夏の旅2012 ~萩 吉田松陰の足跡~
萩では、まず吉田松陰の足跡から辿る事にしましょうか。松陰は、言うまでもなく数多くの志士たちを育てた事で知られる人物です。
その教育の舞台となったのが松下村塾ですね。松下村塾自体は、松陰の叔父である玉木文之進が設立したのが始まりで、松陰もまたこの塾で学んでいます。松陰は三代目の塾長に当たり、当時はアメリカ密航を企てた罪で、実家の杉家に幽閉されている身でした。
当初は家族相手に講義を行っていましたが、次第に近隣の子弟たちが集まる様になり、私塾へと発展して行きました。藩校としては明隣館がありましたが、そこには入れない様な身分の者たちが集い、さらには評判を聞きつけて高杉晋作の様な上士身分の者も通う様になります。塾の講義は風変わりなもので、松陰が教えるばかりではなく、塾生同士が議論をし合い、松陰もそれに加わるといった具合だった様です。また、学問以外にも水練なども行っていた様ですね。
松陰がこの塾を主催したのはわずかに3年ばかりの事でしたが、その間に排出した人材は、その後の時代を動かすにに足る者たちばかりでした。主な名を上げれば、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎などですね。なお、桂小五郎はこの塾には来ていませんが、明倫館時代の松陰に師事した事があり、松陰門下の一人として数えられます。
塾の跡は松陰神社として整備されており、塾の建物と杉家の旧宅は当時のまま保存されています。この狭くて粗末な塾から、数多の人材が群がり出たという事からは、歴史の不思議さを感じずには居られませんね。なお、境内にある宝物殿「至誠館」では、松陰関係の資料を見る事が出来ます。
松下村塾から山手に上がったところに、松陰の生家跡があります。東光寺のすぐ近くで、城下を見下ろす見晴らしの良い場所ですね。つまりは城下からは遠く離れた僻地であり、わずか二十六石とはいえ、武士の屋敷がなぜそんな所にあったのかと言えば、城下の火事で焼け出されてしまったからでした。家財が全て焼けてしまって城下での暮らしが立たなくなり、藩の許しを得て、百姓仕事を兼ねる為に田園地帯に出て来たのですね。松陰が生まれる14年前の事だったそうです。
敷地跡がブロックで区切られており、当時の間取りが判る様になっています。また、この生家跡から少し山を登った所に、冒頭に掲げた松陰の銅像が建てられています。下田でアメリカ艦隊に乗り込む時の姿で、弟子の金子重輔を従い、沖合の艦隊を眺めているところなのだとか。明治100年を記念して建てられたものなのだそうです。
その生家跡から程近い場所に、松陰の墓がありました。松陰の百ヶ日忌に弟子達の手によって建てられたもので、遺髪が納められているとの事です。
その同じ敷地内には、高杉晋作の墓もありました。彼の遺体は遺言によって下関市吉田に埋められたのですが、生まれ故郷の萩から遠く離れている為、ここに遺髪と臍の緒を埋めて招魂墓としたとの事です。
そして、高杉と共に松陰門下の双璧と謳われた久坂玄瑞の墓もありました。彼は蛤御門の変で亡くなっていますが、師の側で眠らせてやりたいと遺族は考えたのでしょうね。
松陰縁の史跡としては、この他に野山獄舎跡や明倫館跡などがありますが、今回は時間が無くて回りきれませんでした。
松下村塾に関しては、松陰神社のホームページに詳しいですよ。
明日は木戸孝允旧宅と高杉晋作旧宅へと回ります。
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