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2011年6月

2011.06.30

京都・洛北 夏越祓 ~上賀茂神社~

Kamigamojinjya1106301(写真はすべて昨年撮影したものです。)

今日は6月30日、各地の神社では半年の穢れを祓う夏越しの祓いの行事が行われた事と思います。

Kamigamojinjya1106302

ここ上賀茂神社では二の鳥居内に茅野輪が設けられ、参拝者が八の字型にくぐり抜けるように案内がされていました。その際には、

みな月のなごしの祓へするひとは ちとせのいのち のぶといふなり

と心の中で唱える様にとも書かれていますね。

この日は朝から神事が行われ、夜にはかがり火が焚かれる中、人形を御手洗川に投じる夏越祓式が行われます。この行事に一度行きたいと願っているのですけどね、なかなか実現する事が出来ていません。

Kamigamojinjya1106303

今年の6月は心残りばかりなのだけれど、花菖蒲を見る事が出来なかったのもその一つですね。上賀茂神社の境内でも咲いており、盛りの頃に行くと背景の社殿と良く似合っていてとても絵になるのですよ。うーん、見たかったなよなあ。

Kamigamojinjya1106305

本殿の東向いにある社が片岡社。御祭神の「賀茂別雷大神」をお産みになった「玉依比売命」をお祀りしている神社ですね。ここには平安時代に紫式部が通い詰めたという伝説があり、

ほととぎす 声まつほどは片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし

という恋の歌を詠んだとされています。その頃から縁結びの神として知られており、今でも若い人達が参拝している姿をよく見かけます。

左に見えている縁結絵馬は葵の葉を象ったものなのですが、ハート型にも見えますよね。そういう事もあって、人気を呼んでいるのかも知れません。

そう言えば、この神社では結婚式を良く見かけます。そうした復縁ある人達を呼ぶのもまた、この社の御利益なのかも知れません。

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2011.06.29

京都・洛北 梅雨時の花 ~詩仙堂~

Sisendou1106251

6月の詩仙堂と言えばさつきですね。でも、もうそろそろ終わっている頃かも知れません。今年の様子は既にアップしたのになぜ再び昨年の写真を出してきたかと言うと、どうしても見ておきたかった花があるからです。

Sisendou1106252

それはこの京鹿子。綿毛の様なふわっとした花弁と、華やかでありなが上品な、京という名にふさわしい色が素敵な花ですね。6月4日に行った時はまだつぼみの状態で咲いていなかったのですよ。これを見逃したのが何とも心残りなのです。

Sisendou1106253

こちらは、たぶんニワナナカマド。花の感じは京鹿子に似てますね。この花を見逃したのもまた残念でした。

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そして、普段は人が多くてなかなか取る事の出来ない額縁写真です。朝一番に行けば結構簡単に見られるとの事ですが、家が近くなければ無理だよなあ。いつかこの眺めを独り占めしてみたいものだと思っているところです。

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2011.06.28

京都・洛東 紫陽花の咲く花街 祇園白川

Gionsirakawa1106271(写真は全て昨年撮影したものです。)

6月といえば紫陽花の季節、ここ祇園白川でも艶やかな花を咲かせている、はずです。ああ、見に行けないのがまだるっこしい。

Gionsirakawa1106272

紫陽花が咲いているのは主として西側の川沿いで、こうした落ち着いた色合いがこの界隈には似合っています。

Gionsirakawa1106273

紫陽花は文芸芸妓と言われた磯田多佳女が愛した花と言われ、この道筋に紫陽花が多いのは彼女が暮らした大友があったからかも知れません。その跡地である「かにかくにの碑」の周囲にも植えられているのですが、ほとんど育っていないのが残念ですね。

Gionsirakawa1106275

その東詰めにあたる巽橋では、柳の緑が濃くなっている事でしょうね。雨の日には特に風情があり、傘を差して歩いてみたいものだと思っています。

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2011.06.27

京都・洛東 天得院が特別公開中です

Tentokuin1106281(写真は全て昨年撮影したものです。)

東福寺の塔頭、天得院にて、桔梗の咲く庭が特別公開されています。


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桔梗が咲く庭はいくつかありますが、その中でもこの寺は野趣に富む事が特徴ですね。どこかの紹介記事に「自然に生えている桔梗が楽しめる寺」とありましたが、確かに最低限の手入れに抑えられている様ではあります。

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桔梗は本来は野に咲く花ですから、こういう楽しみ方もありでしょうね。ただ、奔放過ぎて写真に撮りにくいという意味もあるのですが。

Tentokuin1106285

特別公開は7月17日まで行われています。気になる咲き方ですが、先週末ではまだちらほら咲きと聞きました。すると、今日あたりはまだ本格化していないのかな。私の勝手な推測ですが、もう一つ次の週末あたりが見頃になるかも知れませんね。

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2011.06.26

江~姫たちの戦国~24 利休切腹

(小田原攻めの論功行賞を行う秀吉。秀次には尾張、北伊勢など100万石、家康には北条氏の旧所領関東6カ国240万石を与え、代わりに旧所領は召し上げとするという沙汰でした。)

なぜか省略されていましたが、この間に入ったのが信雄でした。つまり、家康の旧所領に信雄が入り、その後に秀次が収まるという玉突きだったのですね。ところが、織田家ゆかりの尾張を離れる事を嫌がった信雄は、この沙汰を断ろうとします。怒った秀吉は沙汰を取り消したばかりでなく、その所領を召し上げてしまったのでした。ここに信雄の家は一度滅びるのですが、家臣とはいえ旧主筋の家柄相手にも遠慮が無くなった事を示す象徴的な出来事と言われます。

それにしても、何かにつけて織田家を滅ぼすつもりかと秀吉に食ってかかっていた江達にとっては、その憂慮が現実のものとなった訳で、もっと大騒ぎしても良い出来事だったと思うのですが、完全スルーとは意外でしたね。

(利休の茶室。駿遠三信は耕し尽くした、関東を新しく開くのも楽しかろうと家康。家康を恐れるからこそ京、大坂から遠ざけたのだろうと利休。買いかぶりだと家康。新しい本拠は江戸に置くと家康。)

(茶頭を辞めたいのは本心かと家康。秀吉が手放すとは思えないがと気遣う家康に、今まで誰かに縛られて茶を点てた事はない、信長に対してもと言い切る利休。そしてもし辞められなかったら、これが家康に出す最後の茶となると謎かけの様な事を言い、これから京に帰るのでと誤魔化す利休。)

(利休と秀吉の関係について秀勝に相談する江。自分に会いたかったからではなかったのか残念がる秀勝。彼はもっと近づく事が出来ないのかと江に問い、戸惑う江を残して去っていきました。彼は新しく賜った甲斐の国に下る所だったのです。)

秀勝が賜った甲斐は、家康の旧所領の一つです。一度は勘気を蒙ったとは言えそこは一門であり、一躍国持ち大名に抜擢されたのでした。

(その話を近くで聞いていた秀忠。二人がそんな仲になっていたとはとからかう秀忠。そんな仲なんてと慌てる江。自分は利休と秀吉の事を言っているのだがととぼける秀忠。怒る江。彼は江戸に行く、もう会う事もないと言って去っていきます。小賢しいと面白くない様子の江。)

(9月の始め、京に戻った秀吉。関東の先、陸奥までも平らげたとなかに自慢げに報告する秀吉。何やら他人事の様のなか。もっと喜べと拍子抜けする秀吉。彼はおねよりも鶴松と淀殿の方が気になる様子でした。)

(歩きを始めた鶴松を抱いて相好を崩す秀吉。そこに現れた江。彼女は家康が江戸に移る事について、所領を取り上げるとはと秀吉を非難します。そしてさらに利休との関係を問い質す江。困惑した様子の秀吉。)

(目を海外に向けた秀吉。朝鮮使節との会見に臨んだ秀吉は、膝の上に鶴松を抱いていました。あきれる諸将。怒る使節。その使節に対して、自分は日輪の子だと言い出す秀吉。日輪は天下をあまねく照らす、いずれは天竺、南蛮までもが自分に服する事になる、朝鮮には明国を攻める自分の先鋒として馳せ参じよと居丈高に命ずる秀吉、困惑する使節達。その時、鶴松が粗相をしてしまい慌てる秀吉。その様子を見て、怒って席を立ってしまう使節達。無礼なと怒る秀吉。)

(利休の茶席で、秀吉を諌める秀次と官兵衛。反発する秀吉。神の子と言った事について、信長は同じ事を言っても全てを天下泰平の為に捧げるつもりだった。欲望のままに動く秀吉とは違うと怒る江。)

(神たる者、そう言った事が本能寺の変を引き起こしたのかもしれない、秀吉もまた同じ道をたどるのかもと利休。不吉な事を口にするなと叱責する三成。それを無視して、いつ茶頭を辞めさせて貰えるかと利休。不快げにまだその様な事をと怒り、竹筒の花入れを見て詰まらぬと壁に投げつける秀吉。そこにやって来た古田織部。彼は落ちている花入れを見て、何という事をと驚きます。彼を自分の愛弟子と言い、自分が辞めた後は引き立てて欲しいと頼む利休。怒りを抑えて黙り込む秀吉。)

(天正19年始め頃、重体に陥った鶴松。都中の社寺に加持祈祷を命ずる秀吉。そこに悲報が飛び込みます。)

(大和郡山城。危篤状態に陥った秀長。見舞いに駆けつけた秀吉に、関白の弟は辛い事も多かったが楽しい事も多かったと秀長。そして、耳に痛い事を言ってくれる者を信じるのだぞと秀吉に語りかける秀長。それは利休の事かと秀吉。かすかにうなずき、鶴松の事は自分が抱えていくと言って息を引き取った秀長。)

秀長については、ドラマでも言っていたとおり、豊臣政権を陰で支えていた重鎮でした。彼と利休とは仲が良く、秀吉に救援を求めてきた大友宗隣に対して、内向きの事は利休に、表向きの事は秀長に聞けばよいと語ったと言われます。つまり、利休とは車の両輪の関係にあり、この二人が仕切っていたからこそ、豊臣家が円滑に回っていたのだと言われます。その二人を相次いで失なった事で政権のバランスは大きく崩れ、迷走が始まったのでした。

(秀長の死を嘆き悲しむなか。その一方で、健康を回復した鶴松。)

(三成が利休の事をあれこれ言っているらしいがと江に語りかける淀殿。しかし、三成に言われてどうこうする秀吉ではない、二人だけの問題なのだと淀殿。)

(利休に不穏な動きがあると告げる三成。大徳寺山門の二階を寄進し、そこに自分の雪駄履きの像を置いた事について、その下を通る者はたとえ関白と言えども自分の足の下を通れと言っている、無礼極まりない。秀長の死も鶴松の病気もそのせいかも知れない。また、名人の名の下に道具に法外な値を付けて売りさばいている、それを捨てておけば悪評が立ち秀吉の名が廃る、何らかの仕置きをと迫る三成。考え置くと怒鳴り返す秀吉。)

三成が言っていたのは、利休切腹の理由として今に語り継がれているものです。事実としては、山門の上の利休の像は大徳寺が勝手に置いたもので、利休本人は預かり知らなかったとも言われますが、その後の処置を考えると秀吉の怒りを買った原因の一つだった様に思われます。でも、その怒り方はあまりにも子供っぽく、既に老人性痴呆性の症状が出ていたのではないかという気もしますね。

それにしても、この三成は損な役回りをさせられています。言いがかりとしか思えない事を声高に言い募る様子には切れ者と言われた面影はどこにもなく、ただの愚かな讒言者にしか見えません。そういう演出だから仕方がないけれど、何だか三成が可哀想になってきます。

(一人考え込む秀吉。その様子を遠くから見守る江。)

(夜遅く、利休の下を訪れた秀吉。その部屋に秀吉が投げ捨てた花入れが置いてありました。割れた花入れが置いてあるのを見て、自分への当てつけかと詰る秀吉。ひびかあるから良いのだ、すがしい風の音が聞こえると利休。自分には判らんと秀吉。)

(自分の茶頭を辞めたいのかと問う秀吉。今すぐと答える利休。ここで見聞きした事は一切他言しないと利休。そんなことを言っているのではないと怒鳴る秀吉。)

(利休は自分には判らない事が判る、仰ぎ見るしかない格別な相手だ、ずっと自分の側に居て言いたい事を言って欲しいと頼む秀吉。自分が茶頭になったのは、秀吉が面白い人だったからだ、しかし今は違う。子が出来て可愛い、朝鮮の人を呼びつけてと日輪の子だと言う。しかし、そんな事はどうでも良い。好きな人の為に茶を点てるのが自分の生き方、秀吉の為に点てるのが嫌になったのだと利休。ならば、望み通りにしてやろうと言って、切腹を申しつける秀吉。微笑で答える利休。)

最後は利休の生き方のと天下人としての意地のぶつかり合いという結末になりました。確かにこの方が、山門の上の木像などという詰まらぬ問題よりもすっと入ってきますね。無論創作ではあるけれども、こんな相克があったのかも知れないという気はしました。

(利休切腹と聞いて、自分が止めると江。)

どこにても顔を出し口を出す江ですが、このドラマの演出にも慣れて来たので何も思わなくなりました。有り得ない話ではあるけれども、主人公の特権というやつですね。彼女が絡まないとドラマにならないから、まあ仕方が無いのかな。

それにしても、サブタイトルからすると今日切腹してしまうと思っていたのに違いましたね。まさかもう一週引っ張るとは思いませんでした。そのサブタイトルが「愛の嵐」。利休の切腹が霞んでしまいそうな気がするのですが。うーん、大丈夫なのかしらん?

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2011.06.25

江~姫たちの戦国~ 浅井家の菩提寺 養源院

Yougenin1106281(写真はすべて以前に撮影したものです。)

私事ですが、今週もまた京都に行く事が出来ませんでした。これで3週連続となり、さすがにストレスを感じてしまいます。しかし、嘆いていても何も始まらないので、今週もまた過去の写真のストックからの構成と致します。京都の最新情報を求めて来られる方には申し訳無いのですが、よろしくお願いいたします。

さて、今日の記事は養源院、淀殿が創建し、江が再建した浅井家の菩提寺です。

Yougenin1106282

ドラマの「父母の肖像」の回にあった様に、淀殿が両親の供養を行ったのが1589年の事でした。そしてさらに5年後の1594年に、長政の二十一回忌に追善供養の為に建てたのがこの養源院です。開山は成伯法印という叡山の僧侶、寺号は長政の法名から付けられました。また、成伯法印は長政の従弟に当たる人物だそうですね。まさにドラマの台詞のごとく、淀殿が浅井家の菩提を弔う為に建てた寺なのです。

Yougenin1106283(江の供養塔。娘の和子によって建てられました。)

この前年に淀殿は秀頼を産んでおり、鶴松を産んだ直後に行った追善供養と同じパターンとも言えるのでしょうか。ドラマではそのあたりをどう描くのかな。また跡継ぎを産んだ事に対するご褒美という事にするのかしらん?何にしても、ここまで浅井色を押し出した寺を秀吉が許したのは、淀殿に対する傾倒が著しかったからに他ならないのでしょう。

Yougenin1106285

養源院はその後程なく火災に遭い、本堂を失った様です。秀吉の墓である豊国廟を暴くなど、徹底して豊臣時代を否定した江戸初期にあっては養源院も衰退の運命にあったとしてもおかしくはなかったのですが、それを救ったのが江でした。江にとっても浅井家は実家ですからね、その菩提寺の復興とあっては文句の付け様も無かったのでしょう。

本堂が再建されたのは1621年の事であり、伏見城の遺構が移建されました。その天井に、関ヶ原の戦いの時に伏見城で討ち死にした鳥居元忠以下の諸将の血が染みこんだ廊下の板が使われており、血天井の寺と呼ばれている事は有名ですよね。

ただ、浅井家の位牌はそのままあった様ですが、寺の性格は徳川家の菩提寺として位置付けられました。二枚目の写真にある三つ葉葵の御紋はその象徴ですね。将軍の御台所の力を持ってしても、淀殿が建てた寺そのものとしては存続を計りがたかったのでしょうか。

その養源院の境内には、秀吉縁の木が残されています。それがこのヤマモモで、秀吉が伏見城に手植えしたものを、後にここに移植したのだそうですね。でも、秀吉は浅井家にとっては仇、徳川家にとっては全否定をした前政権の主であり、この木がここにあるのは何だか不自然な気もするのですが、なぜでしょう。

淀殿が移植させたのだとしたら徳川家の手によって伐られていたという気がするし、明治以降に移植されたのなら方広寺の方が良かった様な気もするし、何の説明も無いので判断の仕様がありません。あえて言うなら、宥和の象徴なのかしらん?

秀吉手植えの伝説が正しいとするなら樹齢は400年以上、確かにそれだけの風格がある大樹である事は確かです。


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2011.06.24

京都・洛東 梅雨の晴れ間に ~知恩院~

Tionin1106252(写真は今年の4月に撮影したものです。)

法然上人800年大遠忌を迎えた知恩院です。

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大遠忌というのは50年ごとに行われる年忌の事で、今年は法然上人没後800年にあたるという訳ですね。何しろ50年に一度の大行事ですから何年も前から準備が行われており、受け入れ準備も大規模に行われています。御影堂にはこんなスロープが設置されていますし、三門には境内から通じる拝観者用の通路が設置されているという具合です。

本来は3月27日から法要が営まれる予定だったのですが、大震災の影響を鑑みて10月に延期されました。この秋には参拝に訪れる信者さんで、大賑わいを見せる事でしょうね。

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その大遠忌に合わせて、境内では各所で大規模な修理が行われています。この黒門も長い間足場に隠れていたのですが、この春に修理が完了しました。さっそく潜らせてもらったのですが、各所に修理の跡が見えますね。かなり大きな接ぎ木や埋木の跡があり、相当に痛んでいたんだろうなと見て取れます。やはり木造だけあって、絶え間のない手入れが無ければ長く保たせる事は出来ないようですね。

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この後の2枚は昨年撮った写真ですが、黒門を入って階段を登り切ったところに紫陽花が植わっています。知恩院ではあまり見ない花だと思うものですがどうでしょうか。今年もちゃんと咲いているだろうかな。

Tionin1106256

そして、夏の知恩院と言えば睡蓮ですね。納骨堂の前の池で咲いているのですが、お世辞にも綺麗とは言えない池ですので、まさに泥中から咲く美しい花です。

ちなみに、去年までは蓮の鉢植えが置かれていたのですが、今年はどうするのでしょうね。大遠忌に合わせて大々的に増やすのか、それとも場所が無いからと置くのを止めるのか、気になるところではあります。

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2011.06.23

京都・洛東 梅雨の晴れ間に ~八坂の塔~

Yasakanotou1106241(写真は全て昨年撮影したものです。)

二年坂を西に下れば八坂の塔に出ます。まさに京都のシンボルとも言える五重塔なのですが、今日は梅雨らしく紫陽花をあしらってみました。

Yasakanotou1106242

少し引いて撮るとこんな感じで、紫陽花の咲いている場所が判るでしょうか。今年はどんな感じだろう、ちゃんと咲いているのかな。

Yasakanotou1106243

この坂道はいつも混んでいるところで、こんなにすっきりとした景色が撮れるのはめったに無いですね。梅雨の晴れ間の夕刻という、最も人通りの少ない時間帯ならではでしょうか。

Yasakanotou1106245

写真としてはあまり絵にならないのですが、私的には気に入っているのが下から見上げたこの景色です。何と言いますか、この塔が持つ雄々しさを感じるのですよ。

遠くから見れば調和の取れた風情のある塔ですが、真下に来ると1440年(永亨12年)に再建されて以来、571年間の風雪に耐えてきた力強さが見えてくる気がしています。

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2011.06.22

京都・洛東 梅雨の晴れ間に ~二年坂~

Ninenzaka1106221(写真は全て昨年撮影したものです。)

三年坂と並んで賑わいを見せるのが二年坂です。ここは記念写真の人気スポットになっており、やはり高低差のある場所というのは、人を惹き付けるものがあるのでしょうか。

Ninenzaka1106222

二年坂は三年坂よりも短く、またなだらかな坂ですね。三年坂が如何にも人工的に付けた坂道であるのに対し、こちらはずっと曲線的であり、自然に出来た踏み分け道を広くした様な印象を受けます。

Ninenzaka1106223

その性格の違う坂道が一続きになっている事が、この界隈の魅力ともなっているのでしょう。そういう変化があった方が、歩いていても楽しいですからね。

Ninenzaka1106225

その二年坂も電柱が無くなって本当にすっきりしました。これで本来の風情が甦ったと言いたいところですが、実はそうでもないのですね。ここは大正年間に再開発された区域で、今の町並みはその頃に出来たものなのです。そう考えると当初から電柱はあった訳であり、煩雑さこそがこの界隈の原風景だったとも言えるのですね。つまりは、新たな景観を手に入れたと言った方がより正しいのかな。

まあ、この方が良い事は確かで、洗練された京都らしさが感じられる町並みになったと言えるのかも知れません。

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2011.06.21

京都・洛東 梅雨の晴れ間に ~三年坂~

Sannenzaka1106211(写真は全て昨年撮影したものです。)

清水寺の近くにあって、人気スポットの一つになっているのが三年坂です。大同3年(807年)に出来たと言い、法観寺(八坂の塔)からこの坂を通って清水寺に行くのが当時からの道筋でした。

Sannenzaka1106212

沿道は伝統的建造物群保存地区に指定されており、京都らしい風情が素敵な場所ですね。そして、ブラタモリに風に言えば、高低差がある事が魅力の一つになっているのでしょうか。

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かつてこの坂の下には轟川という川が流れており、轟橋が掛かっていました。つまりここが谷底で、尾根道である清水坂まで一直線に道を繋いだ為に、こんな急坂が出来たという訳です。ちなみに、写真の右下に橋の欄干らしきものが写っていますよね。

でも考えたら不思議な話で、法観寺から真っ直ぐ南に抜ければもっと楽に清水坂に出る事が出来るのに、なんでわざわざこの場所に迂回して急坂を登るルートにしたのでしょう。平安時代に何か政治的な駆け引きがあったのか、ちょっと興味のあるところですね。

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何にしてもこの道が1200年以上前から続いている事は確かで、かつては子安観音に詣でる人達が通り、今は観光地となった清水寺へと行き交う人達で賑わっています。

1200年を掛けて培われた風情を、今後もずっと守って行って欲しいですね。

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2011.06.20

京都・洛東 梅雨の晴れ間に ~清水寺~

Kiyomizudera1106201(写真はすべて昨年撮影したものです。)

うっとうしい梅雨が続きますが、こんな時こそ青空が恋しくなりますよね。そこで、今週は昨年の梅雨の晴れ間に撮影した写真で構成した記事をお届けします。まずは清水寺から。

Kiyomizudera1106202

清水寺と言えば、言わずと知れた人気No1の観光スポットです。舞台の上のこんな光景はおなじみですよね。でも、最近は異変が生じていて、意外な程空いているのです。その原因は中国や韓国からの観光客が激減しているからで、昨年の同じ時期に比べて半減しているのだそうです。

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風評被害恐るべしといったところですが、静かな環境が好きな人には今がチャンスと言えるかも知れませんよ。お世辞にもマナーが良いとは言えなかったですからね。

まあ、そのうちに元に戻るだろうとは思っていますし、そうなってもらわないと京都の人達が困るのですが。

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その清水寺に隣接しているのが地主神社、縁結びの神様として知られるところですね。清水寺は年に何度も訪れる場所ですが、この地主神社には数える程しか入っていません。なぜって、今の私には縁のない神様ですし、たまに取材しようと階段を登ってみても違和感がありまくりで、まともに写真も撮れないのですよ。

でも、そういう異質な空間がすぐ側にあるというのも清水寺の魅力の一つでしょうか。洗練された美しさと世俗的な猥雑さを併せ持つのが、清水寺のみならず、京都という町の魅力になっているのかも知れません。

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2011.06.19

江~姫たちの戦国~23 人質秀忠

(天正18年1月14日、聚楽第。旭危篤の知らせに駆けつけた江。その場には秀吉の他に竹千代が居ました。彼は旭の義理の息子にあたるのでした。家康にも会いたかったと言い、兄を頼むとおね達に伝えて息を引き取った旭。)

(一人悲しみに耽る江を見かけた竹千代。旭は秀吉のために身を捧げた様なものと言い、竹千代に、身を捧げて自分の父の妻になったのかと言われて慌てる江。彼は見舞いに来たのではなく人質になりに来たのだと江に告げます。)

(翌日、竹千代の元服の儀を執り行う秀吉。彼の髪を整える役をなかに行わせる秀吉。震える手で前髪を切るなか。本心を隠し、礼を言う竹千代。素朴に見舞いの礼を言うなか。)

これってドラマの演出っぽいのですが、史実なのだそうですね。時系列的にもドラマのとおりで、旭の死の翌日に元服式を行っています。そして、その式に大政所が立ち会い、秀忠の前髪を落としたのだそうです。何だか凄い展開だったのですね。

(群臣が居並ぶ中、竹千代に一字を与えて秀忠と命名した秀吉。)

(翌日、秀忠とまた出会った江。秀忠は前髪を切る役は本当は旭にやらせたかった、しかし亡くなってしまったので代役をなかに頼んだ、そこまでして恩を売りたかったのだと言う秀忠。そこまで酷い人ではないと抗弁する江。)

(信雄の娘を嫁に娶ると言う秀忠。それも秀吉の策略だと言う秀忠ですが、自分の父親も似た様なものだ、自分の娘を嫁がせた北条を裏切ったのだからとも言います。家康はそんなに酷い人ではないと言う江に、何故判ると問う秀忠。)

(彼はもう会う事もないと言って帰っていきます。人質の件は、父が彼を差し出した事で満足したらしいとの事でした。)

表題が人質秀忠だった割には、あっさりと帰ってしまいました。描き方も淡泊で、今回の主題ではなかったという事ですね。要するに、江との出逢いの場面を描きたかったのでしょう。それにしても廊下で出会うというパターンは、高次、秀勝と同じなのですが、他に工夫の仕様はないものなのかしらん?

(浜松城。帰って来た秀忠に、母や秀吉の側で亡くなった事は旭にとってはせめてもの慰めであったと言う家康。京で官兵衛と会ったかと問う家康に、代わりに江という面白い女に会ったと答える秀忠。)

(すっかり人が変わってしまったと嘆く家康。兄を殺した事、次兄を人質に差し出した事が気に入らないのだろうと推量する家康。)

(北条攻めに利休も従軍せよと命ずる秀吉。年だからと断る利休。信長に対してもそうだったのかと問い詰める三成。秀吉を見下しているのではないかと詰問する三成にそんな事はないとゆるりと交わす利休。諸大名とつきあい、政にまで口を出し、大きな力を持つのはどういう事かと追求する三成。三成は自分が嫌いな様だと苦笑する利休。やはり小田原に来て貰えないかと取りなす官兵衛。)

この回から三成が豹変しました。これまでは遠慮がちにしかものを言わなかった彼がこんなに強気になったのは、淀殿が子を産んだ事が影響しているのでしょうか。彼にとって淀殿はかつての主筋でありかつ密かにあこがれている相手です。その淀殿と子の将来を守る為には、障害となりそうな人物を取り除いて置かなくてはならない。ひいては、自分が筆頭の側近として力を得なくてはならないという心理描写なのかな。何にしてもあまりに唐突で、分かり難い演出ですね。

(利休が秀吉に使った茶碗は、秀吉の嫌いな黒茶碗でした。これは嫌いなものだと判っていないのかと怒り、茶椀をひっくり返して席を立つ秀吉。子が出来てから気が短くなったのだと秀次。秀吉を怒らせる様な事はするなと忠告する官兵衛。)

(淀殿の部屋で鶴松を抱きながら、小田原城を取ったらそちにやるとあやす秀吉。あきれる江。)

(3月1日、秀吉出陣。20万の軍勢で攻め込み5万5千の北条方を圧倒、たちまちのうちに小田原城を囲んでしまいます。支城を次々と攻められているとの報に慌てるなと物見を出す氏政。)

北条氏は関東一円に勢力を張り、その支城は各地にありました。本城を中心におのおのが連携して機能すれば強固な崩御網となったのでしょうけど、秀吉は本城には手を付けずに支城の方を個々に攻め潰して行ったのです。

のぼうの城で知られる忍城もその一つですね。成田氏の居城で、この戦いの時には当主の氏長は小田原城に籠もっており、守っていたのは家臣以下三千の兵でした。ここを攻めたのが他ならぬ三成なのですね。

この城は沼沢地にある水城で、攻めにくい堅城として知られていました。三成はそれを逆手に取って長大な堤を築いて川の水をせき止め、水攻めにしようとします。彼の主人である秀吉が、備中高松城を攻めた時と同じ手法ですね。

三成は短時間の内に堤防を築き上げ、水攻めを開始しました。順調に水かさが増えていき、水攻めが成功するかと思われたその時、大雨が襲ったのでした。川の水量は激増し、せっかく築いた堤防を破壊してしまったのですね。このため、三成の軍は被害を受けてしまい、功をあせった三成は力攻めに切り替えました。

ところが、そうなると事前に予想されたとおり沼沢地が障害となって思うようには攻められず、手間取っている間に小田原城の方が開城してしまったのです。忍城は、その小田原からの指令を受けた事で開城しています。

ドラマでは秀吉の側にあって軍議に参加していた三成ですが、実際には攻城の司令官として野戦の地にあったのですね。そして、この忍城を落とせなかった事から、彼の戦下手という評判はその後もついて回る事になったのでした。

(小田原城を見下ろす山の上に城を築いてはどうかと進言する官兵衛。樹木で見えない様にしておき、完成後一気に木を切れば突然城が現れるという仕掛けでした。上機嫌で許す秀吉。)

(秀吉に呼ばれた淀殿。次の子が欲しいのではないかと推量するヨシ。行きたくないと困惑する淀殿。仕方がないと言うヨシ。)

(5月末、淀殿と一緒に小田原に来た江。久しぶりに再会した秀勝。)

(利休の茶席に招かれた秀勝と江。そこに現れた秀忠。驚く江。良くここに茶を飲みに来るのだと利休。元服したばかりの子供に茶の味が判るのかと皮肉る江。跳ねっ返りの娘に判るのかと言い返す秀忠。二人は言い交わした仲なのかと問う秀忠。私はそれでも良いと答える秀勝。余計な事を言うなと怒る江。いいがげんにしなさいと叱りつける利休。)

秀忠は天正7年の生まれですからこの年12歳、とてもそんなふうには見えないのにあえて子供としての演出をしています。江と同じ手法だからもう慣れたけれど、ものすごく無理があるのも確かですよねえ。ちなみに、この時江は18歳、こちらはやっと違和感がなくなって来たというところです。18歳と12歳の口げんか、画面を見ないで台詞だけを聞いていればなるほどとは思います。

(そこに現れた家康。これで失礼すると茶を飲まずに立ち去る秀忠。苦笑する家康と利休。)

(利休の下に家康が頻繁に訪れていると報告する三成。それどころか、大名達や遊女達までを裏でまとめて秀吉を陥れようとしているのではないかと推量する三成。利休が妬ましいのかと秀次。言い争う二人をほ叱りつける秀吉。)

(完成した城の樹木を切り払わせた秀吉。一夜にして現れた城に動揺し、10日も経たずに落ちた小田原城。)

小田原の一夜城として知られるこのエピソードは史実と言われています。正しくは石垣山城と言い、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山の上に80日間で築かれたと伝わります。その名の通り石垣を用いた本格的な城で、本丸、二の丸、西曲輪、馬出し曲輪などを備えていました。ただし、天守閣まであったかどうかは判らないそうですね。

小田原城は町を丸ごと抱え込んだ惣曲輪と呼ばれる造りで、領民こぞっての籠城中も兵糧を初めとして何一つ不自由する事は無かったと言われます。その気になれば1年は持ちこたえたと言われますが、実際には3ヶ月での開城となりました。その理由は、相手の強大さを思い知らされた為なのでしょうね。

秀吉は城を包囲すると長期戦の構えを取り、陣中に遊女を呼んだり、猿楽を興行したりして将兵を倦ませる事の無いように勤めました。そして、大名達には陣中に妻女を呼ぶように勧め、自らは淀殿を呼んだのです。つまりは、秀吉にとって小田原攻めは、もはや物見遊山程度のものでしかないという演出をして見せたのです。

その空気が城中にも伝わり、相手の強大さが実感されて次第に厭戦気分が漂う様になりました。謙信や信玄と戦った頃は戦国時代の真っ只中であり、相手にも他の敵が居て、保ちこたえてさえすればいつかは去って行ってくれると判っていました。ところが、今度の相手は何時までも居座わる構えであり、北条氏の味方となるべき勢力はもはやどこにも存在しないと思い知らされたのです。一夜城はその止めの効果があったのでしょう。

開城にあたっては、北条氏の重臣たちの間で徹底抗戦か降伏かについての対立があり、堂々巡りの長い会議があったと言われます。これが小田原評定という言葉の元になったのですね。

開城後は、氏政、氏照兄弟が切腹を命じられたほか、当主の氏直は家康の娘婿であったという事から命は助けられ、高野山に追放されています。戦後処置としては寛大で、人を殺すのを好まなかった秀吉らしいやり方と言えるのでしょうか。

(かつてはあちら側に居たと淀殿。戦は嫌だと江。)

(戦勝に沸く城内を歩く江。もっと嬉しそうにしろとからむ秀吉。秀勝の側に行こうとして秀次に絡まれる江。)

(江を連れて利休の茶室を訪れた秀吉。そこには先に家康が来ていました。祝いの時に酒ではなく茶かとからむ秀吉。)

(戦勝を祝う家康。奥州の大名衆も従い、天下は秀吉のものになったも同然と言祝ぐ家康。祝いの茶ですと言って、黒茶碗を出す利休。驚く秀吉。息を呑む家康達。黒茶碗は嫌いでしたなと言って、赤茶碗を取り出す利休。そして、黒きは古き心、赤きは雑な心やと言って秀吉を睨みます。茶頭の分際でと怒りに震える秀吉。その茶頭を辞めて境に帰りたいと言い出す利休。死ぬまで自分のために茶を点てるのだと許さない秀吉。それならもう死にますかな、それとも殿下に殺して頂くかと答える利休。)

実際に利休は、ある時の茶会でこう言って黒茶碗を秀吉に勧めたそうです。万事派手好きの秀吉は、黒茶碗は好みではなかったそうですね。客人の前で恥をかかされた秀吉は利休を恨み、賜死の一つの要因になったとも言われています。

それにしてもこの利休と秀吉の対立の描き方は唐突で、見ている側は訳が判らないですよね。先を急ぐのは判るけれど、もう少し説明があっても良いのではないかしらん。淀殿との仲はあんなに時間を掛けているのにね。まあ、脇役とあっては仕方がないのかな。

次回利休の切腹をどう描くのか、楽しみではあります。

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2011.06.18

京都・洛東 虹の苔寺 ~光明院~

Koumyouin1106251(写真はすべて昨年撮影したものです。)

今週末も出かけられなかったので、今日から来週にかけては昨年に撮った写真のストックからの構成となります。リアルタイムの京都をお届けするという当ブログのコンセプトに反するのですが、もう暫くお付き合い下さい。それにしても、こうも取材に行けないとなると、禁断症状が出て来そうです。

それはさておき、今日お届けするのは光明院、虹の苔寺と呼ばれるほど苔が美しい寺です。

Koumyouin1106253

これまでにも何度か紹介して来ましたが、光明院の庭は春の桜、初夏のさつき、秋の紅葉、冬の雪など四季それぞれに趣きのある庭園です。そして四季を通じて美しいのがこの苔ですね。

Koumyouin1106255

一口に苔と言っても種類は多様で、色味や背丈の違いによる立体感の組み合わせによって庭の表情がまるで違って来ます。そして、種類によって日なたを好むものもあれば日陰を好むものもあり、環境に合わせた苔を選ぶ必要もあるそうですね。

つまりは庭師の知識とセンスがものを言う訳ですが、この庭を作ったのは重森三玲さん、さすがに的確な選択だったという事なのでしょう。作庭後70年以上を経た今、訪れる人を魅了する見事な苔の庭となっています。

Koumyouin1106252

その光明院でも、そろそろ桔梗が咲き始める頃かな。桔梗は山門を入ってすぐにある雲嶺庭と波心庭の両方で咲くはずなのですが、今年の具合はどんなかしらん?例年通り綺麗に咲いてくれると良いのですけどね、不調な花が多い今年の傾向からすると、ちっょと不安ではあります。

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2011.06.17

京都・洛東 菩提樹の花 ~真如堂~

Sinnyodu11060131
(写真は全て昨年撮影したものです。)

この時期の真如堂と言えば菩提樹の花ですね。本堂前にあって、とても良い香りを放つ事で知られています。

Sinnyodu11060132

今年は開花が遅れ気味で、今週末あたりが見頃になるのではないかと苦沙彌さんは予想されていました。今日あたりは最新情報に更新されているかしらん?

Sinnyodu11060133

もう一つ、真如堂で楽しみなのが紫陽花ですね。そこかしこに植えられていますが、特に多いのが鐘楼の周辺部です。植えられてから4年になるそうですが、年々なじんで来ている様子です。去年はかなり華やかになっていましたが、今年の様子はどうでしょうね。また見に行かなくてはなりますまい。

Sinnyodu11060135

6月も半ばになり、緑もいっそう深くなっている事でしょう。天気の悪い週末が続きますが、雨の真如堂というのは結構素敵ですよ。足下が悪いのが困りものですけどね。

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2011.06.16

京都・洛東 東山雨情 祇園甲部 

Gion1106161
(写真はすべて去年撮影したものです。)

今年は梅雨入りするのが早く、特に週末は雨がちなので出かけにくいですよね。でも、雨の日の京都には独特の風情があって、結構好きだったりします。まあ、この間の土曜日の様な大雨ではどうしようも無いですけどね。

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とりわけ風情があるのは石畳のある景色で、祇園甲部はその最たる場所の一つです。これで向こう側を舞妓さんが通ってくれれば言う事は無いのですけどね、そんなチャンスはめったにありません。

Gion1106163

一時期は観光客が舞妓の写真を撮ろうと集中し、営業に差し支える程になってしまったため、町ぐるみでカメラマンを排除しようという動きがありました。実際、カメラを持っているだけでジロジロ見られたりしましたしね。最近は夕方の時間帯には近付かない様にしているので様子は判らないのだけど、今でも状況は変わらないのかな。

舞妓は絶好の被写体で私も撮りたくはあるのですが、あからさまに迷惑がられているのが判ったので、今は自粛しています。でも、こういう道で向こうから傘を差した舞妓さんが歩いて来ると、とても絵になるのですけどね。ちょっと残念です。

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2011.06.15

京都・洛東 両足院 半夏生の庭特別公開中です

Ryousokuin11061551

今年も建仁寺塔頭の両足院で、半夏生の庭が特別公開されています。ホームページに依れば6月10日から始まり7月10日まで行われるのですね。

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ここは年に何度か公開されるのですが、一番良いのは半夏生が咲く今の季節ですね。この花を知らなければ他の季節でも良い庭だと思うのでしょうけど、一度この季節に来てしまうとこの状態がベストだと判ってしまいます。

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そして、この茶室でお茶を頂けるのも魅力の一つですね。半夏生を眺めながら頂くお茶というのは格別な味わいがありますよ。それに、特製の茶菓子が良いんだよなあ。去年訪はれた時間が遅くて終わったてしまっていたので、今年は是非頂きたいと思っています。

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あと、問題になるのがいつ半夏生が見頃になるかですよね。去年は6月の終わり頃に見頃になっていたのですが、今年はどうだろう。何しろあらゆる花で花期がおかしくなっていますから、正直言って読めないですね。

とりあえず今週末はまだ早いか、来週末でどうだろうと思っていますが、どうなっているかは行ってみないと判らないですね。

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2011.06.14

京都・洛北 京都府立植物園のバラが見頃だそうです

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(写真は全て昨年に撮影したものです。)

京都府立植物園のホームページに依れば、バラが見頃を迎えているそうです。

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ここのバラ園は約250品種、約2000株あるそうで本当に華やかなのですが、一番の見所は冒頭の写真の様に比叡山を背景にした景色ですね。一説に依ると、この植物園は比叡山を意識して設計されたと言われますが、その最たるものがこのバラ園かも知れません。

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そして、この時期のもう一つの楽しみがアリウムギガンテウムですね。この巨大な葱坊主が並んだ様は独特で、初めて見た時はぎょっとしたのを覚えています。今年はまだ情報が上がっていないのですが、ちゃんと咲いているのかな。

Syokubutuen1106155

その植物園のホームページですが、動画のコーナーが消えてしまいました。先代の園長さんの頃には熱心に更新されていて最新の情報が良く判ったのですが、交代されてからは更新もまばらになり、とうとう閉鎖されいてしまったのです。

まあ、人には得手不得手があるので同じようにして下さいとは言いませんが、動画コーナーまで閉じなくても良いんじゃないのかな。最新の情報が無くても過去の様子が良く判り、データーベースとしても貴重だったと思うのですが。花の咲く時期を確認するのに便利だったのですけどね。

でも、植物園の魅力そのものが変わった訳ではないので、近い内にまた行って来ようと思っています。

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2011.06.13

京都・洛東 平安神宮の花菖蒲が見頃だそうです

Heianjinguu1106171

先週末も所用で出かけられなかったので、今週は過去に撮った写真からの構成となります。本当は花菖蒲と蛍火の茶会というコースだったのですけどねえ、残念だけど仕方がない。

その花菖蒲ですが、平安神宮の神苑で見頃になっているそうです。

Heianjinguu1106172

平安神宮のブログ「はんなり便り」に依れば、11日にはほぼ満開に近かった様ですね。その数日前の動画ではかなり寂しい状況に見えたのですが、どうやらいつもの華やかな神苑になった様子です。

今週末はどうだろう、まだ保ってはいるとは思うけど、盛りは過ぎているのかなあ。

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平安神宮に行くと良く寄るのが岡北さんです。以前にも紹介した事があるそばとうどんの店ですが、最近は行列が出来る様になりました。以前は隣の山本麺蔵さんの方だけだったのですけどね、ここの美味しさもすっかり広まった様です。

写真は去年の今頃に食べた鱧そばです。正確なメニューの名前は忘れたけれど、鱧の天ぷらが乗った冷たいおそばです。如何にも今の季節の京都らしくって、美味しかったですよ。今年もあるのかどうかは判りませんが、また味わってみたいそばですね。


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2011.06.12

江~姫たちの戦国~22 父母の肖像

(天正17年正月、聚楽第。家族で正月を祝う秀吉。初めての子を授かり、有頂天の秀吉。おねを気遣う秀吉ですが、反対にひたすら無事の出産を願うおね。病気もふっとぶと喜ぶなか。出産までは駿府に帰らないと言い張る旭。そんな中、城を造ると言い出す秀吉。)

(江も呼び、新しい城を説明する秀吉。それは淀城でした。そしてその城は産所という意味も持っていました。)

(そこに運び込まれてきた子供用の道具類。それは全て男の子用ばかりでした。あきれる江。男の子を産むと言う茶々。そして、もし男の子なら願いがあると言う茶々。)

(茶々の子が秀吉の子でないという戯れ唄を見る秀吉。その犯人を捕らえて首を刎ねよと命ずる秀吉。しかし、犯人が見つからず、警戒を怠ったという理由で門番17人を処刑してしまった秀吉。さらには、罪人を匿ったとして二つの村を焼き払い、60人余りを処刑したのでした。)

(秀吉の暴挙を面罵する江。逃げたという事は罪人だと認めたという事だと傲然と言い放つ秀吉。子に罰が当たると諌める江に、茶々の子が別の男の子だと揶揄されたのだと迫る秀吉。そこにはかつての思いやりのある秀吉の姿はなく、暴慢な男に成りはてた醜い姿があるだけでした。何かあったら秀吉のせいだと言い捨てて去る江。)

(二度とこの様な事はしないと秀吉に誓わせたと江に言う茶々。そして、この子の親が秀吉である事には間違いないと言い切る茶々。)

(必ず男の子を産むと言い張る茶々。しかし、なぜか男の子かと聞かれても理由を答えません。)

(3月、淀城が完成。現れた江を見て皮肉を言う秀吉。甥か姪が生まれるのだから見守るのは当然だと答える江。意外にもよろしく頼むと頭を下げる秀吉。驚く江に、茶々がこの城の主となるのだと答える秀吉。これで茶々をおねと同格の正室と認めた事になるのだと言う三成。そして、彼女は淀殿と呼ばれる様になったのでした。)

淀城については先週の江紀行で紹介されていたとおり、妙教寺という寺のあたりにあったと推測されています。今日のドラマでも少し言っていましたが、古い城があった場所でもあり、天王山の戦いの時には光秀が拠点の一つとした事もありました。

その性格はこれもドラマで言っていたとおり、産所として築かれた様ですね。かつては出血を伴うお産は穢れであるとされており、母屋とは別の産所に籠もってお産を行うという習慣がありました。秀吉はその産所を大々的に築き上げたという訳ですね。

産所とは言いながら城下町もあったと言われ、万事派手好きの秀吉らしいエピソードと言えるかもしれません。

(5月27日、淀城。廊下でうろうろとする江と秀吉。産みの苦しみを味わっている淀殿。ひたすら男の子を望む秀吉。取り乱す秀吉を、それでも関白かと叱りつける江。今は子の誕生を待つ一人の父だとつぶやく秀吉。)

(やがて聞こえてきた産声に手を取り合って喜ぶ江と秀吉。そしてその子が男と聞き、秀吉の喜びは頂点に達しました。)

(赤子を抱き、棄と名付けると言う秀吉。それは捨て子は良く育つという言い習わしに従ったものでした。子煩悩さを見せる秀吉と淀殿を見て和む江。)

(三月後、大坂城。棄を抱いて喜ぶおね。わずか三月で棄を大坂城に移したのは軍略だと言うおね。子の誕生を祝い、商人や大名達の祝いがひっきりなしに訪れているのでした。)

(子の名を鶴松に改めたと言うおね。それは、豊臣家が末永く繁栄する様にという願いが込められていたのでした。)

(高次と共に現れた初。子を抱いて泣かれ、驚いて侍女に手渡す初。そんな事では母にはなれないとからかう高次。そんな二人を見て、初も妻になったのだなと感慨に耽る江。)

(高次が現れたのは戦の相談のためでした。次は関東の北条攻めだと言う高次。)

(小田原城。秀吉からの書状を見て憤る氏政。返り討ちにしてくれるといきまく氏直。その自信は小田原城の堅固さを背景にしたものでした。秀吉を成り上がり者と見下し、書状を破り捨てる氏政。)

これもドラマで言っていましたが、かつて武田信玄と上杉謙信という二人の名将が小田原城を攻めた事がありました。しかし、二人共にそのあまりの堅固さに手を焼き、落とす事が出来ずに引き上げたという事実があります。北条氏の自信はこの城にあったのですね。

城下町全体を城壁で囲い込むという惣構がその強さの源とされ、城壁の総延長は20数キロメートル、例え敵に囲まれていても、中ではふだんどおりの市民生活が営まれていたと言いますから、その凄さが窺えるというものですね。

(大坂城。聚楽第行幸に参加しなかった事、秀吉の命に背いて真田と戦を始めた事など、北条の罪を並べ立てて、これは帝に背いたも同然と断定する秀吉と側近達。)

北条氏が真田を攻めたというのは名胡桃城事件の事でしょう。名胡桃城のある沼田の地は長年に渡って北条氏と真田氏との間で領有を巡る争いがあった地であり、秀吉によって沼田の三分二は北条、名胡桃城を含む残り三分一は真田氏の地と裁定されていたのです。これを不服とした北条氏は謀略をもってこの城を奪い取りました。

この事は秀吉の命に背いたという事であり、北条を攻める格好の名分に使われてしまったのですね。

(鶴松が生まれた事を機に北条を討ち、天下を平らげた後に家督を譲ろうと考えていると言う秀吉。それでは鶴松のための戦だと諌める秀長に、それの何が悪いと聞く耳を持たない秀吉。)

(是非先鋒をと願い出る秀次。先鋒は家康に決めているとにべもない秀吉。如何と聞かれて、この上なき誉れと答える家康。家康の娘である徳姫は北条家に嫁いでいたのですが、即刻離縁させると言い切る家康。徳川を頼りにしていると言われ、平伏する家康。)

(利休の茶室で茶を飲む家康。茶一服で大名の首根っこを押さえてしまう天下の茶だ言う家康に苦笑する利休。)

(一畳半の茶室もあると聞き、なぜそちらを使わないのかと訝る家康。その茶室は3人、4人の時に使うのだと答える利休。その訳は大勢だと狭さが極まり、かえって広さを感じるのだと言う。)

(茶碗について、以前は歪んだ茶碗に美があると思っていたが、今は黒茶碗に惹かれると言う利休。しかし、それを秀吉は好まない様だと吐き捨てる利休。二人の仲はもっと近いものだと思っていたと意外そうな家康。政を思う心と茶を思う心が同じ間はそうだったと意味深長な事を言う利休。それは子が出来た事が大きいのかと問う家康に笑って答えない利休。そして、何時の日がうっとうしがられる日が来るかも知れないと予言めいた事を言い出します。)

(近いがゆえに最も遠いと一人ごちる利休。それが秀吉との仲だという事かと受け取る家康。)

(一人、月を眺める江。)

(江が歩いて行く先の部屋で、おねに向かって愚痴を言う秀次。居場所が無いと嘆く秀次に、短慮はならぬと諌めるおね。しかし、秀吉はあたりはばかる事無く、天下を平らげるのは鶴松のためだと言い放ったと言い募る秀次。その様子を障子の外で聞いていた江。その江を見とがめたおね。)

(どうしたと聞かれ、姉の初たちがべたべたとしていて居場所が無いのだと答える江。それに淀殿も、子が出来てからは幸せそうでと言いかけて、秀次にがさつ者とたしなめられる江。鶴松は豊臣の子だととりなすおね。)

(信長の姪だからと言って上手い事立ち回っていると江を皮肉る秀次。そちらこそ、秀吉の甥だからこそここに居るのではないかと言い返す江。二人とも止めよとたしなめるおね。)

(淀殿の部屋で鶴松を抱きながら、天下が定まったらすべてはお前のものだと言い聞かせる秀吉。)

(秀吉に願いをとせがむ淀殿。その願いとは、母の七回忌、父の十七回忌の追善供養をしたいというものでした。その二人はこの家の仇敵ゆえ、古来そんな例は無いと口とを挟む三成。しかし秀吉は、思う通りにせよと認めてくれたのでした。)

(12月、大勢の僧侶を呼び、父母の供養を行った淀殿。その仏前に供えられている二巻の巻物。)

(その巻物は長政と市の肖像画でした。初めて見る父の顔に見入る江。)

(淀殿に礼を言う江。これからも浅井家の菩提を弔うのが自分の勤めだと心得ていると淀殿。)

(豊臣にとっての仇敵である浅井家の供養を認める事は武家のしきたりに背く事、それをも覚悟して認めてくれた秀吉の恩は忘れてはいけないと諭す淀殿。これでようやく秀吉という仇を許す事が出来た、そしてやっと夫婦になれたという気がするとも言う淀殿。感慨深げに姉たちを見つめる江。)

(一人座っている江。そこに現れたヨシ。ヨシを相手に、姉たちには大切な人が出来たのだなと話す江。いつかきっと、江にも大切な人が見つかると言い聞かすヨシ。)

(駿府城。家康の帰りを迎える竹千代。その息子に向かって、いよいよ初陣となると言う家康。それはなぜと聞く正信に、北条攻めを命じられたと答える家康。それは良かった、父が好きな戦がまた堂々と出来るではないかと口を挟む竹千代。しかし、北条とはよしみを通じてきた間柄で娘を送った相手でもある、そこに戦を仕掛けるのかと言い出す竹千代。何が言いたいと聞く家康に、兄を秀吉に差し出した父らしいと思ったまでと答える竹千代。不機嫌そうに見つめる家康。)

秀忠って、こういう人だったのでしょうか。イメージとしては家康の言う事には一切逆らえなかった2代目なのですが、こんな批判眼も持っていたのかしらん?正直言って、この人の性格まではノーマークだったなあ。まだゲゲゲの印象が強く残っているのだけれど、これからは向井理の演技に注目したいと思います。

(駿府と大坂、遠く離れた地で空から舞い落ちる雪を見つめる竹千代と江。)

今週は人変わりを始めた秀吉が描かれました。かつて人たらしと呼ばれた面影は失せ、暴君としての面影が見えてきます。この秀吉との関係に暗雲が漂い始めたのは秀次と利休の二人でした。

甥であり、跡継ぎの第一候補とされていた秀次は、実子が生まれた事によって俄に立場が危うくなってしまいます。一方の利休は、茶のあり方について秀吉との対立が明確になりつつありました。共に豊臣家の柱石とも言うべき二人を疎み始めた時から秀吉の天下が揺らぎ始めるのですが、我が子可愛さに目の眩んだ秀吉にはその事が見えていません。

天下を取るまでの秀吉と取った後の秀吉の二人が別人の様に見えてしまう、このあたりがこの人物の不可思議なところなのですよね。古来様々な説明がされていますが、このドラマではどう描いていくのか注目したところです。

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2011.06.11

京都・洛東 京都皐月事情2011 ~岡崎神社 6.4~

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平成23年6月4日の岡崎神社です。この日は舞台の周囲のさつきが見頃になっていました。

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岡崎神社と言えば、狛兔がある神社として初詣の時に大ブレークしたところです。その立役者の狛兔ですが、半年前は真っ白だったのが、少しくすんできている様でした。良く言えば落ち着いた色合いになって来た訳で、やっとこの場所になじんできたとも言えそうですね。

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舞台の欄干に、うさぎみくじの置物が並んでいるのは変わらないですね。これって、おみくじを結わえて帰るのと同じ心理が働いているのかしらん?

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実を言えば、半年を経過して神社も閑散としているだろうなと思っていたのです。ところが、意外な程賑わっているのですね、これが。それも若い女性が数多く見られました。

そのお目当ては、どうやらこのうさぎみくじにある様です。この可愛らしい姿が人気を呼んでいる様ですね。他にもうさぎのお守りもあって、そちらも人気があるのかな。

岡崎神社にとっては、狛うさぎに続く救世主となりつつあるのかも知れませんね。

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2011.06.10

京都・洛東 京都皐月事情2011 ~黒谷 6.4~

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平成23年6月4日の黒谷です。

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この寺でも皐月はそこかしこで咲いているのですが、参道沿いのこの植え込みが一番見事でした。皐月は低く刈り込まれているのですが、赤い花の帯が道沿いにずっと伸びていましたよ。

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山門は間もなく修理が始まるようですね。周囲がフェンスで囲まれていて近づけなくなっているのですが、まだ仮覆いまでは設置されていません。

その山門の北側には赤いもみじが植えられていて、今の時期は新緑とあいまって良いアクセントになっています。この景色が見られるのも、後暫くの間なのでしょうね。

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大河ドラマの放映開始当時には話題になった江の供養塔ですが、最近は随分と落ち着いてきた様です。この日は私の他に一組の拝観者が居ただけでした。

私的にはドラマを通して半年間付き合ってきた訳で、以前とはやはり思い入れが違ってきています。無論、史実とは全く違う江の姿ではあるのですが、ずっと身近な存在と感じているのは確かですね。

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夫の秀忠はまだ子供の姿でしか登場していませんが、夫婦として描かれ出すとこの秀忠の供養塔も注目される様になるのでしょうか。今はまだ、その事も知らない人がほとんどの様なのですれどね。

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放生池では紫陽花が咲き始めていました。この花も今年は少し遅れ気味なのかな。この日は他の場所でも、やっと咲き出したというところが多かったです。見頃になって来るのは次の週末か、その次の週末あたりからかな。

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2011.06.09

京都・洛東 京都新緑2011 ~法然院 6.4~

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平成23年6月4日、深緑に覆われた法然院です。

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法然院は参道には針葉樹が多く、この時期でも深緑と言った方がぴったりと来ますね。その一方で、境内にはもみじが多く、まだ新緑と呼んだ方が相応しい色彩でした。この山門の付近はその両方が混然と交わり、調和した佇まいになってますね。

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それにしても、法然院は何時の間に人気の観光寺院になっていたのでしょうか。冒頭の写真を撮ろうとして人が居なくなるのを待っていたのですが、次々に拝観者が訪れてきて途切れる時がありませんでした。

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ついには団体さんまでが押し寄せてくる始末で、かつての隠れ家的雰囲気はどこにもありません。静かな風情が値打ちの寺で、大勢で見に来る様な場所では無いと思うのですけどね。

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山門内にある白砂壇では、丁度模様を描く作業が行われていました。一度は見たいと思っていた作業で暫く眺めていたのですが、熟練の技というのは凄いですね。時間の関係で最後まで見届ける事は出来なかったのですが、素人だと円を描く事でも難しいと感じました。仕上がりはどんな模様になっていたのだろうな。ちょっと気になるところです。

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2011.06.08

京都・洛東 京都皐月事情2011 ~安楽寺 6.4~

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平成23年6月4日の安楽寺です。この日は本堂前の庭園のさつきが見頃を迎えていました。

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安楽寺は普段非公開の寺で、年に何度か特別公開が行われます。この日は5月21日から行われていた回の最終日だったのですが、さつきに関しては丁度良いタイミングに訪れる事が出来たようです。

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安楽寺の中に入るのは、実はン十年ぶりになります。前回に来たのは小学生の頃だったかな、親に連れられての拝観でした。

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その頃は松虫、鈴虫という名の女官が悲しい目にあったという事ぐらいしか知らなくて、これがその二人の墓なのかと思った程度でした。西山の鈴虫寺と同じ程度にしか考えていなかった様にも覚えていますね。

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無論、安楽寺と鈴虫寺は関係なく、松虫、鈴虫というのは後鳥羽上皇のお気に入りの女官でした。ころが、御所生活にむなしさを感じていた二人は、清水寺で法然上人の説教を聞いた事をきっかけに出家を決意し、上皇には無断で鹿ヶ谷草庵を訪れて得度を受けたのでした。

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これを知った上皇は激怒して、二人を出家させた安楽上人と住蓮上人を斬首に処し、法然上人と親鸞聖人を流罪にしてしまったのです。そして松虫、鈴虫の二人は瀬戸内海の生口島に流され、その地で生涯を終えました。

安楽寺は流罪が許されて京に戻った法然上人が、安楽、住蓮上人の菩提を弔う為に鹿ヶ谷草庵があった地に建てた寺なのですね。

浄土宗は繰り返し弾圧を受けて来たのですが、この時の弾圧は承久の弾圧と呼ばれる、最初にして最大の弾圧と言われます。この寺は、その法難の犠牲となった者の慰霊碑であると同時に、それを乗り越えた記念碑でもあるのですね。

でも、小学生にそんな事を言ってもなかなか理解は出来ないよなあと自己弁護をしておきます、はい。


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2011.06.07

京都・洛北 京都皐月事情2011 ~圓光寺 6.4~

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平成23年6月4日の圓光寺です。この寺の庭もまたさつきが多く植えられており、この時期に訪れるのが楽しみな場所の一つです。

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ところが、この日はほとんど咲いてなかったのですよ。詩仙堂や金福寺はなかなかの咲きっぷりだったのですけどね、完全な期待はずれでした。

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まあ、この寺のさつきを見に来たのは去年が初めてだったので、多くを知っている訳ではありません。もしかしたら日陰になっているぶん、余所よりも咲き始めるのが遅いのかも知れないですね。

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この日満開になっていたのはカルミアでた。あのチョコレートにそっくりという花ですね。確かに面白い形をした、綺麗な花です。でも、この庭にあるとは知らなかったなあ。

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さつきに関しては、庭園入り口前の日当たりの良い場所にあるこの木もまだこんな感じでしたから、今週末から来週にかけてが見頃になるのかも知れません。まあ、保証の限りではありませんので、外れても恨みっこなしでお願いしますね。

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2011.06.06

京都・洛北 京都皐月事情2011 ~金福寺 6.4~

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平成23年6月4日の金福寺です。この日は庭園のさつきが見頃を迎えつつあるところでした。

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これまで何度となく訪れている金福寺ですが、この季節に来たのは初めてです。これだけさつきがあるのに勿体ない事をしていたものですね。

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この庭のさつきもまた品種の違いや日当たりの差からでしょうか、一斉に咲くという事は無い様ですね。この日は斜面の上部の方のさつきが咲き揃っており、下の方や階段沿いのこのあたりはほどんど咲いていませんでした。

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つまりは、見頃は今暫く続くという事でしょうね。この庭の最高の状態は残念ながら知らないのですが、今週半ばくらいが一番見応えがある様な気がしています。あくまでただの勘ですけどね。

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新緑はもみじも綺麗でしたが、むしろ広葉樹の方が盛りの様に感じました。この生け垣には何種類の木が使われているのか判りませんが、微妙な色合いの違いが混然となっていて、なかなか綺麗でした。

金福寺は詩仙堂と違って訪れる人も少なく、静かに花の庭を楽しむにはもってこいの場所ですよ。


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2011.06.05

江~姫たちの戦国~21 豊臣の妻

(天正16年正月、聚楽第に帝を迎えるという秀吉。それは足利将軍家が実現して以来、150年ぶりとなる快挙でした。三成に豊臣家の威信を天下に示す演出を語る秀吉。)

(大阪城。行幸の実現と聞き、秀吉に何か良い事があったのかといぶかる江。誤魔化すサキ。)

(秀吉に抱きしめられた時の回想をする茶々。)

(何も知らずに、姉の縁組みを心配する江。いたたまれぬ様に、侍女達を下がらせ、江と二人きりになる茶々。)

(茶々の真意を知り驚く江。謝る茶々。父母の仇の側室になったのかと姉を責める江。側室ではないと言い張る茶々。側室だと言って部屋を出て行く江。)

(茶々との関係をおねに話し、謝る秀吉。致し方ない事と言って認めるおね。おねを抱きしめる秀吉。ひとり悲しみに耐えるおね。)

(4月半ば、聚楽第。帝の前で諸大名に秀吉への誓い状を出させ、諸大名に豊臣への絶対服従を誓わせる秀吉。)

後陽成天皇が聚楽第に行幸したのは、天正16年4月14日の事でした。天皇以下文武百官が行列をなして聚楽第を訪れ、それを秀吉は趣向を凝らして持てなしたと伝わります。そのあまりの楽しさゆえに、最初は3日の予定であったのが、天皇がもっと居たいと言い出したために5日に延長されたそうですから、秀吉の得意も絶頂を極めた事でしょうね。

後陽成天皇はこの時の楽しさが忘れられなかったのでしょう、この4年後に再び聚楽第に行幸しているそうです。秀吉の饗応が如何に優れたものであったかが窺い知れるというものですね。

(利休を茶頭に家康との茶席を設けた秀吉。茶々との馴れ初めを聞き驚く家康。彼はこれで帝のみならず織田家の力まで手に入れた事になると際どい事を言いますが、今はうれしさだけでそこまで頭が回らぬと笑い飛ばす秀吉。心配なのはむしろ江だと利休。江など関係ないと秀吉。しかし、彼女たちにすれば秀吉は仇だと言い、茶菓子に楊枝を突き刺してみせる利休。馬鹿な事をと相手にしない秀吉。いや、あの姫なら判らないと家康。嫌な顔で楊枝が突き刺さった菓子を食べる秀吉。)

(数日後、大阪城。ヨシを相手に茶々と秀吉の関係を話す江。驚くサキ。そのサキから秀吉が大坂城に来ていると聞かされ、鋭く振り向く江。)

(茶々に会う為に着替えている秀吉。惚れた女に会う気持ちは、三成にはわからないだろうと話しかける秀吉。判らぬでもありませぬと三成。どこかに好きな女が居るのかと突っこむ秀吉。とても手の出ない所に居る人だと答える三成。諦めてどうすると笑い飛ばす秀吉。)

三成の言う手のでない人とは茶々の事なのでしょうね。それをさらっと言ってのけるとは、三成もただ者ではないという証拠でしょうか。このやりとりは、たぶん後の関ヶ原の戦いに続く伏線となるのでしょうね。

(そこに乗り込んできた江。彼女は秀吉を泥棒猿とののしり、挑み掛かろうとします。懸命に止める三成。無理強いはしていない、茶々自らが選んだのだと答える秀吉。うるさいと聞く耳を持たない江。)

(そこに現れた茶々。彼女は江を止め、秀吉に謝ります。猫なで声で許す秀吉。茶々の手を握りながら、江にゆっくり話そうと言う秀吉。座ってはどうかと江に頼む茶々。二人の仲良さそうな様子を見て、悄然と引き上げる江。)

(部屋に戻り、断じて許さぬと泣き崩れる江。)

(茶々に背を向けて食事を始める江。彼女は背中の茶々に向かって、己の決めた事を貫くと言い放ちます。辛そうに黙っている茶々。)

(龍子に相談に来ている江。秀吉の心が姉に移った事が気にならないのかと江。側室は10人以上居るのに、いちいち腹を立てていては身が持たぬと龍子。近頃の茶々は一段と艶めいている、やはり女は男次第だと龍子に言われ、悲しそうに席を立つ江。)

茶々の事など気にしていないと言った龍子ですが、後に行われた醍醐の花見では、茶々と席次を争って秀吉を困らせたと言われます。まだまだ先の話なのですが、その時はどう描くつもりなのでしょうね。ちょっと楽しみではあります。

(翌日から一人で食事を摂る様になった江。今は待つしかないと茶々。)

(一人考え込む江。そこに現れた秀勝。今は父の下にいるという秀勝。秀吉の怒りは解けたのかと江。叔父は自分を許したい様だが断ってきたと秀勝。いぶかる江に、許して貰わねばならぬ事はしていないと答える秀勝。)

(江も姉と秀吉の事を許したいのだろう、しかし許せないと秀勝。許せる訳がない、あなたと同じだと江。自分の心は安らかだが、江は違うと秀勝。驚く江。あなたの心が安らかになる事を祈っていると言い残して去る秀勝。)

(秋。一人佇む江の下に現れた初。久しぶりの再会に飛びつく江。)

(初が現れた訳は、茶々から手紙を貰ったからでした。その手紙で茶々は秀吉との仲が出来た事を知らせ、そして江が口をきいてくれないと嘆いていたと初。)

(男と女には何があってもおかしくない、仕方の無い事だと初。江には判らないだろうがとからわれ、初には判るのかと問い返す江。私も女ゆえ判るのだと初。その上で、高次との仲をのろける初。ならば帰れとむくれる江。そうは行かない、何としても姉妹の溝を埋めるのだと初。)

(茶々の下を訪れた初。再会を喜ぶ茶々。初の背後で悄然とうつむいている江。)

(初と並んで茶々と向き合う江。その江に、姉に謝れと迫る初。かたくなに黙っている江。姉に黙っているとは無礼千万だと無理矢理手を付かせ、頭を下げさせる初。黙っている茶々。これで良い、江も判ったはずだと初。黙ったまま顔を上げる江。その背後から、あの事を話してはどうかと声を掛けるサキ。自分のお腹にはややが居ると言い出す茶々。驚いて祝いを言う初。)

(実は秀吉との事には迷いがあったと語り出す茶々。父母に許して貰えぬなら、命を奪って欲しいと願った。そうしたら腹に子が宿り、許して貰えたという思いがしたと茶々。そんな訳はない、秀吉の子など母は許してないと叫ぶ江。そのまま手を付いて出て行く江を悲しげに見送る茶々。)

(聚楽第。茶々からの手紙で子が出来た事を知り、呆然としながらおねに告げる秀吉。驚きつつも、平静を装うおね。やっと自分の子が出来たと涙ぐむ秀吉。)

秀吉には長浜時代に子が生まれた事があったらしいとは以前に書いた事がありますが、一般には茶々が初めて子を宿した様に言われていますね。いずれにしても、諦めていたところに出来た子ですから、秀吉の喜びがとても大きなものであった事は容易に想像が付きます。

でも、この事がきっかけで秀吉の治世に狂いが生じて来るのですから、皮肉なものですよね。禍福はあざなえる縄のごとしとは良く言ったものだとつくづく思います。

(大坂城。強情を張る江に手を焼いている初。母があれほど嫌い抜いていた秀吉の子を宿すなど許せないと江。しかし、姉の子だと初。姉に子が授かった事を喜べぬとは、もはや鬼だ、夜叉だと責める初。猿よりましだと言い返す江。そこにヨシがやって来て、何やら江に告げました。)

(江を呼び出したのはおねでした。江に市の手紙と秀吉の誓書を差し出し、不首尾を詫びるおね。言いよどむ江に、子供が出来た事は豊臣家にとっては目出度い事だと告げるおね。その一方で、自分も茶々を避けていると言い出すおね。子が出来た事を祝いに来たのに素直に会う事が出来ない、江もさぞかし辛いだろうと思いやるおね。)

(茶々の事は覚悟していた。しかし、子が出来た事は正直言って堪えたとおね。申し訳ないと謝る江。)

(これまで側室たちに寛大で居られたのは、その中の誰にも子が出来なかったからだと気付いたと言うおね。彼女は自分の醜さ、小ささを見せつけられた思いがしたのでした。それは女心ではと気遣う江。子供の様な江に女心と言われ、思わず微笑むおね。)

(江と話せてすっきりしたと言うおね。そなたはどうするのかと問われ、秀勝の言葉を思い出す江。)

(子とは不思議なものだ、父母の思いを秀吉の子を産む事によって茶々が受け次ぐ、それは恨みや憎しみをたった一人の子がぬぐい去ってくれる様なものではないかと諭すおね。)

(茶々と対面し、丈夫な子を産む様にと励ますおね。礼を言う茶々に、豊臣の子を産んでくれるのだから礼を言うのはこちらだと答えるおね。どの家に生まれようと、この子は自分の子だと言う茶々ですが、おねは勘違いするな、その子は豊臣の子だと厳しく言い放ちます。そして、茶々は側室ではなく、秀吉の妻と言い聞かせるおね。)

(豊臣の家を守るのがおね、豊臣の子を産み、育てるのが茶々、役目が違う妻と心得よと言い渡すおね。驚く茶々。同じ妻としてよろしく頼みますと頭を下げるおね。)

このあたりは、おねの正室としての意地と誇りがそう言わしめているのでしょうか。あるいは、秀吉はあくまでおねを必要としており、その事が支えとなってこうした役割分担を言い渡す事が出来たのでしょうか。封建制の世にあって家を守るという立場に立てば自然とこうなるという気もしますけどね。

(初におねとの事を話す茶々。秀吉には過ぎた女房だと初。自分は豊臣の子を産むのだ、人の運命とは不可思議なものだと茶々。そこに江がやって来ました。)

(自分は何をどう言えば良いのか判らない。ただ、自分の甥か姪が生まれるという事はうれしい事だと告げる江。すまぬとあやまる茶々。泣きながら姉と抱き合う江。二人を嬉しそうに見守り、近江に帰って高次との子を作るのだと言って帰る初。)

今回はおねの大きさばかりが光った回でした。自分の感情は押し殺し、秀吉と共に築き上げてきた豊臣家にとって一番良い形は何かと考えた上での行動を取ったおねは立派でしたよね。江はこの時16歳でしたから、一度は嫁に行った身ではあっても、こうした反応になってもおかしくはなかったのかな。

無論、全ては創作の世界ではありますが、実際の北政所がどんな人だったのか知りたくなった回でした。


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2011.06.04

京都・洛北 京都皐月事情2011 ~詩仙堂 6.4~

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平成23年6月4日の詩仙堂です。今日は庭園の皐月がほぼ見頃となっていました。

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座敷から眺めた景色はご覧のとおりで満開とは言えないのですが、全ての木が一度に咲く事はないので、この状態で見頃だと言えるでしょう。これからは順に盛りの木が移って行くので、暫くは見頃が続くものと思われます。

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今日一番咲いていたのは鹿威しへと続く階段脇のこの木で、まさに満開でした。

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全体としてこの階段付近が一番咲いており、ここで記念写真を撮る人が絶えなかったですね。きっと美しい良い思い出として残る事でしょう。

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池の畔ではキショウブが咲いていました。でも、写真に撮るには今ひとつの咲き方だったのですよね。そこで皐月に添える色としてだけ頂いてきました。

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これはテッセンで良いのか、それともクレマチスと呼ぶべきなのか。この庭にあるのだから在来種だとは思うのですが、なかなか見分けが付きません。でも、詩仙堂に相応しい深みのある綺麗な花でしたよ。

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こちらはシランです。あちこちで見かける花ではありますが、この庭で見るとより美しく感じてしまいますね。

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今日はもっと混んでいると覚悟していたのですが、それほどでもなかったです。上に掲げた額縁写真が撮れたくらいですからね。

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外国人が少ないからだとも聞きますが、今日は結構あちこちで会ったのですけどね。ただ、確かに中国の方は少なかったかも知れません。

こんな綺麗な景色があるのに、見に来て貰えないのは残念ではありますね。

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2011.06.03

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その6~

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(三条制札場跡)

(慶応2年8月、そのはよちよち歩きを始め、片言もしゃべれる様になっていた。鹿内はそのを溺愛した。溺愛しているという評判が隊内に流れると、誰もが鹿内を白眼視する様になった。彼らはみな、人並みな幸福の外にいる。妻子という幸福を持つ鹿内に対する嫉みから、鹿内に辛く当たった。また、鹿内の印象が酷く小さく、貧相なものに変わっていた。何時の間にか、志士としての精神が萎んでいたのかもしれない。)

このあたりの鹿内の描写は、吉村貫一郎の姿を彷彿とさせます。彼は故郷に5人の妻子を残してきており、その家族に宛てた送金をずっと続けていたと伝えられています。無論、家族構成は全く違っていますが、妻子をそこまで大事にしたという隊士は異色の存在ですからね、作者はやはり意識していた事でしょう。

ちなみに、吉村に本当に妻子が居たかどうかについては確証は無い様です。確認出来るのは兄夫婦とその子ども達だけで、送金が事実だったとすればその甥や姪に宛てたものだったのでしょうか。

(8月29日の夜、三条大橋の袂にある制札場の制札が、何者かに抜かれて黒く塗りつぶされ、鴨川に捨てられるという事件が起こった。制札に書かれていたのは、長州人を見つけたら直ちに知らせる事、そうすれば褒美を与えるが、もし匿ったりしたら朝敵とみなすというものであった。この制札を捨てるという事は、幕府に対する侮辱である。)

(奉行所ではやむなく制札を新調して立てたが、またしても塗りつぶして捨てられた。これを何度が繰り返したが、奉行所の手に余るという事で新選組に取り締まりを依頼した。)

(下手人は、長州藩に同情的な土佐藩士か、それに同調する過激浪士だろうと推察された。うわさでは10数人という大人数であるという。)

(近藤と土方は原田の十番隊に出動を命じ、さらに剣術師範数名を応援に付けた。土方はさら、探索方として鹿内と橋本会助を指名した。)

(原田は隊を三つに分けた。一班を三条小橋東畔北側にある酒店に詰めさせ、二班を三条大橋東詰の茶店の奥に待機させた。そして自らは主力10人を率いて先斗町の町会所に陣取った。二人の探索者は、三条大橋の上で菰を被った乞食に変装して座った。)

(数日は何事もなかった。夜更けと共にこの態勢を解いて解散し、日暮れと共に再びこの態勢に入った。)

(9月12日の夜、空は数辺の雲が掛かるだけの晴夜だった。午後十時を過ぎる頃には月が沖天に掛かり、あたりを真昼の様に照らした。鹿内は菰の中で脇差し一本を抱いて座っている。時折、雲が月を隠す度にほっとした。闇だけが鹿内を守ってくれるのである。)

(雲が去って月が鹿内を照らし出した時、南から声が沸き起こった。そして、河原伝いに足音が聞こて来る。鹿内は人影が八つ、九つと近付いてくるのを見た。)

(やがて人影は鹿内のところにやってきた。彼らは宮川助五郎、藤崎吉五郎、安藤謙治ら八名の土佐藩士であった。彼らは鹿内をただの乞食と見て、銅銭を投げてよこした。鹿内は立ち上がって、先斗町会所にまで知らせようとした。それが彼に科せられた役目である。しかし、胴が震えて腰が橋板に吸い付いた様に動かなかった。)

(彼の脳裏には小つるの顔が浮かんだ。そして、そのの甘酸っぱい肌の匂いが鼻に満ちた。彼は死を恐れた。今立ち上がっては、土佐者達になますの様に斬り殺されてしまう。)

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(先斗町会所跡)

(しかし、橋本は違った。彼は悠々と歩き出し、制札場を越えようとしている土佐者たちに良い月夜でございますとあいさつさえして通り過ぎた。彼が先斗町会所に知らせた事で、原田の隊が出動した。)

(橋の上では大乱闘になった。土佐藩士達は歴戦の勇士であり、必死に戦ったため新選組隊士も斬られた。しかし、やがて酒屋と茶店から応援が駆けつけると人数で上回り、新選組が有利となった。土佐藩士では、藤崎が原田に斬られて即死、安藤が重傷を負いながら逃げ延びたが、死を悟って河原町の路上で切腹、宮川は全身に傷を負って意識を失ったところを捕縛された。あとはいずれも深傷を負いながらも、河原に飛び降りるなどして四方に逃げ延びた。)

(事件後、京都守護職から感状と褒美が下され、事件で働いた者に与えられた。原田以下四名に20両、ほか五名に15両、さらに橋本には15両などである。しかし、鹿内は黙殺された。)

この事件は史実であり、経過はほぼこの小説のとおりでした。作者が下敷きにしたのは子母澤寛の新選組始末記であり、その元ネタは西村兼文が著した新撰組始末記にあります。

作者によって脚色されているのは鹿内が全く動けなかったという点で、新撰組始末記に依れば、臆した浅野は橋の上を通る事が出来ずに一旦河原へと降り、鴨川の中を渡って東詰の隊士達に知らせたとあります。この遠回りのために東詰の隊士達は出動が遅れ、手柄を逃したと苦情が出されたのでした。

一方の橋本は、土佐者を恐れずに西詰めの隊士に知らせたばかりでなく、戦闘にも加わって手柄を上げるという活躍をしており、浅野とは際だった違いを見せています。そして、浅野はこの不手際のために卑怯者として放逐されてしまったのでした。

ただし、疑問点はいくつもあって、まず浅野がこの事件に関与していたと記しているのは、新撰組始末記だけなのですよ。この事件について記した資料はいくつかあるのですが、そのどれもに浅野の名前は出て来ません。例えば永倉新八の「浪士文久報国記事」には探索方が居たとは記されていませんし、浅野の名前も書かれていないのです。そもそも、仮にも副長助勤を勤めた隊士に対して見張り役を命じたりするものかという疑問はどうしても残りますね。

また、浅野と橋本の二人が見張り役を勤めて居たとしての話になるのですが、土佐側の記録には「制札を引き抜こうとしたところ、橋の下に二人居て、河原を南へ走り行き」とあります。この記述からすると、河原に降りたのは浅野だけではなく橋本も一緒だったと推測されます。すると、浅野だけが卑怯者と誹られたという説明は成り立たない事になってきますよね。

どうにも浅野に関するエピソードは創作めいているのですが、小説の流れとしては見事に嵌っていると言えると思います。

(数日後、近藤は土方に「士道不覚悟」と言った。そうか、と土方は目を落とした。もはや鹿内には死を与える他は無い。後は誰に斬らせるかだけだった。)

(土方は原田を呼んだ。そして、君の隊に怯懦の者が居る、捨てておけば隊が腐ると言った。原田はなおも誰ですととぼけた。妻子を持った原田には、鹿内の気持ちが良く判ったのである。出来れば助けてやりたいと思った。)

原田は後に新選組と袂を分かって永倉と共に靖共隊を結成するのですが、江戸を離れてすぐに隊から離れてしまいます。その理由として永倉は妻子への愛着にひかされたためと記しており、京に残してきた妻のまさや長男の茂の下に帰りたかったのだろうと推測しています。

こうしてみると、鹿内のモデルは吉村と言うよりも原田自身だったのかなという気もしてきますね。妻が京都人で子が一人という設定は原田に重なるものなあ。

(しかし、土方は判らなければそれでよい、十番隊の士道不覚悟は不問に伏せておくと言った。これでは原田が士道不覚悟と同様の事になってしまう。当惑した原田は言い方が良くないと言いながら立ち上がった。)

(鹿内を自分が始末すると原田が言った。土方は討手を特に原田にした意味も判って貰えるだろうと言った。新選組と里心、この二つは氷炭のごとく相容れない、かつて土方はそう言っていた。家庭的な人情こそ、新選組を腐敗させると言いたかったのだろう。)

(原田は隊に戻り、巡察に出ると言った。同行を命じたのは鹿内と橋本である。橋本は既にこの巡察の内意を聞かされている。)

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(祇園石段下)

(祇園石段下まで来た時、登り給えと初めて原田は鹿内に声を駆けた。境内を突き抜ければ、真葛が原から祇園林に道が続いているる薄暮の刻限、人影が絶える事を原田は知っていた。)

(林の中に至った時、原田はこの巡察がどういう意味を持っているか判っていてくれると思う、抜き給えと鹿内に声を掛けた。鹿内は恐怖に駆られて刀の柄に手を掛けた。その時、原田の刀が右肩へと吸い込まれた。)

(仰向けに倒れながら、なお意識があった。すべてはこの林の中から始まったのだと思った。原田は橋本に止めをと命じた。橋本の刀が逆しまに垂れた。その刀を鹿内は見ていた。そしてその切っ先が胸に吸い込まれた時、全てが終わった。)

浅野の最後についてはいくつか説があります。

1.永倉新八の「同志連名記」
 理由は判りませんが、島原で斬首と記しています。

2.西村兼文の「新撰組始末記」
 勝手に金策を行った事が発覚したため、沖田総司により葛野郡川勝村で斬られた。

3.史談会における阿部十郎の談話。
 伊東甲子太郎が御陵衛士として分離したあと浅野も脱走し、伊東を頼って来た。しかし、新選組との約束で新選組からの脱走者は受け入れる事が出来なかったため、これを山科に匿い、土佐へ落とす算段をしていた。ところがその途中で浅野は近藤を説き伏せる積もりで出かけたが近藤が不在で、沖田総司が桂川へ行って斬ってしまった。

この中では阿部十郎の話が最も信頼出来そうなのですが、なぜ近藤に会いに行ったのかは説明されておらず、依然として謎は残ります。また、御陵衛士を結成したばかりの伊東が土佐にチャンネルを持っていたのかという点にも疑問がありますね。

いずれにせよ、生涯を全うする事無く、非業の死を遂げたという事は確かな様です。

一方、吉村貫一郎については壬生義士伝に描かれていたとおりで、鳥羽伏見の戦いの後、新選組を離れて南部藩の大坂屋敷を訪れたとされています。そこで旧知の留守居役に会い、これまでは新選組にあって幕府のために戦ってきたが、これからは勤皇のために働きたいと言って帰参を願ったのでした。

ところが、あまりに軽々しく転向を口にするとは卑怯、未練と咎められ、座敷を貸すので自決してはどうかと迫られます。窮した吉村は悩み抜いた挙げ句、介錯もないまま一人で切腹して果てたのでした。そして、床の間には、彼の小刀と二分金10枚ばかりが置いてあり、これを家族の下へ送って欲しいと書き残してあったとされています。最後まで家族を思いやったという、いかにも吉村らしい最後ではありますね。

もっともこの吉村の最後については、旧知の留守居役とされる大野という人物が実在して居ない事、この話を伝えたのがその大野の孫娘であるとされる事から、信憑性が疑われています。この話は大筋を西村兼文が記し、子母澤寛がさらに詳しく書いているのですが、両者による創作である可能性は捨てられないですね。

さらに原田については、妻子の下に帰るべく江戸までは戻ったものの、とても京都へ帰れるという状況には無く、やむなく彰義隊に加入して戦う道を選びました。そして一隊士として戦い、銃弾に撃たれて果てたとも、三人の敵と渡り合い、二人までは倒して戦死したとも伝わります。

そして別の説では、彰義隊の戦いを生き延びた原田は大陸に渡って馬賊の頭領となって活躍し、後年勃発した日露戦争では日本軍と協力して戦ったとも言われます。

臆病者、卑怯者というレッテルを貼られてしまった浅野薫と吉村貫一郎、勇者として振る舞いながら最後は家族の下へ帰ろうとした原田左之助、新選組にあっては異色と言える三人を巧みに組み合わせて創作した鹿内という人物は、ひどく人間くさく、それだけにごく身近に感じられるキャラクターとして生きている様に思われます。

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2011.06.02

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その5~

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(平成21年7月、はなの舞開店当時の池田屋跡)

(高倉御池の八幡宮の境内を抜け、姉小路にまで出た時にやっと追手からまぬがれる事が出来た。木屋町に行かなくてはと思ったが、組下の平野と神田が居ない。鹿内は懸命に探し、上本能寺町という辻で死体になっている二人を見つけた。彼は呆然となりながらも、近くの本能寺の門番を叩き起こして死体の始末をさせ、自分は三条通を木屋町へと急いだ。)

薩摩藩士達に囲まれたのは二条富小路のあたりでしたから、高倉御池にまで逃げたという事は目的地の木屋町とは反対側に走った事になります。まあ、相手に背中を向けたのだからそうなるのかな。

高倉御池の八幡宮とは、御所八幡宮の事でしょうか。足利家ゆかりの神社で、今でもビル群に挟まれる様にして小さな社が残っています。江戸の頃にはもう少し東北側、現在の御池通の真ん中に位置していたらしく、境内も今よりは広かった様です。現在の位置に移ったのは戦時中に強制疎開があったためで、戦後は明け渡した土地が道路となっしまい、境内が元に戻る事はありませんでした。

一方、上本能寺町というのは今の京都市役所がある付近です。二条富小路からは東南にあたり、平野と神田は鹿内とは反対側に逃げたという事になりますね。本能寺はすぐ南隣になりますから、話の辻褄は合う事にはなる様です。

(会所では、鉢金を被り、和泉守兼定を膝の上に横たえた土方が待っていた。その姿は、鹿内には鬼神の様に思えた。来着の意を告げる鹿内を不審気に見る土方。鹿内の顔が幽鬼の様に蒼ざめていたのである。不覚でございましたと言う鹿内を制して、後で聞くとだけ答える土方。彼は平野と神田が逃げ出したと察したが、隊士の士気を考えてあえて触れなかったのである。)

ここの土方の描写は見事ですね。先程の優しさを見せた土方とは違って、まさに鬼の副長と言うべき姿に変貌しています。鹿内の心象風景と言うべきなのでしょうけれども、つい先刻までは最も信頼の置ける上司だった存在が、誰よりも恐ろしい相手に変わってしまっていたのでした。無論、その原因は鹿内の側にある訳ですけどね、ここから始まる彼の転落を予感させるには十分な光景です。

(やがて刻限になり、土方以下の隊士が疾風の様に駆け出した。土方は鴨川に面した裏口を押さえ、木屋町の南北を固め、自身は数人の隊士を引き連れただけで丹虎に押し入った。しかし、問題の激徒は一人も居なかった。)

(やはり池田屋かと察した土方は、三方に分かれた隊を呼び集め、池田屋へと向かった。しかし、夜分の事ゆえ、相当の時間を要している。この間、池田屋では近藤達が浪士を相手に勝敗不明の戦いを続けていた。)

(隊士を呼び集めた時、土方は緊張した面持ちの中に、一人だけ違う表情を見つけた。鹿内、と思ったが土方はすぐに先頭を駆け出した。)

(池田屋では、隊士の一人一人が阿修羅の様に戦った。近藤は隊士とすれ違いう都度に、おう、と励ましの言葉を掛けて行ったが、鹿内と出会う場所にはなぜか敵がいなかった。そして、最後に会った時には、鹿内から隠れる様にして消えてしまった。)

史実の浅野については、事件後の彼の刀は左に曲がっていたと言われ、相当な戦いを繰り広げたと想像されます。しかし、新選組!では、他の隊士が着られる中、一人植え込みに隠れて震えていたという描写をされており、その元を辿ればこの小説に行き着くのではないかと考えられます。事実とは180度違う評価を着せられている訳で、あまりにも可哀想なのではないかと思いますね。

(上本能寺で平野と神田が斬られた件については、鹿内の申し立てにより不問に付された。多数を相手に戦ったが、及ばすに二人斬られた。当方も数人は斬ったが木屋町への集合時間が迫っていたので、闘争の場所を捨てて会所へと向かった。しかし、鹿内はこの嘘を付き通せる人間ではなかった。)

(小つるに会い、子供が出来た事で自分は変わったらしい。かつての自分なら薩摩藩士に取り囲まれた時にも、及ばずながらも踏みとどまって斬り死した事だろう。しかし、魔が差した。)

(原田も同じ境遇に居た。しかし、彼は別の種類の人間だったらしく、一段と命知らずの原田という本領を発揮している。)

(鹿内は、小つるに逃げようと言った。しかし、小つるは不思議な顔をて、どうやって食べていくのかと聞くばかりであった。京の女は男を好いても惚れぬと言う。男と心中だてをする様な女は一人も居なかった。)

京の女という記述がありますが、これは花街の中での事でしょうね。花街の女性達は客あしらいのプロですから、言い寄ってくる相手にいちいち本気で関わったりはしません。しかし、そこは客商売ですから、相手を良い気持ちにさせてやる手練手管は駆使します。そのあたりの機微を表現したのが京女云々という言い回しなのでしょう。決して一般論では無い事は確かです。

(田舎は嫌だと小つるは言う。南部に逃げようと鹿内は言ったが、嫌だと一言の下に断られた。鹿内の話は面白かったが、そんな田舎に生まれずに済んだという幸福感が彼女を笑わせていたのである。)

(数日後、隊の編成変えがあった。助勤制が廃止になり、幹部は組長、伍長、観察、武芸師範頭という事になった。助勤の多くは新編成の幹部になったが、鹿内の名はどこにも無かった。この事は鹿内を絶望的にさせた。)

浅野は池田屋事件の後、あけぼの亭事件や佐久間象山の息子、三浦敬之助の松代藩帰参運動などに関わりを持った後、忽然と消息を絶ってしまいます。一説には敬之助の帰参運動を近藤に無断で行った事を咎められ、謹慎または降格の憂き目にあったのではないかと言われますが、定かではありません。この作品は、そうした経過を上手く使っているという気がします。

(それとなく原田に理由を聞いてみたが、原田は知らなかった。原田は土方に確かめたが、知らんの一言で済まされてしまった。)

(土方がこういう言い方をしたのには理由があった。近藤が鹿内を怯懦だと言って、酷く嫌う様になっていたのである。助勤から外れたのはそのせいだったが、もしこの事を公言すればこの組織にあっては死に値する事になる。土方はまだこの奥州武士に対する愛情を残していたのである。もう一度機会を与えよう、土方はそう考えていた。)

新選組にあっては臆病は死に値するとありますが、隊士としての評価は最低にはなるものの、殺されはしなかった様です。ではどうなるかと言うと、追放されたのですね。新撰組始末記には川島勝治と他ならぬ浅野自身が臆病ゆえに追放されたと記されており、こうした処分が行われていた事が判ります。浅野が臆病者のレッテルを貼られている根本の原因は、この記述にあると言っても良いのでしょう。

しかし、この追放という処分は武士としての名誉を剥奪されたも同然と言って良く、当時の武士にとってはある意味死ぬよりつらい仕打ちだったのかも知れません。

ちなみに、この二人は池田屋事件の時に探索方として活躍したとされており、同じ末路を辿ったというのは因果の様な気がします。もっとも、あまりにも経歴が似すぎていて、西村兼文による創作くさいという気もするのですけどね。

(慶応元年正月、小つるは女の子を産んだ。鹿内に似た、目の綺麗な子供だった。鹿内は祖母の名を取って加穂と名付けたかったが、小つるは田舎くさいと反対した。そして、小つるは祇園社の禰宜に頼んで、その、と名付けた。)

加穂という名前は随分と現代的な気がしますけどね、江戸時代では田舎くさい名前だったのでしょうか。このあたりは流行の様なもので、今でも10年、20年のうちにはがらりと変わりますから、何とも言えないところなのかな。

イメージとしては、そのという名前は幕末ぽっいという感じはしますね。

以下、明日に続きます。

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2011.06.01

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その4~

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(丹虎跡)

(助勤に抜擢された鹿内に小さな変化が現れた。元治元年6月の池田屋事件の時の事である。)

(この時、新選組は2隊に別れた。一組は近藤が6人を率いて池田屋に向かい、土方が20数名を率いて木屋町三条上がるの丹虎に向かう手筈となった。この理由は、この日の最後に入った情報では、浪士達の会合は丹虎で行われるという見方が強くなったためである。鹿内は土方隊に入った。)

池田屋事件の時、近藤隊が池田屋へ、そして土方隊が真っ直ぐに丹虎に向ったという事実は無い事は以前に書いたとおりです。ただし、効率良く探索をするために隊を分けたのは事実で、近藤が率いていたのは10人、土方が率いたのは24人でした。土方隊の方が人数が多いのは、より広い祇園町を受け持ったためで、その土方隊の中に井上源三郎を長とする11人の分隊が存在した事も以前に記したとおりですね。

(この丹虎には、かつて土佐の武市半平太が起居していた事があり、過激浪士の巣窟だった場所でもある。武市はここから佐幕派要人の暗殺を指揮していたとも言われている。)

武市半平太については、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で取り上げられており、その事績を記憶されている方も多いかと思われます。武市がここに居を構えたのは文久2年閏8月の事で、翌文久3年4月に土佐に帰るまで住処としていたと思われます。丁度新選組の登場とは入れ替わりになっていますね。

彼がここで天誅に手を染めていたのは文久2年閏8月から同9月にかけての事で、案外短いですね。その間に明確に関与したとされる天誅は、本間精一郎、目明かし文吉、与力・渡辺金三郎ほか3名などです。

彼が天誅から手を引いたのは時の関白から目に余る天誅は控えよと諭されたからと言われ、以後直接関与する事はなくなった様です。しかし、天誅そのものはその後も横行しており、印象としては半平太が全て裏で糸を引いていたかの様に見えてしまいますね。このあたりが、一度暗殺に手を染めてしまった者にまとわりつく因果というものでしょうか。

(鹿内が土方隊に入ったのは、土方のはからいに依るものらしかった。土方は鹿内の鎖帷子のほころびに気付き、自ら蔵に足を運んで新しい着込みを持って来てやった。普段隊士に親しみを見せた事がない土方にしては異例の事であり、鹿内は激しく感動した。)

モデルとなっている浅野について言えば、池田屋事件では近藤隊に属していました。報奨金が20両と多いからで、土方隊に居れば17両だったはずです。ただし、屋内への斬り込み隊には入っておらず、谷万太郎、そして武田観柳斉と共に表口の固めをしていたものと推測されています。なぜ裏口ではなく表口だったかと言うと、死亡した安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門が裏口を固めていたと考えられるからで、彼らは長州藩邸への脱出を目指す志士たちの殺到を受けて倒されてしまったと推測されているのです。

(隊はさらに三人一組に分けられ、鹿内はそのうちの一組の指揮者となった。午後8時、それぞれの組は壬生の屯所を後にした。各組は道を違えて木屋町に行き、その会所に集合するという手筈になっていた。そして、それまでは一切を隠密にせよと命じられていた。)

当日集合したのは木屋町会所ではなく祇園会所でした。どうやって多数の隊士が屯所から祇園までたどり着いたのかは判っていませんが、目立つ行動は取りたくなかったでしょうから、三々五々という形で、ばらばらになって祇園を目指したであろうとは推測出来ますね。

(鹿内組は、釜座通を北上し、二条通を東に折れた。この日は祇園祭の宵々山に当たっていたが、このあたりまでは喧噪は及んでおらず無人の町の様に静かだった。彼の配下は摂州浪人の平野と神田とだった。彼らは隊内でも臆病で知られており、恐怖を紛らわす為に堰を切った様にしゃべり始めた。寡黙な奥州人である鹿内は、饒舌なこの上方人に対して好意は持っていない。)

隊士達が屯所を出たグループごとに道を変えたという事も考えられる事ではありますが、それにしても鹿内の選んだ道は変わりすぎています。何で釜座通なのでしょうね。

この釜座通は今の京都府庁の正面へと繋がっている道で、かつては京都守護職邸へと通じていた道でもあります。新選組にとっては馴染みのある道だったとも言えるけれども、この道は六角通から始まるのですよ。

屯所があった壬生は四条通の近くですが、その道からは直接釜座通に入る事は出来ないのですね。つまり、まずは西洞院通以西の道を北上する事から始めなくてはなりません。そして六角通に来るとそこを右折して東に進み、今度は釜座通を左折して再び北上を開始し、二条通に来るとまた右折したという経路になるのです。いくら何でも念の入れすぎではないのかしらん?

(今夜の相手は何人でしょうと平野が問い掛けてきた。鹿内は良くは判らないが、一説には100人とも言うと答えた。平野達は恐怖のあまり沈黙した。鹿内は上方人達に対して、小さな優越感を感じた。)

この平野と神田という隊士は実在しておらず、この作品における創作です。作者は大阪の人にも関わらず、大坂の武士には点が辛いのですね。例えば一連の作品の中で、谷三十郎については近藤が心底嫌い抜いた惰弱な武士として描いていますし、大坂者は隊士として使ってはいけないとまで言わしめています。

まあ、そこは商人の町ですから荒事には向かないと言う伝統がありますし、かつて大阪の連隊は日本最弱という評判を取ったと聞きますから、およそ大阪人は戦いには向かないという事を身に染みて知っていたとも言えるかも知れません。でも、かなりの偏見だという気もするのですけどね。

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(二条富小路付近)

(富小路の川越藩邸を越えた時、路上に道を埋め尽くす程の群れを見た。後で判ったところによると、西陣の浄福寺に屯集していた薩摩藩の檄徒10数人であり、市中に飲みに出かけての帰りがけだった。彼らは公武合体派の藩上層部とは違い長州藩的な過激思想の持ち主であり、時に黒谷の会津本陣に押しかけては藩士に喧嘩をうっているという連中であった。)

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(浄福寺)

浄福寺党と呼ばれる薩摩藩の一団が居た事は確かな様です。この小説にある様に過激な若手が中心だったらしく、今でも寺の柱に刀傷が沢山残っているそうですね。ただ、彼らが上洛したのはずっと後の事で、慶応3年3月の頃だったとされます。

彼らは四賢侯会議に出席する島津久光公に率いられてきた700人の兵卒の一部で、既にあった薩摩藩京都藩邸では収容仕切れなかった事から西陣の浄福寺を借りて住まわせたのです。薩摩藩の生きの良い若手の集団ですから、ささぞかし荒っぽい連中だった事でしょうね。もっとも、彼らが黒谷まで出かけていって、会津藩に喧嘩を売っていたかどうかまでは定かではありません。

(鹿内たちは路上で彼らの波に呑まれてしまった。彼らは提灯も持っていない鹿内達を見て不審がり、何藩の者かと尋ねてきた。普段なら新選組であると答えるところだが、この夜に限っては言う事が出来ない。鹿内は南部なまりで怪しい者ではないと答えたが、彼らは会津藩だと躍り上がる様に言った。薩摩人にとっては、南部なまりも会津なまりも同じように聞こえたのである。)

(平野達は口々に違うと言った。しかし、では何藩だと聞かれても答える事が出来ない。彼らは恐怖に駆られて逃げ出した。不覚にも鹿内もまた彼らの後を追った。鹿内の背後から一太刀が浴びせられた。鎖のおかげで斬られはしなかったが、羽織が縦に裂けてしまった。鹿内はかつてない程の恐怖を感じた。)

(鹿内は夢中で駆けた。その後を薩摩人達が足音を轟かせて追ってくる。その数は7人や8人ではない。時々、猿叫と呼ばれるきゃーというかけ声と共に斬りかかってくる。鹿内はその都度避けたが、足がもつれて思う様には走れない。)

(鹿内は小つるを想った。自分が死ねば小つるとその胎内の子はどうなるのだろう、そう思った瞬間に新たな恐怖が沸き起こった。勇気と廉恥ある心映えこそ奥州人の誇りであると信じていた鹿内はもはや居なかった。自分の無様な逃げ方を、恥ずかしいと顧みる機能は彼の中から無くなっていた。)

池田屋事件の時、参集する隊士が事故に巻き込まれたという事実は無く、この下りは完全な創作です。でも、勇敢だった鹿内が豹変するきっかけとしては上手い描き方で、惰弱な大坂者をきっかけに使い、剽悍な薩摩人を恐怖の火だねとして効果的に配し、鹿内自身が気付かぬうちに変質していた内面を露わにするという手法は見事だと思います。

以下、明日に続きます。

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