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2011.12.03

平清盛 ~祇園女御塚跡~

来年の大河ドラマは平清盛を主人公して描かれます。清盛が活躍した舞台は主として京都であり、縁の地も数多く残されています。当ブログではドラマの進行に合わせてレビューを掲載する予定ですが、それと平行して史跡の紹介も行っていこうと思っています。今回はその先取りとして、いくつかの史跡をアップして行く事とします。まずは祇園女御塚跡の紹介から始めましょうか。

祇園女御とは、平家物語において清盛の母とされている女性の事です。実在の人物とされますが、非情に謎が多く、その人物像については現在でも諸説が入り乱れているのが実情です。

まず、その読み方からしていくつかあり、「ぎおんにょご」、「ぎおんにょうご」、「ぎおんのにょご」、「ぎおんのにょうご」など資料によって様々ですね。ドラマでは「ぎおんにょうご」が採用されています。

白川法皇の晩年の想い人であった事は確かですが、その出自については諸説があり、町家の水汲み女説、皇后に仕えていた女性とする説、源仲宗の妻とする説などが主なところですね。ドラマでは白拍子の出身という設定になる様ですが、いずれにしても正式な女御の宣旨を受けていない事から出自が低かった事は確かな様です。

類い希な美人であったと言われ、白川法皇の寵愛を一身に集めていたとされます。その寵愛が彼女に権勢を与える事となり、法皇の死後もなお朝廷に対する影響力を持っていました。清盛の他に待賢門院(鳥羽天皇の中宮。崇徳天皇や後白河天皇の母。)を養っていた事でも知られています。

祇園女御と平氏の関係は古く、清盛の祖父である正盛の代から仕えていました。正盛は女御の世話で各地の受領を重ね、後の平氏の勢力の基盤となる財を蓄える事が出来たと言われます。その子である忠盛もまた父に引き続いて女御に仕え、密接な関係を築いて行きました。

平家物語においては、女御の下に通う白河法皇の供をしていた忠盛が、夜の祇園社で見かけた怪異の者を実は蓑を被った社人であると見破ったとあります。法皇は忠盛の沈着さを褒め、その褒美として女御を下賜されました。そして、その時女御は懐妊しており、生まれて来る子が男なら忠盛の子として育て、女なら法皇が引き取ると約束します。こうして生まれたのが清盛であると言うのですね。

この物語にある様に、女御が忠盛の妻となったかどうかについては意見が分かれている様です。話のストーリーはともかくとして下賜は事実で正妻となったと見る説と、父の代から仕えていた女性を妻とするなど有り得ないとする説とがあり、どちらかというと後者の方が有力である様ですね。

では、忠盛の妻ではなかったとした場合、清盛の母は誰かとなるのですが、女御の妹であるとする説が有力です。近江の「胡宮神社文書」という資料があるのですが、そこには女御の妹もまた白川法皇の寵愛を受けており、その懐妊が判った後に忠盛へ下賜され、やがて清盛を産んだと記されています。この女性が清盛3歳の時に亡くなり、哀れに思った女御が甥である清盛を猶子として慈しんだのではないかと考えられているのですね。

ただ、「胡宮神社文書」は鎌倉時代以降に書かれたものであり、その記述は平家物語の影響を受けていると疑問視する向きもあって、必ずしもこれが正しいとは言い切れない様です。

忠盛に早世した正妻が居た事は記録にあり、亡くなったのは清盛が3歳の時でした。仙院の辺りに伺候していた女性とあるのですが、この仙院とは上皇又は法皇の御所の事を指します。この女性を祇園女御と見るか、その妹と見るか、また全くの別人と見るかで結論が変わってくる訳ですが、いずれにしても清盛が法皇の落胤であるという可能性はついて回る事になります。この女性が女御やその妹ではなかったとしても、法皇の側に仕えていた事が確かである以上、お手つきの女性を下賜されたという可能性は否定できず、その事実が形を変えて平家物語に反映されたとも考えられる訳ですからね。

ドラマではこの落胤説を採っていますが、無論その反対意見も多くあって、どちらが正しいかは判らないというのが現状です。

元に戻って、祇園女御が実母でないとした場合になりますが、猶子というのは名目上の親子であり、必ずしも手元に引き取って育てた訳では無い様です。経済的な援助を与えたり、あるいは官途に就く時に口利きをしてやったりするという関係だった様ですね。清盛は若くして官途に就き、その出世が早い事で知られているのですが、そこには祇園女御のバックアップがあったと考える説が有力です。ドラマもこの線に沿って描かれる様ですね。

さて、その祇園女御の史跡ですが、大雲院の北隣、音楽堂の西にあり、今は祇園寺という小さな寺になっています。この寺と女御がどいう関係になるのか良く判らないのですが、数年前まではここに祇園女御塚と呼ばれる供養塔がありました。女御の住居跡と伝わり、小さな阿弥陀堂がその前にあったのを覚えています。ここには恐ろしい伝説があり、この塚にある物一切に触れると大変な不幸が訪れると言うのですね。女御は怨霊でも何でも無いのですが、こうした伝説があったのはなぜなのでしょう。石塔の背後には芭蕉が植えられていたのですが、その大きな葉が不気味さに一層の拍車をかけていましたっけ。それでも世話をする人はちゃんと居て、定期的に草は刈られていたようです。

それが、突然工事が始まって今の寺になったのですが、その間の経緯は判りません。寺の人に聞こうにも、いつも閉まっている感じなのですよ。来年は注目される場所であり、ちゃんとした説明が欲しいところではありますね。(追記:平成23年の年末に現地を確認して来たところ、名称が祇園堂に変更となり、さらに供養塔も帰って来ていました。詳細は別記事に記載していますので、参照して下さい。)


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