龍馬伝39 ~馬関の奇跡~
「明治、岩崎邸。土陽新聞に連載された「汗血千里の駒」を読む岩崎弥太郎。龍馬を英雄扱いするのなら、これ以上話はしないと坂崎紫瀾に通告する弥太郎。弥太郎の話す龍馬は魅力的に見えると食い下がる坂崎。」
汗血千里の駒は明治16年1月に連載が開始されたそうですから、このドラマの時期もその頃という事になるのでしょう。ただ、季節は夏の様ですからかなり連載が進んでからという事になりますね。怒るにしてはちょっと遅すぎて不自然なのでは?
「そこに、高島炭坑の報告書を持ってきた人物が居ました。利益が上がっていると聞き、満足げに部下をねぎらう弥太郎。その部下とはグラバーでした。維新後、零落していたグラバーを弥太郎が拾ってやったというのです。」
グラバーについては、明治維新の後、クラバー商会は確かに倒産しています。しかし、彼はイギリスに戻ることなく、肥前藩と共同経営していた高島炭坑の所長として日本に止まっていました。この炭坑は後に官営となるのですが、クラバーはそのまま所長であり続けた様ですね。弥太郎と縁が出来るのは明治14年の事で、高島炭坑が官営から三菱に払い下げになったのでした。グラバーは依然として所長を勤めていたらしく、明治16年には弥太郎の部下となっていた事は確かな様です。ただし、零落していたのを拾い上げたというのはおかしいですね。
「龍馬など口先だけの男である、土佐の地下浪人だった自分は日本一の三菱を率いている、自分くらい出世した人物は太閤秀吉位しかいないと豪語する弥太郎。そこに現れた母の美和が、貧乏だった頃を忘れるな、思い上がってはいけないと弥太郎をたしなめます。」
「坂崎に弥太郎の言う事など気にするな、龍馬が世に知られて嬉しいのだと話す母。彼らと離れた場所で咳き込む弥太郎。思わず口を押さえた手には血が付いていました。」
この演出だと弥太郎も結核を患った様に思えますが、実際の死因は胃ガンだった様です。症状が現れたのは明治17年8月の事とされますから、ドラマよりは1年後の事になりますね。
「龍馬がいたからこそ今のお前がある、最期まで坂崎に話をしなさいと弥太郎を諭す美和。」
「下関で幕府軍と戦う龍馬。その龍馬を思い出しのか、叫び声を上げる弥太郎。」
「1867年(慶応2年)6月7日、幕府軍対長州藩の戦いが始まりました。下関の馬関で長州軍に合流した龍馬率いる亀山社中。さっそく陣中で甲斐甲斐しく働く龍馬。」
「長崎、土佐商会。溝渕広之丞が藩から命じられたと言ってやって来ました。ところが忙しく働いている役人達は誰も相手にしてくれません。そこにジョン・万次郎が現れました。役人達は上士ばかりで、下士は相手にしてくれないのだと言います。」
広之丞が長崎に行ったのは確かですが、その用件は砲術修行にあり、土佐商会で働く事ではなかったはずです。そもそも弥太郎が長崎出張を命じられたのは慶応3年3月の事ですから、ドラマよりも1年近く先の事になりますので、ここの下りはすべて創作という事になりますね。
「ここの頭は誰かと聞く広之丞に、大抜擢された人物だと答える万次郎。その人物とは弥太郎でした。驚く広之丞に、なぜ自分の下で働かなくてはならないのかと思っているだろうと嫌みを言う弥太郎。彼は早速溝渕に大荷物を背負わせて、土佐の物産の売り込みに出かけます。」
「オールト商会。土佐の和紙や樟脳を売り込む弥太郎。にべもなく断るオールト。土下座をして頼み込む弥太郎達。」
このドラマは本当に土下座が多いですね。土下座って、こんなに安売りするものなのかしらん?
「下関。全軍の指揮を執る高杉晋作。戦の最中にも関わらず、着流し姿に三味線を抱え歌まで歌っています。」
晋作がこの戦いにおいて平服だったという話は、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」に出てきます。幕府軍の手に堕ちた大島を奪い返しに行く時、一緒に戦った田中光顕が語り残した言葉として、幕府軍など鼠賊である、俺は扇子一本で十分だと言って、平装に扇子を帯びた姿で船に乗り込んで来たと記されています。私はこの小説以外には知らないのですが、この根拠とされる田中伯爵の語り残しがどこかに記録されているのでしょうか。
「奇兵隊の隊士達に、生業は何かと聞く龍馬。百姓、大工、干物の行商と次々に答える隊士達。自分たちも世の中の役に立てる、侍だけでは世の中は変えられない、自分たちが加わる事で新しい世の中が生まれると晋作が言ったと熱く語り、親兄弟、子供達の為に自分たちが戦うのだと意気の上がる隊士達。こういう人達のために、日本を変えなければならないと言う沢村惣之丞。そのとおりだとつぶやく龍馬。」
「咳き込んで、奥へと急ぐ晋作。その姿を見て後を付ける龍馬。手に着いた血を洗い流す晋作。気遣う龍馬に、労咳だと答える晋作。驚く龍馬に、もう長くはない、先が無いなら無いなりに、派手な花火を打ち上げたい、それが高杉晋作の生き方だと言って背を向ける晋作。」
「百万の軍勢恐るるに足らず、恐るべきは我ら弱き民、一人一人の心なりと檄を飛ばす晋作。意気に感じて鬨の声を上げる隊士達。」
「グラバー邸。売り込みに来た弥太郎に、土佐藩なら龍馬を通せとにべもなく断るグラバー。憤然として立ち去る弥太郎。」
「長崎の町で、一人龍馬を気遣うお龍。」
「下関。晋作を中心に軍議が開かれています。幕府海軍5万に対して長州海軍は1千。その時、龍馬が門司を奇襲すべきであると発言しました。海流がきつく、夜襲は無理という声に、自分たちは海軍繰練所で鍛えた腕を持っている、明日は自分たちに着いて来れば良いと豪語する龍馬達。少数で大軍を攪乱すべしと下知を飛ばす晋作。」
ドラマでは龍馬が積極的にこの戦争に加わったかの様に描かれていましたが、実際にはユニオン号を長崎から下関まで回漕して来たところを高杉に捕まり、17日の攻撃だけでも参戦してくれる様にと懇願されたというのが正しい様です。
この戦いの様子は龍馬自らが書いた絵図に詳しく記されていますが、そこには桜嶋という蒸気船、即ち龍馬船将と書かれており、彼が参戦したという証拠とされています。ただし、これには異説があって、実際に戦ったのは亀山社中の同志であり、龍馬自身は下関の民家の屋根の上で観戦していたとも言われます。龍馬はこの後の戦いにおいても、小五郎に対して「また野次馬をさせてくれないか」と手紙を出しており、「また」と言う以上、前の戦いにおいても野次馬(観戦)していたのではないかと言われていますね。どちらが正しいかは判らないというのが現状です。
「6月17日早朝。碇を上げるユニオン号。」
「小倉、大久保海岸。密かに上陸していた晋作率いる奇兵隊。着流し姿に三味線を手にした晋作は、隊士達に散開を命じます。」
いくら晋作とは言っても、三味線片手に戦場に現れたりはしないでしょうね。これはまあ、時代劇らしい演出という事にしておきましょう。
「ユニオン号。予定地点まで着て、攻撃準備に入る社中の面々。」
「大久保海岸。奇襲を予期せず、油断している幕府軍陣地。そこに三味線を弾き、歌を歌いながら現れた晋作。不審に思った見張りを、声を立てさせずに倒す奇兵隊士。」
「敵陣に向かって大砲を放つユニオン号。」
「大砲の弾が炸裂する中を、悠々と三味線を弾きながら歩く晋作。奇襲に驚いて飛び出てくる幕府軍。晋作に気付いて襲い掛かりますが、待ち受けていた騎兵隊士に次々と討ち取られて行きます。晋作に続いて飛び出す奇兵隊。」
「幕府海軍の反撃を受けるユニオン号。直ちに応戦を指揮する龍馬。」
「大久保海岸。鬼神の働きを見せる晋作。彼は攻撃を止めさせ、敵陣に向かって小倉を獲りに来たのではない、幕府に着せられた朝敵の汚名を晴らしに来たのだと叫びます。これに答えたのが肥後藩でした。自分たちも幕府の命によってここに来たが、長州藩には何も恨みはないと言います。ならば戦う理由はないと言って、敵陣を通過していく晋作達。その勢いに押されて、小倉城に火を付けて退却した幕府軍。勝利に沸く長州軍。」
熊本藩が戦い半ばで持ち場を離れたのは事実です。ただし、戦いもせずに引いたのではなく、一度は長州軍と戦ってこれを敗走させています。そうやって熊本藩の意地を見せつけた上で、下手な戦を続ける幕府への反感から持ち場を離れたのでした。何も奇兵隊の勢いに恐れをなして引いた訳ではありません。
なお、この戦争は6月17日で終了した訳ではなく、この後も各地で攻防があり、小倉城が墜ちたのは8月1日の事でした。
「これで次に進む事が出来るとつぶやく龍馬。」
「大阪城。小倉敗戦の報を聞き、怒りに震える慶喜。」
「大阪。打ち壊しが続く町。」
「家茂公が脚気により死去。苦境に目を閉じる慶喜。」
「下関。家茂公死去の報に沸く長州軍。」
家茂公の死去は最重要機密であり、そう簡単に漏れる訳は無いと思うのですが。それに、将軍が死んだとしても次の将軍が立って、戦争を引き継ぐ可能性が高い訳ですから、勝ったと喜ぶのは早すぎますね。
「鹿児島。山が動いたとつぶやく小松帯刀。変わると叫ぶ西郷吉之助。」
「高知城。幕府が負けるとは、と苛立つ容堂候。」
「長崎、引田屋。お慶を接待する弥太郎。同席しているのはお元。お元の美しさを褒めつつ、土佐に残してきた喜勢でのろける弥太郎。彼はお慶に商売を持ち掛けます。しかし、初めての商売でもあり、信用のおける龍馬を通して欲しいと答えるお慶。龍馬が幕府軍との戦いに参加したと聞き、驚く弥太郎。弥太郎を尻目に席を立つお慶。」
「お元から、龍馬がお龍と祝言を挙げたと聞き、どこまで自分を邪魔するのかと叫ぶ弥太郎。お前も龍馬に惚れているのかと聞かれ、私が惚れているのは岩崎さんと答えるお元。いい加減な事を言うな、お前には自分と同じ匂いがすると突き放す弥太郎。喧嘩では世の中が変わらないと言ったくせに、戦に行くとは龍馬は嘘つきだと叫ぶ弥太郎。龍馬の嘘はみんなが笑って暮らせる国にするための嘘と言い返すお元。そういうきれい事を言えるのが龍馬とふて腐れる弥太郎。」
「長州、山口城。長州侯に拝謁する龍馬。彼は藩主から下関での働きを褒められました。」
龍馬が長州侯に拝謁したのは史実にあるとおりです。彼は長州侯から色々とお咄しがあり、褒美として羅紗地を貰ったと乙女宛の手紙に書いています。
「龍馬に礼を言う晋作。長州が勝ったのは晋作と奇兵隊のおかげと答える龍馬。戦はこれだけにしておこうと小五郎に言う龍馬。今こそ諸藩に声を掛けて味方を増やす時だと言う龍馬に賛同する晋作。薩摩との盟約は幕府との戦を想定してのもの、その裏書きを書いた龍馬が戦に反対するとはおかしいと反論する小五郎。そもそも戦もせずにどうやって幕府を倒すつもりかと問う小五郎に、幕府自らに政権を返上させれば良いと答える龍馬。大政奉還論かとつぶやく小五郎。」
「大政奉還論は過去に何人も唱えた者が居た、しかし、一度手にした権力を手放す程幕府は甘くないと解説する小五郎。だから武器を持つのだ、政権を奉還しなければ滅ぼしてやると迫るために武器を持つのだと迫る龍馬。そうかと悟る晋作。大政奉還など、奇跡でも起こらない限り無理だと叫ぶ小五郎。その奇跡を起こさなければ日本は無くなると言って立ち去る龍馬。」
また、このドラマの荒っぽいところが出てきました。龍馬がいきなり大政奉還論を言い出しましたが、その萌芽というのはこれまで描かれていましたっけ。
早い時期から大政奉還を唱えていた人物としては、松平春嶽が挙げられます。春嶽のブレーンだったのが横井小楠で、龍馬が大政奉還論を知ったのはこのルートではないかと言われていますね。また、龍馬と親交のあった大久保一翁も大政奉還論を唱えていた一人ですから、ここからもその知識を得た可能性もあります。
春嶽侯はこの年の8月に、慶喜に対して政権返上を求める建白書を出しています。結果として慶喜にはぐらかされてしまうのですが、小五郎はこの事実を聞いてさすがは春嶽侯と絶賛し、龍馬に対しては、容堂候は春嶽侯と親しいのでこれを助けて貰えば天下の為になると今後の方針を示唆しています。つまりは、ドラマの進行とは逆に、小五郎の方から大政奉還を勧めているのですね。
龍馬にしてもドラマの様に大政奉還一本槍だった訳ではなく、刻々と変わる時勢の中で、武力倒幕との間を揺れ続けて行きます。それは小五郎とても同じなのですけどね。事実はそれほど単純ではない事は確かです。
参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉
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