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2011.06.01

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その4~

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(丹虎跡)

(助勤に抜擢された鹿内に小さな変化が現れた。元治元年6月の池田屋事件の時の事である。)

(この時、新選組は2隊に別れた。一組は近藤が6人を率いて池田屋に向かい、土方が20数名を率いて木屋町三条上がるの丹虎に向かう手筈となった。この理由は、この日の最後に入った情報では、浪士達の会合は丹虎で行われるという見方が強くなったためである。鹿内は土方隊に入った。)

池田屋事件の時、近藤隊が池田屋へ、そして土方隊が真っ直ぐに丹虎に向ったという事実は無い事は以前に書いたとおりです。ただし、効率良く探索をするために隊を分けたのは事実で、近藤が率いていたのは10人、土方が率いたのは24人でした。土方隊の方が人数が多いのは、より広い祇園町を受け持ったためで、その土方隊の中に井上源三郎を長とする11人の分隊が存在した事も以前に記したとおりですね。

(この丹虎には、かつて土佐の武市半平太が起居していた事があり、過激浪士の巣窟だった場所でもある。武市はここから佐幕派要人の暗殺を指揮していたとも言われている。)

武市半平太については、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で取り上げられており、その事績を記憶されている方も多いかと思われます。武市がここに居を構えたのは文久2年閏8月の事で、翌文久3年4月に土佐に帰るまで住処としていたと思われます。丁度新選組の登場とは入れ替わりになっていますね。

彼がここで天誅に手を染めていたのは文久2年閏8月から同9月にかけての事で、案外短いですね。その間に明確に関与したとされる天誅は、本間精一郎、目明かし文吉、与力・渡辺金三郎ほか3名などです。

彼が天誅から手を引いたのは時の関白から目に余る天誅は控えよと諭されたからと言われ、以後直接関与する事はなくなった様です。しかし、天誅そのものはその後も横行しており、印象としては半平太が全て裏で糸を引いていたかの様に見えてしまいますね。このあたりが、一度暗殺に手を染めてしまった者にまとわりつく因果というものでしょうか。

(鹿内が土方隊に入ったのは、土方のはからいに依るものらしかった。土方は鹿内の鎖帷子のほころびに気付き、自ら蔵に足を運んで新しい着込みを持って来てやった。普段隊士に親しみを見せた事がない土方にしては異例の事であり、鹿内は激しく感動した。)

モデルとなっている浅野について言えば、池田屋事件では近藤隊に属していました。報奨金が20両と多いからで、土方隊に居れば17両だったはずです。ただし、屋内への斬り込み隊には入っておらず、谷万太郎、そして武田観柳斉と共に表口の固めをしていたものと推測されています。なぜ裏口ではなく表口だったかと言うと、死亡した安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門が裏口を固めていたと考えられるからで、彼らは長州藩邸への脱出を目指す志士たちの殺到を受けて倒されてしまったと推測されているのです。

(隊はさらに三人一組に分けられ、鹿内はそのうちの一組の指揮者となった。午後8時、それぞれの組は壬生の屯所を後にした。各組は道を違えて木屋町に行き、その会所に集合するという手筈になっていた。そして、それまでは一切を隠密にせよと命じられていた。)

当日集合したのは木屋町会所ではなく祇園会所でした。どうやって多数の隊士が屯所から祇園までたどり着いたのかは判っていませんが、目立つ行動は取りたくなかったでしょうから、三々五々という形で、ばらばらになって祇園を目指したであろうとは推測出来ますね。

(鹿内組は、釜座通を北上し、二条通を東に折れた。この日は祇園祭の宵々山に当たっていたが、このあたりまでは喧噪は及んでおらず無人の町の様に静かだった。彼の配下は摂州浪人の平野と神田とだった。彼らは隊内でも臆病で知られており、恐怖を紛らわす為に堰を切った様にしゃべり始めた。寡黙な奥州人である鹿内は、饒舌なこの上方人に対して好意は持っていない。)

隊士達が屯所を出たグループごとに道を変えたという事も考えられる事ではありますが、それにしても鹿内の選んだ道は変わりすぎています。何で釜座通なのでしょうね。

この釜座通は今の京都府庁の正面へと繋がっている道で、かつては京都守護職邸へと通じていた道でもあります。新選組にとっては馴染みのある道だったとも言えるけれども、この道は六角通から始まるのですよ。

屯所があった壬生は四条通の近くですが、その道からは直接釜座通に入る事は出来ないのですね。つまり、まずは西洞院通以西の道を北上する事から始めなくてはなりません。そして六角通に来るとそこを右折して東に進み、今度は釜座通を左折して再び北上を開始し、二条通に来るとまた右折したという経路になるのです。いくら何でも念の入れすぎではないのかしらん?

(今夜の相手は何人でしょうと平野が問い掛けてきた。鹿内は良くは判らないが、一説には100人とも言うと答えた。平野達は恐怖のあまり沈黙した。鹿内は上方人達に対して、小さな優越感を感じた。)

この平野と神田という隊士は実在しておらず、この作品における創作です。作者は大阪の人にも関わらず、大坂の武士には点が辛いのですね。例えば一連の作品の中で、谷三十郎については近藤が心底嫌い抜いた惰弱な武士として描いていますし、大坂者は隊士として使ってはいけないとまで言わしめています。

まあ、そこは商人の町ですから荒事には向かないと言う伝統がありますし、かつて大阪の連隊は日本最弱という評判を取ったと聞きますから、およそ大阪人は戦いには向かないという事を身に染みて知っていたとも言えるかも知れません。でも、かなりの偏見だという気もするのですけどね。

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(二条富小路付近)

(富小路の川越藩邸を越えた時、路上に道を埋め尽くす程の群れを見た。後で判ったところによると、西陣の浄福寺に屯集していた薩摩藩の檄徒10数人であり、市中に飲みに出かけての帰りがけだった。彼らは公武合体派の藩上層部とは違い長州藩的な過激思想の持ち主であり、時に黒谷の会津本陣に押しかけては藩士に喧嘩をうっているという連中であった。)

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(浄福寺)

浄福寺党と呼ばれる薩摩藩の一団が居た事は確かな様です。この小説にある様に過激な若手が中心だったらしく、今でも寺の柱に刀傷が沢山残っているそうですね。ただ、彼らが上洛したのはずっと後の事で、慶応3年3月の頃だったとされます。

彼らは四賢侯会議に出席する島津久光公に率いられてきた700人の兵卒の一部で、既にあった薩摩藩京都藩邸では収容仕切れなかった事から西陣の浄福寺を借りて住まわせたのです。薩摩藩の生きの良い若手の集団ですから、ささぞかし荒っぽい連中だった事でしょうね。もっとも、彼らが黒谷まで出かけていって、会津藩に喧嘩を売っていたかどうかまでは定かではありません。

(鹿内たちは路上で彼らの波に呑まれてしまった。彼らは提灯も持っていない鹿内達を見て不審がり、何藩の者かと尋ねてきた。普段なら新選組であると答えるところだが、この夜に限っては言う事が出来ない。鹿内は南部なまりで怪しい者ではないと答えたが、彼らは会津藩だと躍り上がる様に言った。薩摩人にとっては、南部なまりも会津なまりも同じように聞こえたのである。)

(平野達は口々に違うと言った。しかし、では何藩だと聞かれても答える事が出来ない。彼らは恐怖に駆られて逃げ出した。不覚にも鹿内もまた彼らの後を追った。鹿内の背後から一太刀が浴びせられた。鎖のおかげで斬られはしなかったが、羽織が縦に裂けてしまった。鹿内はかつてない程の恐怖を感じた。)

(鹿内は夢中で駆けた。その後を薩摩人達が足音を轟かせて追ってくる。その数は7人や8人ではない。時々、猿叫と呼ばれるきゃーというかけ声と共に斬りかかってくる。鹿内はその都度避けたが、足がもつれて思う様には走れない。)

(鹿内は小つるを想った。自分が死ねば小つるとその胎内の子はどうなるのだろう、そう思った瞬間に新たな恐怖が沸き起こった。勇気と廉恥ある心映えこそ奥州人の誇りであると信じていた鹿内はもはや居なかった。自分の無様な逃げ方を、恥ずかしいと顧みる機能は彼の中から無くなっていた。)

池田屋事件の時、参集する隊士が事故に巻き込まれたという事実は無く、この下りは完全な創作です。でも、勇敢だった鹿内が豹変するきっかけとしては上手い描き方で、惰弱な大坂者をきっかけに使い、剽悍な薩摩人を恐怖の火だねとして効果的に配し、鹿内自身が気付かぬうちに変質していた内面を露わにするという手法は見事だと思います。

以下、明日に続きます。

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