平清盛 保元の乱古戦場 ~白河北殿跡~
平安時代の末期、鳥羽法皇の死後の政局を巡って、朝廷を二分して争われた戦いが保元の乱でした。天皇家、摂関家、それを取り巻く公家たち、そして武士が二つの勢力に分かれて覇権を争ったと言われます。
天皇家では後白河天皇と崇徳上皇、摂関家が関白の忠通と左大臣の頼長がそれぞれ対立関係にあったのですが、これらはどちちらも実の兄弟でした。そして武士では、源氏は義朝が後白河天皇側に付き、父の為義と為朝ら5人の兄弟が崇徳上皇方に付きます。平家は清盛と大半の一族が後白河天皇側に付き、叔父の忠正一人が崇徳上皇方に付きました。
こう書くといかにも両軍の勢力が拮抗していた様に見えますが、鳥羽法皇から権力を継承して公に軍勢を動員できた後白河天皇の側が圧倒的に優勢で、摂関家の私兵だけで戦わざるを得なかった崇徳上皇側の劣勢は戦う前から明らかでした。
この中で去就が注目されていたのが清盛で、彼の父の忠盛は崇徳上皇の後見を務めた事があり、彼の義母である宗子は上皇の皇子である重仁の乳母であったからです。しかし、清盛は美福門院(鳥羽法皇の皇后)の招きに応じて後白河天皇の陣営に入り、宗子もまた上皇方の敗北を予見して、実の息子である頼盛に天皇方に付くように勧めたのでした。
この乱は、後白河天皇方が、崇徳上皇方を挑発する事で誘発した戦いと言われます。鳥羽法皇にないがしろにされていた崇徳上皇は、法皇の死後に権力を取り戻そうと願っていた事は確かですが、独力で戦を起こすただけの力は持っていませんでした。つまり上皇側には、乱を起こす意思は一切無かったという事になりますね。
また、頼長についても同様で、父の基実の寵愛を受けて一時は兄の忠通をしのぐ勢いすを示した彼も、そのあまりに鋭い政治手腕が災いして朝廷の中で孤立し、さらには忠通の巻き返しを受けてすっかり力を失っていたのです。しかし、巧みに謀反の疑いを掛けられて官位と領地を没収されてしまい、ついには挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたのでした。
崇徳上皇は挙兵については何の準備もしておらず、これも俄に挙兵した頼長に旗頭として担ぎ上げられた格好になってしまったのですが、準備万端を整えていた後白河天皇側から見れば、まさに罠に填まった姿と映った事でしよう。
戦いがあったのは、保元元年(1156年)7月11日の事でした。崇徳上皇は、白河法皇の御所があった白河北殿に籠もっていました。対する後白河天皇は、高松殿を根拠地としていました。上皇方に居た源為朝は、小勢が多勢に勝つ為には夜討ちしかないと主張したのですが、頼長は若年の為朝の意見を軽く見て、これを退けてしまいます。彼には王家の戦いに夜討ちはふさわしくないという思いがあったとも言い、また別には興福寺の援軍が来るという期待があったとも言われますが、結果としてこの事が敗因とみなされる様になります。
一方の高松殿では、義朝がやはり夜討ちを主張していました。後白河天皇方の軍事を主導していたのは信西なのですが、彼は勝つ為の実戦的な戦術としてこれを許可しました。こうして本来は劣勢な側が起こすべき夜襲を、優勢な側が行うという形で戦いは始まります。天皇方が夜襲を仕掛けてくると知った為朝は、これこそ私が恐れていた事だと言って頼長を誹ったと言いますが、失われた戦機は戻って来ませんでした。
この時、清盛はちょっと面白い行軍の仕方をしています。高松殿から白河北殿は真東の方向にあったのですが、暦からその日は東が塞がりになると知った清盛は、方違いを行うために一度軍勢を南に向けて進め、三条のあたりで鴨川を渡り、その東岸を白河北殿に向かって北上したのでした。彼が最初に布陣したのが二条河原の東、堤の西と言われます。今の夷川発電所があるあたりでしょうか、ここを守っていたのが為朝でした。
為朝は、劣勢な上皇方にあって超人的な働きを示しています。最初に襲いかかって来た清盛の郎党である伊藤六を鎧の上から射通して倒し、山田小三郎伊行という剛の者もまた弓のひと射ちで倒してしまいます。あまりの強弓に恐れをなした清盛は早々に陣を引き払い、別の門に向かったと言われます。彼の嫡男である重盛は、父親の弱腰に業を煮やして為朝に向かおうとしますが、郎等たちに引き留められてしまいます。
為朝は、次に襲ってきた義朝の軍勢も射すくめて寄せ付けず、彼の奮戦もあいまって上皇方は善戦を続けました。時間を掛けていては、それこそ興福寺の援軍が来てしまうと焦った義朝は、火攻めを朝廷に上申します。近くには法勝寺などもあり、一度火を掛ければ広範囲に被害が及ぶ事が想定されたため、独断で行う事を恐れたのでした。
高松殿でこれを聞いた信西は、法勝寺などは後白河天皇が健在であればすぐに再建出来るとして、直ちにこれを許可します。勅許を得た義朝は白河北殿の西隣にあった屋敷に火を付けたところ、折からの西風に炎があおられて白河北殿に燃え移りました。拠って立つべき拠点を失った上皇方は敗走し、戦いは天皇方の勝利に終わっています。
写真は、一番上が白河北殿の跡地を示す石碑で、京都大学の熊野寮の北西隅にあります。次は琵琶湖疎水にある夷川発電所の貯水池で、白河北殿の南限がこのあたりにありました。また、清盛が最初に戦ったのはこの付近ではないかと推測されています。最後の写真は、今の鴨川二条河原の様子です。当時は鴨川の河原はずっと広かったと思われますが、為朝が奮戦したのはこのあたりだったのでしょうか。
今は平和な景色が広がるだけであり、この付近一帯が保元の乱の激戦地だったとはほとんどの人が知らない事でしょうね。保元の乱の戦跡は京阪の神宮丸太町駅からも近くにあり、訪れてみるにはもってこいの場所ですよ。ドラマの展開に合わせて、一度見に行かれてはいかがですか。
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