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2012.05.13

平清盛 第19回 「鳥羽院の遺言」

(後白河帝誕生に混乱する朝廷。権力者となった信西の廻りに集まってきた公家達。)

(信西に会い、いったいどういう事かと問い質す清盛。上皇の世が来ては自分が困ると信西。雅仁は、王家に渦巻く積年の鬱屈から流れ出た膿、すべてを抱え込んだ毒の巣と言ったのは信西ではなかったのかと清盛。そんな人物であるからこそ、自分が乳父として思う様に政治が出来るのだと信西。再び父に裏切られた上皇はどうなると清盛。微笑んでうなずく信西。立ち上がって御簾を引き千切る清盛。)

(崇徳上皇の御殿。法皇を生涯許さないとつぶやく上皇。)

(院の御所。上皇よ許せ、我が子よ許せとつぶやきながら写経をする法皇。)

(政の場から遠ざけられている頼長。あのうつけが帝とはけしからぬと啼くオウム。それは頼長が何度となくつぶやいた言葉でした。夕べ内覧の宣旨が下る夢を見た、きっと正夢だろうとオウムに向かって言う頼長。)

(美福門院の前で近衛帝が呪詛されたと口寄せをした巫女。その口寄せに従って愛宕山を調べたところ、目に釘を打たれた天公像が見つかれました。どこからともなく立つ、頼長の仕業という噂。)

(法皇に申し開きをすべく御所を訪れようとする頼長。その前に立ち塞がり、法皇にも美福門院にも会う意思は無いと冷たく言い放つ忠通。どうしても申し開きををと言う頼長に、誰もそなたに肩入れする者は居ない、会っても無駄だと笑って立ち去ると忠通。さては、風聞を立てたのは兄の仕業かと頼長。そのやりとりを側で聞いていた忠実。父上とすがる頼長。今度の風聞は、そなた自らが立てたのだと忠実。何を言うと頼長。綱紀粛正の名の元に公家の恨みを買い、過激な取り締まりにより寺社をも敵に回したと忠実。それは摂関家に実権を取れ戻す為だったと頼長。お前はやり過ぎたと言い捨てて立ち去る忠実。けしからぬと啼き続けるオウム。)

(東国。義朝の命を受け、義賢の館を襲った義平。友切の太刀を譲れと言う義平。これは父から授かったものと拒む義賢。義賢を矢で射殺した義平。義朝の手にもたらされた友切。)

(義朝の館。満足げに友切の太刀を抜く義朝。祝いを言う郎党たち。そこに駆け込んできた為義。義賢を殺して友切を奪ったのは本当だったのかと義朝に掴みかかる為義。為義を突き飛ばす義朝。友切を奪い返そうとする為義。これは源氏で最も強い武士が持つべき太刀、父に返す気は無いと義朝。)

(父の思いを踏みにじり、自分の弟を殺させるなど正気なのかと叫ぶ通清。もう良いと力なくつぶやき、肩を落として出て行く為義。後を追う通清。まことにこれでと言いかける正清。出かける、支度をせよと叫んで立ち去る義朝。その様子を陰から見ていた鬼武者。)

(じっと庭を見ている鬼武者。何をしている、弓の修練の時間だと由良御前。修練などしてどうなる、欲の為に身内を殺す者になるばかりだと鬼武者。鬼武者を叩き、父には志があっての事、子の分際で軽々しく咎め立てなどするなと叱る由良。)

(常磐御前の館。じっと考え込んでいる義朝。気遣う常磐。何もないと義朝。友切を示し、これを手に入れて少し気が高ぶっているのだと義朝。今若や乙若も、いずれ太刀を振るう様になるのだろうかと常磐。今若は3つ、乙若は生まれたばかりだと義朝。)

(清盛の館。一同が集まっているのを見て、訝る清盛。その中に居る見知らぬ女性。そこに時忠が現れ、滋子という自分たちの妹だと紹介します。清盛に目通りさせたいと言う時忠に、自分には時子が居ると清盛。誰が側女にと言ったかと声をとがらせる時子。では誰の側女に、自分のかと詮索する郎党達。)

(そうではなく、新しい帝の世となったのを機に、やんごとなき方の妻となる手だてはないのかと聞く時忠。やんごとなき方?と清盛。これだけの美貌ゆえ、いずれ帝の耳に入って妃にという話になるかも知れないと時忠。帝の寵愛を受けるとは、朧月夜の君の様だと時子。)

(やんごとなきお方の寵愛を受ける為に入内するなどまっぴらだと滋子。たとえ、盗人でも乞食でも、好きな人の妻となると滋子。じっと滋子を見る清盛。何を言い出すのだと時忠。時忠にあかんべえをして、立ち去る滋子。感嘆する郎党達。)

(池殿。面白い女子が一門に加わったものだと池禅尼。感服した、今の世に足りないものは滋子の様な強い志だろうと清盛。自分は新しい帝に気に入られるよりも、上皇の心に添いたいと清盛。上皇の心にと禅尼。自分は実の親子でないからこそ、いつか解り合える日が来ると知っている、法皇と上皇にもいつかその喜びを知って貰いたいのだと言って立ち去る清盛。)

(今の言葉を聞いたら、亡き殿もさぞかし喜ぶだろうと須磨。さて、どうであろう、苦笑いしているかもしれないと禅尼。)

(10月、内裏仁寿殿。正式に即位した後白河帝の祝宴が開かれています。帝の側に居るのは、お気に入りの成親と信頼の二人。公卿でもない者を物好きなと噂する殿上人。それを聞き、面白くないとつぶやく信頼。)

(そこにもたらされた、崇徳上皇からの祝いの歌。よほど恨みの籠もった歌なのではと噂する殿上人たち。)

(あさぼらけ 長き夜を越え にほひたて くもゐに見ゆる 敷島の君)

(新しい帝の姿を見事に読んでいる、さすがは上皇と褒めそやす殿上人たち。立ち上がって、歌が書かれた紙を見て、あなにくしとつぶやく後白河帝。それぞれの句の初めの文字をつなげると「あなにくし」、実に難いとの言葉が織り込まれていると信西。おのれ上皇と膳を投げる後白河帝。狼狽する法皇。)

(膳を投げ続ける帝。上皇の歌を拾い上げ、ならぬ、此度の即位は取りやめだと叫ぶ法皇。今すぐ譲位せよ、自分が浅はかだったと帝に迫る法皇。帝は重仁だと叫ぶ法皇。法皇を睨み付け、法皇よ、ここは私の世だと重々しく宣言する帝。その姿に、白河帝の姿を重ねる法皇。突然倒れてうずくまる法皇。駆け寄る美福門院。冷たく見据える帝の近臣たち。)

(鳥羽法皇の見舞いに参上した清盛。その前で是は我が子なりと写経を続ける法皇。起きていて大事ないのかと気遣う清盛。上皇は自分や帝を殺したい程憎んでいる、一朝事があれば武士が力を合わせて御所を守るが良いと言って清盛の手を取る法皇。我らの武力は、父と子の争いをさらに荒立てるためにあるのではないと断る清盛。驚く法皇。それよりも、法皇の心を上皇に伝えよと清盛。泣き崩れる法皇。)

(上皇の御所。法華七喩の長者窮子の写経を献上した清盛。それは何十年も別れ別れであった父子が再会して和解し、説是我子、これは我が子であると父が子に対して心より言葉を掛けるという話でした。法皇は帝が即位した日から悔い、心より詫びて許しを乞い、いまこそ本当の親子になろうと毎日この写経をしているのだと伝える清盛。しかし、その写経を破いてしまう上皇。 )

(保元元年。悪化した法皇の病と共に、崇徳院挙兵の噂が広まります。自分が死んだ後に何が起こっても、それは上皇にして来た事に対する報いだと法皇。自分を責めてはいけないと美福門院。そこに現れた信西。今は悔いている時ではない、治天の君としてなすべき事をせよと信西。)

(信西の発案により、戦が起こった時には鳥羽院に忠誠を誓うという文を書けという命を下した鳥羽院。)

(上皇と鳥羽院の仲を案じ、平氏は書かないと言い張る清盛。忠正にいざと言う時には亡き忠盛の志を守って欲しいと頼む池禅尼。)

(御所で誓書に署名した義朝。その表で通清に、この先左大臣がどのような立場になるかも知れないというのに署名したのかと聞かれ、下野守として当然の事をしたまでと答える義朝。義朝は強くなった、しかしその強さは為義を守る為のものではないのかと問い質す通清。為義と同じ道を歩く事はないと言い切る義朝。これまでと立ち去る通清。今の義朝について行けないと立ち去る正清。)

(清盛の館。息子達を前に剣を振るう清盛。そこに訪ねてきた義朝。息子達を紹介する清盛。御所に誓いの文を書きに寄った帰りだと義朝。自分は上皇を追い詰め、この世を乱す元となる文など書けないと清盛。乱れれば良い、武士の働き甲斐があると義朝。自分さえ良ければ良いのかと清盛。それでも武士の棟梁かと刀を突き付ける義朝。)

(その刀を清盛に示し、源氏重代の家督を継ぐ者の証しの友切だと言い、この太刀を手に入れる為に我が子を使って弟を殺したと義朝。義朝を殴り、なんという事をと清盛。源氏を率いるには、この友切が必要だと義朝。だからと言って身内をと義朝に掴みかかる清盛。何が上皇と法皇の仲直りか、揉めさせておけばよい、戦になればもっと良い、それこそが武士にとって無二の機会だと義朝。そんな腐った土台の上に何が築けるのかと清盛。土台はとっくに腐っている、もう元には戻らないと義朝。そんな事はないと清盛。ならば勝手にせよ、お上親子の仲直りにうつつを抜かし、一門を滅ぼすが良いと言って出て行く義朝。)

(崇徳上皇の御殿。縁に座っている上皇。そこに現れた美福門院。かつて自分の父は白河院に頼み、自分を上皇に入内させようとした事があった、それがこの様な事になろうとはと女院。黙って聞いている上皇。法皇を傷付ける人を押しのけ、帝位に就けた我が子はわずか17歳で儚くなった、無理に帝にした事が命を縮めたのかも知れないと女院。)

(法皇はもう長くはない、どうか余生に悔いを残さぬ様にと女院。)

(清盛の館。清盛を訪ねてきた信西。なぜ誓いの文を書かないと信西。返事をしない清盛。法皇は、初めは上皇の重祚すら考えていた、だがそれは世の更なる乱れの元となるかも知れないと散々迷った末に雅仁を帝に据えたのだと信西。しかし、今はそれを悔いていると清盛。つまりはそういう事だ、誰が帝位に就こうと、時はそちらに向かってうねっていると信西。そちらにとはと清盛。すなわち、天下大乱と信西。誓いの文を書くか書かないか、自分の守りたいものは何かをよく考えて決めよと信西。)

(縁で一人、信西の言葉を思い返している清盛。側に座り、義朝がすぐに帰ってしまって残念だった、優しそうな人だとと時子。優しいだとと吐き捨てる清盛。優しげな目で重盛たちを見ていた、きっと大切な奥方や子があるのだろうと時子。じっと考え込んでいる清盛。)

(7月2日。降りしきる雨の中、鳥羽院危篤の噂が飛び交います。周囲が止めるのを振り切り、鳥羽院の側に駆け込む美福門院。女院の声に、うっすらと目を開ける法皇。)

(崇徳上皇の御殿。縁で鳥羽院の写経の切れ端を拾い上げる上皇。そこには我が子と書かれていました。そこに知らされる法皇危篤の知らせ。)

(院の御所。美福門院に、そなたの人生を巻き込んで済まなかったと謝る法皇。諸大夫の娘の自分がこうして面白く生きられるのはあなたのおかげと涙する女院。)

(法皇の見舞いにやって来た崇徳上皇。ところが、警護する武士達の中に居た藤原惟方は、法皇に仇する恐れのある者は通す訳には行かないと門を開けません。自ら輿を出て、我は法皇の子だ、通せと叫ぶ上皇。子が親の死に目に会って、何の障りがあると上皇。そこに現れた清盛。清盛を見て、早く法皇の下に案内せよと命じる上皇。上皇の前に立って剣を抜き、少しばかり遅かった、自分には自分の守るべきものがあると上皇に剣を向ける清盛。聞こえてくる磬の音。それを聞いて父上とつぶやき、引き返す上皇。剣を下ろして俯く清盛。鳴り続ける磬の音。)

(鳥羽院の亡骸を菊の花で埋め尽くす美福門院。)

(雨の中、泣き崩れる上皇。その前に現れた頼長。)

(誓いの文に書かれた清盛の名を見て微笑む信西。武家の棟梁として、苦渋の決断をした清盛。)

今回は鳥羽法皇の死去とそれに伴う乱世への道筋が描かれました。概ね史実に沿った展開でしたが、鳥羽院の心情と清盛の取った行動は大きく違っていた回とも言えます。

ドラマでは近衛帝に対する呪詛は頼長が行ったものとされていましたが、当時の噂としては上皇もまたこれに絡んでいたと言われていた様です。恐らくは忠通あたりが流したものと思われますが、法皇と美福門院はこの噂を信じ、上皇を憎悪する様になったと言われます。史実では、それまでの上皇と法皇の仲はそれほど険悪なものではなく、共に熊野詣に出かけるほどの良好さは保っていました。法皇と上皇の仲が決定的に決裂するのは、近衛帝崩御の後というのが事実に近い様ですね。その意味から言えば、これまでのドラマの展開そのものが創作でああり、史実とは正反対の展開になっていると言えそうですね。

一方、鳥羽法皇が生前に北面の武士を中心に誓文を書かせたというのは史実にあるとおりで、自分の死後に乱が起こると予想していたと言われます。その誓文に清盛が署名したのも史実どおりですが、それを迷っていたという事は伝わっていません。つまりは、この部分は創作という事になりますね。前回にも書いた様に、忠盛夫妻は重仁の乳父と乳母であり、平氏は上皇方とも強い繋がりがありました。ですから、清盛の立場としては難しいものがあったと思われますが、時の権力は鳥羽院側にあり、院に忠誠を誓うのに迷いは無かったものと思われます。

また、鳥羽法皇の死去の際に、見舞いに訪れた崇徳上皇が門前払いに会ったのも史実にあるとおりで、藤原惟方が法皇からその旨を命じられたと伝えられます。ただし、この時清盛が立ち会って上皇に剣を向けたという事実はなく、これも完全な創作ですね。

源氏方で言えば、義朝の子義平が義賢を討ったのは史実にあるとおりですが、その時友切を奪い返したという事は聞かない様です。たぶん、親子の相克をより強調するための演出ではないかと思われますが、その方が確かにドラマチックではありますね。それにしても、義朝に見捨てられた為義は少し可哀想でしたね。

ドラマに戻って、清盛はあくまで前回に立てた方針を守り抜こうとし、上皇と法皇の仲を取りもとうとします。そのために中立を貫こうとしましたが、信西の言葉に時代の流れを感じ取り、平氏一門を守る為に法皇方に就く事を決意します。その決意の表れが上皇に剣を向けるという行動に出た訳ですが、かなり乱暴な演出と言えるでしょうね。いくら何でも、あの段階で上皇に臣下が剣を向けるなど、許されるはずもありませんから。それに、直前までの苦悩を払った経緯が見えにくく、唐突な感じは否めませんでした。

もう一つ、意図が見えなかったのが美福門院で、上皇に余生を誤るなと言ったのは何を意味しているのでしょう。法皇の意思を尊重して仲直りせよという意味だったのかどうか、ちょっとした謎の行動です。あるいは、挙兵をするという噂に対する釘刺しだったのかな。史実としては、上皇とは利害の相反する関係にあり、あの段階で上皇に会いに行くとは考えられないですね。法皇と共に美福門院もまた善人として描こうという脚本家の意図の表れかも知れません。

代わって、全てを引き受けたのが信西で、まるで天下大乱を望んだ張本人の様に描かれました。実際、忠通らと共に上皇と頼長の勢力を消そうと策謀したのは事実であり、保元の乱を演出した張本人ではあります。でも、その責任は生前に種を撒いた鳥羽法皇や美福門院にもあり、彼一人の仕業とするのは少し可哀想ですね。まあ、それほどの辣腕家であったのは確かなのですが。

後白河天皇については、崇徳上皇に対する憎しみを露わにし、類い希な暗主と酷評されたとおりの演出がなされました。鳥羽法皇が即位は取りやめたと叫んだのも無理なからぬところですが、これも少し可哀想な気もします。崇徳上皇との仲は即位が決まる日までは良好なものであり、一緒に暮らす仲睦まじい兄弟でした。即位後は天皇としての公的な立場に拘束され、自らの意思よりも、周囲の政治的な動きに翻弄されたというのが正直なところではないでしょうか。個人的に崇徳上皇をどう思っていたのかは、推し量る術もないというのが実情でしょう。なお、後白河帝の即位の時の悪評は、その後の政局にも大きな影を落としていく事になります。

頼長については、近衛帝崩御と共に内覧の権は無効となり、後白河帝即位の後は認められる事はありませんでした。これはドラマにあった様に、近衛帝呪詛の噂のせいであり、忠通による策謀と言われます。そして、これもドラマにあった様に、頼長自身が撒いた種でもありました。忠実の台詞のとおり、彼はやり過ぎたのですね。失脚した彼は、この後も忠通と信西によってさらに追い込まれる事になって行きます。

次週は保元の乱の前夜が描かれる様ですね。清盛の決断が見所となりそうですが、私的には池禅尼が忠正に掛けた言葉が気になる所です。史実とは少し違うのではないかとも思えるのですが、どう描かれるのか見てみたいと思います。


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