を恐れずに西詰めの隊士に知らせたばかりでなく、戦闘にも加わって手柄を上げるという活躍をしており、浅野とは際だった違いを見せています。そして、浅野はこの不手際のために卑怯者として放逐されてしまったのでした。

ただし、疑問点はいくつもあって、まず浅野がこの事件に関与していたと記しているのは、新撰組始末記だけなのですよ。この事件について記した資料はいくつかあるのですが、そのどれもに浅野の名前は出て来ません。例えば永倉新八の「浪士文久報国記事」には探索方が居たとは記されていませんし、浅野の名前も書かれていないのです。そもそも、仮にも副長助勤を勤めた隊士に対して見張り役を命じたりするものかという疑問はどうしても残りますね。

また、浅野と橋本の二人が見張り役を勤めて居たとしての話になるのですが、土佐側の記録には「制札を引き抜こうとしたところ、橋の下に二人居て、河原を南へ走り行き」とあります。この記述からすると、河原に降りたのは浅野だけではなく橋本も一緒だったと推測されます。すると、浅野だけが卑怯者と誹られたという説明は成り立たない事になってきますよね。

どうにも浅野に関するエピソードは創作めいているのですが、小説の流れとしては見事に嵌っていると言えると思います。

(数日後、近藤は土方に「士道不覚悟」と言った。そうか、と土方は目を落とした。もはや鹿内には死を与える他は無い。後は誰に斬らせるかだけだった。)

(土方は原田を呼んだ。そして、君の隊に怯懦の者が居る、捨てておけば隊が腐ると言った。原田はなおも誰ですととぼけた。妻子を持った原田には、鹿内の気持ちが良く判ったのである。出来れば助けてやりたいと思った。)

原田は後に新選組と袂を分かって永倉と共に靖共隊を結成するのですが、江戸を離れてすぐに隊から離れてしまいます。その理由として永倉は妻子への愛着にひかされたためと記しており、京に残してきた妻のまさや長男の茂の下に帰りたかったのだろうと推測しています。

こうしてみると、鹿内のモデルは吉村と言うよりも原田自身だったのかなという気もしてきますね。妻が京都人で子が一人という設定は原田に重なるものなあ。

(しかし、土方は判らなければそれでよい、十番隊の士道不覚悟は不問に伏せておくと言った。これでは原田が士道不覚悟と同様の事になってしまう。当惑した原田は言い方が良くないと言いながら立ち上がった。)

(鹿内を自分が始末すると原田が言った。土方は討手を特に原田にした意味も判って貰えるだろうと言った。新選組と里心、この二つは氷炭のごとく相容れない、かつて土方はそう言っていた。家庭的な人情こそ、新選組を腐敗させると言いたかったのだろう。)

(原田は隊に戻り、巡察に出ると言った。同行を命じたのは鹿内と橋本である。橋本は既にこの巡察の内意を聞かされている。)

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(祇園石段下)

(祇園石段下まで来た時、登り給えと初めて原田は鹿内に声を駆けた。境内を突き抜ければ、真葛が原から祇園林に道が続いているる薄暮の刻限、人影が絶える事を原田は知っていた。)

(林の中に至った時、原田はこの巡察がどういう意味を持っているか判っていてくれると思う、抜き給えと鹿内に声を掛けた。鹿内は恐怖に駆られて刀の柄に手を掛けた。その時、原田の刀が右肩へと吸い込まれた。)

(仰向けに倒れながら、なお意識があった。すべてはこの林の中から始まったのだと思った。原田は橋本に止めをと命じた。橋本の刀が逆しまに垂れた。その刀を鹿内は見ていた。そしてその切っ先が胸に吸い込まれた時、全てが終わった。)

浅野の最後についてはいくつか説があります。

1.永倉新八の「同志連名記」
 理由は判りませんが、島原で斬首と記しています。

2.西村兼文の「新撰組始末記」
 勝手に金策を行った事が発覚したため、沖田総司により葛野郡川勝村で斬られた。

3.史談会における阿部十郎の談話。
 伊東甲子太郎が御陵衛士として分離したあと浅野も脱走し、伊東を頼って来た。しかし、新選組との約束で新選組からの脱走者は受け入れる事が出来なかったため、これを山科に匿い、土佐へ落とす算段をしていた。ところがその途中で浅野は近藤を説き伏せる積もりで出かけたが近藤が不在で、沖田総司が桂川へ行って斬ってしまった。

この中では阿部十郎の話が最も信頼出来そうなのですが、なぜ近藤に会いに行ったのかは説明されておらず、依然として謎は残ります。また、御陵衛士を結成したばかりの伊東が土佐にチャンネルを持っていたのかという点にも疑問がありますね。

いずれにせよ、生涯を全うする事無く、非業の死を遂げたという事は確かな様です。

一方、吉村貫一郎については壬生義士伝に描かれていたとおりで、鳥羽伏見の戦いの後、新選組を離れて南部藩の大坂屋敷を訪れたとされています。そこで旧知の留守居役に会い、これまでは新選組にあって幕府のために戦ってきたが、これからは勤皇のために働きたいと言って帰参を願ったのでした。

ところが、あまりに軽々しく転向を口にするとは卑怯、未練と咎められ、座敷を貸すので自決してはどうかと迫られます。窮した吉村は悩み抜いた挙げ句、介錯もないまま一人で切腹して果てたのでした。そして、床の間には、彼の小刀と二分金10枚ばかりが置いてあり、これを家族の下へ送って欲しいと書き残してあったとされています。最後まで家族を思いやったという、いかにも吉村らしい最後ではありますね。

もっともこの吉村の最後については、旧知の留守居役とされる大野という人物が実在して居ない事、この話を伝えたのがその大野の孫娘であるとされる事から、信憑性が疑われています。この話は大筋を西村兼文が記し、子母澤寛がさらに詳しく書いているのですが、両者による創作である可能性は捨てられないですね。

さらに原田については、妻子の下に帰るべく江戸までは戻ったものの、とても京都へ帰れるという状況には無く、やむなく彰義隊に加入して戦う道を選びました。そして一隊士として戦い、銃弾に撃たれて果てたとも、三人の敵と渡り合い、二人までは倒して戦死したとも伝わります。

そして別の説では、彰義隊の戦いを生き延びた原田は大陸に渡って馬賊の頭領となって活躍し、後年勃発した日露戦争では日本軍と協力して戦ったとも言われます。

臆病者、卑怯者というレッテルを貼られてしまった浅野薫と吉村貫一郎、勇者として振る舞いながら最後は家族の下へ帰ろうとした原田左之助、新選組にあっては異色と言える三人を巧みに組み合わせて創作した鹿内という人物は、ひどく人間くさく、それだけにごく身近に感じられるキャラクターとして生きている様に思われます。

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2011.06.02

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その5~

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(平成21年7月、はなの舞開店当時の池田屋跡)

(高倉御池の八幡宮の境内を抜け、姉小路にまで出た時にやっと追手からまぬがれる事が出来た。木屋町に行かなくてはと思ったが、組下の平野と神田が居ない。鹿内は懸命に探し、上本能寺町という辻で死体になっている二人を見つけた。彼は呆然となりながらも、近くの本能寺の門番を叩き起こして死体の始末をさせ、自分は三条通を木屋町へと急いだ。)

薩摩藩士達に囲まれたのは二条富小路のあたりでしたから、高倉御池にまで逃げたという事は目的地の木屋町とは反対側に走った事になります。まあ、相手に背中を向けたのだからそうなるのかな。

高倉御池の八幡宮とは、御所八幡宮の事でしょうか。足利家ゆかりの神社で、今でもビル群に挟まれる様にして小さな社が残っています。江戸の頃にはもう少し東北側、現在の御池通の真ん中に位置していたらしく、境内も今よりは広かった様です。現在の位置に移ったのは戦時中に強制疎開があったためで、戦後は明け渡した土地が道路となっしまい、境内が元に戻る事はありませんでした。

一方、上本能寺町というのは今の京都市役所がある付近です。二条富小路からは東南にあたり、平野と神田は鹿内とは反対側に逃げたという事になりますね。本能寺はすぐ南隣になりますから、話の辻褄は合う事にはなる様です。

(会所では、鉢金を被り、和泉守兼定を膝の上に横たえた土方が待っていた。その姿は、鹿内には鬼神の様に思えた。来着の意を告げる鹿内を不審気に見る土方。鹿内の顔が幽鬼の様に蒼ざめていたのである。不覚でございましたと言う鹿内を制して、後で聞くとだけ答える土方。彼は平野と神田が逃げ出したと察したが、隊士の士気を考えてあえて触れなかったのである。)

ここの土方の描写は見事ですね。先程の優しさを見せた土方とは違って、まさに鬼の副長と言うべき姿に変貌しています。鹿内の心象風景と言うべきなのでしょうけれども、つい先刻までは最も信頼の置ける上司だった存在が、誰よりも恐ろしい相手に変わってしまっていたのでした。無論、その原因は鹿内の側にある訳ですけどね、ここから始まる彼の転落を予感させるには十分な光景です。

(やがて刻限になり、土方以下の隊士が疾風の様に駆け出した。土方は鴨川に面した裏口を押さえ、木屋町の南北を固め、自身は数人の隊士を引き連れただけで丹虎に押し入った。しかし、問題の激徒は一人も居なかった。)

(やはり池田屋かと察した土方は、三方に分かれた隊を呼び集め、池田屋へと向かった。しかし、夜分の事ゆえ、相当の時間を要している。この間、池田屋では近藤達が浪士を相手に勝敗不明の戦いを続けていた。)

(隊士を呼び集めた時、土方は緊張した面持ちの中に、一人だけ違う表情を見つけた。鹿内、と思ったが土方はすぐに先頭を駆け出した。)

(池田屋では、隊士の一人一人が阿修羅の様に戦った。近藤は隊士とすれ違いう都度に、おう、と励ましの言葉を掛けて行ったが、鹿内と出会う場所にはなぜか敵がいなかった。そして、最後に会った時には、鹿内から隠れる様にして消えてしまった。)

史実の浅野については、事件後の彼の刀は左に曲がっていたと言われ、相当な戦いを繰り広げたと想像されます。しかし、新選組!では、他の隊士が着られる中、一人植え込みに隠れて震えていたという描写をされており、その元を辿ればこの小説に行き着くのではないかと考えられます。事実とは180度違う評価を着せられている訳で、あまりにも可哀想なのではないかと思いますね。

(上本能寺で平野と神田が斬られた件については、鹿内の申し立てにより不問に付された。多数を相手に戦ったが、及ばすに二人斬られた。当方も数人は斬ったが木屋町への集合時間が迫っていたので、闘争の場所を捨てて会所へと向かった。しかし、鹿内はこの嘘を付き通せる人間ではなかった。)

(小つるに会い、子供が出来た事で自分は変わったらしい。かつての自分なら薩摩藩士に取り囲まれた時にも、及ばずながらも踏みとどまって斬り死した事だろう。しかし、魔が差した。)

(原田も同じ境遇に居た。しかし、彼は別の種類の人間だったらしく、一段と命知らずの原田という本領を発揮している。)

(鹿内は、小つるに逃げようと言った。しかし、小つるは不思議な顔をて、どうやって食べていくのかと聞くばかりであった。京の女は男を好いても惚れぬと言う。男と心中だてをする様な女は一人も居なかった。)

京の女という記述がありますが、これは花街の中での事でしょうね。花街の女性達は客あしらいのプロですから、言い寄ってくる相手にいちいち本気で関わったりはしません。しかし、そこは客商売ですから、相手を良い気持ちにさせてやる手練手管は駆使します。そのあたりの機微を表現したのが京女云々という言い回しなのでしょう。決して一般論では無い事は確かです。

(田舎は嫌だと小つるは言う。南部に逃げようと鹿内は言ったが、嫌だと一言の下に断られた。鹿内の話は面白かったが、そんな田舎に生まれずに済んだという幸福感が彼女を笑わせていたのである。)

(数日後、隊の編成変えがあった。助勤制が廃止になり、幹部は組長、伍長、観察、武芸師範頭という事になった。助勤の多くは新編成の幹部になったが、鹿内の名はどこにも無かった。この事は鹿内を絶望的にさせた。)

浅野は池田屋事件の後、あけぼの亭事件や佐久間象山の息子、三浦敬之助の松代藩帰参運動などに関わりを持った後、忽然と消息を絶ってしまいます。一説には敬之助の帰参運動を近藤に無断で行った事を咎められ、謹慎または降格の憂き目にあったのではないかと言われますが、定かではありません。この作品は、そうした経過を上手く使っているという気がします。

(それとなく原田に理由を聞いてみたが、原田は知らなかった。原田は土方に確かめたが、知らんの一言で済まされてしまった。)

(土方がこういう言い方をしたのには理由があった。近藤が鹿内を怯懦だと言って、酷く嫌う様になっていたのである。助勤から外れたのはそのせいだったが、もしこの事を公言すればこの組織にあっては死に値する事になる。土方はまだこの奥州武士に対する愛情を残していたのである。もう一度機会を与えよう、土方はそう考えていた。)

新選組にあっては臆病は死に値するとありますが、隊士としての評価は最低にはなるものの、殺されはしなかった様です。ではどうなるかと言うと、追放されたのですね。新撰組始末記には川島勝治と他ならぬ浅野自身が臆病ゆえに追放されたと記されており、こうした処分が行われていた事が判ります。浅野が臆病者のレッテルを貼られている根本の原因は、この記述にあると言っても良いのでしょう。

しかし、この追放という処分は武士としての名誉を剥奪されたも同然と言って良く、当時の武士にとってはある意味死ぬよりつらい仕打ちだったのかも知れません。

ちなみに、この二人は池田屋事件の時に探索方として活躍したとされており、同じ末路を辿ったというのは因果の様な気がします。もっとも、あまりにも経歴が似すぎていて、西村兼文による創作くさいという気もするのですけどね。

(慶応元年正月、小つるは女の子を産んだ。鹿内に似た、目の綺麗な子供だった。鹿内は祖母の名を取って加穂と名付けたかったが、小つるは田舎くさいと反対した。そして、小つるは祇園社の禰宜に頼んで、その、と名付けた。)

加穂という名前は随分と現代的な気がしますけどね、江戸時代では田舎くさい名前だったのでしょうか。このあたりは流行の様なもので、今でも10年、20年のうちにはがらりと変わりますから、何とも言えないところなのかな。

イメージとしては、そのという名前は幕末ぽっいという感じはしますね。

以下、明日に続きます。

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2011.06.01

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その4~

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(丹虎跡)

(助勤に抜擢された鹿内に小さな変化が現れた。元治元年6月の池田屋事件の時の事である。)

(この時、新選組は2隊に別れた。一組は近藤が6人を率いて池田屋に向かい、土方が20数名を率いて木屋町三条上がるの丹虎に向かう手筈となった。この理由は、この日の最後に入った情報では、浪士達の会合は丹虎で行われるという見方が強くなったためである。鹿内は土方隊に入った。)

池田屋事件の時、近藤隊が池田屋へ、そして土方隊が真っ直ぐに丹虎に向ったという事実は無い事は以前に書いたとおりです。ただし、効率良く探索をするために隊を分けたのは事実で、近藤が率いていたのは10人、土方が率いたのは24人でした。土方隊の方が人数が多いのは、より広い祇園町を受け持ったためで、その土方隊の中に井上源三郎を長とする11人の分隊が存在した事も以前に記したとおりですね。

(この丹虎には、かつて土佐の武市半平太が起居していた事があり、過激浪士の巣窟だった場所でもある。武市はここから佐幕派要人の暗殺を指揮していたとも言われている。)

武市半平太については、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で取り上げられており、その事績を記憶されている方も多いかと思われます。武市がここに居を構えたのは文久2年閏8月の事で、翌文久3年4月に土佐に帰るまで住処としていたと思われます。丁度新選組の登場とは入れ替わりになっていますね。

彼がここで天誅に手を染めていたのは文久2年閏8月から同9月にかけての事で、案外短いですね。その間に明確に関与したとされる天誅は、本間精一郎、目明かし文吉、与力・渡辺金三郎ほか3名などです。

彼が天誅から手を引いたのは時の関白から目に余る天誅は控えよと諭されたからと言われ、以後直接関与する事はなくなった様です。しかし、天誅そのものはその後も横行しており、印象としては半平太が全て裏で糸を引いていたかの様に見えてしまいますね。このあたりが、一度暗殺に手を染めてしまった者にまとわりつく因果というものでしょうか。

(鹿内が土方隊に入ったのは、土方のはからいに依るものらしかった。土方は鹿内の鎖帷子のほころびに気付き、自ら蔵に足を運んで新しい着込みを持って来てやった。普段隊士に親しみを見せた事がない土方にしては異例の事であり、鹿内は激しく感動した。)

モデルとなっている浅野について言えば、池田屋事件では近藤隊に属していました。報奨金が20両と多いからで、土方隊に居れば17両だったはずです。ただし、屋内への斬り込み隊には入っておらず、谷万太郎、そして武田観柳斉と共に表口の固めをしていたものと推測されています。なぜ裏口ではなく表口だったかと言うと、死亡した安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門が裏口を固めていたと考えられるからで、彼らは長州藩邸への脱出を目指す志士たちの殺到を受けて倒されてしまったと推測されているのです。

(隊はさらに三人一組に分けられ、鹿内はそのうちの一組の指揮者となった。午後8時、それぞれの組は壬生の屯所を後にした。各組は道を違えて木屋町に行き、その会所に集合するという手筈になっていた。そして、それまでは一切を隠密にせよと命じられていた。)

当日集合したのは木屋町会所ではなく祇園会所でした。どうやって多数の隊士が屯所から祇園までたどり着いたのかは判っていませんが、目立つ行動は取りたくなかったでしょうから、三々五々という形で、ばらばらになって祇園を目指したであろうとは推測出来ますね。

(鹿内組は、釜座通を北上し、二条通を東に折れた。この日は祇園祭の宵々山に当たっていたが、このあたりまでは喧噪は及んでおらず無人の町の様に静かだった。彼の配下は摂州浪人の平野と神田とだった。彼らは隊内でも臆病で知られており、恐怖を紛らわす為に堰を切った様にしゃべり始めた。寡黙な奥州人である鹿内は、饒舌なこの上方人に対して好意は持っていない。)

隊士達が屯所を出たグループごとに道を変えたという事も考えられる事ではありますが、それにしても鹿内の選んだ道は変わりすぎています。何で釜座通なのでしょうね。

この釜座通は今の京都府庁の正面へと繋がっている道で、かつては京都守護職邸へと通じていた道でもあります。新選組にとっては馴染みのある道だったとも言えるけれども、この道は六角通から始まるのですよ。

屯所があった壬生は四条通の近くですが、その道からは直接釜座通に入る事は出来ないのですね。つまり、まずは西洞院通以西の道を北上する事から始めなくてはなりません。そして六角通に来るとそこを右折して東に進み、今度は釜座通を左折して再び北上を開始し、二条通に来るとまた右折したという経路になるのです。いくら何でも念の入れすぎではないのかしらん?

(今夜の相手は何人でしょうと平野が問い掛けてきた。鹿内は良くは判らないが、一説には100人とも言うと答えた。平野達は恐怖のあまり沈黙した。鹿内は上方人達に対して、小さな優越感を感じた。)

この平野と神田という隊士は実在しておらず、この作品における創作です。作者は大阪の人にも関わらず、大坂の武士には点が辛いのですね。例えば一連の作品の中で、谷三十郎については近藤が心底嫌い抜いた惰弱な武士として描いていますし、大坂者は隊士として使ってはいけないとまで言わしめています。

まあ、そこは商人の町ですから荒事には向かないと言う伝統がありますし、かつて大阪の連隊は日本最弱という評判を取ったと聞きますから、およそ大阪人は戦いには向かないという事を身に染みて知っていたとも言えるかも知れません。でも、かなりの偏見だという気もするのですけどね。

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(二条富小路付近)

(富小路の川越藩邸を越えた時、路上に道を埋め尽くす程の群れを見た。後で判ったところによると、西陣の浄福寺に屯集していた薩摩藩の檄徒10数人であり、市中に飲みに出かけての帰りがけだった。彼らは公武合体派の藩上層部とは違い長州藩的な過激思想の持ち主であり、時に黒谷の会津本陣に押しかけては藩士に喧嘩をうっているという連中であった。)

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(浄福寺)

浄福寺党と呼ばれる薩摩藩の一団が居た事は確かな様です。この小説にある様に過激な若手が中心だったらしく、今でも寺の柱に刀傷が沢山残っているそうですね。ただ、彼らが上洛したのはずっと後の事で、慶応3年3月の頃だったとされます。

彼らは四賢侯会議に出席する島津久光公に率いられてきた700人の兵卒の一部で、既にあった薩摩藩京都藩邸では収容仕切れなかった事から西陣の浄福寺を借りて住まわせたのです。薩摩藩の生きの良い若手の集団ですから、ささぞかし荒っぽい連中だった事でしょうね。もっとも、彼らが黒谷まで出かけていって、会津藩に喧嘩を売っていたかどうかまでは定かではありません。

(鹿内たちは路上で彼らの波に呑まれてしまった。彼らは提灯も持っていない鹿内達を見て不審がり、何藩の者かと尋ねてきた。普段なら新選組であると答えるところだが、この夜に限っては言う事が出来ない。鹿内は南部なまりで怪しい者ではないと答えたが、彼らは会津藩だと躍り上がる様に言った。薩摩人にとっては、南部なまりも会津なまりも同じように聞こえたのである。)

(平野達は口々に違うと言った。しかし、では何藩だと聞かれても答える事が出来ない。彼らは恐怖に駆られて逃げ出した。不覚にも鹿内もまた彼らの後を追った。鹿内の背後から一太刀が浴びせられた。鎖のおかげで斬られはしなかったが、羽織が縦に裂けてしまった。鹿内はかつてない程の恐怖を感じた。)

(鹿内は夢中で駆けた。その後を薩摩人達が足音を轟かせて追ってくる。その数は7人や8人ではない。時々、猿叫と呼ばれるきゃーというかけ声と共に斬りかかってくる。鹿内はその都度避けたが、足がもつれて思う様には走れない。)

(鹿内は小つるを想った。自分が死ねば小つるとその胎内の子はどうなるのだろう、そう思った瞬間に新たな恐怖が沸き起こった。勇気と廉恥ある心映えこそ奥州人の誇りであると信じていた鹿内はもはや居なかった。自分の無様な逃げ方を、恥ずかしいと顧みる機能は彼の中から無くなっていた。)

池田屋事件の時、参集する隊士が事故に巻き込まれたという事実は無く、この下りは完全な創作です。でも、勇敢だった鹿内が豹変するきっかけとしては上手い描き方で、惰弱な大坂者をきっかけに使い、剽悍な薩摩人を恐怖の火だねとして効果的に配し、鹿内自身が気付かぬうちに変質していた内面を露わにするという手法は見事だと思います。

以下、明日に続きます。

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2011.05.31

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その3~

(慶長19年の大坂の陣の時、時の殿様である南部利直は家康から出陣を命じられた。南部の武士が100騎、200騎と群れをなして上方の地を踏んだのは、これが最初で最後の経験だと言う。)

(しかし、その内実はそんなに勇壮なものではなかった。奥州から見れば、上方は雲煙たなびくはるかな地であり、従軍を辞退する者が続出したのである。ある者は仮病を使い、ある者は暇を願って帰農した。ほとんど動員が不可能になった殿様は、窮余の策として蝦夷を雇った。)

(殿様は、上方に行くとは言わず、甘言をもって彼らを誘い、足軽の格好をさせて大坂にまで連れて行った。大坂の陣での攻め口は加賀前田藩の右翼で、平野川の西岸に布陣した。)

(蝦夷と言えば勇敢で知られる伝説的な種族だった。南部藩では、内心彼らの剽悍な戦い振りを期待していた。ところがいざ戦いが始まってみると、鉄砲の音に驚いた蝦夷達は四方八方に逃げ散ってしまった。彼らにしてみれば、火薬の爆発音というのは初めての経験だったのである。南部の武士達は、戦どころか、彼らを捕まえに走る事で精一杯だった。)

南部氏は確かに大坂の陣に参戦していますが、その時に蝦夷の民を連れてきていたかどうかは定かではありません。話としては面白いのですが、調べた限りでは根拠は無いようですね。でも、地元に行けばそういう話が残っているのかも知れません。

奥州の軍勢が上方に現れたのはこれが最初で最後だとありますが、南北朝の頃に南朝方の戦力として活躍したという説がある様です。それ以外は義経の時代には実力はあったのに攻めてこなかったし、ずっと下って関ヶ原にも参戦していないですね。確かに奥州の軍勢が上方に現れるたのは、きわめて異例の事だったと言えるのかも知れません。

(鹿内は自分の故郷はそういう土地だと言って可笑しそうに笑い、その南部人が花の都に来て今あなたの目の前に居ると言ってまた笑った。小つるは、思い切って好きどすと言った。しかし、鹿内は顔を赤らめただけだった。長い沈黙の後、ようやく鹿内は小つるを押し倒した。)

(鹿内は所帯を持とうとこつるに言った。身寄りの無い小つるには、所帯という言葉が激しく響いた。鹿内に抱かれながら、小つるは様々に計算した。髪結いで貯めた小金があれば貸家の敷金にはなる。隊の手当てがあれば、日々の暮らしも成り立つ。鹿内が助勤になるまでは、非番の時に通ってくるかくし妻でも良い。)

(鹿内に聞くと、隊の手当ては月によって違うが3両はあると言う。それならやっていけるのではないかと言うと、鹿内は躍り上がる様な声を上げて喜んだ。)

隊士の手当ての額については諸説があって、はっきりした事は判っていません。新選組始末記には、局長が50両、副長助勤が30両、平隊士が10両だったとありますが、これは少し多すぎる様です。実際には時期によって異なっていたらしく、壬生の頃には一人あたり3両だったと言われています。まさに、この小説の額と一致していますね。

原田がまさと所帯を持った頃は、原田は月に10両から15両を手渡してくれ、さらに三度の食事も局の賄い方が炊きだしをして、岡持に入れて配っていてくれていたそうです。これは副長助勤の場合であり、かつ原田が自分の取り分を別にしていた可能性もありますから一概には言えないけれども、最盛期にはまずまずの高給取りだったと言えるのかも知れません。

(小つるは、出入りの茶屋や贔屓にしてくれた芸妓の置屋を一軒一軒回って、仕事を辞めるあいさつをして回った。ただ、所帯を持つとは言わず、体の調子が優れないとたげ言った。)

(二人は七条を下がった塩小路に手頃な家を見つけて所帯を持った。ほどなく新選組の隊士が増員になり、鹿内は助勤に抜擢され、暮らしも楽になった。原田も嬉しかろうと喜んでくれた。)

新選組の隊士募集については各時期によって隊士に増減があるため実施されていたと思われますが、いつとは明確には判りません。浅野について言えば、池田屋事件直前には調役並監察に就いていたと思われます。ただし、島田魁の日誌に島田と共に探索をしていたとある事からの推測で、明確に記された資料がある訳ではありません。

また、永倉新八が記した同志連名記には副長助勤と記されており、もしかすると池田屋事件後に助勤となっていた可能性もあります。いずれにしても、池田屋事件の際に副長助勤として参戦したとは考えにくい状況ではありますね。

なお、吉村貫一郎については慶応元年4月の入隊とされていますので、この時期にはまだ隊士とはなっていませんでした。

以下、明日に続きます。

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2011.05.30

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その2~

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(小つるは祇園町の髪結いだった。住まいは建仁寺町の路地奥にあった。鹿内とはその後三度逢い、その都度祇園林の茶屋に行った。しかし、鹿内は故郷の話を面白可笑しく話すだけで、小つるの手も握らなかった。)

今は祇園町と言えば写真の花見小路周辺をイメージする人が多いでしょうけど、ここが開けたのは明治以降の事で、幕末の頃までは主として四条通以北が賑わっていました。南側はと言えば、四条通に沿って水茶屋などが軒を並べていた様ですね。

一方、建仁寺町という地名は今の地図では見あたりませんが、かつては大和大路通以東、四条通から南側一帯を指す地名だった様です。要するに上の写真の界隈一帯がそうで、主として建仁寺の境内になっていました。ただ、その周辺では江戸時代の半ばから宅地開発が進んでいたらしく、町家も多く建てられていた様ですね。

つまり、小つるは今の祇園町北側の置屋などを得意先とし、住まいは南側の町家の中にあったというイメージになるのでしょうか。

(こつるは鹿内を観察するのが楽しかった。鹿内がこつると会ってから際だって変わったのが服装である。粗末な紋服は止めて、黒羽二重の羽織袷を着る様になっていた。ただ、袴までは手が回らないらしく、相変わらず薄汚れた小倉の白袴のままだった。)

(小つるは、仙台平の袴を仕立ててやった。四度目に逢った時、鹿内に穿かせてみた。堂々とした体躯の彼にはとてもよく似合っていた。)

前回吉村貫一郎からは、その出身地だけを拝借したのだろうと書いてしまいましたが、そうではなかったですね。この堂々とした体躯という描写は、新選組始末記にある「背の高いしっかりした体格」という記述から来ている様です。小つるが最初に鹿内に会った場面で、鹿内が「長い足を草の中に投げ出している」という描写があるのも、同じでしょうね。

(鹿内の変化に気付いたのは、小つるだけではなかった。彼の組頭である原田左之助もまた鹿内を良く見ていた。)

(原田は気の荒い一徹者として知られている。しかし、彼は鹿内の剛胆さを愛していた。)

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(元治元年三月、長州系の浪士十数人が、密かに入京して来た事がある。探索の結果、彼らは寺町丸太町の伊吹屋という旅籠に泊まっているらしい事が判った。原田は組下の者を率いて急襲したのだが、浪士達は既に出立しており、空振りに終わった。しかし、鹿内は浪士達はまたここに戻って来るのではないかと思い、原田にその旨を具申した。原田はまさかと思いながらも、土方に取り次いでやった。土方もまた鹿内に好意を寄せており、手柄を立てさせてやれと言って、隊の機密費を渡してやった。)

(鹿内は、奥州塩竃の禰宜に変装し、伊吹屋に泊まった。待つ事15日、果たして四人の浪士達が舞い戻って来た。宿の亭主に以前と同じ浪士と確かめた鹿内は、小者を使って隊に知らせると共に監視を続けた。ところが、夜になると浪士達は出立の用意を始めた。)

(鹿内は意を決して廊下に出、浪士達の部屋の唐紙を開けた。驚いて振り向く彼らに、新選組の鹿内というものだと名乗ると、ぱっと抜き打ちに斬ってきた。鹿内はその相手を一刀の下に倒した。以下、乱闘になった。)

(鹿内は室内戦となる事を考慮し、一尺九寸という長脇差を使っていた。その脇差で三人までは倒した。後の一人は窓の手すりを乗り越えて、外の丸太町へと飛び降りた。その敵が待ちかまえている事を知った鹿内は、脇差を投げつけて怯ませた隙に地上に降り立った。切り結ぶ内に突きに転じようとした時、刀のぼうしが欠けている事に気付いた。鹿内は、やめだと言って刀を引いた。相手はほっとして逃げ出して行った。)

(土方は鹿内の功績を大とし、すぐに助勤に昇格させようとしたが、近藤が同意しなかった。その理由は、鹿内の風采が上がらなかった事、そしていざと言う時に聞き取りにくい程の奥州なまりがあるため、指揮役は無理だろうという事であった。)

上の写真は今の(と言っても3年ほど前に撮ったものですが)寺町丸太町の様子です。当然ながら伊吹屋という宿はなく、何の変哲もない街角といったところでしょうか。場所としては京都御苑の東南角にあたり、近くには下御霊神社があります。

浪士達が朝廷工作のために潜入したとするならロケーション的には悪くないのですが、御所の周辺は警備の最重点区域だったはずであり、あまりに大胆に過ぎる行動と言うべきでしょうか。無論こんな事件は実際には無く、作者による創作である事は言うまでもありませんが、モデルとなった浅野薫は探索方を努めていた事があり、その経歴を下敷きにしているのかも知れませんね。

また、剣の達人という描写は、吉村が剣術師範頭を勤めていた事を踏まえているのかも知れません。元来が医者で、かつ学才に長けていたという浅野よりも、この颯爽とした姿は吉村にこそ相応しいという気もします。

(その鹿内が人変わりした様に垢抜けてきている事に、原田は不審を覚えた。しかし、彼には女が出来たのだろうという見当も付いていた。彼自身、仏光寺の仏具商の娘、おまさと所帯を持ったばかりであり、既におまさの腹には子が宿っていた。)

(土方もまた、鹿内の働きぶりが冴えてきている事に気付いていた。土方は原田にその事を言い、原田は女が出来ているらしいと答えた。土方は女はほどほどな薬になるらしいと言い、この事が隊内に広まり、以後鹿内の女を薬と呼ぶ様になった。)

(しかし、鹿内は小つるの手にも触れていない。奥州生まれの彼には王城の地の女という幻想があり、むくつけく振る舞って嫌われる事を恐れた。だから話ばかりをし、服装もあらためた、ただそれだけのことであった。)

原田の妻がまさという名であった事は良く知られています。新選組!ではぜんざい屋を切り盛りしていましたが、実際には仏光寺通堀川東入るに住んでいた菅原長兵衛という町人の二女でした。菅原家は名字帯刀を許されていた由緒正しい家柄で、高嶋屋という屋号で商いを営んでいました。ただし、それが仏具商であったかどうかは定かではありません。また、原田がどうやってまさと知り合ったのかも謎ですね。

まさは当時18歳、原田は26歳でした。ただし、所帯を持ったのは屯所が西本願寺に移った直後とされている事から、慶応元年3月か4月ごろと推定されます。この小説ではまだ池田屋事件が起きる前に設定されていますから、1年近く時期が合わない事になりますね。

以下、明日に続きます。

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2011.05.28

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その1~

私事ではありますが、今週末は雷雨を伴った大雨が降るというので、京都行きは自粛しました。結果的にはそれほど降らなかったので行けば良かったのですけどね、天気予報に脅されすぎました。

それはさておき、今日から次の金曜日にかけては新選組血風録の風景として、「胡沙笛を吹く武士」の回をお届けします。BS時代劇では既に放送が終わった回なのですが、ドラマの演出との違いも合わせて楽しんでいただけたらと思います。

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(祇園林の東側に真葛ケ原がある。東山の山懐にあり、京の町が一望に見える高台である。慶応2年1月2日、小つるは母の月命日に長楽寺へ詣でる為に、踏み石を点々と据えただけの急斜面の石畳を上った。「濡れて紅葉の長楽寺」と唄われるあの寺である。)

この回は、冒頭からおかしな表記がされています。それは年月日の表示で、どう考えても慶応2年というのは辻褄が合っていません。史実と言う以前に小説の中の時系列からして明かで、主人公が小つると出会って所帯を持ったのが元治元年の池田屋事件の前、子供が生まれたのが慶応元年正月、そして最後を迎えたのが慶応2年の9月頃として描かれています。正しくは文久4年1月2日とすべきなのでしょうね。用意周到な作者が、何でこんな単純なミスを冒したのか理解に苦しむところです。

それはともかくとして、「濡れて紅葉の長楽寺」の歌詞がある唄とは、京の四季という端唄ですね。長い歌詞ですがその付近を記せば、

「真葛が原にそよそよと 秋ぞ色増す華頂山
   時雨をいとう唐傘に 濡れて紅葉の長楽寺」

となります。

ここで言う真葛が原とは、今の円山公園音楽堂のあたりを中心として、北は知恩院三門のあたり、南は高台寺との境、西は下河原町との境あたりまでの地域を指したと思われます。その名のごとく葛や茅の生い茂る原野であり、東山から流れ出る菊渓川の氾濫原でした。

現在はほとんどが公園化されており、往時の面影は見あたらないと言って良いでしょう。わずかに双林寺の石碑に記されているほかは、大雲院の中にある真葛荘という別荘にその名を止めている程度でしょうか。そう言えば、狂言の「つくづくし」に、慈円作の真葛が原の和歌が使われていましたね。

一方の長楽寺は、端唄にもあるとおり紅葉の名所として知られている寺です。この小説でも静かな寺と書かれていますが、今でも訪れる人は少なく、何時行っても混み合うという事は無い場所です。東山の中の穴場の一つと言っても良いかも知れません。ただ、来年の大河ドラマは平清盛が主人公ですから、建礼門院縁のこの寺は注目を集める事になるかも、です。

全くの余談ですが、近くには祇園女御の住居跡や西行縁の西行堂があり、さらには忠盛灯籠がある八坂神社がありますから、全てをセットにして売り出すなんていう事もありうるかも知れませんね。

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(小つるはお参りを済ますと、石段を下ろうとした。すると右手にある冬枯れの林の中から奇妙な音曲を耳にした。狐狸かと思ったが、まだ昼下がりである事もあり、恐ろしさに堪えて音曲を聴いた。その音曲が笛の音である事は判ったが、都で聞くどの楽器とも違う音色であり、嫋々とした悲しみが籠もっていた。小つるはおそろしくなって寺へと引き返した。)

(寺の僧は、御所か本願寺の伶人だろう、誰も居ないこの林に来て音曲の稽古をするのだという。ほっとした小つるは、思い切って林の中に入ってみた。すると木の下に武士が居た。)

今は参道の北側には家屋が建っており、林という風情ではありません。わずかに山門を出てすぐ右側の場所が上の写真の様になっており、小説の風景と合致しますね。ここは円山公園の東の外れにあたり、昼でも訪れる人が少ない場所です。

ただ、幕末の頃となると今とは逆で、六阿弥と呼ばれた安養寺の塔頭が建ち並んでいた場所であり、その塔頭が貸座敷を営んでいた殷賑の地なのでした。とても誰も居ない静かな林という風情ではなかったと思われます。

(武士は粗末な身なりながらも、刀だけは気の利いたものを持っていた。色白で彫りが深い顔立ちで、背の高い男だった。)

(武士は、どなたです、と優しさのかけらも無い表情で言った。しかし、小つるがおびえたのを見て思い直し、人の良い微笑をしてみせた。ほっとした小つるは、その笛は何かと甘える様に聞いた。)

(武士は「こさぶえ」と言いながら、小つるに笛を見せてくれた。それは樹皮をまるめただけの、何の変哲もない笛だった。)

(武士は、むかし蝦夷が吹いていたものだと言う。武士は奥州南部の出身で、蝦夷の子孫集落がまだ残っていた。武士は幼い頃に、その集落の老人から教わったと言った。)

(この笛を吹くと天が陰々として来て風が吹き、ついには雨雲が宿って翌日には時化になる事が多いと言われる。それほど寂しい音色であるのだが、土地では嫌がる人が多く、武士は市中で吹く事は遠慮して、非番の時にここに来て吹いていると言う。)

胡沙笛とはどんな笛なのだろうと思って調べてみたのですが、国立音楽大学資料館のページにその写真がありました。確かに樹皮をまるめただけの造りの様に見えますね。ただし、その音色までは判りませんでした。さぞかし、素朴で寂しげな音がするのでしょうねえ。

(小つるはもう一曲とねだった。小つるはむせぶ様な笛の音に聞き入った。そして、異郷の人が故郷を偲ぶ様に笛を吹く、彫りの深い横顔の中に寂しさを見た。小つるは涙がにじんだ。)

(武士はおどろいて小つるをのぞき込んだ。いいえ、と小つるが空を見上げると、いつの間にか雲が低く垂れていた。そして風が吹き始めている。まるで胡沙笛が雨を呼んだかの様であった。)

この胡沙笛には大和朝廷と蝦夷が争った頃の伝説があり、蝦夷はこの笛を武器として使い、笛の音で雲を呼んでは自らの隠れ蓑として戦ったと言われます。作者は当然その事を知っており、この場面の描写に使ったのでしょうね。この悲しい物語の冒頭には相応しい演出になっていると思います。

(二人は歩き始めた。しかし、祇園林にまで下りた頃に本降りになり、二人は林の中の茶屋に駆け込んだ。二階に通された時、小つるはここは話に聞いた出逢い茶屋である事に気が付いた。しかし、武士は何も知らぬげに外の様子を眺めている。その様子を見て、小つるは激しい思いを武士に対して持った。武士は鹿内薫という新選組の隊士であった。)

鹿内薫という隊士は実在しておらず、作者に依る創作です。ただし、モデルとなった隊士は二人居て、一人は浅野薫、もう一人は吉村貫一郎ですね。浅野については、新選組!で浅野藤太郎の名で出ていたので覚えている方も多いのでは無いでしょうか。一方の吉村については、壬生義士伝の主役として記憶されている方が多いと思われます。

時系列的には浅野の方の要素が多く、吉村についてはその出身地だけを拝借したというところでしょうか。

あえて言うなら、この二人に共通しているのは臆病者という評価であり、浅野はその臆病さ故に隊を追い出されたと言われ、吉村はその最後にあたって南部藩に命乞いをした人物とされています。壬生義士伝ではかなり違う描かれ方をしていますけどね。

いずれにしても、士道を謳う新選組においては最低の評価をされてしまう二人なのですが、それをあえて主役に据えたのがこの作品の面白さに繋がっていると思われます。

以下、30日に続きをアップします。

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2011.03.01

新選組血風録の風景 ~菊一文字 その4~

(そんな沖田の気持ちに変化が生じた。日野助次郎が戸沢に斬られたのである。日野は石州浪人で、沖田の配下の中では最年長であった。沖田に良く仕えてくれ、時には玄節のところに行って薬を貰ってきて呉れたりしていた。)

日野助次郎という隊士は実在せず、創作上の人物ですね。多くの場合、沖田は部下思いの隊長だった様に描かれますが、実際にどうだったかはどこにも記述が無く、判らないというのが実情です。たぶん、普段から冗談ばかり言って、近所の子供達と遊ぶのが好きだったという新選組始末記の記述からの創作なのでしょうけど、一方で天然理心流の塾頭としての稽古はとてもきつくて荒っぽかったとも言われますから、果たして仕えやすい上司だったかどうかは霧の中状態ですね。 

(「お前が花橘町で戸沢を斬っていれば日野は死なずに済んだ」と刺す様な目で沖田に向かって言う土方。目を伏せて、そのとおりですと答えて爪を噛む沖田。いつの間にか小指を口の中に入れて、知らぬうちにかみ切っていた。)

(菊一文字で戸沢を斬ろうと決意した沖田。そうでもしなければ、日野に対する気持ちが収まりそうにはなかった。)

(沖田は毎日の様に観察部屋に行った。戸沢は私が斬ると観察方に念を押したが、山崎は笑って答えない。監察への指示は土方が出す事になっているからである。)

(沖田は直接密偵にまで情報を聞いた。すると利吉という密偵が、明日戸沢が大阪に下るという耳寄りな情報をもたらしてくれた。同行する人数までは判らない。)

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(その日の夜半、利吉を連れた沖田はそっと屯所を出た。やがて荒神口に至り、清荒神の鳥居脇にある茶店を叩き起こして湯漬けを食べた。そして体を休める為に半刻休んで外に出た。)

清荒神は、御所の東、丸太町通の一筋北にあり、護浄院とも呼ばれる天台宗の寺です。以前にも紹介した事があるのですが、今は門前に鳥居は無く、境内の清荒神を祀るお堂の前に石鳥居があります。明治以前には荒神社と呼ばれていたらしく、どちらかと言えば神社の性格が強かったのかも知れません。たぶん、門前にも鳥居があった事でしょう。

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(清荒神から東に行くと荒神橋がある。沖田は橋を渡った。そこからは白川村に向かって一筋の道が延びている。大阪に向かう戸沢は、必ずこの道を通るだろう。道の南側は一面の大根畑、北側は水田である。沖田は路傍に生えている松の根元の石に腰を下ろした。そして、利吉から笠と蓑を受け取って身につけた。腰に差しているのは菊一文字である。)

荒神橋は江戸期からありました。ここは京都と近江を繋ぐ山中越えの出入り口にあたり、京の七口の一つ数えられ、荒神口と呼ばれています。元は簡単な仮橋があり、本格的な橋が架けられたのは慶応3年と言われますから、まさにこの物語があった年という事になりますね。ただ、明治以後の架橋という説もありますから、このあたりは微妙です。

名前の由来は清荒神にあり、荒神口という地名も同様です。清荒神がこの地に移されたのは慶長5年の事で、それ以前は吉田口とも今道口とも呼ばれていました。地名を変えてしまうとは、清荒神に対する信仰は相当なものがあったという事なのでしょうね。

(陸援隊では戸沢が朝餉を摂っていた。隊士の一人が伏見まで送りましょうと申し出たが、戸沢は木屋町から伏見、伏見から大阪へと、すべて船の上ばかりという気楽な旅だ、見送る程の事もないと言って断った。戸沢の用事とは、大阪の土佐藩邸に入荷したゲベール銃30丁を受け取りに行くというものであった。)

(そこへ熟蝦夷先生が起きてきて、木屋町まで送ると言う。しかし、戸沢は無用と言って断ってしまう。)

(今ひとつ奇譚がある。戸沢は朝餉を食べながら、同行する三人を相手に日野斬りの自慢話をしていた。「真剣の剣術は技ではなく気のものだ、上段に構えて押しまくっていく、すると相手はいつの間にか死体になっている。」熱心に聞いている3人の背後から、熟蝦夷先生が「よした方が良い。」と冷や水を浴びせかけた。「剣には相手がある」と言って、陰気くさい咳をする。)

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(路傍の沖田は、蓑に埋もれる様に眠っていた。今から命のやりとりをするとは思えない度胸の良さに、利吉は舌を巻く思いがした。やがて空が白み、道の向こうに五つの提灯が動いているのが見えた。旦那と言って利吉が沖田を起こす。物憂そうに目覚めた沖田は、蓑と笠を利吉に渡して帰れと命じた。そのとおりに西に向かって逃げ去る利吉。)

この場面の舞台は、山中越えが鴨川に達する少し手前という事になるのでしょうか。この道は今でも往時の道筋を残しており、如何にも古い道らしく、斜めに曲がりくねって続いています。今は京都大学のキャンパスで途絶えているのですが、地図を見れば山中越えの道が白川村から一直線に鴨川まで続いていたであろう事が推測されます。ただし、幕末には尾張徳川家の屋敷があって今と同じ状況になっていましたから、陸援隊本部から一筋に繋がっていたという事は無かったはずです。

(やがて提灯が目の前に来た。そこに戸沢鷲郎氏が居ますかと声を掛ける沖田。何者かと聞かれ、新選組の沖田総司ですと答えると、戸沢が踏み出してきた。そして大きく飛び込んで剣を抜こうとした。その剣がわずかに鞘を離れた時、戸沢の頭が割れて沖田の足下に前のめりに転がった。戸沢鷲郎、即死。)

(沖田は熟蝦夷先生の方に向かって、これで自分の用は済んだが、引き留めますかと聞いた。熟蝦夷先生は維新後に兵庫県の属になっていたから、この時手を出さなかったのは間違いない。)

(沖田が菊一文字を使ったのはこの時、一度だけだった。無論、刃こぼれ一つしていない。)

この日が何時なのか何も書かれてはいませんが、大根畑という描写がある事から晩秋から初冬にかけての事なのでしょう。

沖田が結核に罹っている事が明らかになるのは、慶応3年2月頃の事です。池田屋事件の時に既に倒れているのですが、周囲にはまだ黙っていたか、本人も確信を持っていなかったのかも知れません。その年の6月ごろには体の自由が利かなくなったと伝わるのですが、その一方で11月の初め頃まで剣術の稽古をしていたとも言い、病状は一進一退を続けていた様にも思われます。そして、11月12日付けの故郷に宛てた沖田の手紙には、病気のために近藤周斎の見舞いに帰る事が出来ないと記されており、この頃には本格的に寝付いていたのではないかと推測されています。12月に入ると永倉が一番組を二番組と共に指揮していた事が判り、完全に療養生活に入っていたものと思われます。

以上からすると、この場面は慶応3年10月頃、現在の暦で言えば11月頃ではないかと推測されます。

(沖田は千駄ヶ谷の植木屋で療養し、そこで死んだ。菊一文字は植木屋の平五郎が預かり、後に姉のお光に渡した。お光はその後立川に住み、菊一文字は神社に奉納したという。もし今でもあるとしたら、東京都下の神社なのかも知れない。)

菊一文字則宗が沖田の差料であったという説については、どうやらこの作品が原点になっている様です。子母澤寛氏がそれらしき事を書いているとネットにはあるのですが、それがどこなのか調べた限りでは判りません。どなたかご存じはないでしょうか。

何にしても、この小説のリアルさがもたらした罪と言うべきで、白河藩の下級藩士の遺児である沖田が、大名道具級の銘刀を持っていたなど有り得ない事でしょう。沖田の佩刀として文献上で確認出来るのは加州清光で、池田屋事件の時に使っていたと言われます。ただし、帽子が折れていたと記されているので、この後は別の刀を使っていた可能性はありますね。

それはともかくとして、作品としては見事な完成度で、「沖田総司の恋」と共に今の沖田像を確立したと言っても過言では無いでしょう。圧倒的な強さを持ちながら謙虚かつ控えめな性格で、目下にはあくまで優しく、さらにはどこか子供の様な純真さを持っている。そして、結核という病に冒されており、余命いくばくも無いという悲劇性も帯びている。まさに絵に描いた様な悲劇のヒーローですね。

何度か触れた様に、創作の中に史実と実在した地名や風景を織り交ぜ、あたかも現実の世界であったかの様に見せてしまう司馬遼太郎氏の手腕には、もはや脱帽するしかありません。

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2011.02.28

新選組血風録の風景 ~菊一文字 その3~

(その内に有力な情報が入った。西三本木の床見世の主人が陸援隊に居ると密偵に話したのである。背丈は5尺5寸、面長であごがのどまで垂れているのが特徴だと言う。土方は沖田に、そんな面相だったかと聞いてみた。しかし、沖田は後を見ずに逃げたので覚えていないと言う。)

(陸援隊は土佐藩を母藩とした勤皇集団である。土方は近藤に討ち入るかと持ち掛けた。しかし、近藤はそれは無茶だと言う。土佐藩の実権を握る容堂候は熱心な佐幕家であったが、その配下の下級武士には過激な勤皇派が多かった。脱藩して勤皇活動に身を投ずる者が多く、新選組が斬った浮浪の中では土佐脱藩浪士が最も多い。この複雑な藩情を持つ土佐藩を幕府は刺激したく無かった。)

土佐藩の藩情が複雑だった事は、龍馬伝の中で何度も触れられたとおりです。繰り返して言えば、土佐藩では土着の士族である郷士が下士として卑しまれ、関ヶ原の後に掛川から来た支配者たる山内家とその与党である上士と対立していました。幕末期においては、山内容堂を初めとする上士層は主として佐幕派だったのに対して、下士は主として勤皇派に属しており両派はことごとくに反目しあっていたのです。そして、勤皇派の多くは脱藩して浪士となり、長州藩や薩摩藩を頼って勤皇活動を続けていました。

新選組血風録においては新選組は殺戮集団であるかの様に描かれていますが、その主任務は過激派の捜索と捕縛にあり、実際に「浮浪」を斬ったのは10数人です。その大半は池田屋事件におけるもので、それ以外だと本当に数名程度ですね。

ただ、斬られた志士の中で割合的に土佐藩士が多いのは事実で、石川潤次郎(池田屋事件)、北添桔麿(池田屋事件)、大利鼎吉(ぜんざい屋事件)、藤崎吉五郎(三条制札事件)が斬られています。これに池田屋事件で負傷し切腹して果てた望月亀弥太を加えれば5名になりますから、およそ三分の一は土佐藩士だった事になります。

(近藤は陸援隊のある白川屋敷は土佐藩の別邸であり、襲えば戦になると言う。土方は利口になったものだと皮肉を言う。かつては池田屋に斬り込み、その後の蛤御門の変を引き起こして京都を灰燼にしてしまった事がある。その近藤が土佐藩への配慮などと言っているのが土方には片腹痛かった。あの頃とは時勢が変わったのだと諭す近藤。)

作品中の時期の設定については何も書かれていませんが、陸援隊が白川別邸に入ったのが慶応3年7月の事ですから、それ以後という事になりますね。この頃の情勢は、武力討幕を狙う薩長と大政奉還路線を推進する土佐藩という構図があり、幕府としては土佐藩を敵に回す訳には行きませんでした。

一方、陸援隊は明確な討幕指向を持っており、新選組としては目障りな存在だった事でしょう。しかし、陸援隊は土佐藩の支援を受ける組織であり、その隊長である中岡慎太郎は正規の土佐藩士、その本部は土佐藩別邸でしたから、無闇に手入れをする訳にも行きませんでした。その対策としてか、新選組は陸援隊に密偵を入れて情報を探っていた様ですね。

池田屋事件の頃にはまだ幕府の屋台骨も残っていましたし、薩摩藩は友軍として振る舞っていました。切り込んだ先は民間の旅籠ですし、取り締まる相手は京に居るはずのない長州藩士と「浮浪」でしたから、条件がまるで異なります。

作者はこうした背景を踏まえて書いている訳で、現実の土方もこんな無茶は言わなかった事でしょう。

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(土方は道伯を屯所に呼んだ。沖田のために菊一文字を買い上げるつもりだったのである。値を申せと居丈高に言う土方。むっとしながらも、1万両と答える道伯。舐められたと声を上げそうになる土方。その機先を制して、まずは聞いて貰いたいと手を上げる道伯。)

(1万両とは、道伯が菊一文字に惚れ抜いた気持ちを表したもので売値ではない。道伯は沖田にも惚れており、気に入ったのなら差し上げるつもりで居た。今その気持ちが確かめられたので、改めて沖田に貰って頂くと道伯。毒気を抜かれた土方は、隣室で寝ている沖田に声を掛けた。)

(沖田は隣室で話を全て聞いていた。しかし、土方がいきさつを説明するのを聞いて無邪気に喜んで見せた。土方から花橘町の一件を聞いた道伯は、沖田が持って生まれた才能に比べれば菊一文字など下品だと言い、竹刀でも使い捨てるつもりで使って欲しいと言う。沖田は自分の物だと思えば苦にはならないと答える。)

(しかし、沖田はその後も菊一文字を使わなかった。刀は良い物を使わなければならないという持論を持つ近藤は、しつこく菊一文字を使う様に勧めた。それでも沖田は使わない。)

(沖田は労咳という死の病に罹っている。あと余命はいくらも無い事も知っていた。傍目には明るく振る舞っていた沖田だが、心の奥底では別な感情が生まれていた。菊一文字は700年もの間生き続けた。刀は戦闘に使われるものである事を考えれば、それはほとんど奇跡に近い。沖田は自らの死が近い事を受け入れつつ、菊一文字はあと700年も生き続けよと祈る様な気持ちになっていたのである。)

先日北野天満宮に行った時に、宝物館で備前の古刀と一文字派の古刀を見る事が出来ました。無論菊一文字とは違うのですが、大きく見れば同じ系統に属する刀で、興味深く見せて頂きました。確かに細身で反りが浅いですね。以前に見た和泉守兼定などとは趣を異にしている事は確かで、激しく打ち合うと折れてしまいそうな感じはします。しかし、繊細な美しさを有しており、どちらかというと美術品的な感じがしますね。

見るからに鋭利そうではありますが実戦向きとは思えず、だから大事に保管されて来たのではないかという気がしました。これが則宗ともなると一層この傾向が顕著だと思われ、沖田ならずとも人斬りに使いたいとは思わない事でしょうね。

以下、明日に続きます。

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