西郷どん 第二話「立派なお侍」
小吉といった西郷が、六年後には吉之助と名乗りを変えました。西郷は生涯に何度も名前を変えており、この時も吉之介が正しく、最後に名乗ったのが吉之助でした。ちなみに、諱の隆盛も本当は父の諱で、正しくは隆永でした。明治維新後、位階を授けられるときに、間違えて届け出られたとの事です。名前一つとっても謎の多い人物ですね。
さて、西郷は郡方書役助という役職に就きました。役職と言ってもわずか四石という下級役人で、西郷はこれを10年務めています。ドラマにあった様に西郷は地道に働き、農村の実態をつぶさに知りました。そして、苦しむ農民を見て奉行に年貢の減免を訴えたり、時には自らの俸給からいくばくかの金を融通してやったりもしていました。
ドラマには出てこなかったのですが、彼の上役に迫田利済という人が居て、この上役が良く出来た人だった様です。この迫田が最初に西郷に影響を与えた人物で、西郷が農民に目を向ける様になったのは迫田に依るところが大きいと言われます。
この迫田は、ある年台風の被害があったとき、藩から被害の大小に係わらず決して年貢の減免はするなと通達があったのですが、これを不服とし、役を降りてしまいました。その時、自宅の壁に書いたという歌が今に伝わっています。
虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな 絶てばおのれもともに枯れなん
虫とは為政者、五ふしとは稲つまりは農民、農民が倒れれば為政者も共倒れになるという意味ですね。ドラマで西郷が調所に訴えていたのはこの歌を踏まえてのことでしょう。
薩摩藩がなぜここまで農民に厳しくしたのかと言えば、偏に武士階級が他藩に比べて多かったからです。一説には他藩の4倍ほども居たというのですから、それを支える農民はたまったものではなかったでしょうね。さらには、実質的に支配していた奄美諸島や琉球国に対しても搾取同然の施策を敷いており、被支配者に対する苛烈さは、薩摩という強国が持っていた黒歴史とでもいうべきものでした。
西郷は卑役ながらこの黒歴史に背を向け、農民達に寄り添った施策をしようとします。そして、藩に対して建白書をいくつも出し、やがてそれが斉彬の目にとまり、後の飛躍へのきっかけとなって行きます。
斉彬が父の斉興に嫌われていたのは前回にも書きましたが、その要因は三代前の重豪にまで遡ります。元々、薩摩藩には幕府から命じられた木曽川改修工事の際に出来た借金があったのですが、重豪は幕府の老中松平定信の行った質素倹約を旨とした改革に反発し、開化、積極策を打ち出しました。藩士に華美、浪費を奨励し、自らも率先して行ったのですね。また、将来への投資として藩校造士館を創設し、薬草園を造り、天文暦法を研究する明時館を建設するなどしました。この浪費が祟り、薩摩藩は500万両という莫大な借金を抱える事となったのです。
この借金を返したのが調所広郷でした。彼は大坂の商人と交渉し、500万両を250年賦、無利子という条件を飲ませ、事実上借金を棒引きにしてしまいます。そして、奄美大島や琉球で産出される砂糖、大島紬、琉球絣などを藩の専売制にし、さらには琉球国を通じての密貿易で富を得ました。こうして、江戸、大坂、鹿児島にそれぞれ50万両もの非常金を積み上げたと言われます。調所が薩摩藩で重用される訳ですね。
斉彬はせっかく調所が改革した薩摩藩の経済を、根底から覆す人物と見られていました。重豪の再来として忌み嫌われていたのですね。そこに斉興の愛妾である由良が絡んでくるのですが、そのあたりは次回以降に描かれる様です。どんな展開になるのか、楽しみにして待ちたいと思います。
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