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2010.11.20

龍馬伝 龍馬を殺したのは誰か4

龍馬を襲ったのは見廻組でしたが、当日直接の指揮を執った者は与頭の佐々木只三郎でした。

只三郎は、天保4年(1833年)に会津藩の佐々木家の三男として生まれています。長じて旗本である佐々木家に養子に入り、幕臣となりました。剣術は神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を勤めた事もある程の腕前です。特に小太刀の名手として知られていた様ですね。

只三郎が幕末の風雲の中に出てきたのは、文久3年に浪士組が結成された時でした。只三郎は取締並出役として浪士組と共に上洛し、その監督に当たっています。京都においては、清河八郎に反発して残留を決めた近藤勇達と会津藩の仲立ちをしたとされており、新選組の結成にも一役買った事になりますね。

只三郎は浪士組が横浜警護を命じられると一行と共に江戸に帰ったのですが、その直後に清河を暗殺しています。これは清河が浪士組を操ろうと画策し、幕府を裏切った事が原因でした。

翌元治元年からは、京都見廻組の与頭として都の治安維持に当たる事になります。見廻組は新選組の様な派手な活躍こそありませんが、京洛の地における佐幕派の雄として重きをなしました。この佐幕一途の只三郎から見れば、大政奉還を実現させた龍馬は幕府に仇なす大悪人と映った事でしょうね。

この只三郎が龍馬暗殺における実行犯の一人であると示す資料は二つあります。その一つが実兄にあたる手代木直右衛門の伝記「佐々木直右衛門伝」です。

直右衛門は会津藩公用方という重役であり、見廻組を預かる只三郎とは常に連携して事に当たっていた様ですね。「佐々木直右衛門伝」は子孫の方が大正12年に刊行した私家版の伝記で、そこには死の数日前に直右衛門が語り残したとされる龍馬暗殺の経緯が記されています。

まずはその動機ですが、龍馬は薩長同盟を締結させた張本人であり、さらには土佐藩の藩論を討幕に転換させた人物として、幕府から深く嫌忌されていたからとしています。龍馬が「新政府綱領八策」において慶喜公を新政権の中枢に据えようとしていた事など、一顧だにされていないのですね。

次に、この命令を下したのは京都所司代である桑名侯・松平定敬だったと明記されています。当時はまだ旧幕府が行政府としての機能を有していましたからこれは公務の執行という事になるのですが、土佐藩との軋轢を考慮したのか当時も公表はされていません。そして王政復古以後は、桑名侯は会津藩主松平容保侯の実弟にあたるため、その家臣たる直右衛門は主に累が及ぶ事を恐れて明るみには出さなかったとの事でした。

思うに、捕縛を命じていながらその一方では手に余った時は斬り捨てて良いと認めており、実際にはほとんど問答無用で斬り付けている事から、事実上は暗殺指令だったのでしょう。龍馬が全くの浪人身分であった頃ならともかく、この時点では藩士としての復帰が認められているのですから、これを表沙汰にするのは憚られたのでしょうね。

増してや、龍馬の様に直接の容疑(伏見で捕吏を射殺したという罪)が無い中岡や籐吉を巻き添えにしているのですから、たとえ公務だと言い張っても落ち度がある事は否めません。当時の幕府が置かれていた微妙な立場からすれば、全てを闇に葬り去るのが得策と考えられたのでしょう。これがもし幕府の全盛期に起きた事件だとしたら、土佐藩取りつぶしの口実として大いに喧伝されていた事でしょうね。

次の資料として、只三郎の子孫が高橋一雄という人に依頼してとりまとめた「佐々木只三郎伝」があります。この伝記は維新史研究所の調査資料を元に編まれたものとされ、具体性に富んだ充実した内容となっています。

以下、箇条書きに要点を掲げます。

・龍馬を襲ったのは某諸侯の命に拠ると、実兄の手代木直右衛門が死の数日前に語り残している。この諸侯とは会津藩主松平容保の事を指し、主君に累が及ぶ事を懸念した直右衛門がずっと秘匿していた。

・龍馬が潜んでいた近江屋は、元治以来土佐藩の御用達を務めていた関係で龍馬を預かった。また、当主の新助は義侠心に富んだ人物であり、龍馬のために土蔵を改造して隠れ家とし、食事もここに運んで外からは一切その所在が判らない様にしてあった。また、万が一の時には裏の誓願寺に逃げられる様に梯子も用意されていた。

・龍馬は襲撃のあった日の前日から風邪気味で熱があったため、何かと不便な土蔵を出て、母屋の二階奥八畳の間に移っていた。

・当日襲撃を行ったのは、只三郎のほか渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大蔵、今井信郎の7人である。

・午後2時頃一度近江屋を訪ねたが留守であったため、先斗町の瓢屋に引き上げた。この瓢屋と近江屋の間に見張りを置き、リレー式に連絡が伝わる様に手当てした。

・夕方6時頃に一人の武士が近江屋に入っていった。次いで7時頃には15、6の少年、暫くしてからもう一人の武士が近江屋に入ったとの知らせがあった。いずれも出て来る気配が無いので、いよいよ在宅しているとの確信を得た。

・只三郎達は瓢亭を出て近江屋の近くで待機した。午後8時半頃、少年と武士が連れ立って出て行ったのを確認した。

・只三郎は近江屋に行き、応対に現れた下僕に「十津川郷士である、坂本先生が在宿なら御意を得たい」と言って名刺を差し出した。下僕は怪しむことなく、名刺を持って二階に上がっていった。

・その隙に渡辺、高橋、桂の三人が屋内に入り、下僕の後を静かに付けて二階へと上がっていった。そして、下僕が名刺を渡して部屋から出てきたところを、一人が出会い頭に切り倒した。この時龍馬は「ほたえな!」と叫んでいる。

・残る二人は座敷に飛び込み、咄嗟の内に龍馬と慎太郎の二人を倒してしまった。この時、誰が下僕を斬り、誰が龍馬と慎太郎を斬ったのかは良く判らない。

・斬り込まれた時、龍馬と慎太郎は行灯を挟んで対座していた。一人は龍馬の前頭部を斬り付け、もう一人は慎太郎の後頭部を斬った。

・龍馬は佩刀を後ろの床の間に置いてあったので、これを取ろうとして後ろ向きになった。そこを右の肩から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。それでも龍馬は刀を手にして立ち上がった。

・そこに三の太刀が襲い掛かった。龍馬は刀を抜く暇もないままに、鞘ごとその太刀を受けようとした。しかし、部屋の天井が低く傾斜していたため、鞘の鏢が天井を突き破ってしまった。敵の刀は鞘ごと龍馬の刀身を三寸ばかり斜めに削り取り、前頭部を鉢巻きなりに薙ぎ払った。龍馬は「石川刀はないか、刀はないか」と叫びながら昏倒してしまった。

・慎太郎は短刀を持って立ち向かったが、これも鞘を払う暇が無い程に斬り立てられ、めった斬りにされた。特に右腕は皮一枚でやっと繋がっているほどであった。

・敵は失神して倒れた慎太郎の臀部を二太刀斬り付けたが、慎太郎が死んだ様子だったので、もう良い、もう良いと言って立ち去った。

・この間、只三郎は階段の上がり口を警戒し、他の三人は近江屋の店の者が騒ぐのを取り押さえていた。そして、襲撃組の三人が下に降りてきたので、そのまま連れだって店の外に出た。

龍馬襲撃関連の部分は以上ですが、現在知られている襲撃時の経過はほぼ網羅されており、諸資料をベースにまとめ上げられたものだと推測されます。そして、数ある小説やドラマのシナリオは、この佐々木伝を元にして書かれている事が判りますね。

補足すれば、午後6時頃に訪れた武士が中岡慎太郎でした。彼は奉行所から釈放される宮川助五郎の引き取りについて龍馬と相談するために訪れたと言われます。

次に7時頃に訪れた少年は菊屋の峰吉、ほぼ同時刻に訪れた武士は岡本健三郎です。峰吉が近江屋を出たのは龍馬から軍鶏を買ってきてくれと頼まれたからで、岡本は他に所用があったため峰吉が外に出るのをきっかけとして席を立ったのでした。

また、午後2時頃に龍馬が留守であったというのは、近所に住む福岡孝弟を訪ねていたためではないかと思われます。

辻つまが合わない点としては後二人の訪問者が欠けている事が揚げられます。この夜には海援隊士の宮地彦三郎と板倉槐堂が近江屋を訪れているはずなのですが、佐々木伝の記述には含まれていません。ここまで詳しい記述なのに、奇妙と言えば奇妙ですね。

そして、「手代木直右衛門伝」と大きく異なるのは、指示を下した人物が桑名侯ではなく会津侯であるとしている点です。見廻組の上位に居るのは京都守護職であるはずですから、会津侯とする佐々木伝の方がより自然に思えます。直右衛門が容保侯を庇っていたのは自身が語っているとおりですが、少しでも累が及ぶのを防ぐ為に桑名侯の名を出したものなのでしょうか。

なお、見廻組に指示を出した人物としては、当時見廻役(京都守護職の下に位置し、見廻組を統括する役職。)であった小笠原弥八郎がまず疑われました。彼は明治3年に今井信郎の供述に基づき取り調べを受けていますが、自分は無関係であると証言し、これが認められています。

次いで、当時目付であった榎本対馬守も名前が挙がっている一人です。これは勝海舟がその日記に記している人物で、大阪町奉行を務めていた松平勘太郎がそう推測しているとあります。ただ、この人物に関してはこの日記に記されているだけで、見廻組とどういう関係があったのかなど詳しい事は判っていません。大阪町奉行であった人物がそう言う以上、なんらかの根拠があったかも知れないだけに、もう少し詳しく書いておいてくれればと、ちょっと惜しい気もしますね。

参考文献)「坂本龍馬」 「幕末・京大阪 歴史の旅」 松浦 玲、「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古、「完全検証 龍馬暗殺」神人物往来社刊 

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