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2011.03.06

江~姫たちの戦国~9 義父の涙

(北庄城。娘達に刺繍を教える勝家。不器用な江は阿弥陀様を縫っていますが、あまりに不出来で、罰が当たるとまで言われてしまいます。むくれながらも、続きを縫う江。)

(そこに急な知らせが入ります。秀吉が信長の葬儀を行ったと言うのです。何と勝手なと憤る市達。それが秀吉の手なのだと見破る勝家。このままにはしておけぬと立ち上がる勝家ですが、茶々達は戦は嫌だと言い張ります。彼女たちを見て、味方に文を書くと言って立ち去る勝家。)

秀吉が信長の葬儀を行ったのは1852年(天正10年)10月11日から15日にかけての事で、場所は大徳寺においてでした

一方、市の方も信長の百日供養を妙心寺で行っており、このあたりはお互いに手を打ち合っていたと言えますね。ただ、演出という点において秀吉の方が一枚も二枚も上手だったという事でしょう。

(浜松城。勝家からの文を受けた家康。共に手を取って秀吉を威圧したいという勝家に、いつになく手ぬるいといぶかり、暫く様子を見ると言います。)

(北庄城。再び凶報が入ります。秀吉が長浜城を奪ったのでした。すぐに取り戻してくると席を立つ勝家の前に、戦は嫌だと言って立ちはだかる茶々、初、江。思わずあとずさりする勝家。)

長浜城を守っていたのは、勝家の養子である勝豊でした。勝豊は勝家の甥にあたり、実子の無い勝家の跡継ぎと目されていた人物でしたが、勝家が盛政を重用し、勝豊を軽く扱う様になった事から、次第に勝家との仲が冷めて行ったと言われます。

清洲会議の時に勝家は長浜城を要求しましたが、秀吉は与える相手として特に勝豊を指名しました。勝豊が浮いているという柴田家の内情を見透かしての事とも言われ、すぐに勝豊に接近を始めます。そして調略がなった天正10年12月に五万の兵を出して長浜を囲み、これに対して勝豊は無抵抗で城を明け渡しました。

ドラマでは、勝家が娘達の反対に遭って出兵を思いとどまった様に描かれていましたが、ホームドラマではあるまいし、実際にはそんな事はあり得ず、雪の為に出陣が出来なかったのでした。

(その夜、市から娘達は小谷を思い出すのだと聞かされる勝家。娘達から見れば、相手は秀吉、迎え撃つのは自分たちの父でした。立ち聞きをとがめられ、部屋に入る茶々達。娘達に向かって戦はしないと約束する勝家。)

(山崎城。宗易を相手に、これで勝家を誘い出せるはずと言う秀吉。出て来るかと懐疑的な宗易。越前ガニを誘い出すまでは、次々に手を打っていくと答える秀吉。猿蟹合戦ですなと笑う宗易。おとぎ話と違って、勝つのは賢い猿だと嘯く秀吉。越前には市が居る、勝家が負けたら取り戻すつもりなのかと問う宗易。我が物にするなどとは言っていないと答える秀吉。取り戻すのかと聞いただけだと宗易に言われ、慌てる秀吉。)

このドラマでは、秀吉が一方的に戦を仕掛けているかの様に描かれていますが、勝家もまた対秀吉の包囲網を築いており、戦を構えるという意味においてはイーブンでした。秀吉の側ばかりが悪辣の様に見えますが、これはむしろ勝家の側が後手に回っているというべきで、勝家が雪に閉じこめられている事が決定的な不利でした。

(北庄城。雪に閉ざされた中、じっと耐えている様子の勝家。それを見て、戦になってしまうのかと恐れる茶々。あのときと同じ、自分たちの父を秀吉が奪いに来るのだと怒り、泣き崩れます。戦は嫌だという初。義父は戦をしないと約束してくれた、義父を信じると言う江。)

この構図を強調して描きたいがために、勝家をマイホームパパにしたかったのでしょうか。市の方が秀吉に下る事を拒否し、茶々が秀吉の側室になるという経過を悲劇的に描く為の布石なのかも知れませんね。

(天守から雪の降る天を見つめている勝家。気遣う市。そこに盛政達家臣がやってきます。我らに出陣を命じて欲しいと迫る家臣達。出過ぎた事を言うなとたしなめる勝家。戦支度だけでもと食い下がる盛政達。それも自分が決めると一喝し、盛政達を下がらせる勝家。娘達の事を案じているのかと気遣う市。戦をせずに済む道はないのかと考えているのだと答える勝家。)

このシーンは、賤ヶ岳の戦いにおいて盛政が独断専行した事に対する伏線でしょうか。実際には勝家は秀吉と戦う事を前提にしており、家臣から突き上げられることなど無かったと思われます。

(数日後、秀吉が力ずくで三法師を信孝から奪ったという知らせが入ります。今度ばかりは秀吉を許しておけぬと叫ぶ勝家。やはり戦になるのかと聞く茶々。その顔を見て、戦はせぬと急に弱気になり、娘達を宥める勝家。驚く盛政。)

(さらに数日後、信孝から挙兵の知らせが入ります。共に立って欲しいという願いに、考え置くと答えよと伝える勝家。)

(天正11年正月。秀吉に対して伊勢で挙兵した反秀吉の勢力。しかし、たちまちの内に秀吉によって追い込まれてしまいます。)

伊勢の勢力とは滝川一益の事でしょう。織田家の宿老の一人に数えられながら、本能寺の変の時には関東にあり、信長の死と共に北条氏に関東を追われたため、命からがら本領である伊勢に逃げ帰っていました。敗軍の将である一益はその地位を著しく落としてしまいましたが、なお一定の勢力は保っていました。

清洲会議以後は勝家方に付き、南方から秀吉の勢力を脅かしていましたが、秀吉は調略によって一益の勢力を暫減させると共に、天正11年1月には織田信雄を名目上の大将として数万の兵を催して伊勢に攻め掛かりました。一益は長島城に籠もりこれに対抗しましたが、次第に勢力を失い、長島城は孤軍となってしまいます。勝家はこれを座視する事が出来ず、雪を冒しての出陣を決意したのですね。

(共に立てば秀吉を挟み撃ちに出来たものをと残念がる勝家。戦は避けられぬのですねと問う市。黙って席を立つ勝家。)

(その夜、臥所を抜け出して、雪の中に佇んでじっと月を見ている勝家。その姿を見つめる市。)

(娘達に勝家を戦に行かせたいと言い出す市。判らぬと聞かない茶々達。誇りを貫き、武士として死んだ長政は哀れなだけ不幸なだけだった訳ではない、それが喜びだったのかも知れないと説く市。信長も光秀も同じ思いだった、武士とはかくも不思議な生き物なのだ、これ以上止めるのは惨い事なのかもしれないと言い聞かせる市。)

(勝家を前に、御出陣をと言い出す茶々。天下一の働きをと念じていると願う茶々に、嬉しそうにうなずき、戦うからには勝つと約束する勝家。信じていると答える茶々。ただ一人反対する江。戦はせぬと約束した、義父は嘘つきだと言って席を立つ江。)

(三月、雪割草が顔を出す季節。少し無理をするが、我らの着陣を待って信孝が兵を挙げる事になっていると市に説明する勝家。賤ヶ岳は小谷の近くだと言う市。これも何かの縁かもしれないと答える勝家。それにしても、あれから江は口をきいてくれぬと嘆く勝家。娘達の事は気にするなと市。娘達の事だけではない、平穏で心安らかなる暮らしを知った自分が戦に行きたくなかったのかも知れないと答える勝家。そんな勝家に、天下布武の印を手渡す市。思わず、お預かり奉りますと家臣に戻ってしまう勝家。おかしそうに、自分は妻だと言って聞かせる市。)

(私はあなたを好いている、娘達への思いやり、妻に対しての労りに感謝している、だから必ず生きて帰って欲しいと願う市。手を取って、妻の顔を見つめる勝家。)

(一人で天守から外を眺めている江。そこにやって来た茶々。このまま義父と口をきかないのかときく茶々。自分の決めた道を行く、戦はいやだから義父とも口をきかないと答える江。それなら義父も自分の決めた道を進もうとしている、江と同じではないのかと説く茶々。江にもやっと父と呼べる人が出来た、その人を失う事が怖いと本音を漏らす江。その気持ちは良く判った、しかし一つだけ間違っている、義父は戦で命を落とす事はないと言って聞かせる茶々。)

(出陣の朝。義父に向かって御武運をと挨拶する茶々と初。茶々は剣明神のお守り、初は平泉寺の護符を差し出します。有り難く受け取る勝家。江は来ぬかと聞く勝家。その時、駆け込んでくる江。彼女はお守り袋だと言って、刺繍した袋を差し出します。そこに描かれているのは勝家の姿でした。喜ぶ勝家。袋の裏に描かれた五つの花びらを見て、春よ来いかと言って涙ぐむ勝家。その袋に、天下布武の印と茶々と初から貰ったお守りを入れる勝家。)

(出陣する勝家を見送る市達。その後を追い始める江。義父上、ご無事のお帰りをと叫ぶ江。その声を背中で聞いて、必ず戻って来るとつぶやく勝家。)

上の方でも書きましたが、戦国時代の話がまるでホームドラマの様になってしまいました。勝家ともあろう者が、義理の娘達に泣き付かれたというだけで出陣を見合わせるなど有り得ない話で、雪に閉じこめられている為に、出るに出られなかったという方が正確でしょう。でも、このドラマはあくまで江が主役ですから、娘目線でのみ描かれるのですね。それにしても、秀吉に対抗するために勝家の下に身を寄せているにも関わらず、ひたすら戦を嫌がるという設定も矛盾しているとは思うのですけどね。

もう一つ思ったのは、やはり子供時代は子役に演じさせた方がすっきりとするという事です。小谷城陥落の場面を見ていると、アラフォーの宮沢りえが満14歳の茶々、二十歳過ぎの上野樹里が満10歳の江を演ずるのはやはり無理が有りすぎると思わざるを得ませんでした。散々言われている事だけどねえ、脳内変換をするにも限界があるというものです。これが子役だったらもっと素直に楽しめるのにね。

まあ、こんなに優しい勝家というのも史上初でしょうから、その意味では快挙と言えるかも知れません。確かに、賤ヶ岳で裏切った前田利家を労ったり、市の方が秀吉に下る事を良しとせず、勝家と最期を共にした事などを考えると、勝家には一種の優しさがあったのかなという気もしないではないですからね。そこに着目してクローズアップしたのはこの脚本が初めてでしょう。無骨なイメージしか無い勝家に、まるで違ったスポットライトを当てた訳で、それはそれで面白い見方だと思います。

次回は賤ヶ岳の戦いから北庄落城までが一気に描かれる様です。でも、またあまり戦いのシーンは描かれないのかも知れませんね。

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コメント

こんにちは!
先日はいろいろとありがとうございました。

出町柳から京大を抜け、吉田神社から大元宮なんとか忠神社、アフロ仏さんの金戒光明寺、狛うさぎの岡崎神社、哲学の道歩いて法然院に。歩いて銀閣寺下まで行きまた歩いて京大グラウンドを一瞬覗きまた出町柳まで戻りました。


吉田神社では新郎が外国の方が結婚式されてました。なんとか忠神社でも。

土曜暑かったですよ〜。
散歩日和でした!

翌日は知恩院で無事に50回忌を終え、親戚たちと清水寺、順正でお昼、南禅寺、平安神宮に行きました。平安神宮ではまた結婚式が。

平安神宮行った時、20分時間があって須賀神社探したんですがわかんなかったんです。
路地入りますか?

そして京都駅に着いて時間あったので、京都タワーにもいきました!

たわわちゃんと写真撮りました!
おかげさまで、充実した旅となりました!
ありがとうございました!

歩くの好きなので意外に大丈夫でした!

アフロ仏さんはでかくてビックリ!

みんな江の供養塔に夢中で、アフロさんとこにいたのは私だけでした。
アフロ仏さん独り占めできてよかったです。

あと次訪れたいのは
上賀茂神社と須賀神社と貴船神社です!

投稿: きょん。 | 2011.03.07 19:06

きょん。さん、

早春の京都を堪能された様で何よりです。
それにしても凄い健脚ぶりですね。
私だと、次の日には足がつってしまうかも、です。

須賀神社は丸太町通の一本北、春日北通に面しています。
目印は錦林小学校ですね。この学校の西隣にありますよ。
ただ、普段行っても地味な神社ですので、
過度な期待は禁物です。
節分の時は面白いですけどね。

次はみんなばらばらの場所ですね。
一度と言わず、何度でも京都に来てじっくりと回って下さい。


投稿: なおくん | 2011.03.07 20:21

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