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2012.09.16

平清盛 第36回 「巨人の影」

(京、鞍馬寺。修行に励む遮那王。)

(1168年2月。僧都に牛若を託した常磐。彼女の願いは僧として命を長らえる事でした。)

(鞍馬寺。廊下で足を滑らせた僧都。部屋に居たはずの遮那王が一瞬で駆けつけて助けます。驚く僧都。何事も無かったかの様な遮那王。)

(嘉応元年3月20日。後白河院を福原に招いて千僧供養を行った清盛。庭で護摩を焚く明雲。)

(夜。明雲に礼を言う清盛。清盛の為に祈ろうと明雲。自分の為にも祈願せよと現れた後白河院。無論と答えて立ち去る明雲。)

(何を企んでいると後白河院。今宵はゆるりと寛いで下さいと躱す清盛。)

(自分は京には帰らない、重盛に棟梁として一門を率いろと命ずる清盛。)

(大輪田の泊を眺めながら信西の夢を語る西光。清盛の狙いを遣宋使にあると睨む上皇。そして、六波羅をどう操るつもりなのかと訝ります。義弟と酒を呑みたくなったと出て行く成親。)

(重盛が棟梁になった事を言祝ぐ成親。自分に勤まるかと不安げな重盛。何を言うと成親。自分は時子の子ではない、宗盛こそが棟梁にふさわしいのではと重盛。血筋だけが棟梁を決めるのではない、清盛と一番長く時を同じくした重盛こそが棟梁に相応しいと成親。酒が無くなった、持ってこさせようと席を立つ重盛。重盛を見送りながら、小者がとつぶやく成親。)

(建春門院となった滋子。院の司たちを集め、酒盛りをして結束を固めています。大杯で酒を飲み干す滋子。重用される様になった時忠や宗盛。滋子の姉がお前の母だ、血筋に自身を持てと宗盛に囁く時忠。)

(福原。大輪田の泊に唐船を入れるには、波よけの島でも作るしかない、どうしようもないと嘆く兔丸。作ればよい、やる前に諦めてどうすると清盛。やってやろうじゃないかと出て行く兔丸。)

(京を重盛に任せて安堵したのではないかと盛国。重盛の心は清い、清いだけでは勤まらないのが武門の棟梁だと清盛。)

(伊豆。頼朝の館を覗く政子。呆然と座っている頼朝。)

(数日前。もののけと間違えて頼朝を掴まえた政子。謝る政子に、殺してくれと懇願する頼朝。驚いて逃げ出した政子。)

(政子を連れ戻しに来た時政。驚く政子に、二度とここに来ては行けないと言い聞かせる時政。しぶしぶ言う事を聞くふりをした政子。)

(頼朝の館に入り、佐殿と呼びかける時政。その様子を藪の中から見ている政子。)

(京、上皇の御所。滋子に出家を考えていると告げる後白河院。驚く滋子に、山法師を手なずけるには、仏法の頂きに立たなければならないのだと上皇。)

(6月17日、出家し法皇となった後白河院。その時、戒師となったのは伝統的な延暦寺ではなく園城寺の僧侶でした。)

(延暦寺。身体を鍛える山法師たち。彼らを見つめながら、後白河院を貶める方法はないものかと思いを巡らす明雲。)

(成親の治める尾張の国の目代・藤原正友が、日吉の社と神人たちと衝突し、死者を出すという事件が起こりました。この事に怒った比叡山が成親と正友の処分を求めて来た為、朝義が開かれました。面倒が起こる前に、成親と正友を処罰しなければならないと基房。自分は何もしていないと戦く成親。今、事実関係を調べていると検非違使別当である時忠。そこに現れ、それには及ばない、山法師の脅しに屈してはならない、事件のきっかけを作ったのは神人ども、いますぐ神人どもを捕らえよと時忠に命ずる法皇。)

(さしたる調べもなく、神人3人を禁獄に処した法皇。)

(怒り狂い、強訴を叫ぶ明雲。彼らの要求は、正友の禁獄と成親の流罪でした。)

(内裏に迫った山法師達。成親を流罪にせよという叫び声に驚く幼い高倉帝。神輿を担いで内裏に乱入した明雲たち。)

(幼い帝を襲うとは卑怯なりと憤る法皇。言いたい事があれば御所に参れと明雲に申し送る法皇。)

(こういう時には参内するのが恒例と相手にしない明雲。)

(再度使いを出す法皇。梃子でも動かないと居座る明雲。)

(福原。事の次第を聞き、山法師に屈しないのは良いが、やり方が拙いと嘆く清盛。朝議にかけよと命じた法皇。)

(憔悴する成親に、断じて流罪になどさせない、下知があればすぐにでも山法師を攻めると励ます重盛。重盛の手を取って感謝する成親。)

(朝議の場。御所には650騎の兵が控えている、今すぐにでも山法師を追い出せると教盛。山法師は神輿を持ち込んでいる、戦の様な真似をして傷付けでもしたらと経宗。それでは神罰が下ると基房。ならば、成親の流罪を受けるのかと教盛。そうは行くまいと基房。ならば攻めましょうと教盛。こんな闇夜にかと叫ぶ経宗。)

(武装して庭で控えている重盛。そこに福原から戻り、清盛からの命を伝える貞能。それはいかなる議定の命が下っても、事を構えるなという事でした。叡山との友好関係を保つ事が急務と清盛。)

(事は成親の流罪だ、信じられないと重盛。)

(福原。流罪にしてから救う手だては幾らでもある。今は成親の事ではなく、平家の力なくしては何も出来ないと、法皇に思い知らせる事が大事と清盛。)

(結論の出ない朝議に苛立ち、自ら武士達に出陣を命ずる法皇。ただ一人動かない重盛。いぶかる法皇に、神輿を傷付けるかもしれない夜討ちは出来ないと抗弁する重盛。早く行けとせかす法皇に、棟梁としてそんな命は出せないと断る重盛。愕然とする法皇。三度に渡る命を聞かなかった重盛。)

(追い詰められ、正友を獄に下し、成親を備中に下す事を決めた法皇。山に帰った山法師達。)

(重盛の館。庭を見ている経子。そこに帰って来た重盛。すまぬと妻に謝る重盛。重盛を労る経子。)

(突然、時忠を解官し、出雲への流罪を申し渡した法皇。驚く時忠の前に現れた成親。成親に科はない、いい加減な調べをした検非違使別当の時忠にこそ罪があると法皇。いくら何でも無体なと西光。それを無視し、時忠を解官の後、成親を検非違使別当とすると法皇。呆然とする時忠。)

(六波羅。あまりの事に困惑する時子。比叡山と共に平家も威圧しようとするのが狙いだろうと頼盛。重盛に法皇を諌めよと命ずる時子。成親を守ろうとする重盛には、法皇を咎める事は出来ないと知盛。このままではまた強訴が起きると経盛。板挟みにあって何も言えない重盛。もはや清盛に出て来て貰う外はないと宗清。一門を率いるのは自分の勤めだと重盛。それが出来ていれば何も言わないと宗清。絶句する重盛。)

(重盛と頼盛を福原に呼んだ清盛。再び強訴の動きがあると伝える頼盛。集められるだけの兵を六波羅に集めておけ、ただし断じて動かすなと命ずる清盛。例え強訴が起きてもかと確かめる重盛。そうだと言って、大和田の泊の地図に目を戻す清盛。)

(六波羅に集まった兵士達。その噂を法皇に伝える西光。再びの強訴に備えているのだろうと法皇。叡山に加担するつもりとも考えられると西光。)

(内裏。あれは何事か、何故平家から何の知らせもないと訝る基房。)

(六波羅。何故の招集か見当が付かない兵達に、何か言ってやって欲しいと重盛に告げる忠清。何も言えない重盛。そこに法皇がやって来たと告げる知盛。そして、摂政と右大臣も来たと伝える重衛。)

(鉢合わせをした法皇と基房達。重盛にこの兵は何事かと問う成親。何も答えない重盛に、よもや私を見捨てて比叡山に加担するつもりではあるまいなと詰め寄る成親。俯いたまま黙っている重盛。あざ笑う様な基房。そこに現れた清盛。)

(これは何事でございますかと法皇たちに問う清盛。そなたこそこれは何事と法皇。これとは?と清盛。この兵は何の為に集めたと法皇。強訴を阻むためか、それとも加担するためかと怒鳴る法皇。武家館に兵が集まり、調練をするのは常日頃の事と平然と受け流す清盛。では何故に都に戻ったと法皇。比叡山に参る為と清盛。比叡山だとと法皇。何用があってと問う成親。ただの山登りだ、毎日海ばかり眺めていても飽きる故と清盛。忌々しげに立ち去る法皇。清盛が世にあらねばならぬ事を知らしめた嘉応の強訴。)

(成親を解官し、時忠を呼び戻した法皇。明雲にとりなし、成親の流罪は防いだ清盛。しかし、深く清盛を憎んだ成親。)

(お気に入りの近臣のために沙汰を繰り返し、あげくに屈するとは、有りてなきがごとき沙汰。法皇が行っているのは政にあらず、天魔の所為なりと罵る兼実。平家の弱点を見つける良い機会となったとほくそ笑む基房。)

(六波羅。福原に帰る清盛を見送る一門。その中で徳子に目を止め、もう16かとつぶやく清盛。そして、重盛に頼んだぞと言って立ち去ります。改めて一門にその存在の大きさを見せつけた清盛。)

今回は嘉応の強訴と呼ばれる事件が描かれました。今回はほぼ史実に添って描かれており、見応えがあったと思っています。

まず、福原で千僧供養が行われた事は、法皇と清盛が協調関係にあった事を示すと共に、清盛が千人もの僧侶を動員出来る程宗教界にも影響力を持っていた事を意味し、特に後に出て来る様に延暦寺とは友好関係にあった事が窺える事実と言われます。この千僧供養は、その後も繰り返し行われて行く事になります。

次に、建春門院となった滋子が権勢を振るっていた事も事実で、高倉天皇の即位によって国母となった事により、彼女の影響力は非常に大きなものとなっていました。そして彼女の引きによって実の兄である時忠、実の甥である宗盛らが力を得て行く事となります。

そして、尾張目代と日吉社の神人の争いをきっかけとした強訴が行われたのも事実で、この時強気に出た法皇とは対照的に平家は消極的な対応に終始し、結果として法皇が山法師に屈するという事態に至っています。清盛は延暦寺の座主、明雲の手によって出家しており、個人的に友好関係にあった事、政略的にも延暦寺との対立は避け、軍事的な消耗を防ごうとしていたのではないかと考えられています。

この時の後白河法皇の対応振りはドラマにあった様に無様なもので、最初は成親の流罪、次いで成親の召し返しと時忠の流罪、最後は時忠の召し返しと成親の解官という無軌道なものでした。これは、武力の中心である平家の非協力的な態度が招いた事態であると共に、やはり法皇は治天の君としての器に欠けていた事を示すと言われます。兼実が彼の日記「玉葉」の中で「天魔の所為」と嘆いたのも無理はなかった事ですね。この法皇の無軌道振りは、後の源平の争いの時にも露呈する事になって行きます。

清盛が法皇に協力的で無かった理由として、もう一つは成親を代表とする院の近臣の力を削ごうとした狙いもあったのではないかと言われています。清盛と法皇は高倉天皇の擁立で協調関係にあったとは言え、院の近臣が力を得る事は相対的に平家の力が後退する事を意味し、歓迎出来る事ではありませんでした。そこで、あからさまな攻撃はしないものの、強訴に力を貸さない事で間接的に近臣の力を弱めようとしたのではないかとも考えられていますね。

この事件において、清盛が福原に呼んだのは重盛と頼盛でした。これは清盛がこの二人に信頼を置いていた事を示すと共に、平家の軍事力はこの二人が担っていた事も示すと言われます。後に独自の道を歩む事になる頼盛ですが、少なくとも清盛の在世当時は、一門の中にあって重きをなしていた事を窺わせる事実ですね。

ドラマにおいては、この事件によって清盛の存在がクローズアップされる結果となりましたが、史実においても清盛の存在の大きさが如実に示された事になり、政治の第一線から身を引こうとした清盛の思惑とは裏腹に、彼を政治の世界に引き止める事になります。そして、この後は、福原と京の二元政治が行われていく事となって行きます。

なお、久しぶりに出て来た藤原経宗は、二条帝の近臣として平治の乱の時に暗躍する姿が描かれていましたが、その後、後白河上皇につまらぬ嫌がらせをした事が原因で解官され、阿波に流罪となっていました。暫くドラマから姿を消していたのは、こういう背景があったからですね。2年後に許されて京に呼び戻され、暫く無官のままで過ごした後、長寛2年(1164年)に大納言に復帰し、この頃になると左大臣になっていました。ドラマでは何の説明も無かったのですが、何気にこういう所を押さえているのも、このドラマの細かいところでしょうか。

次回は殿下乗合事件が描かれます。常に控えめな重盛の存在が大きく取り沙汰される事件ですが、ドラマでは少し違った展開を見せる様ですね。どんな具合に描かれるのか、楽しみに待ちたいと思います。

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