西郷どん 第一話「薩摩のやっせんぼ」
大河ドラマ西郷どんが始まりました。これから一年間、ねこづらどきでもその展開を追っていきたいと思います。
冒頭、上野の西郷像の除幕式から始まりましたが、その時夫人の糸がこんな人ではなかったと言った事はよく知られています。その理由は、西郷の写真は一枚も無く、銅像は様々な人(弟の従道など)から想像して創作されたものであり、その容貌が本人とは似ても似つかぬものだったからと言われます。その一方で孫の吉之助氏の話として、西郷は礼儀正しい人であり、浴衣姿の様な無様ななりで人前に出るような人ではなかったからだとも言い、糸夫人は終生それが不満だったとも伝えられます。どちらが正しいかは良く判らない様ですね。
さて、時は1840年に遡ります。小吉と呼ばれた西郷が数えで14歳の時ですね。当時の薩摩では、城下の町を方限(ほうぎり)といういくつかの郷に分けており、その郷ごとに教育が行われていました。これを郷中(ごうちゅう、または、ごじゅうとも)教育と言い、7、8歳から24歳までの青少年で構成されていました。このうち10歳までを小稚児、14、5歳までを長(おせ)稚児、それ以上は二才(にせ)と呼ばれました。それぞれの段階で頭があり、その下を統べるという仕組みでした。だからこの当時の小吉は長稚児の頭という事になりましょうか。
西郷が居たのは下鍛冶屋郷中で、わずか70戸ほどの小さな集落でしたが、大久保利通や吉井友実、大山巌、東郷平八郎など後の明治を支えた人材を排出しました。長州藩の松下村塾と比肩する希有な存在と言えましょうか。
ドラマにあった様に郷中同士の争いは結構あったらしく、西郷の下鍛冶屋町も上方限の少年達と争いになり、その場は素手で組み討ちして下鍛冶屋町の勝ちとなりました。しかし、恨みを持った上方限の横堀三郎という少年が、後日西郷を襲って鞘ごと刀で切りつけ、その際に鞘が割れて西郷の肩を傷つけたのでした。このため西郷は腕の曲げ伸ばしが不自由になり、剣術が出来なくなったのはドラマで描かれたとおりです。この後、西郷は学問で身を立てようと決心したと言われます。
そのドラマで出てきた妙円寺詣でですが、本来は島津義弘の菩提寺である妙円寺に、夜間静かに参ったものでした。西郷たちが争ったのはこの妙円寺詣での帰りの事です。先を競って走ったのは日新寺詣でで、義弘の父である島津日新の菩提寺に参るのが目的でした。ドラマでこれを入れ替えたのは、日新寺詣での方が威勢が良いからでしょうか。なお、後の糸婦人が一緒に走ったというのは創作です。
さて、西郷が仕えたいと訴えた斉彬ですが、島津家の世子であり、幕府に対する人質扱であったため、原則として江戸住まいでした。藩主となるまでに国元に帰ったのは三度であり、1840年には記録されていません。実際に国元に帰っているのは1846年の事で、琉球国にやって来て開国を求めたフランス船に対応するためでした。この時、斉彬は琉球王に対して、交易と交際だけは認め、キリスト教の布教は認めないという方針を示し、見事に事を納めています。もし、西郷が斉彬の人となりを知ったとすれば、この事件の際かと思われます。
斉彬は非常に優れた人で、同時代の人々にも英明な人物として高く評価されていました。しかし、藩主となったのは当時としては異例に遅い43歳の時で、その理由は父である斉興が容易に後を譲らなかったからでした。その理由としては、ドラマで軽く触れられていた様に斉彬が薩摩藩の能力を超えた改革をしようとし、藩を潰しかねない浪費家と見られていたからでした。薩摩藩はその少し前に五〇〇万両という膨大な借金を返済したばかりだったのですね。その斉彬がどうやって藩主となったかはこれから描かれるのでしょう。
次回からは大人になった西郷が登場する様ですね。やっせんぼと言われた西郷が、これからどの様に成長していくのか、楽しみにして待ちたいと思います。
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