西郷どん 縁の地 ~相国寺~
相国寺もまた西郷どんの縁の地です。薩摩藩は伏見藩邸と京都藩邸(錦小路)の二つの藩邸を持っていましたが、安政5年に斉彬が実行しようとした卒兵上洛の際に、千人の藩兵を収容する場所が無かったため、西郷に命じて新たな藩邸の場所を探させたのでした。
その後、斉彬が急死し、西郷も流罪となっため新藩邸の話は一時中断しますが、薩摩藩では文久2年に久光が実行した卒兵上洛に合わせて相国寺の一角を借り、新藩邸を建設しました。この当時奄美大島に居た西郷は直接係わってはいないですが、かつて斉彬のために奔走した構想が実現したのでした。
ただ、相国寺としては迷惑な話で、明治後も土地は返還される事はなく、そのまま同志社大学の敷地となってしまいました。漏れ聞くところに依ると、貸すんじゃなかったと今でも後悔しているのだとか。
その相国寺の東に「甲子の役 戊申の役 薩摩藩戦死者墓」があります。甲子の役とは元治元年に発生した蛤御門の変の事で、この時西郷は指揮官として参加しています。また戊辰の役とはここでは鳥羽伏見の戦いの事を指し、この時も西郷が指揮官だった事は昨日の記事で書いたとおりです。
この墓は二つの戦役で亡くなった薩摩藩士72名を祀る合同墓で、相国寺塔頭の林光院の境外墓地にあたります。林光院は薩摩藩との縁が深いとの事ですが、現時点ではどんな関係だったのかは判りません。京の冬の旅の特別公開の対象となっているため近く訪れる予定で、その時何か話が聞けるかなと期待しているところです。
また、同じく塔頭の養源院は、鳥羽伏見の戦いの時に野戦病院になったところで、イギリス人医師ウイリアム・ウイルスが手当に当たりました。ただ、ここは一般公開されていないので、外観を見るだけですけどね。
この様に相国寺は薩摩藩と深い関わりを持っています。きっと、西郷も境内を歩いた事でしょうね。幕末当時に思いをはせて、散策してみるのも一興です。
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コメント
学生の頃は歴史はテストの暗記科目としかとらえず
あまり興味がなかったのですが、京都にはまってからは
もっと勉強しとけばよかったと反省してます(^^ゞ
苦手な幕末から維新にかけての京都、なおくんの記事で
勉強しながら京散歩に出かけたいと思ってます(*^_^*)
投稿: Milk | 2018.02.18 16:10
Milkさん、
私も最初から知っている訳では無く、いくつかの資料をあさりながら記事を書いています。
でも、資料によって書いてある事が違うのが困るのですよね。
なので、どう表現するかは手探り状態です。
ドラマはまだ薩摩が舞台ですが、やがて京都が中心となる時が来るでしょう。
その時が楽しみです。
投稿: なおくん | 2018.02.18 21:10