平清盛 璋子出家の地 ~法金剛院~
大河ドラマ「平清盛」で、不思議な存在感を見せている璋子ですが、その晩年を過ごした場所が法金剛院でした。
法金剛院の前身は平安時代の初期に遡り、双丘寺として創建されています。後に文徳天皇によって大きく改修され、天安寺と改称されました。璋子こと待賢門院は、廃れていたこの天安寺を復興し、寺号も法金剛院に改めたのです。
当時の法金剛院は、池を中心に西御堂、南御堂、宸殿が建ち並び、人工の滝を備えた見事な造りだったと言われます。さらにその後、三重塔、東御堂、水閣が整備され、四季折々の花が咲く洛西の名所として知られる様になりました。
今も花の寺としてその伝統を引き継いでいる訳ですが、当時の堂塔伽藍は全て失われ、わずかに池と滝の跡を残すに過ぎません。写真はその滝「青女の滝」の跡で、当時石立の僧(庭園造りに長けていた僧侶の事)として知られていた仁和寺の林賢と静意の作と言われています。
白河法皇の後ろ盾で鳥羽天皇の中宮となり、国母ともなって権勢を極めた待賢門院でしたが、晩年は得子こと美福門院との争いに敗れ、鳥羽上皇の寵愛も失ってこの寺に隠棲したと言われます。待賢門院はこの寺で落飾しており、極楽浄土を再現したという庭を日々眺めて暮らしたのでしょう。
彼女が産んだ二人の息子、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱が起こるのはその没後10年を経てからの事で、その争いを見る事無く亡くなったのはせめてもの慰めでしょうか。
鳥羽上皇の待賢門院に対する思いには複雑なものがあり、7人の子をなすという寵愛ぶりを示した一方で、白河法皇との密通を疑って崇徳帝を冷遇したばかりでなく、後には美福門院を寵姫として待賢門院を遠ざけました。そして、待賢門院が亡くなった時には、磬を打ちながら大声で泣き叫んだと伝えられており、彼女を遠ざけた後も思慕の情は失っていなかった事が窺えます。愛憎共に深く、一筋縄では行かない感情がそこにはあった様ですね。
ドラマとの関係で言えば、堀川局が歌い、義清が添削した和歌、
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
を刻んだ歌碑が境内にあります(冒頭の写真です)。義清の下りは創作ですが、後に西行となってからこの寺を訪れたとされており、不思議な繋がりは感じますね。
冬はさすがに殺風景な法金剛院ですが、池の畔で寒アヤメが咲いているのを見つけました。こんな時期に咲くアヤメがあるとは知らなかったですね。マンリョウやセンリョウの実は沢山あり、冬枯れの景色の中に彩りを添えています。
花は少ないけれど、晩年の待賢門院に思いを馳せるのならば、誰も居ない冬の法金剛院を訪れてみるのも一興ですよ。
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コメント
何度も出かけたお寺でも平家物語に思いをはせながらお寺を見直すと新しい発見がありますね。
同じ場所でも時代が違うと違う顔が見えてくるので京都歩きはやめられないんですよね♪(*^_^*)
投稿: Milk | 2012.02.11 10:10
Milkさん、
清盛を見ていなければ、待賢門院にそれほどの思い入れは持てなかったと思います。
大河ドラマを見ていたおかけで、ここも新しい目で見る事が出来ましたよ。
京都の懐の深さは底が知れませんね。
投稿: なおくん | 2012.02.11 21:08