夏の旅2012 ~平家最後の根拠地 彦島~
彦島、と言っても下関に行った事のない人にはピンと来ないでしょうね。かく言う私も名前を聞いた事があるだけで、実際にどんなところなのか全く知りませんでした。
彦島は下関市の西の端に浮かぶ島で、本州とは狭い瀬戸で隔てられています。でも、川の様な海ですから、予備知識が無ければ島に渡ったという実感は湧かないでしょうね。ほとんど、本州側の下関市内と一続きという印象でした。三井化学や三菱重工の大きな工場があり、2万8千人の人口が住むという、とても開けた場所です。
平安時代の末期、平知盛が、平家最後の拠点を置いたのがこの彦島でした。
とは言っても、彦島には当時を偲ばせる場所はほとんど残っていません。わずかに平家との繋がりを窺わせるのがこの清盛塚ですね。彦島の中央部からやや東よりの山中にあり、知盛が清盛の遺骨を分骨して埋めたという塚が残されています。
ただ、残念な事に道が草で覆われていた上に雨が降っていたので、現地に行くのは諦めました。ネットで調べたところ、こんな感じの様ですね。大河ドラマの舞台となるのだから、もう少し整備しておいて欲しいなというのが実感です。
おそらくは清盛塚のところに砦があったのでしょうね。写真の右手、船が見えているところのやや奥になるのかな。関門海峡を望むには、丁度良い場所だったのかも知れません。
なお、手前にある小さな島が巌流島です。宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した事で有名ですよね。また、龍馬とおりょうが花火を上げて楽しんだとも言われています。
こちらは彦島の北部、小瀬戸を挟んで望んだところです。こうして見ると、やはり島だなあと判りますね。この本州側、伊崎町というところに、安徳天皇の遺体が上がったという場所があります。
今はそこが赤間神宮の御旅所になっています。言い伝えに拠れば、地元の漁師が漁をしている時に、網に掛かったところを引き上げたとの事ですが、関門海峡に沈んだものが、この狭い瀬戸に流れ着くものなのかどうか疑問は湧きますね。潮の流れはどうなっているのでしょう。
安徳天皇の最期については様々な伝説があり、生存説も全国にある様です。でも、御旅所が作られるくらいだから、ここで亡くなったと信じても良いのかも知れません。
この彦島側には、平家の女官が海に身投げをしたという岩場もあります。平家を滅ぼした義経軍は、そのまま暴徒と化し、彦島で略奪と狼藉の限りを尽くしたと言われます。女官達は前途を悲観して、海に飛び込んだのでしょうね。
そうした背景もあってか、下関の人達は平家贔屓の様です。京都でも、乱暴を働いた義仲は、今もって不人気ですからね。800年の時を経ても、彦島の人達を苦しめた義経は、恨みを買い続けている様です。
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