平清盛 人食い地蔵 ~積善院準提堂~
聖護院の塔頭に積善院準提堂という寺があります。本寺に隣接し、ほとんど境内地にあると言っても良い位置関係にありますね。節分の懸想文売りで有名な須賀神社とは向かい合わせの関係にあり、2月23日に五大力尊法要が行われる事で知られます。
元は積善院と準提堂という別々の寺だったのですが、維新後の廃仏毀釈の際に合併し、現在の名称となりました。敷地は積善院の故地ですが、この本堂は準提堂から移築したものなのだとか。こんな具合に、廃仏毀釈によって合併を余儀なくされた寺は幾つもあり、当時の混乱ぶりが窺える様な気がします。
さて、その積善院準提堂にあるのが人食い地蔵、保元の乱によって都を追われた崇徳上皇の霊を慰める為に祀られたお地蔵様です。
戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐の地に流刑となり、木ノ丸殿に幽閉されてしまいます。誰一人訪ねて来る者も居ないまま、孤独の中で暮らしつつも前非を悔いた上皇は、父である鳥羽上皇の霊前に供えるべく5巻に及ぶ写経を認めて都に送ります。しかし、受け取った後白河上皇は呪詛が込められているのではないかと疑い、そのまま送り返してしまったのでした。あまりの仕打ちに恨み骨髄に徹した上皇は、我れ都を呪う鬼とならんと写経の全てに血文字で記し、幽鬼のごとくになり果てて亡くなりました。
やがて、都は天変地異に襲われて飢饉が蔓延し、栄華を極めた平清盛も熱病に苦しみながら亡くなってしまいます。人々はこれは崇徳上皇の祟りだと恐れおののき、後白河上皇は崇徳上皇の霊を慰めるべく、その死から四半世紀後に粟田宮という神社を建てました。今は存在しませんが、聖護院の森、今の京大病院の辺りにあったと言われます。ここは、保元の乱の激戦地でもあったのですね。
粟田宮は何度となく火事や洪水によって失われましたが、その都度建て直されていた様です。しかし、江戸時代に入る頃にはすっかり無くなってしまい、わずかにご神体を祀った祠だけがあった様ですね。その祠にいつしか祀られたのがこの地蔵様だった様です。
初めは崇徳院地蔵と呼ばれていたのですが、何しろ名にし負う怨霊相手ですから、次第に「すとくいん」が訛って「人食い」と呼ばれる様になったのだとか。いかにもという謂われではありますね。
この地蔵がなぜ積善院準提堂にあるのかは判りませんが、たぶん付近一帯に京大が建設されるにあたり、移転させる必要があった地蔵堂を近くの寺が引き取ったという事ではないでしょうか。
この崇徳上皇の和歌が百人一首に収録されています。
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
落語「崇徳院」のモチーフになっている事でも有名ですが、およそ怨霊のイメージとはかけ離れた風雅な歌ですよね。こんな人を怨霊とさせてしまった当時の社会情勢、そして周囲の人々の心なさを思うと、このお地蔵様に込められた都人の願いが伝わってくるような気がします。
なお、今回の記事を書くにあたっては、下記のサイトを参考にさせて頂きました。とても詳細な考証をされており、興味深い記事でしたよ。
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