平清盛 第32回 「百日の太政大臣」
(永万元年(11565年)、内裏、清涼殿。武士として初めて大納言に昇った清盛。基実が抱く赤子の六条帝に向かって、忠節を誓っています。)
(朝議の場。大輪田泊の改修について提案する清盛ですが、基房はそれを無視して議事を進めてしまいます。それは清盛の出世に対する嫌がらせでした。)
(廊下でため息をつく清盛。その背後から現れ、いずれ大臣となれる様に計らうから、そう気落ちするなと声を掛ける基実。礼を言う清盛。時忠が赦免になったと基実。喜ぶ清盛。万事私にまかせられよと基実。よろしくお願いすると言って立ち去る清盛。)
(そこに現れた基房と兼実。清盛と仲の良い基実を皮肉る二人。)
(今様に興じる後白河院。院に清盛の近況を伝え、もう少し歩み寄ってはどうかと助言する成親。そんな事をしなくても、清盛はいずれひれ伏してくると院。)
(清盛の館。清盛の子息を相手に官職の講義をしている盛国。一番偉いのは太政大臣だと宗盛。それは少し違う、今は実務を伴わないお飾りの様なものなのだと盛国。一番偉いのは帝ではと徳子。清盛はその帝を支える大臣になろうとしているのだと盛国。そこに帰って来た清盛。父を誇らしげに囲む子供達。)
(院の御所。後白河院に貢ぎ物を持ってきた清盛。摂政には何かと協力して、院には貢ぎ物だけとはあからさまではないかと成親。それを無視して大儀であったと立ち去る院。)
(廊下で西光と出会った清盛。久闊を叙し、信西の目指した宋との交易を要とした国造りを進めていくつもりだと清盛。頼朝を死罪にしなかった事を咎め、清盛を信出来ないと西光。これは手厳しいと言って立ち去る清盛。)
(西光に上皇に仕えてくれないかと頼む朝子。自分は世を捨てた身だと西光。私の言葉は信西の言葉だと心得よと朝子。ひれ伏し、院に仕える事になった西光。)
(伊豆、蛭ケ小島。このところ八重姫の姿が見えない、様子を見てきてくれと籐九郎に頼む頼朝。)
(祐親の館。もう会えないと八重姫が言っていると籐九郎を追い返す家人。)
(夜、部屋で泣いている八重姫。そこに忍び込んできた籐九郎。)
(頼朝に、八重姫の母に関係を知られたのだと報告する籐九郎。二度と会ってはいけないと厳しく言いつけられたと八重姫。流人の分際を忘れた振る舞いだったと謝る頼朝。子供が出来たと泣き出す八重姫。母は別の男に嫁がせ、その男の子という事にしようとしていると八重姫。私が守るから、子供を産んでくれと八重姫を抱きしめる頼朝。)
(永万2年(1166年)7月。急死した基実。駆けつけた清盛。悲しみに暮れる盛子。心労が祟ったのだろうと兼実。武士になど肩入れするからこんな事になったのだと基房。摂政となった基房。)
(基房の台頭に、前後策を練る平家一門。父は偉い人だから大事ないと重衛。なんとかなるだろうと清盛。そこに訪れてきた邦綱。)
(基実の持っていた荘園を、盛子のものとしてはどうかと持ち掛ける邦綱。摂政と氏の長者は基房が嗣いだが、藤原摂関家の嫡流は基通であり、その義母が所領を納めるのは当然の事と邦綱。盛子はまだ11歳、それゆえ清盛がその代理として所領を預かるという大義名分が立つのだと邦綱。)
(捨てる神あれば拾う神もあると忠清。それだけの事をして来たからだ、だから助けて呉れる者も出て来る、自分に付いてくるが良いと清盛。)
(院の御所。清盛に憲仁の東宮大夫となってほしいと頼む滋子。大納言止まりでは発言権も無く、どこまで役に立てるか心許ないと清盛。微笑む滋子。)
(11月11日。内大臣に昇った清盛。ここから一気に右大臣にまで上り詰める、五節で舞姫の舞を奉納せよと重盛と宗盛に命ずる清盛。)
(内裏。警護する祐親に声を掛ける清盛。)
(伊豆。時政に八重姫との事を話す頼朝。とっくに生まれているはずなのに、何も言ってこないと籐九郎。自分は不幸だ、流人となる辱めを受けた上にここでまた罪を重ねていると頼朝。何を世迷い言をと籐九郎。きっと祐親も喜ぶはずと時政。)
(そこに赤子を抱いて現れた八重姫。子供は男の子でした。赤子を抱いて、もう身内など得られないものたと思っていたと涙ぐむ頼朝。微笑む八重姫。)
(内裏。五節の宴。重盛の用意した一の舞姫を追い出す兼実の家人たち。事情を知らずに宴に興じている清盛。一の舞姫が居なくなった事で狼狽えている重盛達。)
(清盛の背後に現れ、内大臣の座の座り心地はどうだと問う後白河院。身に余る誉れと清盛。邦綱に知恵を付けたのは自分だ、全ては憲仁のためと院。しかし、次は右大臣、左大臣だと、と笑う院。ここは自分の世だ、朝廷を清盛の勝手にはさせない、次に昇るのは太政大臣、名はあるが力は無いと言って賽を投げ、これで上がりだと院。上皇の掌の上で踊らされていたのかと清盛。武士はどこまで昇っても番犬のまま死んで行くのだと院。)
(その時、今様を歌い出した舞姫。その姿を見て、祇園女御様と驚く清盛。乙前と院。遊びをせんとやと、優雅に歌い舞う乙前。呆然と見入る清盛。)
(治天の君の掌の座り心地を知っているのは自分だけ、存分に味わい尽くすと院を振り返る清盛。笑みを浮かべる院。)
(清盛の館。今は青墓で暮らし、乙前と名乗っていると女御。あの平太がと思っているのでしょうと言いながら、双六の盤を置く清盛。双六に興じながら、この世の頂きに上り詰めてみせると清盛。)
(仁安2年(1167年)2月11日、太政大臣に昇った清盛。大納言となった重盛。その100日後、太政大臣を辞任した清盛。しかし、その間に一門の者の地位を上げられるだけ上げて、朝廷における平家の地位を盤石なものとしていました。)
(伊豆。八重子と共に千鶴丸をあやす頼朝。そこに現れた祐親。祐親に手を付いて謝り、断じて伊東一族には迷惑を掛けない、出家しても良いので母子と共に暮らしていきたいと頼朝。祐親に、孫ですよと言って千鶴丸を抱かせる八重姫。黙って子を抱き、そのまま出て行く祐親。後を追う八重姫。家人に止められる頼朝。)
(泣き叫ぶ千鶴丸。祐親が刀を抜く音。何をなさいますと叫ぶ八重姫。泣きやんだ千鶴丸。いやー、と叫ぶ八重姫。駈け寄ろうとする頼朝を押さえる籐九郎。頼朝の子だと、そんな事が清盛に知れたら伊東一族などひとたまりもないと叫ぶ祐親。子の名を呼び続ける八重姫。崩れ落ちる頼朝。自分の子を殺したのは清盛だと思う頼朝。)
今回は清盛の太政大臣就任と辞任、それに頼朝の悲劇が描かれました。史実としては清盛の方が大事ですが、ドラマ敵には頼朝の方がより劇的だったかな。
清盛の太政大臣就任については様々な見方があり、ドラマの様に朝廷が彼を形式的な地位に祭り上げて実権を奪おうとしたとする説もその一つです。ただ、これを唱えたのは元木泰雄氏ですが、実は御本人自らこの説を否定されています。なぜなら、清盛は太政大臣の辞任後も重要な政務に携わっていたからで、実権を取り上げられたという事実は無いからですね。
清盛の大臣就任は極めて異例なもので、その理由については皇胤説、内大臣から実権を伴わない太政大臣へと進む事があらかじめ決められていたからとする説などがあります。実際にどうだったのかは判りませんが、清盛としては太政大臣まで勤めた事で権威を上げ、官位から引く事でより自由な立場で政治に関わろうとしたのではないかという見方では一致していますね。
そして、自分が引いた後に重盛を据え、より平家の地位を盤石なものとしようとしたのも確かでしょう。なお、東宮大夫の地位もまた、重盛に譲られていますので付記しておきます。
少し前後しましたが、基実が亡くなった事で清盛が慌てた事も事実です。六条帝を支える後ろ盾が居なくなった訳で、不本意ながら後白河上皇に院政を開かせる以外に道は無くなったのでした。ドラマではそのあたりの説明が無かったのですが、清盛が後白河院の事を治天の君と呼び、院がこの世は自分のものだと言っていたのはその事を指していると思われます。
基実の所領を盛子が引き継ぎ、それを献策したのが邦綱だったというのも史実にあるとおりですね。これにより、平家は大きな利益を得ると共に、摂関家はさらなる後退を余儀なくされたのでした。
ドラマに戻って、祇園女御がここで出て来たのは、あまりにも不自然でしたね。いったい幾つという設定なのでしょうか。元々年齢不詳の人物ではありますが、この時清盛は49歳でから、少なくとも70歳を越えていたはずで、下手をすれば80歳近いんじゃないかしらん。無理が有りすぎる設定というものです。視聴率回復に焦っているのかな。なお、五節の宴に、重盛と宗盛が舞姫を献上したというのは史実にあるとおりです。
頼朝と八重姫の子の悲劇については、良く知られるところです。ドラマでは祐親が斬ったかの様に演出されていましたが、伝えられる話では川に沈められたと言われています。どちらにしても、平家を憚った祐親が、頼朝の子を殺したのは確かですね。ただ、これも伝説の域を出ないらしく、史実かとうかは判らない様です。
千鶴丸は可哀想ではあったけれど、八重姫の嘆き方が少し弱いと感じたのは私だけなのでしょうか。もっと必死になるものなんじゃないかしらん。
次回は清盛五十の宴として、風雅を愛する平家が描かれる様です。そして、清盛が病に倒れる様ですね。どんな展開を見せてくれるのか、楽しみに待ちたいと思います。
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