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2010.10.03

龍馬伝40 ~清風亭の対決~

「長崎、小曽根邸。庭で瓜を標的にピストルの稽古をするお龍。戦に連れて行ってくれたらきっと役に立つのにと悔しがる彼女。龍馬達が戦に勝ったのは良いが、これまでの様には白昼堂々とは歩けなくなるのではと心配する乾堂。龍馬は私が守るとさらに稽古に励むお龍。そこに帰ってきた龍馬。喜んで飛びつくお龍。」

お龍がピストルの稽古をしていた事は、彼女の回想記に出てきます。彼女たちが薩摩に向かう時に、海に浮かべた徳利を狙って、龍馬、お龍、西郷吉之助、新宮馬之助などが腕を競ったと「続反魂香」に記されています。この時、馬之助とお龍が酒を賭けての腕比べとなったのですがお龍の3連勝に終わったとありますから、その腕前は相当なものだった事が伺えます。

「亀山社中に戻ってきた同志達。彼らは自分たちの本部が酷く荒らされている事に気が付きます。どうやら、社中が長州に加担した事に対する嫌がらせの様でした。」

「長崎奉行所。龍馬の捜索を命ずる奉行。彼はお元に対しても龍馬は既に重罪人であると言って、探す様に命じます。」

「小曽根家。英四郎が奉行所によって社中が荒らされた事を伝えに来ます。困った事になったという龍馬に、社中ごとこの屋敷の裏の離れに移ってはどうかと申し出る乾堂。乾堂の覚悟を聞き、喜んで受ける龍馬。」

「大阪城。15代将軍の座に着いた慶喜公。彼はフランス公使ロッシュに対し、幕府軍をより強大な軍隊に変えて長州を撃ち、この国を治めるのは徳川家であると朝廷に認めさせるのだと、さらなる協力を要請します。」

「長州、下関。結核が悪化し、療養を余儀なくされている晋作。見舞いの品としてスッポンを持って来た準一郎。ありがたく頂くおうの。江戸に攻め上る前に、まずは京を攻めるという準一郎に、龍馬が言った大政奉還論を持ち出す晋作。龍馬は夢を語っていると拒絶する準一郎。血を吐きながら、戦は、戦はと言い募る晋作。」

「土佐、高知城。慶喜公がフランスに更なる援助を要請したという報告を聞きながらも、もう昔の様な勢威は取り戻せないだろうと見通しを語る容堂候。かれはそろそろ潮が満ちてきた様だと独りごちます。」

「長崎、土佐商会。容堂候の命を受けてやってきた象二郎。彼は80万両を工面せよと弥太郎に命じた様子です。とてもそんな大金は出来ないと抗弁する弥太郎。何か手だてはないかと弥太郎を責める象二郎。商人達が龍馬を通せと言っていた事を思い出す弥太郎。彼は龍馬の名を出しかけますが、3年掛けて何とかすると誤魔化します。3年も待てるかと怒鳴る象二郎。そこに容堂候からの手紙が届きます。そこには密かに薩長に近づけと記されていました。」

「お慶と乾堂を土佐商会に呼んだ象二郎。彼は二人に薩長への橋渡しをする様に命じますが、幕府の地である長崎ではとても出来ない相談だと断る乾堂達。お慶達はなぜ薩長の双方に顔の利く龍馬を使わないのかと言い出しますが、象二郎の機嫌を損ねる事を恐れた弥太郎が彼らを遮ります。龍馬とのいきさつを思い出しつつ、懸命に感情を押し殺す象二郎。」

「お慶達が帰った後、弥太郎に龍馬を探す様に命じる象二郎。龍馬を殺すつもりかと問う弥太郎に、奴が使える男か、ただ目障りなだけかを確かめるのだと答える象二郎。」

「グラバー、お慶、乾堂に龍馬の居所を聞いて回る弥太郎。しかし、彼らは等しく居場所を知らないと答えます。小曽根邸の奥で、弥太郎が騒ぐ様子を聞いている龍馬。」

「引田屋。お元を呼んで憂さを晴らす弥太郎。見つからなかったと本当の事を言えば良いではないかと言うお元に、それでは象二郎が納得しないと苛つく弥太郎。妙にテンションの高いお元をいぶかる弥太郎。徳川が戦で負けた、世の中がひっくり返るかも知れないと笑うお元。彼女は問われるままに身の上を語り、龍馬なら悪い国にはしないはずと希望を見せます。龍馬を買いかぶるなと弥太郎が叫んだ時、当の龍馬が顔を出しました。あまりのタイミングに驚く弥太郎。」

「弥太郎の出世を祝う龍馬。彼は象二郎に会っても良いと告げに来たのでした。土佐の参政と顔を付き合わして話しがしたいと言う龍馬に、馬鹿な事を言うな、薩長と橋渡しさえして呉れれば良いのだと諭す弥太郎。そんな忠告を無視して、場所と時間を決めろと迫る龍馬。」

「小曽根邸の離れ。窓から帰ってきた龍馬を見て驚く同志達。彼は象二郎が会いたがっている事を皆に告げ、それを受けるつもりだと話します。敵と会うつもりかと問い詰める同志に、象二郎は薩長と近づきたがっている、これは自分が望んでいた事なのだと答えます。」

「彼は土佐藩を使って大政奉還を実現させるつもりでした。千載一遇のチャンスに賭けるべく、象二郎の人物を見定めて来ると言って同志達を鎮める龍馬。」

「慶応3年1月12日、清風亭。一室に通された龍馬が襖を開けると、お元が待っていました。驚く龍馬に、弥太郎に呼ばれた、龍馬と象二郎を和ませてくれと頼まれていると答えるお元。しかし、襖の向こうにと示唆するお元。判っていると答える龍馬。緊張する襖の陰の弥太郎達。」

「遅れてやって来た象二郎。平伏して迎える龍馬。土佐にこっそり戻ってきて以来だと皮肉る象二郎。あの折りは失礼しましたと素直に詫びる龍馬。お元に命じて二人の杯を満たさせる象二郎。自分と飲めるのはもう二度と無いと言う象二郎に、黙って杯を干す龍馬。」

「お前はここで捕まって打ち首にされても文句は言えない、しかし、土佐藩の為に薩摩と長州の橋渡しをするのならそれを後回しにしても良いと恫喝する象二郎。大殿の為に働いた土佐勤王党を弾圧し、半平太も以蔵も殺してしまった、そんな土佐藩の為に今更働く気はないと断る龍馬。お前に選ぶ道はないと、襖の陰に隠れている上士達をちらつかせて脅す象二郎。道がないのはそちらも同じ、自分の同志がなだれ込んでくると答える龍馬。話しはこれからだと座り直す龍馬。」

「馬関の戦いを語り出す龍馬。彼はあの程度で逃げ出すとは幕府の時代は終わりだ、今こそ大政奉還を持ち出す絶好の機会だと言い出します。寝言を言うなと切り返す象二郎に、だからこそ土佐の出番だと答える龍馬。彼は立ち上がって、上士達が隠れている襖を開け放ちます。あっけにとられる上士達。」

「薩長と幕府軍の勢力関係を説明し始める龍馬。薩長だけでは大政奉還を迫っても幕府が折れる事はないが、そこに土佐24万石が加われば脅威と変わる、それが龍馬の狙い目でした。どうして土佐がそこに加わるのかと否定する象二郎。薩長に近づきたいのなら、がっちりと手を結ぶより無いと答える龍馬。大殿と慶喜公の仲が良い事を知らないのかと言う象二郎に、それこそが都合の良い所だと返す龍馬。彼は今度は同志が隠れている障子を開け放ちます。一触即発の空気に包まれる座敷。」

「幕府が土佐が寝返ったと知った時こそ、大政奉還を持ち出す好機と座り直す龍馬。土佐が幕府に刃を向ける事は無いと叫ぶ象二郎に、その考えこそ薩長を押さえる力になるのだと諭す龍馬。そして、これこそが土佐が新しい日本を作る要になるという事だと迫ります。」

「これほど言っても判らないのであれば、土佐藩も象二郎もとんでもない大馬鹿者だと言い放つ龍馬。その言葉を聞き、いきり立つ上士達。対抗上刀を抜き放つ同志達。騒然とする座敷の中で向き合う龍馬と象二郎。やがて象二郎は刀を納める様に命じます。その威に打たれた様に刀を引く上士と同志達。」

「龍馬を見下ろしながら刀を抜いた象二郎。そのとたん、再び刀を抜く上士と同志達。平然と座っている龍馬。再び刀を納めよと命じる象二郎。同志達に刀を納めよと告げる龍馬。一人龍馬に刀を突きつけ、恐れを知らぬ奴だとあきれる象二郎。誰かに恐れ入っている暇はないと答える龍馬。」

「刀を投げ捨て、龍馬の話に乗ると言い出す象二郎。その条件として、亀山社中は土佐藩の下に入れと言う象二郎に、土佐藩と対等の立場なら手を握ると答える龍馬。上士、同志共に異議がある中、良かろうと答える象二郎。土佐は薩長を利用する、必ず土佐が日本の要になると約束しろと迫る象二郎に、黙って手を差し出す龍馬。意味のわかりかねている象二郎に、約束のシェイクハンドだと促す龍馬。ついにその手を握った象二郎。笑いながら、同志達に上士と握手を交わす様に促す龍馬。次々に握手を交わす人々。嬉しげに笑う龍馬。驚きの表情で龍馬を見つめる弥太郎。」

「小曽根邸。お龍に膝枕を命じ、才谷梅太郎と名前を変えると宣言する龍馬。名前を変えなければならない程危ないのかと心配するお龍。名前を変えても自分は自分だと答える龍馬。龍馬さんは龍馬さんだ、才谷梅太郎なんていう人は嫌いだとつぶやくお龍。嬉しげに笑う龍馬。」

ドラマと史実ではあまりに展開がかけ離れているので、いつもとは違って別立てにします。

慶応2年6月17日に下関での戦争を終えた直後の龍馬と亀山社中は、乗るべき船を失った(彼らが乗船して戦ったユニオン号は長州海軍籍となった)ため、最大の危機に陥っていました。収入が途絶した事により雇いの水夫達に支払うべき賃金も出せない有様で、彼らに暇を言い渡さざるを得ない状況に追い込まれていたのです。

その水夫達の多くは龍馬の人柄を慕ってどこまでも生死を共にしたいと言って離れようとせず、わずかに3人が止めただけでした。そんな中でも龍馬は、大洲藩に依頼して6人を貸し出す形で働き口を見つけたり、あるいは長府藩(三吉慎蔵の母藩)が海軍を開設する際には社中の人数を移籍させたいと打診したりしています。要するに倒産寸前に追い込まれた社長が、社員達の次の働き口を世話しようと飛び回っているという状況ですね。

この龍馬の苦境を救ってくれたのが薩摩藩でした。薩摩藩では亀山社中の同志に対して賃金を支払う(一人3両2分)一方、長州藩に譲らざるを得なかったユニオン号の代わりとして、プロシアの商人から大極丸という風帆船を買い取る算段を付けてくれたりしています(ただし、代金の支払いは社中持ち)。また、大洲藩に働き口を見つけられたのも薩摩藩の仲立ちがあってのことでした。

ようやく苦境を脱した龍馬は、次の構想として薩長の協力の下に馬関商社を設立しようとします。これは下関海峡を封鎖して通過する船の積荷を調べて日本経済の動向を把握すると共に、その積荷に応じた関税を取ろうというもので、長州藩では広沢真臣、薩摩藩では五代才助が積極的に賛成していたようです。

しかし、本来公海であるべき下関を封鎖すれぱ薩長以外の諸藩を敵に回す事になるのは明白であり、ことに木戸準一郎の反対に会ってこの計画は潰れてしまった様です。

その少し前、慶応2年8月には、小曽根乾堂の弟である英四郎が長州藩によって拘束されるという事件が起きています。英四郎は所用で大阪に行き、その帰りに大阪町奉行から長崎奉行に宛てた手紙を預かりました。そして長崎に向かう途中で下関に寄港したのですが、その手紙を持っている事が発覚したらしく、幕府方のスパイという疑いを受けたのです。

長崎に居た龍馬は、菅野覚兵衛を派遣すると共に、伊藤助太夫という下関の有力者に対して、英四郎は自分達が世話になっている小曽根家の者であり、決して怪しい人物ではないから救い出してやって欲しいという手紙を書いています。さらには、場合によっては薩摩人を派遣しても良いとも言いやって、小曽根家の為に全力を尽くそうとしている事が伺えます。この甲斐あって、英四郎は無事に解放してもらう事が出来た様ですね。

この頃、絶縁状態となっていた土佐藩との仲立ちをする人物が現れます。それが旧知の溝渕広之丞で、砲術修行と時勢探索の役目を帯びて長崎に来ていた彼は(恐らくは後藤象二郎の意を受けて)龍馬に接近し、その志望を聞き出そうとします。龍馬はその要望に応えて、自分の志望は海軍にある事、長年懐かしい故郷に背を向けてきたのは、その情に負けて志を曲げてしまう事を恐れていたからである事などを手紙に認めました。溝渕はこれを見て喜び、これならば龍馬を土佐藩に迎え入れる事ができそうだと考えました。

このあたりの背景には、ドラマにもあった様に、第二次長州征伐における幕府の対応のまずさを見て、土佐藩においても薩長に接近する必要性を感じたという事がある様です。

龍馬もまた土佐藩を薩長の側に引き込む事が出来るかもしれないと感じたのでしょう、下関で溝渕を木戸に引き合わせています。木戸から時勢論を聞いた溝渕は、長崎に帰ってから後藤象二郎にその会見の様子を伝え、後藤をして薩長に接近する方向に方針転換する事を決意させる役割を果たしました。

ここまでが慶応2年7月から12月にかけての出来事です。

明けて、1月5日には下関で中岡慎太郎と再会を果たしています。その会談の内容は伝わっていませんが、夜明け近くまですこぶる快談したと中岡は認めており、翌6日にも再び二人は会っています。薩長同盟が成立して以来の再会ですから、積もる話があったのでしょうね。そして、恐らくは今後の構想を語り合ったものと思われます。

ドラマでは全てスルーとされましたが、清風亭での会見がセットされるまでの間にはこれだけの動きがありました。

龍馬が長崎に帰ったのは慶応3年1月11日の事でした。そして、龍馬を待っていたのは後藤象二郎との会見です。この会見を周旋したのは溝渕と開成館の商法係を勤める松井周助の二人でした。この会見があった日は龍馬が認めた手紙から1月14日頃と推定されており、場所は料亭「清風亭」でした。この料亭は大浦慶が女将を務めていた(つまりは経営していた)様ですね。

龍馬にとって後藤は仇敵とも言うべき相手であり、後藤にしてもそれは同じでした。龍馬はそれ以上に土佐藩を薩長側に引き付ける事に魅力を感じてこの会見に応じたのですが、その一方でこれは何かの罠かもしれないとも警戒していた様です。

その警戒を解くべく後藤が用意していた隠し球がお元でした。お元については謎だらけなのですが、龍馬の馴染みの芸妓であった事は確からしく、後藤が特にお元をこの席に呼んだ事も事実として伝わっています。この計略は見事に当たり、龍馬も恩讐を越えて後藤と向き合う事が出来た様です。

会見の内容は明らかにはなっていませんが、龍馬から木戸に宛てた手紙には、後藤とは十分に論じる事が出来た、土佐藩の方針も以前とは変わって来ており、今は幕府の役には立たないという所まで来ている、このぶんだと7月か8月頃には昔の薩長土の様になるだろうから楽しみだなどと記されています。

またこの手紙には、この会見が成功したのは木戸から溝渕に話してくれた事が大きく作用したとも記されており、実質的に木戸のおかげであると感謝の意を表しています。つまりは、後藤と龍馬が和解した背景には木戸、すなわち長州藩の意向が働いていたという事であり、この点もドラマでは描かれていない重要なポイントですね。

大政奉還についてはどうでしょう、いくつかあるオプションの一つとして語られたかも知れません。前回に書いた様に、春嶽侯が慶喜公に対して大政奉還を勧めた事が木戸からの手紙で龍馬に伝わっており、さらには同じ手紙で容堂候に春嶽侯の手助けをして貰えたら助かると示唆されていますからね。ですから話しが出たとしても、ドラマの様な形では無かった事は確かです。

彼は会見の様子について同志達に語っているのですが、後藤は過去の事には一言もふれず、将来の大局の事のみを言った、これは彼が人物である証拠である、また話題を常に自分に引き付けて決して他人に引きずられる事が無い、これも才人でなければ出来ない事だと語り、その人柄を賞賛しています。ここはドラマとは大きく違うところですね。

しかし、龍馬が仇敵の後藤と手を結んだ事は同志や故郷の人達から非難を浴びる元ともなり、殊に姉の乙女からは姦物役人に騙されているのではないかとまで言われた様です。これに対して龍馬は、後藤は土佐国中で最も優れた人物であり自分の第一の同志である事、自分一人でも500人や700人を率いる事は出来るが、それよりも土佐24万石を動かした方が天下の為になるなどと書き記し、これはとても乙女の理解に及ぶところではないとやや突き放した弁解をしています。

個々に動くのではなく土佐一国を動かすという点では半平太と同じ思想であり、回り回った挙げ句に半平太の下に帰って来たと言えなくも無いですね。まあ、その方法論はまるで違ってはいますが、たどり着いた結論が同じというのは面白いところです。

今回のドラマにおける会見の描き方は、史実とはまるで逆の荒唐無稽なものではありましたが、その緊迫感はなかなか良かったと思います。龍馬よりもむしろ象二郎の方が格好良かった様に思うのは私だけでしょうか。ただ、あれではお元の存在意義がほとんど無かったのが可哀想でしたけど。

なお、龍馬が才谷梅太郎を名乗ったのはもっと早い時期であり、慶応2年1月3日付けの手紙にその名が見えます。つまり、薩長同盟を締結する直前であり、その頃から彼の身辺が危うくなり始めた事を窺わせます。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉、「坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる

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