新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その1~
私事ではありますが、今週末は雷雨を伴った大雨が降るというので、京都行きは自粛しました。結果的にはそれほど降らなかったので行けば良かったのですけどね、天気予報に脅されすぎました。
それはさておき、今日から次の金曜日にかけては新選組血風録の風景として、「胡沙笛を吹く武士」の回をお届けします。BS時代劇では既に放送が終わった回なのですが、ドラマの演出との違いも合わせて楽しんでいただけたらと思います。
(祇園林の東側に真葛ケ原がある。東山の山懐にあり、京の町が一望に見える高台である。慶応2年1月2日、小つるは母の月命日に長楽寺へ詣でる為に、踏み石を点々と据えただけの急斜面の石畳を上った。「濡れて紅葉の長楽寺」と唄われるあの寺である。)
この回は、冒頭からおかしな表記がされています。それは年月日の表示で、どう考えても慶応2年というのは辻褄が合っていません。史実と言う以前に小説の中の時系列からして明かで、主人公が小つると出会って所帯を持ったのが元治元年の池田屋事件の前、子供が生まれたのが慶応元年正月、そして最後を迎えたのが慶応2年の9月頃として描かれています。正しくは文久4年1月2日とすべきなのでしょうね。用意周到な作者が、何でこんな単純なミスを冒したのか理解に苦しむところです。
それはともかくとして、「濡れて紅葉の長楽寺」の歌詞がある唄とは、京の四季という端唄ですね。長い歌詞ですがその付近を記せば、
「真葛が原にそよそよと 秋ぞ色増す華頂山
時雨をいとう唐傘に 濡れて紅葉の長楽寺」
となります。
ここで言う真葛が原とは、今の円山公園音楽堂のあたりを中心として、北は知恩院三門のあたり、南は高台寺との境、西は下河原町との境あたりまでの地域を指したと思われます。その名のごとく葛や茅の生い茂る原野であり、東山から流れ出る菊渓川の氾濫原でした。
現在はほとんどが公園化されており、往時の面影は見あたらないと言って良いでしょう。わずかに双林寺の石碑に記されているほかは、大雲院の中にある真葛荘という別荘にその名を止めている程度でしょうか。そう言えば、狂言の「つくづくし」に、慈円作の真葛が原の和歌が使われていましたね。
一方の長楽寺は、端唄にもあるとおり紅葉の名所として知られている寺です。この小説でも静かな寺と書かれていますが、今でも訪れる人は少なく、何時行っても混み合うという事は無い場所です。東山の中の穴場の一つと言っても良いかも知れません。ただ、来年の大河ドラマは平清盛が主人公ですから、建礼門院縁のこの寺は注目を集める事になるかも、です。
全くの余談ですが、近くには祇園女御の住居跡や西行縁の西行堂があり、さらには忠盛灯籠がある八坂神社がありますから、全てをセットにして売り出すなんていう事もありうるかも知れませんね。
(小つるはお参りを済ますと、石段を下ろうとした。すると右手にある冬枯れの林の中から奇妙な音曲を耳にした。狐狸かと思ったが、まだ昼下がりである事もあり、恐ろしさに堪えて音曲を聴いた。その音曲が笛の音である事は判ったが、都で聞くどの楽器とも違う音色であり、嫋々とした悲しみが籠もっていた。小つるはおそろしくなって寺へと引き返した。)
(寺の僧は、御所か本願寺の伶人だろう、誰も居ないこの林に来て音曲の稽古をするのだという。ほっとした小つるは、思い切って林の中に入ってみた。すると木の下に武士が居た。)
今は参道の北側には家屋が建っており、林という風情ではありません。わずかに山門を出てすぐ右側の場所が上の写真の様になっており、小説の風景と合致しますね。ここは円山公園の東の外れにあたり、昼でも訪れる人が少ない場所です。
ただ、幕末の頃となると今とは逆で、六阿弥と呼ばれた安養寺の塔頭が建ち並んでいた場所であり、その塔頭が貸座敷を営んでいた殷賑の地なのでした。とても誰も居ない静かな林という風情ではなかったと思われます。
(武士は粗末な身なりながらも、刀だけは気の利いたものを持っていた。色白で彫りが深い顔立ちで、背の高い男だった。)
(武士は、どなたです、と優しさのかけらも無い表情で言った。しかし、小つるがおびえたのを見て思い直し、人の良い微笑をしてみせた。ほっとした小つるは、その笛は何かと甘える様に聞いた。)
(武士は「こさぶえ」と言いながら、小つるに笛を見せてくれた。それは樹皮をまるめただけの、何の変哲もない笛だった。)
(武士は、むかし蝦夷が吹いていたものだと言う。武士は奥州南部の出身で、蝦夷の子孫集落がまだ残っていた。武士は幼い頃に、その集落の老人から教わったと言った。)
(この笛を吹くと天が陰々として来て風が吹き、ついには雨雲が宿って翌日には時化になる事が多いと言われる。それほど寂しい音色であるのだが、土地では嫌がる人が多く、武士は市中で吹く事は遠慮して、非番の時にここに来て吹いていると言う。)
胡沙笛とはどんな笛なのだろうと思って調べてみたのですが、国立音楽大学資料館のページにその写真がありました。確かに樹皮をまるめただけの造りの様に見えますね。ただし、その音色までは判りませんでした。さぞかし、素朴で寂しげな音がするのでしょうねえ。
(小つるはもう一曲とねだった。小つるはむせぶ様な笛の音に聞き入った。そして、異郷の人が故郷を偲ぶ様に笛を吹く、彫りの深い横顔の中に寂しさを見た。小つるは涙がにじんだ。)
(武士はおどろいて小つるをのぞき込んだ。いいえ、と小つるが空を見上げると、いつの間にか雲が低く垂れていた。そして風が吹き始めている。まるで胡沙笛が雨を呼んだかの様であった。)
この胡沙笛には大和朝廷と蝦夷が争った頃の伝説があり、蝦夷はこの笛を武器として使い、笛の音で雲を呼んでは自らの隠れ蓑として戦ったと言われます。作者は当然その事を知っており、この場面の描写に使ったのでしょうね。この悲しい物語の冒頭には相応しい演出になっていると思います。
(二人は歩き始めた。しかし、祇園林にまで下りた頃に本降りになり、二人は林の中の茶屋に駆け込んだ。二階に通された時、小つるはここは話に聞いた出逢い茶屋である事に気が付いた。しかし、武士は何も知らぬげに外の様子を眺めている。その様子を見て、小つるは激しい思いを武士に対して持った。武士は鹿内薫という新選組の隊士であった。)
鹿内薫という隊士は実在しておらず、作者に依る創作です。ただし、モデルとなった隊士は二人居て、一人は浅野薫、もう一人は吉村貫一郎ですね。浅野については、新選組!で浅野藤太郎の名で出ていたので覚えている方も多いのでは無いでしょうか。一方の吉村については、壬生義士伝の主役として記憶されている方が多いと思われます。
時系列的には浅野の方の要素が多く、吉村についてはその出身地だけを拝借したというところでしょうか。
あえて言うなら、この二人に共通しているのは臆病者という評価であり、浅野はその臆病さ故に隊を追い出されたと言われ、吉村はその最後にあたって南部藩に命乞いをした人物とされています。壬生義士伝ではかなり違う描かれ方をしていますけどね。
いずれにしても、士道を謳う新選組においては最低の評価をされてしまう二人なのですが、それをあえて主役に据えたのがこの作品の面白さに繋がっていると思われます。
以下、30日に続きをアップします。
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