夏の旅2012 ~下関 龍馬の足跡~
坂本龍馬は生涯の内に何度となく下関を訪れていますが、その晩年にはここを本拠地としていました。龍馬は伊藤助太夫邸の離れを借り、自然堂と名付けておりょうと共に住んでいたのです。
伊藤助太夫は下関を代表する豪商で、九州の諸大名が参勤交代の時に泊まる本陣の主でした。伊藤家は鎌倉時代から続くという名家であり、大年寄りとして下関の町政を司ってもいた様です。攘夷志士を援助した事で知られ、中でも龍馬とは深い繋がりがありました。いま残っている龍馬の手紙の中で、二番目に多いのが助太夫宛てなのだそうですね。自然堂を借りたのも、自然な成り行きだったという事でしょうか。
龍馬はほとんど外を飛び回っていたので、ここに住んでいたのはわずかな期間だけですが、それでもおりょうと仲睦まじく暮らす姿はあった様ですね。良く知られるエピソードとしては、稲荷町(下関にあった遊郭街)で遊び朝帰りした龍馬におりょうが噛みついたのですが、困った龍馬が三味線をつま弾きながら即興で俚謡を唄うと、おりょうも思わず吹き出して機嫌が直ったという話が伝わります。
今はその跡地には何もなく、春帆楼隣にある駐車場の入り口に、「本陣伊藤邸跡」と記した石碑が建つのみです。
長府には、龍馬と親交のあった三吉慎蔵の生家跡があります。慎蔵は寺田屋事件の時に龍馬と共に戦った事で知られ、その後も龍馬が死ぬまで交流は続いていました。龍馬は自分が不慮の死を遂げる事を想定し、もしもの事があったらおりょうを頼むと慎蔵に言い残してもいたのですね。
不幸にもこの手紙は遺言となり、慎蔵はその言葉通りにおりょうを自宅に引き取って世話をしています。そして、おりょうを伴って京都の龍馬の墓に参り、最後は土佐の坂本家にまで送り届けました。本当に律儀な人だったのですね。
ここは生家跡ですが、もう一つ屋敷跡という史跡もあった様です。残念な事に今回は生家跡を見た事で満足し、屋敷跡がある事までは気が回りませんでした。龍馬が訪れ、おりょうが暮らしたのはそちらの方だった様ですね。ちょっと惜しい事をしたな。
長府は城下町であり、こうした土塀があちこちに散在しています。なかなか風情のあるところですね。今は保存整備が進められているという事で、さらに良い雰囲気になるのかも知れません。ただ、破壊が進み過ぎており少し遅かったという見方もある様ですが、せっかくの資産なのだから大事にして欲しいですね。
このほか、下関の龍馬関連の史跡には、龍馬が世話になった商人・白石正一郎宅跡、おりょうと一緒に花火を上げて遊んだという巌流島などがあります。これらの史跡には「龍馬と下関」という案内板が掲げられているのですが、大河ドラマ「龍馬伝」が放映された折、下関が俄に注目されたため、急遽整備されたものの様ですね。
高杉晋作の史跡と比べると寂しい感じもしますが、二人を合わせて維新史を巡る旅をするのも楽しいと思いますよ。
明日は平家に戻って、赤間神宮を紹介します。
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