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2018年1月

2018.01.18

京都・洛北 ロウバイ ~京都府立植物園 1.14~

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この日植物園を訪れた一番の目的は、ロウバイを見るためでした。正確にはその香りを楽しむためと言うべきかな。

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今年の寒さでロウバイも遅れているかと懸念していたのですが、ちゃんと咲いて待っていてくれました。つぼみもまだあったので、満開になるのはこれからですね。

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身を切る様な寒さでしたが、そのピンと張り詰めた様な空気の中、澄み切った香りを楽しむのがこの時期の植物園の醍醐味です。まだまだ香りを楽しむ事は出来ますので、冬の植物園を訪れられてみては如何ですか。

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2018.01.17

ねこづらどき14周年

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当ねこづらどきが、本日14周年を迎えました。14年前と言えばブログの草創期で、まだツイッターもフェイスブックも無かった頃です。ブログが最先端を行っていた時代ですね。今はインスタグラムが全盛で、ブログはやや時代遅れとなりつつあるのですが、私的にはじっくりと考えながら書けるブログが向いていると思っています。

でも、14年の年月はさすがに大きく、最近は体力の衰えを実感する様になりました。以前の様には取材に飛び回る事は出来なくなって来ていますが、それでも体力維持のためにもブログは続けるつもりです。量より質とはなかなか行きませんが、これからも当ねこづらどきをよろしくお願いいたします。

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2018.01.16

京都・洛北 ~冬の京都府立植物園 1.14~

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駅伝観戦の後、京都府立植物園を訪れました。花はほとんど咲いていない植物園ですが、閑散とした園内を宝探しの様に見所を探して歩くのが好きなのですよ。

これはその一つ、植物園会館から見た比叡山です。前夜に降った雪が未だ残り、神々しくさえ見えました。

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今の時期、花壇に植えられているのは葉ボタンです。ラベルが立ててあったのですが、ただの色違いだと思っていた葉ボタンにも色々な種類があるのですね。全体に白いのは雪が残っていたからで、これはこれで面白い模様になっていました。

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この菰巻は、冬支度をしたソテツです。冬の植物園ならではの造形の一つですね。

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スプリングエフェメラルの一つ、スノードロップも花盛りを迎えていました。午前中だったら雪の上に咲く光景が見られたのかな。

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椿はまだ咲いている種類は少なく、この桃色雪中花と菊冬至、紅唐子などわずかでした。もう少し咲いているかと思っていたのですけどね。やはり今年は寒すぎるのかな。

期待していたバイカオウレンはまだ咲いておらず、次の楽しみとしておきます。


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2018.01.15

第36回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会

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平成30年1月14日、第36回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会が行われました。今年も観戦したのは4区と7区、鴨川のほとりです。4区で最初に走ってきたのは長野と大阪、激しい先頭争いを見せてくれました。

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このまま大阪か長野がトップで行くのかと思いきや、4区を終わってみると、8位だった長崎がトップに立っていました。廣中選手が区間新記録で7人抜きを果たしたのですね。

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波乱はなおも続きます。7区で選手達を待っていると、先頭で帰ってきたのは兵庫でした。4区では5位だったのがじわじわと順位を上げ、7区で逆転してしまったのでした。兵庫はこの後は先頭を譲ること無く、14年ぶり4回目の優勝を果たしています。

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抜かれてしまった長崎も懸命の走りで前を追いますが、結構な差が付いていました。このあたりが駅伝の怖さ、醍醐味なのでしょうか。

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優勝候補の一角だった京都は、序盤での躓きが響いてこの時点で7位。しかし、最終区での追い込みで、わずか一秒差で長崎を振り切り、2位に入って意地を見せました。連覇はならなかったけれど、立派な成績です。

今回はドラマ「陸王」の影響で選手達の靴にも注目していたのですが、素人目には違いは判らなかったです。専門家が見たらどのメーカーだとか型番だとかが判るのかな。さすがに足袋型のは無かったですけどね。

昨年のように雪こそ降らなかったけれど、寒風吹き荒ぶ中での選手達の走りには熱いものがありました。テレビでの観戦も良いけれど、やはりライブならではの臨場感は代えがたいものがありますね。また来年、観戦に訪れられたらと思っています。


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2018.01.14

西郷どん 第二話「立派なお侍」

小吉といった西郷が、六年後には吉之助と名乗りを変えました。西郷は生涯に何度も名前を変えており、この時も吉之介が正しく、最後に名乗ったのが吉之助でした。ちなみに、諱の隆盛も本当は父の諱で、正しくは隆永でした。明治維新後、位階を授けられるときに、間違えて届け出られたとの事です。名前一つとっても謎の多い人物ですね。

さて、西郷は郡方書役助という役職に就きました。役職と言ってもわずか四石という下級役人で、西郷はこれを10年務めています。ドラマにあった様に西郷は地道に働き、農村の実態をつぶさに知りました。そして、苦しむ農民を見て奉行に年貢の減免を訴えたり、時には自らの俸給からいくばくかの金を融通してやったりもしていました。

ドラマには出てこなかったのですが、彼の上役に迫田利済という人が居て、この上役が良く出来た人だった様です。この迫田が最初に西郷に影響を与えた人物で、西郷が農民に目を向ける様になったのは迫田に依るところが大きいと言われます。

この迫田は、ある年台風の被害があったとき、藩から被害の大小に係わらず決して年貢の減免はするなと通達があったのですが、これを不服とし、役を降りてしまいました。その時、自宅の壁に書いたという歌が今に伝わっています。

虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな 絶てばおのれもともに枯れなん

虫とは為政者、五ふしとは稲つまりは農民、農民が倒れれば為政者も共倒れになるという意味ですね。ドラマで西郷が調所に訴えていたのはこの歌を踏まえてのことでしょう。

薩摩藩がなぜここまで農民に厳しくしたのかと言えば、偏に武士階級が他藩に比べて多かったからです。一説には他藩の4倍ほども居たというのですから、それを支える農民はたまったものではなかったでしょうね。さらには、実質的に支配していた奄美諸島や琉球国に対しても搾取同然の施策を敷いており、被支配者に対する苛烈さは、薩摩という強国が持っていた黒歴史とでもいうべきものでした。

西郷は卑役ながらこの黒歴史に背を向け、農民達に寄り添った施策をしようとします。そして、藩に対して建白書をいくつも出し、やがてそれが斉彬の目にとまり、後の飛躍へのきっかけとなって行きます。

斉彬が父の斉興に嫌われていたのは前回にも書きましたが、その要因は三代前の重豪にまで遡ります。元々、薩摩藩には幕府から命じられた木曽川改修工事の際に出来た借金があったのですが、重豪は幕府の老中松平定信の行った質素倹約を旨とした改革に反発し、開化、積極策を打ち出しました。藩士に華美、浪費を奨励し、自らも率先して行ったのですね。また、将来への投資として藩校造士館を創設し、薬草園を造り、天文暦法を研究する明時館を建設するなどしました。この浪費が祟り、薩摩藩は500万両という莫大な借金を抱える事となったのです。

この借金を返したのが調所広郷でした。彼は大坂の商人と交渉し、500万両を250年賦、無利子という条件を飲ませ、事実上借金を棒引きにしてしまいます。そして、奄美大島や琉球で産出される砂糖、大島紬、琉球絣などを藩の専売制にし、さらには琉球国を通じての密貿易で富を得ました。こうして、江戸、大坂、鹿児島にそれぞれ50万両もの非常金を積み上げたと言われます。調所が薩摩藩で重用される訳ですね。

斉彬はせっかく調所が改革した薩摩藩の経済を、根底から覆す人物と見られていました。重豪の再来として忌み嫌われていたのですね。そこに斉興の愛妾である由良が絡んでくるのですが、そのあたりは次回以降に描かれる様です。どんな展開になるのか、楽しみにして待ちたいと思います。

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2018.01.13

京都・洛東 雪景色 ~平安神宮~

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平安神宮まで歩いてきても、雪は降りしきったままでした。こごこれだけの雪景色を見たのは初めてだったかも知れません。

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こんな日に神苑に入る物好きは私くらいなもので、桜の頃には人混みで埋まる東神苑も静まりかえっています。

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神苑から出てくる頃、やっと晴れ間が見えました。青空を背景にした赤い神殿と白い雪のコントラストが綺麗ですね。さて、今年もこんなチャンスに恵まれたら、どこを歩いてみようかしらん。

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2018.01.12

京都・洛東 雪景色 ~知恩院~

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三門とは空、無相、無作の三解脱門の事。降りしきる雪は、門が象徴する厳しい戒律を、際立たせている様にも感じます。

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こちらは黒門。あたかも城門の様に見える事から、徳川幕府が知恩院を非常時の砦として築いたという伝承を生みました。でも、一歩入って見上げる石垣を見ると、あながち的外れでもない様な気もします。

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雪の中をさらに歩いて行くと、平安神宮の応天門が見えてきました。平安神宮は平安京の朝堂院を8分5のサイズで再建したものですから、この門も外見は同じなのでしょう。平安期の雪の日には、こんな景色が見えていたのかな。いにしえの世に想いを馳せた一時でした。

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2018.01.11

京都・洛東 雪景色 ~高台寺~

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夜が明けきっても、雪は止みそうにもありませんでした。屋根に降り積もった雪が、家々を静かに眠らせているかの様です。

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何も言わないでこの写真を見せたら、金沢あたりと間違えられるかな。普段の人波に変えて、雪で覆われた二年坂の風景です。

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2018.01.10

京都・洛東 雪景色 ~清水寺~

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清水寺の本堂は現在仮屋根で覆われており、今年雪が降ったとしてもこの景色は見ることは出来ません。そういう意味では貴重なショットです。

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こちらは舞台から見た子安の塔です。モノトーンの世界にぽつんと佇む赤い塔は、妙に印象的でした。

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同じく子安の塔ですが、これは音羽の滝への階段上から撮ったもの。もみじの枝が面白い模様を描いていました。

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そして、雪に煙る三重塔です。画面を覆う雪が見えるかしらん。手がかじかむ寒さだったけど、またこの景色を見たいものだと思っています。

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2018.01.09

京都・洛東 雪景色 ~八坂の塔~

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先週末は所用で京都に行けなかったので、昨年に撮った雪景色をお届けします。まずは八坂の塔から。

この日は京都にしては大雪で、あたかも雪国に居るかの様でした。降りしきる雪のカーテンにぼんやり見える八坂の塔がとても幻想的だったのを覚えています。

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雪の日はしんと静まりかえっていて、傘に当たる雪の音と自分の足音以外は聞こえませんでした。この景色を独り占め出来たのも幸運でしたね。今年もこんなチャンスに恵まれたらなあと思っています。

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2018.01.08

西郷どん 縁の地 ~清水寺~

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京都には西郷隆盛縁の地がいくつかありますが、清水寺もその一つです。塔頭の一つ、成就院の住職であった月照上人が西郷の良き協力者だったのです。

月照は公家と交流があり、とりわけ近衛家とは親しく交わっていました。幕末の混乱期にあっては勤皇思想に目覚め、成就院の住職の座は弟の信海に譲り、自らは在野の勤皇家と近衛家の橋渡しなどを行うなど、勤皇僧として知られる様になっていました。西郷もまた、朝廷工作のために月照に近づき、親交を深めています。島津斉彬が急死したとき、殉死しようとした西郷を引き留めたのが月照だった事は良く知られるところです。

安政の大獄が始まった時には、二人は一橋慶喜を将軍に立て、井伊直弼を大老の座が引きずり下ろすという朝廷工作を行っています。しかし、これが上手く行かず、逆に幕府に知れるところとなった事から、幕吏に追われる身となってしまいました。

西郷は月照を伴って鹿児島まで逃亡しますが、薩摩藩では二人を庇う余裕が無く、日向に追いやってしまいます。前途に絶望した西郷は、逃避行の途中で月照と抱き合って錦江湾に飛び込み、心中を図りました。二人ともすぐに助け上げられたのですが、月照は助からず、西郷だけが生き残ってしまいました。西郷は生涯これを悔い、自らを土中の死骨と称する様になります。

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清水寺の北惣門前には、西郷と月照を顕彰するために、石碑が建てられています。右が西郷が詠んだ弔歌、中央が月照の詠んだ辞世の歌です。ちなみに左は月照の弟の信海の歌で、やはり安政の大獄に連座して捉えられ、獄死したのでした。

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こちらは、最後まで月照に付き従った下僕、重助の碑です。重助は月照の遺骸を南州寺に葬った後幕吏に捉えられ、獄舎に繋がれます。厳しい尋問と拷問を受けたあげく翌年に釈放され、清水寺に茶屋を開く事を許されますが、謀反人として長く白眼視されていました。しかし、明治になってから以後、西郷との再会を果たし、その弟の従道から月照を助けた忠僕と称えられ、この石碑が建てられました。

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現在、清水寺にある忠僕茶屋はその重助の子孫の方が経営されており、月照上人が生きていた証を今に伝えています。

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その忠僕茶屋と似たような茶店に舌切り茶屋があります。良く舌切り雀と関係があるのかと誤解されていますが、この茶屋もまた月照と関わりがあります。

月照上人が鹿児島へ向けて落ちて行った後、幕府はその行方を求めて清水寺の寺男近藤正慎を捕らえ、行き先を聞き出そうとしました。しかし、近藤は厳しい責め苦にも関わらず、頑として口を割ることはなく、最後は頭を壁に打ち付け、舌をかみ切って自ら命を絶ち、秘密を守り通しました。清水寺では、近藤に免じてその子孫に茶屋を開く事を許し、今に至っているのが舌切茶屋なのです。こうしてみると、ちょっと怖い店名ではありますね。

この近藤の顕彰碑もまた、西郷の弔歌の脇に見ることが出来ます。

次に清水寺に行かれる事があったら、西郷と月照の関わりを求めて、境内を散策してみるのも一興ですよ。


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2018.01.07

西郷どん 第一話「薩摩のやっせんぼ」

大河ドラマ西郷どんが始まりました。これから一年間、ねこづらどきでもその展開を追っていきたいと思います。

冒頭、上野の西郷像の除幕式から始まりましたが、その時夫人の糸がこんな人ではなかったと言った事はよく知られています。その理由は、西郷の写真は一枚も無く、銅像は様々な人(弟の従道など)から想像して創作されたものであり、その容貌が本人とは似ても似つかぬものだったからと言われます。その一方で孫の吉之助氏の話として、西郷は礼儀正しい人であり、浴衣姿の様な無様ななりで人前に出るような人ではなかったからだとも言い、糸夫人は終生それが不満だったとも伝えられます。どちらが正しいかは良く判らない様ですね。

さて、時は1840年に遡ります。小吉と呼ばれた西郷が数えで14歳の時ですね。当時の薩摩では、城下の町を方限(ほうぎり)といういくつかの郷に分けており、その郷ごとに教育が行われていました。これを郷中(ごうちゅう、または、ごじゅうとも)教育と言い、7、8歳から24歳までの青少年で構成されていました。このうち10歳までを小稚児、14、5歳までを長(おせ)稚児、それ以上は二才(にせ)と呼ばれました。それぞれの段階で頭があり、その下を統べるという仕組みでした。だからこの当時の小吉は長稚児の頭という事になりましょうか。

西郷が居たのは下鍛冶屋郷中で、わずか70戸ほどの小さな集落でしたが、大久保利通や吉井友実、大山巌、東郷平八郎など後の明治を支えた人材を排出しました。長州藩の松下村塾と比肩する希有な存在と言えましょうか。

ドラマにあった様に郷中同士の争いは結構あったらしく、西郷の下鍛冶屋町も上方限の少年達と争いになり、その場は素手で組み討ちして下鍛冶屋町の勝ちとなりました。しかし、恨みを持った上方限の横堀三郎という少年が、後日西郷を襲って鞘ごと刀で切りつけ、その際に鞘が割れて西郷の肩を傷つけたのでした。このため西郷は腕の曲げ伸ばしが不自由になり、剣術が出来なくなったのはドラマで描かれたとおりです。この後、西郷は学問で身を立てようと決心したと言われます。

そのドラマで出てきた妙円寺詣でですが、本来は島津義弘の菩提寺である妙円寺に、夜間静かに参ったものでした。西郷たちが争ったのはこの妙円寺詣での帰りの事です。先を競って走ったのは日新寺詣でで、義弘の父である島津日新の菩提寺に参るのが目的でした。ドラマでこれを入れ替えたのは、日新寺詣での方が威勢が良いからでしょうか。なお、後の糸婦人が一緒に走ったというのは創作です。

さて、西郷が仕えたいと訴えた斉彬ですが、島津家の世子であり、幕府に対する人質扱であったため、原則として江戸住まいでした。藩主となるまでに国元に帰ったのは三度であり、1840年には記録されていません。実際に国元に帰っているのは1846年の事で、琉球国にやって来て開国を求めたフランス船に対応するためでした。この時、斉彬は琉球王に対して、交易と交際だけは認め、キリスト教の布教は認めないという方針を示し、見事に事を納めています。もし、西郷が斉彬の人となりを知ったとすれば、この事件の際かと思われます。

斉彬は非常に優れた人で、同時代の人々にも英明な人物として高く評価されていました。しかし、藩主となったのは当時としては異例に遅い43歳の時で、その理由は父である斉興が容易に後を譲らなかったからでした。その理由としては、ドラマで軽く触れられていた様に斉彬が薩摩藩の能力を超えた改革をしようとし、藩を潰しかねない浪費家と見られていたからでした。薩摩藩はその少し前に五〇〇万両という膨大な借金を返済したばかりだったのですね。その斉彬がどうやって藩主となったかはこれから描かれるのでしょう。

次回からは大人になった西郷が登場する様ですね。やっせんぼと言われた西郷が、これからどの様に成長していくのか、楽しみにして待ちたいと思います。

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2018.01.06

京都・洛中 レストラン ルナール ブルー

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フレンチレストラン「ルナール ブルー」は、姉小路高倉東入るにあります。付近は住宅街で、歩いているとぽつんと現れるという印象です。

店名を直訳すると青い狐、その由来は幸福の青と日本の童話「手袋を買いに」に出てくる狐から取ったのだとか。フレンチにしては面白い名前の付け方ですね。

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訪れたのは昨年の暮れ、我が家の忘年会としてでした。ここを選んだのはさんざん空いている店を探し回ったあげく、やっと予約が取れたからというのが実情です。でも、結果的にここを選んだのは正解でした。

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コース料理は4500円から8500円までの4種類、我が家が選んだのは4500円のコースでした。これもまた正解でしたね。なぜって、食べ終わった時点で満腹で、これ以上食べられなかったからです。

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4500円で税・サービス料込みなんて安すぎると思うでしょう。実際、どんな料理が出てくるのかと不安でした。でも、一皿目からその不安は一掃されました。とにかくボリュームがあって、なにより洗練された美味しさなのですよ。

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席数は33席ですが、ほぼ満席だった理由が判りました。この値段で、これだけ美味しい料理を出してくれる所は他に知りません。本当に元が取れているのかと余計な心配をする程です。

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手頃な値段で本格的なフランス料理が食べられる店として、ルナール ブルーはお勧めの店です。この日も予約で満席だったので、あらかじめ予約をして行かれると良いですよ。

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2018.01.05

京都・洛中 新京極8社寺 ~錦天満宮~

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京の台所として知られる錦小路の東の突き当たりにあるのが錦天満宮です。門を潜るとまず黄金色に光る臥牛が出迎えてくれます。

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この臥牛は天満宮には必ずあるものですが、元を正せば農耕神として信仰されていた天つ神「天神」を祀る神社に農耕のシンボル、あるいは天神の使いとして置かれていたものでした。その後、菅原道真公が非業の死を遂げるとその祟りを鎮めるため天満大自在天神として祀られる様になります。この天神と本来の天神が混同され、さらには道真公にまつわる牛の伝承とが結びつき、天満宮には牛の像が置かれる様になったのです。

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さて、錦天満宮で人気があるのがこのからくりみくじです。お金を入れるとロボットの唐獅子が動いておみくじを引いてくれるのですが、英文のものまである事からか外国人にも好評なのだとか。商売繁盛を謳う神社らしい商才と言うべきでしょうか。

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錦天満宮には本殿の他に、塩竈神社、日之出稲荷神社、白太夫神社、七社之宮という摂社があります。あまりお参りする人は見かけませんが、狭い境内にこれだけの神様が祀られているのは、雨宝院にも劣らない凝縮感があります。

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本殿横では梅のつぼみが少しだけ膨らんでいました。開花まではまだ時間が掛かるでしょうけど、町中で梅が見られるのは嬉しいですね。この日咲いていたのは寒椿。花の少ないモノトーンの世界にあっては、貴重な赤色です。

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2018.01.04

京都・洛中 新京極8社寺 ~善長寺~

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新京極蛸薬師通を下がったところに善長寺があります。とても小さな寺なので、うっかりすると見落としてしまうほどですね。でも創建は室町時代の事で、安土桃山期には徳川家康の上洛時の宿所となったという深い歴史を持つ寺なのです。

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当初は綾小路室町西にあり、現在は大原神社が建っています。祇園祭の綾傘鉾の会所と言った方が判りやすいかな。大原神社は当初は善長寺の鎮守社として、福知山の大原神社より勧請されました。安土桃山期に善長寺が現在地に移った際に神社はそのまま残され、瘡の平癒に御利益のある神社として信仰を集めました。その縁から善長寺の秘仏である地蔵尊も同様に瘡に御利益があるとされ、さらに疫病に御利益のある地蔵尊としてかさ地蔵尊と呼ばれる様になりました。

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このかさ地蔵尊は元は立江地蔵尊と呼ばれ、四国八十八カ所霊場の一つ立江寺の地蔵尊の分身として祀られたものと言われます。今は忘れられた様な善長寺ですが、少し調べただけでもこれだけの謂われを持つのはさすがは京都と言うべきでしょうか。新京極の東側、香水店の向かい側にあるので、探しながら歩いてみて下さい。

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2018.01.03

京都・洛中 新京極8社寺 ~誠心院~

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新京極8社寺の一つに誠心院があります。正式には華獄山東北寺誠心院という名称で真言宗泉涌寺派に属し、平安期に創建された由緒ある寺です。

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開基は藤原道長で、初代住職は和泉式部と伝えられます。法正寺の東北院の傍ら(現在の荒神口付近)に建てられた事から、東北院誠心院と名付けられました。後に小川通一条上ル誓願寺の南に移転し、さらに安土桃山期に現在地に移転しています。

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本堂裏手にあるこの宝篋印塔は和泉式部の墓と伝えられるもので、1313年に改修されています。江戸期には和泉式部由来の軒端の梅がこの傍らにありました。

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ところで、軒端の梅と言えば神楽岡の東北院にもあり、元は隣りあっていた寺同士という事でしょうか。辿った歴史はそれぞれ異なりますが、梅の銘木で今も繋がっているところが興味深いですね。

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誠心院は幕末から明治にかけて衰え、一時は荒廃しきっていたのですが、大正期に入って本堂が再建され、さらに平成9年には山門が再建されて現在に至っています。

賑やかな新京極から一歩山門を潜れば静かな境内が広がっているのですが、それでも意外なほど参拝者は多いですね。やはり和泉式部を偲んで訪れる人が多いのでしょうか。新京極を訪れた際には誠心院で、恋多き人、和泉式部に想いを馳せるのも一興ですよ。

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2018.01.02

京都・洛中 正月の風景 ~新京極~

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京都の正月風景、今年は新京極からお届けします。とは言っても、実際に訪れたのは昨年末の事なのですけどね。

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新京極は京都の町中にある商店街です。明治5年に寺町にあった社寺の境内を整理し、新たに歓楽街として整備されたのが始まりでした。明治30年頃には、東京の浅草、大阪の千日前と共に日本三大盛り場と呼ばれるまでに発展を遂げています。

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今は京都駅前や郊外型のショッピングセンターなどに客足を奪われている様ですが、それでも京都屈指の繁華街として健在なのは頼もしい限りですね。その鍵は、常に新しい客層に合わせた店舗が入れ替わり立ち替わり現れている事にある様です。

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その一方で、かつての寺町としての名残である8社寺の御朱印巡りを考案するなど、京都らしい歴史を生かした企画も行われています。その一つが誓願寺。元は天智天皇の勅願寺として、奈良の尼ヶ辻にありました。後に平安遷都に伴い京の地に移り、さらに安土桃山期に現在地に移っています。

落語発祥の地としても知られ、江戸期から境内地は歓楽街として賑わっていました。その名残の一つが山門左側にある迷子みちし留遍と刻まれた石柱で、迷子が出た時にはその子の名前を記した紙をこの石に貼り付け、見つけた人は石柱の裏にその情報を記した紙を貼り付けるという仕組みでした。無論今は機能していませんが、繁華街ならではの風習だったと言えましょうか。

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常に変わりつつある新京極の象徴の一つとして、カフェの進出があります。そんな店の前にあった巨大な熊のぬいぐるみ。ハグ・ミーとありましたから、本来は抱きつくためのものなのかしらん。こんなディスプレイが不自然で無いのが今の新京極です。これからもきっと時代に合わせた変化をしつつ、繁華街として賑わって行くことでしょうね。

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2018.01.01

あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。
昨年末は体調を崩してしまい、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
現在は年末にかけて徐々に回復し、なんとか京都へ行けるまでには回復しています。
まだ無理は利かないので日々更新が出来るかどうかは自信がないのですが、
出来る範囲で続けて行きたいと思っています。

2018年が皆様にとって良い年になりますように。
今年も当ねこづらどきをよろしくお願い致します。


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