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2011.01.31

新選組血風録の風景 ~沖田総司の恋 その1~

Ikedaya0606291

平成23年4月3日からNHKBSプレミアムにおいて、新選組血風録が放送される事になりました。小説が15話の小編から構成されているのに対して12回の放送となっていますから全てではありませんが、新選組!以来の本格的なドラマですからとても楽しみにしています。

当ブログでは、以前に「虎徹」までの6話について小説と史実を照らし合わせた連載をした事がありますが、その後中断したままになっています。これから残りの9話全てを書くだけの余裕はありませんが、確実に放映されると思われる沖田関連についてはアップしておこうと思います。

そこで、まずは今日から4回に分けて「沖田総司の恋」を;連載して行きます。

(新選組血風録概要)

(元治元年3月、沖田が妙な咳をする事に気付いた土方は、労咳ではないかと心配して近藤に相談する。しかし、近藤は深刻には受け取らず、いずれ良い医者が居れば診せてみようと言っただけに止まる。)

(この頃、近藤31歳、土方30歳、沖田21歳であった。これに井上源三郎を加えた4人が天然理心流の相弟子だった。この4人はそれだけでなく、日野周辺の出身でありかつ互いに縁戚関係を持つ間柄であった。そして、4人ともがお互いに義兄弟のつもりで居た。)

(沖田総司は奥州白川藩浪人の父を持ち、本名を宗次郎と言ったが、幼い頃に両親を亡くしたため、家は姉の光が婿養子を取って継いでいた。沖田は初めは姉に養われていたが、9歳の時に近藤周斎の内弟子となって試衛館に住み込む様になった。剣の才能は一流で、今では近藤や土方でさえも及ばない程になっている。)

(近藤達が京都に上る事になった時、姉の光が二人に向かって頭を下げ、総司をよろしくお願いしますと頼み入った。近藤と土方は、実の弟と思って引き受けますと答えた。)

(近藤と土方は沖田に向かって、医者に診て貰えと何度か勧めた。しかし、沖田は取り合わずに居た。そのうちに時は流れ、労咳の件はうやむやになってしまった。)

・沖田の出自

「沖田の生年は1842年(天保13年)とも、1844年(天保15年)とも言われます。作品中では21歳とあるので1844年説を採っている様ですね。父は奥州白河藩浪人とされていますが、実際には総司が生まれた時には正規の藩士であり、その場所も白河藩下屋敷でした。ただし、母親については名前も生没年も判っていません。」

「父親が亡くなったのは1845年の事ですが、数え年で4歳(または2歳)だった総司では家督を継ぐのは無理と思われたのでしょうか、当時14歳であった姉の光が八王子同心の井上家から林太郎を婿養子に迎えて家を継いでいます。この井上家が源三郎の実家にあたる事から、井上-沖田の間には縁戚関係があったという事になりますね。」

「沖田が近藤周斎の内弟子になったのは1850年の事で、数え年で9歳(または7歳)の時でした。その後、1860年(安政7年)頃に義兄の林太郎が(故ありて)白河藩を離れて浪人したため、総司もまた白河浪人と称する様になったと思われます。」

「沖田が剣の才能に恵まれていた事は事実で、20歳(または18歳)の時に試衛館の塾頭に上り詰めている事でそれが判ります。近藤もまた沖田の才能を見込んでおり、後に故郷に送った手紙の中で、自分にもしもの事があれば、剣の流儀は沖田に継がせたいと思っていると認めています。」

(沖田の病状が悪化したのは、池田屋事件の夜だった。この日、近藤は沖田、長倉、藤堂、それに周平の4人を引き連れて多数が潜伏する池田屋に切り込んだ。このうち、周平は元より戦力にならず、藤堂もまた早くに手傷を負って離脱したため、戦力はわずかに3人だけであった。)

(沖田は一人で階下を受け持った。彼は三段と言われた突き技を駆使して奮闘し、多くの敵を倒した。激闘は2時間に及び、沖田は屋内から裏庭に飛び降りた時に悪寒を感じて夥しく喀血した。その背後から吉田稔麿が斬り付けてきた。吉田もまた重傷を負っており、最後の敵を求めている内に沖田と遭遇したのである。喀血をしながらもかろうじて吉田を倒した沖田であったが、力尽きてその場に昏倒してしまった。)

・沖田の発病

「沖田は結核のために亡くなった事で知られます。その発病の時期がいつかについては意見が分かれますが、池田屋事件の時に何らかの原因で倒れた事は確かな様です。永倉新八が記した浪士文久報国記事には、沖田は一人の浪士を切り倒した後、病気のために会所へ引き取ったとあり、同じく永倉が記した新撰組顛末記には、持病の肺病が再発して倒れたとあります。一般にはこの記述から池田屋において沖田が喀血して倒れたと考えられています。」

「その一方で、この事件からひと月後の蛤御門の変に沖田が出陣している事から、それほど深刻な様態ではなかったとし、池田屋で倒れたのは熱中症か何か別の要因だったのではないかとする説があります。この場合、1866年(慶応2年)に松本良順が新選組を集団検診した時に結核患者が1名居たという記録があり、これが沖田ではないかと考えられる事から、沖田の発病時期もこの頃ではないかとされています。」

「私的には、沖田が池田屋で倒れたのは、やはり結核のためだったと思っています。理由としては、結核というのは喀血が起こってからも症状に波があり、死に至るまでは結構時間が掛かるという事が挙げられます。その実例としては正岡子規の場合があり、彼は最初に血を吐いてから13年を生きているのです。その間、何度か回復と喀血を繰り返しており、沖田の場合と経過が似ているのですよ。結核に関しては幕末と明治とでは治療法に大差は無く、沖田が血を吐いてから4年間生きたとしても少しも不自然ではないと思われるのです。むしろ、発病してから2年で亡くなる方が短すぎるのではないかな。」

「また、蛤御門の変に関して言えば、やはり永倉は沖田は病気で引き込んでいたと浪士文久報国記事に記しています。一方、沖田が蛤御門の変の戦場に出ていたと記しているのは西村兼文ですが、彼は蛤御門の変の時には京都に居なかった事を思えば、誤った伝聞を残した可能性が高いと思われます。」

「なお、沖田が吉田稔麿を斬ったとするのは子母澤寛の新選組始末記ですが、当日誰が誰を斬ったかについては当事者である永倉ですら判っておらず、恐らくは子母澤氏による創作ではないかと思われます。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
「新選組銘々伝」・「新選組資料集」新人物往来社、「新選組始末記」子母澤寛、「新撰組顛末記」永倉新八、「新選組日記」・「新選組と沖田総司」木村幸比古

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