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2012.12.02

平清盛 第47回 「宿命の敗北」

(治承4年9月5日、福原。頼朝の挙兵に対し、直ちにこれを鎮めよと命ずる清盛。その総大将に命じられた維盛。)

(8月23日、石橋山。大庭、伊東の軍勢に囲まれ、惨敗を喫した頼朝。)

(洞窟に身を潜める頼朝一行。頼朝を見逃してやった梶原景時。安房に逃れた頼朝。)

(平泉。頼朝挙兵を聞き、自分も駆けつけたいと願う義経。今はその時ではないと止める秀衡。兄を見捨てられないと義経。運と度胸が無ければ勝てないのが戦と秀衡。自分が的になり、義経の運と度胸を示すという弁慶。見事に的を射抜いた義経。やむなく、佐藤兄弟を付け、義経を板東に向かわせる秀衡。)

(福原。各地に相次ぐ反乱軍を討つべく編成された追討軍。板東に向かう維盛、資盛。鎮西に向かう貞能。)

(内裏の造営について諮る清盛。遷都に反対する教盛ら一門。新しい国造りを遂行する事が勝つ事だ、武士はいかなる事をしても勝ち続けなければならないと清盛。)

(9月19日、下総。2000騎を率いて参上した上総広常。数を背景に無礼な広常に対し、毅然とした態度で臨む頼朝。凜とした頼朝に、大将の器を認め、軍門に下った広常。)

(軍議の席で、亡き義朝の功を尊み、悲願であった武士の世を作ると宣言する頼朝。そして、かつて義朝が居を構えた鎌倉を目指します。)

(9月29日、京。出陣を焦る維盛と日柄が良くないと止める忠清。兵の士気を案じ、出陣を強行する維盛。)

(10月16日。鎌倉入りを果たした頼朝軍2万5千騎。頼朝の下に駆けつけた政子。別に兵を挙げた武田信義と力を合わせたいと考える頼朝。そこに、平家の追討軍が駿河に入ったという知らせが届きます。これを迎え撃つべく出陣する頼朝。)

(10月20日、富士川。東岸に陣を敷いた頼朝軍。合流した武田軍。)

(西岸の平家軍。兵糧の豊かな頼朝軍に対し、兵糧の蓄えが無く、ぐったりしている平家軍。逃げ出す兵が多く、4000騎が2000騎にまで激減していました。心配する資盛に、まだ主立った武将が参陣していないだけだと維盛。そこに、大庭景親が参陣する途中で頼朝軍に阻まれ、伊東祐親が捕らえられたという知らせが入ります。色を失う維盛。兵糧が無い事で不満を募らせる兵達。それを見て、士気を上げる為に遊び女を連れてこいと命ずる維盛。戦を控えた陣中に女を呼ぶなど聞いた事が無いと忠清。大将の権威を笠に着て強行する維盛。)

(厳島に赴いた清盛。用向きは、内裏の速やかな落成を祈願する事でした。反乱軍を案ずる景弘。自分のなすべきは武士の世を作る事、すなわち、福原に都を置き、そこに自分の血を引く帝に住まいして頂き、そこで政を行う、それをあやつに見せてやると清盛。あやつとは、我が友の子、すなわち頼朝でした。義朝との過去を思い出す清盛。)

(富士川東岸。沼地を抜け、相手の背後を脅かしてはと提案する信義。)

(沼地を行く信義軍。女を囲んで宴に興ずる平家軍。信義軍に驚いて飛び立った水鳥の群れ。その羽音を奇襲と思い、崩れ去った平家軍。)

(厳島。海を眺めている清盛。)

(平家軍の無様さをあげつらう源氏軍。あまりのあっけなさに、清盛の20年を思う頼朝。このまま一気に上洛したいと提案する頼朝。東国にも、未だに頼朝に従わぬ者が多いと反対する広常たち。苛立つ頼朝。そこに現れた義経。)

(頼朝との対面を果たした義経。)

(六波羅。沈痛な面持ちで集まっている平家一門。そこに、宋の太刀を持って、どたどたと現れた清盛。そして、維盛を見つけると殴りつけます。止める知盛。折檻を止めない清盛。)

(息を切らして、首座に着いた清盛。そして、戦に敗れておめおめと帰ってくるとは、それでも平家の男子かと維盛を責めます。さらに忠清を咎める清盛。面目次第もない、死んでお詫びをすると忠清。たわけた事をと止める盛国。良く言ったと清盛。清盛を止める時子。武士とは勝つ事、今度の無様な敗走は、これまで築いてきたものを壊しかねない過ち、侍大将ならば命をもって贖うべしと清盛。止める盛国たち。)

(清盛の前に座り、死ぬ前に申し上げたい事があると忠清。肩で息をしながら忠清を見据える清盛。維盛は紛う事なき平家の男子、戦の心得もなく、出陣の日の吉凶も選ばず、兵の進退も心得ず、陣に遊女を入れ、戦場から逃げる、それこそがまごう事なき平家の男子の姿だと忠清。怒りにまかせて立ち上がる清盛。清盛は保元の乱、平治の乱に勝ち抜き、武士の世を夢見て財をなげうち、公卿方、法皇と渡り合って一門を公卿の家柄に押し上げた。音戸の瀬戸を広げ、大輪田の泊を整えて宋との交易を行った。厳島の社を新たにし、横へ横へと広がる世をを目指した。娘を入内させ、孫を帝とした。その帝を頂く新しい国を福原に作ろうとしている。平家はもはや武門ではない、清盛自身が武士ではない、清盛が目指した世は武士のままでは作れなかったのだと忠清。あえぐ清盛。この首を刎ねられよと庭に出る忠清。剣を抜いて庭に出る清盛。)

(忠清の首を刎ねようとし、剣を振り上げた拍子に仰向けに転ぶ清盛。地面に転がった錆びた剣。清盛の脳裏に甦る剣にまつわる忠盛、義朝、白河法皇たちとの記憶。心の軸が出来た時、身体の軸が出来るという忠盛の言葉。立派な武士になりたいと言う幼い日の清盛。その気持ちを心の軸にせよという忠盛の言葉。震える右手を見つめる清盛。)

今回は富士川の戦いが描かれました。平家の屋台骨が大きくぐらついたとされるこの戦いでしたが、清盛自身もまた老いさらばえていた事を実感させられた回でした。

史実との関係で言えば、義経が頼朝の下に馳せ参じようとし、秀衡がそれを危惧したのは史実にあるとおりです。もっとも、それは義経自身の事と言うより、平家と源氏の力関係を危ぶんでの事でしたが、弁慶が的の下に座って度胸試しをしたというのはドラマにおける創作です。

一方の平家方では、維盛が討伐軍の総大将に任命され、それを補佐する役目として忠清が従ったというのは史実どおりですが、資盛がこの軍に加わったという事実は無いはずです。それとも、そういう説があるのかな。資料に拠れば、副将格にあったのは叔父の忠度で、これに知度が加わっていました。ドラマでひげ面の忠度が出てこなかったのは、ちょっと意外でしたね。

石橋山で一度は破れた頼朝が再起を果たすと、続々と板東武者が彼の下に集まり、富士川の戦いの頃には20万騎を数える軍勢にまで膨れあがったと言われます。これも不思議と言えば不思議な事なのですが、その理由はやはり平家が諸国の知行を独占してしまった事にあった様ですね。例えば、2万騎を引き連れて参戦した上総広常の場合は、彼の地盤である上総国は他ならぬ伊藤忠清の知行する国となっており、広常は忠清と対立した事から清盛に疎まれ、その存在基盤を失おうとしていたのですね。その危機感から打倒平家を掲げた頼朝に与力しようとしたのであり、他の武者たちも大同小異の状態でした。つまりは、治承3年の政変によって平家があまりにも手を広げすぎてしまった事に、諸国に反平家の狼煙が上がった遠因があったのです。

頼朝の側も裏返しの事情であって、彼に味方する武者たちは自らの所領を取り戻す為に戦うのであり、決して頼朝に対する忠誠心からではありませんでした。なので、富士川の戦いに勝った後で頼朝が上洛しようとした時、広常たちは板東の事が先だと反対したし、頼朝もそれに従わざるを得なかったのです。

平家物語に拠れば、平家軍は7万騎だったと言われます。しかし、その大半は諸国の軍勢を寄せ集めた駆り武者であり、戦意に乏しい戦力でした。しかも、西国では酷い飢饉に襲われており、十分な兵糧も用意出来ていないという有様でした。こんな戦いになってしまったのは、頼朝が一度は石橋山で敗れたという油断があった事、その後の板東の情勢を甘く見過ぎていた事などが理由として挙げられます。平家としては、不本意な戦いを余儀なくされてしまったのですね。

実際の兵力としては、源氏方が数万騎だったのに対し、平家方は4千騎程度だったと言われます。元々数で劣る平家軍でしたが、戦いの前になると脱走者が相次ぎ、2千騎程度にまで減ってしまいます。この状況を見て、戦慣れした忠清は撤退を進言したのですが、維盛は追討使としての役目に固執し、引こうとはしませんでした。しかし、将兵の大半は忠清の意見を支持し、戦意は極度に落ち込んでしまいます。

そうした時に動いたのが武田信義でした。ドラマにもあったように、彼は平家方の背後を突こうとして富士沼に兵を入れたのですが、その軍勢の動きに驚いた水鳥の大群が一斉に羽ばたいたのですね。その羽音はすさまじく、怯えきっていた平家軍には大軍が襲って来た轟音に聞こえたのです。恐慌状態に陥った平家軍は、もはや統率の手だてもなく、撤退する以外に道は無かったのてした。この時、平家軍の中には近在から集められた遊女が居たと平家物語には記されています。これも上手くドラマに取り入れられていましたが、彼女たちの多くは逃げまどう兵士達の乗る馬によって蹴り殺されたとあり、悲惨な状況にあった事が窺えます。

追討軍が敗れた事を知った清盛は、追討使たる者、生き恥を晒して京に入る事は許さないと激怒したと伝わります。負けるべくして負けた戦いではありましたが、その敗戦の影響は計り知れないものがあると清盛には判っていたのでしょうね。平家を支えていた武力が潰え去っただけでなく、高倉上皇の院宣という権威まで否定されてしまったのですから、平家政権の存立基盤そのものが危うくなってしまったのでした。実際、東国はことごとく頼朝に靡き、その勢いは近江にまで届くという事になってしまいます。

ドラマに戻って、錆びた剣は耄碌した清盛自身を表しているかの様でした。その清盛の過ちを指摘したのが、平家の武門を支えてきた忠清だったというのも皮肉に満ちていましたよね。武士の世を目指せしていたはずの清盛が、気付かない内に自らその道を外れてしまっていたのでした。あの方はこの20年何をして来たのだろうという頼朝のつぶやきは、その間の事情を端的に物語っていたと思います。その事に気付いた清盛が、どう軌道を修正しようとするのかが次回の見所となって来るのかな。


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