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2012年3月

2012.03.31

京都・洛東 京都梅事情2012 ~八坂神社 3.25~

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平成24年3月25日の八坂神社です。この日は斎館前の紅梅が見頃となっていました。

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この梅はやや遅咲きの傾向のある木で、清水寺の紅梅とほぼ同じ頃に見頃となります。その点では、今年も同じ経過を辿った様ですね。

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ただ、少し花付きは良くなかったかな。当たり年だともう少し豪華に咲くのですけどね、今年はちょっとだけ寂しい感じがしていました。

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八坂神社では、もう一つ美御前社の前に白梅が咲くのですが、こちらは一足先に見頃を終えていました。3月10日の花灯路の時に見たのですが、夜目には美しく咲き誇っていましたよ。昼間見る事が出来なかったのが残念だったですね。

遅かった今年の梅も、そろそろ終盤ですね。次は桜だけど、どんな具合になっているかしらん。明日はざっと早咲きの木を見てこようと思っています。咲いていてくれると良いのだけどな。

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2012.03.30

京都・洛東 京都梅事情2012 ~三年坂 3.25~

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平成24年3月25日の三年坂です。この日は坂の下にある紅梅が見頃となっていました。

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正確には、興正寺別院の植え込みで咲いていると言うべきでしょうか。でも、この坂の良いアクセントになっていた事は確かです。

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この日で既に盛りを過ぎていたので、もう散っている頃かも知れません。でも、間もなく坂の中程の枝垂れ桜が咲いて、一層華やかになる事でしょう。

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坂の上にある経書堂では、落ち椿が見事でした。誰も気にしない様な植え込みの片隅でしたけど、意外な所に季節は隠れているものなのですね。思わぬ見つけ物をした気分でした。

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2012.03.29

京都・洛東 京都梅事情2012 ~清水寺 3.25~

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平成24年3月25日の清水寺です。この日は仁王門前の紅梅が、満開・見頃になっていました。

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仁王門前には紅梅と白梅が植えられているのですが、なぜか白梅には元気がありません。紅梅の方が圧倒的に見応えがありますね。

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この一週間前の花灯路の時に2分咲き程度だったのでそろそろ見頃かなと思って出かけたのですが、丁度良いタイミングでした。

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この日の清水寺はまだ桜が咲いておらず、この紅梅くらいしか見所が無かったのですが、大勢の人出で溢れていました。さすがは京都一の観光地と言うべきでしょうか。

遅れていた桜も来週には咲き始める事でしょうね。そうなるともっと人混みは増えるだろうな。かく言う私も、桜を心待ちにしている一人です。桜も良いタイミングで訪れる事が出来れば良いのだけれどな。

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2012.03.28

京都・洛北 京都梅事情2012 ~下鴨神社 3.20~

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平成24年3月20日の下鴨神社です。この日は光琳の梅が満開見頃になっていました。

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この梅も年によって当たり外れがあるのですが、今年は当たり年でした。この様に満開になった様は、本当に見事の一言ですね。

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そして、この花色は丹色の社殿に良く映えますね。京都でも、最も絵になる梅の一つじゃないかな。ただ、この日でわずかに盛りが過ぎつつあったので、今頃は終わっている頃だと思われます。来年もこの綺麗な姿を見る事が出来ると良いのですけどね、また頑張ってくれるかな。

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2012.03.27

京都・洛中 京都梅事情2012 ~祐正寺 3.20~

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平成24年3月20日の祐正寺です。この日は枝垂れ梅が満開・見頃になっていました。

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この枝垂れ梅は本当に華やかで、艶やかさでも桜に負けていません。なので、桜と勘違いする人も居るようですね。でも、これだけ豪華に咲いてるところを見れば、それも無理はないという気もします。

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厳密には満開ではあっても盛りは過ぎており、花は散り始めていました。タイミングとしてはぎりぎりで、やっと見頃に間に合ったというところだったのかな。

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今頃は少し寂しい姿になっている事でしょうね。今年の見頃は終わってしまったけれど、来年もまたこの姿に出会いたいものだと思っています。

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2012.03.26

京都・洛中 京都梅事情2012 ~北野天満宮 3.20~

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平成24年3月20日の北野天満宮です。この日は境内の梅が見頃になっていました。

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今年の梅の開花は、本当に遅かったですね。例年だったら最終盤になっている頃だというのに、やっと見頃が始まったばかりなのですから。

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細かく見れば、早咲きの木が満開過ぎから散り果て、中咲きの木が五分から満開、遅咲きの木は咲き始めというところでした。全体としては7分咲き程度だったかな。

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中でも枝垂れ梅が綺麗でしたね。中咲き種が多いのですが、独特の樹形もあいまってより華やかに感じます。

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ただ、早咲きの木が終わっているせいで、例年に比べると少し寂しく感じました。やはり開花が遅れ過ぎると良い影響は出ない様ですね。

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冒頭の本殿前の紅梅は5分咲き程度でした。ですので、今頃は見頃を迎えている頃でしょう。

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この日は好天に恵まれた事もあって、大勢の人で賑わっていました。これだけ咲いていれば、来た甲斐もあったというものでしょうね。

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この木は、東楼門近くにある源平咲きの木です。株立ちしているのですが、幹ごとに紅白が分かれているという面白い咲き方をしていました。

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例年ならそろそろ桜に話題が移る頃ですが、桜もまだ咲いていませんね。なので、今週末は依然として梅が主役と言えるでしょう。少し盛りを過ぎているかも知れませんが、北野天満宮はまだ見頃と言えると思いますよ。

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2012.03.25

平清盛 第12回 「宿命の再会」

(1144年(天養元年)。明雲を先頭に強訴を繰り返す延暦寺の大衆達。)

(忠盛に山法師を打ち払えと命じた鳥羽法皇。)

(武力の行使ではなく、荘園を叡山に寄進する事で強訴を退けた平氏。その恩賞として正4位の上に昇った忠盛。しかし、念願の公卿にはなれませんでした。武士を公卿にする気はない朝廷。)

(清盛の館。夜、出家して信西となった通憲が訪ねて来ます。出家の理由を問う清盛に、忠盛を三位に取り立てない朝廷のあり方に嫌気が差したのだと答える信西。志だけがあっても道は開けないと信西。)

(忠盛の館。元服し頼盛と名を改めた平五郎。武士として導いてやれという父の言葉に、朝廷の番犬として生きろと教えよという事かと噛みつく清盛。その不満の元は、明子が死んだ事にありました。疫病も飢饉も止める事が出来ない朝廷でありながら武士を参議にする気は無い、武力と財力を搾り取られるだけだ。妻の死に目にも会えず、そんなにしてまで背負わねばならない平氏一門とは何かと清盛。)

(清盛に後添えをと家貞。まだ言っても無駄、心の軸が定まっていないと忠盛。その手には鹿の角。それを陰から見ていた宗子。)

(清盛の館。淸太と清次相手に源氏物語を語る時子。)

(清太と清次に琵琶を弾いてやる時子。それを聞き、ここで琵琶を弾じるのは止めて貰いたいと清盛。なぜと時子。下手だからと清盛。清太も清次も喜んでいると時子。下手だから駄目だと清盛。言い争う二人。)

(時子の館。しょげている時信に訳を聞く時子。時忠が大事な書物をばくちで取られてしまったのだと時信。一冊分の値打ちを2冊分に増やしてやろうと思ったのだと時忠。姉はどこに行っていたのかと時忠。清盛の館だと時信。)

(清盛の館。清太と清次と戯れている時子。そこに訪ねてきた時忠。彼は清盛に会うなり、姉を後添えにしてくれないかと言い出します。驚いて止める時子。言い争う二人。ふと清盛に対する思いを口にした時子。琵琶を止めよと言ったのは、明子の音色を消されたくないからだと清盛。)

(時子の館。姉に謝る時忠。あのままでは清盛の悲しみに付け込む事になってしまったと時子。どんなきれい事も、欲が無ければ始まらないと時忠。)

(清盛の館。時子が来なくなり、むずかる清次。自分も時子が来なくなった事が心残りだと盛国。)

(法金剛院。如来像に手を合わせる待賢門院。その時、急に咳き込みます。気遣う堀河に大事ないと待賢門院。そこに現れた得子。)

(なにゆえ黙って出家されたと得子。あなたが人を愛しく思う気持ちの激しさを教えてくれた、己の愚かさを振り返れば俗世に未練はない。されどそんな激しい思いを知らずに生きて来た事だけが心残りだと待賢門院。どこまでも福々しげで、憎々しい方だ、法皇を奪い国母の座から追い落としても全てを奪い取る事は出来なかったと得子。)

(1145年(久安元年)。読経の中、病床にある待賢門院。)

(院御所。待賢門院の病が篤いと聞き、狼狽える法皇。そして菊が咲き乱れる庭に出で、水仙を捜します。そして無いと知るや、季節外れの水仙の花を捜せと命じます。)

(水仙を捜せという命に接し、道理に合わないと従わない清盛。一門のために従ってくれと家盛。明子を亡くした悲しみを誰が判ると清盛。自分は一門の為に好きな女子と別れて秀子と一緒になったと家盛。済まぬと清盛。)

(水仙を捜して草原を歩く清盛。その途中で、関東から戻った義朝に出会いました。久闊を叙す二人。ふと見ると、義朝の馬の鞍には水仙を入れた竹筒がありました。彼は尾張で法皇が水仙を捜している事を知り、東国の家来に命じて陸奥を捜させたのでした。急ぐと言って去っていく義朝。黙って見送る清盛。)

(水仙を手に待賢門院の寝所に駆け込む鳥羽法皇。しっかりせいと声を励ます法皇。目を開けた門院。門院に水仙を差し出す法皇。手を伸ばす門院。その手を握り、頬ずりをする法皇。病人の側に居てはいけないと側近に引き離される法皇。)

(部屋の外から叫ぶ法皇。部屋の中から呼びかける門院。扉に頬を付ける法皇。人を愛しく思う気持ちが、こんなにも優しく清げなる事がやっとわかりましたと門院。涙する法皇。水仙を握りしめながら、我が君と呼びかけ、今は愛しさに包まれていると門院。そのまま息を引き取った門院。扉を叩いて泣き叫ぶ法皇。)

(久安元年8月22日。待賢門院死去。寂しげに磬を鳴らす法皇。)

(門院に地獄を味あわせる事が望みだった。しかし、今は安らかに極楽に行く事を願って止まぬと言い、手を合わせる得子。)

(為義の館。東国から戻った義朝を見て狂喜する為義。)

(清盛の館。一人佇む清盛。)

(院御所。法皇からお褒めの言葉を頂く義朝。一朝事ある時は、東国のもののふを引き連れて参上すると義朝。これからは京にて忠勤に励めと法皇。)

(廊下。義朝の前に立ちはだかり、こんな事で頭に乗るなと清盛。一番強い武士は源氏だと義朝。いや平氏だと争う二人。これから平氏を背負って立つと清盛。なんと軽い一門かせいぜい励めと義朝。田舎武士めと清盛。)

(義朝の館。田舎武士と言われた事に腹を立てている義朝。そこに現れた由良姫。父に言われてあいさつに来たと由良姫。変わりはないかと聞かれ、男子を二人設けたと答える義朝。ショックを受けて、祝いを言って帰ろうとする由良姫。そなたも俺の子を産むかと義朝。おふざけもたいがいにと怒る由良姫。統子内親王に仕える由良姫はきっと役に立つ、自分の嫡男を産んで貰いたいと義朝。女子をばかにしてと由良姫。ずっと帰りを待っていたのではないのかと義朝。涙しながらずっとお待ちしていたと由良姫。由良姫を抱きしめる義朝。)

(清盛の館。あいつと居ると気が高ぶると帰って来た清盛。清太と清次と雀を捕まえて遊んでいる時子。それは盛国が呼んだのでした。突然時子に駆け寄り、そなたでよい、そなたは俺に惚れている、息子達はそなたに懐いている、後は俺がそなたに惚れるだけだと叫ぶ清盛。何の事かと時子。俺の妻になれと言っているのだと清盛。失礼なと清盛を突き放し、源氏物語の様な恋にあこがれていたのにあんまりだと時子。そして、清盛に駆け寄り抱きつきます。倒れ込む二人。祝福する郎党達。)

(1147年(久安3年)。尾張にて鬼武者、後の頼朝誕生。同じ年、子を授かった清盛。この年6月、祇園社の争いに巻き込まれる清盛。)

とうとう待賢門院璋子が亡くなりました。途中まで天然キャラとして面白い存在だっただけに、居なくなるのは惜しいという気がしますね。ドラマでは出家して悟った様になっていた璋子でしたが、実際にも法金剛院で念仏三昧の生活を送っていたと言われ、仏に縋る事で心の平安を見出そうとしていたのかも知れません。また、出家したと言っても寂しく過ごしていた訳ではなく、法皇もしばしば御幸されていたと言いますし、西行なども法金剛院を訪れていたと言われます。決してわびしい暮らしをしていた訳では無い様ですね。

その死因は病死ですが、何の病かは判っていません。ですから、流行病であったかの様なドラマの設定は創作ですね。亡くなったのは法金剛院ではなく三条高倉第で、死にあたって法皇が駆けつけたのはドラマにあったとおりです。そして、法皇が泣きながら磬を鳴らしたというのも史実どおりですね。

璋子の生涯を振り返ってみれば、栄光と挫折の波乱に富んだ人生でした。絶世の美貌を謳われ、二人の権力者の寵愛を受けて栄華を極め、その寵愛の翳りと共に次第に権勢を失い、最後は自ら種を撒いたとも言われる呪詛事件で出家を余儀なくされました。良くも悪くも、平安末期という時代を象徴する人物の一人であった事は間違いないですね。

璋子の亡骸は以前に紹介した様に花園西陵に葬られました。法金剛院にも近く、璋子に興味を持たれた方は、セットで訪れられると良いですよ。

さて、ドラマの流れで言えば、璋子の為に水仙を捜せと法皇が命じたのは象徴的な出来事でした。この花を璋子に合わせて上手く使っていますよね。ただ、義朝が陸奥から取り寄せたという設定は、如何にも無理がありました。この時代に宅急便とチルド技術があったのかと言いたくなりますよね。どう考えても有り得ないでしょうが。せめて、比叡山の山の上とかにあったというのなら判らなくもないですが。それでも無理ではあるのですけどね。

もう一つの大きな流れとしては、義朝と清盛の縁談がありました。どちらもデリカシーのかけらもない、乱暴極まりない求愛だったのですが、武士らしい演出をしたという事なのでしょうか。ただ、義朝の場合は打算が多分に入っていましたが、清盛の方はなぜ時子に求愛したのか、今ひとつはっきりしませんでした。何となく、周囲の状況が整ってきたからというだけだったものね。明子の死をあれほど嘆いていた清盛が豹変するのには、かなり不自然な設定だったという気がします。

なお、義朝が東国に勢力を築いたのは事実ですが、関東一円という訳ではなく、上総がその中心だった様ですね。そして、相模にもその勢力はあり、鎌倉に館を持っていた様です。ですから、ドラマの設定はかなり大袈裟ではありますね。

次回は祇園闘乱事件が描かれます。これも以前に紹介した事があるので、興味のある方は一読してみて下さい。ネタバレではあるけれども、ドラマの予習にはなると思いますよ。

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2012.03.24

寺田屋事件 ~三吉真蔵日記より~(後編) 

前編からの続きです。)

私は手槍で迎え撃つ。坂本氏は捕り手の一人に向かって拳銃を轟発した。弾は逸れた様だが、捕り手は腰を抜かして部屋の外へと這い出した。その隙にと別の捕り手が坂本氏に挑みかかる。坂本氏は再び拳銃を号発した。今度は弾が中たったのか、捕り手は部屋の外に転がり出た。

私は何度も敵の襲撃を防いだ。しかし、防ぎきれずに、襖の隙間から一人の捕り手が、脇差しで坂本氏に斬りかかった。坂本氏は拳銃で刀を受けた様だが、浅手を負った様子だった。坂本氏は4発目を轟発した。今度は中ったかどうかは判らなかったが、捕り方たちは恐れをなした様子で、部屋に踏み込んでこなくなった。代わりに槍を投げ込んで来るが、避けるのは容易だった。

怒号と騒音の中、気がつくと、お龍さんは居なくなっていた。どうやら隠し階段から抜け出したらしい。

坂本氏の拳銃は6連発だった。しかし、1発は以前に試し打ちをしていたので、残りは1発だった。最後の1発となった坂本氏は、私に肩を貸せと言って拳銃を乗せ、捕り方の一人に十分に照準した。そして5発目を轟発すると、今度は確かに命中した。胸に弾が中った捕り方は、声も出さずに前のめりに倒れた。

この光景は他の捕り手に恐怖を与えるの十分だった。もはや部屋に踏み込もうとする者は誰もおらず、部屋の外から狂った様に叫ぶのが精一杯だった。盗賊灯もいつの間にか消えていた。明かりがあれば拳銃の的にされると思ったのだろう、部屋の中はほとんど真っ暗になっていた。

この隙にと、坂本氏は拳銃の弾込めを始めた様だった。しかし、暗がり故にか手間取っている様子である。私は坂本氏の隣で槍を構え、襲撃に備えていた。その内に、坂本氏が何やら投げ出した様子が窺えた。そして、私私の耳に、血で手が滑って弾込めが出来ない、拳銃は捨てたと囁いた。私はもはやこれまでと覚悟し、かくなる上は自分が敵に切り込むので、その隙に逃げるようにと坂本氏に言った。しかし、坂本氏は、今なら隠し階段から逃げられる、共に逃げて血路を開こうと言う。私たちはじりじりと後ずさりをし、階段の降り口に至った。幸い、捕り手たちは騒ぐのみで、明かりすら向けてこない。階下にも捕り手は居ない様子だった。私たちは、気付かれる事なく、階段を下りる事が出来た。

そのまま裏庭を突っ切り、裏の屋根に登った。そして、隣家の二階の窓を破り、一階に駆け下りてまた表戸を蹴破った。幸いな事に、路上には誰も居なかった。そこから二人で走ったが、すくに坂本氏の息が上がってしまった。坂本氏は風邪が治りきっておらず、その上に手に受けた傷からの出血が多いらしく、目眩がする様子だった。私は坂本氏を肩に担いで走り続けた。

やがて前方に寺が見えてきた。暫くここで隠れていようとしたのだが、既に探索の手が多数回っている様子だった。やむなく道を変え、堀端へと出た。水門があったのでそこを潜ると、材木小屋があるのを見つけた。二人でその中に入り込み、上の棚に上がった。

一息を付くと、急に寒さが身に堪えた。月明かりの中、坂本氏の様子を見ると、顔色は真っ青である。小刻みに震えているのは寒さのせいばかりではなく、よほどの出血をしているかららしい。周囲からは捕り手が吹く呼子の音がひっきりなしに響いている。あたかも、伏見の町に捕り手が充満しているかの様だった。

坂本氏をこれ以上動かすのは無理な様だった。私も不案内な伏見の町で、どこに逃げれば良いのか見当も付かなかった。捕り手はすぐ近くまで迫ってきている。切羽詰まった私は、坂本氏にここで腹を切りましょう、幕吏の手に掛かるよりは余程ましだと口走った。しかし、坂本氏は息も絶え絶えに、

「それが君たちの悪い癖だ、すぐに死ぬ死ぬと言う。しかし、生死は天が決める事、ともかくも薩摩藩邸まで駆けてみることだ。もし天が生かすと言うのなら君は薩摩藩邸にたどりつけるだろう。駄目だったら、私もここで腹を切るまでだ。」

と言う。坂本氏の言葉に、私もその気になった。薩摩藩邸はこの堀端沿いにあるはずだと言う。既に夜明けも近く、考えている猶予は無かった。私は坂本氏を棚の上に一人残し、階下に降りた。

ふと見ると、着物は返り血で汚れ、もの凄い格好になっている。足は裸足だ。私は堀端で着物をざぶざふと洗って血を流し、辺りを探して古草鞋を拾い、足に履いた。そして、旅人のふりをして、道を走り出した。二丁も走る内に、町では朝の支度が始まり、表戸を開き始めているのが判った。私はますます気が急いたが、足がもつれるばかりだった。目指す薩摩藩邸は、本当にこの先にあるのかは判らない。焦った私は、道を歩いていた商人風の男に、薩摩藩邸はどこかと聞いた。幸い、怪しまれる事なく、この道筋をあと三丁ばかり行ったところにあると教えて貰えた。私は息の続く限り走り続けた。

やがて堀端にある屋敷の門前に、薩摩藩の紋が入った提灯が掲げられているのが見えた。大戸は閉まっていたが、潜り戸が開いていたので、案内も請わずに中に飛び込んだ。すると男が一人そこに居た。彼は留守居役の大山彦八と名乗った。私は長府藩の三吉と名乗り、土佐の坂本氏が幕吏に襲われたと告げた。大山氏はその事を既に知っており、私が来るのを待っていたと言う。気が付くと、大山氏の背後にお龍さんが居た。寺田屋を抜け出したお龍さんは、一足先に薩摩藩邸に飛び込み、急を知らせていたのである。

私は堀端の材木小屋に坂本氏が隠れていると告げた。大山氏は承知し、すぐに配下に出立を命じた。大山氏に従うのは三名だった。大山氏は配下が豪川に浮かべた船に乗り込むと、自ら薩摩藩の旗を立てた。そして、配下が竿で操る船に乗って、流れを下っていった。

私はともかくも屋敷の中に入る様にと藩邸の用人に言われたが、とてもそんな気にはなれず、お龍さんと一緒に門内で待った。どれくらいの時間が経っただろう、気の遠くなるような時が過ぎたと思えた頃、門前に船が着く気配がした。やがて、4人に担がれる様にして、坂本氏が門内に入ってきた。私とお龍さんは、思わず坂本氏に駆け寄った。坂本氏はわずかに顔を上げ、やあ、二人とも無事だったかと答えた。その顔色は、紙の様に白かった。

慶応2年1月26日

この三日間、坂本氏は寝付いたままだった。京都から来た医者が傷を縫ったが、動脈が切れたらしく、ともかくも血が流れすぎていると言う。事によっては、命が危ないかも知れないとも言った。この間、お龍さんは甲斐甲斐しく看病をした。聞けば医者の娘だと言う。なるほど、何かと手慣れているのも頷ける。このお龍さんの看護の甲斐もあってか、坂本氏はどうにか命を取りとめる事が出来た。

大山氏から知らせを受けた京都の西郷氏は、直ちに一個小隊を送って来た。大山氏はこの小隊を指揮して、屋敷内を厳重に固めた。24日の夕刻、私と坂本氏がここに入った事を突き止めた幕吏が引き渡しを求めて来たが、大山氏は頑としてその様な者は居ないと言い切った。幕吏は密偵を放ち、しきりに邸内の様子を窺おうとしていたらしいが、藩兵が警戒に当たり、中を覗かせる様な事はさせなかった。

寺田屋の女将は厳しい尋問に晒されたらしい。また、幕吏が私たちの居た部屋を探索し、捨ててあった槍や拳銃を拾い、さらには坂本氏の残した書類を押収して行ったそうである。

慶応2年2月1日

京都の西郷氏から連絡があり、京都に移る事になった。伏見藩邸は手狭で、坂本氏の看病にも、また幕吏の手から守るのにも、何かと不便であったためである。京都からは吉井幸輔氏が一個小隊を率いて迎えに来た。私と坂本氏、それにお龍さんの3人は籠に乗り、小隊に守られながら京都藩邸に入った。

西郷氏は私たちを出迎え、諸事慰労してくれた。坂本氏は一室を与えられ、お龍さんがそのまま看護に付いた。薩摩藩では、小松帯刀氏、島津伊勢氏、桂右衛門氏の三名が家老で、西郷氏は中老格だった。藩邸では西郷氏のほか、大久保市蔵氏、岩下左次右衛門氏、伊地知正治氏、村田新八氏、中村半次郎氏、西郷新吾氏、大山弥助氏、内田忠之助氏、伊集院金次郎氏、中路権右衛門氏、野津七左衛門氏、鈴木武弥氏、児玉四郎吉氏、医師木原泰雲氏などが入れ替わり私の部屋を訪れ、薩長同盟後の諸情勢について語り合った。中でも始めて会った西郷氏の人柄は温かく、あたかも親子の情が通うかの様に感じた。

慶応2年2月29日

西郷氏は、幕府の長州攻めの動きに備えるため、小松氏らと共に鹿児島に帰る事になった。坂本氏とお龍さんも鹿児島に同道すると言う。私は馬関まで薩摩藩の船に便乗させてもらう事にした。夜になって、伏見に入った。およそひと月ぶりの伏見藩邸だが、襲撃を受けた夜の生々しい記憶が蘇る。

慶応2年3月1日

伏見を出て薩摩藩大坂蔵屋敷に入る。

慶応2年3月4日

朝、川船に乗って大川を下り、沖合に停泊している薩摩藩の蒸気船三邦丸に移乗した。

慶応2年3月5日

三邦丸出港。
船上では、坂本氏が西郷氏と談笑している。そして、お龍さんに拳銃を渡し、波間に浮かぶ板きれを撃ってみろと言う。お龍さんは、言われるままに拳銃を豪発した。すると意外にも弾は命中した。感嘆の声を上げる坂本氏と西郷氏。これから先はお龍さんも幕吏に狙われる身となるのだから、自分の身は自分で守らなくてはならないのだ。しかし、この腕と度胸があれば大丈夫かも知れない。


慶応2年3月7日

船は馬関に着いた。私は一度船を下りて、鶏や赤間関硯などを買い求め、西郷氏らへの惜別の品とした。坂本氏はまた馬関に来ると言う。私は坂本氏と再会を固く約し、船上で別れた。

慶応2年3月15日

先日本家の君主から刀を授かったのに続いて、今回の働きの恩賞として20石の加増に預かった。私は都合60石取りの身分となった。しかし、私はそれよりも、坂本氏という生涯の友を得た事が嬉しかった。次に坂本氏が馬関に来た時には、心逝くまで語り合いたいと願って止まない。

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2012.03.23

京都・洛東 東山花灯路2012 ~清水寺から八坂神社まで~

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清水寺からの帰り道、門前町商店街で火の用心お囃子組に出会いました。毎晩青蓮院からここまで歩いているのですね。いくら元気な子供たちとは言っても、結構きついんじゃないでしょうか。11日間、よく頑張ってくれたと思います。

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二年坂は人で溢れかえっていました。坂の上や途中で写真を撮るのはとても無理でしたね。三年坂よりも混雑は酷い感じです。

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一念坂も人気のコースになっていましたね。以前は人がほとんど通らない裏道だったのですが、今では風情のある小道として定着した感があります。

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一念坂を抜けた先はねねの道。遠くに浮かび上がって見える祇園閣が印象的です。

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先日訪れた石塀小路ですが、ここは上手く写真を撮る事が出来てなかったのでリベンジして来ました。この小路の中でも隠れ家的雰囲気のある一角です。

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今は下河原通にも灯籠が並べられているのですね。それほど混む事はないので、人混みに疲れた時にはこっちに回ると良いかも知れません。ただ、普通に車が通るのが難点なのですけどね。

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最後は八坂神社にまでたどり着きました。既に舞の奉納は終わっていたので、混雑は解消されています。

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ここまで来ると、少しほっとした気分になりました。静かとは言えないまでも、落ち着いた風情があるのですよね。

今年の花灯路のレポートはこれまでとさせて頂きます。去年のひっそりとした状況とは打って変わって、賑やかだったのは良かったと思います。こうしたイベントを心から楽しむ事が出来るのは、本当にありがたい事ですよね。


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2012.03.22

京都・洛東 東山花灯路2012 ~清水寺 三重塔~

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清水寺においては、三重塔も絵になる存在です。特にライトアップにおいては、極彩色に彩られた姿がより際立ちますね。

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夜空にくっきり浮かぶ姿を見ていると、昔の人が思い描いた極楽浄土の世界が垣間見える様な気がします。

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その三重塔を下から見上げたところです。前景になっている木の模様が良い感じですね。

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忠僕茶屋の前から見上げたところです。紅葉の時に綺麗な場所なのですが、ライトアップでも絵になるポイントですね。

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そして、定番の放生池越しの三重塔です。サーチライトの光が良いアクセントになっていますね。

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最後はちょっと実験してみました。池に塔とレーザービームが映っていたので一緒に撮ってみたのですが、明暗差が大きいので不自然な感じになってますね。別々に撮って合成するなど、一工夫が必要な被写体の様です。

明日は清水寺からの帰り道をお届けします。


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2012.03.21

京都・洛東 東山花灯路2012 ~清水寺~

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ライトアップされた清水寺にやって来ました。ここは普段から賑わうスポットですが、花灯路においても最も人気のあるエリアになっています。

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夜間拝観では、昼間とは違って仁王門前から有料区間が始まります。そして、拝観料も400円と100円高くなっているので注意が必要です。

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仁王門前の紅梅は、この日で二分咲きくらいだったかな。この写真を撮ってから4日が経っており、そろそろ見頃になっている事でしょうね。

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この寺のライトアップで象徴的なのがサーチライトの光ですね。まるでレーザービームの様に夜空を貫きます。

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その光が照らす先は真西、西方浄土がある方角です。見た感じでは、京都盆地の端まで届いている感じでしたね。

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夜間拝観においては、夜景も見所の一つになります。ここでは西門を額縁に見立てて撮ってみました。

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舞台からの眺めは、例年どおりでしょうか。正面の子安の塔は2012年度に修理が終わる予定なので、この書き割りの光景も今年限りになるのかも知れません。

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今は本堂横に仮覆いの屋根があるのですが、夜景ではあまり目立ちませんね。昼間では撮る気にならないこの構図も押さえておきました。

明日は三重塔の光景を集めてお届けします。

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2012.03.20

京都・洛東 東山花灯路2012 ~三年坂~

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八坂の塔から三年坂へと移動しました。

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この二年坂から三年坂にかけての道は、花灯路でも最も賑わう道の一つですね。

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とは言っても、この日はまだ少なめだったかな。日によっては、人混みに埋もれる様な時もありますからね。

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三年坂も上から下まで人波が続いているという事はなく、まだ余裕を感じます。

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もしかしたら、去年の震災による中止の余波を受けているのかなという気もしますね。多い年はこんなものじゃなかったものな。

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でも、これくらいの方が歩きやすくて良いですね。沿道の店の人は物足りないかもしれないですが。

明日はここから清水寺を目指します。

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京都・洛中・洛北 京都梅事情 2012.3.20

平成24年3月20日現在の梅の開花速報です。

1.北野天満宮

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中咲きの梅が咲き揃い、今年一番の華やかな境内になっていました。好天に恵まれた事もあって、春らしい華やいだ景色でしたよ。ただ、満開の木がある一方で早咲きの木は盛りを過ぎており、例年に比べるとやや寂しい感じはしました。遅咲きはまだ咲き始めたばかりで、全体としては7分咲きといったところです。なお、今回も梅苑には入っていません。

2.祐正寺

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枝垂れ梅が満開になっています。ぱっと目には、桜と見紛うほど綺麗でしたよ。ただし、盛りは過ぎており、花は散りだしています。

3.京都御苑

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やっと華やかな雰囲気は出て来ました。ただ、早咲きの花は既に散っており、また全体に花付きも悪く、寂しい感じがしています。桃林の方は、早咲きの木で蕾が膨らんでいました。

4.下鴨神社

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光琳の梅が満開・見頃です。この梅独得の鮮やかな花色がとても綺麗でしたよ。ただし、ここも厳密には盛りを過ぎつつある様です。

5.京都府立植物園

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梅林、北山門前梅林ともに、見頃になっています。どちらも満開の木も含めて7分咲きといったところかな。特に北山門前の梅がお薦めですね。

6.桜の情報

今年の桜は、梅と同じく開花は遅れています。

まず、出町柳の長徳寺のおかめ桜はちらほら咲きです。例年より2週間近く遅い感じですね。

次に、京都御苑の糸桜は、一番早咲きの木で蕾が膨らんだ程度でした。ここは1週間程度遅い感じかな。今週末で、咲き始めているかどうかでしょうか。本格的な開花は来週になると思います、たぶんですけど。

最後に、京都府立植物園では、一番早いカラミザクラの蕾が膨らんでいました。この木も2週間遅れ程度かな。次に咲くトウカイザグラも少し蕾が膨らんでいました。また桜ではないですが、サンシュユがやっと咲いていました。この花も随分と遅れていたのですが、ようやく春らしい色を見せてくれていましたよ。

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2012.03.19

京都・洛東 東山花灯路2012 ~八坂の塔~

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東山花灯路の二回目は、八坂の塔から始まります。

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ここに着いたのは午後6時過ぎ、灯籠に灯りが入ってすぐの頃ですね。空にはまだ明るさが残っています。

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八坂の塔を見る角度はいくつもありますが、この下から見上げる景色も結構気に入っています。この塔の巨大さが、ダイレクトに伝わってくる気がするのですよ。

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八坂の塔は無料拝観が行われていました。とは言っても塔の中には入る事は出来ず、扉の外から眺めるだけなのですけどね。このあたり、パンフレットでは夜間拝観は実施していないと書かれており、ちょっと紛らわしいところではあります。

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ここはパンフレットの表紙になっっているところですが、そのせいもあってか三脚がずらっと並んでいました。すっかり人気スポットになっていますね。

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それでも二年坂に比べれば、まだ空いている方かな。春の宵のそぞろ歩きの風情が感じられる、貴重な道と言えるかも知れません。

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この二年坂にある路地は、だんだんと奥の木が茂ってきている気がします。前はもう少し塔が見えていたと思うのですけどね。このままだと、もうすぐ塔の先端だけしか見えなくなってしまいそうです。

明日はここから三年坂を目指します。

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2012.03.18

平清盛 第11回 「もののけの涙」

(各方面に波紋を呼んだ教清の出家。)

(清涼殿。崇徳帝に教清出家の歌を伝える清盛。教清だけが心の拠り所だったと崇徳帝。崇徳帝に白河帝の子だと聞いている、自分も同じだと告げる清盛。そして、もののけに振り回される事なく、自分なりに面白く生きていくと清盛。)

(重仁親王の誕生によって生気を甦らせた崇徳帝。)

(鳥羽上皇に重仁に帝位を譲りたいと申し出る崇徳帝。既に躰仁が皇太子になっていると鳥羽上皇。血の繋がりが薄い者には譲りたくないと崇徳帝。帝の願いは重仁の後ろ盾となって、思う様に政治を動かす事でした。)

(驚いて得子の下に押しかけた忠通。慌てる事はないと得子。)

(崇徳帝の下を訪れた得子。彼女は重仁を帝に就けるために、まず躰仁に位を譲って欲しいと切り出します。忠通の顔を立てる為に躰仁を帝とし、崇徳帝は院政を布けばよい。重仁は躰仁が退位した後に帝に就けば良いではないか、それまでは自分が重仁を育てると得子。)

(永治元年12月7日。躰仁に帝位を譲った崇徳帝。しかし、宣命使が詠み上げた宣命には、皇太子ではなく皇太弟と記されていました。弟では政が出来ないと叫ぶ崇徳帝。全ては得子の謀でした。)

(3歳にして帝となった躰仁。引き続き、治天の君として政を行う事となった鳥羽法皇。)

(1142年(康治元年)正月。忠盛の館。得子が皇后になった事に伴い、平家の行く末を語り合う郎党たち。ここは法皇に忠勤を励むべきだと家盛。面白き道を選べばよいのだと清盛。戯れを言っている時ではないと家盛。)

(楽を奏でる宗子、明子、秀子の三人。見事な調和に和む一家。)

(時子の家を訪れた明子。彼女の用件は、琵琶の教授の手伝いをして欲しいという事でした。清盛の館でと聞いて断る時子。なぜと明子。)

(清盛の館。結局明子を手伝っている時子。やんごとなき姫君たちの前で教授を始める明子。しかし、時子はあまり練習していなかったらしく、良い音を出せません。そこに半裸で現れた清盛とその郎党達。)

(時子と二度会っている事を覚えていない清盛。あきれる時子。)

(庭で相撲を取る清盛の息子達。あちこちが痛いと言っては母に甘える息子達。戯れる父と子。)

(盛国に妻を迎えてやってはどうかと明子。)

(盛国に波子を薦める明子と清盛。せっかくですがと断る盛国。)

(盛国に、元は漁師である事を気にしているではないかと聞く明子。波子は名のある家に仕えている、自分が粗相をしては恥をかかせてしまうと盛国。そなたは立派な武士だと明子。二人のやりとりを陰で聞いている清盛。盛国の働きを称え、婚礼の準備をさせて欲しいと明子。頭を下げる盛国。)

(夜。琵琶を奏でる明子。そなたは琵琶のごとき女だ、要となって家を支えてくれていると清盛。)

(相模国。波多野義道の館。三浦氏に続いて波多野一族を家来に加えた義朝。波多野一族の娘と契る義朝。彼女の間に朝長、別の女性との間には義平が生まれていました。)

(為義に、いつまで検非違使で居るつもりかと発破をかける由良姫。そうずけずけと言われる筋合いはないと怒る為義。無礼を詫びる由良姫。ただ義朝に会いたいとのだと泣き崩れる由良姫。)

(待賢門院に、彼女に仕える判官代源盛行、その妻津守嶋子が土佐に流される事になったと告げる御影。なぜと問う堀河。自分を呪詛したのだと得子。証拠の品として、盛行の館の庭から見つかったという呪詛の文字が書かれた天児を示す得子。それを待賢門院が命じた事かどうかは問わないと言い捨てて去っていく得子。)

(天児に着せられていたのは、かつて待賢門院が得子に祝いの品として贈った産着でした。では待賢門院を陥れるためにと堀河。そうではない、法皇や上皇を苦しめ、教清を出家に追いやった愚かさを突き付けて救ってくれるのだと待賢門院。その一月後、出家した待賢門院。)

(神社に参拝に来た清盛一家。一家の無事を祈る明子。明子のために祈る清盛。)

(境内で咳き込み倒れている人を見つけ、駆け寄り介抱する明子。)

(夜。琵琶を奏でている途中で倒れた明子。)

(風病の様だと薬師。都に流行っている疫病の事で、近くに寄らない方が賢明だと言う。治せと清盛。治せる薬が無いと薬師。宋の薬を手に入れよと清盛。無体なと薬師。もう良いと飛び出していく清盛。)

(宋の薬を求めに博多に行くと清盛。落ち着いて下さりませと引き止める盛国。そこに現れ、屋敷内に病を持ち込んで申しわけないと基章。容態が悪化した明子。明子の下に行こうとする清盛を止める基章。)

(昼。明子を訪ねてきた時子。泣いている清次を宥める淸太。泣いていては母に笑われると時子。一層泣き出す淸太と清次。)

(館内に溢れる読経の声。僧侶と並んで一心に祈る清盛。その清盛を見つめる忠盛と宗子。ふと思いついた様に、陰陽師を呼ぼうと言い出す清盛。陰陽師になど頼ってはならぬと忠盛。その時、聞こえてくる琵琶の音。)

(琵琶は、淸太と清次のために時子が弾いているのでした。琵琶の音を聞いて目を覚ました明子。)

(病室に駆け寄り、二人で海を見に行くと言ったではないかと叫ぶ清盛。もう十分に見せてもらったと明子。清盛の目に映る広くて面白い世を見る事が出来て幸せだったと明子。悲しまないで下さいと言って息を引き取った明子。)

(泣き叫びながら僧侶達を足蹴にし、明子を生き返らせよと迫る清盛。清盛を止め、恨むなら、宋の薬を求めさせない、疫病を止められない朝廷を恨めと盛国。そして、皆が健やかに暮らせる世を作れと盛国。泣き崩れる清盛。)

(時子の膝で眠る淸太と清次。)

(清盛にもののけの血が流れている事を思い出す忠盛。)

今回は清盛の妻、明子の死がメインテーマでしたが、朝廷でも大きな動きがありました。崇徳帝の譲位と待賢門院の出家がそれで、いずれも史実にあるとおりの事です。

崇徳帝の譲位の際に、宣命に皇太子ではなく皇太弟と書かれていたのは事実とされます。つまり、子であればその子が成人するまでの間は親が政治を見る、すなわち院政を布く事が出来るのですが、弟であればそれは出来ません。その場合は、自分たちの親である鳥羽法皇にこそ、その資格があるという事になるのですね。躰仁は崇徳帝の養子であると同時に弟でもあったので、こうした策略が成立したのです。

ドラマでは得子がこの策略を考えたとされ、当時の崇徳帝も得子に嵌められたと考えた様ですが、実は関白の忠通の差し金ではないかとも言われています。忠通は崇徳帝には縁が薄く、反対に躰仁は自分の娘の養子でした。摂関家の力を取り戻す為にも、崇徳帝の世になってもらっては困るという立場にあったのですね。得子は九尾の狐のモデルとされる程策略に富んだ女性と言われるのですが、その裏で糸を引いていたのは忠通の方だったのかも知れません。なにしろ権謀術数に長けた摂関家の人ですからね、それくらいの事はやりそうな気がします。

また、待賢門院に仕えていた源盛行と津守嶋子が、呪詛の咎を受けて土佐に流されたのも史実にあるとおりです。ただし、呪詛は天児を使ったのではなく、巫女に踊らせて呪うという方法でした。盛行は、摂津国の広田神社にて、巫女を鼓舞跳梁させて得子を呪わせたとされ、問い詰められてその事実を認めたとされています。また、神社からは呪詛に使った銀筺が見つかっており、全ては待賢門院の密詔を受けて行われたと言われています。しかし、実はやはり忠通の策略ではないかという見方もあるのですね。当時の朝廷が如何にどろどろとした権力争いの場であったかを窺わせる事件なのですが、この事が待賢門院に出家の決意をさせたのは確かな様です。

なお、ドラマでは出てこなかったのですが、待賢門院が出家した場所は法金剛院であり、鳥羽法皇や崇徳上皇をはじめ沢山の公卿が女院の出家に立ち会っています。つまり、法皇と女院は、ドラマの様に何事も無かった様にただすれ違った訳ではなかったのですね。

次に、清盛の妻、明子の死に関しては、全くの創作です。清盛の最初の妻に関しては、基章の娘である事以外判っている事はほとんど無いのですね。名前の明子からして創作で、いつ亡くなったかについても記録には無い様です。確かなのは、重盛と基盛の二人の子供を産んで早世した事くらいかな。その明子をことさら良妻賢母として描いたのは、次に来る後妻のための伏線なのでしょうか。

ただ、このところ清盛が主役らしくないところが気になっています。今回もどこか一人だけ浮いていた様な印象を受けたのは私だけでしょうか。松山ケンイチが熱演すればする程、なんだかなあと思えてしまいます。もののけの涙って、清盛の涙という事なのでしょう?でも、どこがもののけだったというのかしらん?清盛が武家の次期統領ではなく普通の家庭人の様に描かれているのは、これも次にブレークするための伏線なのでしょうかね。まあ、好意的に見れば、家庭的な平家という側面を強調した演出と取れなくもないとは思っています。

次回は義朝との再会が描かれる様ですね。ライバルとの再会で、主役らしさが戻って来る事を期待したいものだと思っているところです。


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2012.03.17

寺田屋事件 ~三吉真蔵日記より~(前編)

(「桂の木の下で」と「薩長同盟の夜」に続く創作の第3弾です。今回は2回に分けて掲載します。)


三吉慎蔵日記より

慶応2年1月19日

薩摩藩大坂藩邸で木場伝内氏から薩摩の船印を借りた我々は、八軒屋の船宿を訪れた。ここで船を仕立てて伏見に向かうのである。同道は坂本氏、新宮氏、池氏の三名。八軒屋では新選組が人別改めを行っていた。前日に大久保越中守に聞いたとおり、京都に向かう坂本氏を捕捉すべく警戒は厳重を極めている。しかし、薩摩藩の名は効き目が抜群で、特に怪しまれる事無く船に乗り込む事が出来た。

船は人足に曳かれて順調に淀川を遡る。途中八幡では淀藩が警戒に当たっていたが、ここでも薩摩藩の船印のおかげで怪しまれる事無く通過する事が出来た。伏見に着くと今度は水口藩が警戒していたが、やはり薩摩藩の名のおかげで咎められる事は無かった。こうして我々は無事に寺田屋に入る事が出来た。

慶応2年1月20日

この日、4人で京都に向かうはずだったが、薩摩藩の都合で3人にして欲しいと言う。やむを得ず、坂本氏、新宮氏、池氏の三名が京都に先行して現地の状況を探る事になった。私は遅れて京都で落ち合う事を約束し、寺田屋に潜伏して京都の情報を待つ事にした。

慶応2年1月21日

我々が伏見に入った事が幕府に知れたらしい。今日は朝から新選組が何度も人別改めにやって来た。その都度、二階の夜具入れや物置に隠れて凌いだが、警戒はとても厳しくなっている。

慶応2年1月22日

一橋公が伏見に来るというので、人別改めが厳重を極める。いよいよ進退窮まったかと思われたが、薩摩人という名目が効を奏し、怪しい者ではないと調べが付いたという知らせを受け、ほっとする。しかし、いよいよ用心しなければと思い、かねて用意してあった槍と拳銃を、寝るときも夜具の中で抱いて寝る。

慶応2年1月23日

坂本氏が京都から帰ってきた。過ぐる21日に桂小五郎と西郷吉之助が談判し、王政復古のための盟約を結んだ事を聞いた。そして、かねて打ち合わせのとおり明日京都まで同道する事とする。近来に無い快事であり、王道回復のために祝杯を挙げることにした。

祝宴は深夜まで続いた。八つ半頃に至り、そろそろ打ち上げと思った頃、不審な気配を感じた。外で六尺棒が鳴るような、からからという音が聞こえたのである。耳を澄ますと、階下でも忍び歩く気配がする。そうこうする内に、坂本氏の妾、お龍さんが部屋に飛び込んできた。素肌に袷一枚というあられもない姿である。お龍さんは、御用改めが来た、階下は捕り方で一杯だと言う。

私は手槍を構え、坂本氏には拳銃を手渡した。坂本氏は拳銃を手に、腰掛けに座る。坂本氏の袴は次の間に置いたままだ。

やがて一人の男が上がって来て、障子を薄く開けた。すかさず坂本氏が、

「何者か。」

と声を上げる。男は障子を開けて中に入って来る。しばし無言でにらみ合っていたが、男はそのまま部屋を出て行った。この隙に、坂本氏はお龍さんに唐紙を取り除けろと言う。お龍さんがそのとおりにすると、唐紙の向こうには手槍や六尺棒を持った捕り方がずらりと並んでいた。中には 盗賊灯を持った男も居る。

やがて先ほどの男がまた部屋に入ってきた。双方無言のまま、また暫くにらみ合った。やがて、坂本氏が声を出す。

「なにゆえ薩摩藩士に無礼をいたすか。」

「調べは付いている。嘘を言うな。」

これをきっかけに、捕り手たちは口々に、

「上意、上意。」

「御用、御用。」

と叫び始めた。彼らは槍や六尺棒を構え、盗賊灯を私たちに向ける。

「疑いがあるなら、薩摩藩屋敷に問い合わせていただこう。」

「何故にかように武器を所持しているか。不審がある。」

「武器を持つは武士の倣い。何の不審があろう。」

「話は奉行所にて聞く。尋常に同道されたい。」

このまま押し問答が続くかと思われたとき、突如坂本氏が拳銃を轟発した。天井へ向けての威嚇射撃だったが、捕り手たちの肝を潰すには十分だった。恐怖に駆られた彼らは、発狂した様に騒ぎ始めた。

「上意、上意。」

「神妙にしろ。」

口々に叫びながら、ある者は手元にあった火鉢を投げ込み、ある者は灰神楽の中を槍を構えて迫って来た。

(以下、後編に続きます。)

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2012.03.16

京都・洛中 京都梅事情2012 ~京都御苑 3.10~

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平成24年3月10日の京都御苑です。この日は出水口付近の梅が見頃を迎えていました。

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出水口は、梅林の南側にあたり、通路沿いに梅が植えられています。早咲き系の木が多く、毎年梅林に先駆けて見頃になりますね。

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それでも例年よりは遅く、三週間近く遅れたのではないかな。いつもの年なら、そろそろ見頃を過ぎている頃でしょう。

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出水口でも一番最初に咲いたこの木は、既に散り始めていました。梅林でも同様の傾向で、中咲きの木が咲かないうちに早咲きの木が散り始めているので、今年はあまり華やかな景色にはならないのかも知れません。

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そうこうする内に、糸桜が咲き始めるでしょうね。良い方に解釈すれば、今年は桜と梅、それに桃が一度に楽しめる事になりそうな気配です。

一点残念なのは、大木蓮が今年ははずれ年な様子である事です。この日見た限りでは、花芽は上部の方に少し付いているだけで、ほとんど葉芽ばかりという状態でした。当たり年との落差が大きい事で知られる木ですが、あの綺麗な花を見ることが出来ないのはやはり寂しい事ですね。

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2012.03.15

京都・洛中 京都梅事情2012 ~北野天満宮 3.10~

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平成24年3月10日の北野天満宮です。この日は早咲きの梅に加えて中咲きの花が咲き始め、華やかな境内になっていました。

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このお牛さんの梅は、ほぼ見頃だったと言って良いのでしょう。赤い前掛けと白梅が良く似合っています。

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ただ、華やかではあったものの、中咲きの花はまだ三分咲き程度の木が多く、最盛期とは言えませんでした。

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そして、早咲きの梅は散り始めており、今年のピークはこんなものなのかなという気もします。

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とは言っても、遅咲きの花はまだこれから咲き始めるので、暫く見頃は続くのでしょう。もしかしたら、桜の季節になっても綺麗な梅を楽しむ事が出来るかも知れませんよ。

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2012.03.14

京都・洛東 東山花灯路2012 ~高台寺界隈~

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灯籠の明かりに導かれて、高台寺方面へと向かいます。この明かりはローム製のLEDだそうですね。どこか暖かみがあって、良い灯りだと思います。

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この道筋のランドマークになっているのが祇園閣です。夜空に浮かぶ、天空の楼閣ですね。

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道筋にある月真院のライトアップです。白壁にしつらえられた丸い模様が照らし出されて、良い感じになっていました。前の竹垣の影も面白い模様になってますね。

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月真院前から見た定番の八坂の塔が見える景色です。この辺りの人混みの様子が判ってもらえるかな。ここは道が狭くなっているので、特に混み合うのですよね。

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震災復興のためのイベント、祈りの灯りです。一基500円の灯籠を並べて、「祈」の字を完成させるのですね。灯籠には会津特産品のお土産が付いて来ますよ。

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今回は二年坂方面には向かわずに、石塀小路に入りました。この道も幻想的に演出されています。

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この写真だと人が少ない様に見えるでしょうけど、人波が途切れた瞬間を狙って撮っているのでそう見えるたでけです。実際には、結構な賑わいを見せていました。

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この日はこの道までで引き上げました。混雑する中、一度に回るのは大変ですからね。次の週末には、二年坂から清水寺まで行ってみようと思っています。

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2012.03.13

京都・洛東 東山花灯路2012 ~円山公園界隈~

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八坂神社で舞の奉納を見た後は、円山公園に移動しました。ここはしメイン会場の一つで、様々なイベントを見る事が出来ます。

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毎年恒例なのですが、いつ見ても綺麗なのが竹灯り・幽玄の川ですね。一時期よりは短くなってはいますが、幻想的な光景は健在です。

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大学のまち京都・伝統の灯り展も、すっかり定着しました。毎年ユニークな展示を見るのが楽しみなのですが、ジェットコースターの様なこの展示や、超高層ビルを模したような展示が面白かったです。

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昨年は震災の影響で中止されてしまった火の用心お囃子組を、今年は見る事が出来ました。子供たちが元気に歌う京の童歌が、この夜の雰囲気に良く合っているのですよ。お囃子組は、会場をずっと練り歩いているのですが、良いタイミングで出会う事が出来ました。

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隣の知恩院の門前には、粟田大燈呂が展示されています。実は知らなかったのですが、粟田祭で巡行しているのだそうですね。戦国時代に行われていた記録があるという古い行事で、いつしか廃れてしまっていたものを、平成20年に復活したのだそうです。あたかも青森のねぶた祭を彷彿とさせる灯籠ですね。

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そして、狐の嫁入りも見る事が出来ました。ただ、今年は人が多くて、自由に撮影ポジションを選べなかったのが残念です。

最後になってしまいましたけど、冒頭の写真は京炎ふれそでの公演で、しだれ桜の北側にて行われます。毎回違うチームが出場する事になっており、この日は同志社女子大学のチーム「花風姿」が熱演を見せてくれました。

明日は高台寺方面に向かって移動します。

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2012.03.12

京都・洛東 東山花灯路2012 奉納舞踊~八坂神社~

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今年の東山花灯路が始まりました。毎年恒例となった春の宵のそぞろ歩きは、初日から賑わっていましたよ。

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会期中のイベントはいくつもあるのですが、その皮切りとして花街の芸舞妓による奉納舞踊が八坂神社にて行われました。

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この日、舞を奉納したのは祇園甲部の二人の舞妓で、花傘と祇園小唄のふたつの舞を披露してくれました。

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この写真は花傘の一シーンで、文字通り花傘を持って踊るのですね。

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こちらは祇園小唄の一シーン。立って踊るばかりではなく、こうして座るシーンも出て来ます。

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正直言って舞の善し悪しは分からないのですが、さすがに良く鍛えられているという感じはしました。指先にまで神経が行き届いている様子からそれが窺えるのですね。

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このシーンは、だらりの帯よという歌詞に合わせて帯を見せているところです。帯の価値も良く判らないところではありますが、相当な値打ちものなのだろうなという想像は付きますね。

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地方さんの唄と三味線も素晴らしいものでした。張りのある声と言い、揺るぎのない音程と言い、さすがに玄人だけの事はありますね。

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舞の奉納は、この後17日(上七軒)、18日(宮川町)、20日(祇園東)に行われます。結構人気があって、開始の30分前には舞殿の周囲に3重くらいの輪が出来ていました。ただ、午後6時30分と7時の二回あるので、入れ替えを狙えば比較的楽に前に出る事も出来るかも知れませんよ。

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2012.03.11

平清盛 第10回 「義清散る」

(璋子の別宅。夜、あなた様をお救いしとうございますと言って、璋子を抱きしめた教清。)

(朝、璋子を起こす堀川。臥所に入ったまま、「長からむ 心も知らず」と堀川が詠い、教清が添削した歌を口ずさむ璋子。何事かを感ずる堀川。)

(躰仁を東宮に立てようとする得子。それに反対する公卿が少なからず居ると鳥羽上皇。その理由は、得子の出自が低い身分である事にありました。鳥羽上皇に頼りないと言い捨てて席を立つ得子。)

(忠通を呼び出した得子。得子の用件とは、躰仁を忠通の娘である中宮聖子の養子とする事でした。)

(保延5年8月。生後3ヶ月で東宮と定まった躰仁。)

(北面の武芸場。教清に躰仁が東宮に立った事に伴う情勢の変化を聞く清盛。雅仁が帝に就く可能性はと問う清盛。雅仁が帝になどなっては世は終わりだと清盛。既に救い様がない、鳥羽院があの様な体たらくとはと吐き捨てる教清。驚く清盛。自分たち武士が守らなければならないと教清。)

(高倉邸。論語を読む頼長。そこに現れ、論語を唱和する通憲。正しき道にあらずして得た高い地位に安住するのは、君子のする事ではないと頼長。それは得子の事かと通憲。あの宴よりさらに露骨に振る舞っていると頼長。それ以上に許せないのが教清だ、皆の前で帝の心の内を明かすとは小賢しき事と頼長。)

(清盛の館。教清を連れ帰り、明子に紹介する清盛。教清を見てそわそわする女達。)

(私を振った女を妻とするとはと言い出す教清。そんなと明子。教清が気に入らないと絡む兔丸。)

(相撲で教清に挑み掛かる兔丸。かるくあしらう教清。負けて悔しがる兔丸。)

(夜、教清を送り出した清盛。教清は大したものだ、あいつと居ると、「武士は王家の犬ではない、武士が居なければ王家は何も出来ないと思い知らせてやる」と言った義朝の言葉どおりになるかもしれないとと思えて来ると清盛。)

(家に帰り、文を受け取る教清。)

(璋子の別宅。寝所に入り、そこに座っていた女性に待賢門院様と声を掛ける教清。その教清の手を掴み、よくもまあぬけぬけと来たものだと堀川。人が悪い、待賢門院様は如何お過ごしかと誤魔化す教清。あの日から様子がおかしいと堀川。人を愛しく思う気持ちが判ったのではないかと教清。その教清に、二度と璋子を尋ねてくるなと釘を刺す堀川。では誰が璋子を救うのだと教清。救おうと思う事がおこがましいのだと堀川。)

(忠盛の館。春日大社から強訴が来ると家貞。一歩も京に入れるなと命ずる忠盛。)

(僧兵相手に戦う平氏。)

(検非違使として働く為義。)

(東国。土地の境界に絡む争いに介入し、着々と地歩を固める義朝。)

(保延5年12月27日。雅仁親王元服。今日はさすがに雅に振る舞っていると感心する通憲。にも関わらず、式の途中で白拍子を呼び入れて、今様を歌い舞を舞い始める雅仁。これより先は、ふさわしき振る舞いをせよと叫ぶ鳥羽上皇。「はて、ふさわしき振る舞いとは」とはぐらかす雅仁親王。)

(御所。鼻歌を歌いながら廊下を行く雅仁親王。その前に現れた得子。その得子に向かって、諸大夫の娘が国母となる日も近い、目出度い事だと絡む親王。あなたは鳥羽院よりも白河院に似ている。もしかしたらあなたは白河院の子ではないのか。だとしたら生まれて来なくても何の支障もなかった皇子と暴言を吐く得子。それをにやにやと聞き流している親王。その時、璋子が現れます。)

(その言葉を取り消して下さりませと叫ぶ璋子。親王は断じて上皇の子、要らざる子ではないと言い、取り消して下さりませと繰り返す璋子。その言葉を無視する得子。次第に檄高し、得子に掴まりかかる璋子。璋子を止める堀川。)

(武芸場。璋子が得子に摑みかかったという噂を聞き、心が乱れる教清。そこに上皇が水仙を見に行くから警護に付けという命令が入ります。そんな中、一人帰ってしまう教清。)

(上皇に新年のあいさつに来たにも関わらず、水仙見物のために肩透かしを食らった摂関家の人々。仕方がないと帰ろうとする忠実。王家の乱れの元の張本人であるにも関わらずのんきに水仙見物とは、一言諌めなければ気が済まないと居座る頼長。)

(水仙を見物している上皇。その庭園を警護している清盛達。)

(南殿の庭。一人佇む璋子。そこに現れた教清。いつもここに居るのはなぜかと問いながら、璋子に歩み寄る教清。それ以上近付いてはならないと璋子。あの日の事は忘れよと璋子。忘れられない、あの日からあなたは変わったのだと教清。空っぽの目ではなくなり、得子に掴み掛かるほど熱いものが内から溢れ出ているのだと教清。)

(近付く教清から逃れ、庭の草むらに駆け寄って跪き、草をかき分ける璋子。そこに見つけたのは小さな水仙でした。花を見つめながら泣き出す璋子。水仙を見て、上皇を連想した教清。まだここで咲いていてくれたと璋子。)

(逆上して許せぬと叫び、璋子の首に手を掛け、あなたを救えるのは私しかいないのに、あの様な惨い人を思うのですかと言いながら首を絞める教清。そこに現れ、何をすると言って教清を突き飛ばす清盛。清盛の声を聞きつけて現れ、璋子を抱き起こす堀川。何があったのですと言いながら教清を見る堀川。呆然としている教清。そこに響く何者かという声。お逃げ下さいと堀川。)

(御所の一室。上皇に拝謁する頼長。彼が話を始めようとした時、璋子が狼藉者に襲われたという知らせが入ります。頼長を余所に出て行く上皇。順序立てて物を言う事が出来ないのかとあきれる頼長。彼が立ち上がった時、庭先を清盛に支えられながら過ぎていく教清の姿が目に入ります。)

(清盛の館。教清に酒を注いでやる清盛。息を切らしながら、やはり酒は女に注いでもらった方がうまいと教清。その教清の杯をたたき落とし、何を気取っていると一喝する清盛。相手は院の后、何を考えていると清盛。ただ璋子の奥に眠っている人を愛しく思う気持ちを引き出したかった、だがそれを引き出されたのは自分の方だったと教清。何を寝ぼけた事を言っていると教清をこづく清盛。今こそ、王家を守っているのは武士なのだと思い知らせてやると言っていたのではないのかと叫ぶ清盛。力なく目を落とす教清。)

(御所の一室。堀川に何があったと問う上皇。申し上げるつもりはないと堀川。何と驚く上皇。上皇は璋子の空っぽな目から逃げた、今更口出しは無用と堀川。言葉が出ない上皇。)

(寝所で横たわる璋子。)

(館の庭で、剣を振るう清盛。)

(教清の館。縁側で蕪に絵を描いている花子。それを見ている春子。そこに現れた清盛。尋ねてきた教清が留守と知り、春子にどこに行ったのかと尋ねます。頼長が院御所に参れと命じてきたのだと春子。飛び出していく清盛。)

(院御所。上皇を前に、教清を理詰めで問い詰める頼長。)

(璋子に会い、あれは自分だったと言って欲しいと言上する清盛。教清が何をしたのか判っていて言っているのかと堀川。知っていると清盛。よくもぬけぬけとと堀川。教清は教清なりに、璋子の事を思っているのだと清盛。そなたはどうするのだと璋子。後からどうとでもなると清盛。)

(院御所。何でも思い通りになると生きてきたが、それもここまでだ、武士に出来る事など限られていると思い知れと頼長。話はそれだけかと上皇。意外そうな頼長。そこに清盛を従えて現れた璋子。大儀であったと言い捨てて立ち上がる上皇。咎めないのかと頼長。何故と問う璋子。そなたが誰と何をしようと、私の心にはさざ波一つたたないのだと上皇。立ち去る上皇。ため息をつく頼長。)

(清盛に、済まなかったと教清。俺よりも、妻と子に詫びよと清盛。そして、教清と妻子を館に誘います。)

(教清の館。庭に散る桜の花びらを受けている花子。一緒に戯れている春子。そこに帰って来た教清。父を見て縁に上がり、手に受けた花びらを父に手渡す花子。美しいでしょうと花子。ああと花びらを見つめる教清。その時、風が花びらを吹き飛ばします。その花びらを見て、まこと美しいとつぶやき、顔つきが変わる教清。夫の異変に気付く春子。突然、花子を縁側から蹴落とした教清。泣き叫ぶ花子。花子を抱き起こして夫を見る春子。無言で立ち去る教清。)

(知らせを受け、夜道を走る清盛。桜が舞う道で教清を見つけ、教清と叫ぶ清盛。出家すると教清。何故と清盛。院が自分を許したのは、璋子を愛しく思っているからだと教清。愛しく思っているからこそ突き放すのだと教清。王家の乱れの元は、人を愛しく思う気持ち、手に入れたい、手に入らぬなら奪いたい、奪えぬなら殺したい、そんな薄汚くどす黒い思いが人を巻き込み、やがて国を巻き込んでいくのだと教清。)

(だからこそ俺たち武士がと清盛。矢は真ん中に当たった時が最も美しく、歌は相応しき言葉が選ばれ、見事に組み合わされた時が最も美しい、いかなる世においても最も美しく生きる事が自分の志だ、醜さにまみれて生きる事は出来ないと教清。)

(たわけた事をと殴りかかる清盛。こんな事で逃げるなどらしくない、自分ごときにぼろぼろにされる者は教清ではない、そんなお前を見たくないと言って殴り続ける清盛。お前さんはたった一人の友達だ、だから一世一代のわがままを見届けて欲しいと教清。)

(短刀を抜いて烏帽子の紐を切り、脱いでしまった教清。)

(身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ)

(そう歌を詠んで、今はこれまでと髻を切ってしまった教清。舞い散る花びら。清盛に微笑みかけ、桜吹雪の中を立ち去る教清。立ちつくして教清を見送る清盛。)

今回は教清の出家が描かれました。史実と説話、それに創作が入り交じっており、ドラマ独自の経過となっていた事は確かです。

教清の出家の原因は、過去様々に取りざたされており、璋子に対する失恋がその原因だとする説もその一つです。前回に書いた様に、源平盛衰記にある「言うも恐れのある上臈」との恋に破れたために出家したという記述に基づく説ですね。そこには一度は思いを遂げたものの、上臈から「阿漕の浦ぞ」という返事を貰った事から恋に破れた事を悟ったとあります。

「阿漕の浦」とは伊勢にある海の事で、そこでは年に一度しか網を引く事が許されていませんでした。ところが、禁を破って何度も網を引く男が現れたのですが、やがてそれは人の知るところとなってしまいます。この事を受けて詠われたのが次の歌だと源平盛衰記にはあります。

伊勢の海 阿漕が浦に引く網も たびかさなれば人もこそ知れ

つまりは、密かな逢瀬も度重なれば人の知るところになってしまうと言うのですが、教清はこの歌を当然知っていて、上臈からもう会う事はならないと断られたのだと悟ったのですね。

この上臈が璋子だとする根拠の一つには、後に璋子が出家した時に、既に西行となっていた教清が、璋子の為に一品経の供養を発願し、その勧進のために方々の権門の家を回ったという事実が挙げられます。つまり、落ち目となった璋子の為にわざわざ教典を編纂しようとは奇特な行いであり、余程の思慕の情が無ければ説明が付かないのではないかと言われているのですね。

この禁断の恋に破れたとする説の他に、友人が急死したためだとする説もあります。「西行物語」にある説ですが、教清には佐藤憲康という友人が居ました。ある時、この憲康が教清と親しく談笑をした翌朝に急死するという事件が起こります。この事に衝撃を受けた教清は世の無常を感じ、出家を決意したと言うのですね。

さらには、教清は仏教に深く帰依しており、求道のために発心したのだとする説もあります。

いずれの説にしても決め手はなく、当時の人達にとっても教清の出家は突然の出来事であり、その理由ははっきりときは判らなかったというのが実情の様ですね。

次に、出家の時に娘を蹴落としたという話は結構有名で、その出典は西行物語に求められます。友人に死なれて無常を感じ、出家を決意した教清は、自分を慕ってまとわりついてくる娘を可愛いと思いつつも、その思いは出家の妨げになると考えて縁側から蹴落としたと言うのですね。西行の決意の強さの表れと言われますが、この西行物語は説話集という側面が強く、事実かどうかは判らないとされている様ですね。

このあたりまでが史実と説話の入り交じった部分で、後は創作という事になります。無謀にも教清が璋子の首を絞めたというのも、頼長が教清を問い詰めたというのも、清盛が身代わりを買って出たというのも全てはこのドラマ上の演出です。ただ、演出としても、少し安っぽい演出ではありました。特に清盛が身代わりを買って出るなど、有り得ない展開でしょう。彼は既に平家一門の次期総帥という立場を理解しつつあるという設定になっているはずで、その一門を危険に曝す様な真似をするはずが無いじゃありませんか。少し前の清盛ならあり得たかも知れないですけどね。それを真に受ける璋子というのも、何だかなあという展開でした。

王家に関して言えば、躰仁親王を東宮に立てるために、忠通の娘の養子にしたというのは史実にあるとおりです。その理由はドラマにあった様に躰仁の母の出自が低い事をカバーするためで、ひいては忠通と聖子を味方に引き入れるためでした。璋子は、この頃から追い詰められて行った様ですね。ただし、あくまで国母の立場にあり、表向きは得子の方が璋子に遠慮していたはずと考えられ、璋子に強く当たる得子というのはドラマの演出と思われます。

ドラマの演出に沿って言えば、教清は鳥羽上皇の歪んだ思いを良くも理解したものだと思いますね。それほど璋子を強く思い、それ故に上皇の気持ちが良く判り、嫉妬のあまり狼藉にも及んでしまったのでしょう。この複雑な演出は、このドラマ独自のものと言って良いのでしょうね。それだけに、清盛の行動が軽く見えて仕方が無いのだけどなあ。

最後に、教清が髻を切る時に詠った歌は、詠み人知らずとはなっているものの、西行自作の歌とされているものです。意味は、出家する人は本当に世を捨てているのでは無く仏の教えによって救われている、在家の人こそ仏の教えを守らずに居るので、身を捨てている事になるのだというくらいの所でしょうか。西行の出家後の心境を表した歌だと言われますが、あの場面には相応しくない様な気がしますね。そんな悟った様な事を言える様な心境ではなかったんじゃないかしらん。でも、そんな深読みをしなければ、雰囲気は出ていたかも知れないですね。

次回は、清盛の妻の明子が大変な事になる様です。創作の回となりそうですが、どんな演出をするのか見てみたいですね。

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京都・洛中 京都梅事情 2012.3.10

平成24年3月10日現在の京都の梅開花状況について、テキストベースでお届けします。

1.北野天満宮

中咲きの花が咲き始め、ようやく北野天満宮らしい華やかな景色となって来ました。ただ、中咲き系はまだ満開には至っておらず、反対に早咲き系は散りだした木がいくつか見られた事から、例年程には見応えのある光景にならないかも知れません。それと、花付きが今ひとつの木が目立つ様な感じもしました。なお、梅苑は今回も入っていないので判りません。

2.京都御苑

出水口付近や出水の小川付近では、結構咲き揃っています。でも、梅林は相変わらず数本の木が咲いているだけで、寂しい状態が続いています。ここも早咲きの木は散り始めており、ぱっと華やかな景色にはならないまま経過するのかも知れません。

3.祐正寺

この寺の枝垂れ梅は、3分咲き程度になっていました。まだ物足りない感じでしたが、花付きそのものは悪くなく、間もなく見頃を迎えるものと思われます。

4.水火天満宮

紅白の梅は満開、ピンクの梅は7分咲きといったところです。ただし、紅白の梅、特に白梅の花付きは悪く、見応えがあるとは言える状態ではないですね。ピンクの梅はまずまずです。

5.下鴨神社

光琳の梅が5分咲き程度になっており、ぱっと目には華やかになって来ました。色が鮮やかなせいもあって、参拝客に大人気でしたよ。

6.地福寺

北野にある小さな寺ですが、垣根越しの枝垂れ梅を見る事が出来ます。10日現在ではほぼ満開でした。ピンク色の綺麗な花ですよ。

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2012.03.10

薩長同盟の夜

(「桂の木の下で」に続く創作です。前作はほとんど反響が無かったのでどうしようかと思ったのですが、せっかく第二作も書いたので掲載します。今回は龍馬をモチーフにしてみました。)

慶応2年1月20日夜、薩摩藩京都藩邸。底冷えのする一室で龍馬は眠れぬ夜を過ごしていた。

この日、龍馬は伏見の寺田屋を出て小松帯刀邸を訪ね、そしてその足でこの薩摩藩邸へとやって来た。

小松邸を訪れたのは、かねて中岡慎太郎と共に仲介して来た薩長同盟の進展を確かめるためだった。そこには下関から先行した桂小五郎(木戸寛治)が居て、薩摩藩の西郷隆盛と盟約について協議を進めているはずだった。ところが、話し合いは何も進んでいなかった。薩長両藩とも互いの主張を譲らず、全くの平行線を辿っていたのである。

桂に依れば、薩摩藩は、ともかくも幕府による第二次長州征伐を回避せよ、その為には幕府が求める謝罪に応じるべしと勧める。しかし、長州藩は既に謝罪は済ませており、二度に渡って謝る筋合いは無い。とてもではないがその方向で藩論をまとめる事は出来ず、幕府と決戦に及ぶより無いと考えている。薩摩藩には、そこまで踏み込む覚悟が無いのだと言う。

龍馬は、今から帰国すると言う桂をなだめ、直ちに二本松の薩摩藩邸に向かった。龍馬は西郷に向かって長州藩の窮状を訴えた。4カ国艦隊と戦い、蛤御門の変で破れ、そして幕府による征長によって痛めつけられた長州藩には、次の機会を待てるだけの余力は残っていなかったのである。龍馬は薩摩藩に再考を促した。しかし、西郷は直ちには返事を与えない。一晩時間が欲しいと言って龍馬を待たせたのである。

龍馬も悲痛であった。土佐を脱藩した後、拠って立つべき拠点と考えていた神戸海軍操練所は閉鎖され、やむなく薩摩藩を頼った。その薩摩藩の世話で亀山社中を起こしたが、小さな社中では出来る事は限られていた。その中で見つけた自らの活路が薩長同盟の斡旋であった。

一介の浪人に過ぎない龍馬にとって、財産と言えるのは志士としての人との繋がりであった。長州の桂、薩摩の西郷の二人に顔の利いた龍馬にすれば、その財産を生かす最善の策が薩長同盟だったのである。

偶然ながら、同郷の中岡も同じ事を考えていた。二人で協力して、一度は下関で挫折しかけた盟約をまとめ上げた。薩摩藩名義で長州藩の軍艦ユニオン号と小銃を購入し、薩摩藩への見返りには長州藩から兵糧米を贈る事にした。事実上、同盟を現実のものとし、後は薩長両藩の巨頭を引き合わせれば良いというところまでこぎ着けたはずだった。この日の朝、寺田屋を出る時までは、既に盟約はなったものと楽観すらしていた。ところが、京都に着いてみればこの有様だった。

この盟約に関わって以来、龍馬は要注意人物として幕府に知られる様になっていた。この日の前々日、大阪で旧知の大久保一翁を訪ねた時、龍馬が長州人と共に京都に向かっている事が幕府に漏れており、既に手配が回っていると警告された。危険を承知で上洛したのは、この盟約に全てを賭けていたからだった。自らの進退も、亀山社中の命運も、そして日本の将来も全てはこの盟約に懸かっていると信じていた。

その盟約が暗礁に乗り上げた。なるほど、龍馬は木戸をなだめ、西郷に再考を促す事で最善を尽くした。後は西郷の決断を待つだけだった。でも、もし、西郷が断ったとしたら?

藩邸の外には幕吏が満ちている。故郷の土佐藩では、勤王党への弾圧が進行していた。もし、西郷の回答が盟約の拒否であったならば、龍馬に引き返すべき場所は無かった。西郷がこの話を断るのなら西郷と刺し違えて死のう、龍馬はそこまで思い詰めていた。傍証がある。

この夜、龍馬は手紙を書いている。眠れぬ夜に思い出されるのは故郷の人たち、それも女性ばかりであった。この日行動を共にした池蔵太の家族に宛てた手紙には、蔵太の母と嫁、姉の乙女の事を思いつくままに認めている。

もう一人、姪の春猪にも手紙を書いている。

「春猪どの、春猪どの、春猪どのよ、春猪どのよ。」

という不思議な調子で始まるこの手紙は、この夜の龍馬の不安定な心の内を良く表していると言われる。

春猪は、あばたづらで決して美人ではなかった。その姪に向かって龍馬は、顔の凹凸を隠すべく白粉を分厚く塗り、もし転んだらでこぼこになって金平糖の鋳型の様になるのではないかと語りかけている。ひどい事を言う伯父もあったものだが、それほど春猪は隔意の無い、可愛い姪であったという事なのだろう。

続けて龍馬はもっと酷い事を書いている。春猪を見たら大抵の男は逃げ出してしまうので、何の気遣いも要らないと言う。何もここまでこき下ろす事もないと思うのだが、やはり親しい姪への愛情の表れなのであろう。

この手紙の本題はここから始まる。

龍馬は、春猪に向かって、これから先に起こる心配は、鎌でも鍬でも払う事が出来ないと言う。そして、だから精を出して長い歳月を送りなよと続けている。鎌でも鍬でも払う事が出来ない心配ごととは何を指しているのだろう。

龍馬の手紙はさらに続く。自分も死ななければ4、5年の内に帰るかも知れない、しかし、露の命ははかれないと言う。

切迫した夜にふさわしい、龍馬の心境がここに現れていると言えようか。この文言から、龍馬はもし盟約が成らなかった時には死ぬ覚悟であったという事が窺えるのだ。

その一方で、龍馬は盟約が成立するかも知れないとも思っている。それが「死ななければ」という言葉に表れている。この一節に、西郷の回答を測りかねて揺れる龍馬の心が見え隠れしている様な気がする。

龍馬の手紙は、「先々ご無事でお暮らしよ」という言葉で閉じられている。先に書いた「長い歳月を送りなよ」という言葉に重ねての言葉である。春猪に対する言い回しとしてはくどい程であり、この手紙が龍馬の遺言と呼ばれる理由がここにある。自らの破滅を予感し、せめて姪の無事を祈ったのであろうか。

長い夜が明けた朝、待っていたのは龍馬の提案を受け入れるという西郷の回答だった。この瞬間、志士としての龍馬の役割は成就し、その名は不滅のものとなった。龍馬の事績は数あるけれども、この盟約の斡旋が最大のものと言って良いであろう。

前夜、2通の手紙を書いていた龍馬は、歴史的時間の中に居た。その夜に語りかけた相手が春猪であり、乙女たちであった事は、龍馬という人物を知る上で、何らかの手がかりになるのではないだろうか。あるいはもっと普遍的に、人というもののあり方を物語っているかの様な気さえする。

龍馬はこの後、寺田屋で遭難する事になる。よくよくドラマチックに生まれついた男だが、それはまた稿を改めて書く事としたい。

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2012.03.09

京都・洛東 京都梅事情2012 ~智積院 3.3~

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平成24年3月3日の智積院です。一週間前のピンクの梅に続いて、この日は紅梅が咲き始めていました。

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紅梅があるのは金堂前の参道沿いで、数本の木が植えられています。

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鮮やかな花色で、満開になるととても綺麗ですよ。

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この写真を撮ってからそろそろ一週間ですから、今頃は見頃になっている事でしょうね。その代わり、ピンクの梅は終盤に入っているかも知れません。

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ここには白梅もあって、そちらも見頃になっている頃でしょうね。この週末は、智積院の梅を見に行くのというのも良い選択ではないかと思われます。

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2012.03.08

京都・洛中 京都梅事情2012 ~京都御苑 3.3~

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平成24年3月3日の京都御苑です。この日は数本の梅が見頃を迎えていました。

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京都御苑で一番早くから咲いている梅は出水口にあるこの木で、この日は満開でしたね。でも、そろそろ見頃を過ぎて来る頃でしょうか。

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皇宮警察本部前にあるこの木も綺麗に咲いていました。花色が鮮やかで、かつ花付きも良くて、見応えはありましたよ。

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ミツバチもこの日始めて見ました。啓蟄には少し早かったけれど、一足早くミツバチたちは目覚めた様です。

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全体としてはまだまだで、蕾の木がほとんどでした。でも、何本かは咲き始めていたので、そろそろ華やかになって来る頃かも知れないですね。

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2012.03.07

京都・洛中 京都梅事情2012 ~北野天満宮 3.3~

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平成24年3月3日の北野天満宮です。この日は、遅れに遅れていた梅が、ようやく見頃を迎えつつありました。

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見頃とは言っても早咲き系に限った事で、中咲きの梅はまだ咲いておらず、境内全体としてはまだ寂しい感じでした。

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それでも、ずっと待たされていた身としては、この花を見ると嬉しくなりますね。まだ満開の木は少なく、五分咲きくらいが多かったかな。

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ここ暫くは暖かい日が続いているので、これから開花は加速する事でしょうね。希望的観測ではありますが、一気に咲いて例年以上に華やかな境内を見る事が出来るかもしれないと思っています。

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梅に限りませんが、天気によって花の印象は大きく変わります。日が当たった花は輝いて見えますが、曇りの時は落ち着いた色合いで、本来の花色が見えているとも言えます。どちらが良いという訳では無く、味わいが違うと見るのが良いのでしょうね。

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この週末は、結構な見頃になっているのではないかしらん。早咲きと中咲きの花が重なっている時が、一番綺麗に見えますからね。まあ、あくまで個人的な予想なので、行く前には直前の情報を確かめてからにしていただくようにお願いいたします。

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2012.03.06

京都・洛東 ひなまつり つり雛展 ~法住寺~

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京都における桃の節句の行事、もう一つは法住寺に行って来ました。ここでは数年前からつり雛展が開催されています。

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ウィキペディアで調べると、雛のつるし飾りとして伊豆稲取地方の風習とありますね。また、つり雛展で検索をかけると、日本各地で開催されている事が判ります。つまりは、伊豆で発祥した風習が、その後全国に波及したという事になるのでしょうか。

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似た風習として、柳川さげもんという行事もあるのですね。これは起源は別の様ですが、形としてはよく似ています。

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法住寺の場合はこの寺に伝わる伝統行事という訳では無く、ご住職の義母にあたる方が制作されているのだそうですね。全て手作りで、とても美しい色使いにしばし見とれてしまいました。

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この日は気づいていなかったのですが、後から写真を見ると色々な形の人形があったのですね。たとえば、背景にに写っているのは這い人形で、はいはいを始めた赤ん坊を表しているのだそうです。這えば立ての親心が込められたお飾りなのですね。

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今年の法住寺のつり雛展は、3月3日で終了しています。例年ならもう少し長い間展示されていた様なのですが、何か都合があるのでしょう。拝観料は300円でした。

この日はすぐ前にある三十三間堂でも春桃会が開催されており、拝観料なしでの観覧が可能でした。イベントとしては瀬戸内寂聴さんの辻説法があり、この日限定のお守りなどが頒布されていましたよ。来年の桃の節句には、法住寺と併せて訪れる事をお薦めします。

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2012.03.05

京都・洛北 京の流しびな ~下鴨神社~

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平成24年3月3日、下鴨神社で流しびなの神事が行われました。

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流しびなは人形に穢れを乗せて流し、子供の無事の成長を願うという行事で、ひなまつりの原型とも言われている様ですね。下鴨神社では、毎年京人形商工業協同組合の主催で行われており、大勢の人で賑わいます。

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御手洗川に流すのは桟俵(さんだわら)に乗せた人形で、ひなまつりらしく内裏様とおひな様が仲良く並んだ姿です。流すと言ってもそのまま鴨川に出て海にまでたどり着くという訳ではなく、太鼓橋の下でせき止められているのですね。たぶん、後で回収して、供養をするのでしょう。

境内にあった説明書きに拠ると、今年買った桟俵を家に持って帰って1年飾り、翌年に持参して御手洗川に流すのだとか。その日の内に流しても良いともありましたが、一年間身近に置いた方が穢れを流すという理には叶っている気はしますね。

桟俵には2種類あって、大きい方が千円、小さい方が500円です。これにひなあられが付いていました。

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神事は井上社の前で11時から始まり、関係者のあいさつの後、平安装束に身を固めた男女を皮切りに、宮川町の舞妓などが次々と桟俵を川面に浮かべていきます。その中にはたわわちゃんも居た様ですね。たわわちゃんは行事に合わせて衣装を変えてくるのですが、この日は十二単バージョンでした。オリジナルの衣装より、この方が似合っているという気がします。

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まあとにかく凄まじい人出で、11時前には御手洗池の近くにもたどり着けない程の人混みで埋まっていました。神事の写真を撮る為の場所取りは、たぶん2時間以上前からでないと無理の様ですね。私は最初から一般参加者が流すところを撮れれば良いと思っていたので、11時前に様子を見に来た後、一度京都御苑に梅を見に行き、12時過ぎに戻ってきました。その頃になると人混みも減っていて、御手洗池の前にも比較的簡単に出る事が出来ましたよ。

他のイベントとしては、十二単の着付けの実演やひな人形とのツーショット写真の撮影などがあります。節分と違って、ひな祭りの行事はあまり多くなく、イベントとして楽しめるのは下鴨神社くらいなのですね。そのせいで人気があるのでしょうけど、小さい子供が居る人には特にお薦めの行事だと思います。来年は日曜日になるので、もっと賑わう事になるのかな。どれだけ混むのか、ちょっと怖い様な気もしますね。


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2012.03.04

平清盛 第9回 「ふたりのはみだし者」

(薄物を被って市井を徘徊する雅仁親王。)

(初めての子が生まれた清盛。)

(喜びに沸く平家一門。)

(宴で盛り上がる清盛の館。そこに現れた家盛。家盛と仲良く二人で呑む清盛。)

(璋子の屋敷。一人琴を弾く璋子。)

(崇徳帝の御所。即位から15年経っても、鳥羽院に疎まれ続けている崇徳帝。子が出来ない事を苦にする中宮聖子。孤独をかこつ崇徳帝。)

(市井で無頼の生活を続ける雅仁。その親王を御所に連れ戻し、苦言を呈する乳父の通憲。通憲に、自分の乳父母になったのは博打だったのだろうと雅仁。見抜いておられると感心する通憲。得子の寵愛が深まっている、そんな事を言っている場合かと妻の朝子。)

(舞え舞え蝸牛と今様を歌う雅仁。そんな親王を見て、帝になどなれるものかと朝子。)

(清盛の下を訪れている祇園女御。清太と名付けられた子を抱く清盛を見て、逞しくなったという女御。彼女は都を出て古里に帰ると言い出します。白河院がまき散らした災いの種が、あちこちで芽吹きだしていると女御。)

(清盛と双六の盤を挟みながら、賽の目次第で流れが変わると女御。)

(相模。正清と木登りをしている義朝。その彼の下に現れ、土地を荒らす隣の荘園の者どもを退治するのに、義朝の力を貸して欲しいと頼む三浦義明。退治した暁には、義朝に従うと誓う義明。)

(璋子の御所を警護する清盛と教清。その教清に声を掛ける璋子。帝の為に歌をうたってやって欲しいと璋子。帝が自分を離さないのは、歌の為だけではない。孤独な帝をどう思うかと璋子に問う教清。何も答えられない璋子。)

(教清の家で呑む二人。教清から崇徳帝は白河院と璋子の間に出来た子供らしいと聞く清盛。それが鳥羽院が得子を寵愛する原因だと教清。お前は何がしたいと清盛。帝を救いたい、そのために璋子に目を覚まして欲しいのだと教清。)

(保延5年5月。男子を産んだ得子。)

(鳥羽院に、子が出来た祝いの品を献上する清盛。どこか不機嫌そうな鳥羽院。鳥羽院が去った後、その理由を家成に聞く清盛。その訳は言わず、得子が開く祝いの宴に出る様に勧める家成。)

(内裏。教清に歌合わせの日延べを告げる帝の近臣。御簾越しに見つめ合う教清と崇徳帝。)

(得子の宴の場。宸殿の内外に控えた殿上人や北面の武士たち。そこに子を抱いて現れた徳子と鳥羽院。躰仁だと子を紹介する鳥羽院。)

(教清を呼び、祝いの歌を詠めと命ずる得子。ではと一首詠み始める教清。)

(瀬をはやみ 岩にせかかるる滝川の 割れても末に 逢はむとぞ想ふ)

(それは崇徳帝の歌でした。なぜこの場にと問う得子に、この場に来る事が出来ない崇徳帝も躰仁親王の誕生を祝っている、いつか逢いたいという心を表した歌であり、この場に相応しいと教清。そこに笑いながら現れた雅仁。なぜと問う鳥羽院に、兄らしい恨み深き歌だからだと雅仁。)

(躰仁を抱く雅仁は、赤子の頬をつねって泣かせます。戯れが過ぎると鳥羽院。自分の戯れなど可愛いもの、鳥羽院と得子の戯れこそ国政を揺るがす問題だと雅仁。得子に国母になりたいのたろうと言い、笑い転げる雅仁。私は国母になどなりたくない、ただこの福々しい女に地獄わ味あわせたいだけだと璋子に言い放つ得子。白河院との密通によって鳥羽院を傷付けながらそれを何とも思っていない、何もかも無くさなければこの女は目を覚まさないのだと得子。もう良いと遮る鳥羽院。自分には人をいとおしく思うという気持ちが判らないのだと涙ぐむ璋子。ただ法皇様のおおせのままにと繰り返す璋子。これがあなたの妻、そして私の母だと笑い飛ばす雅仁。)

(笑いながら去っていく雅仁。気分が悪いからと言って帰っても良いかと問う頼長。こんな面白い宴は初めてだ、いつでも摂関家は力になると言って去って行く忠実。後に従う忠通と頼長。泣き続ける璋子。悲痛な表情で一点を見つめ続ける鳥羽院。)

(庭に残った清盛と通憲。これが皇子の誕生を祝う宴か、誰も彼も子を己の道具としか思わない、人の痛みも判らない者たちによってこの国は動かされていたのかと吐き捨てる清盛。それがこの国の今だと通憲。通憲もかと噛みつく清盛。雅仁が帝になる目に掛けて乳父となったと通憲。そんな事をと叫ぶ清盛。きれい事だけでは政は出来ないと通憲。)

(雅仁こそが、王家に渦巻く積年の鬱屈から出た膿、全ての歪みを抱え込んだ毒の巣だと通憲。この国を語るのなら、あの人を知らなければならないと通憲。そこに雅仁が姿を消したと知らせてくる朝子。すぐに探しに行くと通憲。)

(夜、得子の居室。今も璋子をいとしく思っているのかと得子。なぜかは判らない、しかし、愛しく思う程に傷付けたくなる、そして傷付ける程に愛しく思うのだと鳥羽院。涙ぐむ得子。)

(一人庭に佇む璋子。そこに現れた教清。あなたが人を傷付けるのは、あなたが傷ついているからだ、しかし心の奥底には人をいとしく思う心が眠っているはずと教清。その空っぽの瞳の奥に誰も見た事が無い美しいものが宿っているのが私には判ると言いながら、璋子に近付く教清。そして、跪いて璋子の手を取ります。何をすると振りほどこうとする璋子。これが人をいとしいと思う気持ちですと言いながら、璋子を抱きしめる教清。教清に顔を埋める璋子。)

(都大路。雅仁を捜す清盛。そして道ばたで、ぼろぼろの衣をまとった親王を見つけます。通憲の言うとおり、ばくちは損をする様に出来ているとつぶやく親王。)

(清盛の館。着替えを済ませた親王。ひれ伏す清盛。物珍しげに部屋を見渡す親王。度を超した戯れの訳を聞く清盛。白河院の落としだねとはそなたであろうと親王。人は生まれてくる事が博打、負けて損をするのが大方の成り行きだと親王。生まれは変えられなくても、生き方は変えられる、自分は武士となって良かったと思っていると清盛。途方もない負け惜しみだと笑い飛ばす親王。その笑い声は、赤子の声に聞こえると清盛。)

(双六盤を持ち出し、負けた者は勝った者の願いを一つ必ず聞くのだと持ち掛ける親王。受けて立つ清盛。そこに現れた清太。向こうにいっておれと清盛。構わないと親王。そして、自分が勝ったらこの子を貰うと言い出します。そんな事は聞けないと清盛。そなたが負けなければ良いのだと親王。)

(合わせて10以上の目が出なければ自分の勝ちだと親王。許しして欲しいと願う清盛。ならぬと親王。横から竹筒を取り、賽を振る清太。出た目は6と4でした。10が出たと言って、清太と二人で駒を進める清盛。邪魔をしおってと、盤を崩す親王。せっかく楽しんでいたものを、幼子であっても許さぬと言って、盤を振り上げる親王。清太を庇い、負けた者は勝った者の言う事を聞くという約束だと叫ぶ清盛。そして、この先清太に害をなすというのなら、その命貰い受けると言って親王に短刀を向けます。清盛を睨み付けたまま、双六盤を投げ捨てる親王。)

(親子の絆など脆いものだと親王。平氏は王家とは違うと清盛。だが、そなたにも王家の血が流れていると親王。そして清盛の手を握り、きっといつか現に生きるもののけの血がうずく時が来ると言って、笑いながら立ち去ります。)

今回は雅仁親王の登場が描かれました。雅仁親王は、ドラマの最後にもあった様に後の後白河天皇となった人で、若い頃は今様に狂っていた事で知られます。雅仁親王は鳥羽院の第4皇子で、崇徳帝の他にあと二人の兄が居たのですが、一人は盲目、一人は自力では寝起きもままならないという身体障害者でした。そして、崇徳帝に子が出来ない事から、帝位に就く可能性も持っていたのですね。しかし、躰仁が生まれた事で、ほぼその目は無くなりました。この保延5年の時、雅仁親王は12歳だったのですが、どうにもこのドラマは役者の実年齢と史実の年齢が合わなくて困まります。それにしても、満11歳の子供にしては言う事がませすぎているという気もしますね。

それはともかく、帝位に就く可能性がほぼ無くなった雅仁親王は今様に狂い、その稽古に寧日が無かったと言われます。後には今様の上手な遊女なども近くに置き、そのあまりの遊びっぷりから帝位に就く器量ではないと世間の評判になりました。乳父である通憲でさえ、和漢の間に比類無き暗王であるとこき下ろしていた程なのですね。その筋金入りの変人ぶりを、松田翔太の演技は良く表していると思います。ドラマに描かれた清盛との出逢いは無論創作ですが、ずっと後まで続く因縁の出逢いとしては面白い描き方だったのではないでしょうか。

一方、璋子と得子の間も酷い事になって来ました。いくら何でも、あれほどあからさまに敵意を表すという演出はどうなのでしょう。常識が通じない王家という設定ではあるにしても、仮にも相手は国母なのですからね、失礼なんて言うどころではありません。判りやすくしたいという事なのかも知れませんが、あまりに無茶な演出ですよね。そして、サディスト気味の鳥羽院は、歪んだ愛情を璋子に感じていたのでした。この苦悩振りも見所の一つなのですが、実際には鳥羽院は得子を寵愛する様になった後も璋子には気を遣い、熊野詣に璋子を伴うなど大切にされていた様です。奔放な白河院に比べれば、はるかに常識人だったと言えるのでしょうか。

ちなみに、崇徳帝は全く無力な天皇であったという演出になっていますが、必ずしもそうでは無かったという見方もある様です。例えば、得子が鳥羽院の寵姫となった時、それを不快と思った崇徳帝は、得子の親族を次々と失脚させるという報復を行っています。得子に対するあからさまな嫌がらせなのですが、これに対して鳥羽院は口を出す事が出来なかった様ですね。つまり、院政下にあっても成人した天皇の権力は強いものがあり、単なるお飾りでは無かったという事の様です。天皇が子供の間はまた別だったでしょうけどね。

そして、もう一人、教清が大変な事になっています。なんと言葉巧みに璋子に近付いて抱きしめてしまったのですが、この状況が史実であるかどうかという見方は二つに分かれます。というのは、はっきりと書かれたものは無いのですよ。ただ源平盛衰記に、教清の出家の原因として「言うも恐れのある上臈」との恋が原因だとあり、その相手が前後の状況から見て璋子であるという説が有力なのですね。もっとも、源平盛衰記以外にこれを書いたものは無く、史実とは異なるという見方もあって、本当の事は判らないというのが実情の様です。このあたりは来週に描かれる様ですね。あまり書くとネタバレになってしまいそうなのでこれ以上は書きませんが、ドラマとしてどんな展開を見せてくれるか楽しみにしているところです。

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2012.03.03

京都・洛中・洛東 京都梅事情 2012.3.3

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平成24年3月3日の梅の開花状況の速報です。写真の整理が出来ていませんので、テキストベースでお届けします。

1.北野天満宮

早咲きの梅が見頃になってきました。正確には、5分咲きから満開までが混在していますね。中期咲きはやっと蕾が膨らんできた程度です。例年より2週間遅れは変わりませんが、やっと境内が華やかになってきましたよ。

2.京都御苑

出水口にある紅梅と皇宮警察本部前にある紅梅が満開になっています。また、出水口南側の池の畔の白梅が、見頃近くになって来ていました。他は少しずつ咲き始めて来たというところで、全体としてはまだ寂しいですね。

3.下鴨神社

まだちらほら咲きといったところです。大まけにまけて、1分咲きと言えるかな。もっと咲いているかなと期待していたのですけどね、満開までにはもう暫く掛かりそうでした。

4.法住寺

南門前の紅梅が3分咲き程度になっています。ぱっと見は、華やかになって来ましたね。他の白梅や枝垂れ梅は、まだ蕾が膨らんだ程度です。

5.智積院

先週見頃だったピンクの梅は、引き続き満開を保っています。早咲きの白梅が見頃となり、紅梅が2分咲き位になっていました。ここもまずまず華やかになってますよ。

6.その他の梅

相国寺の白梅は1分咲き程度です。ただ、数年前に比べて強剪定されており、華やかさは無くなってますね。また、真如堂の紅梅は満開近くになっていますが、ここも数年前の方がきれいだったな。白梅はちらほら咲きです。どちらの寺も、梅に関してはそれほど見所は無いと言って良いかも知れません。

真如堂近くにある東北院の軒端の梅もちらほら咲きですが、この木ももう一つ元気が無いですね。謡曲に興味のある人以外は、わざわざ見に行くほどではないかも、です。

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2012.03.02

京都・洛北 第7回 花の回廊「早春の草花展」 ~京都府立植物園~

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京都府立植物園で、花の回廊「早春の草花展」が開催されています。一足早い春を楽しませてくれるこの催しも、今年で7回目になるのですね。

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例年と違うのは開催場所が大芝生地になっている事で、たぶん北山門広場で工事が行われている関係なのでしょう。

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一回目は小さなテントだったのですが、今は全長100mに達する大規模なものとなりました。コーナーごとにテーマがあって、色々な春の花を楽しむ事が出来ますよ。

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各コーナーにどんな花が展示されているかは、園長さん手書きの案内図があるので、そちらを参照して下さい。白黒なのがちょっと残念ですが、とても丁寧に描かれていますよ。

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開催は3月20日までとなっています。私が訪れたのは開催2日目だったので、まだ咲いていない花も多くて少し寂しい感じもしたのですが、日を追って咲きそろい、賑やかになって行くことでしょう。

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早春の草花展とは関係ないのですが、2月18日に撮ってきた雪に埋もれたスノードロップをお届けします。

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一度このシーンを撮りたくてずっとチャンスを待っていたのですが、ようやく念願が叶いました。雪から色をもらったというスノードロップの清楚な花が、ふんわりと積もった雪に良く似合っています。これ以上積もっていたら雪に埋もれていたでしょうからね、良いチャンスに恵まれたと思っています。

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2012.03.01

京都・洛東 京都梅事情2012 ~智積院 2.25~

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平成24年2月25日の智積院です。この日は数本の梅が見頃となっていました。

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この日見頃だったのはこのピンクの梅で、全部で4~5本あるのかな。ここに来て、やっと見応えのある梅に出会う事が出来ましたよ。

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智積院には紅梅と白梅もあるのですが、紅梅はまだ蕾が膨らんだ程度、白梅は一部で咲き始めていました。暖かい日が続いているので、今週末には結構見頃になっているかも知れませんね。

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智積院は、境内が広くて、かつ静かなのが良い所です。梅花祭の喧噪の後だったので、この静けさがありがたく感じられましたね。

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暫く写真を撮っていると、その静けさを破って、読経の声が響いてきました。それもまた、宗教的荘厳を感じさせてくれて、良いものでしたよ。今すぐ観梅に行くのなら、智積院はお薦めの場所と言えるでしょうね。

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