« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

2011.03.31

京都・洛東 京都桜事情2011 ~知恩寺 3.26~

Fujisakura1104011

平成23年3月26日の知恩寺です。この日は鐘楼脇にあるふじ桜が満開になっていました。

Fujisakura1104012

長徳寺のおかめ桜と同時期に咲き始める早咲きの桜と知られるそうですが、実のところ私は最近までその存在を知りませんでした。知恩寺の前を通る事は多いけれど、中に入る事はあまり無いものなあ。

Fujisakura1104013

花数は多いとはいえないけれど、花そのものは可憐で美しいですね。花びらは上品な薄紅色だけど、それよりもずっと濃い桜色の雄しべが印象的な面白い花です。

Fujisakura1104015

ネットで調べてみると、富士山の周辺に富士桜という品種が沢山咲いているそうですね。でも、それは花の小さな豆桜らしく、どうやらこの木とは別種の様です。なぜここにあるのかなど謂われは不明ですが、早春の花を探しに来るべ場所がまた一つ増えたのは確かです。

Fujisakura1104017

ふじ桜と参道を隔てて反対側にも綺麗な花が咲いていました。たぶん立寒椿かなと思いますが、そろそろ花期が終わる頃なのに頑張ってますね。

Fujisakura1104016

その根元に仏足石があります。朝から降り続けた雪が溶けて水が溜まっていたのですが、そこに花びらが落ちて浮かんでいました。

名残雪と寒椿が散した花びら、いかにも早春の風情ではありますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.30

京都・洛東 京都桜事情2011 ~長徳寺 3.26~

Tyoutokuji1103301

平成23年3月26日の長徳寺です。この日は門前にあるおかめ桜が満開になっていました。

Tyoutokuji1103302

前回訪れたのは19日の事で3分咲きでしたから、一週間で満開になった事になりますね。正確にはもう少し前に満開になっていたようですから、実際の進行はもう少し早かったのかも知れません。それにしても素晴らしいボリューム感ではあります。

Tyoutokuji1103303

もう一つ、鴨川沿いの柳もまた綺麗な新緑になっていました。そこで桜と一緒にあしらってみたのですが、コラボと言うにはちょっと小さすぎますか。

まあ、柳のある景色として受け取っていただければ良いのかなと勝手に思う事にします、はい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.29

京都・洛中 京都桜事情2011 ~京都御苑 3.26・27~

Itozakura1103281

平成23年3月26日及び27日の京都御苑です。

Itozakura1103282

ここは京都市内で最初に見頃になる桜の名所の一つで、たぶん魁桜よりも早いんじゃないのかな。

Itozakura1103283

早咲き系は3本あり、そのうちの一本は池の畔にあります。

Itozakura1103285

この木は池の面に張り出した枝もまた魅力ですね。ただ、今年は花付きが今ひとつ良くない感じがします。満開になったらまた感じが違うのかも知れないのですけどね。

Itozakura1103286

もう一つの木は南の通路からの入り口にあり、苑路を散策する人が最初に目にする桜でもありますね。通路からだとこの花の下を通って近衛邸跡に入って行く事になり、ちょっとした花のトンネル気分ですよ。

Mokuren1103282

ハクモクレンはどうなったかな。たぶん昨日、今日あたりが見頃だったと思うのですが、満開の姿を見たかったのに、タイミングがわずかに合わなかったのが心残りです。

Momo1103281

桃林もまた見頃を迎えつつありました。桜とも梅とも違う華やかな風情があり、これはこれで春の一風景ですね。この日は白い景色が広がっていましたが、そろそろ赤い花も咲きだした頃でしょうね。まさに桃源郷の様になっているのではないかな。今週末には是非寄ってこようと思っているところです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011.03.28

京都・洛中 京都桜事情2011 ~平野神社 3.26~

Hiranojinjya1103311

平成23年3月26日の平野神社です。この日は魁桜がようやく咲き始めたところでした。

Hiranojinjya1103312

他の桜に先駆けて咲く事から名付けられた魁桜ですが、今年はかなり遅めの開花になっています。去年一昨年と3月20日頃には満開になっていましたから、2週間近く遅れている感じでしょうか。

Hiranojinjya1103313

この日咲いていたのは参道近くのこの枝くらいで、全体としてはせいぜい一分咲き程度でした。今日辺りはもう少し先進んでいる事でしょうね。たぶん、今週半ば頃には結構見られる様になっているんじゃないかな。

Hiranojinjya1103315

それにしても26日はおかしな日で、晴天と吹雪が交互に訪れるという訳が判らない天気でした。自転車で移動していたのですが、視界は遮られるし、服は濡れるし、風が強くて前に進めないしで、散々な目に遭いました。

縮小したら判らなくなってしまったけれど、これは舞殿の軒下で雪やどりをしている時に撮った写真で、元のサイズだと雪が写っているのです。桜に積もった雪は格好の被写体になるのですが、そんな事は一切起こらずにひたすら寒いだけの日でした。もう雪は要らないので、ちゃんとした春になって欲しいですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.27

江~姫たちの戦国~11 猿の人質

(北庄城・秀吉の本陣。城から救い出された三姉妹。煤に汚れた姿が哀れです。兵達に案内された先で彼女たちが見たのは、市の方を死なせた事を嘆く秀吉の姿でした。なぜ死なせたと三成を責める秀吉に向かって、母が死んだのは自らの意思だったと飛び出す江。)

(三成の差し出した市の方の手紙を受け取る秀吉。それを見て、声を上げて読めと迫る江。そこには、娘達に邪心を抱かぬ様にと約束せよと記されていました。邪心など抱くはずがないとつぶやく秀吉。自分たち姉妹は断じてそなたを許さぬと宣言する茶々達。気の強い姫達だとあきれる秀吉。市の方様の娘御ならではと賞賛する三成。かわいそうにと嘆く秀吉に、私たちと共に泣くなと石を投げる江。なにおと立ち上がる秀吉ですが、江に信長の面影を見て、ひっくり返ってしまいます。)

(一室に寝ている三姉妹。そこに現れた市の霊。彼女の思いがこの世に残り、成仏出来ないでいるのでした。その気配を感じて目覚める江。それに釣られて起き上がる茶々と初。母の夢を見たという江に、この世に残ったのは三姉妹だけ、そなた達はこの私が守ると宣言する茶々。)

(安土城に移送された三姉妹。そこで見たのは、無惨にも焼け崩れた城の姿でした。彼女たちは城に向かって手を合わせます。)

(侍女達に案内されて城の廊下を歩く三姉妹。その先に居たのはおねでした。義父と母を秀吉が死なせてしまった事を詫びるおね。謝られても母は帰ってこないと反発する茶々。一人おねの前に座る江。)

(そこに声を掛けて入って来た一人の女性。おねは江達に京極龍子だと紹介します。京極と聞き、父長政の姉、マリアのと口走る茶々。それを受けて、マリアの娘であなた達の従姉妹にあたると自己紹介をする龍子。彼女が来た理由は、縁者が居れば江達の心も安まろうと、秀吉が手配したからでした。)

(なぜここに来たのかと問う茶々。秀吉に言われたからだと答える龍子。秀吉は我らの仇である、それなのになぜと問い返す茶々。実は自分の夫も山崎の戦いの時に光秀に味方し、秀吉の手によって命を落としている。そして今は秀吉の側室になっているのだと答える龍子。驚く江と初。)

(亡き夫の仇の側室になったなど信じられないと吐き捨てる茶々。自分も最初は嫌だったが、世話をしている内に秀吉の面白さが判ってきた。そして、おねにも助けられたのだと説明する龍子。自分にとっても龍子は掛け替えのない相手と言うおねに、とても信じられないと言う茶々。それで良い、腹立ちの事があれば何でも言って欲しいと伝えるおね。答えを失う茶々。)

北庄城を出た江達が、その後どこで暮らしていたかについては、織田有楽の下に居たとする説、大阪城に居たとする説などと共に、京都に居た京極龍子の下で養育されたという説があります。また、安土城に送られたとする説もあって、ドラマでは龍子説と安土説を折衷させた様ですね。

京極龍子は京極高吉と浅井マリアの娘で、武田元明に嫁いでいました。京極家は近江、竹田家は若狭のそれぞれ守護だった家柄で、実権は失っていたものの、名門の血筋を引く女性だったのですね。元明は若狭で三千石を領する武将になっていたのですが、山崎の合戦の折には若狭守護の座を回復すべく光秀に味方したため、戦後に謀殺されたと言われます。

龍子は仇であるはずの秀吉の側室となったのですが、今の感覚では理解し難いことながらも、戦国期にあってはこうしたケースはそれほど珍しい事ではなかった様です。龍子は秀吉の大のお気に入りで、後には松の丸殿と呼ばれて権勢を振るったと言われます。彼女の弟(兄とも言われます)が京極高次で、この後三姉妹と大きく関わりを持つ人物となります。

(さらに廊下を案内されて行く江達。その先は茶室であり、千宗易が待っていました。姉妹達に茶を点ててやる宗易。おねをどう思ったかと聞く宗易。よく判らないと答える茶々。猿の妻になるなど気が知れぬと答える初。秀吉をあれほどの男にしたのはおねの力だと答える宗易。)

(茶を飲んでいる間は母を亡くした悲しみを忘れていたと言う茶々。自分もまた幼い時に母を亡くしたと続ける宗易。そして、早くに死んでくれて良かった、母の死によって学べる事もあるのだと語ります。母には生きていて欲しかったと反発する初。それはそうだ、でももう居ないのだから、それを生かす道を考える方が母の心に叶う事なのではないかと諭す宗易。)

(自室に戻った三姉妹。宗易の心遣いを有り難いと言う茶々。おねにも感謝するという江。乳母達を下がらせる茶々。今日は母を思って泣こうという茶々。その前に江に言いたい事があるという初。)

(母と別れた時、江が死んだ後も母に会えるかなどと聞かずに止めていたら、思い止まってくれたのではないかと責める初。それは違う、あの言葉で母は安心して旅立てたのだと咎める茶々。妹たちを抱きしめる茶々。母の言葉を思い出し、泣き崩れる姉妹達。姉妹が揃っている事に感謝し、強く生きていこうと励ます茶々。)

(時間と共に元気を取り戻した江達。着物を持ってきたおね。素直に受け取り礼を言う姉妹達。)

(信孝の切腹の報に驚く江達。信雄が切腹を迫ったとの事ですが、裏で秀吉が糸を引いているのではないかという噂があり、織田家を根絶やしにしようとしているのではないかと疑う江達。次は信雄、そうなれば自分たちもと戦慄する姉妹達。)

(浜松城。薬草を調合している家康。その家康に秀吉に乗せられてしまった様だと愚痴を言う信雄。今の内に秀吉を叩いておかないと大変な事になると檄高する信雄に、お薦めの薬があると差し出す家康。気の落ち着く薬だと聞き服用する信雄ですが、その成分を聞いて吹き出してしまいます。自分をからかっているのかと怒る信雄。あせりは禁物なのだと諭す家康。秀吉との戦については後日相談すると言い捨てて出て行く信雄。)

家康は一倍健康に気を遣っており、医者には頼らずに自ら薬草を調合して服用していたと言われます。なまじっかの医者よりはるかに知識を持っていたとも言いますね。でも、そんなシーンをドラマで見たのはこれが初めての様な。こんなところがこのドラマの面白いところだと感じています。

(あの気の短さがと嘆く家康。信雄と組めば織田家存続のためという秀吉と戦う為の名分が手に入ると勧める忠勝。秀吉は次に何を仕掛けてくるのかと聞く忠次。狙いは一つと答える家康。)

(安土城。乳母から、秀吉が信長の一周忌を盛大に執り行った事、大阪に安土城よりも大きな城を築くと宣言した事などから、天下取りを狙っているらしいと聞く茶々。そこに秀吉が安土城に来ているという知らせが入ります。黙って出て行く江。)

(別室で三法師を抱く秀吉。そこに駆け込んで来て、そこにおったか猿と凄む江。しかし、同じ部屋におねと龍子が居る事に気付き、居住まいを正します。江に懐く三法師。そこに入ってきた初。元気になられたと喜ぶ秀吉。元気な訳がなかろうと怒鳴る初。驚いて走り去る三法師。さらにやって来た茶々。)

(茶々に見とれる秀吉。その様子に気付くおね。秀吉の前に座り、信孝を切腹させた事、勝手に信長の一周忌を行った事を責め、さらには天下取りを狙っているのではないかとまくし立てる茶々。そんな彼女を口を開けて眺め、そんな事はないと上の空で答える秀吉。その様子を訝しげに見ている江。約束してもらえますねと念を押す茶々。誓って、姫様達には手を出さぬと約束していると答える秀吉。吹き出す龍子。織田家を根絶やしにせぬ様にと言っているのだと畳みかける茶々。それはもうと答える秀吉。笑い出す龍子。茶々の手を取って出て行く江。)

このシーンも、宮沢りえの実年齢が仇となって分かり難いですね。本当なら茶々は14歳であり、そんな小娘が秀吉相手に喰って掛かっているのですから、あの子供っぽい詰問の仕方や人を喰った様な秀吉の対応ぶりも納得が行くというものです。どこまで行っても、年齢の壁は付いて回るなあ。

無論、今回の一連のシーンは史実ではありませんが。

(後に残った秀吉。その開いた口を閉じさせるおね。笑い続ける龍子。茶々が市の方に似ていると鎌を掛けるおね。そんな事はないととぼける秀吉。)

(廊下の先で、姉上を秀吉から守ってみせると言い募り、姉の前に両手を広げて立ちふさがる江。)

次週は茶々に手を出し始めた秀吉に、三姉妹が対抗する様ですね。でも、それも子供だから成立する話だと思うのだけどなあ。ぶつぶつ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京都桜事情2011 ~京都御苑 3.27~

少しだけですが、今日の午前現在の京都御苑の情報をアップします。

Mokuren1103271

まずは大モクレンですが、やはり半日ではそれほど大きくは変わっていませんでした。昨日から今日にかけてとても寒かったものなあ。

Mokuren1103272

下から見上げるとこんな感じで、上の方で一部だけ開花している花がありました。たぶん、今日の夕方にはもう少し開花が進み、明日あたりには結構な見頃になるのではないでしょうか。この状態でもそれなりに綺麗でしたけどね。

Demizu1103271

次に出水の枝垂れ桜ですが、2分から3分咲きになっています。上の方が結構咲き進んでおり、部分的には綺麗に見えますよ。見頃は今週半ばから週末にかけてでしょうか。

Itozakura1103271

そして、近衛邸跡の糸桜ですが、昨日よりも着実に開花が進んでいました。あんなに寒い日だったのに、一度咲き出すと止まらないのでしょうか。写真の木が7分咲き、池のほとりの木が3分咲き、通路際の木で5分咲きくらいかな。

7分咲きの木の花付きが悪いのは確かで、枝先の方にはあまり花芽が無いようです。ただ、上の方は豪華に咲いているので、細かく見なければ十分に綺麗ですよ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011.03.26

京都桜事情2011 3.26

Itozakura1103261

平成23年3月26日現在の京都の桜開花情報をお知らせします。

今日は青空が広がっていると思ったら一転俄にかき曇り、あっという間に吹雪になって視界が遮られるという訳のわからない天気でした。気温も低くて風も強いという1月末頃の気候の様でしたね。

そんな中で、遅れていた桜の開花がようやく始まっています。

1.長徳寺
おかめ桜が満開、見頃です。今年も素晴らしい咲きっぷりで、ボリューム感満点ですよ。

2.妙満寺
やっと開花が始まったばかりで、ちらほら咲きですね。

3.千本釈迦堂
阿亀桜がちらほら咲きになっています。

4.平野神社
魁桜が1分咲きになっています。正確には参道側の枝の一部分だけが五分咲きになっており、ぱっと目には綺麗に見えますね。

5.京都御苑
近衛邸跡の糸桜のうち早咲き系が見頃になりつつあります。冒頭の写真がそうで、この木は3分咲きになっていました。池のほとりの木は1分から2分咲き、通路際の木は3分咲きくらいかな。

ただ、全体に花付きはあまり良くない様な気がします。特に写真の木は、下の3分1くらいの枝に花が無かった様な。見立て違いである事を願いますけどね。

6.知恩寺
ふじ桜が満開になっています。正確には少し盛りを過ぎたのかも知れません。この木を見るのは実は初めてなのですが、ちょっと花付きが悪い様な気がするのだけれど、こんなものなのかしらん?

7.祇園白川
早咲き系の2本の枝垂れ桜が2分咲き程度になっています。このうち、西側の木の花付きが悪い様な気がしたのですが、杞憂だと良いのですけどね。

8.妙覚寺
蕾は膨らんでいるのですが、まだ一輪も咲いていません。

9.水火天満宮
妙覚寺と同じで、まだ咲いた花はありませんでした。

なお、染井吉野はどことも蕾が膨らんでいる程度で、咲いている木はまだ見ていません。

明日はまた真冬並の寒さらしいので、あまり咲き進まないでしょうね。でも、その後は気温が平年並みに上がるそうなので、来週後半あたりには見頃の場所が出て来るのではないでしょうか。染井吉野も咲き始めるのかな。


また桜以外の花は次のとおりです。

1.北野天満宮
遅咲きの梅が咲き揃ってきました。でも、中期咲きの花は終わりかけており、境内はかなり寂しくなっていますね。シーズン最終盤の姿です。

2.椿寺
そろそろ散椿が見頃かなと思って寄ってみたのですが、なんと一輪も咲いていません。まだやっと蕾が膨らみ始めたところです。ここも来週の暖かさに期待かな。

3.京都御苑
梅林は遅咲き系が咲いていて、まだ華やかさは残っています。桃林は、白花系が先に見頃になって来ました。赤い花が少ないので、白一色という感じですね。でも、悪い景色ではありません。

次に大モクレンですが、花の外皮が一斉に取れたところです。白い花びらは見えたのですが、まだ開花には至っていませんでした。ここ数日が見頃になるのでしょうけど、この寒さがどう影響するでしょうか。花数は凄いです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.25

京都・洛中 京都梅事情2011 ~北野天満宮 3.19~

Kitanotenmanguu1103251

平成23年3月19日の北野天満宮です。この日は、中期咲きの花が咲き揃い、遅咲きの花も咲き進んで、境内は再び華やかさを取り戻していました。

Kitanotenmanguu1103252

この日の見所の一つは、本殿前の紅梅でした。丁度満開で、これぞ北野天満宮という景色になっていましたよ。

Kitanotenmanguu1103253

厳密にはやや盛りが過ぎてきたところで、よく見ると痛んだ花も目立ちました。でも、これだけ咲いていれば十分で、本殿の佇まいと良く調和しています。

Kitanotenmanguu1103255

もう一つの見所は枝垂れ梅でした。流れ落ちる様に咲くこの花は、他の梅にはない豪奢な美しさがありますね。

Kitanotenmanguu1103256

こちらは白の枝垂れ梅。背景に赤い鳥居をあしらってみました。

Kitanotenmanguu1103258

同じく白の枝垂れ梅に金色の灯籠をあしらってみましたが、ちっょと花数が少なすぎましたか。

Kitanotenmanguu1103257

この枝垂れ梅は、2週間前に5分咲きになっていたのですが、ようやく満開になった所の様でした。やはり、強烈な寒の戻りが響いたのかも知れないですね。

Kitanotenmanguu11032510

この木は源平咲きの梅です。同じ木に紅白の花が咲くという変わり種ですね。どういう仕組みになっているのでしょう。

北野天満宮では、超遅咲きの梅がまだ残っていて、この日はようやく咲き始めたばかりの様子でした。ですので、今週末でもまだ見頃と言えるかも知れませんが、たぶん桜が咲き始めているので、そちらにばかり注目が集まる事でしょう。でも、反対に言えば、静かに梅を楽しむチャンスでもありますね。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011.03.24

京都・洛中 京都御苑 宗像神社の椿 3.19

Munakatajinjya1103241

京都御苑の梅林と黒木の梅の間を移動している時、宗像神社の中で何やら赤い花が咲いている事に気付きました。近付いてみると、大きな藪椿だったのですね。

Munakatajinjya1103242

椿も多品種があり、それだけ花期も長いのですが、一番華やかなのは今頃でしょうか。でも、話題が梅や桜に集中してしまうので、あまり注目される事が無いですね。

Munakatajinjya1103243

屋根に積もった落ち椿は、この神社ならではの風情でしょうね。この社は境内社の一つ繁栄稲荷社になります。

Munakatajinjya1103245

その隣が同じく境内社の金刀比羅宮ですね。

意識して社の後ろに植えられたものかどうかは判りませんが、この上無い豪華な装飾になっているとは言えそうです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.23

京都・洛中 京都梅事情2011 ~京都御苑 黒木の梅 3.19~

Kurokinoume1103231

京都御苑の南、境町御門の近くに黒木の梅があります。元は九条邸にあったという銘木で、数ある京都御苑の梅の中でも、最も見応えのある木の一つです。

Kurokinoume1103232

周囲に他の梅はなく、この木一本だけなのですが、存在感は抜群にありますね。

Kurokinoume1103233

建礼門から真っすぐ南に続く通路にも面しており、いかにも京都御苑らしい景観にも恵まれています。

Kurokinoume1103235

花は豪華な八重咲きで、この日は満開ではありましたが見頃は既に過ぎつつあるところの様でした。やはり例年より10日程遅れているという感じかな。でも、そのおかけでぎりぎり間に合ったのは確かですけどね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.22

京都・洛中 京都梅事情2011 ~京都御苑梅林 3.19~

Kyotogyoen1103221

開花が遅れていた京都御苑の梅林ですが、ようやく見頃になっていました。

Kyotogyoen1103222

例年なら近衛邸跡の糸桜が咲き出し、話題はそちらの方に集中している頃なのですが、今年は桜の開花もまた遅れているせいで、梅林は沢山の人で賑わっていました。

Kyotogyoen1103223

梅林に隣接する桃林ではほとんどの木で蕾が膨らんでいましたが、開花しているのは数輪だけでした。こちらの見頃は来週以降になりそうですね。

Kyotogyoen1103225

もう一つ、大白木蓮もまた蕾が膨らんでいただけでした。でも、そろそろ咲き始めている頃かな。花期が短い花だけに、この週末に見頃になっているかは微妙なところだと思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.21

京都・洛中 京都梅事情2011 ~大雄寺 3.19~

Daioji1103201

西陣の一角、七本松通下立売上がるに大雄寺があります。このあたりはお寺が集中する一種の寺町になっていて、祐正寺もこの近くになります。

Daioji1103202

その大雄寺でに立派な枝垂れ梅が咲いていました。ちょっとまばらな咲き方ですけどね、姿に趣きのある木です。

Daioji1103203


その木の下に卵形の祠があり、中には地蔵様が祀られています。1735年(元文元年)に寄贈されたものだそうで、平成8年に修復され、地蔵堂もその時に新たに建てられたそうです。修復から13年の年月が経っていますが、雨露に当たらないせいでしょうか、今でも鮮やかな色彩のままですね。

Daioji1103205

この大雄寺はいろいろな花木が植えられており、入り口近くにはアンズの花が咲いていました。椿も多く植えられていますが、一番有名なのがマンサクの花で、先日アップした花がそうです。

Daioji1103206

馬酔木もまた満開になっていました。

このお寺に気付いたのは最近の事で、他の季節の事はまだ良く判っていませんが、早春の花が揃っている事は確かですね。春を探しに来る場所が一つ増えたとは言えそうです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.20

江~姫たちの戦国~10 わかれ

Yougenin1103201


(北庄城。帯を整理している市。娘達に好きな帯を指させ、見事に同じ帯を選んでみせる市。)

(賤ヶ岳。膠着状態の両軍。)

(ひと月後、岐阜の信孝を討つべく兵を動かした秀吉。その動きを知って、討って出ようと勇む盛政。まずは敵陣の様子を掴んでからだと押さえる勝家。千載一遇の好機と詰め寄る盛政。その声に立ち上がる諸将。押さえきれずに出陣を命ずる勝家。ただし、攻め込むのは大岩山までとし、落とした後は直ちに引き上げよという条件付きでした。)

(浜松城。勝家の手勢が大岩山、岩崎山を占拠したと聞き、家宝の茶入れを秀吉に贈れと命ずる家康。彼は秀吉の大返しを予測し、その戦勝を予見したのでした。)

(岐阜から13里の道のりを一気に駆け戻した秀吉。)

(遙かに松明の流れを見た盛政。慌てて退却を命ずる盛政。兵を引けと叫ぶ勝家。)

ドラマでは大きく省略がされていますが、大筋は史実のとおりです。

勝家が近江国柳ヶ瀬に布陣したのは1583年(天正11年)3月12日の事であり、これに対して秀吉が木之本に到着したのが3月19日の事でした。勝家軍は3万、対する秀吉軍は5万と言われます。両軍はお互いに陣地を築き合い、膠着状態に入ります。

数で勝る秀吉軍でしたが、勝家の側には秀吉の背後に信孝と滝川一益が居るという利点がありました。実際のところ、展開は五分だった様ですね。

この膠着状態を打開しようと先に動いたのは秀吉でした。彼は木之本から主力を率いて岐阜の信孝の下に向かったのです。

大きく展開しあった陣形において、敵陣の一部を突破する事を中入りと言いますが、これを進言したのは盛政でした。秀吉の主力が戦線を離れた事を知り、撃って出る好機と判断したのですね。しかし、この戦術は効果は大きいものの、下手をすると突破した部隊が敵中に孤立してしまい、反対に包囲されて殲滅されかねないという危険性も孕んでいました。

この戦術の危うさを十分に知っていた勝家はこれに反対しますが、ついには押さえきれずに許可してしまいます。ただし、敵陣に止まる事は許さず、直ちに撤退する様にと条件付けたのでした。

天正11年4月19日、盛政が向かったのは中川清秀が守る大岩山でした。盛政はこれを大いに破って清秀を敗死させ、さらには隣の岩崎山にいた高山右近を攻撃してこれを撃退しています。これを知った勝家は直ちに引き上げる様に命じますが、盛政はこれを拒否してしまいます。

一方、大垣に居て翌日にこの報に接した秀吉は、直ちに軍を返しました。彼はこの事があるのを期待しており、急行軍の為の準備を十分にしていました。あらかじめ沿道の村々に命じて、夜間行軍用に松明と炊き出しを用意してあったのですね。そして、その甲斐あって万を超える軍勢が52kmの道のりを、わずか5時間で駆け通したのです。これを美濃大返しとも呼びますね。

これに対する盛政軍ですが、ドラマの様に慌てふためいたという訳では無かった様です。彼は冷静に退却戦を展開し、一部ではむしろ有利な展開すら作っていた様です。この戦況を覆したのは柴田軍に属していた前田利家の突然の撤退でした。彼が率いていた5千の兵が俄に戦線から消えてしまった事から、柴田軍の崩壊が始まります。さしもの勝家も為す術が無く、北庄城へと撤退せざるを得なかったのでした。

利家はこのドラマには出て来ていませんが、信長の母衣衆を努めていた武将で、この頃には勝家の配下として北陸戦線にありました。秀吉とは若い頃からの親友であったとされ、秀吉に調略されていたのだとも、親友と組頭との相克に耐えられなかったのだとも言われます。

勝家は北庄城への撤退の際に利家の城に立ち寄り、利家を責める事無く長年の苦労を謝したと言われ、利家は茶漬けでもてなしたと言われます。

一方、秀吉は降伏した利家を許すと北庄城攻めの先鋒となる様に命じています。そして、戦後は利家の本領を安堵すると共に盛政の旧領を加増してやり、利家は本拠を尾山(金沢)へと移す事になります。このあたりを見ると、やはり事前に密約があったのかなという気がしてきますね。

(秀吉勢に追われて敗走する勝家軍。)

(北庄城。逃げ帰った勝家を出迎える市達。)

(市を相手に、敗戦は自分の将としての器にあったと認める勝家。そして、北庄まで逃げ帰ったのは、ひと目市に会いたかったからだと告げます。そして、明日にでも秀吉の軍はここに到着し、城を囲む。情けないが、小谷城の繰り返しになってしまったと語ります。)

(江に貰った守り袋を返し、自分は城を枕に腹を切る、市達は城を落ちろと命ずる勝家。戦いはまだ終わっていないと答える市。柴田勝家の負けだと認める勝家。天下布武の印を抜き取り、守り袋を返す市。)

(両親の話を立ち聞きしていた江は、秀吉が攻めてくると姉達に告げます。義父は城を枕に自害すると言ったのかと確かめる茶々と初。まだ戦に負けた訳ではないと言い張る江。)

(小谷と一緒にはしないと言う市。)

(娘達が選んだ帯を切り始める市。)

(北庄城を囲んだ秀吉軍。それを見て、小谷落城の時を思い出す茶々と初。様子を聞いてくると部屋を出て行く江。)

(廊下で一人の武者とぶつかった江。黄色い袖章を見て、秀吉の使いかと権高に誰何する江。膝を付いて、柴田様と話をする為に来たと答える石田三成。後を追おうとする江。懸命に止めるよし。)

(勝家と対面した三成。彼の父は浅井家に仕えていた事があり、旧主筋にあたる市を前に顔を上げられないでいる三成。面を上げよと命ずる市。三成に向かって、降伏はせぬ、城も渡さぬ。ただし、市と娘達は城から出すと伝える勝家。秀吉の言葉として、市の方にくれぐれもよろしゅうにと伝える三成。それを聞いて、控えよと一喝する勝家。恐れ入る三成。)

(三成の報告を聞き、有頂天になる秀吉。彼は市の方を側室しようと決めます。)

(翌日。市達を前に、別れを告げる勝家。後を追おうとして、武士にとっては敵に首を上げられる程の屈辱は無いのだと引き留める市。彼女の脳裏に甦る長政との別れ。)

(天守から聞こえる歓声。勝家が部下を集め、最期の酒宴を開いているのでした。その下の階には火薬が運ばれています。)

(娘達を前に、自分は城に残ると言い出す市。何故と叫ぶ娘達に、長政の命を守ってそなた達を育ててきたが、その勤めは終わったと告げる市。そして、たとえ生き残ったとしても、秀吉の側室にされるだけであり、生き地獄よりも死ぬ道を選びたいのだと本音を漏らします。自分たちも一緒に残ると言う娘達に、そなた達た達には生きるのだと命ずる市。)

(髪を切り、娘達に分ける市。そして、娘達が選んだ帯を切って作った香袋に、それぞれが好きだと言った浮島、空蝉、東大寺の香を入れて手渡しました。)

(迎えの三成が来たという知らせが入ります。市は茶々に長政の守り刀を手渡し、浅井の誇りを忘れるなと命じます。初には髪止めを解いて手渡し、姉と妹の絆となる様に言い聞かせます。江には天下布武の印を渡し、織田家の誇りを守れと命じます。そして、長政が言った希望という言葉を伝えました。)

(三成と対面した市。次々に連れられていく娘達。最後に市を連れて行こうとする三成に、姫達を頼むと言い、自分は行かないと告げる市。主命を果たさなければ何と言って申し開きをすれば良いのかと迫る三成に、下がれと命ずる市。彼女は三成に向かって、そなたの父の主君の妻、秀吉の主君の妹であると宣言し、娘達に指一本でも触れようものなら、信長と市が許さぬと秀吉に伝えよと命じます。恐れ入る三成に、秀吉に宛てた手紙を渡す市。)

(娘達に別れを告げて背を向ける市。兵の手を振り払って、母に追いすがる江。彼女は自分が死んだらまた母に会えるかと聞きます。一番に会えると答える市。ではその日を楽しみにしますと母に抱きつく江。母を許せと江を突き放す市。扉を閉めよと命ずる市。扉の向こうに向かって崩れ落ちる市。泣き狂う須磨。)

(城攻めの采配を振るう秀吉。攻め込む軍勢。)

(天守の階下に油を撒く兵達。ゆっくりと市の下に向かう勝家。暇乞いをする須磨。あの世で会おうと答える市。)

(市と二人になった勝家。今なら間に合うと翻意を促す勝家。逃げる気は無いと答える市。長政と一緒に逝きたかったであろうと気遣う勝家。共に死ぬと決めた相手は勝家だと答える市。)

(投じられた火。燃えさかる炎の中で、短刀を手にする市。その脳裏に甦る長政の言葉。短刀を胸に当てる市の背後で刀を振りかぶる勝家。茶々、初、江に別れを告げる市。)

(大手門を出る江達の輿。その時響く、天守から火が上がっているという声。降ろせと叫ぶ江。)

(炎上する天守を見上げ、狂った様に叫ぶ江達。崩れ落ちる天守。)

(三人で肩を寄せ合い、泣き崩れる江達。)

勝家が死んだのは4月24日の事でした。その死にあたって城内で酒宴を開いたと伝えられており、その賑やかな様子が城外にも聞こえたと言われるのですが、ドラマでもそのとおりに描かれていましたね。そして、市の方にも娘達と共に退去する様に勧めたのですが、市の方がこれを拒否したのもドラマにあったとおりです。

彼は天守の九重に登り、秀吉軍に向かって自分の切腹を見て後学とせよと叫びました。そして、市の方や侍女達を一突きにすると、自らも十文字腹を切って果てたと言われます。さらに天守には爆薬が仕掛けられており、轟音と共に砕け散ったのでした。この時、勝家と最期を共にした家臣は80余名と言われ、ただ一人老女を残したとも言われます。ドラマで須磨が生き残ったのは、このエピソードを踏まえての事なのでしょうね。

この時、茶々は14歳、初は13歳、江は11歳でした。この年頃の娘を残して行く母親の心境は如何ばかりのものがあったのでしょうね。その辛さと引き替えにしても秀吉の世話になる事が耐えられなかったのか、あるいは二度に渡る落城によって生き続ける気力を失ってしまったのか。いずれにしても、娘達にとってはこの上無く辛い出来事だったでしょうね。

冒頭の写真は、1594年(文禄3年)に茶々が建てた市の方の供養塔です。彼女が父である長政の供養の為に建てた養源院にあり、母もまた同じ場所で供養したかったのでしょうね。この前年に彼女は秀頼を産んでおり、秀吉の寵愛を一身に受けていた時でした。ですから、父母の供養の為の寺を建てるという事も容易に出来たのでしょう。

擬宝珠まで付いたこの立派な供養塔を見ていると、当時の淀殿の権勢と、その実家である浅井家に対する思いが判る様な気がしてきます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011.03.19

京都・洛東 京都桜事情2011 ~長徳寺 3.19~

Okamezakura1103211

地震の被害はまだまだ収まった訳ではないけれど、いつまでも内に籠もっていても仕方がないので、そろそろ当ブログの更新も元に戻して行きます。

平成23年3月19日の長徳寺です。今日はおかめ桜が3分咲きになっていました。

Okamezakura1103212

昨年は3月13日には満開になっていましたから、10日以上遅い感じですね。

Okamezakura1103213

橋を渡った鴨川の河川敷にあるおかめ桜も3分から5分咲きでした。

今日は京都御苑や平野神社も回ってみましたが、まだ蕾が膨らんだ程度です。昨年は既に見頃だった事を思うと、やはり一週間以上遅いですね。

数日中に開花はするでしょうけど、やや低めの気温の推移を考えると見頃は少し先になりそうな感じです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.18

京都・東山祈りの灯り ~狐の嫁入り~

Resize8787

東山・花灯路から衣替えした京都・東山祈りの灯りですが、そのまま引き継がれているイベントもあります。その一つが狐の嫁入り巡行です。文字通り狐の花嫁を送る行列ですが、その幻想的な雰囲気からとても人気のある行事の一つとなっています。

その行列の出発点は知恩院三門前。例年なら大勢の人が待ちかまえているポイントなのですが、この日はわずかな人達だけが見守っていました。

知恩院を出るとすぐに円山公園に入ります。いつもの年なら幻想的に聞こえる鈴の音が、今年は鎮魂の祈りに聞こえます。

行列の行き着く先は高台寺です。境内に入ると花嫁は徒歩になり、天満宮へと参拝します。そして一行が見守る中、拝礼を済ますと、行列と共に高台寺の中へと消えていきました。

それにしても、狐の面をしていると、足下がほとんとで見えない様ですね。二人の介添え方がずっと手を取って誘導していましたが、狐が声を出す訳には行かない様で、結構大変そうでした。

Inorinoakari1103177

今日もニュースは地震関連ばかりでした。特に原発の事故は恐ろしい。未曾有の事態に背筋が凍る思いがします。でも、そこで果敢に作業に当たる人達が居るのですね。使命感に燃えた姿には、心打たれるものがあります。

どうか、一日も早く事態が収拾されます様に。そして、作業に当たる人達、避難で苦しむ人達に、穏やかな日常が戻ります様に。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011.03.17

京都・東山祈りの灯り

Inorinoakari1103171

京都・東山祈りの灯りが開催されています。東山・花灯路に代わり、東日本大震災で犠牲となられた方への哀悼の気持ちを込めた灯りが灯されています。

Inorinoakari1103172

この大きな灯籠に貼られているのは、被災地に向けたメッセージ、ここを訪れた人達の思いが綴られていました。

Inorinoakari11031710

そして、会場のそこかしこでは義援金の募金が行われています。少しでも、被災地の人達の力になれればという善意が伝わると良いのですけどね。

Inorinoakari1103176

花灯路の行事の多くは中止されていますが、竹灯り・幽玄の川は実施されています。この灯りもまた鎮魂の光の一つですね。

Inorinoakari1103173

他の行事では、花灯路の点灯、舞妓の奉納舞踊、舞妓さんと写そう、知恩院三門などのライトアップ等が中止されています。あとは、この日だけなのかな、お囃子組も中止になっていました。ホームページでは実施となっていたのですけどね。

ただし、狐の嫁入りは実施されています。この様子は明日アップしますね。

会場の様子はと言うと、いつもの年の賑わいは全くと言って良い程ありません。時間と場所によっては賑わう事もありましたが、例年の10分1も来ていないのではないかな。

たぶん、震災に拠る自粛ムードと、中止と思って行かない人が多いせいかと想像されますが、犠牲者に対する祈りの場として捉えるのなら訪れても良いのではないでしょうか。人が少な過ぎて、義援金もあまり集まっていない様子でしたからね。

賛否はあると思いますが、私はこの形にして良かったと思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.14

献花

Mansaku1103141


日を追う事に被害の実態が明らかになっています。
その惨状を目にする程に、様々な思いが巡って言葉になりません。

写真はマンサクの花。東北弁の「まんず咲く」が語源だそうですね。

犠牲となって亡くなられた方に、せめてもの手向けとしてこの花を捧げます。

そして、一日も早い復興がなります様に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.11

地震お見舞い申し上げます

突然襲った大地震。テレビの画面に映る大津波の威力を見て、ただ呆然とするのみです。

当ブログの読者にも東北、北海道の方が何人も居られ、無事だったのか気がかりです。

一刻も早く地震と津波が収束し、これ以上の被害が広がりません様に。

被害に遭われた地域の方々に、心よりお見舞い申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.10

京都・洛中 京都梅事情2011 ~祐正寺 3.5~

Yuusyouji1103101

平成23年3月5日の祐正寺です。

Yuusyouji1103102

妻娶地蔵で知られるこの寺を初めて訪れたのは昨年の事で、その見事な姿と花に感激したものです。枝垂れ梅がこれほど均整の取れた樹形をしているのは初めて見ましたからね。

Yuusyouji1103103

そして、昨年があまりに綺麗だったので2年続けて美しく咲くかと不安はあったのですが、ご覧のとおり素晴らしい咲きっぷりでした。

Yuusyouji1103105

この寺にはこの梅1本しかありませんが、境内が狭い事もあって、その存在感は確かなものがあります。この梅だけを見る為にここを訪れたとしても、それだけの価値は十分にありますよ。

Yuusyouji1103106

妻娶と言うと、先日見た狂言「因幡堂」を思い出しますが、昔はポピュラーな事だったのでしょうか。今は女性向けの縁結びが人気を呼んでいますが、こうした男性向けの縁結びも注目されても良い様な気がするのですけどね。これから先、ブームになるという事はないのかしらん?

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011.03.09

京都・洛中 京都梅事情2011 ~智恵光院 3.5~

Tiekouin1103091

平成23年3月5日の智恵光院です。

Tiekouin1103092

通りの名前ともなっているこの寺には一本の枝垂れ梅があり、美しい樹形で見事な花を咲かせてくれます。

Tiekouin1103093

ここを訪れたのは去年の2月27日以来2度目ですが、丁度一週間遅れで見頃となっていました。

Tiekouin1103095

この背後にある建物が地蔵堂ですね。お祀りしているのは小野篁縁の六臂地蔵尊で、一度拝めば六地蔵めぐりをして来たのと同じ効果があると言われている有り難い御地蔵様です。

Tiekouin1103096

この日は午前中は曇り勝ちだったのですが、昼過ぎからは綺麗な青空となりました。やはり、青空を背景とした梅の花はとても映えますね。

これだけ見事な梅なのに愛でに来る人は一人もおらず、ずっと独り占め状態でした。寒さも弛んでいたし、またりとした時間を過ごさせてもらいましたよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.08

京都・洛中 京都梅事情2011 ~北野天満宮 3.5~

Kitanotenmanguu1103081

平成23年3月5日の北野天満宮です。

Kitanotenmanguu1103082

今回で4週連続して北野天満宮に来たことになりますが、ちょっとした端境期に入った様です。2月26日には境内を彩っていた早咲き系の花が雨のせいで散ってしまい、その後は寒気のせいで中期咲きや遅咲き系の花がそれほど咲き進まなかったのですね。

Kitanotenmanguu1103083

まあ、そんな事情は毎週来ているから判る事で、来る時期が早すぎたのかなという声がそこかしこで聞こえていました。それでも、この枝垂れ梅の様に見頃になっている梅もあったのですけどね。

Kitanotenmanguu1103086

梅苑の方はと言うと、入り口に見頃という表示があり、外から見た感じでは確かに華やかになっていました。ただ、入り口で行列になっており、とても中に入る気にはなれなかったのでそのまま引き返しています。

Kitanotenmanguu1103085

今週末はと言うと、遅咲き系はこの日はまだ蕾が膨らんでいない木が多く、反対に中咲き系の花は痛みだしていたので、さらに寂しくなっているかも、です。確実に華やかになっていると言えるのは、この日はちらほら咲きだった本殿前の紅梅かな。まあ、この木だけでも見応えはあるのですけどね。

遅咲き系が花盛りになるのは3月半ば過ぎになるのでしょうけど、その時分には桜の方に話題が移っている事でしょうね。結果として、今年の一番の見頃は梅花祭の頃だったという事になるのかも知れません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.07

京都・洛北 京都梅事情2011 ~京都府立植物園 3.5~

Kyotofuritusyokubutuen1103071

平成23年3月5日の京都府立植物園です。

Kyotofuritusyokubutuen1103072

北山門の梅の開花は、やはり遅れ気味の様です。先週よりは開花が進んでいましたが、見頃と言うまでには至っていません。例年に比べると一週間程度遅い感じですね。

Kyotofuritusyokubutuen1103073

そんな中で、この枝垂れ梅は満開になっていました。下で咲いている寒椿と紅白の良いコラボになっていましたよ。

Kyotofuritusyokubutuen1103075

この白梅もまた見頃になっていました。今年は気温の変動が激しすぎるせいか咲き方が木によってばらばらで、咲き揃った景色を期待するのは難しいのかもしれません。

Kyotofuritusyokubutuen1103076

梅林はこんな感じで、華やかさは増していました。ただ、個々には今ひとつの感じの木が多く、離れて見た方が綺麗に見えます。

ところで、この梅林で結婚式の撮影会が行われていました。この花や緑に包まれた場所でのウェディングというのは良いですね。私には既に遠い昔の事ですが、見ていると羨ましいなという気がしてきます。

Kyotofuritusyokubutuen1103077

スノードロップが咲いている小球根のエリアでは、クロッカスが咲き出していました。今はまだ少しだけですが、間もなく一面に広がって華やかな光景に変わる事でしょうね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.06

江~姫たちの戦国~9 義父の涙

(北庄城。娘達に刺繍を教える勝家。不器用な江は阿弥陀様を縫っていますが、あまりに不出来で、罰が当たるとまで言われてしまいます。むくれながらも、続きを縫う江。)

(そこに急な知らせが入ります。秀吉が信長の葬儀を行ったと言うのです。何と勝手なと憤る市達。それが秀吉の手なのだと見破る勝家。このままにはしておけぬと立ち上がる勝家ですが、茶々達は戦は嫌だと言い張ります。彼女たちを見て、味方に文を書くと言って立ち去る勝家。)

秀吉が信長の葬儀を行ったのは1852年(天正10年)10月11日から15日にかけての事で、場所は大徳寺においてでした

一方、市の方も信長の百日供養を妙心寺で行っており、このあたりはお互いに手を打ち合っていたと言えますね。ただ、演出という点において秀吉の方が一枚も二枚も上手だったという事でしょう。

(浜松城。勝家からの文を受けた家康。共に手を取って秀吉を威圧したいという勝家に、いつになく手ぬるいといぶかり、暫く様子を見ると言います。)

(北庄城。再び凶報が入ります。秀吉が長浜城を奪ったのでした。すぐに取り戻してくると席を立つ勝家の前に、戦は嫌だと言って立ちはだかる茶々、初、江。思わずあとずさりする勝家。)

長浜城を守っていたのは、勝家の養子である勝豊でした。勝豊は勝家の甥にあたり、実子の無い勝家の跡継ぎと目されていた人物でしたが、勝家が盛政を重用し、勝豊を軽く扱う様になった事から、次第に勝家との仲が冷めて行ったと言われます。

清洲会議の時に勝家は長浜城を要求しましたが、秀吉は与える相手として特に勝豊を指名しました。勝豊が浮いているという柴田家の内情を見透かしての事とも言われ、すぐに勝豊に接近を始めます。そして調略がなった天正10年12月に五万の兵を出して長浜を囲み、これに対して勝豊は無抵抗で城を明け渡しました。

ドラマでは、勝家が娘達の反対に遭って出兵を思いとどまった様に描かれていましたが、ホームドラマではあるまいし、実際にはそんな事はあり得ず、雪の為に出陣が出来なかったのでした。

(その夜、市から娘達は小谷を思い出すのだと聞かされる勝家。娘達から見れば、相手は秀吉、迎え撃つのは自分たちの父でした。立ち聞きをとがめられ、部屋に入る茶々達。娘達に向かって戦はしないと約束する勝家。)

(山崎城。宗易を相手に、これで勝家を誘い出せるはずと言う秀吉。出て来るかと懐疑的な宗易。越前ガニを誘い出すまでは、次々に手を打っていくと答える秀吉。猿蟹合戦ですなと笑う宗易。おとぎ話と違って、勝つのは賢い猿だと嘯く秀吉。越前には市が居る、勝家が負けたら取り戻すつもりなのかと問う宗易。我が物にするなどとは言っていないと答える秀吉。取り戻すのかと聞いただけだと宗易に言われ、慌てる秀吉。)

このドラマでは、秀吉が一方的に戦を仕掛けているかの様に描かれていますが、勝家もまた対秀吉の包囲網を築いており、戦を構えるという意味においてはイーブンでした。秀吉の側ばかりが悪辣の様に見えますが、これはむしろ勝家の側が後手に回っているというべきで、勝家が雪に閉じこめられている事が決定的な不利でした。

(北庄城。雪に閉ざされた中、じっと耐えている様子の勝家。それを見て、戦になってしまうのかと恐れる茶々。あのときと同じ、自分たちの父を秀吉が奪いに来るのだと怒り、泣き崩れます。戦は嫌だという初。義父は戦をしないと約束してくれた、義父を信じると言う江。)

この構図を強調して描きたいがために、勝家をマイホームパパにしたかったのでしょうか。市の方が秀吉に下る事を拒否し、茶々が秀吉の側室になるという経過を悲劇的に描く為の布石なのかも知れませんね。

(天守から雪の降る天を見つめている勝家。気遣う市。そこに盛政達家臣がやってきます。我らに出陣を命じて欲しいと迫る家臣達。出過ぎた事を言うなとたしなめる勝家。戦支度だけでもと食い下がる盛政達。それも自分が決めると一喝し、盛政達を下がらせる勝家。娘達の事を案じているのかと気遣う市。戦をせずに済む道はないのかと考えているのだと答える勝家。)

このシーンは、賤ヶ岳の戦いにおいて盛政が独断専行した事に対する伏線でしょうか。実際には勝家は秀吉と戦う事を前提にしており、家臣から突き上げられることなど無かったと思われます。

(数日後、秀吉が力ずくで三法師を信孝から奪ったという知らせが入ります。今度ばかりは秀吉を許しておけぬと叫ぶ勝家。やはり戦になるのかと聞く茶々。その顔を見て、戦はせぬと急に弱気になり、娘達を宥める勝家。驚く盛政。)

(さらに数日後、信孝から挙兵の知らせが入ります。共に立って欲しいという願いに、考え置くと答えよと伝える勝家。)

(天正11年正月。秀吉に対して伊勢で挙兵した反秀吉の勢力。しかし、たちまちの内に秀吉によって追い込まれてしまいます。)

伊勢の勢力とは滝川一益の事でしょう。織田家の宿老の一人に数えられながら、本能寺の変の時には関東にあり、信長の死と共に北条氏に関東を追われたため、命からがら本領である伊勢に逃げ帰っていました。敗軍の将である一益はその地位を著しく落としてしまいましたが、なお一定の勢力は保っていました。

清洲会議以後は勝家方に付き、南方から秀吉の勢力を脅かしていましたが、秀吉は調略によって一益の勢力を暫減させると共に、天正11年1月には織田信雄を名目上の大将として数万の兵を催して伊勢に攻め掛かりました。一益は長島城に籠もりこれに対抗しましたが、次第に勢力を失い、長島城は孤軍となってしまいます。勝家はこれを座視する事が出来ず、雪を冒しての出陣を決意したのですね。

(共に立てば秀吉を挟み撃ちに出来たものをと残念がる勝家。戦は避けられぬのですねと問う市。黙って席を立つ勝家。)

(その夜、臥所を抜け出して、雪の中に佇んでじっと月を見ている勝家。その姿を見つめる市。)

(娘達に勝家を戦に行かせたいと言い出す市。判らぬと聞かない茶々達。誇りを貫き、武士として死んだ長政は哀れなだけ不幸なだけだった訳ではない、それが喜びだったのかも知れないと説く市。信長も光秀も同じ思いだった、武士とはかくも不思議な生き物なのだ、これ以上止めるのは惨い事なのかもしれないと言い聞かせる市。)

(勝家を前に、御出陣をと言い出す茶々。天下一の働きをと念じていると願う茶々に、嬉しそうにうなずき、戦うからには勝つと約束する勝家。信じていると答える茶々。ただ一人反対する江。戦はせぬと約束した、義父は嘘つきだと言って席を立つ江。)

(三月、雪割草が顔を出す季節。少し無理をするが、我らの着陣を待って信孝が兵を挙げる事になっていると市に説明する勝家。賤ヶ岳は小谷の近くだと言う市。これも何かの縁かもしれないと答える勝家。それにしても、あれから江は口をきいてくれぬと嘆く勝家。娘達の事は気にするなと市。娘達の事だけではない、平穏で心安らかなる暮らしを知った自分が戦に行きたくなかったのかも知れないと答える勝家。そんな勝家に、天下布武の印を手渡す市。思わず、お預かり奉りますと家臣に戻ってしまう勝家。おかしそうに、自分は妻だと言って聞かせる市。)

(私はあなたを好いている、娘達への思いやり、妻に対しての労りに感謝している、だから必ず生きて帰って欲しいと願う市。手を取って、妻の顔を見つめる勝家。)

(一人で天守から外を眺めている江。そこにやって来た茶々。このまま義父と口をきかないのかときく茶々。自分の決めた道を行く、戦はいやだから義父とも口をきかないと答える江。それなら義父も自分の決めた道を進もうとしている、江と同じではないのかと説く茶々。江にもやっと父と呼べる人が出来た、その人を失う事が怖いと本音を漏らす江。その気持ちは良く判った、しかし一つだけ間違っている、義父は戦で命を落とす事はないと言って聞かせる茶々。)

(出陣の朝。義父に向かって御武運をと挨拶する茶々と初。茶々は剣明神のお守り、初は平泉寺の護符を差し出します。有り難く受け取る勝家。江は来ぬかと聞く勝家。その時、駆け込んでくる江。彼女はお守り袋だと言って、刺繍した袋を差し出します。そこに描かれているのは勝家の姿でした。喜ぶ勝家。袋の裏に描かれた五つの花びらを見て、春よ来いかと言って涙ぐむ勝家。その袋に、天下布武の印と茶々と初から貰ったお守りを入れる勝家。)

(出陣する勝家を見送る市達。その後を追い始める江。義父上、ご無事のお帰りをと叫ぶ江。その声を背中で聞いて、必ず戻って来るとつぶやく勝家。)

上の方でも書きましたが、戦国時代の話がまるでホームドラマの様になってしまいました。勝家ともあろう者が、義理の娘達に泣き付かれたというだけで出陣を見合わせるなど有り得ない話で、雪に閉じこめられている為に、出るに出られなかったという方が正確でしょう。でも、このドラマはあくまで江が主役ですから、娘目線でのみ描かれるのですね。それにしても、秀吉に対抗するために勝家の下に身を寄せているにも関わらず、ひたすら戦を嫌がるという設定も矛盾しているとは思うのですけどね。

もう一つ思ったのは、やはり子供時代は子役に演じさせた方がすっきりとするという事です。小谷城陥落の場面を見ていると、アラフォーの宮沢りえが満14歳の茶々、二十歳過ぎの上野樹里が満10歳の江を演ずるのはやはり無理が有りすぎると思わざるを得ませんでした。散々言われている事だけどねえ、脳内変換をするにも限界があるというものです。これが子役だったらもっと素直に楽しめるのにね。

まあ、こんなに優しい勝家というのも史上初でしょうから、その意味では快挙と言えるかも知れません。確かに、賤ヶ岳で裏切った前田利家を労ったり、市の方が秀吉に下る事を良しとせず、勝家と最期を共にした事などを考えると、勝家には一種の優しさがあったのかなという気もしないではないですからね。そこに着目してクローズアップしたのはこの脚本が初めてでしょう。無骨なイメージしか無い勝家に、まるで違ったスポットライトを当てた訳で、それはそれで面白い見方だと思います。

次回は賤ヶ岳の戦いから北庄落城までが一気に描かれる様です。でも、またあまり戦いのシーンは描かれないのかも知れませんね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.05

京都・洛北・洛中 京都梅事情2011 3.5

Kyotofuritusyokubutuen1103051

平成23年3月5日現在の京都の梅情報です。

1.京都府立植物園

梅林がやっと咲き揃ってきました。心配していた雨の影響は小さかった様で、見た目もかなり華やかになってきました。今でどうでしょう、五分咲きから7分咲き程度でしょうか。

一方、北山門はまだ少し遅れ気味です。冒頭に掲げたピンクの梅は咲き進んでいるのですが、その隣の白梅がほとんど開花しておらず、紅梅も二分咲き程度です。その西隣の白梅が見頃になりつつあるので、色彩の競演は楽しむ事が出来ました。

2.北野天満宮

先週危惧していたとおり、ちょっとした端境期に入ってしまった様です。つまり、2月27日から28日にかけて降った雨のせいで早咲き種の花がほとんど散ってしまい、中期咲きと遅咲き種は寒さのせいで開花が進まないという事のようですね。

梅苑の方は見頃という表示になっていましたが、入るのに行列が出来ている様子だったので、今回も入っていません。

3.智恵光院

一本ある枝垂れ梅が見頃です。この梅を愛でに来る人はほとんど居ないらしく、暫くの間独占状態でしたよ。

4.祐正寺

一本ある枝垂れ梅が見頃です。智恵光院と同じく、見に来る人が希な様ですね。でも、これだけ見事な枝垂れ梅は、北野天満宮にもありません。

5.京都御苑

ようやく咲き進んではいますが、今ひとつ華やかさが足りないですね。出水の小川のほとりの紅白の梅は、雨にやられたせいでしょうか、しょんぼりした姿に見えました。一方、黒木の梅はちらほら咲きですね。やはり去年よりは一週間程度遅れている様です。

6.二条城

全体としては五分程度でしょう。中には見頃を迎えて木もありましたよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.04

京都・洛東 夕景色2011 ~高台寺 2.26~

Yasakanotou1103051

平成23年2月26日の夕景色です。

Yasakanotou1103052

夕景を撮るのは久しぶりですが、場所はいつもの高台寺駐車場からです。ですので、構図もいつもと変わり映えがしませんね。

Yasakanotou1103053

まあ、そこは空の表情が毎回違うという事で勘弁して下さい。それに、このシルエットになった八坂の塔の素晴らしさは、何度見ても飽きないでしょう?

Yasakanotou1103055

夕焼けは思った程には染まってくれず、日が沈んだ辺りがわずかにくれない色になっていました。この色が空一面に広がって欲しいのですけどね。

Yasakanotou1103056

それでも、雲が良い感じで出ていたので、それなりには絵になってくれました。この時、日が沈むと同時に冷たい風が吹いてきたのですが、寒さに震えながら頑張った甲斐はありましたよ。

Yasakanotou1103057

場所を変えて、東側から狙ってみました。これも定番の景色ですが、空が淡い色合いに良い感じで染まっていましたよ。

Yasakanotou1103058

そして、灯りが灯った京都タワーです。まさに輝き始めた御灯明ですね。

Yasakanotou11030510

同じ頃、人が引き始めた二年坂です。以前はここを撮っても電線だらけで絵にならなかったのですが、今は風情のある町並みを捉える事が出来ます。

来週末になれば東山花灯路が始まります。ここも凄い人出で溢れる事でしょうね。私はまた狐の嫁入りを見に来るつもり。春の宵のそぞろ歩きが今から楽しみです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011.03.03

京都・洛北 京都梅事情2011~京都府立植物園 2.26~

Syokubutuen1103041

平成23年2月26日の京都府立植物園です。この日は梅林の梅がようやく咲き揃い始めたところでした。

Syokubutuen1103042

こちらは北山門前広場にあるピンクの梅です。ここには紅白の梅もあるのですが、一足先に咲き出したのがこの梅で、ようやく見頃になって来たところでした。

Syokubutuen1103043

紅梅の方はこんな感じで、枝の先の方だけが咲いていましたね。

Syokubutuen1103045

梅林で一番見事に咲いていたのがこの白梅でした。この木のおかげで、梅林全体が見頃になり始めた様な感じがしていましたよ。

Syokubutuen1103046

この日は青空がとっても綺麗だったので、白梅の背景にしてみました。どうです、早春の雰囲気が出ていません事?

Syokubutuen1103047

梅以外にも、マンサクが満開になっていました。遠くから見ると全体にふわっと暖かく感じ、個々に見ると細い花びらの集合体という面白い花ですね。

植物園では、これから日を追う事に春の花が増えていく事でしょうね。1年で最も華やかな季節が始まろうとしています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.02

京都・洛北 京都梅事情2011 ~下鴨神社 2.26~

Simogamo1103031

平成23年2月26日の下鴨神社です。この日は光琳の梅が7分咲き程度になっていました。

Simogamo1103032

ところが、一見華やかなのですが、何となく物足りないですよね。そして、よく見ると咲いている花は開ききっていますが、枝先には堅いつぼみが残っています。

Simogamo1103033

要するに一斉に咲くという事はなく、今年はこれが精一杯だという事だと思われます。さらにはたぶん、先日の雨で先に咲いていた花は痛んでしまい、今はかなり寂しい状態になっているのではないかと想像されます。

Simogamo1103035

去年はぱっと咲いて華やかだったのですけどね、そう毎年良い状態は続かないという事なのでしょうか。

それは仕方がない事だとは思いますが、この梅の名誉の為にもこの状況で実力を判断しないでやって下さいね。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.01

京都・洛中 京都梅事情2011 ~北野天満宮 2.26~

Kitanotenmanguu1103021

平成23年2月26日の北野天満宮です。この日は早咲きの梅がほぼ満開、中期咲きの梅も5分咲き程度になっており、境内は華やかな雰囲気に包まれていました。

Kitanotenmanguu1103022

この写真で言えば、ピンクの梅が中期咲き、背後にある紅白の梅が早咲きですね。遅咲きの梅はまだ咲いていませんが、本当に遅く咲きますから、華やかさでは今が一番だと思われます。

Kitanotenmanguu1103023

まあ、早咲きだの中期咲きだのとさも判った様に言っていますが、細かく品種を掴んだ上で言っているのではなく、毎週の様に通って咲き加減を見ながら言っているので、どこまで正確かは保証の限りではありません。本当に判っている人から見ると、私の括り方は乱暴な限りかも知れませんね。

Kitanotenmanguu1103025

さすがに名所だけあってどの梅も見事なのですが、枝垂れ梅に限っては今ひとつの様な気がします。毎年花付きがあまり良くないのですよね。樹形は綺麗だし、花色も良いしで、これで花が沢山咲いていたら言う事は無いのですけどね。

Kitanotenmanguu1103026

楼門前にあるこの梅は、お牛さんとのツーショットが撮れるからでしょう、いつも大人気ですね。特にこの日は花盛りになっていた事もあって、記念写真の列が途切れる事はありませんでした。

Kitanotenmanguu1103027

この前日は梅花祭が開催されたのですが、さぞかし大勢の人出で賑わった事でしょうね。上手い具合に梅も咲き揃ったし、今年は一層盛り上がった事でしょう。

Kitanotenmanguu1103028

実はその梅花祭には一度も行った事が無いのですよ。来年は土曜日になる事だし、是非参加してみたいと思っているところです。きっと凄い混雑になるでしょうけどね。

Kitanotenmanguu11030210

梅苑は7分咲きとの事でしたが、とても混み合っていたし、境内だけで十分楽しめたので入っていません。これで3週続けて北野天満宮を訪れた訳ですが、今週末はどうしようかなと思っているところです。少し端境期に入るのかなという気もするのですよね。(3月2日追記。zuzuさんの情報に依れば、27日から28日にかけて降った雨のせいで、早咲きの梅はかなり散ってしまった様です。ですので、今はまさに端境期に入っている様ですね。ただ、梅苑はそれほど被害を受けていない様子なので、もし近い内に行かれるならそっちの方が良いかも知れません。)

でも、やっぱり様子は見に行かなくてはいけないかな。たぶん本殿前の紅梅が咲いている様な気がしますしね。うん。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

新選組血風録の風景 ~菊一文字 その4~

(そんな沖田の気持ちに変化が生じた。日野助次郎が戸沢に斬られたのである。日野は石州浪人で、沖田の配下の中では最年長であった。沖田に良く仕えてくれ、時には玄節のところに行って薬を貰ってきて呉れたりしていた。)

日野助次郎という隊士は実在せず、創作上の人物ですね。多くの場合、沖田は部下思いの隊長だった様に描かれますが、実際にどうだったかはどこにも記述が無く、判らないというのが実情です。たぶん、普段から冗談ばかり言って、近所の子供達と遊ぶのが好きだったという新選組始末記の記述からの創作なのでしょうけど、一方で天然理心流の塾頭としての稽古はとてもきつくて荒っぽかったとも言われますから、果たして仕えやすい上司だったかどうかは霧の中状態ですね。 

(「お前が花橘町で戸沢を斬っていれば日野は死なずに済んだ」と刺す様な目で沖田に向かって言う土方。目を伏せて、そのとおりですと答えて爪を噛む沖田。いつの間にか小指を口の中に入れて、知らぬうちにかみ切っていた。)

(菊一文字で戸沢を斬ろうと決意した沖田。そうでもしなければ、日野に対する気持ちが収まりそうにはなかった。)

(沖田は毎日の様に観察部屋に行った。戸沢は私が斬ると観察方に念を押したが、山崎は笑って答えない。監察への指示は土方が出す事になっているからである。)

(沖田は直接密偵にまで情報を聞いた。すると利吉という密偵が、明日戸沢が大阪に下るという耳寄りな情報をもたらしてくれた。同行する人数までは判らない。)

Kiyosikoujin3

(その日の夜半、利吉を連れた沖田はそっと屯所を出た。やがて荒神口に至り、清荒神の鳥居脇にある茶店を叩き起こして湯漬けを食べた。そして体を休める為に半刻休んで外に出た。)

清荒神は、御所の東、丸太町通の一筋北にあり、護浄院とも呼ばれる天台宗の寺です。以前にも紹介した事があるのですが、今は門前に鳥居は無く、境内の清荒神を祀るお堂の前に石鳥居があります。明治以前には荒神社と呼ばれていたらしく、どちらかと言えば神社の性格が強かったのかも知れません。たぶん、門前にも鳥居があった事でしょう。

Koujinbasi1

(清荒神から東に行くと荒神橋がある。沖田は橋を渡った。そこからは白川村に向かって一筋の道が延びている。大阪に向かう戸沢は、必ずこの道を通るだろう。道の南側は一面の大根畑、北側は水田である。沖田は路傍に生えている松の根元の石に腰を下ろした。そして、利吉から笠と蓑を受け取って身につけた。腰に差しているのは菊一文字である。)

荒神橋は江戸期からありました。ここは京都と近江を繋ぐ山中越えの出入り口にあたり、京の七口の一つ数えられ、荒神口と呼ばれています。元は簡単な仮橋があり、本格的な橋が架けられたのは慶応3年と言われますから、まさにこの物語があった年という事になりますね。ただ、明治以後の架橋という説もありますから、このあたりは微妙です。

名前の由来は清荒神にあり、荒神口という地名も同様です。清荒神がこの地に移されたのは慶長5年の事で、それ以前は吉田口とも今道口とも呼ばれていました。地名を変えてしまうとは、清荒神に対する信仰は相当なものがあったという事なのでしょうね。

(陸援隊では戸沢が朝餉を摂っていた。隊士の一人が伏見まで送りましょうと申し出たが、戸沢は木屋町から伏見、伏見から大阪へと、すべて船の上ばかりという気楽な旅だ、見送る程の事もないと言って断った。戸沢の用事とは、大阪の土佐藩邸に入荷したゲベール銃30丁を受け取りに行くというものであった。)

(そこへ熟蝦夷先生が起きてきて、木屋町まで送ると言う。しかし、戸沢は無用と言って断ってしまう。)

(今ひとつ奇譚がある。戸沢は朝餉を食べながら、同行する三人を相手に日野斬りの自慢話をしていた。「真剣の剣術は技ではなく気のものだ、上段に構えて押しまくっていく、すると相手はいつの間にか死体になっている。」熱心に聞いている3人の背後から、熟蝦夷先生が「よした方が良い。」と冷や水を浴びせかけた。「剣には相手がある」と言って、陰気くさい咳をする。)

Sigakoe1

(路傍の沖田は、蓑に埋もれる様に眠っていた。今から命のやりとりをするとは思えない度胸の良さに、利吉は舌を巻く思いがした。やがて空が白み、道の向こうに五つの提灯が動いているのが見えた。旦那と言って利吉が沖田を起こす。物憂そうに目覚めた沖田は、蓑と笠を利吉に渡して帰れと命じた。そのとおりに西に向かって逃げ去る利吉。)

この場面の舞台は、山中越えが鴨川に達する少し手前という事になるのでしょうか。この道は今でも往時の道筋を残しており、如何にも古い道らしく、斜めに曲がりくねって続いています。今は京都大学のキャンパスで途絶えているのですが、地図を見れば山中越えの道が白川村から一直線に鴨川まで続いていたであろう事が推測されます。ただし、幕末には尾張徳川家の屋敷があって今と同じ状況になっていましたから、陸援隊本部から一筋に繋がっていたという事は無かったはずです。

(やがて提灯が目の前に来た。そこに戸沢鷲郎氏が居ますかと声を掛ける沖田。何者かと聞かれ、新選組の沖田総司ですと答えると、戸沢が踏み出してきた。そして大きく飛び込んで剣を抜こうとした。その剣がわずかに鞘を離れた時、戸沢の頭が割れて沖田の足下に前のめりに転がった。戸沢鷲郎、即死。)

(沖田は熟蝦夷先生の方に向かって、これで自分の用は済んだが、引き留めますかと聞いた。熟蝦夷先生は維新後に兵庫県の属になっていたから、この時手を出さなかったのは間違いない。)

(沖田が菊一文字を使ったのはこの時、一度だけだった。無論、刃こぼれ一つしていない。)

この日が何時なのか何も書かれてはいませんが、大根畑という描写がある事から晩秋から初冬にかけての事なのでしょう。

沖田が結核に罹っている事が明らかになるのは、慶応3年2月頃の事です。池田屋事件の時に既に倒れているのですが、周囲にはまだ黙っていたか、本人も確信を持っていなかったのかも知れません。その年の6月ごろには体の自由が利かなくなったと伝わるのですが、その一方で11月の初め頃まで剣術の稽古をしていたとも言い、病状は一進一退を続けていた様にも思われます。そして、11月12日付けの故郷に宛てた沖田の手紙には、病気のために近藤周斎の見舞いに帰る事が出来ないと記されており、この頃には本格的に寝付いていたのではないかと推測されています。12月に入ると永倉が一番組を二番組と共に指揮していた事が判り、完全に療養生活に入っていたものと思われます。

以上からすると、この場面は慶応3年10月頃、現在の暦で言えば11月頃ではないかと推測されます。

(沖田は千駄ヶ谷の植木屋で療養し、そこで死んだ。菊一文字は植木屋の平五郎が預かり、後に姉のお光に渡した。お光はその後立川に住み、菊一文字は神社に奉納したという。もし今でもあるとしたら、東京都下の神社なのかも知れない。)

菊一文字則宗が沖田の差料であったという説については、どうやらこの作品が原点になっている様です。子母澤寛氏がそれらしき事を書いているとネットにはあるのですが、それがどこなのか調べた限りでは判りません。どなたかご存じはないでしょうか。

何にしても、この小説のリアルさがもたらした罪と言うべきで、白河藩の下級藩士の遺児である沖田が、大名道具級の銘刀を持っていたなど有り得ない事でしょう。沖田の佩刀として文献上で確認出来るのは加州清光で、池田屋事件の時に使っていたと言われます。ただし、帽子が折れていたと記されているので、この後は別の刀を使っていた可能性はありますね。

それはともかくとして、作品としては見事な完成度で、「沖田総司の恋」と共に今の沖田像を確立したと言っても過言では無いでしょう。圧倒的な強さを持ちながら謙虚かつ控えめな性格で、目下にはあくまで優しく、さらにはどこか子供の様な純真さを持っている。そして、結核という病に冒されており、余命いくばくも無いという悲劇性も帯びている。まさに絵に描いた様な悲劇のヒーローですね。

何度か触れた様に、創作の中に史実と実在した地名や風景を織り交ぜ、あたかも現実の世界であったかの様に見せてしまう司馬遼太郎氏の手腕には、もはや脱帽するしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »