夏の旅2012 ~赤間神宮~
平家は壇ノ浦で最後を迎えますが、その時に同行していた安徳天皇もまた、共に海に沈みました。その安徳天皇を祭神として祀るのが赤間神宮です。
赤間神宮は、元は阿弥陀寺という寺でした。安徳天皇が亡くなった後、源氏はこの地にあった阿弥陀寺に陵を築き、御影堂を建てたと言われます。皇室では阿弥陀寺を勅願寺とし、大切に扱いました。
明治に至り、廃仏毀釈令によって阿弥陀寺は廃されて神社となり、初めは天皇社と呼ばれ、後に赤間宮と改称されています。この初代の宮司が、高杉晋作を援助し、奇兵隊の創設にも尽くした白石正一郎でした。さしもの豪商も、度重なる高杉たちへの援助で家産が傾き、維新後は破産状態にあったのですね。並の政商なら維新政府に取り入ろうとするところですが、恨み言の一つも言わずに一神主の座に甘んじたのが白石らしい潔さでした。
赤間宮はその後、昭和15年に官幣大社に列せられ、神宮号が与えられます。これ以後、赤間神宮となった訳ですね。しかし、第二次世界大戦で戦災に遭い、社殿は燃え落ちてしまいます。
現在の社殿が復興されたのは昭和40年の事でした。楼門はそれに先立ち昭和33年に復興しているのですが、水天門と呼ばれ、竜宮城を模した造りとなっています。司馬遼太郎さんはこの門について「街道が行く」の中で次の様に推測されています。
まだ八歳だった安徳天皇が海に沈む時、二位の尼(時子)に「私をこれからどこに連れて行くのか」と問い掛けます。二位の尼は「海の中にも都はありまする」と言って、帝と共に海に飛び込みました。この事を受けて、楼門の設計者は少年帝を欺くまいと竜宮城の様にしたのではないだろうか。
私もこの門を見ていると、そんな気がして来ますね。
神社の横には、安徳天皇陵があります。源氏が築いたという陵がこれなのでしょうか。門は閉じられていて中を見る事は出来ませんが、実は次に紹介する平家墓の前から覗き見する事が出来ます。八角形の陵墓である事が見て取れますよ。
これが境内の一角にある平家墓ですね。本当の墓ではなく供養墓と考えられますが、これには次の様な伝説があります。
江戸時代の中頃のこと、関門海峡に嵐が続き、九州へ渡る船や漁船の遭難が続出しました。下関の人達は大変困っていたのですが、ある夜、荒れ狂う暗い海から泣き叫ぶ男女の声が聞こえてきました。そこで闇を透かしてみると、そこには成仏できずに海上を彷徨う平家の武者と官女たちの亡霊の姿がありました。 人々はこの嵐は平家の亡霊の祟りであろうと考え、それまで世話する人もなく放置されていた平家の墓を一カ所にまとめ、京都に向けて手厚く供養したところ、翌日から嵐は収まり、荒れる事はなくなりました。
この話の真偽はともかくとして、ここには霊気を感じたのは確かですね。
ここに祀られているのは平知盛ほか13人で、他に多数の五輪塔があります。 別に七盛塚とも呼ばれ、小泉八雲の小説、耳無し芳一の舞台ともなっています。
耳無し芳一の物語は有名ですし、いまさら記す必要も無いと思いますが、もし忘れてしまったという方は赤間神宮のホームページをご覧になって下さい。そして、これが平家墓の側にある耳無し芳一の像ですね。物語にあるとおり、盲目で耳が無く、琵琶を抱えています。ただ、全身にお経は書かれてはいませんでした。既に平家の亡霊の供養は済み、もうお経の必要は無いという事なのかしらん。
そしてこれは、墓の一角にある高浜虚子の句碑です。
「七盛の 墓包み降る 椎の露」
椎の木に覆われたこの墓の風情を詠ったものなのでしょうね。
赤間神宮は、その由来のとおり、平家の物語に包まれていました。史実と言うより、本当に物語の方が多いのですけどね、やはり平家を偲ぶ人は一度は訪れておきたい場所だと思います。
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コメント
安徳天皇をお祀りするこちらの神宮には
一度訪れたいものですねぇ。
崇徳院は、京都にお帰り頂き、
白峯さんに祀られましたが、
安徳天皇は、お帰りになっていないのが、
個人的には気になっています。
まあ、後醍醐天皇もですけど・・・。
投稿: zuzu | 2012.08.29 12:30
zuzuさん、
赤間神宮には行って良かったです。
下関では、最も平家に縁のある地ですからね。
七盛塚も雰囲気がありましたよ。
確かに安徳天皇を祀った神社は京都には無いですね。
若一神社あたりにお迎えしても良さそうな気もします。
ご幼少の頃過ごされた地ですからね。
投稿: なおくん | 2012.08.29 21:14
おはようございます、なおくん様
赤間神社、去年門司に参りました際、下関へ歩いて渡ったのですが、時間切れでお参りできませんでしたの。
なおくん様のお写真+詳しい解説付きで、楽しませてもらいました。
ちょうど昨日、相方実家の岡山、林原美術館で平家物語絵巻を全巻見ることができました。
安徳天皇は波の下の水底の宮におられるのでしょうか。
投稿: いけこ | 2012.08.30 11:21
いけこさん、
海底人道を我が家とは反対に渡られたのですね。
歩きだと、赤間神宮までは少し遠かったかな。
今度機会があれば、是非寄って見て下さい。
平家に感心のある人には、必見の場所ですよ。
安徳天皇は、「波の下にも都のさぶろうぞ」という二位の尼の言葉を信じて、
今も海底の都で暮らしておられると思います。
わずか8歳でしたからね、何とも痛ましい限りです。
投稿: なおくん | 2012.08.30 21:19