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2010.10.30

龍馬伝 龍馬を殺したのは誰か1

(10月16日にアップした近江屋事件の続きです。)

龍馬暗殺前夜の状況を整理しておくと、次の様になります。

まず、徳川第15第将軍慶喜による大政奉還が慶応3年10月13日に表明され、14日に朝廷に奏上し、15日に勅許を受けています。さらに続けて征夷大将軍としての辞表を10月24日に提出しているのですが、これは受理されずに保留となりました。つまり、新しい政体が出来るまでは従前どおり幕府が政治を行うという態勢が続くのです。

新しい政体を決めるのは広く人材を集めた「議政所」となるはずでしたが、当面は大名達を招集してこれに代え、何度も会議が開催されました。そして、その間に様々な駆け引きが行われていきます。

まず、大政奉還の仕掛け人となった龍馬は「新政府綱領八策」を策定し、「議政所」の実現に向けて動き始めます。その新政府綱領八策は前回にも掲げていますが、再度掲載します。

新政府綱領八策
 第一義
    天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ。
 第二義
    有材ノ諸侯ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク。
 第三義
    外国ノ交際ヲ議定ス。
 第四義
    律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム。律令既ニ定レバ、諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス。
 第五義
    上下義政所。
 第六義
    海陸軍局。
 第七義
    親兵。
 第八義
    皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス。

 右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。〇〇〇自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼公議ニ違ウ者ハ、断然征討ス。権門貴族モ賃借スル事ナシ。

    慶応丁卯十一月             坂本直柔

これは龍馬が自筆したものであり、2通が現存しています。おそらくは何通も作成されて各方面に配布され、新体制に向けての叩き台としたのではないかと推測されています。

ここで注目されるのが「〇〇〇自ラ盟主ト為リ」の部分で、ここに誰が入るのかが謎とされています。最も有力とされるのが慶喜公で、龍馬は慶喜が大政奉還という「大功」を樹てた事を大きく評価しており、新しい時代においても慶喜公が盟主となって日本を率いて行くべきだと考えていたと言われます。

別の意見では、四賢侯の一人でかつ龍馬の(元)主君である容堂候とする説、同じく四賢侯の一人であり、大政奉還建白に同意してくれた島津久光侯とする説がありますね。もっとも穿った説としては、この八策を受け取った側がそれぞれ都合の良い名を入れて、その上で話し合えばよいと考えていたとも言われます。叩き台としては、この最後の説が一番しっくりと来る気がしますね。

次に薩摩藩の動きですが、これがまことに複雑怪奇な事をしています。この年の5月には兵庫開港問題で幕府を追い込み倒幕を実現しようと目論で四賢侯会議を招集しましたが、慶喜の反撃に遭って失敗に終わった事で、薩摩藩の方針は武力倒幕へと傾きました。そして、この方針は長州藩にも伝えられ、薩長による討幕路線が固まったかに見えました。

ところが6月に土佐藩に働きかけられると薩土盟約を結び、大政奉還路線に転換します。これには大政奉還路線を推進するが、これを幕府が拒否した場合はそれを口実に討幕の兵を挙げるという含みがありました。そして、その約束の担保として土佐藩が京都に兵を送る事になっていたのですが、容堂候がこれを認めませんでした。このため薩摩藩は方針を再び討幕路線に戻して長州藩及び芸州藩と結盟し、薩土盟約を破棄してしまいます。

これに対して土佐藩の後藤象二郎が諦めずに粘り強く交渉を重ねた結果、薩摩藩は土佐藩が大政奉還の建白書を提出する事に同意を与えました。そして10月13日に慶喜によって大政奉還の意思が示された時には、二条城に登城していた家老の小松帯刀が賛意を示したばかりでなく、その翌日には朝廷に対して速やかに大政奉還を勅許する様に求め、さらに幕府に対して大政奉還後の策を言上しています。

これだけを見ればあたかも後藤の策に乗って大政奉還路線を推進したかの様に見えるのですが、その裏では朝廷に働きかけて討幕の密勅が下りる様に策動しており、10月14日付けで受け取る事に成功しています。結果的に同日付けで慶喜が大政奉還を奏上した事で効力を失いましたが、その密勅を受け取ったのが他ならぬ小松帯刀その人でした。いったいその真意がどこにあったのか、後世から見てもまるで判りませんね。ましてや龍馬には、この裏の動きは全く見えていなかった様です。

龍馬暗殺の直前には、武力討幕のための兵力三千が薩摩を発ち上洛の途上にありました。これに呼応する様に、長州藩もまた兵を京都に送るべく動き始めていたのです。

そして、幕府方はと言うと、慶喜とその側近達は大政奉還後も徳川家が政治の中心にあり、今後も主導権を握り続けられると自信を持っていました。しかし、多くの幕臣達は慶喜の深謀遠慮を理解する事が出来ずにおり、大政奉還に反対し、かつそれを推進した土佐藩に対して怨嗟の声を挙げていました。龍馬の署名入りの新政府綱領八策はこういう時期に配布されたものであり、大政奉還の立役者が龍馬であった事が知れ渡ったと思われます。そしてその策の中で新しい政体に反対する者は断然征討すると言われては、幕臣達の恨みは龍馬に集中した事でしょう。龍馬の真意が徳川家を救う事にあったとしても、ですね。

この様な状況の中で龍馬は暗殺されてしまいました。まさに、誰から狙われてもおかしくないという状態ですね。

以下、長くなったので土曜日ごとに更新して行きます。

(参考文献)「坂本龍馬」 「幕末・京大阪 歴史の旅」 松浦 玲、「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古、「完全検証 龍馬暗殺」神人物往来社刊 

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コメント

なおくんの解説を読んで龍馬伝を見るとおもしろいですσ(^o^)

投稿: Milk | 2010.10.31 14:30

Milkさん、

長々とした文章を読んで下さり、ありがとうございます。
ドラマに合わせて書いているとその展開に引きずられてしまうので、
あえて先に書く事にしました。
ネタバレになるかも知れませんが、
全部で4回になる予定ですので、続きも読んで頂ければ有り難いです。

投稿: なおくん | 2010.11.01 00:18

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