« 京都・洛東 京都桜事情2011 ~長徳寺 3.19~ | トップページ | 京都・洛中 京都梅事情2011 ~大雄寺 3.19~ »

2011.03.20

江~姫たちの戦国~10 わかれ

Yougenin1103201


(北庄城。帯を整理している市。娘達に好きな帯を指させ、見事に同じ帯を選んでみせる市。)

(賤ヶ岳。膠着状態の両軍。)

(ひと月後、岐阜の信孝を討つべく兵を動かした秀吉。その動きを知って、討って出ようと勇む盛政。まずは敵陣の様子を掴んでからだと押さえる勝家。千載一遇の好機と詰め寄る盛政。その声に立ち上がる諸将。押さえきれずに出陣を命ずる勝家。ただし、攻め込むのは大岩山までとし、落とした後は直ちに引き上げよという条件付きでした。)

(浜松城。勝家の手勢が大岩山、岩崎山を占拠したと聞き、家宝の茶入れを秀吉に贈れと命ずる家康。彼は秀吉の大返しを予測し、その戦勝を予見したのでした。)

(岐阜から13里の道のりを一気に駆け戻した秀吉。)

(遙かに松明の流れを見た盛政。慌てて退却を命ずる盛政。兵を引けと叫ぶ勝家。)

ドラマでは大きく省略がされていますが、大筋は史実のとおりです。

勝家が近江国柳ヶ瀬に布陣したのは1583年(天正11年)3月12日の事であり、これに対して秀吉が木之本に到着したのが3月19日の事でした。勝家軍は3万、対する秀吉軍は5万と言われます。両軍はお互いに陣地を築き合い、膠着状態に入ります。

数で勝る秀吉軍でしたが、勝家の側には秀吉の背後に信孝と滝川一益が居るという利点がありました。実際のところ、展開は五分だった様ですね。

この膠着状態を打開しようと先に動いたのは秀吉でした。彼は木之本から主力を率いて岐阜の信孝の下に向かったのです。

大きく展開しあった陣形において、敵陣の一部を突破する事を中入りと言いますが、これを進言したのは盛政でした。秀吉の主力が戦線を離れた事を知り、撃って出る好機と判断したのですね。しかし、この戦術は効果は大きいものの、下手をすると突破した部隊が敵中に孤立してしまい、反対に包囲されて殲滅されかねないという危険性も孕んでいました。

この戦術の危うさを十分に知っていた勝家はこれに反対しますが、ついには押さえきれずに許可してしまいます。ただし、敵陣に止まる事は許さず、直ちに撤退する様にと条件付けたのでした。

天正11年4月19日、盛政が向かったのは中川清秀が守る大岩山でした。盛政はこれを大いに破って清秀を敗死させ、さらには隣の岩崎山にいた高山右近を攻撃してこれを撃退しています。これを知った勝家は直ちに引き上げる様に命じますが、盛政はこれを拒否してしまいます。

一方、大垣に居て翌日にこの報に接した秀吉は、直ちに軍を返しました。彼はこの事があるのを期待しており、急行軍の為の準備を十分にしていました。あらかじめ沿道の村々に命じて、夜間行軍用に松明と炊き出しを用意してあったのですね。そして、その甲斐あって万を超える軍勢が52kmの道のりを、わずか5時間で駆け通したのです。これを美濃大返しとも呼びますね。

これに対する盛政軍ですが、ドラマの様に慌てふためいたという訳では無かった様です。彼は冷静に退却戦を展開し、一部ではむしろ有利な展開すら作っていた様です。この戦況を覆したのは柴田軍に属していた前田利家の突然の撤退でした。彼が率いていた5千の兵が俄に戦線から消えてしまった事から、柴田軍の崩壊が始まります。さしもの勝家も為す術が無く、北庄城へと撤退せざるを得なかったのでした。

利家はこのドラマには出て来ていませんが、信長の母衣衆を努めていた武将で、この頃には勝家の配下として北陸戦線にありました。秀吉とは若い頃からの親友であったとされ、秀吉に調略されていたのだとも、親友と組頭との相克に耐えられなかったのだとも言われます。

勝家は北庄城への撤退の際に利家の城に立ち寄り、利家を責める事無く長年の苦労を謝したと言われ、利家は茶漬けでもてなしたと言われます。

一方、秀吉は降伏した利家を許すと北庄城攻めの先鋒となる様に命じています。そして、戦後は利家の本領を安堵すると共に盛政の旧領を加増してやり、利家は本拠を尾山(金沢)へと移す事になります。このあたりを見ると、やはり事前に密約があったのかなという気がしてきますね。

(秀吉勢に追われて敗走する勝家軍。)

(北庄城。逃げ帰った勝家を出迎える市達。)

(市を相手に、敗戦は自分の将としての器にあったと認める勝家。そして、北庄まで逃げ帰ったのは、ひと目市に会いたかったからだと告げます。そして、明日にでも秀吉の軍はここに到着し、城を囲む。情けないが、小谷城の繰り返しになってしまったと語ります。)

(江に貰った守り袋を返し、自分は城を枕に腹を切る、市達は城を落ちろと命ずる勝家。戦いはまだ終わっていないと答える市。柴田勝家の負けだと認める勝家。天下布武の印を抜き取り、守り袋を返す市。)

(両親の話を立ち聞きしていた江は、秀吉が攻めてくると姉達に告げます。義父は城を枕に自害すると言ったのかと確かめる茶々と初。まだ戦に負けた訳ではないと言い張る江。)

(小谷と一緒にはしないと言う市。)

(娘達が選んだ帯を切り始める市。)

(北庄城を囲んだ秀吉軍。それを見て、小谷落城の時を思い出す茶々と初。様子を聞いてくると部屋を出て行く江。)

(廊下で一人の武者とぶつかった江。黄色い袖章を見て、秀吉の使いかと権高に誰何する江。膝を付いて、柴田様と話をする為に来たと答える石田三成。後を追おうとする江。懸命に止めるよし。)

(勝家と対面した三成。彼の父は浅井家に仕えていた事があり、旧主筋にあたる市を前に顔を上げられないでいる三成。面を上げよと命ずる市。三成に向かって、降伏はせぬ、城も渡さぬ。ただし、市と娘達は城から出すと伝える勝家。秀吉の言葉として、市の方にくれぐれもよろしゅうにと伝える三成。それを聞いて、控えよと一喝する勝家。恐れ入る三成。)

(三成の報告を聞き、有頂天になる秀吉。彼は市の方を側室しようと決めます。)

(翌日。市達を前に、別れを告げる勝家。後を追おうとして、武士にとっては敵に首を上げられる程の屈辱は無いのだと引き留める市。彼女の脳裏に甦る長政との別れ。)

(天守から聞こえる歓声。勝家が部下を集め、最期の酒宴を開いているのでした。その下の階には火薬が運ばれています。)

(娘達を前に、自分は城に残ると言い出す市。何故と叫ぶ娘達に、長政の命を守ってそなた達を育ててきたが、その勤めは終わったと告げる市。そして、たとえ生き残ったとしても、秀吉の側室にされるだけであり、生き地獄よりも死ぬ道を選びたいのだと本音を漏らします。自分たちも一緒に残ると言う娘達に、そなた達た達には生きるのだと命ずる市。)

(髪を切り、娘達に分ける市。そして、娘達が選んだ帯を切って作った香袋に、それぞれが好きだと言った浮島、空蝉、東大寺の香を入れて手渡しました。)

(迎えの三成が来たという知らせが入ります。市は茶々に長政の守り刀を手渡し、浅井の誇りを忘れるなと命じます。初には髪止めを解いて手渡し、姉と妹の絆となる様に言い聞かせます。江には天下布武の印を渡し、織田家の誇りを守れと命じます。そして、長政が言った希望という言葉を伝えました。)

(三成と対面した市。次々に連れられていく娘達。最後に市を連れて行こうとする三成に、姫達を頼むと言い、自分は行かないと告げる市。主命を果たさなければ何と言って申し開きをすれば良いのかと迫る三成に、下がれと命ずる市。彼女は三成に向かって、そなたの父の主君の妻、秀吉の主君の妹であると宣言し、娘達に指一本でも触れようものなら、信長と市が許さぬと秀吉に伝えよと命じます。恐れ入る三成に、秀吉に宛てた手紙を渡す市。)

(娘達に別れを告げて背を向ける市。兵の手を振り払って、母に追いすがる江。彼女は自分が死んだらまた母に会えるかと聞きます。一番に会えると答える市。ではその日を楽しみにしますと母に抱きつく江。母を許せと江を突き放す市。扉を閉めよと命ずる市。扉の向こうに向かって崩れ落ちる市。泣き狂う須磨。)

(城攻めの采配を振るう秀吉。攻め込む軍勢。)

(天守の階下に油を撒く兵達。ゆっくりと市の下に向かう勝家。暇乞いをする須磨。あの世で会おうと答える市。)

(市と二人になった勝家。今なら間に合うと翻意を促す勝家。逃げる気は無いと答える市。長政と一緒に逝きたかったであろうと気遣う勝家。共に死ぬと決めた相手は勝家だと答える市。)

(投じられた火。燃えさかる炎の中で、短刀を手にする市。その脳裏に甦る長政の言葉。短刀を胸に当てる市の背後で刀を振りかぶる勝家。茶々、初、江に別れを告げる市。)

(大手門を出る江達の輿。その時響く、天守から火が上がっているという声。降ろせと叫ぶ江。)

(炎上する天守を見上げ、狂った様に叫ぶ江達。崩れ落ちる天守。)

(三人で肩を寄せ合い、泣き崩れる江達。)

勝家が死んだのは4月24日の事でした。その死にあたって城内で酒宴を開いたと伝えられており、その賑やかな様子が城外にも聞こえたと言われるのですが、ドラマでもそのとおりに描かれていましたね。そして、市の方にも娘達と共に退去する様に勧めたのですが、市の方がこれを拒否したのもドラマにあったとおりです。

彼は天守の九重に登り、秀吉軍に向かって自分の切腹を見て後学とせよと叫びました。そして、市の方や侍女達を一突きにすると、自らも十文字腹を切って果てたと言われます。さらに天守には爆薬が仕掛けられており、轟音と共に砕け散ったのでした。この時、勝家と最期を共にした家臣は80余名と言われ、ただ一人老女を残したとも言われます。ドラマで須磨が生き残ったのは、このエピソードを踏まえての事なのでしょうね。

この時、茶々は14歳、初は13歳、江は11歳でした。この年頃の娘を残して行く母親の心境は如何ばかりのものがあったのでしょうね。その辛さと引き替えにしても秀吉の世話になる事が耐えられなかったのか、あるいは二度に渡る落城によって生き続ける気力を失ってしまったのか。いずれにしても、娘達にとってはこの上無く辛い出来事だったでしょうね。

冒頭の写真は、1594年(文禄3年)に茶々が建てた市の方の供養塔です。彼女が父である長政の供養の為に建てた養源院にあり、母もまた同じ場所で供養したかったのでしょうね。この前年に彼女は秀頼を産んでおり、秀吉の寵愛を一身に受けていた時でした。ですから、父母の供養の為の寺を建てるという事も容易に出来たのでしょう。

擬宝珠まで付いたこの立派な供養塔を見ていると、当時の淀殿の権勢と、その実家である浅井家に対する思いが判る様な気がしてきます。

|

« 京都・洛東 京都桜事情2011 ~長徳寺 3.19~ | トップページ | 京都・洛中 京都梅事情2011 ~大雄寺 3.19~ »

江~姫たちの戦国~」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/14874/51172436

この記事へのトラックバック一覧です: 江~姫たちの戦国~10 わかれ:

» 江 -姫たちの戦国- 第10回「わかれ」 [あしたまにあーな]
2週間ぶりの再開となった江は、戦地に赴く柴田勝家と羽柴秀吉との戦いである賤ヶ岳の戦いでした。今回のドラマの主役はあくまで江なので、賤ヶ岳の戦いでどのように柴田勝家が敗れるのかは描写が少なかったような気がします。例えば、にらみ合いが続いた時に佐久間盛政が勝家に進軍を申し出て、その条件として最初の砦を崩したらすぐに兵を引くようにという命令があったにも関わらず、砦を破った後も進軍をしてしまったといいます。 軍の統率は、兵力が少ない勝家軍にとって最重要であり、それが崩れてしまったら勝てるものも勝てなくなって... [続きを読む]

受信: 2011.03.20 23:45

« 京都・洛東 京都桜事情2011 ~長徳寺 3.19~ | トップページ | 京都・洛中 京都梅事情2011 ~大雄寺 3.19~ »