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2010.11.27

龍馬伝 龍馬を殺したのは誰か5

龍馬暗殺の直接の実行犯は見廻組であるという事については、ほぼ間違いはないと言えると思います。そして、その指令が見廻組の上層部から出されたと考える事も自然な流れと言えそうですね。

問題はその背後に何が隠されているかという事に絞られます。ここが幕末最大のミステリーと呼ばれる所以ですね。

まずは、これまで調べて来た幕府の公務執行であるとする説です。

繰り返しになりますが、龍馬は幕府転覆を狙う政治犯であると共に、伏見において捕吏を殺害した殺人犯でもありました。つまり幕府にしてみれば、龍馬を見つけ次第捕らえるのは当然の事であり、手に余れば殺しても良いという命令は何も龍馬に限った事ではなく、過激派に対しては以前から出されている特権でした。

公務の執行であったという傍証としては、菊屋峰吉が残した証言の中に井口家(近江屋)に伝わるという話があります。

事件当日、井口家の人々は階下に居たのですが、騒ぎが起きている最中に「佐々木見廻組頭の声で、この場合何か申し置く事があらば承ろうと言うのと、坂本さんの声で言い残す事は沢山にあるが、しかし汝等に言うべき事は毫もない、思う存分殺せ。と言う声が」聞こえて来たというのです。

これは全くの暗殺であれば無用の問答であり、捕縛に失敗したためやむなく斬り捨てたという形式を整える為に発した問い掛けではないかと思われます。まあ、感じとしては、いきなり斬り付けて致命傷を負わせた後で言っている様に思われますけどね。

まとめれば、近江屋事件は見廻組が上からの捕縛命令に従った公務の執行であった。しかし、実態は問答無用の暗殺と言って良く、幕府を転覆させた龍馬に対する恨みが込められた斬り込みであった。最後に形式を整える為に、龍馬の言い分を聞き置く形を取った、という事になるでしょうか。

次にポピュラーなのが、薩摩藩陰謀説です。薩摩藩が黒幕という説は実は事件直後からあり、「坂本を害し候も薩人なるべく候事」(改訂肥後藩国事資料・巻七)という噂が京都市中に流れていたそうです。

薩摩藩が龍馬を狙う理由は、薩摩があくまで武力討幕を狙っていたのに対し、龍馬は慶喜公の大政奉還の功を大とし、新政権においても慶喜公を政権の首座に据えようとしていた事にありました。かつては、龍馬と薩摩藩は歩調を共にしていた仲ではあったのですが、海援隊結成以後龍馬は土佐藩に大きく傾き、薩摩藩とは必ずしも利害が一致しない様になっていたのですね。龍馬には薩長同盟という大功があり、薩摩藩としては無碍にする事も出来ない、しかし、このまま活躍されては有害となるばかりという判断が働いたのだとされます。

この薩摩藩陰謀説を裏付ける証拠は種々存在します。

まず、龍馬暗殺の実行犯の一人である今井信郎の処遇が揚げられます。

彼は戊申戦争を函館まで戦い抜き、そこで捕虜となって取り調べを受けたのですが、その中で龍馬暗殺に関わった事を自白しています。そして、裁判の結果、龍馬暗殺に関わった事及び戊辰戦争において新政府に刃向かった事を罪に問われて禁固に処せられています。

ところが、本当は斬罪に処せられるべきところを助けた人物が居るというのですね。その人物こそが西郷隆盛でした。西郷と今井の間には表向き直接の関わりは見いだせず、それをあえて助けたのは龍馬暗殺の裏側に西郷が居たからではないかという疑惑が生じる事になるのです。

今井が西郷に恩義を感じていた事は確かで、後の西南戦争の時に彼は一隊を組織して九州に駆けつけようとしました。表向きは西郷討伐の為でしたが、本心は九州に着いたら西郷軍に寝返るつもりだったと息子に語り残しているのです。結果としては、九州に赴く前に西郷軍が壊滅してしまった為に不発に終わったのですが、今井をしてそこまでさせる関係があった事は確かですね。

次に、鳥取藩慶応丁卯筆記という資料に、龍馬を斬った犯人は宮川の徒かも知れないという記述があり、ここから薩摩藩が関与していると説く説があります。

この宮川とは、三条制札事件を起こした土佐藩士宮川助五郎の事と考えられ、彼自身は新選組に捕らえられたのですが、その仲間の多くは薩摩藩邸に逃げ込んで匿われていました。

この仲間達はその後十津川に移されており、事件当日に犯人が十津川郷士であるという名刺を差し出した話と符合します。つまり、この日中岡が龍馬に会いに行ったのは宮川が釈放されるのに際して、その身柄を陸援隊で引き受けても良いのかという相談をするためでした。そこに、十津川に居る仲間から連絡があっても不自然ではなく、籐吉が何の疑いもなしに犯人を通したのも頷けるというものですね。この場合、宮川の仲間というのは土佐人であり、薩摩藩の意向を受けた土佐人が同士討ちをしたという事になります。

ただ、この説は根拠が希薄であり、飛躍し過ぎているきらいがありますね。

薩摩藩陰謀説の有力な証拠とされるものに、佐々木多門の書状が挙げられます。佐々木多門とは海援隊士の一人であり、彼が松平主税の家来である岡又蔵という人物に宛てた手紙が現存しているのですが、そこには、

「才谷殺害人姓名迄相判リ、是ニ付テ薩摩ノ処置等、種々愉快ノ義コレアリ。」

と記されているのですね。

これをどう読むかですが、薩摩藩陰謀説に立てば、「龍馬暗殺の犯人はその氏名まで判った。この事件について薩摩が取った行動については色々と面白い事実がある。」となり、薩摩藩が関与している証拠を握ったという意味に取れます。残念ながら具体的な内容については触れられておらず、誰が何をしたのかまでは判りません。

この文書が公開されたのは平成4年の事で、当時は薩摩藩陰謀説の決め手とまでに言われました。

ところがその一方で、この文書を「龍馬暗殺の犯人の氏名は判った。この犯人解明にあたって薩摩藩が執った処置など、色々と愉快な事がある。」と正反対に読み取る説も出てきました。

具体的には、現場に残されていた刀の鞘について、薩摩藩が伏見藩邸に匿っていた御陵衛士達が新選組の原田佐之助のものだという証言を得たという事実を指すのではないかというのです。つまり「薩摩の処置」とは、元新選組の御陵衛士達を使って証拠を掴んだという意味だと言うのですね。

どちらかと言うと後者の方が有力な様な気がしますが、まだ結論を決めるには早すぎる様ですね。

薩摩藩陰謀説の根拠として、大久保利通が岩倉具視に宛てた手紙の一節を掲げる説もあります。

慶応3年11月18日付けで書かれた手紙の中で、大久保は「石川(中岡)が死んだ事は実に嘆かわしい」と記しているのですが、龍馬には一言も触れていないと言うのですね。つまり、主戦派だった中岡を死なせてしまったのは(自分たちの落ち度でもあり)残念極まりないと嘆くのですが、岩倉と共謀して暗殺した龍馬については触れる必要が無かったのだという説です。

大久保=冷血漢という前提に立った様な説ですが、これは強引に過ぎる説だと思われます。つまり龍馬が亡くなったのは15日夜の事で、中岡が死んだのはその2日後の事でした。大久保が18日の手紙に龍馬の名を出ずに中岡の事だけを書いたのは、龍馬の死は既成事実として今更書く必要がなかったのに対し、中岡はこの前日までは生きており、その死は新しいニュースだったからだと解釈出来ます。

大久保は別の岩倉宛の書簡で龍馬を暴殺したのは新選組であるらしい、いよいよ彼らは自滅を始めたのだと記しており、龍馬暗殺の犯人を憎んでいる事が伺えます。また、岩倉が大久保のに宛てた書簡には、龍馬と中岡が殺された事は、遺憾切歯の至りである、なんとか真っ先に復仇したいものだと記されており、大久保=岩倉ラインの犯行と見るのはちょっと無理が有りそうですね。

他には、大久保に要請された高台寺党の犯行とする説もありますが、この党に元薩摩藩士の富山弥平衛が居た事、そして龍馬襲撃の直前に伊藤甲子太郎が近江屋を訪れている事程度しか根拠が無く、かなり無理があると思われます。

薩摩藩ではなく土佐藩が黒幕であるとする説もあります。

これも古くからあって、龍馬と共に大政奉還を実現させた後藤象二郎が、その功を独り占めしようとして龍馬暗殺を企んだと言うのですね。この説には岩崎弥太郎も絡んでいて、暗殺の前後弥太郎は大阪に居たとされるのですが、その日記には何も記されていないのです。彼が事件の事を聞いたのは翌日の16日の事で、場所は大阪だったとされるのですが、その事も書かれていないのですね。

そして事件の直後、後藤は藩の執政に昇任し、弥太郎は土佐商会の主任の残留が決まったばかりではなく、新留守居組という上士格に取り立てられているのです。11月18日の弥太郎の日記には躍り上がって喜んだと記されており、龍馬暗殺の悲しみは微塵も感じられないのですね。龍馬の死と共に飛躍した後藤と弥太郎に疑惑の目が向けられてもおかしくは無いでしょう。

ただ、この説も動機という点で疑問が残ります。たとえ龍馬を殺したとしても、大政奉還の裏には龍馬が居たという事は大勢の人が知っており、後藤にとっては大したメリットはありませんでした。弥太郎にしても、龍馬を殺してまで乗っ取る程の魅力は、海援隊には無かったでしょうしね。

この説を補強するものとして、藩そのものが龍馬を消そうとしたのだとする説もあります。つまり、脱藩を繰り返しながら何の罰を受けることなく自由に振る舞う龍馬を忌々しく思う勢力があり、龍馬が藩邸に入れなかったのもこの勢力があったからだとされます。また、いろは丸の賠償金を巡って藩と海援隊の間で軋轢があり、この点でも龍馬は憎まれていたと言います。この様な藩内の反龍馬勢力が後藤と結び、龍馬暗殺を謀ったのだと言うのですね。そこには、もしかしたら弥太郎も何らかの働きをしたのかも知れません。

この説も推論としては面白く、かつ状況証拠としても頷けるところがあるのですが、如何せん論拠が希薄ですね。龍馬伝はもしかしたらこの説を採るのかという気もしますが、果たしてどうなるのでしょうか。

この他に、紀州藩陰謀説もあります。いろは丸事件で煮え湯を飲まされた紀州藩が、幕府に働きかけて龍馬を暗殺したと言うのですね。海援隊ではこの説を信じて、天満屋事件を起こすに至ります。ただ、これも状況証拠だけですね。

以上が龍馬暗殺の黒幕説の主なものですが、通説とされるのは幕府が主体的に動いたとされる説ですね。でも、どの説も面白く、推論の材料には事欠かないので、素人でも楽しむ事が出来ます。今でも新説が唱えられる事があり、まだまだ論争は続いていきそうですね。

参考文献)「坂本龍馬」 「幕末・京大阪 歴史の旅」 松浦 玲、「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古、「完全検証 龍馬暗殺」神人物往来社刊、 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

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