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2012.03.10

薩長同盟の夜

(「桂の木の下で」に続く創作です。前作はほとんど反響が無かったのでどうしようかと思ったのですが、せっかく第二作も書いたので掲載します。今回は龍馬をモチーフにしてみました。)

慶応2年1月20日夜、薩摩藩京都藩邸。底冷えのする一室で龍馬は眠れぬ夜を過ごしていた。

この日、龍馬は伏見の寺田屋を出て小松帯刀邸を訪ね、そしてその足でこの薩摩藩邸へとやって来た。

小松邸を訪れたのは、かねて中岡慎太郎と共に仲介して来た薩長同盟の進展を確かめるためだった。そこには下関から先行した桂小五郎(木戸寛治)が居て、薩摩藩の西郷隆盛と盟約について協議を進めているはずだった。ところが、話し合いは何も進んでいなかった。薩長両藩とも互いの主張を譲らず、全くの平行線を辿っていたのである。

桂に依れば、薩摩藩は、ともかくも幕府による第二次長州征伐を回避せよ、その為には幕府が求める謝罪に応じるべしと勧める。しかし、長州藩は既に謝罪は済ませており、二度に渡って謝る筋合いは無い。とてもではないがその方向で藩論をまとめる事は出来ず、幕府と決戦に及ぶより無いと考えている。薩摩藩には、そこまで踏み込む覚悟が無いのだと言う。

龍馬は、今から帰国すると言う桂をなだめ、直ちに二本松の薩摩藩邸に向かった。龍馬は西郷に向かって長州藩の窮状を訴えた。4カ国艦隊と戦い、蛤御門の変で破れ、そして幕府による征長によって痛めつけられた長州藩には、次の機会を待てるだけの余力は残っていなかったのである。龍馬は薩摩藩に再考を促した。しかし、西郷は直ちには返事を与えない。一晩時間が欲しいと言って龍馬を待たせたのである。

龍馬も悲痛であった。土佐を脱藩した後、拠って立つべき拠点と考えていた神戸海軍操練所は閉鎖され、やむなく薩摩藩を頼った。その薩摩藩の世話で亀山社中を起こしたが、小さな社中では出来る事は限られていた。その中で見つけた自らの活路が薩長同盟の斡旋であった。

一介の浪人に過ぎない龍馬にとって、財産と言えるのは志士としての人との繋がりであった。長州の桂、薩摩の西郷の二人に顔の利いた龍馬にすれば、その財産を生かす最善の策が薩長同盟だったのである。

偶然ながら、同郷の中岡も同じ事を考えていた。二人で協力して、一度は下関で挫折しかけた盟約をまとめ上げた。薩摩藩名義で長州藩の軍艦ユニオン号と小銃を購入し、薩摩藩への見返りには長州藩から兵糧米を贈る事にした。事実上、同盟を現実のものとし、後は薩長両藩の巨頭を引き合わせれば良いというところまでこぎ着けたはずだった。この日の朝、寺田屋を出る時までは、既に盟約はなったものと楽観すらしていた。ところが、京都に着いてみればこの有様だった。

この盟約に関わって以来、龍馬は要注意人物として幕府に知られる様になっていた。この日の前々日、大阪で旧知の大久保一翁を訪ねた時、龍馬が長州人と共に京都に向かっている事が幕府に漏れており、既に手配が回っていると警告された。危険を承知で上洛したのは、この盟約に全てを賭けていたからだった。自らの進退も、亀山社中の命運も、そして日本の将来も全てはこの盟約に懸かっていると信じていた。

その盟約が暗礁に乗り上げた。なるほど、龍馬は木戸をなだめ、西郷に再考を促す事で最善を尽くした。後は西郷の決断を待つだけだった。でも、もし、西郷が断ったとしたら?

藩邸の外には幕吏が満ちている。故郷の土佐藩では、勤王党への弾圧が進行していた。もし、西郷の回答が盟約の拒否であったならば、龍馬に引き返すべき場所は無かった。西郷がこの話を断るのなら西郷と刺し違えて死のう、龍馬はそこまで思い詰めていた。傍証がある。

この夜、龍馬は手紙を書いている。眠れぬ夜に思い出されるのは故郷の人たち、それも女性ばかりであった。この日行動を共にした池蔵太の家族に宛てた手紙には、蔵太の母と嫁、姉の乙女の事を思いつくままに認めている。

もう一人、姪の春猪にも手紙を書いている。

「春猪どの、春猪どの、春猪どのよ、春猪どのよ。」

という不思議な調子で始まるこの手紙は、この夜の龍馬の不安定な心の内を良く表していると言われる。

春猪は、あばたづらで決して美人ではなかった。その姪に向かって龍馬は、顔の凹凸を隠すべく白粉を分厚く塗り、もし転んだらでこぼこになって金平糖の鋳型の様になるのではないかと語りかけている。ひどい事を言う伯父もあったものだが、それほど春猪は隔意の無い、可愛い姪であったという事なのだろう。

続けて龍馬はもっと酷い事を書いている。春猪を見たら大抵の男は逃げ出してしまうので、何の気遣いも要らないと言う。何もここまでこき下ろす事もないと思うのだが、やはり親しい姪への愛情の表れなのであろう。

この手紙の本題はここから始まる。

龍馬は、春猪に向かって、これから先に起こる心配は、鎌でも鍬でも払う事が出来ないと言う。そして、だから精を出して長い歳月を送りなよと続けている。鎌でも鍬でも払う事が出来ない心配ごととは何を指しているのだろう。

龍馬の手紙はさらに続く。自分も死ななければ4、5年の内に帰るかも知れない、しかし、露の命ははかれないと言う。

切迫した夜にふさわしい、龍馬の心境がここに現れていると言えようか。この文言から、龍馬はもし盟約が成らなかった時には死ぬ覚悟であったという事が窺えるのだ。

その一方で、龍馬は盟約が成立するかも知れないとも思っている。それが「死ななければ」という言葉に表れている。この一節に、西郷の回答を測りかねて揺れる龍馬の心が見え隠れしている様な気がする。

龍馬の手紙は、「先々ご無事でお暮らしよ」という言葉で閉じられている。先に書いた「長い歳月を送りなよ」という言葉に重ねての言葉である。春猪に対する言い回しとしてはくどい程であり、この手紙が龍馬の遺言と呼ばれる理由がここにある。自らの破滅を予感し、せめて姪の無事を祈ったのであろうか。

長い夜が明けた朝、待っていたのは龍馬の提案を受け入れるという西郷の回答だった。この瞬間、志士としての龍馬の役割は成就し、その名は不滅のものとなった。龍馬の事績は数あるけれども、この盟約の斡旋が最大のものと言って良いであろう。

前夜、2通の手紙を書いていた龍馬は、歴史的時間の中に居た。その夜に語りかけた相手が春猪であり、乙女たちであった事は、龍馬という人物を知る上で、何らかの手がかりになるのではないだろうか。あるいはもっと普遍的に、人というもののあり方を物語っているかの様な気さえする。

龍馬はこの後、寺田屋で遭難する事になる。よくよくドラマチックに生まれついた男だが、それはまた稿を改めて書く事としたい。

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