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2012.08.25

夏の旅2012 ~下関 高杉晋作の足跡~

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下関を訪れて判ったのは、この町が晋作贔屓だという事でした。晋作の史跡が多く残り、町を歩くと晋作という名の店に出会ったりします。町を挙げて、晋作に惚れ込んでいる感じですね。

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晋作が下関に残した足跡で最も大きなものは、功山寺の挙兵でしょうか。この時期、長州藩は蛤御門の変で敗れ、四カ国艦隊の砲撃を受け、幕府の征長軍に四辺を包囲されているという最悪の状況にありました。長州藩では、幕府に恭順するという俗論党が主流をなし、晋作たち改革派は風前の灯火といった状態で逼塞していたのです。

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このままでは長州が滅びると憂慮した晋作は、逃亡先の九州から舞い戻ると、長府に集結していた諸隊に向かって決起を呼びかけます。しかし、どの隊長も晋作の挙兵を無謀と見なし、誰も応じようとはしませんでした。わずかに伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊と、脱藩浪士の集まりである遊撃隊のみが賛同し、晋作は総計80余名での挙兵を決意します。

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挙兵にあたって晋作は、この時功山寺に居た五卿(禁門の変で都落ちした七卿のうちの五人。一人は亡くなり、もう一人は生野の変で挙兵し、その後潜伏していました。)にあいさつすべく立ち寄ります。晋作は挙兵の主旨を短く言い、出陣祝いの酒を所望し、やがて馬上の人となりました。この時、晋作が五卿に向かって言った台詞が有名ですね。

「今から長州男児の肝っ玉をお目に掛けます。」

冒頭の銅像は、その時の姿を現しているのでしょう。この日、境内には雪が積もっていたと言います。どこまでも劇的に出来ている男ですね。元治元年(1865年)12月15日の事でした。

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晋作は軍勢を率いて長府から下関に向かい、まず藩の出先である新地会所(厳島神社隣)を襲いました。ここにあるはずの兵糧と軍資金を得る事が目的でした。会所には抵抗出来る程の人数は居らず、占拠はあっさりと成功します。

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晋作が次に向かったのは、三田尻の海軍局でした。ここでも晋作は海軍局の占拠に成功し、三隻の軍艦を手に入れています。一説に依れば、海軍局では幕府軍の包囲を受けて謹慎しており、襲撃されても抵抗出来る状態には無かったと言い、各艦長たちも、幕府軍に船を奪われるくらいなら、いっそ晋作に協力しようと考えたと言われます。

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あっと言う間に下関を占拠し、軍艦を三隻手に入れた晋作を見て、諸隊は動揺します。そして、雪崩を打つ様に晋作の下に転じていったのでした。この頃、晋作が本部を置いていたのがこの了圓寺です。

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諸隊を率いて俗論党を一掃し、改革派の藩政府を打ち立てた晋作でしたが、今度は藩内の攘夷派に命を狙われるはめに陥ります。彼は藩政の改革のために、下関を支藩から取り上げて外国に開港しようとしたのですね。ところが、これが事前に漏れてしまい、支藩の藩士と攘夷派の怒りを買ったのでした。

写真はひょうたん井戸と言い、刺客団から命を狙われた晋作が、この中に1日隠れていたという伝説が残っています。この時、ずっと水に浸かっていたせいで晋作は体調を崩し、後に死に至る結核を患ったとも伝わっているようですね。

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晋作の最後の仕事は、第二次長州征伐のために来襲した幕府軍と戦う事でした。彼は海軍総督として参戦し、周防大島の奪還、小倉の攻略などに活躍し、長州藩を勝利に導きました。しかし、やがて持病の結核が悪化し、療養生活を余儀なくされてしまいます。

慶応3年(1867年)4月14日、晋作は波乱に満ちた短い生涯を閉じました。享年29歳。彼の劇的な生き様は多くの人を魅了し、今もなお慕う人は多いですね。その最後の地には、高杉東行終焉の地と記した石碑が建てられています。

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みもすそ川公園には、長州藩が外国艦への砲撃に使ったという長州砲が復原されています。立派な台車があり、砲身を上下させるハンドルも付いているという点では思っていた以上ですが、砲身は短く、大した威力は無かっただろうなと想像は付きます。よくこれで戦おうと考えたものだと思ってしまいますが、関門海峡の狭さを考えるとそれなりに効果はあったのかなとも思えますね。

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晋作は、この外国艦隊の砲撃には直接参加していませんが、二度大きく係わっています。一度目は外国艦隊の反撃に遭い、フランス軍によって砲台が占拠された時で、下関の防衛を任された晋作は奇兵隊を創設しています。これは上士からなる正規兵がまるで役に立たなかったためで、晋作は下士以外に百姓、町人から隊士を募集し、新たな戦力としたのでした。奇兵とは正規兵に対する反語ですね。この奇兵隊が端緒となり、様々な階層から集まった諸隊が結成されて行き(最大160以上とも)、やがて長州藩兵の主力となるに至ります。

もう一度は、四カ国艦隊が来襲した時で、脱藩の罪で自宅で監禁されていた晋作が呼び出され、外国との和議交渉を任されています。晋作は相手の要求を全て呑みつつも、賠償の請求は幕府に押しつけ、また彦島の租借の申し出は頑としてはね付けるなど、見事に役目を果たしたとされます。この時24歳だったと言いますから、大したものではありますね。

以上、下関にある晋作の足跡をざっと巡ってみましたが、思っていた以上に残っているものですね。それだけ晋作が下関の人達に愛されている証拠と言えるのかも知れません。なお、ここに紹介仕切れなかった史跡としては、桜山神社(晋作が創設した招魂社)、日和山公園(晋作没後90年を記念した陶製の像が建っている)などかあります。私としては、晋作の墓がある東行庵に行きたかったな。もう一度下関を訪れてみたいものです。

次は晋作の盟友、龍馬の足跡を巡ります。

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