平清盛 第3回 「源平の御曹司」
(1132年、京。元服を迎え、名乗りを家盛と改めた平次。しかし、その場に清盛は居ませんでした。月に一度、息災なりと大書した文を届けるのみで、京から離れていたのです。)
(とある海岸。陸揚げされた船荷を狙う海賊達。その海賊を襲う清盛率いる一団。彼らは海賊から船の荷を守り、その礼として米を貰い受け、貧しい人達に分け与えてたいたのでした。その一団の中には鱸丸も居ます。)
(その夜。仲間と談笑する清盛。その時、向こう側で火の手が上がります。賊が村を襲ったのでした。慌てて駆け寄る清盛達。)
(京。家盛に舞の稽古を付ける忠盛。家盛を見て、筋がよいと褒める忠正。そこに飛び込んできた伊藤忠清。彼の手の者が捕らえた海賊を検非違使庁に引き渡すところだったのですが、何か大きな問題がある様子でした。)
(検非違使庁に赴いた忠盛たちが見たのは、賊と共に捕らえられた清盛の姿でした。検非違使と話を付けよと家人に命ずる忠盛。騒ぎを余所に、兄との再会を喜ぶ家盛。家盛の元服を祝う清盛。その清盛を叱りつける忠正。)
(清盛に、どこで何をしていたと問う忠盛。答えない清盛に代わって、船の警護役をしていたと答える鱸丸。民の作った米が民の口に入らないのは道理に合わないと清盛。縄を解いて貰った清盛は、自分たちを捕らえた役人の一人を殴り飛ばします。すぐに西海に戻ると言う清盛を厳しく止めて、京に居ろと命ずる忠盛。自分が帰らなければ海賊がのさばると主張する清盛に、郎党がどうなっても良いのかと脅す忠盛。)
(不承不承、京に残った清盛。その前に突然現れ、競馬で勝負しろと迫る男。誰だと問う清盛に、源義朝と名乗る男。知らぬと振り切り、走り去る清盛。その背中に待っていると叫ぶ義朝。)
(鳥羽院の世にあって、政から遠ざけられている崇徳帝。鳥羽院によって、政に復帰した藤原忠実。)
(家保と家成に、義朝を北面の武士にして欲しいと土下座して願い出る為義。伝えておくと冷たく言い捨てる家保。)
(院庁の前で、忠盛に出会った為義。忠盛に、また寄進の申し出に来たのかと問う為義に、院に召されたからだと答える忠盛。院庁に入って行く忠盛の背中に向かって、あいつが昇殿を許されているのは、白河院の子を貰い受けてまで媚びたからだと冷笑を浴びせる為義。しかし、白河院と親しくしていた事は鳥羽院の世にあっては負い目となる、いまこそ源氏の世を取り戻す時だと為義。)
(忠盛に向かって、良く尽くしてくれているが、未だに信じ切る事が出来ないと言う鳥羽院。白河院に仕えていた者が、自分に忠義で居られるものかと問う鳥羽院に、心からの忠誠を誓う忠盛。では、白河院の落とし胤という噂のある清盛はどうか、その忠義の証しを見せよと迫る鳥羽院。その側から、清盛を院の北面の武士に任命してはどうかと口を出す家成。院を警護する役目を受けるか否かで、その心根が知れるはずと家成。)
(京の町。無頼の徒と博打をしている清盛。賭けをまけてやる代わりに、明日やってもらいたいものがあると無頼達に持ち掛ける清盛。その帰り、鱸丸に屋敷に連れ帰られる清盛。)
(忠盛から院の北面の武士になれと命ぜられる清盛。断然断る清盛。清盛に向かって、忠盛は鳥羽院に3年仕えて従四位の下になった、間もなく殿上人になる事も夢ではないのだと説く郎党たち。自分に王家の犬になれと言うのかと怒鳴る清盛。)
(忠盛に向かって、この面白くない世を変える為に、強き野良犬として生きると言ったはずだと噛みつく清盛。黙って答えない忠盛。ぷいと出ていく清盛。)
(荒れる清盛を見守る鱸丸。そこに現れ、清盛には家盛と同じ事をしてやりたい、母の為に京に居て欲しいと頼む宗子。自分の分までその優しさを家盛にあたえてやって欲しいと言い残して去る清盛。)
(後に残り、一人桜を見上げている宗子。そこに現れ、桜の枝が欲しいのなら取ってあげましょうと言い、一枝を取って母に差し出す家盛。家盛に向かって、この家の嫡男は清盛、それを忘れないようにと諭す宗子。忘れた事はないと家盛。)
(院庁で警護にあたっている北面の武士、佐藤義清。鳥羽院の后、璋子が通りかかったのに気付き、慌てて拝跪します。璋子を見て、花は盛りに咲き誇りけりと歌う義清。)
(鳥羽院に、崇徳帝は歌が好きらしい、だれか歌が上手な者を探し出し、側につけてやってもらえないかと願い出る璋子。帝の近臣は選りすぐりの者達、皆歌は嗜んでいるはずと鳥羽院。何故、院は帝に辛く当たるのかと璋子。自分の子ではない、白河院の子を慈しめと言うのかと叫ぶ鳥羽院。それでも祖父の子、大叔父にあたる子であるから叔父子とでも思えばどうかと璋子。怒りのあまり、声が出ない鳥羽院。)
(弓の稽古をしている義清。そこに上皇が水仙の見物に出る、新入り急げという声が掛かります。)
(家成を待ち受けて、地べたから声を掛ける為義。上皇は急ぎの用で出かけたと家成。義朝の目通りの約束はと問う為義に、上皇は北面の武士に取り立てるつもりはない様子だと答える家成。平家には自分と同じ年頃の清盛が居る、彼はどうなるのかと問う義朝。上皇は清盛を北面の武士にと望んでいると家成。愕然とする為義と義朝。)
(検非違使庁の門前で、いきなり泥団子を投げつける無頼の者たち。くせ者だと追う役人たち。騒々しいなと訝る牢の中の清盛の郎党達。そこに現れた清盛。彼は郎党達を助けに来たのでした。)
(郎党を惹引き連れ、都大路を行く清盛。牢を破ったのはまずかったと鱸丸。こうでもしなければ、西海に戻れないと清盛。棟梁や母の気持ちを考えれば、清盛は京に残るべきと鱸丸。そんなに言うならお前一人で京に残れと清盛。)
(そこに現れ、北面の武士にならないとはどういう事だと問い質す義朝。王家の犬にはなりたくないのだと清盛。ただの甘やかされた平家の御曹司かと義朝。甘やかされたとはどういう事だ、俺は一人で生きていると噛みつく清盛。それが御曹司という事だと義朝。なおも食らいつく清盛を振りほどき、関わるだけ無駄だと言い捨てて去る義朝。)
(その時、検非違使に見つかった郎党達。追われて逃げる郎党。その前に現れた上皇の一行。先頭を行く北面の武士達。前の騒ぎを見て一人歩み出た義清。破れかぶれになって掛かっていく郎党達。たちどころに彼らを倒してしまう義清。郎党達を助けようともがく清盛。必死で止める鱸丸。検非違使に捕らわれる郎党達。)
(忠盛の屋敷。賄をはずんで帰らせよ、清盛との関わりは隠し通せと家人に命ずる家貞。土下座して謝る乳父の盛康。今は平氏に災いが及ばぬ様、力を合わせる時だと叱りつける家貞。泣き崩れる盛康。)
(そこに現れた清盛。今度の事は全て自分が責めを負う、全て正直に話すと言う清盛。それはならぬと一喝する忠盛。責めを負うと言うのなら、この件には一切関わりがないと言い通す事だと忠盛。彼らは自分の郎党、輩だと清盛。その輩と何をして来たと忠盛。船を海賊から守り、民を守ってきたのだと清盛。その海賊が清盛たちに恨みを覚え、村を襲ったのだと忠盛。浅知恵で押さえつけた者は浅知恵でやり返してくる、それで傷つくのは民だ、お前は民を守ってなどいない、賊と同じだと忠盛。それでも生きていられるのは、平氏一門が陰からお前を守っているからだ、赤子同然の者がどうして責を負うと言えるのだと決めつける忠盛。一言も返せず、自分一人が罪は無いという顔をして生きてはいけないと嘆く清盛。回りくどい話は止めよう、平家と縁を切れと忠正。それは断じて許さないと忠盛。それで全てが上手く収まると忠正。清盛は平家に無くてはならない男だと忠盛。)
(妻の事を考えた事があるのか、男子を産みながら白拍子が産んだ子を嫡男として育てるという忍耐を強いて、何が棟梁だと忠正。やめて下さい、清盛は私の子だと宗子。母のためにも、父の言うとおりにして欲しいと家盛。俺は、と言って飛び出していく清盛。)
(草原で弓の稽古をしている義朝。そこに現れた清盛。彼は義朝に競馬の勝負を挑みます。忙しいと断る義朝。強引に勝負に応じさせる清盛。)
(ゴールを決め、一、二、三で駆け出す二人。義朝がリードし後を追う清盛。ところが彼は落馬してしまいます。地面に這い蹲りながら、俺はどうしようもない男だと嘆き始める清盛。赤子の様に守られていたのに、自分一人で生きていると思い上がっていた、何も出来ないつまらないやつ、平家の下に居なければのたれ死ぬしかない、弱い野良犬だ、俺など要らぬと泣きわめく清盛。その様子をじっと見ていた義朝は、白河院を斬らぬばかりに殺気を漂わせて舞う男を見た、自分はそいつに勝ちたくて三年の間武芸を磨いてきたと言い出します。そして清盛の側に駆け寄り、武士は王家の犬と言ったがそれは違う。武士が王家を守ってやっているのだ、武士が居なければ王家は何も出来ないという事を、いつか思い知らせてやるのだとぶちまける義朝。そのために北面の武士になろうとしたが許されなかったと清盛を突き飛ばし、真に強い武士は源氏だ、お前のような情けない男を抱えた平家とは違う、それが判って今日は気分が良いと言い捨てて去る義朝。涙を拭って立ち上がり、勝ち逃げは許さないと叫ぶ清盛。負け犬は勝手に吠えていろと相手にしない義朝。次はまけないと叫び続ける清盛。どこか嬉しげに去っていく義朝。やがて好敵手となる二人。)
(無頼の心を抱いたまま、院の北面の武士として出仕した清盛。)
今回もほとんどが創作となった回でした。まず前提としなければなにらないのは、この時清盛はまだ15歳だったという事ですね。満年齢だと14歳、今で言うなら中学2年生の子供でした。松山ケンイチが演じているので良い大人だと思ってしまうのですが、ここは脳内変換が必要です。それを考えれば、海賊退治の棟梁などは無理がありすぎるのですが、前回と同様、駄々をこねている様子は14歳の子供に相応しいと言えるのかも知れません。
では、清盛と海賊退治がまるっきり無関係かと言うと、そうでも無いのですね。忠盛は何度となく海賊退治を命じられており、ドラマの1132年には郎党の家貞が海賊追捕を称されて左衛門尉に任じられています。これは上手くドラマに反映されていましたね(ドラマでは忠清の手柄でしたが)。また1135年にも西海の海賊追討を命じられており、恐らくは清盛が忠盛の名代として現地に赴いたのではないかと推測されています。無論、正規の朝廷の官吏としてであり、ドラマのように私設軍団を率いて海賊退治をしていた訳ではありません。
次に、清盛が北面の武士に就いていたのは確かなのですが、その経緯はと言うと手元の資料では判りません。ドラマに出て来た佐藤義清、後の西行の同僚であった事や、保元の乱に先立ち、北面の武士の一人として鳥羽院に忠誠の証しを立てた事などからそれが判るのですが、何時、どういう経過で任命されたのかは判らないのですよ。どなたかご存じの方は居ませんか。
その義清は、清盛の郎党を子供扱いしていましたが、彼は武芸に長じた人物だった様ですね。後世は和歌の名手として知られる西行ですが、他にも蹴鞠に長じていたと言い、様々な才能の持ち主でした。璋子を見て何やら歌らしきものを口ずさんでいましたが、あれは後の伏線ですね。今後の彼には注目です。
そして璋子については、ちょっとびっくりしました。崇徳帝を叔父子と呼べば良いと言ったのは彼女だったのか。祖父との密通を開けっぴろげに認めてしまうのは、度胸があると言うべきか、それとも天真爛漫な故と言うべきか、恐れ入るしかありません。あれでは鳥羽院が戦くのも無理は無いですね。まあ、これも創作だと思われますが、それにしても思い切った設定をしたものです。実際には鳥羽院との間に5男2女を産んでおり、少なくとも白河院の在世中は仲が良かった様ですね。
清盛の義母、宗子については、ひたすら良い義母を演じていますが、実際には彼女の存在は、平家にとってかなり大きかった様です。例えば、ドラマでは清盛の烏帽子親に家成がなっていますが、彼は宗子の従兄弟にあたるのですね。また、後には崇徳帝の子である重任親王の乳母となっており、平家と朝廷を結ぶ大切な絆でした。決して、ただの義母というだけの存在ではなかったと思われます。また、ドラマでは宗子の方が気を遣っていますが、実際には清盛の方が頭が上がらなかった様ですね。その理由は良く判らないけれど、後の頼朝との関係を見てもそれが判ると言います。
その頼朝の父である義朝とはライバル関係にあったという設定になってますが、実際にはどうだったのでしょうね。源平の争いという事でこの二人を並べるのは判るのですが、実態としては清盛の方が官位その他でずっとリードしており、義朝をライバル視した事など一度も無かったのではないかと思われます。まあ、それを言ってしまってはドラマが成り立たなくなるので、ここでは問わない事としましょうか。
源平の関係と言えば、為義が忠盛に寄進の話で来たのかと言っていましたが、寄進と引き替えに官位や地位を貰うという事は当時は良くありました。この時期で言えば、得長寿院がそうですね。現在の三十三間堂とほぼ同じ規模と形の伽藍と言われ、千一体の御仏を祀っていたのも同じです。場所は岡崎の地で、平安神宮の西、疎水が東大路通と交わる地点に石碑が建っています。忠盛はこの御堂を鳥羽院に寄進した事によって但馬守に任じられ、殿上人となる事が出来たと言われます。それは来週の話ですね。
ちなみに、その得長寿院は、およそ半世紀後に起こった地震によって倒壊し、再建される事は無かった様ですね。
さて、ドラマとしてはありがちな展開ではあるけれども、結構面白かったですよね。スピード感があるのが良いのかな。相変わらず民のためと言っているのが引っかかるけれども、それもコンセプトという事でさらっと流がしちゃいましょうか。
来週は忠盛がいよいよ殿上人となって、貴族達から嫌がらせを受ける様ですね。史実だと郎党が活躍するのだけれど、ドラマだとどうなるのかな。そのあたりに注目したいと思っています。
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コメント
大河ドラマ「平清盛」第1回~第4回、とくに第4回「殿上の闇討ち」について重要情報
(加賀国在住 藤原知行)
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1.「殿上の闇討ち」事件の主会場(殿上)に、19歳の藤原俊成が居合わしていた。
2.闇討ち事件の40年前、平清盛の祖父の平正盛が、加賀国国府に検非違使として在庁していた。永長2年(1097年)に平家が日本史の表舞台に突如として登場するわずか5年前。
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1月29日放送の大河ドラマ「平清盛」の第4回「殿上の闇討ち」で描かれていましたが、その闇討ち事件(長承元年1132年11月23日)が起こった表舞台の宮中で「豊明節会(とよあかりのせちえ 新嘗祭)」と4人の舞姫による「五節の舞」が行われていました。
今まで、『平家物語』でも、その解説でもまったく語られたことがないのですが(もちろん歴史学者や歴史小説家も知りません)、その宮中行事の中心に、平安末期から鎌倉時代初頭にかけて、和歌の第一人者となる藤原俊成(藤原定家の父、当時19歳で藤原顕広という氏名だったのでほとんど気づかない)がいました。これは某(それがし)の日本史上での大きな発見だと自負しております。
この時、俊成が加賀守(今の石川県知事のことで、6年間今の小松市古府町付近にあった加賀国国府に赴任していた)として、能登守(もちろんこれも今の石川県知事)とともに、このドラマの主題となった「殿上の闇討ち」事件が起こっていた表舞台の殿上で行われている「豊明節会(新嘗祭)」の最重要な幹事役(4人で構成)をつとめており、能登守ともに節会のハイライトである「五節の舞」の4人の舞姫のうち2人を提供しておりました。これは、『中右記』(長承元年11月20日~23日条)その他で確認できます。
また、この事件の40年前の寛治6年ごろまで、平正盛が 、加賀国国府に在庁官人の検非違使(今日の石川県警本部長・金沢地方裁判所長・金沢地方検察庁長官にあたる)として実際に赴任していました。永長2年(1097年)年に平家が所領を六条院に寄進し、日本史の表舞台に登場するわずか5年前です。これは、『平家物語』「南都牒状」や『為房卿記』(寛治4年~5年条)その他で確認できます。
投稿: 藤原知行 | 2012.02.05 13:54
藤原知行さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
そうですか、藤原俊成は殿上闇討事件の目撃者だった可能性が高いのですか。
貴重な情報の提供をありがとうございます。
この記事はあくまでドラマのレビューとして書いており、
ドラマの展開に沿った部分しか扱っていませんが、
こうした事実も知っておくと、よりドラマを楽しむ事が出来る事でしょうね。
勉強になりました。
投稿: なおくん | 2012.02.05 21:36