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2010.11.13

龍馬伝 龍馬を殺したのは誰か3

もう一人、龍馬暗殺について語り残しているのが渡辺篤です。この人は天保14年(1843年)に京都二条城御門番組与力・渡辺時之進の長男として生まれました。龍馬暗殺の時には24歳という事になりますね。剣術は西岡是心流(大和郡山の人、西岡是心を開祖とする流派。京都所司代においてはこの流派を修める人が多かったと言います。)の免許皆伝者で、家茂公の御前試合のにおいて丁銀5枚を下賜されたという経歴を持ちます。見廻組に入ったのは慶応3年3月の事ですが、龍馬を暗殺した時には一時的に新遊撃隊に所属していた様です。

ややこしいのは、今井の証言に出て来る渡辺吉太郎とは別人らしいという事で、吉太郎は江戸出身である事(桑名藩とも)、篤の通称は一郎であった事などからそれが判ります。なぜ証言と食い違うのかは謎なのですが、今井の回顧談では、もう一人居たが差し障りがあるので名前は明かせないと言っている人物が居り、これが篤の事ではないかとも言われています。

渡辺はその履歴書において龍馬暗殺に関わった事を記しており、それを要約すると次の様になります。

1.龍馬を襲撃したのは佐々木の命に従ったものであるが、龍馬が徳川幕府を覆そうとしており、その累が他に及ぼうとしたからである。
2.襲撃したのは佐々木頭取と自分、それに今井ほか3名である。(履歴書の原本とされる巻子では計7名。)
3.黄昏時より龍馬の旅宿に踏み込んだところ、5,6名の慷慨の氏が居た。
4.正面に座っていたのが龍馬でまずこれを斬り、横に居た両名をたちまちの内に倒してしまった。従僕も同様に斬ったが、一人13、4歳の給仕が机の中に頭を突っこんで隠れていたのは、子供ゆえに見逃してやった。
5.刀の鞘を忘れたのは世羅敏郎という武芸の劣った人物だった。
6.世羅は普段の鍛錬が足りないものだから、襲撃が終わった後は息も絶え絶えで歩く事も出来ない有様であり、自分がその腕を抱えてやり、抜き身の刀は自分の袴に隠して歩いた。
7.引き上げる時に四条通を通ったが、丁度ええじゃないかの群衆が来たのでこれに紛れて行った。
8.引き上げた場所は佐々木頭取の下宿であった松林寺である。ここで一同は祝杯を上げてから、三々五々帰宅した。
9.翌日、新選組の近藤勇が佐々木頭取に会った時に、その労をねぎらってくれた。しかし、世間では新選組の仕事だったと噂しており、功を奪われた様で悔しい思いをした。
10.龍馬を討ち果たすにあたっては、小者の增次郎という者を使った。以前から増次郎には龍馬の周辺を探らせていたが、当日は自分たちは先斗町の料亭で待機する一方、増次郎は乞食に化けて近江屋の軒下に潜んでいた。そして龍馬が帰宅した事を確かめたと自分たちの下に知らせて来たので決行に及んだ。
11.龍馬を討ち果たした功により、月々15人扶持を貰える事になった。

渡辺が書き残した資料は「渡辺家由緒暦代系図履暦書」というもので、明治44年8月19日に書き上げられました。この履歴書には短い原本があり、そちらは明治13年6月25日に認められたものです。

渡辺の履歴書は非常に具体性に富んでおり、前後の情景も良く判るのですが、反面事実誤認(4名を殺害し、1人は見逃してやったなど)が含まれる事からその信憑性を問う意見があります。また、書かれた時期が事件から44年も経過した後であり、先に発表された今井の回顧談の影響も見られるという意見もありますね。さらには、これは今井などから聞いた事であり、渡辺自身は参加していなかったのではないかという見方もあるようです。

一種の売名行為という声もある程ですが、この資料をどう扱うかについては、未だに結論は出ていない様ですね。

龍馬を直接斬った人物としては、桂早之助の名が挙げられます。桂は天保12年(1841年)に京都所司代同心の子として生まれています。龍馬暗殺の際には26歳という事になりますね。渡辺と同じく西岡是心流の使い手で、17歳の時に目録を得ています。特に小太刀の名手として知られ、その腕を買われて京都文武場の剣術指南役心得に命じられました。

所司代の役人としても活躍しており、8・18の政変の時には境町御門の警備に出動して白銀3枚を受けています。また、池田屋事件の際には不逞浪士の捕縛に従事し、報奨金として5両を受け取りました。さらには、家茂公の御前試合で活躍し、白銀5枚を賜っています。世が世なら、非常に優秀な人材として評価されていた事でしょうね。

見廻組にはその優秀さを買われて推挙されて入ったものらしく、龍馬襲撃のメンバーに選ばれたのもその腕を見込まれての事だったようです。

京都の霊山歴史館には、桂が龍馬暗殺時に使用したとされる脇差が展示されています。子孫の方から寄贈されたものだそうで、刃渡り42.1㎝というかなり短いものです。室内での戦闘を想定し、小太刀の名手と言われた桂が特に指名されたとされますが、なるほどとうなずける気がしますね。

全体に錆が入っておりあまり利器という感じはしないのですが、ちゃんと研げば凄い切れ味だったのでしょう。刀身には無数の傷が残っており、龍馬と切り結んだ時のものとされています。この刀は何度となく目にしていますが、その都度に凄惨な情景が目に浮かぶ様で、つい見入ってしまいますね。

桂はその後に起こった鳥羽伏見の戦いで戦死しており、今井や渡辺の様に語り残したものはありません。しかし、その経歴から見ると幕府側の俊英と言うべき存在であった事が窺われ、中岡が敵ながら武辺の者と賞賛したのは彼の事だったのでしょう。今では龍馬を斬った暗殺者としての評価しかありませんが、歴史の闇に埋もれてしまった一人ではないかという気がします。

(参考文献)「坂本龍馬」 「幕末・京大阪 歴史の旅」 松浦 玲、「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古、「完全検証 龍馬暗殺」神人物往来社刊 

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