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2018年1月

2018.01.31

京都・洛北 雪の大原2018 ~三千院 1.27~

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三千院と言えば、やはり宸殿から往生極楽院を見たこの景色でしょうか。パンフレットにも使われていますが、四季を通じて絵になる光景です。

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聚碧園は去年に続いて雪が多すぎて、何が何だか良く判らなくなっていました。贅沢な話ですけど、こうした庭園はうっすらと雪化粧をまとっている方が絵になる様です。

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往生極楽院は、本来三千院とは別のお堂で、明治4年に三千院がこの池に移転して来た時に取り込まれたのでした。平安時代に建てられたお堂で、以来補修を繰り返して来ており、説明するお坊さんによっては、どの部材がいつの時代のものか教えてくれますよ。もっとも、どこまでが本当かは判りませんけどね。

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ここに来るたびに気になるのがこの灯籠です。姿は良いのですが、よく見ると火袋が木製で、その上の重そうな石を支えています。土台の石も斜めになっており、今にも崩れ落ちてしまいそうな不安定さが絶妙の美しさを演出しているのでしょうか。

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童地蔵は雪に埋もれて、雪だるまの様になっていました。童地蔵もうっすらと雪を被った程度が風情があるのかな。などと贅沢な事を思いながら、次の目的地勝林院へと向かいます。

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2018.01.30

京都・洛北 雪の大原2018 ~寂光院 1.27~

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大原の女の小径を西に歩いて行くと、やがて寂光院にたどり着きます。ここは推古2年に開創されたという尼寺で、初代の住職は聖徳太子の乳母であった玉照姫でした。

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二代は阿波内侍で、初代からは随分と間が空くのですが、その間の住持たちはあえて数えずに二代としている様です。

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三代は建礼門院、言わずと知れた平清盛の娘にして安徳天皇の母だった人でした。阿波内侍は建礼門院に仕えたとも言い、ここでも矛盾を感じるのですが、そこは触れないでおくのが作法というものでしょう。

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阿波内侍は大原女のスタイルを確立し、また柴漬けを考案した人と言われます。ある意味大原の恩人とも言うべき人でしょうか。

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寂光院は平家物語の大原御幸で世に知られる様になり、後の世の権力者からも庇護を受けてきました。荒廃していた本堂を再建したのが豊臣秀頼でしたが、残念ながらその本堂は平成12年に放火によって失われてしまいました。現在残っているのは伏見城から移されたというこの雪見灯籠で、まさにこういう日のためにあるのでしょう。夜に火を灯したら、さぞかし幻想的でしょうね。

雪の寂光院を堪能した後は、大原女の小径を戻り、三千院へと向かいます。

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2018.01.29

京都・洛北 雪の大原2018 ~山里の景色 1.27~

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平成30年1月27日、雪景色を求めて大原へ行ってきました。この日は曇りの予報だったのですが、前日のライブカメラで見ると大原は雪が積もっており、朝一番で行けば何とか残っているかもと思い、出かけてみたのです。

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いざバスに乗ってみると、京都市内は風花程度だったのですが、大原に近づくにつれて雪景色に変わり、これは期待どおりになるかなと思い始めました。ところが、風花がいつしか本降りになり、ついには吹雪に変わってしまったのです。期待どおりどころか期待以上の大雪になり、どうしたものかと困惑する羽目になってしまいました。あの天気予報は何だったんだ。

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でも、来てしまったものは仕方が無いと開き直り、傘も持たずに歩き始めます。幸い、ジャケットが防水仕様でかつフードが付いていたので助かりましたが、-2度の中を平地仕様の靴で歩くというのは無謀でしたね。雪の下が凍っていたので何度も滑りそうになり、実際一度転んでしまったのでした。まあ、柔らかい雪の上だったので大した事はなかったのですが、打ち所が悪くて救急車の世話になりにでもしたら、洒落にならないところでした。雪国の人には不用心すぎると笑われてしまいそうだな。

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そんなこんなで歩くのは大変でしたが、周囲の景色は見事なものでした。これぞ冬の大原の醍醐味というところでしょうか。

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明日からは冬の大原の名所をめぐって来た様子をお届けします。去年に続いてのレポートとなりますが、お付き合いのほどよろしくお願いします。

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2018.01.28

西郷どん 第四話「新しき藩主」

赤山靭負が切腹を命じられた事を知り、久光に助命を嘆願する西郷達。
自分には何も出来ないと冷たくあしらう久光。

「斉彬派の処分は斉興の一存で行った事であり、久光は預かり知らぬ事でした。なので、久光の反応が冷たいのも当然ですね。そもそも、斉彬派は久光の暗殺まで企図しており、久光に嘆願などあり得ぬ事で、この下りは全くの創作です。」

赤山の介錯をした吉兵衛。血染めの肌着を抱いて復讐を誓う西郷。

「赤山家は島津家の分家であり、8754石という大禄を持つ家柄でした。吉兵衛は長くその家令を務めていたのですが、介錯は特に靭負に命じられたと言われます。西郷は靭負の血染めの肌着を抱いて終夜号泣したと伝わっており、後々まで西郷に影響を与えたのでした。」

父が鬼界ケ島に流され、自らも謹慎を命じられた大久保正助。

「正助、後の利通がこの時お由良騒動のあおりを受けて、困窮の中に叩き込まれたのは事実です。その反動で正助は西郷と気脈を通じる様になり、明治維新に至るまで固い絆で結ばれる事となったのでした。」

斉彬に向けてお由羅騒動の顛末を書き、血染めの肌着と共に送る西郷。それを読み、決意した斉彬。

「西郷は後にお由羅一派の処罰を斉彬に向けて建言する事になりますが、それは斉彬が藩主に就任してから後の事で、まだ部屋住みであった斉彬に向けて建言したという事実は無い様です。」

「斉彬が藩主になるべく動き出したのは国元の不穏な動きがきっかけだったのは事実ですが、その動機はもっと深いところにあり、外国の侵略から日本を守るという強い意思からでした。彼にとっては、薩摩藩内の騒動は二の次だったのですね。」

江戸城で阿部正弘に、従三位就任を願う斉興。即答は出来ぬと言い、代わりに上様からの下されものと言って茶壺を渡す正弘。それは隠居せよという幕府からの勧告でした。笑って応えない斉興。

「幕府から斉興に茶壺が下されたのは事実です。ただし、それに関わったのは斉彬と正弘だけでなく、斉彬の英明さを知る島津家の縁戚、伊達宗城といった開明派の大名、斉興が従三位就任の仲介を依頼していた筒井政憲など複数の人たちの合意の上でした。」

「茶壺に隠居せよという暗喩が込められていたのはドラマの説明にあったとおりで、それを斉興が無視したのも史実です。ドラマと違うのはこの後で、幕府はやむなく、次の機会を捉えて今度は朱の衣を渡しました。これも意味は茶壺と同じだったのですが、斉興はこれも無視してしまうのです。」

斉彬と対面し、面罵する斉興。自らに例えて斉興を批判する斉彬。それは西郷が送った手紙に基づいた批判でした。たった一人の下郎に振り回されおってと斉興。一人ではない、自分に薩摩藩の立て直しを期待してくれている者たちに応えなければならないのだと斉彬。薩摩の事は全て自分が決めると斉興。

密貿易の事、琉球出兵の事も全て公儀が知っている、このままでは藩主は切腹、島津家はお取り潰しになる、隠居さえしてくれれば丸く収まると斉彬。断固として断る斉興。

箱からピストルを取り出し、藩主の座を賭けてロシアンルーレットを挑む斉彬。ついに諦めた斉興。

「ロシアンルーレットの下りは完全な創作です。もし、本当にそんな事で藩主を決めでもしたら、薩摩藩は即刻お取り潰しでしょう。」

「斉興を追い込んだのはやはり正弘で、もし隠居しなければ従三位の位をふいにするばかりでなく、島津家にとっても良くない処分が下ると、筒井家を通じて露骨に勧告したのでした。ここまで強硬に迫られては斉興も抵抗する事は出来ず、ついに隠居を決意したのです。」

斉彬の藩主就任の報を聞き、驚喜する西郷達。

お国入りを果たした斉彬。大喜びで新藩主を出迎える領民達。

「斉興が容易に隠居をしなかったのは、一重に斉彬が藩を潰しかねないと危惧していたからでした。お由羅騒動も由羅一人が悪いように言われますが、元はと言えば斉彬派が早まって由羅と久光の暗殺を企てた事が原因であり、それを踏まえれば斉興の処置も当然だったと言えましょうか。それが悪く言われるのは、正嫡を廃そうとした倫理上の問題もさる事ながら、幕末という英雄を欲した時代であった事、後に歴史を動かしたのが斉彬の薫陶を受けた者たちであった事が大きいのでしょう。」

「もし、これが江戸時代の半ばの出来事であったなら、藩の財政を立て直した調所広鄕を重用した斉興こそが藩を救った名君であり、正嫡ながら浪費家でかつ時代に合わない斉彬をあえて廃そうとした広鄕は、忠臣として崇められていたのではないでしょうか。」

「歴史は勝者によって書かれると言われますが、ここにもそれは当てはまる様です。」


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2018.01.27

第52回 京の冬の旅 ~常林寺~

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京の冬の旅、四カ所目は定林寺を訪れました。ここは萩の寺として知られ、花の季節には何度となく訪れている所ですが、普段は本堂の扉は閉じられており、中に入るのを楽しみにしていました。

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この寺の正式な名は、光明山摂取院定林寺と言い、1573年(天正元年)2月25日に念仏専修僧魯道によって創建されました。はじめは寺町荒神口あたりにあったのですが火災によって焼失し、1671年(寛文11年)に現在地に移転しています。創建当初から知恩院との関係が深く、総本山の役番の地位を占めていました。

本尊は阿弥陀三尊像で、とても優しいお顔をされた阿弥陀様です。近年、本堂の改修をした時に、豊臣秀吉の念持仏を奉納した旨の棟木が出てきたのですが、これがご本尊を指すのか、あるいは他にいくつもある仏像のどれかを指すのかは判らないそうです。

本堂の見所はもう一つあって、色とりどりの花が描かれた天井画です。改修の際に描かれたそうで、それは見事でしたよ。

今回の公開で一番見たかったのは、若き日の勝海舟が京における宿坊としていた部屋です。しつらえは当時のままとの事で、海軍伝習生であった当時の海舟を偲ぶ事が出来ます。この部屋には珍しい八角形の机が置かれており、これを海舟が使っていたのかと思ったのですが、説明に依ればそれは判らないとの事でした。なんだか判らない事だらけの寺ではありますね。

興味深いと思ったのは、裏庭に池の跡の様な石の列があったのですが、これはかつての砂川の跡だとの事でした。この地はかつては鴨川と砂川に挟まれた砂州だった池で、定林寺は長徳寺、正定院と共に砂川の三軒寺と呼ばれていました。この事は知ってはいましたが、まさか砂川の痕跡が残っているとは思ってはいなかったです。

ちなみに萩が良く育つのはここが砂地だからだそうで、意外なところに寺の成り立ちが現れていたのでした。

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こちらは世継子育地蔵尊の祠です。このお地蔵様にも何度となくお参りはしているのですが、お姿を見たのは初めてでした。名高いお地蔵様なのでさぞかし立派な石仏だろうと思っていたのですが、意外と小さく、各町内にあるお地蔵様とそう変わらないのには驚きました。でも、霊験は姿大きさには関係ないので、多くの人の信心を集めるだけの力があるのでしょう。有り難く手を合わさせて頂いたのは言うまでもありません。

次に常林寺を訪れるのは、また萩の花が咲く頃かな。その頃には大河ドラマにも海舟が出てくるのかしらん。もしかしたら、この常林寺もゆかりの池として紹介されるかもしれませんね。


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2018.01.26

第52回 京の冬の旅 ~即宗院~

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京の冬の旅、三カ所目は東福寺塔頭の即宗院を訪れました。即宗院は1387年(嘉慶元年)に、島津氏久の菩提を弔うために建てられた寺です。その後1569年(永禄12年)に焼失したのですが、1613年(慶長18年)に島津家久によって再建され、以来薩摩藩の畿内菩提所とされました。

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即宗院は、洗玉澗に掛かる偃月橋を渡っていく事になります。正面の寺は龍吟庵、実を言えばこの隣に即宗院があるのを、これまで知らずに居ました。

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即宗院は、元は藤原忠通の山荘、月輪殿があった場所でした。その山荘の様子は法然上人絵伝に描かれており、頭光を冠した上人が庭園に掛かった橋を渡る姿を見る事が出来ます。

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現在の庭園はその月輪殿の跡地にあたり、江戸時代の都林泉名所図会にも収められています。その後荒廃していたのですが、玄之和尚が往事の姿にまで復興し、京都市史跡に指定されるまでに至っています。

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寺の裏手にはかつて採薪亭と呼ばれる茶室があり、西郷隆盛と月照上人が密談の場所として使ったという伝承が伝わっています。二人の密談の場所としては清閑寺の郭公亭もありますが、同じ場所ばかりでは露見しやすいため、複数の場所を使っていたという事なのでしょうか。

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その続きにある坂道を上っていくと5つの大きな石碑があります。これは戊辰戦争で亡くなった薩摩の人々の名を記したもので、全部で524名の名が刻まれています。士官から水夫に至るまで、全ての人が網羅されているのが凄いですね。

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これは西郷が明治2年に建てた東征戰亡の碑。戊辰戦争の概略を記すと共に、524名の戦没者の名をここに記した理由が書かれています。西郷は即宗院に半年ほど滞在した事があり、その間にこの碑をに建てたとの事です。

今回の特別公開では、西郷の書いた掛け軸と共に、敵であったはずの徳川慶喜の掛け軸も展示されています。上手くタイミングが合えば、この掛け軸に掛けたご就職のユーモアを交えた説法を聞く事が出来ますよ。1日にそう何度も行われるものではない様なので、聞く事が出来た人は運が良かったと思って下さい。

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2018.01.25

第52回 京の冬の旅 ~東福寺 禅堂・経蔵~

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京の冬の旅、二カ所目は東福寺の禅堂と経蔵を訪れました。東福寺には何度も訪れていますが、どちらも中に入るのは初めてです。

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禅堂はその名の通り禅の修行をする場で、修行の邪魔になる様な装飾は一切ありません。例外的に、禅堂に付きものの文殊菩薩が、彩色された僧形になっているのは目を曳きました。東福寺の伽藍面と呼ばれる様にとにかく大きく、一度に400人の僧侶が修行出来るそうです。

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造りは大きいですが、修行僧一人に与えられるスペースは畳一畳分だけで、立って半畳、寝て一畳を地で行く光景でした。ここにずらりと修行僧が並んだら、さぞかし壮観でしょうね。

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経蔵には八角形の回転式輪蔵があり、1000あまりの経典が保管されています。今回の特別公開では、輪蔵を回す事は出来ませんが、一部の扉が開けられており、中を見ることが出来ますよ。

この輪蔵は一回転させれば中の経典全てを読んだだけの功徳が与えられるとされていますが、最近の運用では一年に四十五度だけを回転させては扉を開けて虫干しをし、8年かけて一周する様になっているそうです。

紅葉時期にはもみじの背景として撮影する事が多い経蔵ですが、内部を知ることが出来たのは収穫でした。

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2018.01.24

西郷どん ~寺田屋事件~

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大黒寺には1862年(文久2年)4月23日に、伏見の船宿寺田屋で起きた薩摩藩士の同士討ち、いわゆる「寺田屋事件」の犠牲となった九人の墓があります。この事件は島津久光の卒兵上洛に端を発した悲劇だったのですが、その概略を記してみたいと思います。(以下は2004年に私のホームページ「京都の散歩道」に記載した文章に、若干の加筆修正を施したものです。)

1861年(文久元年)10月、薩摩藩の藩父島津久光は、兄の斉彬が目指した幕政改革を志して上洛を宣言します。その際、京、大坂の事情に詳しく、かつ諸藩に顔が利く西郷を奄美大島から呼び戻し、先導役を命じました。しかし、西郷は、久光が言う公武合体は既に時代遅れであると説き、また久光は無位無官でありかつ藩主ですらなく、藩外の事は何も知らないジゴロ(田舎者)だから無理だと言って諫めますが、久光の不興を買っただけで、その挙を止める事は出来ませんでした。西郷はやむを得ず、命じられるままに先発し、下関で待機する事となります。

一方、久光は以前、藩内の尊王攘夷派の集団である精忠組が井伊直弼暗殺に荷担して暴発しようとしたとき、彼等を慰撫するために「一朝事あれば、自ら藩を率いてこれに当たる。」と明言した事がありました。このため、この上洛を精忠組は無論の事、各地の尊攘派の志士達はいよいよ薩摩藩が尊王攘夷の為に兵を動かすものと捉えます。

中でも出羽の郷士清河八郎は、京都における最も過激な勤王の志士である田中河内介(中山忠能の元家臣)と語らい、各地の勤王の志士を京都に呼び集め、薩摩藩の兵と共に倒幕の兵を挙げるという計画を企てます。田中は青連院の宮の倒幕の令旨を偽造して清河に託し、清河はその偽の令旨を持って九州の志士を糾合すべく旅立ちます。清河は九州各地を遊説し、特に久留米藩の真木和泉、筑前藩の平野国臣に会って二人の賛同を得る事に成功しました。平野は鹿児島へ飛び、久光にあて激励の建白書を上呈すると共に、誠忠組に働きかけて、京都挙兵計画へ参加するよう扇動します。

この動きは、噂が噂を呼び、清河達をはるかに超えて燎原の火の様に各地に広がり、明日にでも倒幕の軍が結成されるかのごとく喧伝されるようになります。天下の志士は続々と京都を目指し、土佐藩の吉村寅太郎、坂本龍馬などもこの計画に参加すべく脱藩し、京都に向かったのでした。また、長州藩でも薩摩藩に遅れを取ってはならないと久坂玄瑞を中心に暴発の準備を進めていきます。

文久2年3月26日、久光は藩兵千人を率いて上洛を開始します。ところが、当の久光には倒幕の意思など毛頭なく、志士達の期待は迷惑至極なものでしかありませんでした。彼の主張はあくまで公武合体にあったのです。

一方、京都挙兵に参加すべく集まった志士達は、田中河内介、真木和泉らを謀主とし、60名に達しようとしていました。そして、その多くは薩摩藩の精忠組の仲間でした。薩摩藩はこの動きを危ぶみ、彼等を監視する目的で、大坂藩邸二十八番長屋へ収容します。なお、この頃になると、計画の発案者であったはずの清河は、皮肉なことにその腹心の本間精一郎と共に仲間から疎んじられ、この挙からは外されてしまっています。

この騒動を知った西郷は、3月22日に下関を発ち、29日には大坂に着いて暴発を止めようと試みます。ところが久光は、西郷が勝手に下関を離れた事を問題とし、さらには彼を扇動者と誤解して捕らえさせ、鹿児島へ送り返してしまいました。この後、西郷は2度目の島流しに処せられてしまいます。

久光は西郷に代えて大久保利通等を使わして暴発を思いとどまるよう慰撫に努めますが、志士達はかえって激高し、計画を強行して久光を翻意させるべく、薩摩藩邸を出て京都へ向かいます。

4月23日、未明に大坂藩邸を脱けた志士達50余名は、淀川を上って伏見に向い、薩摩藩指定の船宿寺田屋に集結しました。彼等は関白九条尚忠を襲撃し、これに呼応して京都にある長州藩が所司代酒井忠義を襲撃する計画だったと言います。

これより先、4月16日に京都の錦小路藩邸に入っていた久光は、近衛忠房らに会い持論の公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていました。志士たちの挙兵の報に接した久光は驚きますが、朝廷から命じられた任を果たすため、暴発組と同じ精忠組に属する奈良原喜八郎、道島五郎兵衛、鈴木有右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、大山格之助、江夏沖左衛門、森岡善助の8名を鎮撫使に選び、寺田屋に派遣します。彼等は、寺田屋に集結している志士達の中の薩摩藩士達を説得し、久光と面会させるべく藩邸に連れ帰るよう命じられていました。久光は自ら彼等に説諭するつもりだったと言います。ただし、彼らがその命令をきかないときは、臨機応変に処置するようにとも命じています。上記8藩士に特に願い出た上床源助を加えた9名の鎮撫使が寺田屋に到着したのは、丁度薩摩藩士や志士団が武装を整え、出発しようとしているときでした。

奈良原喜八郎らは有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮介の4名を階下に呼び出し、君命を伝えて藩邸に戻るように説得しましたが、有馬らは聞き入れようとしませんでした。押し問答の末、ついに道島が「上意!」と叫ぶなり田中謙助の眉間を斬り、薩摩藩士同士の壮絶な乱闘が始まります。

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柴山は、暴発も捨てられず、かと言って君命にも逆らえず、覚悟を据えて、座ったまま山口に斬られてしまいます。一方、有馬新七の戦いぶりはすさまじいものでした。有馬は道島と渡り合っていたのですが、その最中に刀が折れてしまいます。有馬は折れた刀を捨てるなり道島に抱きつき、道島を壁に押さえ付けながら叫びます。「橋口、おいごと刺せ!」。これを聞いた橋口は、有馬ごと道島を刺し通し、二人を串刺しの様にしてしまいます。

その橋口も、やがて乱刃の中に倒れます。さらに、この乱闘中に2階から降りてきた西田直五郎、弟子丸龍助、森山新五左衛門、橋口伝蔵の4人も戦いに巻き込まれ相次いで落命、鎮撫使側の道島と合わせて9人の命が失われました。

二階にいた人々は、挙兵の準備に追われており、階下の騒ぎには気が付かずに居ました。そこへ、奈良原が現れます。志士たちは、奉行所の手先が現れたかと騒ぎましたが、奈良原は両刀を捨て、もろ肌を脱いで、座敷に上がります。彼は、暴発を思い止まり、京都の薩摩藩邸に入るよう説得を試みます。志士達は収まらず、口々に非難を浴びせかけ進発を主張しますが、奈良原は「行くなら自分を斬って行ってくれ。」と、両手を合わして涙ながらに頼みます。

既に中心人物の一人である有馬を失い、時機が去った事を知った田中、真木らは、奈良原の言を容れ、一同に挙兵の一時中止を説き、薩摩藩邸に移ることに同意します。この奈良原の説得について、後年暴発組の一人だった大山巌は、「あれには勝てなかった。」と述懐しています。挙兵組は薩摩藩邸に着くと長屋に分宿させられました。一方、この報を伝え聞いた長州藩は、島津久光の真意を知り、所司代襲撃を中止しています。

寺田屋事件の参加者のその後については、薩摩藩士22名については本国に送還され、また真木和泉ら他の志士達については、それぞれの出身藩に引き渡されています。ただ、引き渡し先のなかった田中河内之介親子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門の5人は、海路薩摩藩へ向かいますが、田中親子は海上で斬殺され、死体は海に流されてしまいます。また、他の3人も日向上陸と同時に斬殺されています。なぜ、田中達が斬られてしまったのかは、よく判っていません。一説には、過激志士である田中を鹿児島に入れては、どんな騒ぎが起こるか判らないと懸念した久光が内命を下していたとも言い、薩摩藩の別の要路の指示だったとも言います。

田中河内之介の遺骸は、小豆島に流れ着いたのですが、同地では今に至るまで、河内之介にまつわる様々な怪異談が伝わっているとの事です。

以上が事件の概略ですが、ドラマではどう描かれるのでしょうか。西郷はこの事件の直前に捕縛されており、もしかするとそう詳しくは描かれないかもしれませんね。でもドラマの登場人物である有馬新七の見せ場でもあり、激しい殺陣になるのかもしれません。どちらにしてもドラマの背景として知っておくと面白いと思いますので、参考程度にして下さい。

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2018.01.23

第52回 京の冬の旅 ~大黒寺~

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今年も京都冬の旅の非公開文化財特別公開が始まっています。その最初に選んだのは大黒寺、伏見区鷹匠町にある小さな寺です。

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創建は古く平安時代の初期で、真如法親王が開基となっています。真如法親王は桓武天皇の孫で、高岳親王と呼ばれていた頃は嵯峨天皇の皇太子だったのですが、薬子の乱に巻き込まれて廃され、出家して真如法親王と名乗る様になります。その後空海に弟子入りし、その十大弟子の一人となりました。

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大黒寺は初め長福寺と呼ばれていたのですが、1605年(元和元年)に薩摩藩の島津義弘が、島津家の守り本尊と同じ大黒天が藩邸からほど近い長福寺に祀られていたいた事から、時の伏見奉行に頼み込んで藩の祈祷所とし、本尊にちなんで大黒寺と改名させました。

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今回の特別公開では、残念ながら本尊は秘仏であるため見る事は出来ませんが、不動明王像や毘沙門天像を見る事が出来ます。また、幕末に西郷隆盛や大久保利通が集い、国事を論じたという部屋が公開されており、西郷が実際に使ったという筆や硯に触れる事が出来ます。その部屋の欄間には龍の彫り物があり、それもまた必見ですね。

また墓地に行くと、江戸時代中期に幕府より命じられた木曽川治水工事に責任者として従事し、その犠牲者の多さと、多額に膨らんだ工事費の責任を一身に負って切腹して果てた平田靱負の墓を見る事が出来ます。また、寺田屋事件で亡くなった九烈士の墓もあるのですが、それは明日お伝えする事とします。

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2018.01.22

京都・洛中 京都梅の名所案内 ~京都御苑~

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京都御苑も代表的な梅の名所の一つです。ここは梅林が中心となりますが、それ以外にも苑内に梅が散在しています。これはその一つ黒木の梅で、かつては九条家の邸内にあったと言われます。遅咲きの梅で、3月半ば頃に見頃になる事が多いですね。

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梅林にはおよそ200本の梅があり、早咲きから遅咲きまで揃っていますが、見栄えのする木は遅咲きのものが多く、やはり3月半ば頃が一番見応えがあります。

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早咲きの木は梅林よりも出水口周辺の方が多いかな。今年も2月になったら、出水口に行って早咲きの花を探してみようと思っています。

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2018.01.21

西郷どん 第三話「子供は国の宝」

西郷家は莫大な借金を背負っていました。ドラマでは極貧ゆえの借金となっていましたが、実際には知行高を買うための投資でした。薩摩藩には他藩にはない、知行高(高)を売り買いするという制度があったのです。

西郷家ではこの高を買うために板垣という豪農から100両を借金したのですが、その直後に藩による統制で高の価格が上がってしまったのでした。やむなく西郷家ではもう100両借りたのですがそれでも足りず、高は買えずに借金だけが残るという羽目に遭ったのです。このため、元々貧しかった西郷家はますます追い詰められてしまったのですが、それでも律儀に借金を返し続け、明治2年になってようやく返し終えたのでした。

斉興の愛妾由良は江戸の町民の出でしたが斉興の覚え目出度く、久光を生んだ事からも国元では権勢を持っていました。その取り巻きの代表格が調所広鄕であり、島津将曹でした。彼らは斉彬の持つ積極性が島津家の家計を傾けると危ぶみ、より保守性の強い久光の擁立を図っていたのですね。斉興もまた久光の擁立に傾いていた節があるのですが、かと言って英明の名の高い斉彬の廃嫡も出来ずといった具合で、容易に態度を決めかねていたのでした。このため、薩摩藩は斉彬派と久光派の二派に分裂していたのです。

斉彬の子供が次々と死んでいったのは史実にあるとおりで、国元の斉彬派の人たちは由良一派の呪詛に依るものだと思い込んでいました。なにしろ6人もの子供が死んでしまったのですから、何かあると思うのも無理なからぬものかもしれません。確かな証拠は残っていませんが、実際に呪詛が行われていたという伝承も残っているそうです。

斉彬が斉興を追い落とすために、阿部正弘と組んで調所を追い込んだというのも史実にあるとおりです。正広は斉彬の人となりを買っており、二人は日本の将来を憂い合う、肝胆相照らす仲だったのですね。斉彬は調所が密貿易を行っていたのは薩摩藩のためだと知ってはいましたが、自分が薩摩藩の実権を握らなければ日本の未来は無いと思い、正広もまたそれに同意して非常手段に打って出たのでした。調所が毒を仰いだのも史実にあるとおりで、江戸時代の道徳にあっては忠義の誉れと言うべき行為だったのでしょうか。何にせよ、調所の死によって斉興追い落としの企ては頓挫してしまいます。

ドラマでは、調所を殺されたと思った斉興が、有無を言わさずに斉彬派を処罰したと描かれましたが、実際には斉彬の子供が呪い殺されたと思った斉彬派の高崎五郎右衛門らが、由良のみならず、久光までも亡き者にしようと企てたのでした。これが斉彬派の裏切り者によって斉興に密告され、激怒した斉興が一斉処罰に出たというのが事実の様です。

処罰された者は切腹が14人、遠島が9人、その他閉門蟄居など100名近くに上るという大規模なものでした。赤山靭負もまたこの中に含まれるのですが、その死は西郷にも大きな影響を与えます。そのあたりは次回に描かれる様ですね。

順序は逆になりましたが、中村半次郎、後の桐野利秋は、鹿児島城下には住まない外城士、いわゆる郷士でした。城下に住む城下士とは本来同格の扱いだったのですが、この頃になると一格下に見られる様になっていました。城下士は土地を持っていても百姓に耕すいわば不在地主であったのに対し、郷士は自ら鍬を持って土地を耕し、農作業を行っていました。しかし、格は下でも実際の収入は郷士の方が多く、裕福な者が多かったとも言われます。西郷家が借金をした板垣家も郷士だったと考えられています。

半次郎の父が流罪となっていたのは事実で、家禄も召し上げられていました。彼には兄が居たのですが、18歳の時に病没し、その後は小作や開墾畑で家計を支えたと言われます。ドラマで西郷が助けたというのは創作ですね。

次回はいよいよ斉彬が藩主となる様です。どの様に描かれるのか、楽しみにして待ちたいと思います。


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2018.01.20

京都・洛中 京都梅の名所案内 ~北野天満宮~

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北野天満宮は、言わずと知れた梅の名所です。境内には50種1500本の梅があり、2月半ばから3月下旬にかけて咲き乱れます。

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一番の見頃は、早咲きと中咲きが同時に見られる3月の上旬頃かな。これも年によって異なりますが、上手くタイミングが合えば、それは豪華な景色を見ることが出来ますよ。

Kitanotenmangu1801163

少し残念なのは、数年前から無料区域が狭くなった事で、境内の半ば近くが有料区域となっています。以前は梅苑に入らなくても、十分に楽しめたのだけどな。

2月25日には梅花祭が開かれますが、当日入る事はまず無理で、1月25日から配布される前売り券を手に入れて下さい。先着3000名限りで1500円です。

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2018.01.19

京都・洛北 京都梅の名所案内 ~下鴨神社~

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今日からは、取材の都合で昨年に撮った写真からの構成となります。題して梅の名所案内、まずは下鴨神社からです。

Simogamojinja1801152

下鴨神社にある梅は一本だけです。それがなぜ名所と呼ばれるのかと言えば、一本だけでも十分な存在感を見せていること、そして光琳の梅という謂われを持つからです。光琳の梅の名は、尾形光琳が紅白梅図を描いた時に、モデルとしたのがこの梅だったと言われている事に依ります。

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そして、何よりその花が美しい事も人気がある理由の一つですね。盛りになるのは年によって違いますが、概ね2月の半ば以降、末にかけてでしょうか。梅の中では比較的早咲きの仲間に入るのかな。今年もまた、見事な花を見せてくれたらと思っています。

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2018.01.18

京都・洛北 ロウバイ ~京都府立植物園 1.14~

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この日植物園を訪れた一番の目的は、ロウバイを見るためでした。正確にはその香りを楽しむためと言うべきかな。

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今年の寒さでロウバイも遅れているかと懸念していたのですが、ちゃんと咲いて待っていてくれました。つぼみもまだあったので、満開になるのはこれからですね。

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身を切る様な寒さでしたが、そのピンと張り詰めた様な空気の中、澄み切った香りを楽しむのがこの時期の植物園の醍醐味です。まだまだ香りを楽しむ事は出来ますので、冬の植物園を訪れられてみては如何ですか。

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2018.01.17

ねこづらどき14周年

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当ねこづらどきが、本日14周年を迎えました。14年前と言えばブログの草創期で、まだツイッターもフェイスブックも無かった頃です。ブログが最先端を行っていた時代ですね。今はインスタグラムが全盛で、ブログはやや時代遅れとなりつつあるのですが、私的にはじっくりと考えながら書けるブログが向いていると思っています。

でも、14年の年月はさすがに大きく、最近は体力の衰えを実感する様になりました。以前の様には取材に飛び回る事は出来なくなって来ていますが、それでも体力維持のためにもブログは続けるつもりです。量より質とはなかなか行きませんが、これからも当ねこづらどきをよろしくお願いいたします。

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2018.01.16

京都・洛北 ~冬の京都府立植物園 1.14~

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駅伝観戦の後、京都府立植物園を訪れました。花はほとんど咲いていない植物園ですが、閑散とした園内を宝探しの様に見所を探して歩くのが好きなのですよ。

これはその一つ、植物園会館から見た比叡山です。前夜に降った雪が未だ残り、神々しくさえ見えました。

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今の時期、花壇に植えられているのは葉ボタンです。ラベルが立ててあったのですが、ただの色違いだと思っていた葉ボタンにも色々な種類があるのですね。全体に白いのは雪が残っていたからで、これはこれで面白い模様になっていました。

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この菰巻は、冬支度をしたソテツです。冬の植物園ならではの造形の一つですね。

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スプリングエフェメラルの一つ、スノードロップも花盛りを迎えていました。午前中だったら雪の上に咲く光景が見られたのかな。

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椿はまだ咲いている種類は少なく、この桃色雪中花と菊冬至、紅唐子などわずかでした。もう少し咲いているかと思っていたのですけどね。やはり今年は寒すぎるのかな。

期待していたバイカオウレンはまだ咲いておらず、次の楽しみとしておきます。


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2018.01.15

第36回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会

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平成30年1月14日、第36回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会が行われました。今年も観戦したのは4区と7区、鴨川のほとりです。4区で最初に走ってきたのは長野と大阪、激しい先頭争いを見せてくれました。

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このまま大阪か長野がトップで行くのかと思いきや、4区を終わってみると、8位だった長崎がトップに立っていました。廣中選手が区間新記録で7人抜きを果たしたのですね。

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波乱はなおも続きます。7区で選手達を待っていると、先頭で帰ってきたのは兵庫でした。4区では5位だったのがじわじわと順位を上げ、7区で逆転してしまったのでした。兵庫はこの後は先頭を譲ること無く、14年ぶり4回目の優勝を果たしています。

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抜かれてしまった長崎も懸命の走りで前を追いますが、結構な差が付いていました。このあたりが駅伝の怖さ、醍醐味なのでしょうか。

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優勝候補の一角だった京都は、序盤での躓きが響いてこの時点で7位。しかし、最終区での追い込みで、わずか一秒差で長崎を振り切り、2位に入って意地を見せました。連覇はならなかったけれど、立派な成績です。

今回はドラマ「陸王」の影響で選手達の靴にも注目していたのですが、素人目には違いは判らなかったです。専門家が見たらどのメーカーだとか型番だとかが判るのかな。さすがに足袋型のは無かったですけどね。

昨年のように雪こそ降らなかったけれど、寒風吹き荒ぶ中での選手達の走りには熱いものがありました。テレビでの観戦も良いけれど、やはりライブならではの臨場感は代えがたいものがありますね。また来年、観戦に訪れられたらと思っています。


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2018.01.14

西郷どん 第二話「立派なお侍」

小吉といった西郷が、六年後には吉之助と名乗りを変えました。西郷は生涯に何度も名前を変えており、この時も吉之介が正しく、最後に名乗ったのが吉之助でした。ちなみに、諱の隆盛も本当は父の諱で、正しくは隆永でした。明治維新後、位階を授けられるときに、間違えて届け出られたとの事です。名前一つとっても謎の多い人物ですね。

さて、西郷は郡方書役助という役職に就きました。役職と言ってもわずか四石という下級役人で、西郷はこれを10年務めています。ドラマにあった様に西郷は地道に働き、農村の実態をつぶさに知りました。そして、苦しむ農民を見て奉行に年貢の減免を訴えたり、時には自らの俸給からいくばくかの金を融通してやったりもしていました。

ドラマには出てこなかったのですが、彼の上役に迫田利済という人が居て、この上役が良く出来た人だった様です。この迫田が最初に西郷に影響を与えた人物で、西郷が農民に目を向ける様になったのは迫田に依るところが大きいと言われます。

この迫田は、ある年台風の被害があったとき、藩から被害の大小に係わらず決して年貢の減免はするなと通達があったのですが、これを不服とし、役を降りてしまいました。その時、自宅の壁に書いたという歌が今に伝わっています。

虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな 絶てばおのれもともに枯れなん

虫とは為政者、五ふしとは稲つまりは農民、農民が倒れれば為政者も共倒れになるという意味ですね。ドラマで西郷が調所に訴えていたのはこの歌を踏まえてのことでしょう。

薩摩藩がなぜここまで農民に厳しくしたのかと言えば、偏に武士階級が他藩に比べて多かったからです。一説には他藩の4倍ほども居たというのですから、それを支える農民はたまったものではなかったでしょうね。さらには、実質的に支配していた奄美諸島や琉球国に対しても搾取同然の施策を敷いており、被支配者に対する苛烈さは、薩摩という強国が持っていた黒歴史とでもいうべきものでした。

西郷は卑役ながらこの黒歴史に背を向け、農民達に寄り添った施策をしようとします。そして、藩に対して建白書をいくつも出し、やがてそれが斉彬の目にとまり、後の飛躍へのきっかけとなって行きます。

斉彬が父の斉興に嫌われていたのは前回にも書きましたが、その要因は三代前の重豪にまで遡ります。元々、薩摩藩には幕府から命じられた木曽川改修工事の際に出来た借金があったのですが、重豪は幕府の老中松平定信の行った質素倹約を旨とした改革に反発し、開化、積極策を打ち出しました。藩士に華美、浪費を奨励し、自らも率先して行ったのですね。また、将来への投資として藩校造士館を創設し、薬草園を造り、天文暦法を研究する明時館を建設するなどしました。この浪費が祟り、薩摩藩は500万両という莫大な借金を抱える事となったのです。

この借金を返したのが調所広郷でした。彼は大坂の商人と交渉し、500万両を250年賦、無利子という条件を飲ませ、事実上借金を棒引きにしてしまいます。そして、奄美大島や琉球で産出される砂糖、大島紬、琉球絣などを藩の専売制にし、さらには琉球国を通じての密貿易で富を得ました。こうして、江戸、大坂、鹿児島にそれぞれ50万両もの非常金を積み上げたと言われます。調所が薩摩藩で重用される訳ですね。

斉彬はせっかく調所が改革した薩摩藩の経済を、根底から覆す人物と見られていました。重豪の再来として忌み嫌われていたのですね。そこに斉興の愛妾である由良が絡んでくるのですが、そのあたりは次回以降に描かれる様です。どんな展開になるのか、楽しみにして待ちたいと思います。

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2018.01.13

京都・洛東 雪景色 ~平安神宮~

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平安神宮まで歩いてきても、雪は降りしきったままでした。こごこれだけの雪景色を見たのは初めてだったかも知れません。

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こんな日に神苑に入る物好きは私くらいなもので、桜の頃には人混みで埋まる東神苑も静まりかえっています。

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神苑から出てくる頃、やっと晴れ間が見えました。青空を背景にした赤い神殿と白い雪のコントラストが綺麗ですね。さて、今年もこんなチャンスに恵まれたら、どこを歩いてみようかしらん。

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2018.01.12

京都・洛東 雪景色 ~知恩院~

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三門とは空、無相、無作の三解脱門の事。降りしきる雪は、門が象徴する厳しい戒律を、際立たせている様にも感じます。

Tionin1801122

こちらは黒門。あたかも城門の様に見える事から、徳川幕府が知恩院を非常時の砦として築いたという伝承を生みました。でも、一歩入って見上げる石垣を見ると、あながち的外れでもない様な気もします。

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雪の中をさらに歩いて行くと、平安神宮の応天門が見えてきました。平安神宮は平安京の朝堂院を8分5のサイズで再建したものですから、この門も外見は同じなのでしょう。平安期の雪の日には、こんな景色が見えていたのかな。いにしえの世に想いを馳せた一時でした。

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2018.01.11

京都・洛東 雪景色 ~高台寺~

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夜が明けきっても、雪は止みそうにもありませんでした。屋根に降り積もった雪が、家々を静かに眠らせているかの様です。

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何も言わないでこの写真を見せたら、金沢あたりと間違えられるかな。普段の人波に変えて、雪で覆われた二年坂の風景です。

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2018.01.10

京都・洛東 雪景色 ~清水寺~

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清水寺の本堂は現在仮屋根で覆われており、今年雪が降ったとしてもこの景色は見ることは出来ません。そういう意味では貴重なショットです。

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こちらは舞台から見た子安の塔です。モノトーンの世界にぽつんと佇む赤い塔は、妙に印象的でした。

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同じく子安の塔ですが、これは音羽の滝への階段上から撮ったもの。もみじの枝が面白い模様を描いていました。

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そして、雪に煙る三重塔です。画面を覆う雪が見えるかしらん。手がかじかむ寒さだったけど、またこの景色を見たいものだと思っています。

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2018.01.09

京都・洛東 雪景色 ~八坂の塔~

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先週末は所用で京都に行けなかったので、昨年に撮った雪景色をお届けします。まずは八坂の塔から。

この日は京都にしては大雪で、あたかも雪国に居るかの様でした。降りしきる雪のカーテンにぼんやり見える八坂の塔がとても幻想的だったのを覚えています。

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雪の日はしんと静まりかえっていて、傘に当たる雪の音と自分の足音以外は聞こえませんでした。この景色を独り占め出来たのも幸運でしたね。今年もこんなチャンスに恵まれたらなあと思っています。

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2018.01.08

西郷どん 縁の地 ~清水寺~

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京都には西郷隆盛縁の地がいくつかありますが、清水寺もその一つです。塔頭の一つ、成就院の住職であった月照上人が西郷の良き協力者だったのです。

月照は公家と交流があり、とりわけ近衛家とは親しく交わっていました。幕末の混乱期にあっては勤皇思想に目覚め、成就院の住職の座は弟の信海に譲り、自らは在野の勤皇家と近衛家の橋渡しなどを行うなど、勤皇僧として知られる様になっていました。西郷もまた、朝廷工作のために月照に近づき、親交を深めています。島津斉彬が急死したとき、殉死しようとした西郷を引き留めたのが月照だった事は良く知られるところです。

安政の大獄が始まった時には、二人は一橋慶喜を将軍に立て、井伊直弼を大老の座が引きずり下ろすという朝廷工作を行っています。しかし、これが上手く行かず、逆に幕府に知れるところとなった事から、幕吏に追われる身となってしまいました。

西郷は月照を伴って鹿児島まで逃亡しますが、薩摩藩では二人を庇う余裕が無く、日向に追いやってしまいます。前途に絶望した西郷は、逃避行の途中で月照と抱き合って錦江湾に飛び込み、心中を図りました。二人ともすぐに助け上げられたのですが、月照は助からず、西郷だけが生き残ってしまいました。西郷は生涯これを悔い、自らを土中の死骨と称する様になります。

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清水寺の北惣門前には、西郷と月照を顕彰するために、石碑が建てられています。右が西郷が詠んだ弔歌、中央が月照の詠んだ辞世の歌です。ちなみに左は月照の弟の信海の歌で、やはり安政の大獄に連座して捉えられ、獄死したのでした。

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こちらは、最後まで月照に付き従った下僕、重助の碑です。重助は月照の遺骸を南州寺に葬った後幕吏に捉えられ、獄舎に繋がれます。厳しい尋問と拷問を受けたあげく翌年に釈放され、清水寺に茶屋を開く事を許されますが、謀反人として長く白眼視されていました。しかし、明治になってから以後、西郷との再会を果たし、その弟の従道から月照を助けた忠僕と称えられ、この石碑が建てられました。

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現在、清水寺にある忠僕茶屋はその重助の子孫の方が経営されており、月照上人が生きていた証を今に伝えています。

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その忠僕茶屋と似たような茶店に舌切り茶屋があります。良く舌切り雀と関係があるのかと誤解されていますが、この茶屋もまた月照と関わりがあります。

月照上人が鹿児島へ向けて落ちて行った後、幕府はその行方を求めて清水寺の寺男近藤正慎を捕らえ、行き先を聞き出そうとしました。しかし、近藤は厳しい責め苦にも関わらず、頑として口を割ることはなく、最後は頭を壁に打ち付け、舌をかみ切って自ら命を絶ち、秘密を守り通しました。清水寺では、近藤に免じてその子孫に茶屋を開く事を許し、今に至っているのが舌切茶屋なのです。こうしてみると、ちょっと怖い店名ではありますね。

この近藤の顕彰碑もまた、西郷の弔歌の脇に見ることが出来ます。

次に清水寺に行かれる事があったら、西郷と月照の関わりを求めて、境内を散策してみるのも一興ですよ。


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2018.01.07

西郷どん 第一話「薩摩のやっせんぼ」

大河ドラマ西郷どんが始まりました。これから一年間、ねこづらどきでもその展開を追っていきたいと思います。

冒頭、上野の西郷像の除幕式から始まりましたが、その時夫人の糸がこんな人ではなかったと言った事はよく知られています。その理由は、西郷の写真は一枚も無く、銅像は様々な人(弟の従道など)から想像して創作されたものであり、その容貌が本人とは似ても似つかぬものだったからと言われます。その一方で孫の吉之助氏の話として、西郷は礼儀正しい人であり、浴衣姿の様な無様ななりで人前に出るような人ではなかったからだとも言い、糸夫人は終生それが不満だったとも伝えられます。どちらが正しいかは良く判らない様ですね。

さて、時は1840年に遡ります。小吉と呼ばれた西郷が数えで14歳の時ですね。当時の薩摩では、城下の町を方限(ほうぎり)といういくつかの郷に分けており、その郷ごとに教育が行われていました。これを郷中(ごうちゅう、または、ごじゅうとも)教育と言い、7、8歳から24歳までの青少年で構成されていました。このうち10歳までを小稚児、14、5歳までを長(おせ)稚児、それ以上は二才(にせ)と呼ばれました。それぞれの段階で頭があり、その下を統べるという仕組みでした。だからこの当時の小吉は長稚児の頭という事になりましょうか。

西郷が居たのは下鍛冶屋郷中で、わずか70戸ほどの小さな集落でしたが、大久保利通や吉井友実、大山巌、東郷平八郎など後の明治を支えた人材を排出しました。長州藩の松下村塾と比肩する希有な存在と言えましょうか。

ドラマにあった様に郷中同士の争いは結構あったらしく、西郷の下鍛冶屋町も上方限の少年達と争いになり、その場は素手で組み討ちして下鍛冶屋町の勝ちとなりました。しかし、恨みを持った上方限の横堀三郎という少年が、後日西郷を襲って鞘ごと刀で切りつけ、その際に鞘が割れて西郷の肩を傷つけたのでした。このため西郷は腕の曲げ伸ばしが不自由になり、剣術が出来なくなったのはドラマで描かれたとおりです。この後、西郷は学問で身を立てようと決心したと言われます。

そのドラマで出てきた妙円寺詣でですが、本来は島津義弘の菩提寺である妙円寺に、夜間静かに参ったものでした。西郷たちが争ったのはこの妙円寺詣での帰りの事です。先を競って走ったのは日新寺詣でで、義弘の父である島津日新の菩提寺に参るのが目的でした。ドラマでこれを入れ替えたのは、日新寺詣での方が威勢が良いからでしょうか。なお、後の糸婦人が一緒に走ったというのは創作です。

さて、西郷が仕えたいと訴えた斉彬ですが、島津家の世子であり、幕府に対する人質扱であったため、原則として江戸住まいでした。藩主となるまでに国元に帰ったのは三度であり、1840年には記録されていません。実際に国元に帰っているのは1846年の事で、琉球国にやって来て開国を求めたフランス船に対応するためでした。この時、斉彬は琉球王に対して、交易と交際だけは認め、キリスト教の布教は認めないという方針を示し、見事に事を納めています。もし、西郷が斉彬の人となりを知ったとすれば、この事件の際かと思われます。

斉彬は非常に優れた人で、同時代の人々にも英明な人物として高く評価されていました。しかし、藩主となったのは当時としては異例に遅い43歳の時で、その理由は父である斉興が容易に後を譲らなかったからでした。その理由としては、ドラマで軽く触れられていた様に斉彬が薩摩藩の能力を超えた改革をしようとし、藩を潰しかねない浪費家と見られていたからでした。薩摩藩はその少し前に五〇〇万両という膨大な借金を返済したばかりだったのですね。その斉彬がどうやって藩主となったかはこれから描かれるのでしょう。

次回からは大人になった西郷が登場する様ですね。やっせんぼと言われた西郷が、これからどの様に成長していくのか、楽しみにして待ちたいと思います。

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2018.01.06

京都・洛中 レストラン ルナール ブルー

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フレンチレストラン「ルナール ブルー」は、姉小路高倉東入るにあります。付近は住宅街で、歩いているとぽつんと現れるという印象です。

店名を直訳すると青い狐、その由来は幸福の青と日本の童話「手袋を買いに」に出てくる狐から取ったのだとか。フレンチにしては面白い名前の付け方ですね。

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訪れたのは昨年の暮れ、我が家の忘年会としてでした。ここを選んだのはさんざん空いている店を探し回ったあげく、やっと予約が取れたからというのが実情です。でも、結果的にここを選んだのは正解でした。

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コース料理は4500円から8500円までの4種類、我が家が選んだのは4500円のコースでした。これもまた正解でしたね。なぜって、食べ終わった時点で満腹で、これ以上食べられなかったからです。

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4500円で税・サービス料込みなんて安すぎると思うでしょう。実際、どんな料理が出てくるのかと不安でした。でも、一皿目からその不安は一掃されました。とにかくボリュームがあって、なにより洗練された美味しさなのですよ。

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席数は33席ですが、ほぼ満席だった理由が判りました。この値段で、これだけ美味しい料理を出してくれる所は他に知りません。本当に元が取れているのかと余計な心配をする程です。

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手頃な値段で本格的なフランス料理が食べられる店として、ルナール ブルーはお勧めの店です。この日も予約で満席だったので、あらかじめ予約をして行かれると良いですよ。

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2018.01.05

京都・洛中 新京極8社寺 ~錦天満宮~

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京の台所として知られる錦小路の東の突き当たりにあるのが錦天満宮です。門を潜るとまず黄金色に光る臥牛が出迎えてくれます。

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この臥牛は天満宮には必ずあるものですが、元を正せば農耕神として信仰されていた天つ神「天神」を祀る神社に農耕のシンボル、あるいは天神の使いとして置かれていたものでした。その後、菅原道真公が非業の死を遂げるとその祟りを鎮めるため天満大自在天神として祀られる様になります。この天神と本来の天神が混同され、さらには道真公にまつわる牛の伝承とが結びつき、天満宮には牛の像が置かれる様になったのです。

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さて、錦天満宮で人気があるのがこのからくりみくじです。お金を入れるとロボットの唐獅子が動いておみくじを引いてくれるのですが、英文のものまである事からか外国人にも好評なのだとか。商売繁盛を謳う神社らしい商才と言うべきでしょうか。

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錦天満宮には本殿の他に、塩竈神社、日之出稲荷神社、白太夫神社、七社之宮という摂社があります。あまりお参りする人は見かけませんが、狭い境内にこれだけの神様が祀られているのは、雨宝院にも劣らない凝縮感があります。

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本殿横では梅のつぼみが少しだけ膨らんでいました。開花まではまだ時間が掛かるでしょうけど、町中で梅が見られるのは嬉しいですね。この日咲いていたのは寒椿。花の少ないモノトーンの世界にあっては、貴重な赤色です。

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2018.01.04

京都・洛中 新京極8社寺 ~善長寺~

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新京極蛸薬師通を下がったところに善長寺があります。とても小さな寺なので、うっかりすると見落としてしまうほどですね。でも創建は室町時代の事で、安土桃山期には徳川家康の上洛時の宿所となったという深い歴史を持つ寺なのです。

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当初は綾小路室町西にあり、現在は大原神社が建っています。祇園祭の綾傘鉾の会所と言った方が判りやすいかな。大原神社は当初は善長寺の鎮守社として、福知山の大原神社より勧請されました。安土桃山期に善長寺が現在地に移った際に神社はそのまま残され、瘡の平癒に御利益のある神社として信仰を集めました。その縁から善長寺の秘仏である地蔵尊も同様に瘡に御利益があるとされ、さらに疫病に御利益のある地蔵尊としてかさ地蔵尊と呼ばれる様になりました。

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このかさ地蔵尊は元は立江地蔵尊と呼ばれ、四国八十八カ所霊場の一つ立江寺の地蔵尊の分身として祀られたものと言われます。今は忘れられた様な善長寺ですが、少し調べただけでもこれだけの謂われを持つのはさすがは京都と言うべきでしょうか。新京極の東側、香水店の向かい側にあるので、探しながら歩いてみて下さい。

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2018.01.03

京都・洛中 新京極8社寺 ~誠心院~

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新京極8社寺の一つに誠心院があります。正式には華獄山東北寺誠心院という名称で真言宗泉涌寺派に属し、平安期に創建された由緒ある寺です。

Seisinin1801032

開基は藤原道長で、初代住職は和泉式部と伝えられます。法正寺の東北院の傍ら(現在の荒神口付近)に建てられた事から、東北院誠心院と名付けられました。後に小川通一条上ル誓願寺の南に移転し、さらに安土桃山期に現在地に移転しています。

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本堂裏手にあるこの宝篋印塔は和泉式部の墓と伝えられるもので、1313年に改修されています。江戸期には和泉式部由来の軒端の梅がこの傍らにありました。

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ところで、軒端の梅と言えば神楽岡の東北院にもあり、元は隣りあっていた寺同士という事でしょうか。辿った歴史はそれぞれ異なりますが、梅の銘木で今も繋がっているところが興味深いですね。

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誠心院は幕末から明治にかけて衰え、一時は荒廃しきっていたのですが、大正期に入って本堂が再建され、さらに平成9年には山門が再建されて現在に至っています。

賑やかな新京極から一歩山門を潜れば静かな境内が広がっているのですが、それでも意外なほど参拝者は多いですね。やはり和泉式部を偲んで訪れる人が多いのでしょうか。新京極を訪れた際には誠心院で、恋多き人、和泉式部に想いを馳せるのも一興ですよ。

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2018.01.02

京都・洛中 正月の風景 ~新京極~

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京都の正月風景、今年は新京極からお届けします。とは言っても、実際に訪れたのは昨年末の事なのですけどね。

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新京極は京都の町中にある商店街です。明治5年に寺町にあった社寺の境内を整理し、新たに歓楽街として整備されたのが始まりでした。明治30年頃には、東京の浅草、大阪の千日前と共に日本三大盛り場と呼ばれるまでに発展を遂げています。

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今は京都駅前や郊外型のショッピングセンターなどに客足を奪われている様ですが、それでも京都屈指の繁華街として健在なのは頼もしい限りですね。その鍵は、常に新しい客層に合わせた店舗が入れ替わり立ち替わり現れている事にある様です。

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その一方で、かつての寺町としての名残である8社寺の御朱印巡りを考案するなど、京都らしい歴史を生かした企画も行われています。その一つが誓願寺。元は天智天皇の勅願寺として、奈良の尼ヶ辻にありました。後に平安遷都に伴い京の地に移り、さらに安土桃山期に現在地に移っています。

落語発祥の地としても知られ、江戸期から境内地は歓楽街として賑わっていました。その名残の一つが山門左側にある迷子みちし留遍と刻まれた石柱で、迷子が出た時にはその子の名前を記した紙をこの石に貼り付け、見つけた人は石柱の裏にその情報を記した紙を貼り付けるという仕組みでした。無論今は機能していませんが、繁華街ならではの風習だったと言えましょうか。

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常に変わりつつある新京極の象徴の一つとして、カフェの進出があります。そんな店の前にあった巨大な熊のぬいぐるみ。ハグ・ミーとありましたから、本来は抱きつくためのものなのかしらん。こんなディスプレイが不自然で無いのが今の新京極です。これからもきっと時代に合わせた変化をしつつ、繁華街として賑わって行くことでしょうね。

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2018.01.01

あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。
昨年末は体調を崩してしまい、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
現在は年末にかけて徐々に回復し、なんとか京都へ行けるまでには回復しています。
まだ無理は利かないので日々更新が出来るかどうかは自信がないのですが、
出来る範囲で続けて行きたいと思っています。

2018年が皆様にとって良い年になりますように。
今年も当ねこづらどきをよろしくお願い致します。


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