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2011.12.06

平清盛 ~平康頼供養塔 双林寺~

祇園女御塚跡のすぐ近く、音楽堂の東側に双林寺という寺があります。創建は805年(延暦24年)に遡り、伝教大師の開創と伝えられる古寺ですね。今は本堂と飛び地境内の西行庵しかないという小さな寺ですが、かつては数万坪の境内に17の子院を有するという大寺でした。祇園女御の在世当時にもあった事になり、もしかしたら女御が住んでいたのは双林寺の境内の一角だったんじゃないかという気もしますね。

この寺もまた平家物語に縁があり、史跡の一つに数えられます。その縁とは平康頼と関係があります。

平康頼(生没年不詳)
後白河法皇に仕えた北面の武士。元は中原氏の出で、平保盛に仕えていた事から平姓を賜ったと言われています。尾張の国の目代を勤めていた時、源義朝の墓が荒れ放題であった事を哀れみ、これを整備しただけでなく、後の管理のためにと土地を寄進したという事がありました。義朝は康頼にとっては敵将であったのですが、この事は情けを知る武将であると彼の評判を高め、後白河院の近習に取り立てられるきっかけとなります。そして、院の引きで検非違使左衛門尉を勤めた事から、「平判官」とも呼ばれました。

ところが、順調だった彼の人生にも、波乱の時が訪れます。後白河法皇の近臣が画策したという鹿ヶ谷の陰謀に加担し、捕らえられてしまったのですね。彼は、俊寛・藤原成経と共に鬼界島に流されました。この途中、周防で出家して性照と号しています。

鬼界島では、成経と共に熊野三所権現を勧請して帰洛を願いました。また、京に住んでいる老母を偲んで

「思いやれしばしと思ふ旅だにも なほふるさとは恋しきものを」

と、

「さつまがた沖の小嶋に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」

という2首の歌を千本の卒塔婆に書き、都に届けと祈念して海に流したところ、その内の1本が安芸の厳島神社へ流れ着きました。たまたま厳島へ来ていた康頼と親しい僧がこれを拾って都へ持ち帰り、康頼の母の下に届けてやります。この話が法皇さらには清盛の知るところともなり、哀れを誘いました。

翌年、懐妊した建礼門院の健康が優れず、これは鹿ヶ谷の変で処罰された人々の恨みによるものかも知れないと考えられました。流人もまた生き霊となって祟りをなすと考えられていたのですね。このため大赦が行われる事となり、鬼界島の康頼と成経もまた呼び戻される事となります。しかし、一緒に流された俊寛は罪が深いとして、ただ一人許される事はありませんでした。

長々と書いてきましたが、双林寺との縁はここから始まります。康頼は、都に帰った後は双林寺にあった自分の別荘に住み、仏教説話集「宝物集」を編纂したと平家物語は記しているのですね。

平家が滅亡した後、康頼は源頼朝の推挙により阿波麻殖保の保司に補されました。これは、かつて康頼が義朝の墓を弔った事に対する頼朝の返礼で、かつての善行によって彼は再び官途に就く事が出来たのですね。その後は阿波に住み続けたのですが、その死後に遺骨を分骨し、双林寺にも埋葬されたと言われます。

この康頼の別荘跡や墓は現存していませんが、後代に建てられた供養塔は残されています。本堂の西側に3基の石塔が並んでいるのがそれですね。双林寺のホームページに依れば、この寺と縁の深い西行法師、頓阿法師それに康頼の供養塔であり、好事家によって建てられたものではないかとありますね。つまり、史跡としての価値は低いという事なのでしょうけど、例えそうだとしてもここに康頼が居たという事を知る手かがりとはなります。

今度のドラマで康頼が登場するかどうかは判りませんが、こうした知られざる史跡を訪ねてみるのも面白いと思いますよ。


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