新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その5~
(高倉御池の八幡宮の境内を抜け、姉小路にまで出た時にやっと追手からまぬがれる事が出来た。木屋町に行かなくてはと思ったが、組下の平野と神田が居ない。鹿内は懸命に探し、上本能寺町という辻で死体になっている二人を見つけた。彼は呆然となりながらも、近くの本能寺の門番を叩き起こして死体の始末をさせ、自分は三条通を木屋町へと急いだ。)
薩摩藩士達に囲まれたのは二条富小路のあたりでしたから、高倉御池にまで逃げたという事は目的地の木屋町とは反対側に走った事になります。まあ、相手に背中を向けたのだからそうなるのかな。
高倉御池の八幡宮とは、御所八幡宮の事でしょうか。足利家ゆかりの神社で、今でもビル群に挟まれる様にして小さな社が残っています。江戸の頃にはもう少し東北側、現在の御池通の真ん中に位置していたらしく、境内も今よりは広かった様です。現在の位置に移ったのは戦時中に強制疎開があったためで、戦後は明け渡した土地が道路となっしまい、境内が元に戻る事はありませんでした。
一方、上本能寺町というのは今の京都市役所がある付近です。二条富小路からは東南にあたり、平野と神田は鹿内とは反対側に逃げたという事になりますね。本能寺はすぐ南隣になりますから、話の辻褄は合う事にはなる様です。
(会所では、鉢金を被り、和泉守兼定を膝の上に横たえた土方が待っていた。その姿は、鹿内には鬼神の様に思えた。来着の意を告げる鹿内を不審気に見る土方。鹿内の顔が幽鬼の様に蒼ざめていたのである。不覚でございましたと言う鹿内を制して、後で聞くとだけ答える土方。彼は平野と神田が逃げ出したと察したが、隊士の士気を考えてあえて触れなかったのである。)
ここの土方の描写は見事ですね。先程の優しさを見せた土方とは違って、まさに鬼の副長と言うべき姿に変貌しています。鹿内の心象風景と言うべきなのでしょうけれども、つい先刻までは最も信頼の置ける上司だった存在が、誰よりも恐ろしい相手に変わってしまっていたのでした。無論、その原因は鹿内の側にある訳ですけどね、ここから始まる彼の転落を予感させるには十分な光景です。
(やがて刻限になり、土方以下の隊士が疾風の様に駆け出した。土方は鴨川に面した裏口を押さえ、木屋町の南北を固め、自身は数人の隊士を引き連れただけで丹虎に押し入った。しかし、問題の激徒は一人も居なかった。)
(やはり池田屋かと察した土方は、三方に分かれた隊を呼び集め、池田屋へと向かった。しかし、夜分の事ゆえ、相当の時間を要している。この間、池田屋では近藤達が浪士を相手に勝敗不明の戦いを続けていた。)
(隊士を呼び集めた時、土方は緊張した面持ちの中に、一人だけ違う表情を見つけた。鹿内、と思ったが土方はすぐに先頭を駆け出した。)
(池田屋では、隊士の一人一人が阿修羅の様に戦った。近藤は隊士とすれ違いう都度に、おう、と励ましの言葉を掛けて行ったが、鹿内と出会う場所にはなぜか敵がいなかった。そして、最後に会った時には、鹿内から隠れる様にして消えてしまった。)
史実の浅野については、事件後の彼の刀は左に曲がっていたと言われ、相当な戦いを繰り広げたと想像されます。しかし、新選組!では、他の隊士が着られる中、一人植え込みに隠れて震えていたという描写をされており、その元を辿ればこの小説に行き着くのではないかと考えられます。事実とは180度違う評価を着せられている訳で、あまりにも可哀想なのではないかと思いますね。
(上本能寺で平野と神田が斬られた件については、鹿内の申し立てにより不問に付された。多数を相手に戦ったが、及ばすに二人斬られた。当方も数人は斬ったが木屋町への集合時間が迫っていたので、闘争の場所を捨てて会所へと向かった。しかし、鹿内はこの嘘を付き通せる人間ではなかった。)
(小つるに会い、子供が出来た事で自分は変わったらしい。かつての自分なら薩摩藩士に取り囲まれた時にも、及ばずながらも踏みとどまって斬り死した事だろう。しかし、魔が差した。)
(原田も同じ境遇に居た。しかし、彼は別の種類の人間だったらしく、一段と命知らずの原田という本領を発揮している。)
(鹿内は、小つるに逃げようと言った。しかし、小つるは不思議な顔をて、どうやって食べていくのかと聞くばかりであった。京の女は男を好いても惚れぬと言う。男と心中だてをする様な女は一人も居なかった。)
京の女という記述がありますが、これは花街の中での事でしょうね。花街の女性達は客あしらいのプロですから、言い寄ってくる相手にいちいち本気で関わったりはしません。しかし、そこは客商売ですから、相手を良い気持ちにさせてやる手練手管は駆使します。そのあたりの機微を表現したのが京女云々という言い回しなのでしょう。決して一般論では無い事は確かです。
(田舎は嫌だと小つるは言う。南部に逃げようと鹿内は言ったが、嫌だと一言の下に断られた。鹿内の話は面白かったが、そんな田舎に生まれずに済んだという幸福感が彼女を笑わせていたのである。)
(数日後、隊の編成変えがあった。助勤制が廃止になり、幹部は組長、伍長、観察、武芸師範頭という事になった。助勤の多くは新編成の幹部になったが、鹿内の名はどこにも無かった。この事は鹿内を絶望的にさせた。)
浅野は池田屋事件の後、あけぼの亭事件や佐久間象山の息子、三浦敬之助の松代藩帰参運動などに関わりを持った後、忽然と消息を絶ってしまいます。一説には敬之助の帰参運動を近藤に無断で行った事を咎められ、謹慎または降格の憂き目にあったのではないかと言われますが、定かではありません。この作品は、そうした経過を上手く使っているという気がします。
(それとなく原田に理由を聞いてみたが、原田は知らなかった。原田は土方に確かめたが、知らんの一言で済まされてしまった。)
(土方がこういう言い方をしたのには理由があった。近藤が鹿内を怯懦だと言って、酷く嫌う様になっていたのである。助勤から外れたのはそのせいだったが、もしこの事を公言すればこの組織にあっては死に値する事になる。土方はまだこの奥州武士に対する愛情を残していたのである。もう一度機会を与えよう、土方はそう考えていた。)
新選組にあっては臆病は死に値するとありますが、隊士としての評価は最低にはなるものの、殺されはしなかった様です。ではどうなるかと言うと、追放されたのですね。新撰組始末記には川島勝治と他ならぬ浅野自身が臆病ゆえに追放されたと記されており、こうした処分が行われていた事が判ります。浅野が臆病者のレッテルを貼られている根本の原因は、この記述にあると言っても良いのでしょう。
しかし、この追放という処分は武士としての名誉を剥奪されたも同然と言って良く、当時の武士にとってはある意味死ぬよりつらい仕打ちだったのかも知れません。
ちなみに、この二人は池田屋事件の時に探索方として活躍したとされており、同じ末路を辿ったというのは因果の様な気がします。もっとも、あまりにも経歴が似すぎていて、西村兼文による創作くさいという気もするのですけどね。
(慶応元年正月、小つるは女の子を産んだ。鹿内に似た、目の綺麗な子供だった。鹿内は祖母の名を取って加穂と名付けたかったが、小つるは田舎くさいと反対した。そして、小つるは祇園社の禰宜に頼んで、その、と名付けた。)
加穂という名前は随分と現代的な気がしますけどね、江戸時代では田舎くさい名前だったのでしょうか。このあたりは流行の様なもので、今でも10年、20年のうちにはがらりと変わりますから、何とも言えないところなのかな。
イメージとしては、そのという名前は幕末ぽっいという感じはしますね。
以下、明日に続きます。
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