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2012.03.24

寺田屋事件 ~三吉真蔵日記より~(後編) 

前編からの続きです。)

私は手槍で迎え撃つ。坂本氏は捕り手の一人に向かって拳銃を轟発した。弾は逸れた様だが、捕り手は腰を抜かして部屋の外へと這い出した。その隙にと別の捕り手が坂本氏に挑みかかる。坂本氏は再び拳銃を号発した。今度は弾が中たったのか、捕り手は部屋の外に転がり出た。

私は何度も敵の襲撃を防いだ。しかし、防ぎきれずに、襖の隙間から一人の捕り手が、脇差しで坂本氏に斬りかかった。坂本氏は拳銃で刀を受けた様だが、浅手を負った様子だった。坂本氏は4発目を轟発した。今度は中ったかどうかは判らなかったが、捕り方たちは恐れをなした様子で、部屋に踏み込んでこなくなった。代わりに槍を投げ込んで来るが、避けるのは容易だった。

怒号と騒音の中、気がつくと、お龍さんは居なくなっていた。どうやら隠し階段から抜け出したらしい。

坂本氏の拳銃は6連発だった。しかし、1発は以前に試し打ちをしていたので、残りは1発だった。最後の1発となった坂本氏は、私に肩を貸せと言って拳銃を乗せ、捕り方の一人に十分に照準した。そして5発目を轟発すると、今度は確かに命中した。胸に弾が中った捕り方は、声も出さずに前のめりに倒れた。

この光景は他の捕り手に恐怖を与えるの十分だった。もはや部屋に踏み込もうとする者は誰もおらず、部屋の外から狂った様に叫ぶのが精一杯だった。盗賊灯もいつの間にか消えていた。明かりがあれば拳銃の的にされると思ったのだろう、部屋の中はほとんど真っ暗になっていた。

この隙にと、坂本氏は拳銃の弾込めを始めた様だった。しかし、暗がり故にか手間取っている様子である。私は坂本氏の隣で槍を構え、襲撃に備えていた。その内に、坂本氏が何やら投げ出した様子が窺えた。そして、私私の耳に、血で手が滑って弾込めが出来ない、拳銃は捨てたと囁いた。私はもはやこれまでと覚悟し、かくなる上は自分が敵に切り込むので、その隙に逃げるようにと坂本氏に言った。しかし、坂本氏は、今なら隠し階段から逃げられる、共に逃げて血路を開こうと言う。私たちはじりじりと後ずさりをし、階段の降り口に至った。幸い、捕り手たちは騒ぐのみで、明かりすら向けてこない。階下にも捕り手は居ない様子だった。私たちは、気付かれる事なく、階段を下りる事が出来た。

そのまま裏庭を突っ切り、裏の屋根に登った。そして、隣家の二階の窓を破り、一階に駆け下りてまた表戸を蹴破った。幸いな事に、路上には誰も居なかった。そこから二人で走ったが、すくに坂本氏の息が上がってしまった。坂本氏は風邪が治りきっておらず、その上に手に受けた傷からの出血が多いらしく、目眩がする様子だった。私は坂本氏を肩に担いで走り続けた。

やがて前方に寺が見えてきた。暫くここで隠れていようとしたのだが、既に探索の手が多数回っている様子だった。やむなく道を変え、堀端へと出た。水門があったのでそこを潜ると、材木小屋があるのを見つけた。二人でその中に入り込み、上の棚に上がった。

一息を付くと、急に寒さが身に堪えた。月明かりの中、坂本氏の様子を見ると、顔色は真っ青である。小刻みに震えているのは寒さのせいばかりではなく、よほどの出血をしているかららしい。周囲からは捕り手が吹く呼子の音がひっきりなしに響いている。あたかも、伏見の町に捕り手が充満しているかの様だった。

坂本氏をこれ以上動かすのは無理な様だった。私も不案内な伏見の町で、どこに逃げれば良いのか見当も付かなかった。捕り手はすぐ近くまで迫ってきている。切羽詰まった私は、坂本氏にここで腹を切りましょう、幕吏の手に掛かるよりは余程ましだと口走った。しかし、坂本氏は息も絶え絶えに、

「それが君たちの悪い癖だ、すぐに死ぬ死ぬと言う。しかし、生死は天が決める事、ともかくも薩摩藩邸まで駆けてみることだ。もし天が生かすと言うのなら君は薩摩藩邸にたどりつけるだろう。駄目だったら、私もここで腹を切るまでだ。」

と言う。坂本氏の言葉に、私もその気になった。薩摩藩邸はこの堀端沿いにあるはずだと言う。既に夜明けも近く、考えている猶予は無かった。私は坂本氏を棚の上に一人残し、階下に降りた。

ふと見ると、着物は返り血で汚れ、もの凄い格好になっている。足は裸足だ。私は堀端で着物をざぶざふと洗って血を流し、辺りを探して古草鞋を拾い、足に履いた。そして、旅人のふりをして、道を走り出した。二丁も走る内に、町では朝の支度が始まり、表戸を開き始めているのが判った。私はますます気が急いたが、足がもつれるばかりだった。目指す薩摩藩邸は、本当にこの先にあるのかは判らない。焦った私は、道を歩いていた商人風の男に、薩摩藩邸はどこかと聞いた。幸い、怪しまれる事なく、この道筋をあと三丁ばかり行ったところにあると教えて貰えた。私は息の続く限り走り続けた。

やがて堀端にある屋敷の門前に、薩摩藩の紋が入った提灯が掲げられているのが見えた。大戸は閉まっていたが、潜り戸が開いていたので、案内も請わずに中に飛び込んだ。すると男が一人そこに居た。彼は留守居役の大山彦八と名乗った。私は長府藩の三吉と名乗り、土佐の坂本氏が幕吏に襲われたと告げた。大山氏はその事を既に知っており、私が来るのを待っていたと言う。気が付くと、大山氏の背後にお龍さんが居た。寺田屋を抜け出したお龍さんは、一足先に薩摩藩邸に飛び込み、急を知らせていたのである。

私は堀端の材木小屋に坂本氏が隠れていると告げた。大山氏は承知し、すぐに配下に出立を命じた。大山氏に従うのは三名だった。大山氏は配下が豪川に浮かべた船に乗り込むと、自ら薩摩藩の旗を立てた。そして、配下が竿で操る船に乗って、流れを下っていった。

私はともかくも屋敷の中に入る様にと藩邸の用人に言われたが、とてもそんな気にはなれず、お龍さんと一緒に門内で待った。どれくらいの時間が経っただろう、気の遠くなるような時が過ぎたと思えた頃、門前に船が着く気配がした。やがて、4人に担がれる様にして、坂本氏が門内に入ってきた。私とお龍さんは、思わず坂本氏に駆け寄った。坂本氏はわずかに顔を上げ、やあ、二人とも無事だったかと答えた。その顔色は、紙の様に白かった。

慶応2年1月26日

この三日間、坂本氏は寝付いたままだった。京都から来た医者が傷を縫ったが、動脈が切れたらしく、ともかくも血が流れすぎていると言う。事によっては、命が危ないかも知れないとも言った。この間、お龍さんは甲斐甲斐しく看病をした。聞けば医者の娘だと言う。なるほど、何かと手慣れているのも頷ける。このお龍さんの看護の甲斐もあってか、坂本氏はどうにか命を取りとめる事が出来た。

大山氏から知らせを受けた京都の西郷氏は、直ちに一個小隊を送って来た。大山氏はこの小隊を指揮して、屋敷内を厳重に固めた。24日の夕刻、私と坂本氏がここに入った事を突き止めた幕吏が引き渡しを求めて来たが、大山氏は頑としてその様な者は居ないと言い切った。幕吏は密偵を放ち、しきりに邸内の様子を窺おうとしていたらしいが、藩兵が警戒に当たり、中を覗かせる様な事はさせなかった。

寺田屋の女将は厳しい尋問に晒されたらしい。また、幕吏が私たちの居た部屋を探索し、捨ててあった槍や拳銃を拾い、さらには坂本氏の残した書類を押収して行ったそうである。

慶応2年2月1日

京都の西郷氏から連絡があり、京都に移る事になった。伏見藩邸は手狭で、坂本氏の看病にも、また幕吏の手から守るのにも、何かと不便であったためである。京都からは吉井幸輔氏が一個小隊を率いて迎えに来た。私と坂本氏、それにお龍さんの3人は籠に乗り、小隊に守られながら京都藩邸に入った。

西郷氏は私たちを出迎え、諸事慰労してくれた。坂本氏は一室を与えられ、お龍さんがそのまま看護に付いた。薩摩藩では、小松帯刀氏、島津伊勢氏、桂右衛門氏の三名が家老で、西郷氏は中老格だった。藩邸では西郷氏のほか、大久保市蔵氏、岩下左次右衛門氏、伊地知正治氏、村田新八氏、中村半次郎氏、西郷新吾氏、大山弥助氏、内田忠之助氏、伊集院金次郎氏、中路権右衛門氏、野津七左衛門氏、鈴木武弥氏、児玉四郎吉氏、医師木原泰雲氏などが入れ替わり私の部屋を訪れ、薩長同盟後の諸情勢について語り合った。中でも始めて会った西郷氏の人柄は温かく、あたかも親子の情が通うかの様に感じた。

慶応2年2月29日

西郷氏は、幕府の長州攻めの動きに備えるため、小松氏らと共に鹿児島に帰る事になった。坂本氏とお龍さんも鹿児島に同道すると言う。私は馬関まで薩摩藩の船に便乗させてもらう事にした。夜になって、伏見に入った。およそひと月ぶりの伏見藩邸だが、襲撃を受けた夜の生々しい記憶が蘇る。

慶応2年3月1日

伏見を出て薩摩藩大坂蔵屋敷に入る。

慶応2年3月4日

朝、川船に乗って大川を下り、沖合に停泊している薩摩藩の蒸気船三邦丸に移乗した。

慶応2年3月5日

三邦丸出港。
船上では、坂本氏が西郷氏と談笑している。そして、お龍さんに拳銃を渡し、波間に浮かぶ板きれを撃ってみろと言う。お龍さんは、言われるままに拳銃を豪発した。すると意外にも弾は命中した。感嘆の声を上げる坂本氏と西郷氏。これから先はお龍さんも幕吏に狙われる身となるのだから、自分の身は自分で守らなくてはならないのだ。しかし、この腕と度胸があれば大丈夫かも知れない。


慶応2年3月7日

船は馬関に着いた。私は一度船を下りて、鶏や赤間関硯などを買い求め、西郷氏らへの惜別の品とした。坂本氏はまた馬関に来ると言う。私は坂本氏と再会を固く約し、船上で別れた。

慶応2年3月15日

先日本家の君主から刀を授かったのに続いて、今回の働きの恩賞として20石の加増に預かった。私は都合60石取りの身分となった。しかし、私はそれよりも、坂本氏という生涯の友を得た事が嬉しかった。次に坂本氏が馬関に来た時には、心逝くまで語り合いたいと願って止まない。

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