平清盛 保元の乱の舞台~高松殿跡~
三条東殿址から姉小路通をずっと西に行くと、釜座東入に高松殿跡があります。こちらは保元の乱の時に、後白河天皇側の本拠地となった場所ですね。当時は天皇の御所とされていましたが、動員された武力は崇徳上皇方を圧倒するもので、雲霞のごとくだったと当時の記録には記されています。
ドラマにあった様に、信西はこの地で軍議を主導し、義朝の献策に乗って白河北殿へと夜襲を掛けたのでした。義朝も清盛もこの地に集結し、ここから戦いの場へと出て行ったのですね。
今は高松殿の邸内に祀られていた神明社だけが残り、高松神明神社として存続しています。ここにはもう一つ興味深いものがあって、それがこの神明地蔵尊ですね。これは、元は和歌山の九度山の真田庵にあったもので、真田幸村の念持仏だったと言われます。知将幸村にあやかって、子供に知恵を授かるというご利益があるそうですよ。平家ファンのみならず、戦国ファンも一度は訪れてみたい場所と言えるでしょう。
さて、保元の乱繋がりで、高松殿跡の北側一帯は、頼長の邸宅(というより藤原摂関家の邸宅というべきかも知れませんが)であった、東三条殿跡に当たります。豪勢な寝殿造りの邸で、乱の勃発直前に頼長から官に没収されていました。そして、戦の最中に後白河帝は、高松殿から東三条殿に移ったと言いますから、ドラマにあった様に兵火で焼かれたという事は無かった様ですね。ただし、没官にあたっては兵士が乱入したと言いますから、ある程度は蹂躙されていたのかも知れません。
今はご覧のとおりに御池通に面しては大きなマンションが建ち並んでおり、当時を偲ばせるものは何もありません。でも、ここで頼長がオウムを相手にしゃべっていたと想像するのも面白いですね。
なお、今回は確認していないのですが、跡地を示す石碑は押小路通釜座にある様です。
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