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2011.06.03

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その6~

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(三条制札場跡)

(慶応2年8月、そのはよちよち歩きを始め、片言もしゃべれる様になっていた。鹿内はそのを溺愛した。溺愛しているという評判が隊内に流れると、誰もが鹿内を白眼視する様になった。彼らはみな、人並みな幸福の外にいる。妻子という幸福を持つ鹿内に対する嫉みから、鹿内に辛く当たった。また、鹿内の印象が酷く小さく、貧相なものに変わっていた。何時の間にか、志士としての精神が萎んでいたのかもしれない。)

このあたりの鹿内の描写は、吉村貫一郎の姿を彷彿とさせます。彼は故郷に5人の妻子を残してきており、その家族に宛てた送金をずっと続けていたと伝えられています。無論、家族構成は全く違っていますが、妻子をそこまで大事にしたという隊士は異色の存在ですからね、作者はやはり意識していた事でしょう。

ちなみに、吉村に本当に妻子が居たかどうかについては確証は無い様です。確認出来るのは兄夫婦とその子ども達だけで、送金が事実だったとすればその甥や姪に宛てたものだったのでしょうか。

(8月29日の夜、三条大橋の袂にある制札場の制札が、何者かに抜かれて黒く塗りつぶされ、鴨川に捨てられるという事件が起こった。制札に書かれていたのは、長州人を見つけたら直ちに知らせる事、そうすれば褒美を与えるが、もし匿ったりしたら朝敵とみなすというものであった。この制札を捨てるという事は、幕府に対する侮辱である。)

(奉行所ではやむなく制札を新調して立てたが、またしても塗りつぶして捨てられた。これを何度が繰り返したが、奉行所の手に余るという事で新選組に取り締まりを依頼した。)

(下手人は、長州藩に同情的な土佐藩士か、それに同調する過激浪士だろうと推察された。うわさでは10数人という大人数であるという。)

(近藤と土方は原田の十番隊に出動を命じ、さらに剣術師範数名を応援に付けた。土方はさら、探索方として鹿内と橋本会助を指名した。)

(原田は隊を三つに分けた。一班を三条小橋東畔北側にある酒店に詰めさせ、二班を三条大橋東詰の茶店の奥に待機させた。そして自らは主力10人を率いて先斗町の町会所に陣取った。二人の探索者は、三条大橋の上で菰を被った乞食に変装して座った。)

(数日は何事もなかった。夜更けと共にこの態勢を解いて解散し、日暮れと共に再びこの態勢に入った。)

(9月12日の夜、空は数辺の雲が掛かるだけの晴夜だった。午後十時を過ぎる頃には月が沖天に掛かり、あたりを真昼の様に照らした。鹿内は菰の中で脇差し一本を抱いて座っている。時折、雲が月を隠す度にほっとした。闇だけが鹿内を守ってくれるのである。)

(雲が去って月が鹿内を照らし出した時、南から声が沸き起こった。そして、河原伝いに足音が聞こて来る。鹿内は人影が八つ、九つと近付いてくるのを見た。)

(やがて人影は鹿内のところにやってきた。彼らは宮川助五郎、藤崎吉五郎、安藤謙治ら八名の土佐藩士であった。彼らは鹿内をただの乞食と見て、銅銭を投げてよこした。鹿内は立ち上がって、先斗町会所にまで知らせようとした。それが彼に科せられた役目である。しかし、胴が震えて腰が橋板に吸い付いた様に動かなかった。)

(彼の脳裏には小つるの顔が浮かんだ。そして、そのの甘酸っぱい肌の匂いが鼻に満ちた。彼は死を恐れた。今立ち上がっては、土佐者達になますの様に斬り殺されてしまう。)

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(先斗町会所跡)

(しかし、橋本は違った。彼は悠々と歩き出し、制札場を越えようとしている土佐者たちに良い月夜でございますとあいさつさえして通り過ぎた。彼が先斗町会所に知らせた事で、原田の隊が出動した。)

(橋の上では大乱闘になった。土佐藩士達は歴戦の勇士であり、必死に戦ったため新選組隊士も斬られた。しかし、やがて酒屋と茶店から応援が駆けつけると人数で上回り、新選組が有利となった。土佐藩士では、藤崎が原田に斬られて即死、安藤が重傷を負いながら逃げ延びたが、死を悟って河原町の路上で切腹、宮川は全身に傷を負って意識を失ったところを捕縛された。あとはいずれも深傷を負いながらも、河原に飛び降りるなどして四方に逃げ延びた。)

(事件後、京都守護職から感状と褒美が下され、事件で働いた者に与えられた。原田以下四名に20両、ほか五名に15両、さらに橋本には15両などである。しかし、鹿内は黙殺された。)

この事件は史実であり、経過はほぼこの小説のとおりでした。作者が下敷きにしたのは子母澤寛の新選組始末記であり、その元ネタは西村兼文が著した新撰組始末記にあります。

作者によって脚色されているのは鹿内が全く動けなかったという点で、新撰組始末記に依れば、臆した浅野は橋の上を通る事が出来ずに一旦河原へと降り、鴨川の中を渡って東詰の隊士達に知らせたとあります。この遠回りのために東詰の隊士達は出動が遅れ、手柄を逃したと苦情が出されたのでした。

一方の橋本は、土佐者を恐れずに西詰めの隊士に知らせたばかりでなく、戦闘にも加わって手柄を上げるという活躍をしており、浅野とは際だった違いを見せています。そして、浅野はこの不手際のために卑怯者として放逐されてしまったのでした。

ただし、疑問点はいくつもあって、まず浅野がこの事件に関与していたと記しているのは、新撰組始末記だけなのですよ。この事件について記した資料はいくつかあるのですが、そのどれもに浅野の名前は出て来ません。例えば永倉新八の「浪士文久報国記事」には探索方が居たとは記されていませんし、浅野の名前も書かれていないのです。そもそも、仮にも副長助勤を勤めた隊士に対して見張り役を命じたりするものかという疑問はどうしても残りますね。

また、浅野と橋本の二人が見張り役を勤めて居たとしての話になるのですが、土佐側の記録には「制札を引き抜こうとしたところ、橋の下に二人居て、河原を南へ走り行き」とあります。この記述からすると、河原に降りたのは浅野だけではなく橋本も一緒だったと推測されます。すると、浅野だけが卑怯者と誹られたという説明は成り立たない事になってきますよね。

どうにも浅野に関するエピソードは創作めいているのですが、小説の流れとしては見事に嵌っていると言えると思います。

(数日後、近藤は土方に「士道不覚悟」と言った。そうか、と土方は目を落とした。もはや鹿内には死を与える他は無い。後は誰に斬らせるかだけだった。)

(土方は原田を呼んだ。そして、君の隊に怯懦の者が居る、捨てておけば隊が腐ると言った。原田はなおも誰ですととぼけた。妻子を持った原田には、鹿内の気持ちが良く判ったのである。出来れば助けてやりたいと思った。)

原田は後に新選組と袂を分かって永倉と共に靖共隊を結成するのですが、江戸を離れてすぐに隊から離れてしまいます。その理由として永倉は妻子への愛着にひかされたためと記しており、京に残してきた妻のまさや長男の茂の下に帰りたかったのだろうと推測しています。

こうしてみると、鹿内のモデルは吉村と言うよりも原田自身だったのかなという気もしてきますね。妻が京都人で子が一人という設定は原田に重なるものなあ。

(しかし、土方は判らなければそれでよい、十番隊の士道不覚悟は不問に伏せておくと言った。これでは原田が士道不覚悟と同様の事になってしまう。当惑した原田は言い方が良くないと言いながら立ち上がった。)

(鹿内を自分が始末すると原田が言った。土方は討手を特に原田にした意味も判って貰えるだろうと言った。新選組と里心、この二つは氷炭のごとく相容れない、かつて土方はそう言っていた。家庭的な人情こそ、新選組を腐敗させると言いたかったのだろう。)

(原田は隊に戻り、巡察に出ると言った。同行を命じたのは鹿内と橋本である。橋本は既にこの巡察の内意を聞かされている。)

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(祇園石段下)

(祇園石段下まで来た時、登り給えと初めて原田は鹿内に声を駆けた。境内を突き抜ければ、真葛が原から祇園林に道が続いているる薄暮の刻限、人影が絶える事を原田は知っていた。)

(林の中に至った時、原田はこの巡察がどういう意味を持っているか判っていてくれると思う、抜き給えと鹿内に声を掛けた。鹿内は恐怖に駆られて刀の柄に手を掛けた。その時、原田の刀が右肩へと吸い込まれた。)

(仰向けに倒れながら、なお意識があった。すべてはこの林の中から始まったのだと思った。原田は橋本に止めをと命じた。橋本の刀が逆しまに垂れた。その刀を鹿内は見ていた。そしてその切っ先が胸に吸い込まれた時、全てが終わった。)

浅野の最後についてはいくつか説があります。

1.永倉新八の「同志連名記」
 理由は判りませんが、島原で斬首と記しています。

2.西村兼文の「新撰組始末記」
 勝手に金策を行った事が発覚したため、沖田総司により葛野郡川勝村で斬られた。

3.史談会における阿部十郎の談話。
 伊東甲子太郎が御陵衛士として分離したあと浅野も脱走し、伊東を頼って来た。しかし、新選組との約束で新選組からの脱走者は受け入れる事が出来なかったため、これを山科に匿い、土佐へ落とす算段をしていた。ところがその途中で浅野は近藤を説き伏せる積もりで出かけたが近藤が不在で、沖田総司が桂川へ行って斬ってしまった。

この中では阿部十郎の話が最も信頼出来そうなのですが、なぜ近藤に会いに行ったのかは説明されておらず、依然として謎は残ります。また、御陵衛士を結成したばかりの伊東が土佐にチャンネルを持っていたのかという点にも疑問がありますね。

いずれにせよ、生涯を全うする事無く、非業の死を遂げたという事は確かな様です。

一方、吉村貫一郎については壬生義士伝に描かれていたとおりで、鳥羽伏見の戦いの後、新選組を離れて南部藩の大坂屋敷を訪れたとされています。そこで旧知の留守居役に会い、これまでは新選組にあって幕府のために戦ってきたが、これからは勤皇のために働きたいと言って帰参を願ったのでした。

ところが、あまりに軽々しく転向を口にするとは卑怯、未練と咎められ、座敷を貸すので自決してはどうかと迫られます。窮した吉村は悩み抜いた挙げ句、介錯もないまま一人で切腹して果てたのでした。そして、床の間には、彼の小刀と二分金10枚ばかりが置いてあり、これを家族の下へ送って欲しいと書き残してあったとされています。最後まで家族を思いやったという、いかにも吉村らしい最後ではありますね。

もっともこの吉村の最後については、旧知の留守居役とされる大野という人物が実在して居ない事、この話を伝えたのがその大野の孫娘であるとされる事から、信憑性が疑われています。この話は大筋を西村兼文が記し、子母澤寛がさらに詳しく書いているのですが、両者による創作である可能性は捨てられないですね。

さらに原田については、妻子の下に帰るべく江戸までは戻ったものの、とても京都へ帰れるという状況には無く、やむなく彰義隊に加入して戦う道を選びました。そして一隊士として戦い、銃弾に撃たれて果てたとも、三人の敵と渡り合い、二人までは倒して戦死したとも伝わります。

そして別の説では、彰義隊の戦いを生き延びた原田は大陸に渡って馬賊の頭領となって活躍し、後年勃発した日露戦争では日本軍と協力して戦ったとも言われます。

臆病者、卑怯者というレッテルを貼られてしまった浅野薫と吉村貫一郎、勇者として振る舞いながら最後は家族の下へ帰ろうとした原田左之助、新選組にあっては異色と言える三人を巧みに組み合わせて創作した鹿内という人物は、ひどく人間くさく、それだけにごく身近に感じられるキャラクターとして生きている様に思われます。

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コメント

こんにちは!

実に内容のいいホームページですよね。
写真も綺麗なのでいつも見ています。

投稿: 森重和雄 | 2011.08.09 18:44

森重和雄さん、初めまして。コメントありがとうございます。

拙ブログをお褒め頂いて恐縮です。
基本的に京都ブログなのですが、歴史も好きなので時折記事にしています。
特に新選組には思い入れがありまして、何度となく取り上げてきているところです。

素人なりに調べて書いているつもりですが、
あやしい点などご指摘頂ければ幸いです。

投稿: なおくん | 2011.08.09 22:26

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