新選組血風録の風景 ~菊一文字 その4~
(そんな沖田の気持ちに変化が生じた。日野助次郎が戸沢に斬られたのである。日野は石州浪人で、沖田の配下の中では最年長であった。沖田に良く仕えてくれ、時には玄節のところに行って薬を貰ってきて呉れたりしていた。)
日野助次郎という隊士は実在せず、創作上の人物ですね。多くの場合、沖田は部下思いの隊長だった様に描かれますが、実際にどうだったかはどこにも記述が無く、判らないというのが実情です。たぶん、普段から冗談ばかり言って、近所の子供達と遊ぶのが好きだったという新選組始末記の記述からの創作なのでしょうけど、一方で天然理心流の塾頭としての稽古はとてもきつくて荒っぽかったとも言われますから、果たして仕えやすい上司だったかどうかは霧の中状態ですね。
(「お前が花橘町で戸沢を斬っていれば日野は死なずに済んだ」と刺す様な目で沖田に向かって言う土方。目を伏せて、そのとおりですと答えて爪を噛む沖田。いつの間にか小指を口の中に入れて、知らぬうちにかみ切っていた。)
(菊一文字で戸沢を斬ろうと決意した沖田。そうでもしなければ、日野に対する気持ちが収まりそうにはなかった。)
(沖田は毎日の様に観察部屋に行った。戸沢は私が斬ると観察方に念を押したが、山崎は笑って答えない。監察への指示は土方が出す事になっているからである。)
(沖田は直接密偵にまで情報を聞いた。すると利吉という密偵が、明日戸沢が大阪に下るという耳寄りな情報をもたらしてくれた。同行する人数までは判らない。)
(その日の夜半、利吉を連れた沖田はそっと屯所を出た。やがて荒神口に至り、清荒神の鳥居脇にある茶店を叩き起こして湯漬けを食べた。そして体を休める為に半刻休んで外に出た。)
清荒神は、御所の東、丸太町通の一筋北にあり、護浄院とも呼ばれる天台宗の寺です。以前にも紹介した事があるのですが、今は門前に鳥居は無く、境内の清荒神を祀るお堂の前に石鳥居があります。明治以前には荒神社と呼ばれていたらしく、どちらかと言えば神社の性格が強かったのかも知れません。たぶん、門前にも鳥居があった事でしょう。
(清荒神から東に行くと荒神橋がある。沖田は橋を渡った。そこからは白川村に向かって一筋の道が延びている。大阪に向かう戸沢は、必ずこの道を通るだろう。道の南側は一面の大根畑、北側は水田である。沖田は路傍に生えている松の根元の石に腰を下ろした。そして、利吉から笠と蓑を受け取って身につけた。腰に差しているのは菊一文字である。)
荒神橋は江戸期からありました。ここは京都と近江を繋ぐ山中越えの出入り口にあたり、京の七口の一つ数えられ、荒神口と呼ばれています。元は簡単な仮橋があり、本格的な橋が架けられたのは慶応3年と言われますから、まさにこの物語があった年という事になりますね。ただ、明治以後の架橋という説もありますから、このあたりは微妙です。
名前の由来は清荒神にあり、荒神口という地名も同様です。清荒神がこの地に移されたのは慶長5年の事で、それ以前は吉田口とも今道口とも呼ばれていました。地名を変えてしまうとは、清荒神に対する信仰は相当なものがあったという事なのでしょうね。
(陸援隊では戸沢が朝餉を摂っていた。隊士の一人が伏見まで送りましょうと申し出たが、戸沢は木屋町から伏見、伏見から大阪へと、すべて船の上ばかりという気楽な旅だ、見送る程の事もないと言って断った。戸沢の用事とは、大阪の土佐藩邸に入荷したゲベール銃30丁を受け取りに行くというものであった。)
(そこへ熟蝦夷先生が起きてきて、木屋町まで送ると言う。しかし、戸沢は無用と言って断ってしまう。)
(今ひとつ奇譚がある。戸沢は朝餉を食べながら、同行する三人を相手に日野斬りの自慢話をしていた。「真剣の剣術は技ではなく気のものだ、上段に構えて押しまくっていく、すると相手はいつの間にか死体になっている。」熱心に聞いている3人の背後から、熟蝦夷先生が「よした方が良い。」と冷や水を浴びせかけた。「剣には相手がある」と言って、陰気くさい咳をする。)
(路傍の沖田は、蓑に埋もれる様に眠っていた。今から命のやりとりをするとは思えない度胸の良さに、利吉は舌を巻く思いがした。やがて空が白み、道の向こうに五つの提灯が動いているのが見えた。旦那と言って利吉が沖田を起こす。物憂そうに目覚めた沖田は、蓑と笠を利吉に渡して帰れと命じた。そのとおりに西に向かって逃げ去る利吉。)
この場面の舞台は、山中越えが鴨川に達する少し手前という事になるのでしょうか。この道は今でも往時の道筋を残しており、如何にも古い道らしく、斜めに曲がりくねって続いています。今は京都大学のキャンパスで途絶えているのですが、地図を見れば山中越えの道が白川村から一直線に鴨川まで続いていたであろう事が推測されます。ただし、幕末には尾張徳川家の屋敷があって今と同じ状況になっていましたから、陸援隊本部から一筋に繋がっていたという事は無かったはずです。
(やがて提灯が目の前に来た。そこに戸沢鷲郎氏が居ますかと声を掛ける沖田。何者かと聞かれ、新選組の沖田総司ですと答えると、戸沢が踏み出してきた。そして大きく飛び込んで剣を抜こうとした。その剣がわずかに鞘を離れた時、戸沢の頭が割れて沖田の足下に前のめりに転がった。戸沢鷲郎、即死。)
(沖田は熟蝦夷先生の方に向かって、これで自分の用は済んだが、引き留めますかと聞いた。熟蝦夷先生は維新後に兵庫県の属になっていたから、この時手を出さなかったのは間違いない。)
(沖田が菊一文字を使ったのはこの時、一度だけだった。無論、刃こぼれ一つしていない。)
この日が何時なのか何も書かれてはいませんが、大根畑という描写がある事から晩秋から初冬にかけての事なのでしょう。
沖田が結核に罹っている事が明らかになるのは、慶応3年2月頃の事です。池田屋事件の時に既に倒れているのですが、周囲にはまだ黙っていたか、本人も確信を持っていなかったのかも知れません。その年の6月ごろには体の自由が利かなくなったと伝わるのですが、その一方で11月の初め頃まで剣術の稽古をしていたとも言い、病状は一進一退を続けていた様にも思われます。そして、11月12日付けの故郷に宛てた沖田の手紙には、病気のために近藤周斎の見舞いに帰る事が出来ないと記されており、この頃には本格的に寝付いていたのではないかと推測されています。12月に入ると永倉が一番組を二番組と共に指揮していた事が判り、完全に療養生活に入っていたものと思われます。
以上からすると、この場面は慶応3年10月頃、現在の暦で言えば11月頃ではないかと推測されます。
(沖田は千駄ヶ谷の植木屋で療養し、そこで死んだ。菊一文字は植木屋の平五郎が預かり、後に姉のお光に渡した。お光はその後立川に住み、菊一文字は神社に奉納したという。もし今でもあるとしたら、東京都下の神社なのかも知れない。)
菊一文字則宗が沖田の差料であったという説については、どうやらこの作品が原点になっている様です。子母澤寛氏がそれらしき事を書いているとネットにはあるのですが、それがどこなのか調べた限りでは判りません。どなたかご存じはないでしょうか。
何にしても、この小説のリアルさがもたらした罪と言うべきで、白河藩の下級藩士の遺児である沖田が、大名道具級の銘刀を持っていたなど有り得ない事でしょう。沖田の佩刀として文献上で確認出来るのは加州清光で、池田屋事件の時に使っていたと言われます。ただし、帽子が折れていたと記されているので、この後は別の刀を使っていた可能性はありますね。
それはともかくとして、作品としては見事な完成度で、「沖田総司の恋」と共に今の沖田像を確立したと言っても過言では無いでしょう。圧倒的な強さを持ちながら謙虚かつ控えめな性格で、目下にはあくまで優しく、さらにはどこか子供の様な純真さを持っている。そして、結核という病に冒されており、余命いくばくも無いという悲劇性も帯びている。まさに絵に描いた様な悲劇のヒーローですね。
何度か触れた様に、創作の中に史実と実在した地名や風景を織り交ぜ、あたかも現実の世界であったかの様に見せてしまう司馬遼太郎氏の手腕には、もはや脱帽するしかありません。
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