平清盛 第44回 「そこからの眺め」
(治承3年(1179年)、伊豆、時政の館。政子との間に生まれた大姫を抱く頼朝。良く思い切ったものだと義明。清盛の怒りに会えばひとたまりもないと秀義。承知の上、平家の世は長く続かない気がする、自分は佐殿に、源氏の魂に賭けると時政。)
(重盛の館。病に伏す重盛。)
(福原。重盛の病状を伝え、法皇との確執を解いて欲しいと懇願する貞能。無言で庭に出る清盛。案ずる事は無いと盛国。)
(院の御所。基房を呼んだ法皇。彼の用件とは、病に伏している盛子が管理している摂関家領の事でした。本来ならそちの物と言われて喜ぶ基房。まずは清盛に都を離れた場所に居て貰おうと法皇。)
(福原。僧侶に祈祷させている清盛。花山院忠雅が厳島詣をしたいと言っていると知らせる盛国。承知する清盛。)
(安芸、厳島。忠雅をもてなす清盛。そこにもたらされた盛子死去の知らせ。)
(6月17日。盛子死去。)
(厳島。盛子の供養をする清盛。)
(盛子の死を痛む景弘。)
(六波羅。摂関家領を戻して頂くと伝える基房。盛子は帝の准母だった、一度は帝に戻すのが筋と時忠。そうすればいずれは言仁のものと思っているのかと基房。清盛不在の時にそんな申し出をされても承る事はできないと時子。さようですかと笑って立ち去る基房。)
(後白河院が預かる事になった摂関家領。)
(重盛が病に伏せっている今、代わりになる者が必要と話し合う平家一門。宗盛を推す頼盛。それはおかしい、維盛こそふさわしいと忠清。正妻の子、宗盛が良いと時忠。控えよと時子。)
(厳島。盛子の所領を召し上げられたと知り、怒りに震える清盛。ここで下手に動けば重盛の病に障ると盛国。判っているといらつきながら、帰洛を急がせる清盛。)
(院の御所。清盛をつつくには子をつつくに限ると法皇。)
(六波羅。病を押して一門を集めた重盛。宗盛たちに自分が死んだ後は、兄弟力を合わせて一門を支えよと告げる重盛。そして、息子達には叔父達を支えよと伝えます。)
(夜。重盛の下を訪れた法皇。重盛の手を取り、命がけで清盛を諌めてくれたと礼を言う法皇。もったいないと重盛。今の内に、何でも托すが良いと法皇。清盛となにかと衝突する事はあっても平家に二心は無い、平家の安泰、清盛の国造りを見守って下さいと重盛。約束すると法皇。礼を言う重盛。ただし、これに勝ったらなと双六盤を用意させる法皇。)
(賽を振る法皇。身体を起こし、震える手で賽を転がす重盛。双六を続ける法皇。苦しむ重盛をせかす法皇。そこに現れ、驚く清盛。)
(重盛を抱き、お戯れが過ぎると法皇をたしなめる清盛。40年前の重盛を賭けた双六の話を持ち出し、重盛が振った賽で清盛が勝ったと言い、自分を守るのは自分しかいないと重盛に言う法皇。お引き取りをと清盛。母を亡くし、弟を亡くし、父は修羅の道を行くもののけ、そちは生まれた時から一人で生き、一人で死んで行くのだと法皇。立ち去れと清盛。高笑いし、双六を手で払い立ち上がる法皇。高笑いを残して去る法皇。)
(とく、死なばやと、虫の息でつぶやく重盛。重盛を抱きしめる清盛。)
(7月29日。重盛死去。)
(今後の事をとせかす盛国。平家の力を弱めぬため、基通を権中納言に推挙すると清盛。)
(無視された清盛の推挙。)
(10月9日。8歳にして権中納言に任じられた師家。これはいかなる事と驚く兼実。いずれは師家が氏の長者として跡を継ぐと基房。)
(盛子の所領はいずれ師家のものとなるという事だと盛国。)
(高笑いする基房。さらにもう一つの沙汰として、重盛の知行国であった越前を法皇が治める事になったと基房。)
(越前召し上げを伝える盛国。これらの沙汰はすべて法皇の指示によると盛国。怒りに震え、両手を広げて叫び声を上げる清盛。)
(11月14日。数千騎の兵を率いて上洛した清盛。法皇は関白とたばかって国を乱している、即刻処断すべしと宣言する清盛。)
(清盛の処断により、関白、権中納言を解官された基房と師家。流罪同然に太宰権師に左遷された基房。呆然とする兼実。)
(11月17日。反平家の公卿達39人を解官させ、その知行国全てを平家一門のものとした清盛。)
(院の御所。一人双六に興じる法皇。そこに兵を引き連れて現れた宗盛。これは何とした事と法皇。鳥羽離宮に御幸して頂きたいと清盛の意向を伝える宗盛。さようかと立ち上がる法皇。)
(六波羅。法皇が鳥羽離宮に入ったと清盛に伝える宗盛。祝いを言上する一門。ついにここまで来た、武士がこの国の頂きに立ったのだと清盛。)
(11月20日。鳥羽離宮に幽閉された法皇。遂行された治承3年の政変。)
(徳子に事の次第を報告する清盛。これより先、存分にお働き下さいと徳子。言仁を西八条に行啓して欲しいと頼む清盛。)
(踊る様に廊下を歩く清盛。その先に佇む祇園女御。ついにこの世の頂きに上られましたな、そこからの眺めは如何と女御。いたって良い眺めと清盛。もう会う事も無いだろうと言って立ち去る女御。振り返る清盛。誰も居ない廊下。)
(西八条第。行啓した言仁。言仁に泰平御覧を献上する清盛。)
(言仁を抱いてあやす清盛。障子に指で穴を開けた言仁。喜び、この障子は大事に取っておく様にと時子に命ずる清盛。言仁を抱き取る時子。)
(鳥羽離宮で一人床を見つめている法皇。)
(如何にございますか、そこからの眺めはと祇園の女御の声。)
(障子の穴を覗く清盛。)
(笑みを浮かべて手の中で賽を転がす法皇。)
(穴を覗き続けている清盛。)
今回は重盛の死と、治承3年の政変によって頂点に立った清盛の姿が描かれました。
清盛と法皇の板挟みにあっていた重盛が「とく死なばや」という言葉を漏らしていたとは愚管抄に記されている事で、彼が置かれていた苦しい立場を良く物語っています。ドラマには出て来ませんでしたが、重盛は病に倒れる前に熊野参詣に出掛けており、その途中で吐血して倒れたのでした。病名は不食の病で、胃潰瘍とも脚気とも言われているようですね。彼の死は西光法師の怨念であるという落書きがあったとも伝えられています。彼の遺領は院の近臣である藤原光能に与えられ、平家から取り上げられたのはドラマにあったとおりです。また、病の床に伏す重盛に法皇が双六を強制したのはドラマによる創作ですが、彼の死の直後に法皇は石清水八幡宮に御遊をしており、忠臣の死にも係わらず悲しみのそぶりも見せる事は無かったと言われます。
盛子もまた重盛と同じく不食の病によって亡くなっており、彼女の場合は平氏という異姓の身でありながら摂関家領を相続した事で春日大明神の祟りに会ったのだと噂されました。盛子の遺領は内の御沙汰として天皇領とされたのですが、それを管理する倉預に法皇の近臣である藤原兼盛が任じられて、実質的な支配権は法皇の下に移されました。
基通は基実の子で、盛子が継母となって養育していました。いわば摂関家の嫡流にあたるのですが、幼少のため関白は基房が継ぎ、基通がいずれ氏の長者となる含みで盛子が摂関家領を相続していたのですね。ところが盛子の死後、基房の子である師家が基通をさしおいて中納言となり、摂関家を相続する事が約束された事はドラマにあったとおりで、これにより清盛の面子は丸つぶれとなりました。
これらの出来事が平家の力を削ごうとした法皇の策謀であった事はドラマに示されていたとおりであり、これが清盛の強い怒りを招く事となりました。世が世なら、臣下の清盛が法皇に異議を唱える事など出来なかった事なのですが、京における軍事権を一手に握っていた清盛にとっては、法皇も恐れる必要の無い相手になっていたのですね。そして、言仁親王が東宮となっていたことで、高倉天皇の譲位~院政への道も開けており、治天の君が居なくなっても構わないという環境も整っていました。こうして、治承3年の政変は現実のものとなったのですね。
今回のドラマに描かれていなかったのは宗盛の苦悩で、彼もまた院の近臣という立場では重盛と同じでした。彼は重盛が病によって内大臣を辞任するより早く、妻の死を理由に権中納言と右大将を辞任していたのですが、これは重盛の場合と同じく父と法皇の板挟みにあった宗盛が、二人の対立の最中から逃れようとしていたのではないかと考えられています。また、清盛が数千騎を率いて上洛する際、宗盛は厳島参詣の途上にありました。これもまた、父の動きを事前に察した宗盛が、婉曲に父の命令を拒否しようとしたのではないかと言われます。結果としては呼び戻されて父・清盛と行動を共にしているのですが、清盛の息子という立場は相当に難しいものがあったと想像出来る出来事ですね。
関白の基房が解官され、太宰権師に左遷されたのはドラマにあったとおりで、事実上の流罪でした。古の菅原道真公と同じ処遇と言えますね。彼の息子である師家も解官され、新しい関白には基通が充てられました。これにより、平家を後ろ盾とする基通が藤原摂関家を嗣ぐ事が明かにされた訳ですね。ただ、基房の弟である兼実はずっと表だった事をして来なかった故にか無事で、彼は基通を支える役目を期待される様になります。兼実としては本意ではなかったのですが、彼は保身の為にこれを喜ぶ振りをしたと伝えられています。
この動きに対して、法皇は清盛に今後は一切政務に口を出さないという申し入れをしています。一度は平家を除こうとした法皇でしたが、そのあまりの反発の大きさに恐れをなしたのですね。ドラマでは一切の言い訳をしなかった法皇ですが、現実には難を逃れようと見苦しくあがいていた事が知れます。これにより、清盛の怒りも収まるかと思われたのですが、事態はさらに進展します。
まず、天台座主に、法皇によってその座を追われていた明雲が復帰します。そして清盛は、院の近臣39名を解官させるという暴挙に出ました。この中には太政大臣である藤原師長も含まれており、彼はそのまま尾張国に流罪となっています。また、ドラマには描かれなかったのですが、清盛の弟である頼盛も所領を没官されています。頼盛もまた法皇の近臣であったためと言われていますが、清盛の怒りがいかに強かったかという事がこの一事から窺い知る事が出来ます。
この政変によって多数の受領の交代が行われており、結果として平家一門が支配する国は、当時の日本の66国のうち32国に及ぶ事になりました。文字通り平家にあらずんば人にあらずといった世が現出した事になる訳ですが、この事が大きな反発を呼ぶ事になっていきます。
政変の仕上げが法皇の鳥羽離宮への幽閉でした。鳥羽離宮は鳥羽法皇が晩年を過ごした地で、ドラマにも出て来ていましたよね。法皇は多数の兵に監視下に置かれ、わずかの近臣と女房以外の人との通行を遮断されて一切の政務から遠ざけられてしまいます。
こうして平家中心の政権を樹立した清盛でしたが、彼自身は政権の中枢に座ることなく、福原に引き上げています。後を任されたのは宗盛であり、朝廷は高倉天皇と基通が舵を取る事になります。しかし、彼らでは経験と貫禄に欠けていたのは明かであり、新しい政権は不安定なものとなって行くのです。
ドラマに戻って、法皇の重盛に対する仕打ちは、あまりにも子供じみていて無意味なものに思えました。あんな事をしても、ただの嫌がらせ以外の何ものでもないでしょうにね。重盛を手駒と言うのなら、もっと大事に扱いそうなものなのですが、そうはしないのが松田法皇の特色なのでしょうか。どうにも、このドラマの法皇の行動には首を傾げたくなるものが多いです。
ただ、この演出によって清盛の怒りも正当化される事にはなっています。こんなに無慈悲で酷い法皇なら、幽閉されても仕方がないと思えますよね。それが作者の狙いだったのかな。
治承3年の政変によって政権を得た清盛でしたが、これがこのドラマの言う頂上だったのですね。たしかに、これによって清盛が絶頂期を迎えたとは言えるのですが、彼の目指すという新しい国の姿は依然として何も示されていません。宋との交易によって国を豊かに富ますと言っていましたが、具体的には何が変わったのでしょうか。ただ清盛が政権の頂点に立つ事だけがドラマの最終目標だったと言うのなら、従来の平家物語の世界観とほとんど変わらない事になってしまいます。何だか裏切られた感が漂うのは私だけかな。
それはともかく、言仁親王が開けた穴から見た景色が、頂点に立った清盛が見た世界だったという祇園女御の言葉は暗示的でした。親王が安徳天皇となる事によって、清盛の目指す世が完成するという事を意味しているのでしょうね。どんな景色だったかは、視聴者の想像に任せるという事なのでしょう。
なお、西八条第に行啓した親王に清盛が泰平御覧を贈り、親王が穴を開けた障子を家宝として残しておけと清盛が言った事はいずれも史実として伝わっている事です。
次回は以仁王の令旨が描かれる様です。頂点に立った平家の足下が崩れ始めるという予兆ですね。気になるのは、清盛が戯れていた白拍子ですが、やっと祇王が出て来るのかな。そのあたりにも注目して見てみたいと思っているところです。
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