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2012年1月

2012.01.31

桂の木の下で 2

Katura1202031

1からの続きです。予定より早く書き上がったので、土曜日ごとと言わず、続けてアップして行きます。)

一年が経ち、年長組になると小さな変化があった。

年長組になって最初の日も、相変わらず送迎バスは一番乗りだった。いつもの様に指定席に座ると、いつものようにバスは走り出す。大通りから左折して神社を南側に迂回すると、やがて大鳥居が見えてくる。先月までは右折して素通りするだけの場所だったのだが、この日は違っていた。道の角に見慣れない女の子と母親が立っていたのである。

「今日からやね。」

と先生が運転手さんに言うと運転手さんはうなずき、バスを女の子たちの前に止めた。先生と母親の間で、

「おはようございます。」

「よろしくお願いします。」

というあいさつが交わされた後、女の子がバスに乗ってきた。

「どこに座っても良いよ。」

と、私の時と同じように先生が言うと、彼女は私の前の席に座ろうとした。

「その席は、」

と先生が言いかけたのだが、

「今日からは満席になるから良いよ。」

と運転手さんが遮った。3月まではわずかに余裕のあった送迎バスも、この4月からは満席になったのである。そして、そのままバスは走り出した。

これまで遮るものが無かった私の視界の中に、彼女の後ろ姿が入ってきた。とても小柄な子ではあるが、たぶん同い年だろうと感じた。彼女の髪は、肩のあたりできれいに揃えられていた。とても細い髪で、きめ細やかに見えた。時にバスが東に向かうと、朝日が正面から差し込んでくる。その光が彼女の髪を透かせて黄金色に染めた。シルエットになった細いうなじと黄金色の髪と、私は何か不思議なものを見ている気がした。

幼稚園に着くと、うれしい驚きが待っていた。あの西山君が同じ組になっていたのである。これでもう休み時間に仲間を捜して歩かなくて済むと思うと、それだけで嬉しかった。

女の子では、吉田さんは隣の組となったが、大仏さんはまた同じ組だった。彼女は私を見ると近づいてきて、良かったねと言ってくれた。私もまた、からかい相手が居てくれる事は嬉しかった。

そして、もう一つの驚きがあった。今朝私の前に座った女の子が、同じクラスに居たのである。最初の時間に、先生が彼女を転入生として紹介した。私は彼女が鎌倉から引っ越してきたのだと知った。

鎌倉という町には、大仏があると聞いていた。また、東にあるという事もおぼろげながら知っていた。鎌倉についての知識はそれくらいでしかなかったのだが、彼女の言葉はとても新鮮に響いた。まったりした京言葉の中で育った私にとって、歯切れの良い彼女の関東弁は別の世界の言葉の様に感じられたのである。

彼女の名前は、正直言って覚えていない。それどころか、顔の記憶も無い。それはある時期、懸命に忘れようとしたからであるが、完全に記憶を消し去る事は出来なかった。そして、年とともによみがえり、今では彼女の言葉や声までも思い出す事が出来るのだが、どうしても顔と名前は出てこない。やむなく、ここでは亜紀ちゃんという名にしておく。

亜紀ちゃんは風変わりな女の子であった。それとなく様子を見ていたのだが、他の女の子たちと話をしようとせず、いつも一人で過ごしている様だった。その姿は寂しそうでもあり、平気な様にも見えた。暫くたった頃、私はお節介にも彼女に近づき話しかけてみた。

「ねえ、何で一人で居るん?遊ぼうと言ったら、みんな一緒に遊んでくれるよ。」

亜紀ちゃんの答えは、しかし、とても意外なものだった。

「放っておいてくれる?私はこの人たちとは遊びたくないの。」

思いのほか強い調子の彼女の言葉に私はたじろいだ。可憐な女の子に見えたのに、こんなに気の強い女の子だったのか。しかし、たじろぎながらも私は言葉を続けた。

「寂しくないん?」

「私は一人が良いの。」

ここまで強い拒絶に会ったのは初めてだった。どうしよう、もうこの子に話しかけるのはやめて離れようかと思っている私に意外な言葉が待っていた。

「それとも、あなたが私と遊んでくれる?でも、他の女の子と遊んじゃだめ。口も利いちゃだめ。その代わり、私もあなたとだけ遊ぶ。それでどう?」

思わぬ提案に、大仏さんや吉田さんの顔がよぎった。この子はいったい何を言い出すのだろう。他の女の子と口を利くなとはどういう事? 訳のわからぬ事を言うこの子と関わるのは止めた方が良い?様々な思いが忙しく私の頭の中を巡った。

しかし、亜紀ちゃんへの好奇心が捨てられないた私は、少しずるい考えを持った。いつも彼女が見張っている訳でもあるまいし、他の女の子とは彼女が居ないところで話しをすれば良いじゃないか。ここは彼女の言う事を聞くふりをしておけば仲良くなれるチャンスだ。

一瞬の間に考えをまとめた私は、

「ええよ。」

と亜紀ちゃんに答えた。そう言いながら、大仏さんたちに後ろめたい思いがよぎった。

「わかったわ。じゃあ、私の家に遊びに来て。でも遊ぶのは家でだけ。幼稚園では話しかけないで。」

何から何まで変わった提案に私はとまどうばかりであった。

「家って、どこにあるん?」

「私のバスの乗り場は知っているでしょう?鳥居の前から、下に数えて3軒目が私の家よ。」

「今日、行ってええの。」

「幼稚園から帰ったらすぐに来てちょうだい。もう私に話しかけちゃだめよ。」

そう言い終わると亜紀ちゃんは背を向けて向こうに行ってしまった。

家に帰ると、私は母に新しい友達の家に行って来ると告げた。母は珍しい事もあるもんだと言ったが、特に咎める事もせず、ただ行き先だけを聞いた。私が神社の向こうの家と答えると、そう遠くない場所と安心したのか、気をつけて行くんやでと送り出してくれた。私は幼稚園の制服のまま家を出た。

大鳥居に行くには神社を横切らなくてはならなかった。家から見える北の鳥居をくぐり、短い階段を下りるとすぐ左手に本殿が見える。その本殿の塀に沿って真っ直ぐ進むと、やがて階段の上に南の楼門が見えてくる。大鳥居はその楼門を潜った先にあった。

いつもバスで通る坂道を歩いて下る。坂の一番上は大きな料亭である。その長い壁がつきるところに、出格子の付いた二階屋があった。その隣は、白い塀で囲まれた料亭風の建物だった。その隣も同じような造りで、その家の玄関には暖簾が掛かっていた。暖簾の無い方が亜紀ちゃんの家だろうと見当を付けて、小さな階段を上がり格子戸を開けた。

格子戸の向こうにもまた階段があり、その先には庭が広がっていた。庭には植え込みがあり、灯籠があった。その庭を取り囲む様に洒落た建物がコの字型に建っていた。庭に面しては大きな窓になっていたが、どこも雨戸が閉まっていたのでどこか暗い印象がした。

一見して入り口が判らなかったが、左手に小さな格子戸があったので、そこを開けてみた。中は玄関になっていて、その奥がこぢんまりとした和室になっていた。そこには誰も居なかったが、右手に襖がありその奥から何人かの子供の声が聞こえてきた。気がつくと、足下の靴脱ぎに小さな靴がいくつも散らばっている。あれっ、と思いながら亜紀ちゃんの名を呼ぶと、少しの間を置いて、襖の向こうから彼女が現れた。

「いらっしゃい。こっちへ入って。」

亜紀ちゃんに招かれるままに玄関を上がり、襖の入り口を入った。すると、次の部屋で何人もの男の子が思い思いに遊んでいた。どの子も幼稚園で見た顔である。ただ、仲の良い子は一人も居なかった。彼女はそのまま部屋を横切り、向こうの襖を開けて

「こっちへ来て。」

と私を呼んだ。その部屋に入ったのは私一人だった。私は思わず亜紀ちゃんに言った。

「二人で遊ぼうという事やなかったん?何であんな子たちが居るん?」

それには答えず、

「ちょっと待って。」

と亜紀ちゃんは襖を閉めて、隣の部屋に戻って行った。そして、男の子たちに向かって、

「さあ、あの人が来たから帰って。」

と言って追い出しに掛かった。男の子たちはぐすぐすしている様子だったが、

「約束でしょう。早く帰って。」

と亜紀ちゃんが強い調子で言うと、仕方なしといった感じで帰っていった様だった。

「さあ、何して遊ぶ?」

部屋に戻ってきた亜紀ちゃんは、事も無げに言った。私はちょっとたじろぐ思いがした。亜紀ちゃんに興味を持った子は、私一人ではなかった様だ。その中から亜紀ちゃんは私を選んだらしい。それは意外でもありうれしくもあったが、あんな強い調子で物を言えるなんて信じられなかったのである。

「帰してしまって良いの?」

と私は亜紀ちゃんに聞いてみた。

「知らないわ。駄目と言っているのに、どうしても言うから来てもらっただけ。でも、あなたが来るまでよと言ってあったから大丈夫。」

まだ驚いている私の後ろに、亜紀ちゃんのお母さんが現れた。

「あなたが言っていたのはこの子?」

「そう。」

「判ったわ。でも、もうあんなに沢山呼んじゃ駄目よ。」

「判ってる。もう来ないように言っておいたから。」

「じゃあ、仲良くしてあげてね。」

お母さんは最後に私にそう言うと、また奥の部屋に戻って行った。

事情が良く飲み込めないまま、私たちは家の探検から始める事にした。家がコの字型になっているのは外から見たとおりである。後から考えれば、料亭用に造られた貸家だったのだろうけど、当時の私にはとにかく変わった家に思えた。

玄関にあった部屋は、部屋の準備が出来るまで待つための待合だったのだろうか。その隣に子供たちが遊んでいた部屋と私が通された部屋があり、さらに奥にお母さんの部屋があるらしかった。これが北側の棟の間取りである。

南側の棟は客室だったのだろう。長い廊下に面して畳の間が三部屋ばかりあり、廊下とは襖で仕切られていた。どの部屋もがらんとして中には何も置かれてはいなかった。そして、外から見たとおり、大きなガラス戸が庭に面して嵌められていたが、どこも雨戸が閉めてあるので中は薄暗かった。

どこにも明かりが無い中で、コの字の縦線にあたる部分に坪庭があり、唯一の明かり取りになっていた。このため、坪庭の周辺だけが薄明るく、その明かりが南の棟の中をわずかに照らしているのだった。

坪庭の横には階段があり、二階に上る事が出来た。二階も客室用の造りになっており、似たような部屋がいくつかあった。薄暗さは南の棟以上であり、その薄気味悪さが子供心にはおもしろく感じられた。

その後、何度かこの家に行ったが、その都度二階に上がりかけてはわざと怖がるという遊びをした。亜紀ちゃんも自分の家なのに、一緒になって怖がってくれた。

階段の下は物入れになっており、開けようとしたらお母さんに怒られると言って亜紀ちゃんに止められた。ここも秘密の部屋として、二人の遊び場となった。

亜紀ちゃんに父親は居なかったらしい。一度も父親の話は出たことが無く、家にも父親がいるらしい気配は無かった。はっきりと聞いた訳では無いけれども、たぶん母子家庭だったのだろうと思う。

お母さんは、いつも家に居たらしい。と言うのは、私が行ってもほとんど姿を見せなかったのだ。見かけたのは最初の日と最後の日、そしてあと一度は何時だったか、部屋に掃除機を掛けている姿だった。当時、掃除機はまだ珍しく、私の家にも無かった。これを見たとき、亜紀ちゃんの家はきっとお金持ちなんだなと思った記憶がある。ただ、姿は見えないけれども、いつも奥の部屋に居る気配は感じられた。

親がその場に居ないのを良いことに、良く磨かれた廊下をスケート場よろしく、靴下をはいて滑るという遊びも良くした。これをすると、足の裏が妙にくすぐったくて、気持ちが良かったのである。

今思えば、亜紀ちゃんは女の子らしい遊びをしようとは一度も誘わなかった。大抵は私が遊びを提案すると、すぐにそれに乗ってくれた。男勝りなところがあったのだろう、女の子ではなく、男の私を遊び相手に選んだ訳はここにもあったと思う。

以下3に続きます。

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京都・洛中 御会式桜 ~妙蓮寺1.28~

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妙蓮寺の御会式桜の開花が進んでいます。1月28日現在でどんなものだう、4分咲き位になっているでしょうか。

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もっとも、冬の間中咲き続けて、4月上旬に満開になるという桜ですから、これから一気に開花が進むという事は無いはずです。見方を変えれば、そこそこ見応えのある今の状態がずっと続くという事になるのかも知れませんね。

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難点は本堂の改修工事が行われており、仮覆いのせいであまり見栄えがしないという事ですね。仮覆いのせいで割を食っているといえば妙蓮寺椿もそうです。すっかり日陰になっており、片隅に追いやられているという印象でしたね。

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それでも花を咲かせているのはさすがですが、相変わらず鳥の害はあって、程度の良い花はほんとんど見当たりません。やっと見つけたのがこの花ですが、ちょっと小ぶりでしたか。

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境内のそこかしかでは、水仙が咲いていました。秋の彼岸花と言い、四季を通じて境内を花で埋めようとしているのかも知れないですね。既に芙蓉の寺として知られていますが、さらに花の寺として進化してくれれば、とても嬉しい事だと思っています。

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2012.01.30

京都・洛東 椿2012 ~常林寺 1.28~

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萩の寺として知られる常林寺ですが、この時期は綺麗な椿が咲いています。数は少ないのですけどね、結構楽しみにしているのですよ。

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本堂の前で咲いているこの花は、たぶん雪中花でしょうか。この上品な色合いが好きで、お気に入りの花の一つなのです。

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庫裏の入り口にあるこの椿は京鹿子かな。奥まった場所にあるので見付けにくい事が難点ですが、これも綺麗な花ですよ。

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子育地蔵の前では、蝋梅が咲いていました。今の時期、香りに誘われて見つけるとうれしくなる花ですね。

ぱっと見、何も無い境内なのですが、ちょっと探せばこんな花たちが隠れています。出町柳に行かれる事があれば立ち寄って見られてはいかがですか。

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2012.01.29

平清盛 第4回 「殿上の闇討ち」

(長承元年、院の北面の武士となった清盛。流鏑馬の稽古に励む武士達。見事にこなす佐藤義清。上手く射る事が出来ずに失笑を買う清盛。)

(待賢門院の供の支度を命じられる清盛達。その支度とは、顔に白粉を塗る事でした。唖然とする清盛。)

(待賢門院が和歌を詠う場を、警護する清盛達。武士達に歌の感想を求める女院。そつなく答えていく同僚に比べて、とんでもない答えをして叱責を受ける清盛。見事に添削して見せる義清。)

(あまりに武士らしくない勤めに、荒れる清盛。女院に気に入られる事で出世の糸口を掴みたいと願っているのだと義清。)

(鳥羽上皇の寝所。璋子に帝を産んだ事を詫びて欲しいと頼む上皇。私が悪かったと素直に謝る璋子。そなたという女はと、涙して寝所を出て行く上皇。あっけにとられている璋子。なぜ否定しないのかと女院を咎める堀川局。私がここに射るのは后の勤めゆえだと女院。)

(白河院の呪縛に思い悩む上皇に、得長寿院を献上した忠盛。心を癒してくれる忠盛を信頼し始める上皇。)

(家盛と弓の稽古に励む清盛。共に父と同じ様な立派な武士になりましょうと家盛。忠盛は正四位下という、武士にしては破格の官位を得ていました。出世の果てに何があると否定的な清盛。そこに転がり込んできた郎党の家貞。)

(忠盛の屋敷。忠盛が殿上人となった喜びに沸く一族郎党達。我が事のように父を祝福する家盛。促されて、上辺は父を祝福する清盛。清盛が北面の武士となり、王家への忠義を示したからこそだと家貞。家成から祝いの席を設けると言われている、お前も来いと言われ、不自然に笑いながら同意する清盛。顔を崩して祝福に現れた忠正。大宴会となる忠盛邸。)

(鱸丸から自分の郎党達が無事に西海に帰った事を聞き、安堵する清盛。忠盛が殿上人となった事を聞き、祝福する鱸丸。腹が満たされる程に空しくなっていくと清盛。)

(忠盛の出世を聞き、酒を呑んで荒れている為義。源氏が平家に遅れを取ったのは父が不甲斐ないからだと矢を向ける義朝。そのとおりだと悄然となる為義。顔を歪めて出ていく義朝。)

(忠盛の昇殿に異を唱える忠実。忠実を復職させたのは、白河院の勢力を一掃するためだ。藤原摂関家の天下をほ取り戻す機会などと思ってはいけないと釘を刺す上皇。意趣を含んだ様子の忠実。)

(宴の場に現れた忠盛。並み居る貴族の中で快く迎え入れるのは家成ただ一人。父に従って来た清盛。彼はまだ地下の身なので、庭に座ります。そこには徳大寺家の家士として、義清も来ていました。その場に忠実と忠通が現れ、畏まる人々。)

(忠実以下の人々に忠盛を紹介する家成。殊勝にあいさつをする忠盛。藤原摂関家が出る場に、伊勢平氏風情が連なるとはと嫌味を言う忠通。帝も上皇も昇殿を認めているのだと家成。上皇の心弱りに付け込んだ寄進で世に出ただけだと忠通。忠通を遮り、家成の言うとおり、武士でありながら昇殿を許されたのは才を認められての事だろう、では舞なと見せてくれと忠実。その言に従い舞い始める忠盛。)

(忠盛の舞を褒める義清。ところが、伶人達が出鱈目な演奏を始めます。あらかじめ忠実が手を回してあったのでした。音楽と合わずとまどう忠盛に、周囲から酒が浴びせかけられます。何事かといきり立つ清盛を押さえて、ここで行われているのは政だと諭す義清。懸命に舞っていた忠盛ですが、ついには酒に足を滑らせて尻餅をついてしました。あまりの事に、それくらいで良いでしょうと声を荒げる家成。殊勝にさらなる精進を誓う忠盛。悔しがる清盛。)

(豊明節会に出るべく支度をしている忠盛。)

(為義を呼び、今夜は忠盛が内裏の渡り廊下を一人で渡る事になる、源氏の誇りを取り戻すが良いと闇討ちを示唆する忠実。)

(出かけようとする忠盛に宋の国の剣を差し出し、これを腰に差して寄らば切るの気構えをもって昇殿してくれと詰め寄る清盛。殿上での帯刀は禁じられていると言い、飾り刀で行くと答える忠盛。父上は武士としての誇り、心の軸を失ってしまった、ただの王家の犬だと罵り、飛び出していく清盛。)

(河原で寝転がって剣を弄んでいる清盛。そこに現れた義朝。北面の武士なら暇を惜しんで鍛錬しろと叱りつける義朝。そんなに良い所ではないと清盛。北面の武士とは言っても大した志は持っていない、その果てが父、忠盛だ、情けない男になってしまうだけだと吐き捨てる清盛。その清盛に駆け寄って殴り飛ばし、父が殿上人である有り難みが判らぬのかと怒鳴りつける義朝。反対に馬乗りになり、見たくもないものを見せられる情けなさが判るのかと殴り返す清盛。肩で息をしながら座り込む二人。父を取り替えるかと義朝。)

(そこに駆け込んできた源氏の郎党の通清。かれは為義が忠盛を斬るつもりらしいと伝えに来たのでした。何、と飛び起きる清盛。)

(内裏。家貞と目配せをして中に入る忠盛。忠盛を討つべく待ち伏せをする為義。忠盛を救うべく駆ける清盛。)

(内裏で、忠盛を一人にすべく誘導する忠実の家人。一人、薄暗い廊下を行く忠盛。その背後から現れた為義。その気配に気付き、殿上での帯刀は御法度だと声を掛ける忠盛。意表を突かれた為義。)

(法に背いて自分を討っても源氏は報われないと忠盛。忠実が盛り立てて呉れると為義。人を頼っていては当てが外れると忠盛。自分の父は正盛に討たれた、今度は自分がお前を討つ、そうしなければ義朝は永遠に浮かばれないと為義。その様子を陰で見ている義朝と清盛。飛びだそうとする清盛を押さえる義朝。)

(斬りかかった為義を倒し、抜刀して突きつける忠盛。それは本身ではないかと為義。忠実には、忠盛が抜刀したゆえ斬れなかったと伝えるが良いと忠盛。そう伝えれば忠盛も唯では済まないぞと為義。ここで斬り合えば源氏の平家も終わりだ、どちらが強いか試すのは、もう少し先にのばせないかと忠盛。いぶかる為義に、その勝負は武士が朝廷に対して十分な力を持ってからにしたい、私は王家の犬では終わりたくないのだと言い捨てて立ち去る忠盛。貫禄負けした為義。)

(何事も無かったように、節会の席に着いた忠盛。その忠盛を見て、太い男だと忠実。打ちひしがれている為義。そこに現れた義朝に、また忠盛にしてやられたと謝る為義。父がやられた分は自分がとりかえすと義朝。自分が強くなって父を守ると義朝。それほど老いてはおらぬと為義。陰で涙する通清。)

(翌朝、都大路のとある門に差し掛かった忠盛は、そこで寝ている清盛に気付きます。いつからそうしていたのかと問う忠盛。父こそ、いつから王家の犬で終わりたくないと考えていたのかと清盛。それはお前を育てると決め、平太と呼んだ時からだと忠盛。照れ隠しに、殿上で抜刀などして、為義が告げ口でもしたらどうするつもりだったのかと食い付く清盛。為義は告げ口などしない、それに帯刀などしていないと言って太刀をぬいて見せる忠盛。それは銀箔を貼った木刀でした。新入りの殿上人は嫌がらせを受けるものと言って、家貞が考えて呉れたと忠盛。しかし、まさか為義が本気で斬りに来るとは思わなかった、ひやひやしたと哄笑する忠盛。ほっとする清盛。)

(殿上はお前が思うよりも面白いところだと忠盛。いい加減な事を言ってと哄笑する清盛。)

今回の冒頭の流鏑馬のシーンは、糺の森でロケが行われたのですね。まだ木々が緑なので、夏から秋にかけての頃かと思われますが、これは是非見たかったなあ。葵祭において、糺の森で流鏑馬が行われるのは周知のとおりですが、それを踏まえてのロケだったのでしょうね。

今回は平家物語にある殿上闇討の段に沿ってストーリーが展開しました。まず、忠盛が得長寿院を寄進した事により殿上人となって事は前回にも書いたとおりですが、これは平家物語にも書かれている事です。この時、忠盛は但馬国を与えられて但馬守となっているのですが、殿上人になったのはそれに加えての事でした。余程鳥羽上皇の琴線に触れる寄進だったという事なのでしょうか。

次に、忠盛が昇殿を許された事を快く思わない殿上人が闇討ちにしようとした事も平家物語にあるとおりですが、ドラマの様に忠実が為義を唆した訳ではなく、また名前までは記されていないので、誰が企んだ事なのかまでは判っていません。

これを聞いた忠盛が銀箔を貼った木刀を用意したのはドラマにあったとおりで、平家物語ではもっとあけすけにこれを使っており、わざと人前でこれを抜いて見せ、髭に当てて切れ味を試すという様なパフォーマンスを展開しています。そして、夜になるとかがり火の明かりが刀に反射して、さながら氷の刃の様だったと記されています。

一方、ドラマではこれを考案しただけとされていた家貞ですが、平家物語においては袋に入れた太刀を持って、殿上の小庭に潜むという大胆な事をしています。当然見とがめられて退出を命じられるのですが、彼は主人が闇討ちにされると聞いたので、それを見届ける為にここにいる、だから出て行く訳にはいかないと言って動きませんでした。事ここに至って、闇討ちを計画していた殿上人たちは実行を諦めたとあります。

忠盛が辱めを受けたのはこの後の事で、ドラマの様に舞を邪魔されたのではなく、もっと陰湿なやり方でした。まず、忠盛は生まれついての斜視で、これを眇(すがめ)とも言います。次に、平氏の本国は伊勢で、伊勢平氏とも呼ばれていましたが、この国で出来る瓶子(へいし)は粗末な物が多く、酢の入れ物程度にしか使われていませんでした。つまりは酢瓶(すがめ)ですね。

これをひっかけて、忠盛の前で、伊勢のへいしはすがめなりとはやし立てたのです。表の意味は伊勢の国の瓶子は酢瓶だと言っている訳ですが、その実は忠盛が斜視である事を当てこすっているのですね。何とも手の込んだ揶揄ですが、こういう事をさせたら当時の殿上人は天才的でした。これはまた悪しき伝統であり、昔から新入りの殿上人は、こうした嫌がらせを受けてきたのでした。

ドラマの忠盛は平然と受け流していましたが、平家物語においてはあまりの辱めに耐えられず、節会の途中で退席してしまってまいす。そして、皆で見ている前で女官に差していた太刀を預けて帰るという事をしました。

後日、殿上人達は、節会の席に太刀を持ち込んで抜刀までした事、また庭先に郎党を潜ませていた事は法度に触れると言いだし、忠盛の没官を要求します。これに対して忠盛は、預けて置いた太刀を取り寄せて、その場で抜いて見せました。これは前述のとおり銀箔を貼った木刀だった訳ですが、鳥羽上皇は忠盛の用意の良さに感心され、郎党が潜んでいた事についても武門の習いだとして咎める事はしませんでした。

ドラマと平家物語を比べるとこんな感じで、上手い具合に物語をなぞりながら、ドラマを展開させていた事が判ります。ただ、あれでは為義が可哀想過ぎるのですけどね、このドラマにおいてはそういう役回りを与えられてしまったのでしょう。

ドラマとしては、忠盛の大きさが際だった回でした。清盛もまた忠盛の真意に気付き、その意に服する様になった様ですね。なかなか格好良い父親ぶりだったのではないでしょうか。この時忠盛は36歳ですから、ちょっと貫禄がありすぎるという気もしますけどね。

次回は忠盛が海賊退治を命じられる様です。これも実は前回に書いてしまっており、どうも先走りすぎている様ですね。でも、どこまで史実に沿って来るかは判らないものなあ。

海戦のシーンは、前宣伝では最も力を入れたと言っていたところなので、どれだけ迫力のあるシーンが見られるか楽しみにしているところです。


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2012.01.28

桂の木の下で 1

(ちょっといたずら書きをしてみました。京都を舞台にした創作です。これから毎週土曜日に随時掲載しますので、もしよろしければ読んで下さい。なお、言うまでもありませんが登場人物、舞台設定等は全てフィクションです。また、写真もイメージで内容とは直接の関係はありません。)

Katura1201281

5月に現れる緑の海。

窓枠一杯に広がった新緑は、風が吹くと潮騒のようにざわめいた。ゆらゆらと揺れる葉がさざ波の様に輝いて見えるのは、葉の裏が白いせいだろう。私は風が薫る季節に、二階の窓から桂の木を眺めるのが好きだった。

桂は大樹である。時に一本で大景観となる。京都に縁の深い木で、葵祭の木として知られ、市の木にも選ばれている。この桂の木が、東山の私の生家の前にもあった。

桂は公園の木だった。しかし、生家は細い道を隔てて公園に接しており、ほどんど地続きと言っても良かった。このため、桂は庭に生えている様なものだった。

樹高は20mほどもあっただろうか、四方に枝を伸ばした姿は雄大だった。しかし、枝はどれも曲線的で、むしろ女性的な優美さを持っていた。冬枯れの頃、雪が積もるとその曲線美が際だち、そこに西日が差すと神々しくすら感じた。

春になると、もみじに少し遅れて芽吹き始め、5月には美しい新緑となる。二階の窓から見た景色が緑の海となるのはこの頃だ。

夏になると沢山の蝉が寄って来る。とりわけクマゼミが多く、夏の朝はうるさいほどの大合唱となる。午後になると主役はアブラゼミに代わり、気怠い鳴き声となって行く。夏休みの間、私は蝉の声で時間の経過を感じていた。

桂に秋が来るのは早い。大文字の送り火が過ぎ、8月も20日を過ぎる頃になると葉が黄色く染まりだす。地蔵盆の頃にはかさかさに乾いた葉が散り始め、夏休みが終わりに近づいた事を教えてくれた。

桂は不思議な木で、普段は何の香りもしないが、枯葉になると特有の甘い香りを出す。子供の頃の私は桂の落ち葉を踏みしめながら、夏休みが終わってしまうという淡い悲しみとともに、この香りを感じていた。そのせいもあってか、実はこの香りにあまり良い印象は無い。

この物語は、そんな桂の木の下であった、遠い日の記憶である。

Katura1201282

昭和39年、4月。私は幼稚園の年中組に入園した。

私の通った幼稚園は、東山の山懐にあった。生家とはごく近く、直線で結べば300mも無かっただろう。しかし、山懐にあるため真っ直ぐな道などは無く、坂道を上り下りしながら、大きく迂回しなければたどり着く事はできなかった。大人ならともかく、幼子が毎日通うには結構大変な道のりだった。

このため、私の母は幼稚園に頼み込み、本来は歩いての通園となるべきところ、バス通園を認めて貰った。私は3人兄弟の末で、二人の兄が同じ幼稚園に通っていたため、3人目ともなると多少の融通は利いたのである。

通園バスは公園の中の道を走って来る。山の方から下って来たバスは神社に突きあり、鳥居の前で私の家の方角に向きを変える。そして、私の家の手前で再び向きを変え、西にある大通りへと下っていく。

私は毎朝母に連れられて、桂の木を見上げながらバスが来るのを待った。

バスが止まると、勢いよく扉が開いて迎えの先生が顔を出す。「おはようございます。」という明るい声に迎えられて私はバスに乗り込む。幼稚園に近いぶん、私はいつも一番乗りだった。初めてこのバスに乗った時、どこでも好きなところに座って良いよと言われ、私は一番前の席に座ろうとした。しかし、運転手さんから、そこはだめ、動かれると気が散るし、前に何もないから危ないと言われ、仕方なく二番目の席にした。

以来、バスの左側、前から二つ目の席が私の指定席となった。二番目でも前に誰も座らないから見通しは良い。だから、バスの通り道はいつもよく見えた。

私を拾った後、バスは道を下って大通りへと出る。下りた先は神社の前で、楼門を左に見ながら神社を迂回し、境内の南沿いの坂道に入って上り始める。そして、大鳥居の前に来ると、今度は右折して南に続く道に入る。そのまま暫く走ると、最初の待ち合わせの場所に着く。

待ち合わせ場所では、幾人かの園児とその母親達が待っていた。どの場所でも、母親同士は決まってにこやかに話をしている。バスはその母子の輪の前に停車し、勢いよく扉を開ける。そして、私の時と同じように先生が飛び出して、「おはようございます。」と明るい声で出迎える。すると幾人かの園児がバスに乗り込んできて、思い思いの場所に座る。母親達はにこやかに手を振って、我が子を見送る。これを何度も繰り返しながら、バスは南へ南へと進んでいく。

バスは京都の古くて狭い道と、新しくて広い大通りの間を縫うようにして走った。古い道の脇には瓦屋根と格子戸、それにばったり床机があり、大通りには商店やビルがあった。今なら町の風情の変化を楽しむところだが、幼稚園の年中組に過ぎない私にとっては、正直言って長くて退屈な道のりだった。

最後にたどり着くのは、尾根を走る坂道だった。その坂道の途中で一度谷底に向かって下る箇所があり、その時が一番嫌いだった。何だか奈落の底に連れて行かれる様であり、毎日通っていてもその感じは変わらなかった。

その谷底から這い上ってくると、やっと最後の待ち合わせ場所だった。その頃になるとバスの中は園児で一杯となっているのだが、一番前に居る私には判らない。幼稚園に着いて降りるときに、席がほとんど埋まっている事に気づくのである。

幼稚園への戻り道は早かった。裏道は一切通らずに大通りを一直線に北に向かい、大きな寺の門の前まで止まらずに走った。その門を潜って暫く走ると、ようやく園舎が見えてくる。

私の通う幼稚園は、その大きな寺の経営だった。上に中学、高校、そして短大まである女子学園であるが、幼稚園だけは男女共学だった。この幼稚園は短大生の幼児教育の場という意味もあった。

お寺の経営だけあって、教育には宗教色があった。まず、バスを降りると「のの様」という宗祖の子供の頃の像に手を合わさなければならない。のの様に、朝のあいさつとともに感謝の気持ちを捧げなさいと言われるのだが、幼稚園児の私にその意味は判らなかった。しかし、とにかく言われるままに手を合わせて、祈りを捧げるふりをしてから教室へと向かった。

園舎は木造だった。建物は大きく二棟に分かれており、立派な玄関があって、年中組と年長組がある母屋が北側、講堂と年少組のある小さめの別棟が南側だった。母屋と別棟は鍵型に並んでいて、渡り廊下で繋がっていた。

その鍵型の空いた部分が園庭である。それほど広くはなかったが、幼稚園らしく、ブランコや滑り台、それに登り棒などが置かれており、園児が遊ぶには十分な広さだった。

母屋と別棟の間の小さなスペースには砂場があった。この砂場はコンクリートで仕切られており、夏になると中の砂が掘り出されてプールになるという、不思議な場所だった。ブールとは言っても泳げるほどの広さは無く、ただ水に浸かっているだけというしろものだったが、ともかくもプールがあるというのが幼稚園の売りの一つだったらしい。

幼稚園の授業は、お遊戯、お絵かき、絵本、歌の時間など、普通の幼稚園と変わりは無かった。ただ、お寺の幼稚園らしく、宗祖様の生い立ちという紙芝居を見せられる事があった。のの様が幼い時から苦労を重ねてやがて偉いお坊様になるというストーリーだが、正直言って意味は判らず、ぼんやりと眺めていただけだった。

年に何度かお寺に連れて行かれる事もあった。大抵はお寺の行事がある時で、広い本堂に皆で座り、お坊様のお話や読経を聞かされるのだが、私にはきらびやかな仏様や豪華な装飾品が珍しく、それほど退屈な時間では無かった。

幼稚園での友達は、すぐに出来た。組内でのグループ分けは背の順番で行われる事が多く、二番目に背の高かった私は、一番大きな酒田君と仲良しとなった。その酒田君の仲間に小野君や木戸君が居て、自然に一つのグループとなった。

ところが、このグループには困った事があった。お遊戯の時などは良いのだが、休み時間になると、とたんに動かなくなるのである。私が何かをして遊ぼうと誘っても、酒田君は疲れたと言って座り込んでしまう。すると、小野君や木戸君もまた、教室の隅へ行って座り、そのまま動かなくなってしまうのである。最初は私も付き合ったが、とてもではないが、休み時間中何もしなしいのは苦痛であった。

仕方なく、私は仲間を捨てて放浪の旅に出るようになった。仲間に入れてくれる様なグループを見つけるために、園庭を彷徨い歩くのである。最初は大変で、一人遊びを余儀なくされる事もあったけれど、次第にいくつかのグルーブに入れる様になって行った。

探すのは同じ年中組のグループである。まず、それを見極めるところから初めて、次に自分でも面白いと思える遊びをしている仲間でなければならなかった。最初に仲間に入れてくれたのは、隣の組の西山君だった。

彼らがしていたのは追い駆けっこだったのだが、西山君に近づき、思い切って「混ぜて」と言うと、すぐに「良いよ」という答えが返ってきた。うれしくなった私は、訳もわからずに一緒になってただ駆け回っていただけなのだが、ともかくも楽しい時間を過ごす事が出来た。

それ以来、休み時間になるとまず西山君の姿を探すのが私の日課となった。ところが、別の組だったからだろう、そういつも見つかるものでは無かった。そうなると、また違うグループを見つけなければならない。私は園庭をあきらめて講堂に行ってみる事にした。

そこには、やはり別の組の田口君たちのグループが居て、ハンカチを三角に折ったピストルを持って戦争ごっこをしていた。私もすぐにハンカチを取り出して三角に折り、ピアノの下に潜り込んでいる田口君の横に滑り込んで、「混ぜて」と言うなり、ピストルを撃つまねを始めた。初めはきょとんとしていた田口君だが、すぐに遊びに戻って私を受け入れてくれた。

西山君も田口君も見つからない時は、さらに他のグループに入れて貰った。最初に「混ぜて」と言うときには少し勇気が要るが、言ってしまえば大抵は仲間になる事が出来た。こうして、私の休み時間は、仲間を捜して歩くことから始まった。今日は楽しく過ごせるだろうかというのが毎日の不安であり、楽しみでもあった。

本当に誰も見つからない時は、女の子のグループに入れて貰った事もある。たとえば、女の子同士でかくれんぼをしているグループに近づいて、やはり「混ぜて」の一言で仲間に入れて貰うのだが、男の子相手とは勝手が違いすぎ、心底楽しめるという訳にはいかなかった。

ある時は、ままごとの仲間に入れて貰った事もある。言われるままに雑草を摘んできたり、その草を野菜代わりに刻むまねなどをしていたのだが、女の子達は次第に自分の世界にはまり込み、ほとんど一人遊びの状態になってしまったので、手持ちぶさたになった私は自分の方から離れてしまった。

どうしても一人遊びをしなければならない時は、砂場に行くことにしていた。ここは主として年少組の遊び場であり、面倒を見る先生が何人か付いていた。また、中には短大の実習生が居て、私たちと遊んでくれたのである。彼女達にすれば、年中組は年少組のついでではあるけれど、私にとっては実習生と居るのは楽しい時間だった。

ただ、その砂場には時として恐るべき相手が居た。吉田さんという同じ組の女の子で、何かにつけて私の面倒を見たがるのである。ズボンに砂が付いていると言っては払い、ハンカチがはみ出ていると言ってはポケットに入れてくれ、ボタンが外れていると言っては止めてくれるといった具合だった。嫌いではなかったけれど、あまりに付きまとわれるので正直面倒な相手だった。

ある時、この吉田さんが、「大きくなったらお嫁さんになってあげる。」と言い出した事がある。それは、講堂に行こうとして砂場を通りかかった際に、吉田さんに捕まった時であった。仕方なく並んで座りながらおしゃべりをしていると、突然吉田さんがお嫁さん宣言をしてしまったのである。当然、周囲には先生達が居て聞き耳を立てている。

私にすれば冗談ではなかった。好きでも何でもなく、今も呼び止められたから一緒に座っているだけなのにと思ったのだが、断然断るのも彼女を傷つけてしまいそうで言えなかった。一生懸命に考えて答えをひねり出し、そういう事は大人になってからゆっくり考えようと言うと、彼女もまた、それもそやねと言ってその場は納得してくれた。

収まらないのは周囲に居た先生達で、その場はさすがに笑いをこらえて居たが、職員室に帰ってから大爆笑になったそうである。この話は先生達の間で持ちきりになっただけでなく、私の母親にまで伝えられる事となった。そして卒園までの間、何かにつけては持ち出されるので、私の頭痛の種となったのであった。

女の子で仲の良かった子と言えば、大仏さんが居る。本名は谷口さんという同じ組の子で、眉間にほくろがある事から、私は彼女の事を大仏さんと呼んでいた。合の休み時間や給食の時間に一緒になる事があり、そういう時は大仏さんとからかいながら、おしゃべりをするのが楽しい相手だった。

私の年中組の時間は、小さな事件を挟みながらも、こうして穏やかに、楽しく過ぎていった。

以下2に続きます。

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2012.01.27

京都・洛中 京の冬の旅2012 ~大光明寺~

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今年の京の冬の旅、3カ所目は大光明寺に行って来ました。ここは普段から庭までは自由に拝観出来るので何度となく訪れているのですが、中に入るのは初めてになるため期待していた場所です。

大光明寺については以前に紹介しているので繰り返しになりますが、1339年(暦応2年)に、後伏見天皇の皇后である広義門院によって開創されました。門院は夢窓疎石国師に深く帰依され、禅学を修されていました。そして帝が薨去されると落飾され、国師を開山に迎えて一堂を建立し、自らの法号をもって大光明寺と名付けられたのでした。

大光明寺は、当初は伏見桃山の地にあって伏見家の菩提寺とされていたのですが、応仁の乱によって荒廃してしまいます。その後、豊臣秀吉の手によって復興し、さらに1614年(慶長19年)に徳川家康によって現在地に移され、相国寺の塔頭となり現在に至っています。

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今回の特別公開においては、まず御本尊の普賢菩薩像を拝観する事が出来ます。この仏像は、座った白象の上に蓮華の台座を置き、その上に結跏趺坐っているという姿ですが、少し細っそりとした御顔立ちで、なかなかの美男の仏様ですよ。

私が見たかったのは伊藤若冲の絵で、小鳥が描かれた掛け軸「芭蕉小禽図」でした。ただ、若冲にしてはこぢんまりとしすぎて大胆さが見られず、私としては物足りない気がしました。小鳥の描き込みなどはさすがと思いましたが、落款が無ければ若冲作とは気がつかないかも知れません。まあ、私の素人判断ですので、的外れな批評だとすればごめんなさい。

面白いと思ったのは足利義尚直筆の書「和漢朗詠」で、この人に絡む遺品は初めて見たような気がします。応仁の乱の原因ともなった人ですが、足利幕府を一時的にせよ復興させた将軍らしい力強い書でした。マイナーな存在ですけどね、歴史好きには興味深い一品だと思います。

写真は心字の庭で、ここは普段から拝観出来る場所ですね。二枚目の写真を見れば、苔の部分が「心」という字になっているのが判るでしょうか。比較的新しい庭で、昭和50年代に当時のご住職が作庭されたのだとか。とても調和の取れた良い庭ですよね。

一点、心の字にはない黒い石の様な物が置かれているのですが、これは中国土産の置物だそうですね。なぜここに置いたのかは判りませんが、妙に調和しているのが不思議なところです。こんな事を教えて貰えるのは、特別拝観ならではの事ですね。


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2012.01.26

平清盛 保元の乱古戦場 ~白河北殿跡~

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平安時代の末期、鳥羽法皇の死後の政局を巡って、朝廷を二分して争われた戦いが保元の乱でした。天皇家、摂関家、それを取り巻く公家たち、そして武士が二つの勢力に分かれて覇権を争ったと言われます。

天皇家では後白河天皇と崇徳上皇、摂関家が関白の忠通と左大臣の頼長がそれぞれ対立関係にあったのですが、これらはどちちらも実の兄弟でした。そして武士では、源氏は義朝が後白河天皇側に付き、父の為義と為朝ら5人の兄弟が崇徳上皇方に付きます。平家は清盛と大半の一族が後白河天皇側に付き、叔父の忠正一人が崇徳上皇方に付きました。

こう書くといかにも両軍の勢力が拮抗していた様に見えますが、鳥羽法皇から権力を継承して公に軍勢を動員できた後白河天皇の側が圧倒的に優勢で、摂関家の私兵だけで戦わざるを得なかった崇徳上皇側の劣勢は戦う前から明らかでした。

この中で去就が注目されていたのが清盛で、彼の父の忠盛は崇徳上皇の後見を務めた事があり、彼の義母である宗子は上皇の皇子である重仁の乳母であったからです。しかし、清盛は美福門院(鳥羽法皇の皇后)の招きに応じて後白河天皇の陣営に入り、宗子もまた上皇方の敗北を予見して、実の息子である頼盛に天皇方に付くように勧めたのでした。

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この乱は、後白河天皇方が、崇徳上皇方を挑発する事で誘発した戦いと言われます。鳥羽法皇にないがしろにされていた崇徳上皇は、法皇の死後に権力を取り戻そうと願っていた事は確かですが、独力で戦を起こすただけの力は持っていませんでした。つまり上皇側には、乱を起こす意思は一切無かったという事になりますね。

また、頼長についても同様で、父の基実の寵愛を受けて一時は兄の忠通をしのぐ勢いすを示した彼も、そのあまりに鋭い政治手腕が災いして朝廷の中で孤立し、さらには忠通の巻き返しを受けてすっかり力を失っていたのです。しかし、巧みに謀反の疑いを掛けられて官位と領地を没収されてしまい、ついには挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたのでした。

崇徳上皇は挙兵については何の準備もしておらず、これも俄に挙兵した頼長に旗頭として担ぎ上げられた格好になってしまったのですが、準備万端を整えていた後白河天皇側から見れば、まさに罠に填まった姿と映った事でしよう。

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戦いがあったのは、保元元年(1156年)7月11日の事でした。崇徳上皇は、白河法皇の御所があった白河北殿に籠もっていました。対する後白河天皇は、高松殿を根拠地としていました。上皇方に居た源為朝は、小勢が多勢に勝つ為には夜討ちしかないと主張したのですが、頼長は若年の為朝の意見を軽く見て、これを退けてしまいます。彼には王家の戦いに夜討ちはふさわしくないという思いがあったとも言い、また別には興福寺の援軍が来るという期待があったとも言われますが、結果としてこの事が敗因とみなされる様になります。

一方の高松殿では、義朝がやはり夜討ちを主張していました。後白河天皇方の軍事を主導していたのは信西なのですが、彼は勝つ為の実戦的な戦術としてこれを許可しました。こうして本来は劣勢な側が起こすべき夜襲を、優勢な側が行うという形で戦いは始まります。天皇方が夜襲を仕掛けてくると知った為朝は、これこそ私が恐れていた事だと言って頼長を誹ったと言いますが、失われた戦機は戻って来ませんでした。

この時、清盛はちょっと面白い行軍の仕方をしています。高松殿から白河北殿は真東の方向にあったのですが、暦からその日は東が塞がりになると知った清盛は、方違いを行うために一度軍勢を南に向けて進め、三条のあたりで鴨川を渡り、その東岸を白河北殿に向かって北上したのでした。彼が最初に布陣したのが二条河原の東、堤の西と言われます。今の夷川発電所があるあたりでしょうか、ここを守っていたのが為朝でした。

為朝は、劣勢な上皇方にあって超人的な働きを示しています。最初に襲いかかって来た清盛の郎党である伊藤六を鎧の上から射通して倒し、山田小三郎伊行という剛の者もまた弓のひと射ちで倒してしまいます。あまりの強弓に恐れをなした清盛は早々に陣を引き払い、別の門に向かったと言われます。彼の嫡男である重盛は、父親の弱腰に業を煮やして為朝に向かおうとしますが、郎等たちに引き留められてしまいます。

為朝は、次に襲ってきた義朝の軍勢も射すくめて寄せ付けず、彼の奮戦もあいまって上皇方は善戦を続けました。時間を掛けていては、それこそ興福寺の援軍が来てしまうと焦った義朝は、火攻めを朝廷に上申します。近くには法勝寺などもあり、一度火を掛ければ広範囲に被害が及ぶ事が想定されたため、独断で行う事を恐れたのでした。

高松殿でこれを聞いた信西は、法勝寺などは後白河天皇が健在であればすぐに再建出来るとして、直ちにこれを許可します。勅許を得た義朝は白河北殿の西隣にあった屋敷に火を付けたところ、折からの西風に炎があおられて白河北殿に燃え移りました。拠って立つべき拠点を失った上皇方は敗走し、戦いは天皇方の勝利に終わっています。

写真は、一番上が白河北殿の跡地を示す石碑で、京都大学の熊野寮の北西隅にあります。次は琵琶湖疎水にある夷川発電所の貯水池で、白河北殿の南限がこのあたりにありました。また、清盛が最初に戦ったのはこの付近ではないかと推測されています。最後の写真は、今の鴨川二条河原の様子です。当時は鴨川の河原はずっと広かったと思われますが、為朝が奮戦したのはこのあたりだったのでしょうか。

今は平和な景色が広がるだけであり、この付近一帯が保元の乱の激戦地だったとはほとんどの人が知らない事でしょうね。保元の乱の戦跡は京阪の神宮丸太町駅からも近くにあり、訪れてみるにはもってこいの場所ですよ。ドラマの展開に合わせて、一度見に行かれてはいかがですか。

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2012.01.25

京都・洛北 冬の花 ~京都府立植物園~

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今の京都府立植物園では、蝋梅やスノードロップの他にも咲いている花があります。本当に少ないのですけどね、探せばいくつか見つかりますよ。

その代表が椿でしょうか。椿も3月から4月にかけて咲く種類が多いのですが、極寒のこの時期に咲く花もいくつかあります。これはその一つの桃色雪中花で、毎年見に行くのを楽しみにしている花の一つですね。

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梅林では、梅が2輪咲いていました。この花を見ると、それこそ春が近付いていると実感出来て、ちょっと嬉しくなりますね。でも、開花が本格化するのは2月下旬頃からかな。

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こちらはイチゴノキの実です。本当に苺そっくりですね。少し時期が遅かった様で、ほとんどの実は地面に落ちていました。ちょっと触ってみたのですが、熟し切っていたのか持つのが無理なくらい柔らかかったです。

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これがその花ですね。これも少し時期が遅かったのか、かなり痛んでいました。でも、実と同時に見ることが出来たのだから、ぎりぎり間に合ったと言えるかも知れません。

この木はツツジ科だそうですが、花はドウダンツヅジに良くにていますね。

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花ではないけれど、落ち葉もとても綺麗でした。この葉はクヌギですね。雨に濡れていたせいか、とても鮮やかに見えました。ちなみに、アクセントにと一緒に撮った竹はハコネダケ。とても細くて、線が綺麗な竹でしたよ。

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この寒い中、咲いているバラもありました。葉は紅葉して枯れかけているのですけどね、それでも花を開こうとするところに根性を感じます、なんてね。こういうのを冬薔薇(ふゆそうび)と言うのかな。これも温暖化の影響なのかしらん?

他にも咲いていたバラはいくつもあり、植物園に行かれたらバラ園に寄ってみるのも一興ですよ。

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2012.01.24

京都・洛北 早春の香り ~蝋梅 京都府立植物園~

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可愛らしい姿で春を予感されてくれるのがスプリングエフェメラルなら、爽やかな香りで早春を感じさせてくれるのが蝋梅です。

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その蝋梅が京都府立植物園で見頃を迎えています。冬枯れの景色の中、この花の周囲だけはほんのりとした暖色に包まれ、かすかな春の気配が漂っていますよ。

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この日は冷たい雨が降っていて、指先がしびれて困ったのですが、そのぶん花が濡れていて綺麗でした。

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それにしても、良い咲きっぷりですね。蝋梅でこれほど咲く木はあまり無いかも、です。もっと小さい木が多いものなあ。さすがに植物園だけの事はあるというところでしょうか。

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これは雲南蝋梅です。少し色が薄いのが判るでしょうか。同じ梅林の北の外れにあるのですが、こちらはまだ若木ですね。香りは蝋梅よりも少し強いのかな。まあ、気持ち程度ですけどね。

今の植物園で一番の見所はこの蝋梅でしょうね。この花を見るだけでも、わざわざ訪れる価値は十分にあると思いますよ。

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2012.01.23

京都・洛北 スプリングエフェメラル~スノードロップ 京都府立植物園~

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京都府立植物園でスノードロップが咲いています。春の妖精と呼ばれる花の中でも、最も早く咲く品種の一つですね。

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この日は大寒でしたが、その寒さの中でも咲く姿には、凛とした気品すら感じました。今日から数日は京都も雪が降るそうですから、うまくすればこの花が雪の中で咲く姿を見ることが出来るかも知れませんね。週末に積もってくれないものかなあ。

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2012.01.22

平清盛 第3回 「源平の御曹司」

(1132年、京。元服を迎え、名乗りを家盛と改めた平次。しかし、その場に清盛は居ませんでした。月に一度、息災なりと大書した文を届けるのみで、京から離れていたのです。)

(とある海岸。陸揚げされた船荷を狙う海賊達。その海賊を襲う清盛率いる一団。彼らは海賊から船の荷を守り、その礼として米を貰い受け、貧しい人達に分け与えてたいたのでした。その一団の中には鱸丸も居ます。)

(その夜。仲間と談笑する清盛。その時、向こう側で火の手が上がります。賊が村を襲ったのでした。慌てて駆け寄る清盛達。)

(京。家盛に舞の稽古を付ける忠盛。家盛を見て、筋がよいと褒める忠正。そこに飛び込んできた伊藤忠清。彼の手の者が捕らえた海賊を検非違使庁に引き渡すところだったのですが、何か大きな問題がある様子でした。)

(検非違使庁に赴いた忠盛たちが見たのは、賊と共に捕らえられた清盛の姿でした。検非違使と話を付けよと家人に命ずる忠盛。騒ぎを余所に、兄との再会を喜ぶ家盛。家盛の元服を祝う清盛。その清盛を叱りつける忠正。)

(清盛に、どこで何をしていたと問う忠盛。答えない清盛に代わって、船の警護役をしていたと答える鱸丸。民の作った米が民の口に入らないのは道理に合わないと清盛。縄を解いて貰った清盛は、自分たちを捕らえた役人の一人を殴り飛ばします。すぐに西海に戻ると言う清盛を厳しく止めて、京に居ろと命ずる忠盛。自分が帰らなければ海賊がのさばると主張する清盛に、郎党がどうなっても良いのかと脅す忠盛。)

(不承不承、京に残った清盛。その前に突然現れ、競馬で勝負しろと迫る男。誰だと問う清盛に、源義朝と名乗る男。知らぬと振り切り、走り去る清盛。その背中に待っていると叫ぶ義朝。)

(鳥羽院の世にあって、政から遠ざけられている崇徳帝。鳥羽院によって、政に復帰した藤原忠実。)

(家保と家成に、義朝を北面の武士にして欲しいと土下座して願い出る為義。伝えておくと冷たく言い捨てる家保。)

(院庁の前で、忠盛に出会った為義。忠盛に、また寄進の申し出に来たのかと問う為義に、院に召されたからだと答える忠盛。院庁に入って行く忠盛の背中に向かって、あいつが昇殿を許されているのは、白河院の子を貰い受けてまで媚びたからだと冷笑を浴びせる為義。しかし、白河院と親しくしていた事は鳥羽院の世にあっては負い目となる、いまこそ源氏の世を取り戻す時だと為義。)

(忠盛に向かって、良く尽くしてくれているが、未だに信じ切る事が出来ないと言う鳥羽院。白河院に仕えていた者が、自分に忠義で居られるものかと問う鳥羽院に、心からの忠誠を誓う忠盛。では、白河院の落とし胤という噂のある清盛はどうか、その忠義の証しを見せよと迫る鳥羽院。その側から、清盛を院の北面の武士に任命してはどうかと口を出す家成。院を警護する役目を受けるか否かで、その心根が知れるはずと家成。)

(京の町。無頼の徒と博打をしている清盛。賭けをまけてやる代わりに、明日やってもらいたいものがあると無頼達に持ち掛ける清盛。その帰り、鱸丸に屋敷に連れ帰られる清盛。)

(忠盛から院の北面の武士になれと命ぜられる清盛。断然断る清盛。清盛に向かって、忠盛は鳥羽院に3年仕えて従四位の下になった、間もなく殿上人になる事も夢ではないのだと説く郎党たち。自分に王家の犬になれと言うのかと怒鳴る清盛。)

(忠盛に向かって、この面白くない世を変える為に、強き野良犬として生きると言ったはずだと噛みつく清盛。黙って答えない忠盛。ぷいと出ていく清盛。)

(荒れる清盛を見守る鱸丸。そこに現れ、清盛には家盛と同じ事をしてやりたい、母の為に京に居て欲しいと頼む宗子。自分の分までその優しさを家盛にあたえてやって欲しいと言い残して去る清盛。)

(後に残り、一人桜を見上げている宗子。そこに現れ、桜の枝が欲しいのなら取ってあげましょうと言い、一枝を取って母に差し出す家盛。家盛に向かって、この家の嫡男は清盛、それを忘れないようにと諭す宗子。忘れた事はないと家盛。)

(院庁で警護にあたっている北面の武士、佐藤義清。鳥羽院の后、璋子が通りかかったのに気付き、慌てて拝跪します。璋子を見て、花は盛りに咲き誇りけりと歌う義清。)

(鳥羽院に、崇徳帝は歌が好きらしい、だれか歌が上手な者を探し出し、側につけてやってもらえないかと願い出る璋子。帝の近臣は選りすぐりの者達、皆歌は嗜んでいるはずと鳥羽院。何故、院は帝に辛く当たるのかと璋子。自分の子ではない、白河院の子を慈しめと言うのかと叫ぶ鳥羽院。それでも祖父の子、大叔父にあたる子であるから叔父子とでも思えばどうかと璋子。怒りのあまり、声が出ない鳥羽院。)

(弓の稽古をしている義清。そこに上皇が水仙の見物に出る、新入り急げという声が掛かります。)

(家成を待ち受けて、地べたから声を掛ける為義。上皇は急ぎの用で出かけたと家成。義朝の目通りの約束はと問う為義に、上皇は北面の武士に取り立てるつもりはない様子だと答える家成。平家には自分と同じ年頃の清盛が居る、彼はどうなるのかと問う義朝。上皇は清盛を北面の武士にと望んでいると家成。愕然とする為義と義朝。)

(検非違使庁の門前で、いきなり泥団子を投げつける無頼の者たち。くせ者だと追う役人たち。騒々しいなと訝る牢の中の清盛の郎党達。そこに現れた清盛。彼は郎党達を助けに来たのでした。)

(郎党を惹引き連れ、都大路を行く清盛。牢を破ったのはまずかったと鱸丸。こうでもしなければ、西海に戻れないと清盛。棟梁や母の気持ちを考えれば、清盛は京に残るべきと鱸丸。そんなに言うならお前一人で京に残れと清盛。)

(そこに現れ、北面の武士にならないとはどういう事だと問い質す義朝。王家の犬にはなりたくないのだと清盛。ただの甘やかされた平家の御曹司かと義朝。甘やかされたとはどういう事だ、俺は一人で生きていると噛みつく清盛。それが御曹司という事だと義朝。なおも食らいつく清盛を振りほどき、関わるだけ無駄だと言い捨てて去る義朝。)

(その時、検非違使に見つかった郎党達。追われて逃げる郎党。その前に現れた上皇の一行。先頭を行く北面の武士達。前の騒ぎを見て一人歩み出た義清。破れかぶれになって掛かっていく郎党達。たちどころに彼らを倒してしまう義清。郎党達を助けようともがく清盛。必死で止める鱸丸。検非違使に捕らわれる郎党達。)

(忠盛の屋敷。賄をはずんで帰らせよ、清盛との関わりは隠し通せと家人に命ずる家貞。土下座して謝る乳父の盛康。今は平氏に災いが及ばぬ様、力を合わせる時だと叱りつける家貞。泣き崩れる盛康。)

(そこに現れた清盛。今度の事は全て自分が責めを負う、全て正直に話すと言う清盛。それはならぬと一喝する忠盛。責めを負うと言うのなら、この件には一切関わりがないと言い通す事だと忠盛。彼らは自分の郎党、輩だと清盛。その輩と何をして来たと忠盛。船を海賊から守り、民を守ってきたのだと清盛。その海賊が清盛たちに恨みを覚え、村を襲ったのだと忠盛。浅知恵で押さえつけた者は浅知恵でやり返してくる、それで傷つくのは民だ、お前は民を守ってなどいない、賊と同じだと忠盛。それでも生きていられるのは、平氏一門が陰からお前を守っているからだ、赤子同然の者がどうして責を負うと言えるのだと決めつける忠盛。一言も返せず、自分一人が罪は無いという顔をして生きてはいけないと嘆く清盛。回りくどい話は止めよう、平家と縁を切れと忠正。それは断じて許さないと忠盛。それで全てが上手く収まると忠正。清盛は平家に無くてはならない男だと忠盛。)

(妻の事を考えた事があるのか、男子を産みながら白拍子が産んだ子を嫡男として育てるという忍耐を強いて、何が棟梁だと忠正。やめて下さい、清盛は私の子だと宗子。母のためにも、父の言うとおりにして欲しいと家盛。俺は、と言って飛び出していく清盛。)

(草原で弓の稽古をしている義朝。そこに現れた清盛。彼は義朝に競馬の勝負を挑みます。忙しいと断る義朝。強引に勝負に応じさせる清盛。)

(ゴールを決め、一、二、三で駆け出す二人。義朝がリードし後を追う清盛。ところが彼は落馬してしまいます。地面に這い蹲りながら、俺はどうしようもない男だと嘆き始める清盛。赤子の様に守られていたのに、自分一人で生きていると思い上がっていた、何も出来ないつまらないやつ、平家の下に居なければのたれ死ぬしかない、弱い野良犬だ、俺など要らぬと泣きわめく清盛。その様子をじっと見ていた義朝は、白河院を斬らぬばかりに殺気を漂わせて舞う男を見た、自分はそいつに勝ちたくて三年の間武芸を磨いてきたと言い出します。そして清盛の側に駆け寄り、武士は王家の犬と言ったがそれは違う。武士が王家を守ってやっているのだ、武士が居なければ王家は何も出来ないという事を、いつか思い知らせてやるのだとぶちまける義朝。そのために北面の武士になろうとしたが許されなかったと清盛を突き飛ばし、真に強い武士は源氏だ、お前のような情けない男を抱えた平家とは違う、それが判って今日は気分が良いと言い捨てて去る義朝。涙を拭って立ち上がり、勝ち逃げは許さないと叫ぶ清盛。負け犬は勝手に吠えていろと相手にしない義朝。次はまけないと叫び続ける清盛。どこか嬉しげに去っていく義朝。やがて好敵手となる二人。)

(無頼の心を抱いたまま、院の北面の武士として出仕した清盛。)

今回もほとんどが創作となった回でした。まず前提としなければなにらないのは、この時清盛はまだ15歳だったという事ですね。満年齢だと14歳、今で言うなら中学2年生の子供でした。松山ケンイチが演じているので良い大人だと思ってしまうのですが、ここは脳内変換が必要です。それを考えれば、海賊退治の棟梁などは無理がありすぎるのですが、前回と同様、駄々をこねている様子は14歳の子供に相応しいと言えるのかも知れません。

では、清盛と海賊退治がまるっきり無関係かと言うと、そうでも無いのですね。忠盛は何度となく海賊退治を命じられており、ドラマの1132年には郎党の家貞が海賊追捕を称されて左衛門尉に任じられています。これは上手くドラマに反映されていましたね(ドラマでは忠清の手柄でしたが)。また1135年にも西海の海賊追討を命じられており、恐らくは清盛が忠盛の名代として現地に赴いたのではないかと推測されています。無論、正規の朝廷の官吏としてであり、ドラマのように私設軍団を率いて海賊退治をしていた訳ではありません。

次に、清盛が北面の武士に就いていたのは確かなのですが、その経緯はと言うと手元の資料では判りません。ドラマに出て来た佐藤義清、後の西行の同僚であった事や、保元の乱に先立ち、北面の武士の一人として鳥羽院に忠誠の証しを立てた事などからそれが判るのですが、何時、どういう経過で任命されたのかは判らないのですよ。どなたかご存じの方は居ませんか。

その義清は、清盛の郎党を子供扱いしていましたが、彼は武芸に長じた人物だった様ですね。後世は和歌の名手として知られる西行ですが、他にも蹴鞠に長じていたと言い、様々な才能の持ち主でした。璋子を見て何やら歌らしきものを口ずさんでいましたが、あれは後の伏線ですね。今後の彼には注目です。

そして璋子については、ちょっとびっくりしました。崇徳帝を叔父子と呼べば良いと言ったのは彼女だったのか。祖父との密通を開けっぴろげに認めてしまうのは、度胸があると言うべきか、それとも天真爛漫な故と言うべきか、恐れ入るしかありません。あれでは鳥羽院が戦くのも無理は無いですね。まあ、これも創作だと思われますが、それにしても思い切った設定をしたものです。実際には鳥羽院との間に5男2女を産んでおり、少なくとも白河院の在世中は仲が良かった様ですね。

清盛の義母、宗子については、ひたすら良い義母を演じていますが、実際には彼女の存在は、平家にとってかなり大きかった様です。例えば、ドラマでは清盛の烏帽子親に家成がなっていますが、彼は宗子の従兄弟にあたるのですね。また、後には崇徳帝の子である重任親王の乳母となっており、平家と朝廷を結ぶ大切な絆でした。決して、ただの義母というだけの存在ではなかったと思われます。また、ドラマでは宗子の方が気を遣っていますが、実際には清盛の方が頭が上がらなかった様ですね。その理由は良く判らないけれど、後の頼朝との関係を見てもそれが判ると言います。

その頼朝の父である義朝とはライバル関係にあったという設定になってますが、実際にはどうだったのでしょうね。源平の争いという事でこの二人を並べるのは判るのですが、実態としては清盛の方が官位その他でずっとリードしており、義朝をライバル視した事など一度も無かったのではないかと思われます。まあ、それを言ってしまってはドラマが成り立たなくなるので、ここでは問わない事としましょうか。

源平の関係と言えば、為義が忠盛に寄進の話で来たのかと言っていましたが、寄進と引き替えに官位や地位を貰うという事は当時は良くありました。この時期で言えば、得長寿院がそうですね。現在の三十三間堂とほぼ同じ規模と形の伽藍と言われ、千一体の御仏を祀っていたのも同じです。場所は岡崎の地で、平安神宮の西、疎水が東大路通と交わる地点に石碑が建っています。忠盛はこの御堂を鳥羽院に寄進した事によって但馬守に任じられ、殿上人となる事が出来たと言われます。それは来週の話ですね。

ちなみに、その得長寿院は、およそ半世紀後に起こった地震によって倒壊し、再建される事は無かった様ですね。

さて、ドラマとしてはありがちな展開ではあるけれども、結構面白かったですよね。スピード感があるのが良いのかな。相変わらず民のためと言っているのが引っかかるけれども、それもコンセプトという事でさらっと流がしちゃいましょうか。

来週は忠盛がいよいよ殿上人となって、貴族達から嫌がらせを受ける様ですね。史実だと郎党が活躍するのだけれど、ドラマだとどうなるのかな。そのあたりに注目したいと思っています。


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2012.01.21

京都・洛中 京の冬の旅2012 ~平等寺~

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今年の京の冬の旅のテーマは平清盛、だけじゃないけど一応はメインです。その特別公開寺院の一つが下京区にある平等寺ですね。

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平等寺と言ってもピンと来る人は、京都でも少ないでしょうね。通称の因幡薬師の方が有名で、狂言でも因幡堂という演目がある程、昔から知られた名称です。幕末ファンなら、芹沢鴨が見せ物小屋で虎と対峙した場所として覚えているんじゃないかな。

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私がここを訪れるのは、昨年の節分以来ですね。その時の記事に由来を書いているのですが、もう一度繰り返すと、この寺を建てたのは橘行平という人物で、因幡国の国司を勤めていました。行平が任期を終えて京に帰る途中、夢のお告げによって賀留津の海中から薬師如来立像を引き上げます。行平は当地に寺を建ててこれを安置したのですが、なんとこの薬師如来像が行平の後を追って京に飛来したのですね。行平はこの薬師如来像を屋敷内に納め、お祀りしたのが因幡薬師の始まりでした。

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今回の公開では、普段は非公開の薬師如来像を拝観する事が出来ます。面白い事に、この薬師如来像は、納められている厨子ごと外に持ち出せるように滑車で吊す金具や道を押して運ぶための車輪が付属しているのですね。これは火事の時に素早く持ち出せるようにとの配慮で、京都を襲った数々の大火を乗り越えてきた知恵がここに生かされています。

肝心の平清盛との関係ですが、小督ゆかりの品々がここに納められているのでした。その一つが遺愛とされる琴で、名手とされた小督らしい一品ですね。一見するとただの薄汚れた板きれなのですが、よく見ると確かに琴の形をしており、表面にはもみじと流水の模様(たぶん竜田川?)が施されていて、かつては豪華な仕様だったのではないかと思われます。これを高倉天皇のために奏でた事もあったのでしょうか。

もう一つは「毛髪織込光明真言」で、密教の真言を書いた一種のお経ですね。これの何が凄いかというと、人の毛髪が織り込まれているのですよ。このお経は布で出来ているのですが、その横糸が髪の毛である事は一目瞭然で、その長さから女性のものである事は間違いなく、それも小督のものであると伝わっているそうです。高倉天皇との情愛を示したものとか言われますが、私的には情念というか凄味を感じてしまいました。これは一見の価値はありますね。

あと一つ、蒔絵の硯箱も小督遺愛とされ、高貴な人が使うに相応しい豪華な造りとなっていました。

これらの品々がなぜ平等寺に伝わっているかと言うと、元は清閑寺にあったものなのだそうですね。清閑寺は小督が出家したとされる寺で、今も供養塔が残されている縁の地です。その清閑寺と平等寺の住職が兼任だった時期があり、より保管のしやすい平等寺に移したという経緯があるそうです。平等寺も高倉天皇から寺号を貰っているのですから、不思議な因縁を感じるところではあります。

近く平等寺に行かれるのなら、2月3日がお薦めですよ。節分の行事として7種類の野菜を頂けた上に特別拝観が出来るのですからね、一石二鳥というものです。まあ平日というのが最大のネックですけどね。

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2012.01.20

京都・洛北 冬はつとめて2012 冬の庭~詩仙堂~

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冬はつとめて修学院編、最後の目的地は詩仙堂です。狸谷不動尊から降りてきて、拝観開始直後の9時過ぎに着きました。まだ踏み荒らされていない、参道脇の箒目が綺麗ですね。

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この時期のこの時間帯なら誰も居ないだろうと思っていたのですが、既に二組の先客が居ました。やっぱり人気のスポットだけの事はありますね。それでも暫くすると一人きりとなり、この座敷を独占する事が出来ました。こんな写真はめったに撮ることが出来ないでよ。

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冬の庭は彩りが少なく、やっぱり寂しいですね。丈山椿も既に花期が終わったのか咲いていませんでした。わずかにあったのが千両などの赤い実ですね。

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こちらはたわわに実った万両です。まだ熟し切っていないのか、鳥に食べられていないのは幸いでした。

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これはたぶんウメモドキでしょうか。この実は一足先に、鳥の餌となっていた様でした。それでも、そこはかとない風情は感じられません事?

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なかなか独り占めとはいかなかったですけど、ゆっくりと庭を散策出来たのは収穫でした。これで雪が積もっていれば最高だったのですけどね。

早朝の修学院散歩は、思っていた以上に楽しかったです。そうそう、日の出は8時過ぎになって、ようやく太陽が顔を出してくれました。ただ、空がすっかり明るくなっており、絵にはならなかったですね。そのあたりは誤算だったかな。

次はやっぱり雪の日に来たいですね。そんなチャンスがいつか巡ってこないものかしらん?

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2012.01.19

京都・洛北 冬はつとめて2012 ~狸谷不動尊~

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「冬はつとめて」の舞台に修学院を選んだのは、朝一番に詩仙堂を訪れてみたいという理由もありました。誰も居ない座敷から、ゆっくり庭を見てみたいと思ったからなのですが、拝観開始は9時からです。ところが、詩仙堂に着いた時はまだ一時間近く間がありました。

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そこで行ってみようと思ったのが狸谷不動尊です。これまでは山の上にあるという事で敬遠して来たのですが、この日は丁度良い機会だと思ったのです。写真は入り口に置かれている沢山の狸たちで、信者の方が奉納していくのでしょうか、多種多様な置物がありました。

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さて、狸谷不動尊に行くには、詩仙堂の前の坂道を登った上に、更に250段の階段を上がらなくてはなりません。これは健康階段という名称が付けられており、健康維持には丁度良いという事らしいですね。でも、普段から運動不足の私にとっては、驚異に写った光景でした。

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それでも、あえぎつつ何とか登り切れたのですから、やれば出来るものですね。途中何度も休憩しながらでしたけど、毎日登っていればそのうち慣れるだろうなと思われます。それに、区切りごとに何段目の階段と書いてあったのも目標となって、頑張れた要因の一つでしょうね。

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本堂からの眺めは、思ったほどでは無かったです。開けているのがこの限られた部分だけで、他は木々に遮られて全く見えないのですよ。ちょっと意外でしたね。

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本殿の下では、「トイレの神様 うすさま明王」という幟が目立っていました。たぶん、去年流行った歌のせいでしょうね。漢字では烏枢沙摩明王と書き、この世の全ての汚れを焼き尽くすという功徳を持っているのだそうです。汚れにはトイレも含まれている事から、トイレの神様とも言われる様ですね。でも、歌だけではなく、本当に神様が居るとは知らなかったなあ。

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階段の登り口にはお迎え大師という銅像があるのですが、その足下には小さな草鞋が貼り付けられていました。どうやら健脚祈願のお札の様ですね。健康階段の功徳といったところなのかな。

ここには早朝から、何人もの方が訪れていました。お参りとウォーキングを兼ねてのことなのでしょうか。それこそ、健康維持にはもって来いの信心なのかも知れないですね。それと、会う人は皆「おはようございます」とあいさつをされて行くのが印象的でした。足は筋肉痛に見舞われていたけれど、おかげさまで気分良く詩仙堂に向かう事が出来ましたよ。

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2012.01.18

京都・洛北 冬はつとめて2012 ~葉山馬頭観音~

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曼殊院の次に向かったのは、葉山観音でした。ここは近くは何度も通っているのですが、実際に立ち寄るのは初めてです。

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場所としては、圓光寺と曼殊院の中間、葉山の山裾にあたります。正確には一燈寺と言い、現在は臨済宗に属している様ですね。お堂としてはこの観音堂があるだけで、すぐ隣には御住職のものと思われる住居があります。

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ご本尊は聖徳太子作と言われる馬頭観音です。この日も朝から熱心に拝む信者らしき方の姿があり、きっと地元では大切にされているのでしょうね。

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私がここに来たかった理由は、幕末の志士である梅田雲浜縁の地だったからです。雲浜は小浜の人で、儒学と神道を統合した闇斎学を学び、その学識を買われて藩校の講師を務めていました。しかし、攘夷に絡む過激な発言が災いして藩を追われ、浪々の身となってしまいました。日々の糧もままならないといた状況の中、家族と共に転がり込んだのが当時無住だったこの観音堂だった様です。

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この観音堂に居る頃に、病床の妻を残してロシア軍艦を乗っ取ろうと計画したと言い、生活が窮迫していても彼の攘夷熱は止まる所を知りませんでした。その一方で、弟子達の力を借りて長州藩に取り入り、交易の斡旋をする事によって数年後には相当の財産を築いていたと言いますから、人生はどう転ぶか判らないですね。その金も攘夷のための資金に充てられたのですが、極貧の中から這い上がった彼には商才もあったのでしょう。

こうして攘夷志士たちの中心人物となった梅田雲浜でしたが、その後起こった安政の大獄によって捕らえられ、二人目の犠牲者となっています。今から見れば、単純攘夷などは状況判断を誤った過激策と言わざるを得ないのでしょうけど、こうした草奔崛起の人々の情熱があったからこそ明治維新も成就したとも言えるのでしょう。龍馬以前の志士の史跡として、一度は見ておくべき場所なのかなと思います。

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2012.01.17

ねこづらどき8周年

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本日、ねこづらどきが8周年を迎えました。

8年というのは長いようで短い。8年前の記事を読み返すと当時の気分がありありとよみがえってきますし、写真を撮った時の情景も覚えていますね。ただ、昔の子供の姿を見ると、確かに8年の歳月が過ぎたんだなと実感します。今や上の子は成人を過ぎてしまったものね。

でも、基本的には8年経ってもこのブログの内容ほとんど同じ。京都を柱に大河ドラマのレビューを書くというスタイルは、今後も続けていくつもりです。9年目に入っても地道に更新していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

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京都・洛北 冬はつとめて2012 早朝散策~曼殊院~

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赤山禅院を出て、早朝の道を曼殊院に向かいます。空はすっかり明るくなって来ていたのですが、山が近いため日の出はまだ来ません。

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その時間帯でも、散歩している人は結構居ますね。多くは犬連れですが、ウォーキングに励む人たちも何人か見ました。その道ばたで咲いていたロウバイです。朝の澄んだ空気の中、清冽な香りが漂っていましたよ。

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曼殊院にまで来たものの、拝観は9時からなので中に入る事は出来ません。なので見ることが出来るのは外回りだけですね。それでもこの時期でも苔の美しさは健在で、十分に目を楽しませてくれました。

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さすがに瑞々しさは無かったのですけどね、真夏の様に茶色く枯れてしまう事が無いのは朝露などで水分が供給されるからかしらん?

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彩りとしては、秋珊瑚、サンシュユの実が沢山成っていました。たぶん、近くにある武田薬品が栽培しているだと思われますが、見事な景観をなしていましたよ。

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勅使門の前に回ると、まだ門松が飾られていました。すっかり正月気分区は抜けていたのであれっという感じだったのですが、京都では15日までが松の内なのですね。

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勅使門を通り過ぎて、南の坂道を下ります。めったに通る事はないのですけどね、一乗寺方面に抜けるには近道だったりします。

杉木立の向こうに見えている褐色の木はメタセコイア、武田薬品の敷地内にあったのですが、かなりの巨木でした。太古の日本で生息していたとされる木ですが、現代の気候でも大きくなる事が出来るのですね。こういうのっつて、やっぱり原風景の一つと言って良いのかしらん?どんなものかと、ちょっと考えてしまいました。

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2012.01.16

第30回都道府県対抗女子駅伝

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平成24年1月15日、第30回都道府県対抗女子駅伝の観戦に行ってきました。この駅伝の観戦は5年連続で、我が家の恒例行事となっています。観戦場所は毎年同じ丸太町通で、往路が4区、復路が7区にあたるポイントですね。

今年の往路でトップでやって来たのは大阪代表でした。実は事前の調査が足りておらず、大阪が今年の有力チームだとは知らなかったのですよ。ですから、先頭が大阪だと判った時には思わず叫んでしまいました。だって、大阪が上位に来るのは、5年目にして初めてですからね。

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優勝候補で連覇を狙っていた京都は、この時点では5位でした。この後追い上げて、5区に繋いだ時には3位にまで上がっています。

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昨日の京都も寒かったですが、走る選手にとってはどんな具合だったのでしょう。富山も雪国ですが、京都の寒さとは質が違うでしょうからね、気候の違いというのも結構ハンデになるのではないかと思われます。

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でも、いくら寒いと言っても北海道とは比較にならないでしょうね。内陸部ではどか雪というニュースも聞こえてますが、昨日の程度の寒さだったら道産子にとっては春みたいなものだったのかな。

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そして、毎年気の毒になるのが沖縄代表ですね。それこそ極寒の地に来た様なものでしょうからね、応援する側も何割かは寒くて大変でょうねという気持ちが入っています。

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さて、復路でもトップは大阪でした。正直言ってどこかで逆転されるのではないかと思っていたのですが、このまま最後までトップの座を譲ること無くゴールしています。大阪の優勝は11回大会以来2度目の事でした。

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序盤の遅れを挽回して2位にまで上がった京都でしたが、それ以上は追い切れませんでした。連覇はならなかったけれど、京都出身で大阪在住の私としては、どっちが勝ってもうれしいという、応援のし甲斐のあるレースだったと思っています。

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今年はどういうものか、沿道からの指示が目立ちました。特にこういう競った状態では、ここで前に出ろとか煩いほど声が飛んでいましたね。違反ではないかも知れないけれど、他の選手にとっては迷惑な行為ではないのかしらん?

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無論、暖かい声援の方が圧倒的に多かったです。全ての選手に向けて、沿道からは拍手と激励の声が送られていましたよ。まあ、一番の声援が京都代表に送られるのは、地元ならではの事でしょうけどね。

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往路では、福島代表がずっと遅れていたのが目立ちました。最後尾には必ず救急車が来るのでここで終わりと判るのですが、それまで5分くらい間が開いたのですよ。周囲で観戦している人たちも何かあったのかとささやいていたのですが、どうやら第一走者が故障か何かで大きく遅れた様ですね。

それでも最後まであきらめずに走り通した姿には好感が持てました。今年は練習環境すら満足に行かなかったでしょうけど、来年は万全の体制を整えて巻き返してください。また走りに来るのを待ってますからね。

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2012.01.15

平清盛 第2回 「無頼の高平太」

(文治元年、壇ノ浦で平家を滅ぼした源頼朝。父の菩提を弔う建柱式の場で、三種の神器のうち、草薙の剣が見つからないという報告を受けます。苛立って、もっと探すように命ずる政子。その一方で、もう良いと捜索の打ち切りを言い出す頼朝。彼はまだ清盛がどこかで生きていて、剣を振り回している様な気がしたのでした。)

(57年前。京の賭場で賭け事をしている平太。見事に勝って帰ろうとしますが、一人勝ちは許さないと引き止められます。しかし、負けた奴の許しなど要らないと言って凄む平太。彼は無頼の高平太として名を知られていました。珍妙な格好をして京をうろつく平氏の御曹司、それが今の平太だったのです。ならず者達を相手に大立ち回りを演じ、見事に逃げ切ってみせる平太。)

(平太の無頼ぶりを憤る忠正。彼は平太に平氏の血が流れていない事が気に喰わず、忠盛が嫡男として育てている事に反対なのでした。跡継ぎとして、次男の平次を推す忠正。そこに帰って来た平太に、年明けすぐに元服だと伝える忠盛。やがて位を貰えば貴族の仲間入りだと喜ぶ郎党達。一緒に舞を習いましょうと言う平次の手を払う平太。何をなさいますと気色ばむ宗子。その宗子に食って掛かる平太。甥の無礼をたしなめる忠正。良いのですと平太を庇う宗子。)

(無言で立ち去ろうとする平太。その平太に向かって、平家の男子に相応しい振る舞いをする様になって下さいと郎党。自分は貴族にも、王家の犬にも、平家の犬にもなる気はない、いっそ野良犬として生きてやると吐き捨てる平太。そうか、と平然と答える忠盛。次に博打場か盗賊の隠れ家で会う時は容赦しないと凄む忠盛に、貫禄負けして逃げ出す平太。)

(都大路で仰向けになり、俺は誰なんだと叫ぶ平太。その時、誰でも良いから助けと呉れという声が聞こえます。驚いて塀の上に上ると、平太が掘った落とし穴に落ちている男が居ました。助けを求める男を穴から出してやる平太。)

(平太に礼を言いつつ、この穴は荒れた今の都を現していると男。いや、これは自分が掘った落とし穴だと平太。平太の言う事には耳を貸さず、月を覆う煙を指さし、あれも今のどす黒い世を現していると男。自分には、あの煙は自分のどす黒さに嫌気が差し、懸命にもがいて登ろうとする姿に見えると平太。あの煙の正体を知って言っているのか、あれは白河院が出した殺生禁断令によって漁網が焼かれているのだと男。白河院こそは物の怪、泰平の世が産んだ怪物だと男。物の怪と聞いて複雑な表情の平太。)

(御所の門前で焼かれる漁網。白河院は、仏教の教えに従って殺生を禁じ、狩りや漁までも禁止したのでした。白河院の行列に供奉して、警護にあたる忠盛。)

(祇園女御の家。遊びをせんとやと歌いつつ、白河院の前で舞う祇園女御。)

(白河院に忠盛の忠勤を褒める祇園女御。忠盛は身をわきまえているのだと白河院。平太が元服すると告げ、会ってやってはどうか、そうすれば漁網など焼かずとも極楽往生が叶うのではと祇園女御。平太の名を聞き、かっとなって女御を張り飛ばす白河院。)

(璋子の下に渡りながら、堀川局相手に自らの愚かさを自嘲する鳥羽上皇。何事も無かったように、上皇の御簾内に入ってくる璋子。一転して、璋子を愛し始める鳥羽上皇。)

(大治4年。元服の式の場に無頼の姿のままで現れた平太。加冠役は藤原家保の息子家成。その家成に向かって、なぜ貴族達は白河院の悪政に異を唱えないのかと食って掛かる平太。これは手厳しいととぼける家成。答えて貰えないなら、加冠役は御免蒙ると言って烏帽子が載った台を覆し、立ち去ろうとする平太。その前に立ちはだかった伊藤忠清。忠盛の命により、式を滞りなく進めさせて貰うと言って、力尽くで清盛を席に着かせる忠清。)

(先程の問いについてと、平太に語りかけつつ烏帽子をかぶせる家成。白河院も76歳、耳が遠くなっているゆえ、野良犬がいくら外で吠えても聞こえない、せめて飼い犬となって耳元で吠えなければと皮肉を込めて言って聞かせます。忠清に押さえつけられながら、悔しげに歯がみして家成を睨み付ける平太。その平太に向かって、今日から清盛と名を改めよと命ずる忠盛。)

(鱸丸の漕ぐ小舟に乗って雄叫びを上げる清盛。すっくと立つ清盛を見て、身体の軸が出来た様だと話しかける鱸丸。とたんに倒れ込む清盛。要らぬ事を言うからだと鱸丸に毒づく清盛。漁師に生まれ、魚を捕って生きて行けたらどんなに良いかと叫ぶ清盛。黙って答えない鱸丸。白河院の禁令がここにも及んでいたのでした。)

(漁を禁じられても、皆を飢えさせる訳にはいかないと滝次。殺生禁断令によって、自分たちが死んでも良いと法皇は言うのかと鱸丸。法皇に仕えている平氏の前で、法皇の悪口を言うではないとたしなめる滝次。)

(3ヶ月後。都で行き倒れとなった鱸丸。屋敷に担ぎ込まれた鱸丸を見て驚く清盛。息も絶え絶えに、滝次が漁をした為に連れて行かれた、滝次は村の者が飢えているのを見かねたのだと言って気を失う鱸丸。その様子をじっと見ている忠盛。)

(早く滝次を救わねばと忠盛に食って掛かる清盛。今度の事は法令に逆らった滝次の過ち、沙汰を待つまでだと忠盛。話にならないと飛びだそうとする清盛。法皇に逆らってはいけないと止める忠盛。なぜ自分に清いという文字を与えたのか、罪無き民を苦しめて武士など名乗れるかと言って飛び出していく清盛。)

(清盛を見送り、宗子に向かって清盛が自分を武士と言ったと喜ぶ忠盛。)

(御仏に向かって読経に励む白河院。そこに近習が目通りを願う者が来ていると伝えますが、追い返せと答える院。いきなり来て拝謁出来ると思うとはどこの誰だと言って、ふと気が付く院。)

(拝謁を願い出たのは清盛でした。階の下で跪いている清盛。清盛に会ってやる白河院。)

(清盛に向かって、忠盛の子かと問う白河院。忠盛は父ではないと答える清盛。その答えにためらいつつも、何用があってここに来たと問う院。殺生禁断令に反した滝次を救って欲しいと訴える清盛。漁をするのは漁師の生きる道、これを捕らえるは奇怪至極というのが清盛の言い分でした。示しが付かぬと清盛の願いを一蹴する院。見せしめのためかと食い下がる清盛。国を治めるためだと院。戯れ言だと吐き捨てる清盛。この世に生きる物の怪の様な自分の姿におののき、今更の様に仏の教えに縋って漁網を焼く、どす黒い煙のように月の光に染まろうともがいているのだと法皇を罵る清盛。)

(面白い事を言うと白河院。わしが物の怪ならお前はどうだと、清盛が生まれたいきさつを話し始める院。母が白拍子であった事、その腹に王家に災いをなす子を宿した事、それゆえ流せと命じた事、さからって逃げたが故に殺した事、その場所がここで、赤子だった清盛の目の前だった事。全てを聞いて衝撃を受けた清盛。)

(何故自分は生きているのかと問う清盛。それはこの物の怪の血が泣かれているからと言い、分かったか清盛と叱りつける法皇。びっくとして目を閉じる清盛。バックに流れる遊びやせんとやの今様。哄笑を残して去っていく法皇。)

(悄然と屋敷に帰った清盛。ひれ伏す鱸丸を見て、すまぬと謝る清盛。もう良いのです、父はもう、と鱸丸。事情を知って済まぬと謝り続ける清盛。そこに現れた忠盛。父に向かって、舞の稽古を付けて欲しいと願い出る清盛。背後で聞こえている犬の遠吠え。)

(以前、清盛が落とし穴から助けた男は、高階通憲でした。その通憲に今日の舞は見物だ、清盛が舞人を勤めると告げる家成。)

(しずしずと舞台に現れた清盛。今日は見違えるような公達の姿。それを見守る白河院と祇園女御。平氏はどこまで図に乗るのだと吐き捨てる為義。)

(優雅に舞い始めた清盛。その姿を見て、さすがは白河院の落としだねと噂されるだけの事はあると家成。それを聞いて驚く通憲。)

(舞の途中で太刀を放り投げた清盛。塀の外から宋の国の剣を投げ入れた鱸丸。剣を手に、出鱈目に舞い始めた清盛。その姿を見て、あの夜助けてくれた相手が清盛だった事に気付く通憲。舞台を飛び降りて、法皇に剣を突きつけ、睨み付ける清盛。平然と受け流す法皇。騒然とする中、剣を地面に突き立てて舞を納める清盛。)

(あまりの事に、あれは舞の手かとささやき合う人々。すっくと立ち上がり、面白い舞であった、武士の子らしいと清盛を褒めて退席する法皇。)

(忠盛に向かって、自分は父の様にはならない、王家の犬にも平家の犬にもならない、この野良犬が面白くもない世の中を変えるまで面白く生きてやると言い放つ清盛。そうか、好きにせよと冷静に受け止める忠盛。剣を抜いて、満足そうに帰って行く清盛。)

(塀の上からその様子を見ていた武者丸。彼は為義の息子でした。)

(大治4年7月7日、白河法皇崩御。鳥羽上皇に拝謁する藤原忠実。兆し始めた乱世の予感。)

今回も創作と史実が織り交ぜとなった回でした。基調となったのは白河法皇による殺生禁断令ですが、実際に何度となく禁断令を出し、漁網も焼かせた様ですね。迷惑な話ではあるけれど、何度も出されているという事は、法令をかい潜る者が跡を絶たなかったという事なのでしょうか。きっと、滝次の様な悲劇も実際にあった事でしょうね。

清盛が大治4年に石清水八幡宮で舞を奉納したのは清盛紀行にあったとおりで、彼が貴族の子弟として認められた証しとされます。ここから清盛が出世の階段を登り始めたのも、紀行にあったとおりですね。

一方、清盛が無頼の生活を送っていたとしいうのは完全な創作です。と言うより、彼がどんな若年時代を送っていたかは記録に残っていません。あえて言うなら、新平家物語の設定がこれに近いかな。

何より無理があるのは、このドラマの時期の清盛は12歳であり、松山ケンイチが演じたのではイメージが合わない事ですね。このあたりは、前回の江と同じく子役を使わないのが納得の行かないところです。大体、12歳の子供が賭場に出入りして大人相手に大立ち回りが出来るのかという疑問がありますが、まあ、そこは不問に付しておくのがドラマを楽しむコツというものでしょうか。

清盛がまだ12歳の子供と考えれば、忠盛に頭が上がらず、忠清には歯が立たず、家成にも言い負かされるというのも納得が行きますね。また、白河法皇に一喝されてすくみ上がってしまうのも無理はないというところでしょうか。そもそも法皇に簡単に拝謁できたのかという疑問はありますが。

さらには剣を振るって法皇に突きつけたのは演出としては面白いのですが、実際にやったのならただでは済まなかった事でしょう。模造刀ならともかく、真剣ですからね。下手をすれば、平家が取りつぶしになったかも、です。

一番面白かったのは、清盛が白河法皇に向かって物の怪と言い放った事で、大人では無茶でも、子供の放言としてはあり得た事かも知れません。実際に言った人は一人も居なかったでしょうけどね。でも、それを平然と受け流した法皇は小童の清盛とは役者が違うという感じで、巨大さを見せつけたシーンでした。伊東四朗の演技が光っていたと思います。

などなど色々と不自然な点はありますが、全体としては見応えがあるドラマですね。あまり細かい所にこだわらなければ、十分に楽しんで行けると思っています。次回が楽しみです。

(追記:清盛の幼名の平太についてですが、前回は根拠が判らないと書いてしまったのですが、実は平家物語に出ていました。鹿ヶ谷事件があった時、首謀者の一人である西光が捕まるのですが、その時に清盛に向かって「14、5の時まで出仕もせずに家成卿の屋敷の出入りしていたのを、京童が高平太と呼んでいた」と罵る場面があるのですね。事実としては、清盛は12歳で従五位下に叙せられており、左兵衛佐に任官していますから明らかに間違っているのですが、高平太と呼ばれていたのは確かな様ですね。この高平太の意味は判然としないのですが、高足駄を履いた平氏の太郎という意味ではないかと推測されています。つまり、平太というのは名前と言うより通称だったのかも知れないですね。ちなみに、ここで言う家成卿とはドラマで烏帽子親となった家成の事で、この事から清盛は若年の頃には家成の屋敷に頻繁に出入りしていた事が判るとされます。平家と家成の家は、とても深い関係(義母の宗子と家成が従兄弟だった)にあった様ですね。)


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2012.01.14

京都・洛北 冬はつとめて2012 黎明の境内~赤山禅院~

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冬はつとめてシリーズ、二回目は修学院に行ってきました。ここを選んだのは明けに染まる比叡山を撮りたいと思ったからなのですが、残念ながらそれは無理でした。なぜって、天気予報では晴れのはずなのに、空が厚い雲に覆われていたのです。それどころか、ぽつりぽつりと雨まで降ってくる始末で、よっぽど回れ右をして帰ろうかと思ったほどでした。

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それでもせっかく来たのだからと思い直し、この時間帯でも開いている場所でなおかつ雨を凌げるところはないかと考え、赤山禅院まで歩いてみる事にしました。禅院に至る道は秋に紅葉ガイドを書く時に散々おさらいをしたので、薄暗い中でも迷う事はなかったですね。

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幸いな事に、赤山禅院は午前6時の開門であったため、中に入る事が出来ました。雨も本降りになる事はなかったので助かりましたよ。

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明け方の境内は各お堂に明かりが灯り、灯明も供えられていました。つまりは、もっと早い時間帯からお世話をする方が居られるのですね。これも修行とは言え、毎日寒い中、大変な事と思います。

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そして、この時間から早参りをする方もやはり見えました。ここは観光にも力を入れて来ているとは言え、やはり信仰の場としての比重が大きいんだなと実感した光景です。

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カメラを手に境内を回っている内に、いつの間にか黎明を迎えていました。とは言っても、日の出はまだずっと先だったのですけどね。すっかり明るくなった赤山禅院を後に、ここから修学院界隈を歩いてみる事にしました。(続きは17日にアップする予定です。)

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2012.01.13

平清盛  後白河法皇ゆかりの地~京都冬の旅・長講堂~

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今年の京都冬の旅で、長講堂が公開されています。長講堂とは後白河法皇の仙洞御所「六条殿」にあった持仏堂の事で、今も法皇ゆかりの文化財を有している事で知られます。

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中でもこの御尊像は、法皇の自画像を元に制作されたとされ、在りし日の法皇の面影を今に伝えると言われます。確かにじっと見ていると、日本一の大天狗と評された凄みが垣間見える様な気がしましたよ。

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その元になったという自画像はこのお堂の中に厨子に入れて保管されており、50年に一度勅使立ち会いの下に開かれます。前回は平成3年だったそうですから、次は平成53年という事になりますね。今回の冬の旅においては複製が展示されているので、どういうものか知ることは出来ます。

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本堂の中には、ご本尊の阿弥陀三尊が祀られています。平安時代の仏師、定朝の流れを汲む院尊の作で、法皇が実際に礼拝されていた仏像だそうですね。仏様にしては親しみの湧くお顔で、何となく誰かに似ている気がした様な。

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平家物語との関係で言えば、「過去現在牒」があります。これは、法皇が自ら書いた一種の過去帳で、歴代天皇のほか縁のあった人々の名を記して稔侍仏に供え、救いを求めたのだとされています。

この中には源義朝、源義行(義経)、平清盛ら歴史上の人物とともに、祇王、祇女、母刀自、仏御前の名前までが記されているのですね。平家物語の祇王の段の最後には、彼女たちの名が過去現在牒に記されたとあるのですが、それを裏付ける資料が今に残されているのですから驚きです。急に平家物語の世界が現実味を帯びて、目の前に現れたような錯覚を覚えましたよ。

それにしても、物語そのままの名が記録されているという事は、当時から相当に知られたエピソードだった事を思わせます。結構創作が入っているのかなと思っていたのですが、案外事実に近い話だったのかも知れないと思えてきました。少なくとも、登場人物は全て実在していた事は間違いなく、今度祇王寺に行く時には、また新たな感慨を覚える事でしょうね。

この「過去現在牒」を見るだけでも、大河ドラマのファンにとっては意義のあるポイントですよ。ここは、この冬一押しのお薦めですね。

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2012.01.12

京都・洛西 冬はつとめて2012 ~嵯峨野路~

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元気があれば鳥居本まで行ったのですが、この日は寒さのせいで身体が冷え切っていた事もあって落柿舎から引き返しました。道すがら、竹林が朝日に照らされて綺麗でしたよ。

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この道に来ると、いつも撮りたくなるのがJR嵯峨野線の電車です。嵯峨野路を電車が横切るというこの違和感が、何度来てもおもしろいのですよ。あまり鉄道は撮らない私ですが、たまには一日一鉄の真似をしてみるのも楽しいものです。

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踏切を渡ると野宮神社にたどり着きます。恋愛に効くパワースポットとして人気があり、いつも人出が絶えないポイントですが、さすがに朝一番だと人影は見当たりません。

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こういう時にお参りすると、願い事を良く聞いて貰えそうな気がしますよね。まあ、私の場合は今更なので、息子たちに良いご縁がありますようにとお願いをしておきました。

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最後は出しそびれてしまった慈済院の竜図をお届けして、嵯峨野路の締めとします。里見米庵画伯の絵ですが、金色の竜というのも珍しいのじゃないかしらん?

この寺は出入り自由の上、献灯やおみくじまでもがセルフというフリーな環境ですね。参拝客を信頼しての事なのでしょうけど、今時珍しい寺ではあります。でも、社寺は本来こうあるべきなのでしょうね。ギスギスした話題が多い中、ちょっとほっとした気分を味わった一時でした。

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2012.01.11

京都・洛西 冬はつとめて2012 ~落柿舎~

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天竜寺から落柿舎に来ました。冬枯れのこの時期、わずかに彩りとなるのが柿なのですが、離れて見えるほどには残っていなかったですね。

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それでも、近くに寄ればいくらか残っているのが判りました。かろうじて嵯峨野の風情を感じられる程度かな。

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ほとんどは熟し柿になっており、今にも落ちそうでしたね。間もなく鳥たちが綺麗に片付けてしまう事でしょう。

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昨日紹介したウメモドキは、ここにありました。柿とのコラボレーションを撮ってみたのですが、残念ながらあまり目立たないですね。

柿を撮るならもう少し早く来なければいけなかった様です。希望としては雪とのコラボを撮ってみたいのですけどね、そんなチャンスが何時か来ないものかしらん?

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2012.01.10

京都・洛西 冬はつとめて2012 赤の色 ~天竜寺~

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朝の光は夕日と同じく赤みが勝っています。ですから、赤い色がより強調されて見える様になりますね。

ここ天竜寺の駐車場では、その朝日の中で赤い山茶花が咲き誇っていました。盛りは過ぎつつあったようでしたけどね、数が多いので見応えがありましたよ。

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塔頭の慈済院、来福門にあった赤い幕房です。この房もまた、朝日に照らされて綺麗な色になっているでしょう?

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同じく塔頭の三秀院で見つけたウメモドキです、たぶん。良い色に染まっていますが、鳥から見ればさぞかしおいしそうに見えるのだろうな。なので、まもなく鳥に食べられて無くなってしまう事でしょうね。

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天竜寺から離れますが、落柿舎でもウメモドキがありました。写真では上手く表現出来なかったのですけどね、この赤い色が茅葺きの屋根の良い彩りになっていましたよ。

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赤いと言い張るのは少し苦しいのですが、三秀院で見かけた紅葉?です。何という植物か判らなかったのですが、朝日を浴びて綺麗に輝いていました。

この枝先は若葉の様にも見えるので、これからまだ伸びる途中なのか、それとも伸展している最中に寒波が来て紅葉してしまったのかは判りませんが、何とも不思議な状態です。この先、どうなるのか気になるところではありますね。

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2012.01.09

平清盛 第1回 「ふたりの父」 その2

(7年後、忠盛と共に海辺を駆ける平太。この頃、正盛は亡くなっており、忠盛が頭領となっていました。)

(父と共に船に乗って海に出た平太は、初めて見る海にはしゃいでいます。しかし、船の中ではちゃんと立つ事ができません。その姿を見てからかう漁師見習いの鱸丸。怒って再び立ち上がろうとしてまた転ぶ平太。もう厭だと言い出す平太に、何故鱸丸が転ばぬと思うと問い掛ける忠盛。鱸丸は大きいからだと平太。それは違うと言下に否定する忠盛。鱸丸は幼い頃から漁の手伝いをして鍛えてきたから、身体の中に軸が出来た。漁師として魚を捕る事は鱸丸にとっては生きる事、それが心の軸となっているのだと諭す忠盛。心の軸が身体を支え、身体の軸が心を支えると言う忠盛の言葉に、判ったような判らないような様子の平太。)

(その時、鐘の音と騒ぐ声が聞こえてきます。海賊が船を襲っているのでした。躊躇なく海に飛び込み、海賊に向かって行く忠盛。浜で見ていた郎党達も異変に気付き、船をこぎ出します。)

(襲った船の積荷が宋の国から来た物だと知り、大喜びの海賊達。そこに一人で乗り込んだ忠盛。彼は大立ち回りを演じて、海賊を混乱に陥れます。そこに駆けつけた郎党達によって、海賊は退治されてしまいました。郎党達と共に、宋の剣を掲げて雄叫びを上げる忠盛。嬉しそうにそれを眺めている平太。)

(浜辺で剣を振り、身体を鍛えている忠盛。そこにやって来て、父の様に強く立派な武士になりたいと願う平太。ならば、その気持ちを心の軸にせよ、そしてそれを支える為に身体を鍛えよと告げる忠盛。並んで剣と枯れ枝を振り、鍛錬する親子。)

(京に戻った忠盛親子。犬の岬丸との再会を喜ぶ平太。都で待っていたのは忠盛の正妻となった宗子と弟の平次。)

(祇園女御の家。女御と双六をして遊ぶ平太。女御は舞子の死後も平太に目を掛けていたのでした。女御を母の如く慕う平太。あと12駒を進めれば勝ちという局面で、そのとおり12の賽の目を出して見せる平太。大喜びではしゃぐ平太を見て、舞子も双六が強かったと懐かしむ女御。)

(帝位を退いた鳥羽上皇。鳥羽院は、白河院に強制的に退位させられ、息子の顕仁親王に譲位したのでした。その顕仁親王は、鳥羽院ではなく白河院を父と慕う子でした。5歳の帝と治天の君であり続ける白河院。立場のない鳥羽院。)

(孫の女御である璋子の部屋に忍び入り、二人で睦み合う白河院。それを知り、一人苦しむ鳥羽院。)

(忠盛の家。居なくなった岬丸を探す平太と平次。兄に続いて屋根に上ろうとし、足を滑らせて落ちてしまった平次。その騒ぎを聞きつけて駆けつけた宗子。怪我をした平次を見て平太を張り飛ばし、この子になにかあったらそなたを許さないと睨み付ける宗子。思わぬ継母の敵意にたじろぐ平太。郎党にたしなめられ、はっと気付いて謝る宗子。しかし、後ずさりして継母を避ける平太。泣き叫ぶ平次。)

(一人、町にさまよい出た平太。彼は一人の子供に突き飛ばされます。その子は大人達に盗人呼ばわりされ、追われていたのでした。平太の目の前で菰を被って隠れた子供。大人達に子供の行方を聞かれた平太は、とっさに嘘を付いて子供を庇います。)

(大人達が行ったのを確かめ、菰から出て来た子供。彼は兔丸といいました。平太を裏手に引っ張っていき、礼だと言って盗んだ瓜を手渡す兔丸。しかし、父に代わって捕らえてやると叫ぶ平太。誰だ、お前はと聞かれ、平忠盛の子平太だと答える平太。とたんに顔色を変える兔丸。彼は朧月の子でした。)

(忠盛は父の仇と叫ぶ兔丸。朧月は貧しい人達の為に盗みを働いていた、それを忠盛は斬った、忠盛は王家の犬だと罵る兔丸。父はそんな人ではないと叫び返す忠盛。お前もそうだ、忠盛が王家に取り入る為に、法皇から貰い受けた子なんだろうと言い返す兔丸。狙いを付けた者の事は、どんな手を使っても調べ上げる、間違いはないと言い放つ兔丸。嘘だと叫びながら駆けていく平太。)

(家に戻り、忠盛に自分は本当に平家の子か、それとも法皇に貰い受けた子かと問い掛ける平太。その懸命な様子に驚きながらも、そんな世迷い言に惑わされるなと叱りつける忠盛。父の剣幕に判りましたと畏まる平太。そこに現れた宗子。さっきはすまなかったと謝る宗子ですが、平太は壁を感じた様子です。父にも言いしれぬ壁を感じた平太は、一人駆け出していきます。)

(雨の降る中、祇園女御の家に駆け込んできた平太。驚く女御に、自分は誰の子か、父が出世の為に法皇から貰い受けた子なのか教えて欲しいと迫る平太。呆然と平太を見つめる女御。そこにやって来た白河法皇。)

(白河院の前に飛び出し、お願いの儀がございますと叫ぶ平太。何者と問われ、忠盛の子、平太と答える平太。女御に向かって、犬の子が紛れている、早くつまみ出せと命じる法皇。家人達に連れ出される平太。犬が泥を刎ねた、着替えを出せと女御に命ずる法皇。)

(泥濘の中に放り出された平太。)

(平太の行方を案ずる忠盛。だからあの時引き取るなと言ったのだと忠正。災いをもたらすと言われ、母を殺され、要らぬから持っていけと言われた子だ、このまま見つからぬ方があいつの為だと忠正。)

(いずれは知れる事だったのだろう、知った上で平家の男として生きていかなければならないのが、平太の定めだったのだと郎党。忠盛の耳に甦る「遊びをせんとや」の今様。)

(都のとある門で倒れている平太。泣きながら立ち上がった平太は、死んでいる岬丸を見つけます。何故と泣き叫ぶ平太。そこに現れた忠盛は、犬同士で争って負けた、弱い故負けたのだと話しかけます。驚く平太に、お前と血を分けたのは法皇だ、しかし、この父が平氏の子として育てたのだと告げます。何故か、王家に取り入る為かと問う平太。平太の問いを遮り、今のお前は平家に飼われている弱い犬だ、死にたくなければ強くなれと叫び、宋の国の剣を平太の前に突き立てます。じっと父をにらみ返す平太。黙って立ち去る忠盛。父が突き立てた剣を抜き取る平太。)

(10数年後の平太。船の舳先に乗り、剣を振りかざして雄叫びを挙げる平太。彼が最初に戦うべき相手は、二人の巨大な父でした。)

ドラマの設定は、史実と創作が相半ばしている様です。もっとも、この時期の清盛については、史実と断定出来る部分はほとんど無いと言って良いのですけどね。

まず、清盛の実の母については以前にも書いた様に、祇園女御とする説、祇園女御の妹とする説、そのどちらでもない忠盛の正室だった女性とする説に分かれます。ドラマではこのどれでもなく、儀御女御の妹のような存在である舞子という設定にして来ました。これはドラマオリジナルと言って良いでしょうね。また、母の名を舞子としていますが、これはどの資料にもなく完全に創作です。

父親については忠盛とする説と白河法皇とする説に分かれますが、ここでは白河法皇の落胤説を採って来ました。ドラマ的には、その方が話を膨らませ易いでしょうね。実際、見ていても展開がダイナミックで面白かったです。

清盛の幼名「平太」については、小説の「新平家物語」でも同じ名前なのですが、どこかに根拠があるのでしょうか。ネットで調べると虎寿丸というのも出て来ます。何となくですが、新平家物語を踏襲したようにも思えるのですが、どうなのでしょう。新平家物語との関係で言えば、祇園女御が白拍子の出とするのも共通しており、これも小説の設定を拝借したのでしょうね、たぶんですけど。(追記:平太の名は平家物語にありました。ただし、名前と言うより通称ではなかったかと思われます。参考。)

正盛が検非違使として盗賊の追捕にあたっていたのは史実にあるとおりですが、朧月という盗賊は創作だと思われます。平安時代の盗賊して有名なのは袴垂ですが、もう少し前の人物ですね。それに義賊だったという話も聞かないし、人物設定についてもドラマオリジナルなのでしょう。

また、忠盛が海賊退治で名をなしたのも事実で、捕らえた多くの海賊を伴って都に凱旋し、人々の耳目を集めたと言われます。もっとも、その海賊の多くは郎党たちで、言わばさくらを使って手柄を水増しにしたのだとも言われています。

天皇家の人間関係についてはほぼ史実どおりで、白河法皇が、事もあろうに孫の女御に手を出していたというのも事実の様です。結果として生まれたのが崇徳天皇とされ、その子を帝位に就かせるために鳥羽天皇に退位を迫ったと言われます。このため、鳥羽天皇は崇徳天皇を叔父子(実際は叔父にあたる自分の子という意味か?)と呼び、生涯嫌い続けました。まあ、本当に崇徳帝が白河法皇の子であったかどうかは璋子しか知らないことなのでしょうけどね。このことが、ドラマにあった様に帝室を二分する事となり、保元の乱が起きる一因となって行きます。有る意味、白河法皇の御乱行が平安時代の終焉を招いたと言えるのかも知れません。

ドラマとしては、昨日書いたようにとても面白いと思ったのですが、いくつか違和感も感じました。その一つが、忠盛が庶民の為に働いてきたと言った事で、当時はそんな感覚を持った官人はおそらく誰も居なかった事でしょう。このあたりは、NHKのサイトにも書かれている事で、検非違使は目の前で殺人が行われても何もしなかったのだとか。ましてや、白河法皇が市井の民のために政治を行った事など一度も無いのではないかしらん?でも、現代に向けてのドラマだから、そのあたりは意訳しないとドラマとして成立しなくなってしまうのでしょうね。

また、白河法皇が、やたらと人を殺せと命じている事にも違和感を感じます。当時は穢れというものを極端に嫌う時代で、宮中に鳥の死骸が一つ落ちていただけで大騒ぎとなる様な始末だったと言われます。そんな時代に、目の前で人を殺せなどと命じるかしらん?確か、保元の乱以前は久しく死刑というものは行われていなかったはすで、いかに白河法皇と言えども自分の子供や愛妾を殺せなどとは命じないと思われます。

最後は、忠盛と白河法皇の関係で、実際はもっと親しい関係にあったものと思われます。忠盛灯籠の逸話にも有るように忠盛は白河法皇の側近の一人で、後に殿上人となった事からも覚えは目出度かったはずです。少なくとも、ドラマの様に距離感のある関係では無かった事でしょう。

などなど気になる所はいくつかあるのですが、ドラマのスケール感の大きさから言えば、まずは許せる範囲ではないでしょうか。

特に印象に残ったのは舞子が歌った今様で、テーマ音楽の主題ともなっていますよね。おそらくは今後もドラマを通しての基調となって行くのではないかな。実際に平安時代の歌声がどうだったかは判らないけれども、あの時代を追憶するには相応しい旋律だと感じました。

次回は松山ケンイチが登場する様ですが、どんな演技を見せてくれるのか楽しみです。

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京都・洛西 冬はつとめて2012 朝の光 ~渡月橋~

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昨日は黎明の嵐山をお届けしましたが、今日は朝日が昇った直後の渡月橋をお届けします。この時間帯のメリットは、順光が得られるという事ですね。つまり、すっきりした青空を撮るには、この時間帯が適しているという事になります。

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あえて逆光から撮るとこんな感じですね。これはこれで悪くないけど、せっかくの橋が良く見えないのが難点です。

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これは橋の上から撮ったのですが、渡月橋が影になって写っているのが判るかな。これも夜明け直後にしか見る事が出来ない景色ですね。

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最後は、最も渡月橋らしい写真を撮ってみました。有り勝ちではあるけれども、如何にもこの橋らしい景色でしょう?こんな具合に、嵐山で誰にも邪魔されることなく遊べる事が、早朝の一番のメリットかも知れないですね。

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2012.01.08

平清盛第1回 「ふたりの父」

(1185年、鎌倉。義朝の菩提を弔う寺の柱建てが行われています。その様子を見守る頼朝。そこに馬で駆け込んできたのは政子。彼女は壇ノ浦で義経によって平家が滅ぼされた事を知らせます。喜びに溢れる武者達。太刀を捧げて霊前に報告する頼朝。その背後で、口々に平家を悪し様に罵る武者達。ところが、頼朝は振り向き様、清盛無くして武士の世は来なかったと叫び、皆を黙らせます。おかしな事を口走ったと後悔し、再び柱に向かって頭を垂れる頼朝。)

(以下、頼朝のモノローグ。海に生き、海に栄え、海に沈んだ平家、その平家を築いた清盛という男こそが、真の武士であった。)

(1118年、京。草原を駆ける女。その女を追う源為義とその郎党達。彼らは白河法皇の命により、女を追っているのでした。女を見失った郎党を叱りつける為朝。必死に逃げ続ける女。)

(清盛が生まれた頃の武士は、朝廷の犬、王家の番犬と呼ばれていました。彼らは王家に命じられるまま、盗賊などの捕縛に当たっていたのです。)

(その日の夜。盗賊、朧月の追討に現れた平正盛。果敢に抵抗する朧月の一味。朧月と一騎打ちし、これを見事に討ち取った忠盛。その忠盛に、自分が盗みを働くのも、武士が人を斬るのも同じ事だと、呪いを掛けるが如く言い捨てて果てた朧月。)

(翌朝、捕らえた盗賊達を引き連れて都大路を行く正盛たち。その前に現れた関白の牛車。慌てて道を空け、路傍に跪く正盛達。)

(血の臭いがすると言って牛車を止め、外を覗いた関白、藤原忠実。朧月一味を捕らえた事を院に報告に行くと誇らしげに告げる正盛に、その血は盗賊の血かと吐き捨てるように言う忠実。そして、正盛の横に控える忠盛に向かって、その様な血まみれの姿で都を歩くでないと咎め立てをします。お言葉でございますが、と異議を唱え始める忠盛。これを押しとどめ、せがれの無礼を詫びる正盛。おー、いやいやと言い捨てて牛車を急かせる忠実。)

(川(鴨川?)。身体を洗いながら、武士が血にまみれて何が悪いと叫ぶ忠盛。そこにそっと匍いながら近付く菰を被った乞食。しかし、その乞食は水際で突っ伏してしまいます。大事ないかと言いながら近付く忠盛。彼が菰を撮ってみると、それは女でした。)

(女を家に連れて帰り、介抱してやる忠盛。そこに訪ねてきた為義。)

(正盛の着物が血にまみれているのを見て、何があったと尋ねる為義。朧月一味を召し捕ったと答える忠盛。それを聴き居て、平氏には盗賊退治を命じ、源氏には下賤の女を追捕らえよと命じられる、どこまで源氏を見くびっているのだと憤る為義。)

(忠盛に問われるままに、訳を話し始める為義。)

(鳥羽天皇の女御、璋子が入内後ずっと伏せっていた。その璋子を慰めるべく、手ずから水仙を摘む鳥羽天皇。それを止める堀川局。薬師にも僧侶にも治せぬだろうと言って、侍女に水仙を手渡す帝。)

(これは何かが取り憑いているのではないかと、陰陽師に祈祷させた白河院。その結果、病の元は女と出た。その女とは、院の元に出入りしていた白拍子で、院の子を宿している。その子は王家に災いをなす忌むべき子だと言われ、女に腹の子を流すように命じた院。しかし、女は逃げた。為義は3日の間女を追っているが、未だに見つけられずに居る。)

(手柄を横取りにするなと言い捨てて去って行く為義。)

(馬のいななきに驚いて家に戻る忠盛。そこでは、女が一人で子供を産み落としていました。その子は院のと問い掛ける忠盛。いきなり刃物で斬りかかる女。危うく避ける忠盛。さらに激しく斬りかかる女。赤子を産んだばかりの身体で無理をするなと言いながら女を取り押さえた忠盛。しかし、女は隙を見て忠盛を突き飛ばし、赤子を抱えて逃げようとします。太刀に手を掛けて脅し、悪いようにはしないから大人しくしてくれと言って女を鎮める忠盛。)

(いきなり手に持った刃物で赤子を突き刺そうとする女。捕らえられてこの子を殺されるくらいなせ、いっそここで二人とも死ぬと叫ぶ女を取り押さえ、死んでも子を守るのが母の勤めだろうと叱りつける忠盛。ところが、平気で人を殺す武士のくせにと反対に毒づく女。武士が太刀を振るうのは勤めだ、王家の命のに従っているだけだと反論する忠盛。つまらぬと吐き捨てる女。かっとなり、おまえこそ白拍子上がりではないか、そんな下賤な女に罵られる覚えはないと言い返す忠盛。下賤しいとは何だと言い返そうとする女。その時、赤子が泣き出します。胸を露わにし、赤子に乳を含ませる女。それをまぶしそうに見つめる忠盛。)

(正盛の部屋。忠盛が女を確保した事を聞き、それは平家の手柄だと喜ぶ忠正。しかし、女を院に差し出すつもりは無いと否定する忠盛。そして、正盛に向かってこの家に親子を匿う許しを請います。口々に反対する郎等達。しかし、捕まっては罪のない赤子の命が無くなってしまうと言い張る忠盛。頭領として、この様な事を許すわけにはいかないと正盛。ならば親子の縁を切られよ、こればかりは従う訳にはいかないと一歩も引かない忠盛。)

(母に抱かれて安らかに眠る赤子。なぜ我らを匿うと問う女。罪無き赤子を死なせて何が武士の誉れれか、自分の仕事に誇りを持ちたいのだと答える忠盛。女の名は舞子といいました。)

(院から舞子を捕らえられぬ事で叱責を受けている為義。今度は平家に探させると言われ、今暫くの猶予をと願い出る為義に、待てぬと一言で拒否を示す白河院。)

(そこに現れた祇園女御。舞子を捕らえてどうなさるおつもりか、赤子ともども殺すつもりですかと問う女御。彼女にとって同じ白拍子の出で、かつ故郷を同じくする舞子は、妹の様な存在でした。女は殺さないと白河院。赤子をを殺されては同じ事、そもそも自分が孕ませた子を殺せなどとよく思いついたものだと精一杯の皮肉を言う女御。璋子の命が懸かっている、それに比べれば遊び女に産ませた子の一人や二人と冷酷さを見せる白河院。)

(璋子の部屋。帝が手摘みした水仙を御簾内に差し入れながら、帝がお渡りですと告げる堀川局。今は会いたくないと断る璋子。)

(里帰りを願い出た璋子。きっと璋子は院が恋しいのであろう、7つの時から可愛がられて育ったゆえ無理もないと言い、早すぎる里帰りを案ずる堀川局に構わぬと許しを与える帝。)

(郎党を引き連れ、都大路を行く忠盛。その時、路傍から父を捜す子の声が聞こえてきます。それは、朧月の息子でした。泣きながら父を呼ぶ子を、痛ましげに見る忠盛。その耳には、あの日の夜、朧月が言った言葉が甦っていたのでした。)

(忠盛の家。洗濯をしながら忠盛の帰りを待っていた舞子。そんな事は侍女にやらせればよいと忠盛。ただ世話になっているのは性に合わないと言って、忠盛が持っていた着物を奪い取る舞子。しかし、その着物は血まみれでした。ばつが悪そうな二人。)

(洗っても洗っても血の臭いが消えない、武士は働けば働く程汚れて行くと吐き捨てる忠盛。洗濯をしながら、「遊びをせんとやうまれけむ。戯れせんとや生まれけむ。」と良い声で歌い出す舞子。それは何だと忠盛。今様ですと舞子。なんとのんきな歌だとあきれる忠盛。)

(生きる事は子供が遊ぶように楽しい事ばかりではないと忠盛。されど、苦しい事ばかりでもないと舞子。子供が遊ぶ時は目の前の事に夢中になっている、そういう事が生きるということではないか。楽しい時も、苦しい時も同じだと言っているのがこの歌だと思うと舞子。夢中で生きていれば、なぜ太刀を振るうのか、なぜ武士が今の世を生きているのか判る時が来るのではないかと舞子。)

(巨大な牡鹿をしとめた忠盛。)

(川で馬に水を飲ませる忠盛と、その側で洗濯をする舞子。その舞子に、照れながら牡鹿の角を、魔除けになると言って手渡す忠盛。微笑みながらその角を髪に刺す舞子。そしてまた「遊びをせんとや」と歌い始めます。)

(近くを通りかかった為義。舞子の歌声で、忠盛たちに気付きます。忠盛も妻を娶ったかと為義。しかし、郎党は、探していた女は白拍子だったはずと舞子の正体を見破ります。はっと驚く為義。)

(舞子の側を離れ、馬を曳きながら川縁を歩く忠盛。その隙に舞子に近付く源氏の郎等達。鳥の羽音に異変を感じ、引き返す忠盛。しかし、そこには舞子の姿はなく、牡鹿の角だけが落ちていました。)

(白河院の屋敷。庭に引き据えられている舞子と赤子。王家に災いなすものと知りながら産みおったかと罵る白河院。怯える舞子。そこに、璋子が快癒したという知らせを持って来た祇園女御。これで赤子が王家の命運とは何の関わりもないという事になるのではないかと言い、許しを請う女御。その時、忠盛が目通りを願い出て来ます。)

(庭先に座り、忠実の詰問に正直に答える忠盛。しかし、全ては王家のためにした事、陰陽師の戯言にたぶらかされ、時自身の子をころすなど王家の威厳に関わると言い張る忠盛。忠盛の言葉を聞き、良く判ったと白河院。しかし、このままでは陰陽師にたぶらかされ、大騒ぎをしたたおろかな院と誹られる事になる。よって、母親に命をもって贖ってもらおうと舞子に師を命じます。そればかりはと許しを請う忠盛に、そなたが斬れと命ずる白河院。)

(答えない忠盛に、逆らえばそちが不忠とみなされ命を奪われるぞと脅す藤原長実。その言葉に、一斉に矢をつがえ、忠盛を狙う北面の武士達。しかし、忠盛は意外な行動に出ます。舞子を妻にしたいと院に願い出たのでした。武士のくせによくほざいたと戦慄く院。)

(武士故に願う、武士として数多の者を斬ってきたのは、舞子や赤子の様な者を助けるためと思っての事、その様な政を院がしているからだと信じて来たからだ。そうではなく、ただ体面のために罪無き女を斬れと言われるのならと言い募る忠盛。その忠盛を遮るように赤子を手渡し、この子に良い名を付けて下さいと囁く舞子。あっけにとられる忠盛を尻目に立ち上がり、懐の小刀を取り出し白河院に向かっていく舞子。その舞子をめがけて放たれる無数の矢。血まみれとなって倒れる舞子。)

(呆然となりながらも、舞子の側に這い寄る忠盛。血の臭いが残らぬ様に片付けておけと冷たく言い張って立ち去る白河院。おののく長実。痛ましげに舞子を見る祇園女御。舞子の名を呼び続ける忠盛。泣き出す赤子。悲しげに涙を流す祇園女御。)

(草原で、赤子を抱いて立ちつくす忠盛。そこに通りかかった正盛。彼は平家の頭領として院に詫びに行くところでした。彼は忠盛に、此度は平家一門が滅びるところだった、しかし、あの女が一人で全てを引き受けてくれたのだ。王家に逆らえば大きな物を失う事になる、武士は王家に仕えている、そのために太刀を帯びているのであり、なぜと疑問を挟む余地など無い、と言い聞かせて去っていきます。)

(後に残った忠盛の耳に、舞子の歌と言葉が甦ります。彼は赤子に平太と名告げました。平家の太郎、つまり自らの子として育てる決心をしたのでした。)

いよいよ平清盛が始まりました。当ブログでは江に引き続き毎週日曜日毎にレビューを掲載して行く事とします。ただ、初回は長時間であった上に私自身のペースを掴めなかったために、かなりの長文となってしまいました。これでやっと半分なのですね。あまりに長くなりすぎたため、今回は二回に別けて掲載する事とします。史実との比較や感想は、明日まとめてアップしますね。

ざっとした感想だけを書いておけば、久しぶりに力の入った大河を見せて貰ったという気がしています。この先もこの調子が続いていけば、かなり面白いシリーズになりそうな予感がしますね。

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2012.01.07

京都・洛西 冬はつとめて2012 黎明 ~大堰川~

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この時期になるとやりたくなるのが「冬はつとめて」シリーズ、今年は初心に戻って嵐山に行って来ました。

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なぜこの時期かと言えば、枚方から始発に乗るとちょうど京都に着いた頃に夜明けになるという事情があります。つまり、日の出が1年中で一番遅いこの時期でないと、この企画が成立しなくなってしまうのですよ。

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今日の嵐山はと言うと、概ね晴れてはいたのですが、夜明け前には厚い雲に覆われており、日の出を撮るのは望み薄かなと思われました。でも時間と共に空は晴れて行き、わずかながらも朝焼けを見る事も出来ましたよ。

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そんな具合に、刻々と変わっていく空を見ているのは楽しいですね。有る程度は先が予想出来る夕焼けと違って、朝焼けは変化が激しく、クルクルと様子が変わっていくのが面白かったです。

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大堰川には鴨が沢山居て、夜明け前から結構活発に動いているのですね。仲良く群れているかと思えば仲間同士で喧嘩をしてみたりと、なかな賑やかでしたよ。

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水面もまた、空の変化を写して様々に表情を変えて行きます。風と鴨の群れが起こすさざ波がさらに加わるので、空よりも面白い模様になっていました。

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そして、夜明けを迎えます。わずかでも日が当たると、暖かみを感じるのは凄いですね。それまで冷え切っていた身体が、ほんのりと暖められるのを実感しましたよ。太陽のありがたさを身をもって知ったと言えば大袈裟かな。

明後日は朝日に照らされた渡月橋の姿をお届けします。

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2012.01.06

平清盛 人食い地蔵 ~積善院準提堂~

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聖護院の塔頭に積善院準提堂という寺があります。本寺に隣接し、ほとんど境内地にあると言っても良い位置関係にありますね。節分の懸想文売りで有名な須賀神社とは向かい合わせの関係にあり、2月23日に五大力尊法要が行われる事で知られます。

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元は積善院と準提堂という別々の寺だったのですが、維新後の廃仏毀釈の際に合併し、現在の名称となりました。敷地は積善院の故地ですが、この本堂は準提堂から移築したものなのだとか。こんな具合に、廃仏毀釈によって合併を余儀なくされた寺は幾つもあり、当時の混乱ぶりが窺える様な気がします。

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さて、その積善院準提堂にあるのが人食い地蔵、保元の乱によって都を追われた崇徳上皇の霊を慰める為に祀られたお地蔵様です。

戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐の地に流刑となり、木ノ丸殿に幽閉されてしまいます。誰一人訪ねて来る者も居ないまま、孤独の中で暮らしつつも前非を悔いた上皇は、父である鳥羽上皇の霊前に供えるべく5巻に及ぶ写経を認めて都に送ります。しかし、受け取った後白河上皇は呪詛が込められているのではないかと疑い、そのまま送り返してしまったのでした。あまりの仕打ちに恨み骨髄に徹した上皇は、我れ都を呪う鬼とならんと写経の全てに血文字で記し、幽鬼のごとくになり果てて亡くなりました。

やがて、都は天変地異に襲われて飢饉が蔓延し、栄華を極めた平清盛も熱病に苦しみながら亡くなってしまいます。人々はこれは崇徳上皇の祟りだと恐れおののき、後白河上皇は崇徳上皇の霊を慰めるべく、その死から四半世紀後に粟田宮という神社を建てました。今は存在しませんが、聖護院の森、今の京大病院の辺りにあったと言われます。ここは、保元の乱の激戦地でもあったのですね。

粟田宮は何度となく火事や洪水によって失われましたが、その都度建て直されていた様です。しかし、江戸時代に入る頃にはすっかり無くなってしまい、わずかにご神体を祀った祠だけがあった様ですね。その祠にいつしか祀られたのがこの地蔵様だった様です。

初めは崇徳院地蔵と呼ばれていたのですが、何しろ名にし負う怨霊相手ですから、次第に「すとくいん」が訛って「人食い」と呼ばれる様になったのだとか。いかにもという謂われではありますね。

この地蔵がなぜ積善院準提堂にあるのかは判りませんが、たぶん付近一帯に京大が建設されるにあたり、移転させる必要があった地蔵堂を近くの寺が引き取ったという事ではないでしょうか。

この崇徳上皇の和歌が百人一首に収録されています。

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

落語「崇徳院」のモチーフになっている事でも有名ですが、およそ怨霊のイメージとはかけ離れた風雅な歌ですよね。こんな人を怨霊とさせてしまった当時の社会情勢、そして周囲の人々の心なさを思うと、このお地蔵様に込められた都人の願いが伝わってくるような気がします。


なお、今回の記事を書くにあたっては、下記のサイトを参考にさせて頂きました。とても詳細な考証をされており、興味深い記事でしたよ。

洛中洛外虫の目探訪

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2012.01.05

京都・洛東 冬景色2012 ~真如堂 名残の紅葉~

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昨日は冬枯れの景色をお届けした真如堂ですが、昨年末にはまだ名残の紅葉も残っていました。本当にわずかではあったのですけどね。

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この時期になると撮りたくなるのが、白壁に写った梢の陰です。ただ、まだ葉が多く残っていたため、思ったよりも煩い絵になってしまいましたね。

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その影の主がこのもみじです。さすがに瑞々しさは無くなっていましたが、ぱっと目には綺麗な色をしていましたよ。

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山門前でも、縮れてはいたものの、まだ鮮やかに見える紅葉が残っていました。背景の丹色と良く似合っているでしょう?

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せっかくだから、程度の良い葉を選んでマクロで撮ってみました。裏側だったのですけどね、上品な色合いが出ていると思いません事?

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このもみじたちも、昨日の強風で散ってしまった事でしょうね。その一方で、春の使者もすぐ近くに来ていました。これは馬酔木の花なのですが、蕾が既に膨らみはじめていたのです。この分だと、2月の声を聞く頃には咲き始めているかも知れないですね。

探せば咲いているロウバイも見つけられたかな。紅葉のすぐ後に早春の気配を探すというのも何ですが、やはり春というのは見つけると嬉しくなるものなのですよね。

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2012.01.04

京都・洛東 冬景色2012 ~真如堂~

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あまり季節感を狂わせてばかりでもどうかと思うので、これぞ冬景色という風景をお届けします。ここ真如堂では大半の紅葉は散り果て、冬枯れの光景となっていました。

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この木は本堂前にある菩提樹ですが、まだ実は上の方になら幾らか残っていましたね。この実を欲しいと思う人は、まだ木の下を探せば落ちていると思いますよ。

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冬は樹木の姿が良く判りますね。これは三重塔前にあるハナノキですが、剪定をしない自然樹形というのは美しい姿になるものだと思います。

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こちらは曲線的な百日紅を主体に撮ってみました。手前の木はもみじ、奥の木は何だろう、たぶんランシンボクだったかな。こんな具合に、木によって異なる樹形を比べてみるのも、冬ならではの楽しみの一つですね。

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2012.01.03

京都・洛北 冬景色2012 ~下鴨神社~

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下鴨神社の冬景色です。(ただし、写真は昨年末に撮ったもので構成しています。)この日は、冬らしい澄んだ青空が広がっていました。

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とは言いつつ、糺の森は相変わらず晩秋の風情のままだったりします。

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特に、昨年新しく出来た茶店近くの植え込みは、まさに盛りと言って良い紅葉でした。

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これを撮ったのは12月29日の事だったので、三が日も似たようなものだった事でしょう。

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泉川沿いもまた、程度の良い紅葉が残っていましたね。少し盛りを過ぎた程度で、見頃と言って良い状態だったと思います。さすがに、秋の盛りの頃のように艶やかな紅葉は少なかったのですけどね。

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それでも、綺麗な紅葉はどこかに無いかと探したところ、泉川の川底に沈んでいるのを見つけました。たぶん、低い水温のせいで、変色せずに保存されていたのでしょうか。

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こちらは赤い紅葉です。水のフィルターを通しているので、余計に艶やかに見えるのでしょうね。

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1月の記事とは思えないでしょうけど、現状はこんなものです。さすがに、もう少し経てば冬枯れになるでしょうけどね。これからは、糺の森の紅葉は12月末から1月初め頃にかけてが見頃、というのが標準になって行くのかな。さすがに一時的現象と思いたいのですけどね、結論は数年後にどうなっているかによって決まる、かな?

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2012.01.02

京都・洛北 龍図 ~大徳寺塔頭 龍源院~

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2012年は辰年という事で、龍にちなんだ社寺が賑わいを見せている事でしょうね。当ねこづらどきが選んだのは龍源院、方丈の襖に龍の水墨画が描かれている寺です。

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龍の絵は京都中に幾つもあるのですが、その中でもお気に入りの絵の一つなのですよ。典型的な龍の構図なのですが、シンプルなのに迫力があり、なおかつどこか親しみやすいという面白い絵ですね。作者不詳だそうですが、技巧の巧拙は判らないのでともかくとして、良い絵だと個人的には思っています。

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龍源院は以前に紹介していますが、4つの庭がある事で知られています。その一つが一枝坦(いっしだん)。方丈南側にある枯山水の庭ですね。

作庭は昭和55年と比較的新しく、当時の御住職が監修されたのだとか。鶴島、亀島、蓬莱島からなるシンプルな構成なのですが、石の配置のバランスが良く、見ていて気持ちの良い庭ですね。

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方丈北側にあるのにが龍吟庭。室町時代の相阿弥作と伝えられる庭で、右側の石組みが須弥山を現しています。そして、ここから見ると一連の石組みが龍の形に見えると言うのですが、確かにそんなふうに見えなくもないですね。辰年に訪れるには相応しい庭と言えるのかな。

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書院の南側にあるのが阿吽の石庭「滹沱底(こだてい)」。聚楽第縁という二つの礎石を配した枯山水ですが、あまりに細長いので、いつもどう撮れば良いかと迷わされる庭ですね。

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そして、日本最小の石庭と言われる「東滴壺(とうてきこ)」。この庭も昭和の作庭で、元は南天などの植え込みがあった場所らしいですね。由緒ある寺に改変を加えるのは勇気が要る事と思われますが、この庭に関しては変えて正解だったと言えるでしょう。

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山門内の前庭では、山茶花が見頃を迎えていました。たぶんですが、一枝坦の場所に生えていた樹齢700年という山茶花「楊貴妃」の二代目ではないかしらん?説明が無いので、確実な事は言えないのですけどね。

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玄関前には、白の詫助椿が咲いていました。ただ、写真を撮る程には状態の良い花が無かったので、落ち椿の方をご覧頂きます。地面にあってもなお美しさを保つという、椿らしさを見せてくれている花ですね。

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2012.01.01

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。今年も当ねこづらどきに訪れて頂き、ありがとうございます。

さて、新年の冒頭に登場願ったのは、昨年に引き続き下鴨神社の舞殿に掲げられた絵馬です。モチーフは今年の干支の龍、周囲に波しぶきが見えるところを見ると、今まさに水から飛び出したところを現している様ですね。左には活龍不滞水と書かれており、水の底で鋭気を養っていた臥龍が、昇龍となって天に昇っていくという位の意味なのでしょうか。きっと、日本そして世界の再生の願いを籠めた絵馬なのでしょうね。

この絵馬にあやかって、2012年が良い年であります様に。
今年も当ねこづらどきを、よろしくお願いいたします。

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