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2016年10月

2016.10.31

京都・洛中 時代祭2016 ~延暦武官行進列から弓箭列まで~

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延暦武官行進列は、平安時代初期の坂上田村麻呂が活躍した時代を表したものです。この武官は名前は明記されていませんでしたが、田村麻呂を擬したものなのだそうですね。

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ここまで時代を遡ると武器にも大きな違いが見えて、弓が大きくなり、代わりに刀が細くなって剣と言うべきものになっていますね。鎧も薄い感じになっているのかしらん。

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こちらは延暦文官参朝列。藤原公卿参朝列と比べると、時代による衣服の違いが見て取れます。

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ここから先は神事に係る行列となります。これは神饌講社列。建礼門前の行在所に遷座された御霊代に神饌を献じる役目を持ちます。

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こちらは前列。何のことかと思ってしまいますが、神幸列に先駆けるものという意味があるのだとか。雅楽の演奏もあり、寂しくなった行列終盤にあっては有り難い存在です。

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この可愛い姿は迦陵頻伽。上半身が人で下半身が鳥という想像上の生物で、極楽浄土に住むと言われます。本来仏教のはずなのだけど、雅楽との関係でここに居るのかな。

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ここからがこの行列の本隊となる神幸列です。何も知らずに見ている分にはここが行列の中心と理解するのは難しく、実際この頃には見物人も随分と減っていました。

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これが御鳳輦です。天皇の乗り物ですね。この行列には二基の御鳳輦が参加しており、それぞれ桓武天皇、孝明天皇の御霊が乗っておられます。この御霊が市中をご覧になるというのが祭りの本分で、他の行列はその供奉という位置づけになります。

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白川女献花列は、白川女が神幸祭に献花をする花を届ける姿を表したものです。豪華な花が美しいですね。

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弓箭組列は、丹波国南桑田、船井に居た弓上手で、桓武天皇の平安遷都の際に警護にあたったとされます。また、明治維新の際に戦ったとも言われます。

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時代祭の行列はおよそ二時間、正直言って途中でだれます。ほとんどはただ歩いているだけですからね。もう少し動きが欲しいところですが、なかなか実現は難しいのだろうな。見ている側で出来る事と言えば、細かい設定や衣装の違いなどを事前にチェックしておく事でしょうか。ある程度の流れを知っておくと、結構楽しめますよ。

来年は日曜日になるので、また大勢の人で賑わう事でしょう。有料観覧席でゆっくりパンフレットを見ながら観覧するというのが、案外良いかも知れませんね。

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2016.10.30

真田丸 第43回「軍議」

柏原、真田の陣。陣中を見回る秀忠。信吉たちに幸村が大坂城に入ったと言い捨てていく正信。

江戸、真田屋敷。松に、茂誠と三十郎に、どんな事があっても一番前に陣を敷く様な事をするなと伝えて欲しい、これは幸村のためだと京行きを頼む信之。

京、二条城。家康に拝謁し、忠節を誓う且元。家康から大坂城の兵糧はと聞かれ、半年も保たないだろうと機密を漏らした且元。

大坂城。いつかの蔵に幸村を呼び入れた淀の方。勝てますかと淀の方。そのために私は来たと幸村。

これより軍議がある、そこで必勝の策を献じるつもりと幸村。この城さえあれば、負けませんねと淀の方。籠城はしない、もっと良い策があると幸村。秀頼が危ない目に遭う事はありませんかと淀の方。もちろんと幸村。

床に落ちていた長巻を、いつかの様に立て直す幸村。その背中にすがりつき、私の愛した者は皆死んだ、父も母も、柴田の父も、捨もと淀の方。太閤殿下はと幸村。私の愛した人たちと言いましたと淀の方。

私はどうなっても構わない、秀頼を死なせないでと淀の方。命に代えてもと幸村。しがみつく淀の方の手をそっとほどき、これより軍議の支度があると言って出て行く幸村。

浪人達はどれほどに増えたかと大蔵卿局。既に10万を越える勢い、後は兵糧との兼ね合いと治長。そのようなものはどうとでもなると大蔵卿局。戦は時の勢いを味方に付けた方が勝ちと有楽斎。浪人達を持ち上げるのは構わないが、舵を取るのはあくまでも我らと大蔵卿局。本日の軍議が肝心と有楽斎。

幸村の部屋。かつての昌幸の策を元に、目下の形勢に合わせて策を練り直したいと幸村。

軍議の場。相手は20万、戦の定石どおり籠城としたいと重成。幸村以外の4人までが承知するなか、一人異議を唱えた幸村。どうすると秀頼に聞かれ、後詰めの無い今、ここは打って出るべきだと幸村。正面からぶつかって勝てるはずも無いと反対する又兵衛。正面からぶつかるとは言っていないと幸村。

大坂城は難攻不落の城、あえてそこから打って出るという意味が判らないと治長。戦場を城から離し、大坂、京、伏見、大津、上方全てを戦場とする事で徳川を分断し、敵の力を削いでいくと幸村。

話としては面白いと有楽斎。京の町に攻め入るのかと治長。京には家康がいると幸村。由緒ある神社仏閣を灰にすると言うのかと治長。勝つためと幸村。籠城で良いのではと有楽斎。ではいつまで籠もるつもりかと幸村。2年でも3年でも籠もる事が出来ると治長。その兵糧はと幸村。ごさると治長。ではその先はと幸村。そうこうする内に家康が死ぬ、それを待つと有楽斎。

こうしよう、城の四方を俺と勝永、盛親、全登で固め、向かってくる敵を蹴散らす、それでどうだと又兵衛。妙案と有楽斎。秀頼に裁断をと治長。そういう事ならば、私は引き下がらせて頂くと立ち上がった幸村。お待ちをと治長。考え抜いた策を碌に吟味もせずに捨てられたのではやる気が起きぬ、九度山に帰ると幸村。

幸村の部屋。源次郎様もやりますなと内記。父上ならどうするかと考えたと幸村。大助にはったりは真田の家風と教える内記。はったりではない、これは策だと幸村。そこに現れた重成。

軍議に戻って欲しいと重成。あなたはどう思われたと幸村。私は籠城こそが定石と思っていると重成。その定石を敵も知っている、だからこそその裏をかく意味があるのではと幸村。言葉に詰まる重成。

軍議に戻り、秀頼に策を説明する幸村。まず伏見城を攻略し、そこを出城にして二条城に攻め込む、そして秀忠が到着する前に家康の首を取る、同時に別の軍勢が大津を攻略し、近江を我が物とする、そして瀬田と宇治の橋を落とし、徳川本軍の行く手をふさぐ、ここまで来れば徳川に付いていた豊臣恩顧の大名の中にも我らに味方する者が出てくる、さらに伊達や上杉と示し合わせて秀忠勢を背後から襲わせる、負ける気がしないと幸村。

伊達や上杉が味方をしてくれるかと秀頼。家康の首さえ取れば必ずと幸村。これはお見事、さすがは真田殿と有楽斎。

方々如何でござると治長。一つの策だが、やはり籠城だと又兵衛。訳を伺いたいと幸村。話が大きすぎて付いていけないと又兵衛。説明ならいくらでもすると幸村。他の方々は、長宗我部殿と治長。籠城が良いと盛親。明石殿と治長。右に同じと全登。やはり籠城の様ですなと有楽斎。

待ったと勝永。俺は左衛門佐の策に乗る、話が大きすぎてそこが気に入ったと勝永。如何なされますと治長。もう少し話し合ってみたいと秀頼。暫く休憩してはと有楽斎。

籠城か打って出るか、どちらももっともという気がしてきたと秀頼。最後に決めるのは殿と治長。

廊下。勝永に、ありがとうこざいましたと幸村。俺は籠城だろうが出撃だろうがこだわらないと勝永。ではどうしてと幸村。あんたはなぜこの城に入った、俺は己の力を試してみたかった、それだけだと勝永。あんたに賛成したのは恩を売るためだ、京に攻め込む役目は俺にやらせろと勝永。いいでしようと幸村。

なぜ又兵衛は籠城にこだわるのかと幸村。あいつはあんたの意見に従うのが嫌なだけだと勝永。ではあちらの二人はと幸村。知らぬと勝永。

全登に、戦上手と知られた宇喜多家の家老であったあなたが、決して得策ではない籠城にこだわるのはなぜと幸村。籠城に賛成すればキリシタンの信仰に便宜を図ると治長に言われたと全登。私に豊臣に付く謂われは無い、理由はただ一つ、徳川がキリシタン禁教令を出したからだと全登。

盛親に、あなたも治長に何か言われたのかと幸村。あの男は言った、籠城に賛成すれば願いを叶えるとと盛親。あなたの願いとはと幸村。長宗我部家の再興と盛親。

豊臣家の連中は、俺たち浪人を頼りにしているくせに、牛耳られるのを恐れているんだと勝永。なぜ治長が私の策を知っていたのかと幸村。その時、ふと思い出した淀の方。

豊臣家が負ければ全てが潰える、キリシタンの布教も、長宗我部家の再興も、まずは勝つこと、籠城ではそれは叶わぬ、城は大きければ大きいほどどこかに綻びが生じる、勝つためには打って出る他は無いと幸村。

有楽斎の部屋。城から出るなどもってのほかと大蔵卿局。家康の首を取るには今より無いと治長。あの者達の思い通りにさせてはならないと大蔵卿局。長門守に頑張って貰うよりないと有楽斎。

初と談笑する淀の方。

軍議の場。打って出る事に意見を変えた盛親と全登。敵を分断するという事は味方も分断されるという事と重成。そのとおりと幸村。まとまりのない浪人達が一丸となれるのはこの大坂城と重成。大坂城は最強の砦であると同時に最後の砦、今の我らにはここしかない、籠城は最後に取っておき、まずは外に打って出るべきと幸村。

今の言葉、腑に落ちた、籠城は最後に取っておき、その前に敵の力を削ぐことを考えるべきだと重成。不承知と又兵衛。いつまでつまらぬ意地を張ると勝永。あんたは何のためにここに来たと勝永。死に場所を求めにやってきた、違いますかと幸村。

俺は天下の後藤又兵衛、天下一の城を枕に討ち死にするしかないと思った、俺の死に場所はここしかないと又兵衛。私は勝つためにここにやって来た、死にたがっている者に用は無い、勝つ気がないならこの城を出て行って貰おうと幸村。

本気で勝とうとしているのかと又兵衛。もちろんと幸村。お前は大間抜けだ、勝てるわけが無い、俺たちは日の本中を敵に回している、みんな思っている事だろうと又兵衛。我らは別々の思いを持ってここにやって来た、しかし、一つだけ通じ合っているものがある、皆がそれぞれ生きる望みを持っている、だからこそ我らは強い、私は本当に負ける気がしないのですと幸村。

ここに死に場所は無い、死にたいのなら徳川に付くべきだと幸村。その言葉、忘れねえぞと又兵衛。俺もまだ籠城はまだ早いと思っていたと又兵衛。

なかなか良いものを見せて貰った、初めから申し上げているとおり籠城以外にはないと有楽斎。それでは話し合った意味が無いと幸村。意味はあった、それぞれの思い、胸に染みましたと有楽斎。ふざけるなと有楽斎の胸ぐらを掴む又兵衛。お主達は、所詮金で雇われた浪人達、身の程をわきまえよ、我らの指示に従って敵と戦えば良いのだと有楽斎。

今の言葉は聞き捨てなりませぬと治長。何だとと有楽斎。ここに居る者たちは豊臣を守るために集った者、我らにとっては客人であり非礼は許されませぬと治長。誰に向かって言っていると有楽斎。決めるのは右大臣秀頼公でござると治長。決めた、籠城はしない、打って出ると秀頼。

この事、大蔵卿に伝えると有楽斎。好きになされませと治長。席を立つ有楽斎。これより急ぎ陣立てを決めていくと治長。

廊下。どうなりましたかと大蔵卿局。息子殿に聞きなされと有楽斎。

前途多難だなと又兵衛。多難で無い戦などないと幸村。豊臣の連中は、不利と判っていてなぜあそこまで籠城にこだわると勝永。におうなと又兵衛。では御免と去りかける幸村に、あんたはなぜここに来たと勝永。私にも良く判らないのですと幸村。

淀の方に、真田の献策により出陣すると伝える秀頼。なりませぬと淀の方。母上と秀頼。その者が裏切らぬと言えますかと淀の方。しかし、と秀頼。浪人達の中で信じられるのは真田だけ、他の者はここに置いて目を光らせて置かなければ何をするか判りません。ここに居れば徳川は手出しが出来ない、籠城しか無いと淀の方。

幸村に、秀頼公の気持ちは籠城で固まったと伝える治長。しかし、と幸村。お上様の一言でひっくり帰ってしまった、どうすることも出来ませぬと治長。そうと決まったからには次の策を考えましょうと幸村。


今回は大坂の陣を巡る軍議の場が描かれました。ドラマでは出戦に一度決まったものがひっくり返された事になっていましたが、一般的には出戦を主張した幸村に対し、治長らの反対によって籠城に決まったとされています。又兵衛は幸村に反対したとも、賛成したとも伝えられ、はっきりとは判りません。また、これとは別に、大坂方は大坂城の補強に翻弄されており、とても出戦どころでは無かったという見方もあります。

ドラマとしては、かつての昌幸の台詞が散りばめられており、伏線の多くが回収されていたのが面白かったです。中でも負ける気がしないという台詞は、昌幸の自信たっぷりの表情が思い出されて感慨深いものがありました。

また、大きな城ほど綻びが生じやすいという台詞も昌幸がかつて幸村に語ったもので、おそらくは真田丸築城へと繋がって行くのでしょう。三谷脚本は本当に良く出来ています。

全登が言っていたキリシタン布教のためという話はそのとおりで、彼の部下には何人かのキリシタンが居た事が知られます。禁教令は大坂の陣の前年に全国に向けて出されており、キリシタンは行き場を失っていたのですね。豊臣氏もかつて禁教令を出していますが、全登は敵の敵は味方という理屈で大坂城に入ったのでしょうか。

淀の方は、浪人達の中で信じられるのは真田だけと言っていましたが、ドラマでは確かにそうでしょうね。しかし、実際には兄と叔父が徳川方に居る幸村は、敵に内通する恐れありと見なされ、辛い立場にあったとも言われます。真田丸という敵に突出した出城に籠もったのは、そうした城内の評価を覆すためとも言われますね。

また、ドラマでは秀頼の信頼も厚く、軍議を仕切っていましたが、浪人五人衆の中では、土佐の国主であった長宗我部盛親、一万石の大名であった毛利勝永に次ぐ三番目の立場にあり、発言権もそれに比例したものだったとも言われます。実際の幸村は、ちょっと悲痛な立場にあったのかもしれませんね。

次回はいよいよ真田丸が登場する様です。どんな具合に幸村が思いつき、どんな出城を築くのか楽しみに待ちたいと思います。

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2016.10.29

京都・洛北 北山ハロウィン2016

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今日は時代祭の最後の行列を掲載するはずだったのですが、予定を変更して北山ハロウィンの様子をお届けします。

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ここ数年のハロウィンの盛り上がりは凄いものがありますね。このブログを始めた頃はハロウィンネタを拾うのに苦労していたのですが、今や町中にハロウィンが転がっています。その中でもこの北山ハロウィンは今年で19回目を迎えるという、京都におけるハロウィンの草分け的存在です。

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以前は植物園の駐輪場を間借りしての小規模なテントの屋台や小コンサート、ランタンの展示などが主な内容だったのですが、その後会場を陶板名画の庭に移して手作り市のブースが増え、仮装パーティーが行われる様になるなど年々賑やかになりました。

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今日も結構な人出で、仮装した小さな子供たちで賑わっていました。明日は仮装パレードが行われますが、すでに今年の分の受付は終了したとの事なので、大した人気ぶりです。パレードだけでも見に行くというのは有りかもですね。

世間的にはハロウィンは若者のお祭りになっているようですが、ここはまだ小さな子供のための行事であり続けている様です。子育て世代には面白いイベントだと思いますよ。

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2016.10.28

京都・洛中 時代祭2016 ~楠公上洛列から平安時代婦人列まで~

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楠公上洛列は、楠木正成が隠岐から戻られた後醍醐天皇を出迎え、都まで先導した様子を再現した行列です。たぶんですが、戦前まではこの祭りのハイライトだったんじゃないかな。

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なんと言っても正成一族は、皇国史観における一大スターですからね、力の入れようが違う様に思われます。旗なんかも大きいものなあ。

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この正成の鎧は一千万円もするのだとか。つくづく凄い衣装ですが、やはり主役級は扱いも違うという事なのかな。でも、馬も含めて絵になりますね。

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こちらは正成の弟の楠木正季。正直言って、弟である事、湊川の戦いで兄と刺し違えた事くらいしか知りません。でも、朝廷にとっては忠臣の誉れという事で行列に入っているのでしょう。

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ここからは中世婦人列です。最初に来るのが大原女、頭に柴を乗せているのが特徴ですね。かつては花いらんかえ~、柴いらんかえ~と歌いながら街中を売り歩いていましたが、今は観光客相手以外は姿を消しました。

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こちらは桂女。籠に入れた桂川の鮎と飴を街中に売り歩いていたそうです。

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なんでこんな処にと思うのが淀君です。これは、この婦人列が後から入れられたもので、鎌倉時代から安土桃山時代までを一括りにしたせいなのでしょう。せめて淀殿と名前を変えてあげたらと思うのですが、ずっとそのままですね。

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これは静御前です。朝敵となった義経はおおっぴらには出来ないけれども、その側室の静御前は構わないという事なのでしょう。当時の白拍子はこんな感じだったんだと判る好例です。

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ここから鎌倉時代に入ります。後鳥羽上皇が朝威回復を図るため、城南離宮での流鏑馬に託して畿内10数国の武士を集めた事を表す行列です。

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武士団は五組との事ですが、正直言って見ていても判らなかったです。ただ、流鏑馬の行列なんだなと判る程度で、この祭りを見るには詳しいパンフレットが必要なのかも知れません。

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でも、鎌倉時代が流鏑馬だけというのも寂しい気がします。せめて、頼朝の上洛あたりを再現出来ないものなのかしらん。

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ここからは藤原公卿参朝列です。文字通り、藤原時代の文武官の参朝の様子を表した行列で、こちらは四位か五位の文官になるのかな。

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こちらは武官。手にしている弓は、他の時代に比べて小振りなものですね。

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隋臣している女童も居ました。慣れない藁靴を履かされ、平安神宮までの道のりは大変だったでしょうね。

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ここからは平安時代婦人列です。まず現れるのが巴御前、いつ見ても凜々しい姿ですね。この人の夫である木曽義仲は都で乱暴を働いた人ですが、静御前と同じくその妻なら許されるという事なのでしょう。

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この人は、絶世の美女として知られる小野小町です。どうせなら豪華な十二単を来て、輿に乗って欲しいなと思うのは私だけかしらん。

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この子連れの人は常盤御前。平治の乱で夫の源義朝が破れ、平家の追っ手を逃れて雪の中を歩く姿を表しています。だからわら靴なのですね。また、常盤御前のふところにある白いものが赤子の義経です。朝敵だけど、こんなところにひっそりと出ているのでした。

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こちらは平安時代の二大作家である清少納言と紫式部です。何かと比べられる二人ですが、この行列では仲良く同じ輿に乗って行きます。

明日は延暦武官行列からお届けします。

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2016.10.27

京都・洛中 時代祭2016 ~室町幕府執政列から室町洛中風俗列まで~

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室町幕府執政列は、平成19年から加わった比較的新しい行列です。足利尊氏が長らく朝敵と見なされていたため、室町時代は行列に加えられなかったのですね。

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時代祭は明治に始まり、また桓武天皇と孝明天皇をご神体とする平安神宮の祭りですから、皇国史観が柱とされて発足しました。なので、祭りに登場する人選もその思想によって左右されています。しかし、戦後も長い時間が経てようやく足利氏も許され、祭りに参加する事が出来る様になったという次第です。

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もっとも、足利将軍と一括りにされ、また執政、管領などといった役職のみで個人名は無いなど、他の時代との差はまだまだ感じますね。あるいは、衣装代が足りないなどの事情もあるのかな。

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個人的には幕末に新選組も入れて欲しいところなのですが、そこまでは無理なのかな。孝明天皇を守り、幕末史を彩った存在ではあるのですけどね。

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室町洛中風俗列は、室町時代の風俗を表したものです。先頭を行くのは、たぶん室町時代後期に渡来した南蛮人なのでしょう。

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この行列の中心は、この風流傘になります。今でも京都の祭りの中に残っていますが、源流はこのあたりにあるのですね。

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この子は鞨鼓童。太鼓打童と共に踊りを踊る様なのですが、残念ながら見る事は出来ませんでした。それはまた次の機会ですね。

明日は楠公上洛列からお届けします。

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2016.10.26

京都・洛中 時代祭2016 ~豊公上洛列から織田公上洛列まで~

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豊公参朝行列は、秀頼の初参内や元服時の参内の様子を表したものです。豊臣氏がまだ勢いを保っていたころであり、行列からもその華やかさを感じ取る事が出来ます。

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行列の中心となるのはこの牛車で、かなりの大きさがありますね。曳くのも大人数が掛かってやっとという感じで、牛を止めたり歩かせたりも容易ではない雰囲気でした。

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中には誰も居ないと思いますが、設定としては秀吉とまだ幼い秀頼が乗っている事になっているのでしょうね。牛車には豊臣家の桐紋が描かれていますが、この意匠が実際に使われていたのかどうかは、調べた限りでは判らなかったです。

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豊家参朝列に続くのが織田公上洛列です。最初に現れるのが立入宗継。あまり一般には知られていないと思いますが、戦国時代において朝廷と信長を繋ぐ役目を果たした人です。信長の上洛を促したという事で、この行列の先頭に居るのでしょうね。

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先ほどの牛車の中には居なかった秀吉が、ここに居ました。豊家という形と、武将という形の二度に渡って登場するのは、それだけ朝廷に対する働きが厚かったという事になるのかな。

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白馬に乗って颯爽と現れるのが信長です。衣装も見るからに豪華そうですね。

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信長と言えば鉄砲ですが、維新勤皇隊が持っていた鉄砲と比べると随分と簡素です。火縄銃という事で簡単にしてあるのでしょうけど、もう少し重量感があっても良さそうなものだけどな。

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リアルひこにゃんの滝川一益です。毎回見て思いますが、本当に不自由そうな兜ですよね。重いだろうし、そこら中に引っ掛かって困ったんじゃないかしらん。

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最後は柴田勝家です。黒い鎧が如何にも強そうですね。瓶割り柴田の異名に相応しい衣装かな。

明日は室町幕府執政列からお届けします。

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2016.10.25

京都・洛中 時代祭2016 ~江戸城使上洛列から江戸婦人列まで~

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江戸城使とは、大礼や年始の際に江戸から礼を尽くすべく上洛した使いの事です。形だけ見れば、他の大名が行う参勤交代の様なものなのかしらん。

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行列は徳川家の威信に関わるものですから、簡素にとは行かなかったのでしょうね。他の大名以上に綺羅を飾ったんじゃないかな。

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この行列は色々パフォーマンスがあって楽しませてくれます。これは毛槍を投げ渡しているところで、以前は手渡ししていたんじゃなかったかな。今回は本当に投げていて、見ていても面白かったです。

これは長持ちを運んでいるところです。本当にこんなかけ声を使っていたのかどうかは判りませんが、毎年このパフォーマンスは行われており、この行列の見所の一つになっています。

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これは城使が乗った駕籠ですね。かなり小さく、乗れと言われても乗りたくは無いです。これで江戸から京都まで来るとしたら、苦痛意外の何者でもないでしょう。それとも要所だけこれに乗って、途中は馬に乗るなりしていたのかな。

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ここからは江戸時代婦人行列になります。江戸時代なのに徳川氏が現れないのは、慶喜が朝敵とされた事と関係があるのかな。それはともかく、夫人列で最初に現れるのは和宮、幕末に公武合体のために家茂に嫁した内親王です。

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こちらは吉野太夫、たぶん灰屋紹益に嫁いだ二代目なのでしょうか。もう少しふっくらとしていた方が太夫というイメージに近い気もしますけど、十分に華やかではあります。

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そして、何度見ても飽きないのが出雲阿国。今年も見事に傾いてくれました。この行列の中では一番の見所かな。

明日は豊公参朝行列からお届けします。

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2016.10.24

京都・洛中 時代祭2016 ~維新勤皇隊列から維新志士列まで~

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平成28年10月22日、時代祭が行われました。今年は土曜日に重なったので、京都御苑まで観覧に出かけて来ました。

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境町御門に着いたのは午前10時前、丁度その頃に維新勤皇隊が門を入ってきました。これまで知らなかったのですが、午前中に平安神宮に神幸祭があり、御霊代をお遷しした御鳳輦を建礼門前の行在所まで運ぶという儀式があったのですね。私、この祭りは御所から平安神宮までの一方通行だとばかり思っていたので意外な感じがしました。

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行列が始まるのは午後0時、建礼門前から出発します。先頭を切るのは平安騎馬隊、続いて京都コンベンションビューロー、知事や市長方の馬車などが続きます。ここまでが先陣で、本隊となるのは維新勤皇隊列からです。

これがおなじみの官軍マーチですね。こうやってはるばる江戸まで行軍して行ったのかしらん。当時としては、随分と目新しい曲だった事でしょう。

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隊士たちが持っている銃は先込め式です。官軍とは言え、江戸に攻め上る時点では、元込め式の銃までは持っていないという事を示しているのでしょう。

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官軍と言えば頭にヤクの毛を被った姿が有名です。白い髪が白熊(はぐま)、黒い髪が黒熊(こぐま)という具合ですね。ただ、これは江戸城を占領した時に、城内の蔵から接収したものと言われており、江戸に向かうこの行列には無かったはずの装束です。

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それに、なぜか赤熊(しゃぐま)は無いのですね。あれば華やかだろうに、どういう事なのかしらん。

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維新勤皇隊列に続くのが維新志士列です。まず最初に来るのが西郷隆盛。西南戦争で朝敵になったはずなのですが、それ以上に功績が高かったという事なのかな。

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龍馬も維新志士列に入っています。その人気からすれば当然でしょうけど、見ている側としてはただ歩いているだけではなく、もっと弾けて欲しいところですね。官軍マーチを聞いた後だけに、少しだれて見えてしまいます。以前見た龍馬さんは面白かったものなあ。

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この蓑笠を被っているのは七卿落ちの面々。この前に真木和泉と久坂玄瑞も居ます。

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生真面目なかんじのする吉田松陰。

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衣装だけなら最も大げさな近衛忠恕。葵祭では引きずって歩いていますが、ここでは後ろで持つ人が居ます。やはり高い衣装だものなあ。

明日は江戸城使上洛列からお届けします。

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2016.10.23

真田丸 第42回「味方」

大坂城。淀の方との再会を果たした幸村。

幸村を持ち上げる有楽斎。部屋に帰る幸村。

幸村の武将としての能力に疑問を投げかける有楽斎と大蔵卿。

秀頼のお声掛かりで独り部屋になった幸村。そこはかつての御文庫でした。感慨に耽る幸村。

一つところに部屋を与えられた春やきりたち。

大助に城の中を探索してきてはと勧め、自分は疲れたと横になる内記。

もう一人側に欲しいと幸村。

天守を見上げる大助。大きいだろうと幸村。太閤殿下はどんな人でしたかと大助。あの天守よりももっと大きな人だったと幸村。

幸村に会いに来た又兵衛と勝永。

後から来た奴に大きな顔をして欲しくないと又兵衛。そんなつもりは無いと幸村。元が大名だろうがどうかは関係ない、要は次の戦でどんな働きが出来るかだと又兵衛。同じ思いと幸村。それにしても部屋が広いのはなぜだと又兵衛。自分も独り部屋、元は一万石を領していた大名だったと勝永。争い始める二人。間に入る幸村。

修理に部屋替えを願い出た幸村。相部屋になったのは長宗我部盛親でした。

又兵衛と相部屋の全登。

駿府城。真田が大坂城に入ったと聞いて立ち上がり、襖を持った手が震えた家康。それは父親か息子かと問い、安房守は既に死んだと聞いて安堵する家康。その一方で、出陣を早めた家康。

左衞門佐ごときでうろたえてどうしますと阿茶局。真田という名を恐れているのだと家康。一気に攻め滅ぼされよと阿茶局。人質としてお千が居ると家康。豊臣家はどうするおつもりと阿茶局。遠国の大名としておとなしく暮らして貰おうと家康。生ぬるい、先々の不安は取り除くに限る、千姫なら返せば秀頼の命を助けると言い、その後滅ぼしてしまえば良い、そうやって乱世を終わらせるのですと阿茶局。

駿府を発った家康。

江戸城。この戦、総大将は自分だと秀忠。家康は自分の仕事の総仕上げと考えていると正信。父上の思惑など関係ないと秀忠。すぐに出立だ、この戦は父の総仕上げでは無い、自分の総仕上げだと秀忠。

大坂城には姉たちも千も居る、害が及ぶことはありませぬなと江。無論と秀忠。私の望みはそれだけと江。

秀忠に息子達を引き合わせ、代理で出陣させる事を断る信之。了解する秀忠。

真田屋敷。両親に出陣のあいさつをする信政たち。

大坂に向けて出陣した秀忠。

真田屋敷。佐助が届けた文で、幸村が大坂城に入った事を知った信之。源次郎が城に入った事で、烏合の衆が一つにまとまるのが怖いと信之。源次郎の文を読み直し、自分の捨てた幸の字を拾いおった、やつは本気だと信之。

作兵衛に幸村が呼んでいると伝えた佐助。喜ぶ作兵衛。戦は嫌だと与八。一つやり残した事があると作兵衛。

末と十蔵に、仮祝言を挙げてくれと頼む作兵衛。その上で、末の父と共に大坂で徳川と戦うと告げる作兵衛。

つつましやかな仮祝言。感慨に耽る作兵衛。

大坂に向けて出立しようとした作兵衛たち。それを見とがめた信之。信之と切り結ぶ作兵衛。自分は徳川に忠義を誓った、源次郎の様にはなれないと信之。追い詰められた作兵衛。あわやと言うときに病の発作が出て、刀を落とした信之。その隙に、ありがとうございますと屋敷を出て行った作兵衛たち。違うと信之。

大坂城。千と秀頼に拝謁した幸村。幸村に総大将になって欲しいと頼む秀頼。

総大将、是非ともお引き受けなされと盛親。これまで何をされていたのかと幸村。京で子供相手に寺子屋を開いていたと盛親。そうでしたかと幸村。かつての家臣に背中を押されて城に入ったが、本来戦が嫌いだと盛親。そうは見えないと幸村。この顔で誤解され勝ちだが、肝の小さな男なのだ、上に立って貰う人が居ると実に助かると盛親。

大広間。ずらりと居並ぶ浪人衆。その中から現れ、幸村にあいさつする塙団衞門。戦の時には欠かせぬ男と自分を売り込み、自らの名前を書いた手札を渡して行く団衞門。

上座に現れた秀頼。これより軍議を始めると修理。いきなり立ち上がった又兵衛。たしなめる修理。かまわぬと秀頼。

我らは皆、豊臣のためにはせ参じた者、録を失えば皆浪人、以前の身分や禄高などで差を付けないで欲しいと又兵衛。さすがは黒田家随一の豪傑と持ち上げる有楽斎。この議はいったんあずかると修理。

これより総大将を選ぶ、殿は真田左衞門左をお望みだと修理。不承知と立ち上がった又兵衛。我らは真田に使われるために入城した訳では無いと又兵衛。我らはそれぞれに腕があっても、それをまとめていく力がなくては徳川に勝てない、大局を見る事が出来る誰かが上に立つ、それによって何倍もの力を得る事が出来ると幸村。だからそれがなぜお前なのだと又兵衛。私には二度徳川と戦い、二度勝ちを得た武功がござる、徳川の戦を熟知していますと幸村。

確かに上田城の話は聞き及ぶ、しかし、初めの戦いは30年も前の話、お主は20歳にもならぬ若造であったはずだがと勝永。早熟でござったと幸村。その時は旗を振っていただけという噂も聞くと勝永。噂は噂と幸村。真田殿こそが総大将に相応しいと全登。後から来た者に従う事はないと又兵衛。ご一同、いきり立たんでも有楽斎。

総大将にはもっと相応しい方が居る、盛親殿は四国を斬り従えた元親殿の御嫡男、まさしく総大将の器と存ずると又兵衛。そうした事にこだわるのを嫌われたのはどこのどなたでしたかと全登。修理殿、御裁定はお任せいたしますと幸村。もう決めてしまわれよと有楽斎。ひとまずこの件はあずかりと修理。預かる時がどこにある、敵はすぐにでも攻めて来ると勝永。困っている秀頼を見て、ご辞退つかまつりますと幸村。拙者も引き受けかねると盛親。ならば、それぞれが死力を尽くし、徳川と戦うのみと又兵衛。不満げな秀頼。

私に一つ策がございますと幸村。申してみよと秀頼。誰かが目立ってしまうと角が立つと判った、しかし、総大将は必要、そこで10万の兵を五つに分け、それぞれに大将を立て、その上に秀頼公御自ら立たれるというのは如何でしょうと幸村。良い考えじゃと秀頼。如何かな、後藤殿、毛利殿と幸村。それならばと勝永。その中に我々は入っているのだろうなと又兵衛。その議は一旦預かってと修理。お主は一旦預からぬと何も決められぬのかと又兵衛。重要な案件故吟味した上でと修理。今、ここで決めてもらおうと勝永。

例えばこうしては、私に、毛利殿、長宗我部殿、明石殿、後藤殿の5人と幸村。良かろうと又兵衛。他の方々もよろしいかと幸村。うなずく一同。今後はこの5人衆の合議によって決めていくとすると修理。うなずく秀頼。

これでは先が思いやられる、浪人達は自分の事しか考えていないし、修理にはそれをまとめる力が無い、秀頼公はまたお若いと内記。確かに浪人衆にはまとまりがない、しかし、あの者たちは今の境遇から這い上がろうとしてここに集った、無理矢理かり出された徳川の兵とはそこが違う、この戦十分勝てると幸村。


今回は大坂城に入城した幸村が、味方を取りまとめていく過程が描かれました。

まずは兵糧米の確保についてですが、大坂にある徳川方の大名屋敷からの調達で十万石とありましたが、実際にはそこまでは行かず、六万石程度だった様です。その一方で、福島正則の屋敷にあった八万石を借りる事に成功しており、民間から買い上げた二万石と合わせて十六万石程度だったのではないかと推測されています。なお、この正則については、出陣は許されず、江戸留守居を命じられました。

真田が大坂城に入ったと聞いた家康が、親か子かとと問いかけ、子と聞いて安心したという逸話は有名です。その時、襖を持った手が震えていたとも言いますね。ドラマでもそれが再現されていましたが、昌幸が死んだと聞いたのが二度目というところが違ったかな。

浪人衆の中で総大将を決めようとしたというのは創作でしょう。幸村が五人衆を決めたというのも創作だと思われますが、実際にも浪人の中に五人衆が居て、その合議で戦を進めていた様です。ただし、なかなか意見は合わず、やはり烏合の衆という観は免れなかった様ですね。

作兵衛については、やはり大坂城に入って、幸村と共に戦っています。真田の郷から大坂城に入ったのは、何も作兵衛一人だったわけではなく、かなりの数に上っている様ですね。どの程度だっかは判りませんが、後に信之が領内で詮議を行っている事からそのことが窺えます。

盛親については、土佐を治めていた長宗我部家の四男でしたが、嫡男の信親が戦死した後、父の元親が次男、三男を抑えて跡取りと定めた事により国主となりました。しかし、関ヶ原の戦いにおいて三成方に付いたため、結果として土佐一国を奪われてしまっています。浪人後はドラマにあった様に京で寺子屋を開いていたと言われますが、大坂の陣勃発にあたり、土佐の旧臣たちが集結し、一手の大将に祭り上げてしまったのでした。その数は一千人とも言われ、五人衆の中でも随一のものがありました。

ドラマとしては、身勝手な浪人衆たちを上手く誘導して、秀頼を総大将に収めた幸村の手腕が見事でした。それに、どう見ても絶望的な状況なのに、そこに希望を見いだす姿勢も変わっていないですね。

次回は籠城か出戦かを巡っての争いがある様です。幸村が昌幸から託された秘策が試される時ですね。どんな具合に描かれるのか、楽しみに待ちたいと思います。


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2016.10.22

京都・洛北 赤山禅院 ~比叡山大阿闍梨御加持~

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修学院離宮を拝観した後、赤山禅院に立ち寄って来ました。歩いて行くとこの二つは離れている様ですが、実はすぐ隣り合っています。

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その赤山禅院に入るとすぐに、読経の声が聞こえてきました。良く判らないまま、声のするに行くと不動堂の前に大勢の人が集まり、中で護摩行が行われていました。

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後で調べて判ったのですが、大行満大阿闍梨 叡南俊照師による御加持が行われていたのですね。そんなに有り難いものとはつゆ知らず、とにかく後ろの方に座らせて頂きました。周囲の人たちは皆お経を諳んじておられる中で、何も知らない私はじっと聞き入っていたのですが、嬉しい事に大阿闍梨様は私にもお祓いをして下さいました。

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御加持が終わった後は、大阿闍梨様を先頭に境内の諸堂を礼拝して歩きます。私も訳の判らぬまま、後を付いて行きました。これまで何度となく巡った事のある境内でしたが、何だか新鮮な気分でした。また、新しい発見もあって、御堂の裏にあったこの滝はこれまで知らなかったものです。いかにも修行の場という雰囲気ですね。

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普段はほとんど紅葉を求めて訪れる赤山禅院ですが、信仰の場として今でも生きているという事を実感しました。調べてみると、月に5回御加持などが行われている様です。なかなかその日に合わせて行く事は出来ませんが、上手く日程が合った時にはまた参加させて頂ければと思っているところです。

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2016.10.21

京都・洛北 修学院離宮 ~上離宮~

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中離宮から上離宮までは、上り坂の馬車道を歩く事になります。山道と言うほどではないにしろ、それなりの坂道ですから、歩きやすい靴は必須ですね。入り口にある御成門を入ると両側を刈り込みで挟まれ、視界が遮られます。そのまま石段を登っていくと急に視界が開け、目の前に現れるのが上の写真の景色です。なかなか上手い演出ですよね。

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その頂上にあるのが臨雲亭。雲が隣に来るほど高台にあるという意味だそうですね。三つの間からなり、そのうち板の間は洗詩台と良い、和歌の構想を練る場所だったのだとか。非常に質素な造りであり、本当に上皇の離宮だったのかと思ってしまうほどですが、あえて苫屋の風情を楽しまれたという事なのでしょう。

なお、この臨雲亭の縁側だけが座る事を許可されており、やっと一息を付く事が出来ます。また、写真タイムも取ってくれるので、浴龍池の風景をゆっくり撮る事も出来ますよ。

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その臨雲亭の前は三和土になっているのですが、そこに埋め込まれているのが一二三石です。鴨川の黒石、鞍馬の鞍馬石を集めて来たと言われ、とても遊び心のある造形ですね。

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臨雲亭からは、浴龍池に向かって下っていく事になります。途中、滝見の灯籠や本物の滝があり、変化があって楽しい道ですよ。ただ、とても滑りやすいので、転ばないように注意が必要です。

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その坂道を下りた先にあるのが千歳橋です。これは離宮造営当時にはなかったもので、文政7年(1824年)に当時の京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものだそうです。左右で非対称な造形が面白く、中がどうなっているのか見てみたかったのですが、見学コースには含まれていなかったのが残念です。

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次に向かうのが窮邃亭、池の中に築かれた島の上に建つ茶屋です。掲げられている扁額は、これも後水尾上皇の宸筆で、二つの八角形を真ん中の水引で結ぶという面白い形をしています。

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造りは、ここも質素ですね。わずかに上段の間が設けられているだけで、床の間などの装飾はありません。上段西側には板を一枚渡して、御肘寄としています。また、窓はすべて外れる様になっており、実際に外したら開放感溢れる部屋となる事でしょうね。

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ここは御船屋です。木が茂っていたので上手く撮れなかったのですが、下に写っている屋根の下に底の浅い船が舫っていました。この船に乗って池を巡り、船遊びを楽しんだのでしょうね。

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修学院離宮の拝観はここまでです。思っていたよりも質素な造りで、雄大な景色を楽しむ山荘なのかなと感じました。一番の見所は、やはりこの浴龍池でしょうか。

それほど大げさに考える事も無いのですが、軽い山歩きに近いので、服装や履き物は歩きやすいものが良いでしょう。また、最初に案内される休憩所に無料のロッカーがあるので、手荷物などは預けて置いたほうが楽出来るかと思います。

当日受付は午前11時から正門前のテントで行われ、13時と15時30分の回のそれぞれ35名分について先着順に整理券が配布されます。どの程度混み合うかは判りませんが、この日は11時過ぎの段階で半分程度は埋まっていました。紅葉時分にはかなりの競争率になるかも知れませんね。あと、身分証明書の提示は求められますので、運転免許証等は用意しておいて下さい。また、18歳未満は拝観出来ず、乳幼児を連れた方も拝観出来ません。このあたり、なぜかなと思いますが、管理する宮内庁の方針なので、従わなくては仕方がないでしょうね。

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2016.10.20

京都・洛北 修学院離宮 ~中離宮~

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中離宮は、後水尾上皇が築いた頃には無かったもので、上皇の第八皇女である光子内親王のために建てられた山荘に始まります。その山荘に、東福門院の女院御所の一部を移築して拡張し、林丘寺という寺としたのでした。その後明治18年に施設が宮内庁に移管され、中離宮として修学院離宮の一部となったのでした。

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下離宮から上、中離宮へと向かうには、馬車道という松並木を歩く事になります。ここは、元はあぜ道だったのですが、明治になって馬車が通れる様に道幅を広げたのだそうです。

修学院離宮はなにしろ広いですから、拝観するのも一苦労ですよ。道のりにしておよそ3km、時間にして1時間30分以上を要します。

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こうした農地も、離宮の一部として国で買い上げてあるそうです。そして、元の持ち主に依頼して農耕を続けて貰う事で、景観を維持しているのだとか。ちなみに、収穫物は宮内庁にはいるのではなく、すべて耕作者のものになるのだそうです。

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その景観はこんな感じで、遠くの市街地はともかく、手前の農地は江戸時代と大きくは変わっていないのでしょう。稲の刈り取り前なら、さぞかし綺麗だった事でしょうね。

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中離宮で最初に案内されるのが客殿です。光子内親王のために、東福門院の奥対面所を移築して来たものです。その中で目に付くのが冒頭の写真の違い棚(一の間)ですね。リズミカルに交互に配した棚は霞棚と呼ばれ、天下の三棚の一つに数えられています。また、壁、床などには、漢詩や和歌を認めた色紙が貼られており、変化に富んだ意匠となっています。さらには、判り難いですが、戸袋の引き手は羽子板の形をしており、元が女院御所だった事もあって、修学院離宮きっての華やかさを誇ります。

上の写真は廊下の奥にある杉戸絵で、狩野敦信の作です。左が岩戸山、右が放下鉾ですが、今と見比べると岩戸山には囃子方が居ないなど違いが見られ、興味深いものがあります。

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この鯉の絵は、作者は不詳だそうですが、非常に出来が良く、夜な夜な抜け出しては池で泳いでいたのだとか。そこで円山応挙に頼んで網を書いて貰ったそうですが、一部は破れており、やはりその後も杉戸から抜け出していたのだろうと言われています。

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これは御殿の裏手になりますが、欄干に注目して下さい。漁村で漁網を干した様な形をしており、網干の欄干と呼ばれます。これも女院御所ならではの遊び心なのでしょうね。

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中離宮でもう一つの見所は、楽只軒です。楽只軒は光子内親王のための最初の建物であり、寛文8年(1668年)に建てられました。パンフレットでは南の床を低くし、庭と一体化してあると書かれているですが、拝観では素通りしてしまったため良く判りませんでした。少し残念ですね。

写真には無いのですが、手前右側には、狩野探信の手による吉野の桜が描かれています。

明日は上離宮に向かう事にします。

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2016.10.19

京都・洛北 修学院離宮 ~下離宮~

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10月の秋晴れの日、修学院離宮の拝観に行って来ました。修学院離宮の拝観は、以前は往復はがきでの申し込みしか方法がなく、それも抽選でした。それがネットでの申し込みも可能になり、さらには当日受付の枠まで用意されるなど敷居が随分と低くなりました。

そこで当日分を狙ってみようかと思ったのですが、どれほど混むのか判らないので、確実性を取ってネット上からの応募にしました。申込時には10月は2日分4人しか空きが無かったのですが、そのうちの一つに入れたのはとても幸運だったと思います。

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拝観は一回につき50名の団体行動となります。これが午後からの当日受付分が加わると85名の大所帯になるのかしらん。

拝観コースは決まっており、三つある離宮のうち、下離宮から始まります。ここはその下離宮の門である御幸門です。

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修学院離宮は、万治元年(1669年)頃に築かれた、後水尾上皇のための山荘です。上皇は当時の江戸幕府との間に様々な確執を抱えていましたが、その緊張を少しでも緩和するためだったのでしょうか、造営は江戸幕府の手によって行われています。

その一方で、造営の指図は全て上皇によって行われており、隅々まで上皇の好みで仕上げられました。例えばこの花菱紋は上皇が好んで用いたもので、離宮のそこかしこで見る事が出来ます。

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拝観はガイド付きの団体行動になるので、写真は思うようには撮る事が出来ません。特に建物の全体像は、他の拝観者が入るのでまず無理ですね。また、途中で良いなと思うポイントがあっても、後続者が居るため立ち止まるのが難しく、諦めたところも多くありました。

これは下離宮にある寿月観の扁額です。後水尾上皇の宸筆と伝えられ、この建物に風格を与えています。

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寿月観は、当初の建物は失われており、現在のものは文政年間に再建されたものです。中離宮、上離宮への拠点として使われていた施設であり、もてなしのための設備がありました。三つの間からなり、これは一の間です。一段高い部分は上皇が座るための場所ですね。向かって左側の襖に描かれているのが、岸駒の筆による虎渓三笑図です。岸駒と言えば虎というイメージがあったのですが、こういう絵も描いていたのかと認識を新たにしました。

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右側にある違い棚は、戸袋には鶴の絵、地袋には岩と蘭の絵が描かれています。描き手は岸駒と同時期に京都で活躍した原在中です。

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二の間の杉戸に描かれているのは夕顔図。作者は判らないとの事ですが、夏の夜の風情が感じられて良い絵だと思います。この裏は水屋になっているそうで、もてなしの場としての設備は、見えない場所に整えられているという事なのでしょう。

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三の間はお供の控え室で、襖絵は泊船。作者は岡本豊彦だそうです。この人も再建当時の京都で活躍していた画家の一人で、寿月観だけでも錚々たる面々が筆を執っているのが判ります。

明日は中離宮へと向かう事にします。

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2016.10.18

京都・洛東 東山秋の逍遙2016 

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高台寺への行き帰り、東山界隈を歩いて来ました。まず、祇園白川で見かけたのはブライダルの撮影会。ここは本当に多いですね。背景が良いから絵にしやすいのかな。でも、花嫁さんの方は着物が重そうで、歩くのが大変そうです。

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切り通しでは、また新しい店が出来ていました、と思ったら昨年の11月に出店していたのですね。私が気付いていなかっただけなのか。ホームページを見ると行列が出来きる店の様でしたが、この日は空いていました。祇園でリーズナブルなラーメンを食べられるのは嬉しい話なので、今度入ってみようかと思っているところです。

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高台寺からの帰り道は、いつもは石塀小路を通るのですが、この日は高台寺道から下河原通へと通じる道を歩いてみました。このあたりは高級旅館が建ち並ぶ界隈で、静かな風情が漂っています。

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その出口にあるのが浜作さん。昭和初期に開業したという店で、京都の中ではまだ老舗には入らないのかな。でも名は通っており、ミシュランガイドにも入るという名店の一つに数えられています。この場所に来たのは比較的新しく、たしか平成になってからじゃなかったかしらん。

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最後は、八坂神社の裏手の通路です。サスペンスドラマの最後のシーンなどに良く登場する道ですね。写真で見ると誰も居ない様ですが、実際には結構な人通りがありました。少し寂しい感じのする道ですが、ふと通ってみたくなるのかも知れませんね。

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2016.10.17

京都・洛東 八坂の塔夕景2016 10.10

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ずっと雨続きでなかなか行けなかったのですが、やっと八坂の塔の夕景を撮りに行く事が出来ました。この日は絵に描いたような秋晴れで、日が沈んだ後もマジックアワーからブルーモーメントまで、とても綺麗な色彩を見せてくれました。

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それにしても、秋の日はつるべ落としとはよく言ったものです。余裕を持って高台寺に向かったつもりだったのですが、着いてみるとまさに夕日が沈むところでした。いつの間にこんなに季節が進んだものだろうと思った一瞬でした。

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高台寺の駐車場は10年ほど前に周囲の木を全面的に伐採して見晴らしを良くしたのですが、その後再び木が繁茂して来ており、だんだんと見通しが効かなくなってきています。また全部伐れとは言わないけれど、出来ればある程度の剪定くらいはして欲しいですね。

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この日の夕空は、赤く染まる事はなかったですが、グラデーションが素晴らしかったです。山の端の赤い色から徐々に青い空になり、さらに薄く赤い色が入って再び青い空になるという、なかなか見られない美しいものでした。さらには金星が一番星として輝いていたのですが、写真を縮小すると見えなくなってしまいましたね。

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夕空から足下に目を移すと、秋の灯ともし頃の風情が漂っていました。春とも夏とも違う、澄み切った空気の中で見る窓の明かりは、どこか懐かしいという気がします。

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こちらは二年坂の日暮れ時の様子。今、電線の地中化が話題になっていますが、ここはその先進地です。以前はこの角度から撮っても電線だらけで絵にならなかったのですが、今はすっきりとした景色になりました。電線を埋めるというのは簡単ではないのでしょうけど、効果は確かにあるという良い実例ですね。


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2016.10.16

真田丸 第41回「入城」

九度山、真田屋敷。家族に向かって大阪城に入る決心をしたと告げ、脱出の策を伝える幸村。

大阪城。溢れかえる浪人たち。そこに現れた後藤又兵衛。与えられた莫大な支度金。

亡き父上に恥じぬ戦をしたいものだと秀頼。

又兵衛に続いて現れた毛利勝永。

駿府城。大阪城の様子を聞き、烏合の衆に過ぎぬ、秀頼もおとなしくしていればどこぞの一大名として生き抜く事が出来たはず、自分もそれを望んでいたと家康。

時に真田はどうしていると家康。大阪城に入ったとは聞いていませんと正純。見張りを増やせと家康。

九度山、長兵衛の屋敷。長兵衛に、礼の印に宴を催したいともちかける幸村。

江戸、真田屋敷。石合十蔵と末を連れてきた作兵衛。二人の祝言を挙げると作兵衛。

江戸から秀忠が大坂へ出陣すると届いた文。豊臣家もいよいよ終わりか、胸が痛むと信之。

剣術の稽古をする信政と信吉。信吉を打ち負かした信政。信吉が落とした木刀を遠くへはね飛ばす信政。それを見ていた稲。

信政が木刀をはね飛ばした事をとがめ、兄への礼というものが無いとたしなめる稲。

信吉のけがを手当してやる松。そこに現れ、あとで信政にわびを言いなさい、けがはさせた方の心に傷が残るものとこう。

茂誠と綱家に、今度の戦を息子たちの初陣とする、それぞれ介添え役として見守って欲しい、自分はこの体では無理なので江戸に残ると伝える信之。

夜。信吉を正式に嫡男にして欲しいと稲。同じ事を考えていたと信之。此度の大将は信吉にと稲。


九度山、長兵衛の屋敷。賑やかな宴。幸村に番人を増やす様にとのお達しがあったと伝える浅野家家臣竹本義太夫。義太夫も宴に誘う幸村。

幸村の背後から現れ、大坂には行かれないのですかと問いかける九兵衛。なぜかなと幸村。太閤殿下の生きていた頃は世の中に活気があったからだと九兵衛。黙って立ち去る幸村。

義太夫だけでなく、見張りの者も宴に入れてしまうきり達。

雁金踊りを始めた幸村達。笑いさざめく村人達。踊りながら、さりげなく一人ずつ姿を消していく幸村達。

異変に気づき、後を追う義太夫。村はずれの寺へと案内する長兵衛。

とある寺で落ち合った幸村の一行。そこに現れ、自分も連れて行ってくれと九兵衛。

村はずれの寺を囲んだ義太夫たち。

大坂に行って手柄を立て、大名になると九兵衛。

じりじりと寺に迫る義太夫達。

山を下りる近道を知っていると九兵衛。

寺に踏み込んだ義太夫達。しかし、そこはもぬけの殻でした。なぜここに案内したと義太夫。高野山に寺はいくらでもあるととぼける長兵衛。もう良いと駆けだしていく義太夫。その様子を確かめて、幸村の下に向かった佐助。そっと頭を下げる長兵衛。

九兵衛を信じる事にした幸村。彼の案内で山を下りる幸村達。

駿府城。幸村が脱出した事を知り、恐れを抱く家康。徳川を二度破った男の息子が入った事でどれだけ敵の士気が上がるか、そういった事で戦は左右されるもの、やつだけは大阪城に入れたくないと家康。伊賀に服部半蔵が戻っていると正純。

大阪城下。明日、白昼堂々大阪城に入ると幸村。その後はときり。おまえ達は難の及ばないところへ逃がすつもりだと幸村。私も戦いますと春。それはならぬと幸村。

縁側で警戒している佐助。その背後を通る半蔵。その気配に気づき、戦い始める佐助。戦いは五分。そこに現れた幸村たち。追い詰められながらも、我に秘策ありと言い、全力で押し通ると言って逃げ去った半蔵。

敵の目をごまかすために老爺に変装している幸村。その格好で大阪城に入り、厠で元の姿に戻った幸村。

木村重成に幸村と名乗り、信繁と書かれた名簿を訂正した幸村。

廊下で出会った全登に、秀頼公にお会いしたいと願う幸村。

浪人たちに幸村を紹介する全登。どよめく浪人たち。

秀頼を待つ幸村に聞こえてきたベルの音。そこ現れた大野治長。今の兵はどれくらいかと幸村。およそ10万、それがすべて真田殿のものと思ってもらって結構と治長。

幸村の前に現れた秀頼。自分を覚えているかと秀頼。むろんの事と幸村。私も覚えている、またあえて嬉しいと秀頼。かつて太閤殿下には息子の様に可愛がってもらった、いまこそその恩返しの時と幸村。

上田城に籠もり、二度に渡って徳川勢を退けたのは真かと秀頼。それは父の安房守と言いかけた治長を制し、真でございます、徳川を打ち破ったのは私、父はただ見ていただけと幸村。

一つ伺いたい事がある、一番大事なことは兵糧と幸村。大坂に入る限りの米を買い集めていると治長。それでは足りぬ、堺を押さえ、そこを大坂に入る米の仕入れ口としましょう、そして大坂にある徳川方の大名屋敷にある兵糧米を取り上げましょう、それだけでも十万石を超える算段と幸村。真田が来てくれて良かったと秀頼。しぶしぶ左様でございますなと治長。

あなたと歩いているとあの頃に戻ったよう、三成も吉継も清正もみんな死んでしまった、頼りになるのはあなただけ、豊臣の世を取り戻すのですと大蔵卿。

大きくなりましたね、とかつて植えた三成の桃の木を見つめる幸村。その向こうに現れた淀の方。茶々様と昔の名で呼ぶ幸村。また会えましたね、源治郎とこれも昔の名で呼ぶ淀の方。見つめ合う二人。


今回は九度山からの脱出と大阪城への入城が描かれました。九度山からの脱出については多分に伝記的ですが、ドラマに描かれた様に村人を集めて宴を開き、酔いつぶれた村人の馬に荷を乗せて逃げたと伝わります。おそらくは、何らかの形で村人の協力があったと考えられますが、はっきりとは判りません。

幸村を迎えに現れた使者が持参した支度金については、黄金200枚と銀30貫目と伝わります。浪人一人を迎えるためにしてはかなりの大金で、幸村に対する期待の表れであるとともに、秀吉が蓄えていた富の大きさを窺い知る事が出来ますね。

信繁の入城については諸説があり、6000人を率いて入ったという説や、山伏に変装してそっと入ったとする説など様々です。ドラマでは、この山伏説に近い設定でしたね。

また、上田の旧臣にも協力を呼びかけた形跡があり、実際に大阪城に入った者も結構な人数が居た様です。さらには、九度山周辺の地侍達も幸村と行を共にしたと言われ、6000人は大げさとしても、それなりの人数は伴っていたのではないかと思われます。

ドラマでは春たちを安全なところへ逃がすといっていましたが、実際には大坂落城の折に子らとともに脱出しており、おそらくは一緒に城内に居たのでしょうね。ドラマではどう描かれるのかな。

信之が手がしびれると言っていたのは本当で、中風に罹っていたと言われます。しかし、当時としては長命し、病身でありながら93歳まで生きました。

ドラマで面白かったのは、半蔵が奥の手と言って押し通って逃げた事で、あれは神君伊賀越えの時のパロディですね。こうした遊びが三谷脚本の真骨頂かな。

次回は大阪城に集まった浪人たちの間での力関係が描かれる様です。幸村の腕の見せ所ですが、どう描かれるのか楽しみに待ちたいと思います。


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2016.10.15

京都・洛中 秋の味覚 松茸 ~とり市老舗~

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秋の味覚の王様と言えば、やはり松茸かな。京都で松茸を買える店はいくらもありますが、有名なのは寺町三条にあるとり市老舗になるでしょうか。

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ここは、とにかく店いっぱいに松茸を並べているのが凄いですね。錦市場でも当然売っていますが、ここまでの数はなかなかないです。値段は、思ったほど高くないのは、もしかしたら今年は豊作だったのかしらん。なにしろ雨続きだったものね、キノコには良い環境だったのかもしれません。

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それでも、上物とされる京都産はやはり高く、一盛り10万円なんていうのもありました。どれだけ香りが違うのか判りませんが、一度は口にしてみたいみのです。

我が家ですか。とてもじゃないけど国産ものは手にすることは出来ず、先日輸入物で済ませました。その松茸、手にしても丸ごとでは香りはせず、本当に大丈夫かなと思ったのですか、切ってみてようやくそれらしい香りがしたのは嬉しかったです。

いつの日か松茸の養殖が軌道に乗り、椎茸並に買える日が来るといいな、なんて夢見ているこの頃です。

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2016.10.14

京都・洛中 檸檬の書店復活 ~丸善~

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いささか旧聞に属しますが、丸善京都店が復活しています。丸善京都店といえば、小説檸檬の舞台として知られていましたが、2005年に惜しまれつつ閉店してしまったのでした。

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その丸善京都店が復活したのは昨年の8月の事、知ってはいたのですが、これまで行く機会がなかったのでした。前回の閉店時には、閉店を惜しむファンが、店内のあちこちに檸檬をそっと置いていったそうですが、今回はあらかじめ檸檬置き場が設置されていました。この日は5個入っていたので、やはり持ってくる人はいるのでしょうね。ちなみに、一番最初に置いたのは門川京都市長だったそうです。

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場所はBALの地階1階と2階です。出版不況と言われ、次々と書店が姿を消していく中で、これだけの大型店舗があるのは嬉しい限りですね。今度は撤退などせず、ずっと京都の文化を底支えしていってほしいものだと思います。

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丸善と言えば、書店に喫茶店が平成されているのがユニークだったのですが、今回の出店でもカフェが併設されていす。メニューとしてはハヤシライスのほか、冒頭のレモンケーキなどがありました。少し高めなのが気になりますが、本を買った後にカフェでのんびりと読むというのも懐かしい楽しみ方です。

また河原町に来た時は、ここに寄って本の香りを楽しみながら、沢山の書架の中の本を見て歩きたいと思っています。そして、お気に入りの本に出会えたら嬉しい限りですね。


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2016.10.13

真田丸 豊臣秀次の菩提寺 瑞泉寺

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三条大橋を西に行き、木屋町通を少し下れば、前関白従一位豊臣秀次公之墓という石柱が建っています。ここが豊臣秀次公の菩提寺、瑞泉寺です。

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門前には、歴代の大河ドラマで登場した秀次の記事が掲げられていました。秀吉の時代を語る上では欠かせない人物ですから、登場回数も必然的に多くなるのですね。その歴代の秀次の中で、真田丸で描かれた秀次像は、それまでのイメージとは一線を画するものでした。どこまで史実に即したものかは判りませんが、少なくとも最近の研究では殺生関白というイメージは消え、近江八幡の治世で一定の成果を上げたなど、秀次に対する見直しは進んでいる様です。

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ここが秀次とその一族の墓所です。中央の大きな墓石が秀次、その周囲の石柱が一族と、それに殉じた家臣たちの供養塔です。これは昭和17年に、財団法人豊公会の発起により整備されたものだそうです。

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そして、この石が秀次公の首を入れたものと伝わる石櫃で、それを示すように秀次が切腹した7月15日の日付が刻まれています。何ともなまなましい気がしますね。

一族の処刑後は、遺体を埋めた穴の上に塚を築き、その頂上にこの石を置いて見せしめにした上で、畜生塚と呼ばせたと言われます。秀吉の狂気としか言えない沙汰で、豊臣政権の末期症状を示した事件でした。

もし秀次が生きていたとして、関白として家康に対抗し得たのか、あるいは秀吉の願い通りに秀頼の後見人に徹したのか、見てみたかった気がします。果たしてどうだったかは判りませんが、その後の歴史が違っていたであろう事は確かだと思います。

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2016.10.12

真田丸 豊臣家と三条大橋

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鴨川に架かる三条大橋は、京都でも最も有名な橋の一つです。架橋された時期ははっきりしませが、豊臣家もまたこの橋に大きく関わっていたのでした。

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その証拠が今も擬宝珠に刻まれた銘文に残されています。写真の中に豊臣と書かれているのが判るでしょうか。その銘文を要約すると、天正18年正月に、豊臣家が初めてこの橋の橋脚を石にしたと記されており、その時の奉行が増田長盛であった事も判ります。つまり、今の三条大橋の原型を作ったのは豊臣家だったのですね。

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時代はずっと下りますが、同じ擬宝珠の中には幕末の池田屋事件の際に付いたという刀傷も残されています。結構知られているらしく、何人もの人が触っていくのでしょう、その部分だけがてかっていますね。

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三条大橋の西の袂には、弥次さん喜多さんの像があります。三条商店街が設置したもので、ここが東海道53次の終点である事を示しています。京都にまで来た弥次さん喜多さんは大仏に遊び、その門前の名物の大仏餅を食べて楽しんだそうですね。

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三条河原に降りてみました。三条大橋は豊臣家の架橋から何度となく改修が行われ、橋脚もほとんどコンクリート化されていますが、景観としては大きくは変わっていないと思われます。また、一部にはまだ石の柱が残されている様ですね。

この三条河原は古くから処刑場とされてきた場所で、往来が多い分、見せしめとしての効果も上がったのでしょう。関ヶ原の戦いの後、石田三成や安国寺恵瓊、小西行長の首が晒されたのはここでしたし、それ以前に豊臣秀次の首の前で彼の一族が殺されたのもこの場所でした。幕末には、近藤勇の首が晒されていますね。

今では若者の路上ライブの聖地となり、川岸には等間隔に並んだカップルで賑わうこの河原ですが、そんな血生臭い歴史もあったという事も知っておくべきかと思われます。

明日は秀次公の菩提寺、瑞泉寺へと行くことにします。

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2016.10.11

京都・洛北 秋の植物園2016 ~京都府立植物園 10.8~ 

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この日は北山門から入ったのですが、まず目に飛び込んできたのはサルビアの赤でした。夏から秋にかけて咲き続けるこの花ですが、私的には秋の花という印象があります。インパクトの大きさは夏にこそ相応しいですけどね。

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この時期の植物園を彩るのはカンナです。正門広場、沈床花壇などで見る事が出来ますが、これだけ大きな植物を育てられるのも、植物園ならではでしょうか。一般家庭では、よほど大きな庭がないと難しいんじゃないかしらん。

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トウガラシも今が旬の季節かな。これはラベルにトウガラシとだけ書いてありましたが、観賞用なのでしょうか。いかにも辛そうに見えるけど、実際に食べてみるとどうなのでしょうね。

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この日は野外彫刻展として、40点の作品が展示されていました。この作品は「プチプリマの想いは...」という彫刻で、何時の日か檜舞台で踊る日を夢見る少女を表したものなのでしょう。最近の植物園は、こうしたコラボレーションが盛んで、思わぬ出会いがあって楽しいです。

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これは原種シクラメンの一つ、ヘデリフォリウムです。群落になって咲いており、屋内観賞用の園芸品種とはまた違った雰囲気がありますね。豪華な園芸品種も良いですが、こうした清楚な原種シクラメンもまた美しいものだと思います。

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2016.10.10

京都・洛北 秋バラ2016 ~京都府立植物園 10.8~

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平成28年10月8日の京都府立植物園です。この日は秋バラが見頃を迎えようとしているところでした。

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10月7日付けの週間植物園では、まだ秋バラが開花したという情報は無かったのでどうなのかなと思っていたのですが、実際に行ってみると結構な数が咲いていました。

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たぶん、まだ咲いていない品種などもあったので、見頃としては紹介していなかったのかなと思われます。今週号にはそろそろ出てくる頃かな。

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まだ見頃という情報が流れていなかったせいか、バラ園にはほとんど人が居ませんでした。雨の予報が出ていた事も影響したのかな。結局降らなかったけれどもね。綺麗な花園を独り占め出来たのは、なかなか幸運な事だったと思います。

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2016.10.09

真田丸 第40回「幸村」

九度山、真田屋敷。信繁の前に現れた明石全登。彼の用件は、大坂に来て一軍の将として戦って欲しいという事でした。敵は家康。断る、自分は囚われの身と信繁。では、会って頂きたい人が居ると全登。信繁が見つめる先には、楽しげな団欒。

沼田城。江戸に来いという秀忠の知らせに不安を隠せない信之。

九度山。信繁に会いたいという人物は且元でした。もはや戦は避けられぬという且元に、ここを離れるつもりはないと信繁。せっかく来たのだから、話だけでも聞いて欲しいという且元。

一人去り、二人去りとして、いつの間にか秀頼公のお側に仕える者は自分一人になってしまったと且元。ご苦労、お察ししますと信繁。事の発端は方広寺の開眼供養、今年は太閤殿下の17回忌にあたり、それに合わせて開眼供養を行うのが秀頼公の念願だったと且元。よく家康が許しましたねと信繁。そもそも大仏建立をはじめ、諸国の社寺の修復を勧めてきたのは家康と且元。読めた、大坂城の金蔵の金を使わせるのが狙いだったのだろうと信繁。

鐘に刻む銘文を清韓という僧侶に頼んだ、しかし、家康はこれでは格調が無いと難癖を付けてきたと且元。無礼なと怒った清韓は、家康の諱を入れた案を考え、国家安康、君臣法楽、それぞれ家康と豊臣の諱と姓を入れた銘文を作ってきました。洒落た趣向だと且元。

ところが、開眼供養も迫った時、家康から日延べする様にと申し入れがあったと且元。何が気に入らぬと秀頼。鐘に刻む銘文に呪詛がある、諱を二つに刻むなど縁起でもないとの事と且元。趣向ではなかったのかと秀頼。草案は見せてあるのだから、鐘が出来上がってから文句を言ってくるのはおかしいと治長。理屈が通じる相手ではないのだと且元。

洒落の判らぬ男だと清韓。諱を割るのは呪いだと言われたと且元。そういう事もなくはないと清韓。知っていたのかと且元。それはあちらの話だと清韓。もう一度書き直す訳にはと且元。あり得ぬと清韓。

進退窮まり、お上様に相談する事にしたと且元。お上様とはと信繁。茶々様の事、今や堂々たる大坂城の要だと且元。

駿府へ行って直接大御所に会って説き伏せてくれと淀の方。

駿府城。清韓は祝いのつもりだったと且元。これは呪いだと正純。君臣豊楽はどうなる、豊臣にも呪いを掛けた事になると且元。豊臣は逆になっている、これは呪詛返しだと正純。なぜ鐘が出来てから言われるのかと且元。信じていたからだ、これは徳川に対する重大な侮辱、断じて許すわけには行かないと正純。

ひと月粘っても、家康に会えなかった且元。

近江、土山。駿府からの帰り道で、大蔵卿に会った且元。家康に直接会い、全ては無学な且元が田舎坊主の言いなりになってしでかした事、いちいち騒ぎ立てることもないとの言葉をもらった大蔵卿。話が違う、自分は正純から事を治める三箇条、秀頼が大坂城を出て伊勢または大和に移る事、お上様を人質として関東に送る事、秀頼公は諸大名と同じく江戸に参勤する事、叶わぬ場合は徳川に敵対するものとみなし、討ち滅ぼす事と聞いてきたと且元。あり得ないと大蔵卿。

実のところは、逆心の無い事を形で示せとだけ言われたと且元。三箇条はと信繁。自分で考えたと且元。なぜ嘘をと信繁。大蔵卿があまりに憎らしくと且元。

大坂城。嘘がばれた且元。何故かと秀頼。戦を避けるために考えたものと且元。出来るわけがないと淀の方。大御所は心配は要らぬと言われただと大蔵卿。そこが解せませぬと且元。策を弄したのは貴殿ではと治長。何を言うと且元。三箇条を手土産に、徳川家に召し抱えられる手はずだったのではと治長。正純に言いくるめられたのではと大蔵卿。馬鹿を申すなと且元。私は且元をよく知っている、この男にはそんな智恵も度胸もない、大蔵卿の言うことが真ならよいではないかと淀の方。大仏開眼の日延べは仕方がない、その責めは負ってもらうと治長。

治長たちが暗殺を企んでいる事を知り、大坂城を去った且元。取り次ぎ役の且元の追放を手切れとみなした徳川。

大坂攻めを命じた家康。

家康は初めからこうなる事を見越していたのかもしれないと信繁。

秀頼は豊臣恩顧の大名に呼びかけ、また大坂城には浪人達が続々と集まってきている、全登もその一人と且元。秀家が捕らえられ、八丈島に流されてからこの10数年、全国を渡り歩いてきたと全登。

大坂城に入り、一軍を預かって徳川勢を迎え撃ってくれと且元。残念ながらお力にはなれにないと信繁。なぜと且元。訳は三つ、私は大軍を率いて戦った事がない、囚われの身、そして戦がそれほど好きではないのですと信繁。曲げて頼むと且元。今宵はお会いできて嬉しかった、真田左衞門佐は死んだものと思って下さいと信繁。

月明かりの中、一人佇む信繁。そこに現れたきり。あの人は明石様だったはず、何の用だったのときり。間もなく大坂城に徳川が攻めかかる、大戦だと信繁。行くのときり。行きたいと思った、だが今はもっと大事なものがあると思い断ったと信繁。行きなさいよときり。止めるのかと思ったと信繁。なぜときり。向こうには淀の方が居る、あの方は人を不幸にすると言っていたと信繁。行きたいと思っているのでしよう、助けを求めている人が居るのでしょう、だったらときり。私に何が出来る、大軍を率いて敵と戦った事もないと信繁。

真田安房守昌幸、徳川と二度戦って二度勝った男、あなたにはその血が流れているときり。誰も私に付いてこないと信繁。源次郎は安房守の息子、戦上手に決まっている、誰も疑わない、あとははったりときり。

ここで一生終えたいの、それで良いの、何のために生まれてきたのときり。私は幸せなんだと信繁。あなたの幸せなど関わりない、大事なのは誰かがあなたを求めているという事ときり。

今まで何してきたの、小県に居る頃は父親に振り回され、大坂に出てきてからは太閤殿下に振り回され、ときり。振り回されてきたわけではない、自分なりに力を尽くしてきたと信繁。これまで生きてきたという証しを何か残してきたときり。

聚楽第の落書きの科人は見つからなかった、沼田を巡って談判をしたけれど北条に取られてしまった、小田原城に乗り込んだそうたけれど、開城したのは何とか官兵衛という人の力だった、何もしていない、何の役にも立っていないときり。

私の大好きだった源次郎様はどこに行ったのときり。うっとうしいんだよ、お前はと信繁。判っていますときり。お前の言った事くらいは、とっくに自分で問いかけていると信繁。もう言わない、二度ときり。だが、お前に言って貰った方がよほど心に沁みたと信繁。

回想。(様々な出来事を呼び起こしていく秀吉のベル。)


朝。様々な文字を短冊に書き出している信繁。それを一字ずつ切り分けて壺の中に入れる様にと、大助に頼む信繁。

庭の里芋の出来を調べ、全て取り入れてしまおうと大助に言う信繁。

これから新しい名を決める、一文字は決まっている、兄が捨てた幸、これは真田家に代々受け継がれる大切な文字だと信繁。残りの一つはお前が決めろ、この壺の中から一枚だけ引いてくれと大助に信繁。そんな大事な事をくじで決めて良いのですかと大助。大事な事だからくじで決めるのだ、八百万の神に託したのだと信繁。

大助の選んだ文字は九度山村の村でした。それと幸の字を組み合わせ、信繁が新たに決めた名は幸村。戦国最後の名将の誕生でした。


今回は大坂冬の陣の前夜が描かれました。ほぼ回想シーンで構成されていましたが、信繁が自分で見た事だけを描くというこのがこのドラマのコンセプト、且元を九度山に来させるのは無理があったと思いますが、ある意味必然だったのかも知れません。

また、なぜ使者が明石全登だったのかと思っていたのですが、きりを無理なく持ってくるためだったのですね。なお、全登はてるずみと呼ばれていますが、他にも呼び名があり、「ぜんとう」「たけのり」という説もあります。キリシタンとして知られ、きりがガラシャのところで見たと言っていたのはそのせいでした。

方広寺鐘銘事件については先日書いたとおりですが、最近の学説はドラマに近いものがあり、鐘銘には意図的な悪意があったとする向きが増えている様です。

且元が考えたという三箇条ですが、これはドラマのとおりとする説と、徳川方から実際に提示されたものとする説があるようです。この条件についても、鐘銘事件を契機に平和裏に豊臣家を徳川傘下の大名として組み込もうとしたのであり、豊臣家を滅ぼそうとする意図では無かったとする説もあります。それが戦になった直接の原因は、ドラマにあったように且元が大坂城を去った事にあり、当時の慣例として取り次ぎを処分する事は手切れを意味する事だったからでした。つまりは、大坂の陣を誘発したのは、大坂方の暴発にあるという事になります。このあたり、見方は様々ですね。

それにしても、回想シーンに秀吉のベルを持ってきたのは秀逸でした。あのベルによって次々と信繁の記憶が蘇っていましたが、見ている側もこれまで見てきた懐かしいシーンを思い出す良い呼び水になりました。最晩年の秀吉が、しつこいくらいに鳴らしていたのも思い出しましたね。あんなに良い響きだったんだなあ。

また、きりが言っていた様に、これまで信繁がしてきた事は全てこのドラマにおける創作であり、記録に残るはずもありません。わずかに秀吉の馬廻りだった事が判っているだけで、ほとんどは九度山以降の事しか記録に残っていません。もし、大坂の陣に参戦しなかったならば、信繁はついに無名に終わった事でしょう。

そして、幸村の名をここで持ってきましたか。それも、幸は「昌幸」の回の会話から判っていましたが、「村」が九度山村の村だったとはね。幸村の名は江戸時代になってから創作されたものと思われますが、作者はやはりこの名に思い入れがあるのでしょう。史実はともかく、講談や小説、物語にと通りは良いですからね。日本一の兵と言われ、その名を後世に残した武将のこれからをどう描くのか、楽しみに待ちたいと思います。


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2016.10.08

京都・洛東 萩2016 ~常林寺 10.1~

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常林寺に最後の萩を見に行って来ました。今年はずっと雨続きのため、萩にとっては最悪と言って良い年回りだったのですが、それでも残っていた花がまだ待っていてくれました。

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この日も朝の内はまだ雨だったのですが、この花も良く散らずに残っていたものです。よく見ると、先端にはまだつぼみが残っているので、この後ももう少しの間は咲いていたのかも知れません。

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一方、彼岸花の方は、少し遅れて満開となっていました。今年は真如堂などでは例年より早く、大原や嵯峨野ではほぼ例年通りに咲いていましたが、良く判らない年ではありましたね。こうバラバラな時期に咲く様になると、そのうち彼岸花という言い方は消えて無くなるんじゃないかしらん、なんてね。

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たぶん、常林寺も晴れ続きだったなら、埋もれる様にして花の間を行き来出来ていた事でしょう。返す返すも惜しいと思える今年の萩でした。

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2016.10.07

京都・洛東 芙蓉2016 ~法住寺 10.1~

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養源院の隣にある法住寺で、芙蓉が咲いていました。この花もそろそろ盛りを過ぎて、見納めに近くなってきているのかな。

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それでもこの境内ではまだそこそこの数の花が咲いており、もう暫くは見る事が出来そうでした。それより残念だったのは背後の萩で、雨の影響ですっかり花が落ちていました。晴天続きだったら、さぞかし綺麗だった事でしょうね。

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境内には、キンモクセイの甘い香りも漂っていました。もうそんな時期が来たんだなと思ってしまう、そんな香りです。

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本堂の前のフジバカマは、まだ咲いていなかったです。真如堂では数週間前に咲いていた事を思えば随分と遅く感じますが、どちらかと言えばここの方が例年どおりの様ですね。間もなくここにもアサギマダラがやって来るのかな。どこかであの渡りをする蝶に出会えたら良いなと思っているところです。

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2016.10.06

真田丸 大坂の陣の引き金 方広寺鐘銘事件

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真田信繁(幸村)を巻き込んでいく大坂の陣、そのきっかけになったのが方広寺鐘銘事件でした。

方広寺は秀吉が建てた寺で、松永久秀によって焼かれた奈良の東大寺に代わるものとして発願されたと言われます。その敷地は、現在の妙法院、京都国立博物館、三十三間堂を含むという広大なもので、その中に東大寺をしのぐ規模の大仏殿がありました。

当初の大仏は木造で、漆の上に金箔が貼られたものだったと言われますが、文禄5年(1596年)の慶長伏見大地震によって倒壊してしまいます。この時、秀吉は激怒して、衆生はおろか自分の身も守れないのかと言って大仏を弓で射ったと伝わりますが、真偽のほどは判りません。ドラマでの秀吉は、かなり老衰の気配が濃くなっており、とてもそれどころではなかったですね。

秀吉の生前は大仏は無いままに大仏殿のみが残されていた(善光寺如来が代わりに置かれていた時期もあった様です)のですが、秀頼が慶長4年(1599年)に大仏の再建に着手します。今度は木造ではなく地震にも耐えられる様にと銅造にしたのですが、3年後に失火(あるいは放火とも)により、鋳造中の大仏と共に大仏殿も焼失してしまいます。

秀頼はそれでもあきらめる事なく、慶長13年(1608年)に再々建に着手し、慶長19年(1614年)には大仏開眼が出来るまでにこぎ着けました。写真はその時の大仏の10分1の大きさで作られた毘盧遮那仏で、当時の人が仰ぎ見たであろう角度で撮ってみました。

さて、ここで起こったのが鐘銘事件です。

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鐘銘とは梵鐘に刻まれた銘文の事ですが、方広寺の鐘銘は文英清韓(東福寺第227世にして秀頼の学僧でした)が撰文し、およそ千字に及ぶという長大なものでした。その中にある「国家安康」、「君臣豊楽」の文言が、家康の諱を分断して呪い、豊臣家の繁栄を願ったものだと、家康の側近であった林羅山らによって糾弾されてしまったのです。これに驚いた文英清韓は八方陳弁に努めますが認められず、遂には大坂の陣へと発展してしまったのでした。

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この事件については、家康が一方的に難癖を付け、豊臣家を追い詰めたという見方が一般的です。方広寺の拝観時にもその様に説明されますが、果たして本当にそうかと言うと、最近では違う見方もされて来ている様です。

と言うのは、銘文の選者である文英清韓自らが、家康の諱をかくし題として銘文に入れたと言っている事実があるからで、そうである以上ただの言いがかりとは言い切れなくなって来るのです。諱を分断するなど不敬この上なく、呪術の信じられていた当時としては、呪いと受け取られても仕方の無い事でした。実際に清韓に悪意があったのか、それとも清韓と開眼供養の奉行だった片桐且元の不注意だったのかは判りませんが、大坂の陣は図らずも大坂方が引き金を引いてしまったという見方も出来なくは無い様です。

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大坂の陣の引き金となった方広寺でしたが、その後も廃絶される事無く、現在にまで続いています。江戸時代にはかなりの人気スポットであったらしく、東海道中膝栗毛にも出てくるそうですね。もっとも、方広寺という名ではなく、一般的には大仏という呼び名で知られており、現在の地名にもそこかしこに大仏という名は残されています。(例えば大仏前交番など)

この写真の餅は大仏餅で、方広寺(というより豊国神社かな)門前の甘春堂東店で売られています。かつてこの地にあった名物を再現したもので、とても柔らかく、ほどよい甘さの美味しい餅ですよ。

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その甘春堂の向かい側にあるのが耳塚です。秀吉が起こした文禄・慶長の役に関連した史跡で、朝鮮から戦功の証しとして持ち帰った耳や鼻を一カ所に集めて供養した塚だとされます。彼の地の人に塗炭の苦しみを与え、自らの政権の命運をも縮めた秀吉の負の遺産の象徴とも言うべきものですが、歴史の生き証人として目を逸らしてはいけないものなのでしょうね。せめてもの供養として、前を通った時には、忘れずに手を合わせておきたいものだと思います。

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2016.10.05

真田丸 神として復権した秀吉 ~豊国神社~

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秀吉はその死の翌年に神号を与えられ、神となりました。正一位豊国乃大明神となった秀吉は、阿弥陀ヶ峰の頂上に葬られると共に、その麓に壮麗な社殿が営まれました。社殿の位置は、たぶん今の京都女子大学があるあたりになるのでしょうか。

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その社殿は北野天満宮を模した八棟造りだったと言われますが、臣下が神となったという意味では菅原道真と同じだったからでしょう。天皇が参拝した時、臣下を仰ぎ見る訳には行かないですからね。

豊国神社が築かれて後、毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭が行われ、大勢の民衆で賑わったと言われます。その賑わう様は豊国祭礼図屏風に描かれており、京にかつての繁栄を取り戻した秀吉は、その死後も民衆の支持を得ていました。しかし、その事がかえって家康の心証を悪くし、豊臣家を滅ぼそうと考えた一因になったとも言われます。

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大坂の陣で豊臣家が滅んだ後の豊国神社は悲惨でした。まず秀吉の神号は剥奪され、豊国神社も廃絶されてしまいます。山頂の御霊屋と麓の社殿はかろうじて残された様ですが、手入れもされないまま荒廃するに任され、そこに至る参道には新日吉神宮が建てられて、実質的に塞がれてしまいました。そして、いつしかその存在も忘れ去られていったのですが、明治になって再び脚光を浴びる事になります。

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明治元年に明治天皇が大坂に行幸されたとき、秀吉の遺徳を偲び、豊国神社の再興を命じられたのです。これにより、秀吉の神号は回復され、縁の地である方広寺跡地に現在の社殿が建てられたのでした。徳川の時代が終わった事により、虐げられて来た豊臣氏が復権したというところでしょうか。

今見る事が出来る唐門(国宝)は伏見城にあったものとされ、のちに二条城から金地院へと渡り、みたびこの地に移されてきたものです。現在は金具だけが金色に輝いていますが、かつては全体が極彩色に彩られた鮮やかなものだったと言われます。この神社は、どういう訳か拝殿には近づく事が出来ず、一般人が入れるのはここまでです。開放的な神社が多い中にあって、ちょっと珍しいですね。

ここには宝物館もあり、300円で拝観する事が出来ます。先に掲げた豊国祭礼図はこの宝物館で見る事が出来ますよ。また、秀吉の歯という珍しいものもあり、400年以上前の武将の息吹を、ごく身近に感じる事が出来ます。

少し地味な存在である豊国神社ですが、秀吉の遺徳を偲ぶ場所として、一度訪れられては如何ですか。

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2016.10.04

鶴松の菩提寺 祥雲禅寺跡 ~智積院~

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真田丸で描かれていた様に、豊臣政権にとって最大の弱点が跡継ぎが居ないという事でした。その秀吉が最初の男子である捨(鶴松)を得た時の喜びはいかほどであった事でしょうか。

良くこの捨が秀吉が53歳にして得た最初の子であり、その事から実子ではないと疑う向きがありますが、実際には長浜城主であった時代の側室に女児を産ませたという事実があり、必ずしも子供が得られない体質であったとは言い切れない事が判ります。

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しかし、その鶴松は、ドラマでも描かれていた様に病を得て、様々な手段を尽くしたにも関わらず、数え年3歳にしてこの世を去ってしまいます。秀吉の落胆ぶりは大きく、東福寺で髻を切って喪に服し、清水寺を経て最後は有馬温泉にまで湯治に出かけたのですが、悲しみが癒えることは無く、ずっと悲嘆に暮れたままだったと言われます。

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その秀吉が鶴松のために建てた菩提寺が祥雲禅寺でした。禅寺とある様に臨済宗の寺で、妙心寺の南化玄興を開山としていました。場所は大仏のあった方広寺に隣接した地で、現在の智積院に重なります。残念ながら詳しい事までは判りませんが、2階建ての御堂があり、その上り下りの足音が五条橋まで聞こえたと言われますから、相当な規模の伽藍を持ち、大勢の僧侶が暮らしていた事が窺えます。

遺構はほとんど残っていませんが、わずかに庭園の中に見る事が出来、その南半分が祥雲禅寺時代のものだと言われています。ただ、この日あれっと思ったのは、その特徴とされていたさつきの大刈り込みが消えていた事で、昨年までは確かにあったのに、どうしてしまったのでしょうね。

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もう一つの遺構が、国宝に指定されている障壁画です。祥雲禅寺の障壁画を長谷川等伯一門に描かせたもので、桜図、楓図などが特に有名ですね。これはレブリカの楓図ですが、本物は収蔵庫にて見る事が出来ます。

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祥雲禅寺は、大坂夏の陣が終わった後、家康によって智積院に寄進されます。智積院は、元は紀州にあった寺で、秀吉によって一度は滅ぼされた寺でした。家康はその智積院を復興させると共に、豊臣家ゆかりの寺を寄進する事で、その痕跡を消そうとしたのでしょう。ここに家康の灰汁の強さが出ている気がしますね。

祥雲禅寺は智積院の中に組み込まれる形となったのですが、その後度重なる火災によって全てが失われています。わずかに先に掲げた障壁画だけが、火災の都度に僧侶によって持ち出され、難を逃れて来たのでした。

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祥雲禅寺は、その存続年数の少なさと、その遺構の少なさから、ほとんど知る人も居ない様です。智積院に行かれる事があったら、夭折した鶴松と、その子を失った秀吉の悲しみに思いを馳せられては如何ですか。

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2016.10.03

真田丸 伏見城血天井の寺 ~養源院~  

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佳境を迎えつつある大河ドラマ「真田丸」ですが、ある意味豊臣家のドラマでもありますね。京都にはその豊臣家ゆかりの地がいくつかありますが、東山七条界隈もその一つです。

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三十三間堂の北側の通りを南に歩いて行くと、血天井と書いた立て札が見えてきます。この如何にも物騒な寺が養源院、淀の方が建てた浅井長政の菩提寺です。

淀の方がこの寺を建てたのは文禄三年五月の事でした。この頃はまだ豊臣家が勢いを保っていた時期ですね。しかし、程なく養源院は火災に遭い、焼失してしまいます。

荒廃していたこの寺を再興したのは、淀の方の妹であり、徳川秀忠の正室であった江でした。元和七年の事であり、豊臣家は滅亡した後ですね。しかし、江にとっても長政は父であり、その菩提寺を復興する事は、豊臣家縁の寺とはいえども、誰も反対は出来ないのでした。その代わりという訳なのか、伏見城の遺構を用いて再建する事となり、関ヶ原の戦いの前哨戦で敗れた徳川の将兵の菩提を弔う事となりました。その遺構の一部が血天井です。

伏見城の守将であったのは鳥居元忠ですが、第一次上田合戦の主将でもあり、「真田丸」においても登場しています。関ヶ原の合戦の時には老練の武将として家康の留守を任されたのですが、伏見城攻防戦においては多勢に無勢であり、城を守り切る事が出来ずに、最後は元忠以下の将兵が揃って自刃したのでした。その時に血だまりになった部屋の床を天井に張って、日々の読経などで供養しようとしたのが血天井です。実際に上を見ると手形や足形などが残っており、生々しいものがありますよ。さらには元忠が自刃した跡まで残っていると拝観時には説明されますが、そう言われれば見えなくもないといったところかな。

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こうした血天井の寺は京都やその周辺に八箇寺がありますが、この養源院は特に徳川家の菩提寺としても位置づけられており、格は一段上と言えるのでしょうか。歴代将軍の位牌を祀っているほか、明治以前には一般人は入ることが許されず、勅使のほかは将軍や大大名しか参拝する事は出来ませんでした。

それだけ徳川家に傾斜した寺ですが、意外なものもあります。それが淀の方と秀頼の肖像画、それに秀頼の位牌です(確認は取れていないのですが、淀の方の位牌もある様です)。敵方の豊臣家の縁の品のはずなのに、創建当時の性格を受け継いだものなのか、あるいは血縁者である江の力に依るものなのかは判りませんが、ずっと大切に保管されています。徳川家は徹底して豊臣家の痕跡を消そうとしていた事を思えば、何とも不思議な気がしますね。なお肖像画は以前に特別公開が行われていますが、秀頼の位牌はずっと非公開の様です。

また、一部ネット上で秀頼の墓がこの寺にあるという情報が流れていますが、それは間違いです。ここには位牌はあっても墓はありません。首塚は以前は大坂城三の丸跡にあったとされますが、今は嵯峨清凉寺に移されています。

真田丸とは直接関係ないのですが、俵屋宗達筆と伝わる十二面の襖絵と八面の杉戸絵もこの寺の見所ですね。昨年の琳派400年以来訪れる人が多くなり、この日もかなりの混雑ぶりでした。私的には、白象の絵はがきがもらえたのが嬉しかったな。

ドラマの進行とは前後しますが、真田丸のサイドストーリーとして養源院を訪れてみるのも面白いかと思いますよ。

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2016.10.02

真田丸 第39回「歳月」

昌幸の菩提を弔いに九度山を訪れた信之。

兄に昌幸の書き残したものを見せる信繁。凡人には全く判らないと信之。

これからも赦免の運動は続けていくと信之。気持ちは嬉しいが、もうここの暮らしに慣れてしまったと信繁。

夜。実は借金が嵩み、暮らしがきついと信繁。何とかしようと信之。

高台院に取り次いで貰うべく小野お通と会った信之。しかし、返事はつれないものでした。お通に向かって、ここに来ると心が落ち着くも、また来て良いかと信之。いつでもおこしやすと通。

九度山、真田屋敷。内記に大助の傅役を務めて欲しいと頼む信繁。

大助相手にこの盤面には全てがあると言って、囲碁を教える内記。碁盤は土地、石は杭、四方を囲まれてしまうと取られてしまうのは戦と同じと内記。

江戸。家康の命により江戸屋敷に住まう薫、松、稲たち。江戸の懐紙に不満たらたらの薫。そこに現れた末。末に扇を見せる薫。相変わらず菊亭晴季卿の娘と言い張る薫。2年後、この世を去った薫。

3年後。九度山。大助相手に囲碁で勝ち続けている内記。村娘を相手に刺繍を教えている春ときり。

村の子供達を相手に、忍びの術を指南している佐助。

畑仕事に精を出す信繁。それを助けるきり。その様子を見ている春。信之から荷が届いたと春。

信之からの荷は蕎麦の実でした。どういうつもりなのでしょうと春。ひもじい思いはさせぬと言われた、こういうはずではなかったのだがと信繁。

佐助の小屋。佐助の描いた絵を見ているきり。源次郎様はどう考えているのだろう、あの人が本気出すならどこまでも付いていくと佐助。あの兄貴は面白くない、源次郎様にはもう一度日の当たる場所に出て行って欲しいと佐助。

そこに現れ、きりと佐助にそばがきを一緒に売ってくれと頼む信繁。

村に出て、そばがきを十文で売りに出した信繁。味よしの蕎麦、飯されそうらえ、といつかの昌幸の節を付けて売ろうとする信繁達。しかし、売れ行きは今ひとつでした。

きりを連れて行った事で、機嫌が悪い春。きりには暇を出すと信繁。私が追い出した事になる、それはいやだと春。例によって障子を破って出て行く春。

それなら私が出て行くときり。そういう事でもないと信繁。私がここに居るのは、父のためと源次郎がここに居て欲しいと思っているから、もう菩薩の心ですときり。一度二人で話してみてくれと信繁。

大助に大勝ちして機嫌の良い内記。手加減してあげたらときり。常に真剣勝負なのだと内記。

一人、元気の無い大助。その前に現れたたか。

春ときりの前に座るたか。そこに現れた信繁。どういう方ですかと春。側室ですとたか。方便だと信繁。でも、側室は側室だと言い、信繁に抱きつくたか。一瞬殺意を抱き、火箸を振り上げる春。慌てる信繁。

今は呂宋を根城に商売をしているとたか。おみやげといって、南蛮の商品を並べ、商売を始めるたか。その中にあったネエパラの紐を手に取る信繁。それは差し上げますとたか。ネエパラは天竺の北にある国で、紐の事をサナールと呼ぶとたか。

サナールは伸び縮みしないのでとても丈夫とたか。その織り方を見て、上田の紬を思い出した信繁。

梅を相手に南蛮の言葉を教えるたか。

春ときりに、サナールを手本にした紐を編んで欲しいと頼む信繁。

春と一緒にサナールを織る春ときり。たかはどうするつもりかと春。さあ、ときり。ひとまずここをお暇しようと思っていますときり。旦那様に言われたのですかと春。私の考えときり。ここで旦那様を支えてあげて下さいと春。三人も子供を作っておいて何言ってんだかときり。きりの手を取り、私のためにどこにも行かないで下さいと春。

京に行った後、また呂宋に帰るとたか。

織り上がったサナールならぬ真田紐を佐助に渡し、どれだけ頑丈か試して欲しいと頼む信繁。

梁に真田紐を掛け、上り下りしてみる佐助。

村長たちを呼び、真田紐を売って欲しいと頼む信繁。自分たちには必要のないものと難色を示す村長。これは取引、真田紐を作り、売ることを任せたい、その代わり最初は手付けとして5貫文、その後は売り上げの一割を頂く、そして真田紐という名を付けるこという条件を示す信繁。それに乗った村長。

久々に入った銭によって、豪勢な食事に沸く信繁一家。その中で一人居ない大助。

内記に囲碁で勝てない事で悩んでいる様子の大助。そこに現れ話しかける信繁。昌幸は戦の前には必ず囲碁をしていた、気持ちを落ち着かせるには丁度良いらしいと信繁。大助に、囲碁を教えてくれと頼み、まずはどうすると聞く信繁。まずは、碁盤は土地と思って下さい、石は杭、と内記に教わったとおりに教える大助。お前の教え方は判りやすいと信繁。

賑やかな団欒。

風と共に現れた怪しい人影。彼は明石全登と名乗り、信繁を迎えに来たと言います。


今回は、昌幸死後の九度山での生活が描かれました。

まず、昌幸の葬儀ですが、これは行われなかった様ですね。信之は葬儀を行うべく正信に相談したのですが、公儀憚りの仁であるから自重された方が良いと諭したとされ、遺骨は九度山に埋葬し、上田には分骨するに止めた様です。

次に家族ですが、昌幸に従ってきた家臣16人のうち14人までは上田に帰ったらしく、残ったのは内記のほか1人だった様です。一方、信繁の家族は、正室のほか側室二人(内記の娘(ドラマではきり)と三次氏(ドラマではたか))が居り、二男、三女を九度山で設けた様です。結果として家計は窮迫する事となり、何度となく信之に送金を頼む手紙を書いています。また、ある時は真田屋敷が火事に遭い、その再建のために信之に援助を頼むという事もあった様です。

信繁が焼酎を好んだらしい事もこの頃の手紙で知られますね。信之の家臣である綱家に対する手紙で、ある時で良いから焼酎を送るようにと頼み、壺の口一杯まで入れて、溢れないようにしっかり口を締める様にと書いている事はよく知られています。

小野お通と信之の関係は側室であったとも、そうではなかったとも言われますが、このドラマではどう描かれるのでしょう。ここでは信之が和歌を習う事になっていましが、信繁も九度山で和歌を嗜む様になっており、連歌の会を開きたいという手紙も残っている様です。

真田紐については、現在も流通していますが、九度山で実際に真田氏が織っていたかは判りません。多分に伝承に近い様ですね。

さて、信繁を迎えに来た人物が居たという事は、方広寺鐘銘事件は終わっている事になるのかな。ドラマでは明石全登が来ましたが、実際には誰が使者であったかまでは判りません。実際、厳しい監視下にある信繁の下に、どのようにしてやって来たのでしょうね。

次回は大坂の陣へと至る過程が描かれる様です。そして、信繁が幸村と名乗りを変える様ですね。そのあたりどんな展開になるのか、楽しみに待ちたいと思います。

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2016.10.01

京都・洛西 彼岸花2016 ~嵯峨野特別保存地区 9.25~

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平成28年9月25日の嵯峨野特別保存地区です。この日は彼岸花が見頃を迎えていました。

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ここは、正しくは嵯峨野歴史的風土特別保存地区というのかな。広沢池と大沢池に挟まれた一帯の事を指し、昔ながらの田園風景が守られるように、法律で宅地化などが規制されています。都市化の著しい京都近郊にあって、こうした景色が残されているのは保存地区に指定されているからなのですね。

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去年もそうでしたが、今年も長雨が続いたせいか、稲刈りがまだ終わっていない田んぼが多く見られました。農家の方にとっては迷惑な事かもしれませんが、訪れる側としては里の秋らしい景色が見られるので有り難い事です。

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彼岸花は、大抵は畦に咲いているので、遠くから見るとこんな具合に稲穂の間から頭だけを出しています。それに黄色く熟した稲と赤い彼岸花のコラボレーションは、最も美しい色彩の組み合わせの一つなんじゃないかしらん。こういうシーンを見られるだけでも、ここに来た甲斐があったと思えますね。

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嵯峨野の彼岸花は、まだつぼみのものもあったけれど、もうピークは過ぎてしまっているでしょう。あるいは、草刈りと一緒に刈り取られているかな。また来年、美しい田園風景の中に、きれいな花を見に行けたらと思っている所です。

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