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2010.08.22

龍馬伝34 ~侍、長次郎~

「揃いの白袴を購入した亀山社中の面々。ユニオン号購入を記念して、上野彦馬の写真館で写真を撮る事になりました。初めての事ゆえ、魂を取られないかなど大騒ぎの末、無事に写真を撮り終えます。」

「桜島丸と名を変えたユニオン号で下関に向かう長次郎と龍馬。」

ユニオン号を社中が受け取ったのは慶応元年10月18日の事でした。長次郎はこの船に乗って一度薩摩に出向き、その上で長州に向かった様です。長次郎はこれ以前にも薩摩に行っているらしく、その際には小松帯刀の屋敷に滞在し、薩摩藩主か島津久光のどちらかに拝謁している様ですね。この後彼は長州藩主にも拝謁して礼を言われていますから、その働きが如何に大きかったかが判るというものです。

なお、龍馬はこの頃京都に居た為、ドラマの様に長次郎と共に船に乗っているという事はあり得ません。

「京都。朝廷から第二次長州征伐の勅命を受けた幕府。」

「下関。ユニオン号を運んできた長次郎と龍馬。彼らがもたらした軍艦と武器を見て盛り上がる晋作達。長次郎に礼を言う小五郎。長次郎は留学の希望がある事を龍馬に伝えます。新しい夢が出来たと喜んでやる龍馬。」

「しかし、長次郎がまとめた船の運用方法を巡って、長州藩海軍局との間でもめ事が起こります。聞多、俊輔の同意の下に名義は薩摩藩、運用は亀山社中が行うという約束が出来ていたのですが、長州海軍としてはとても飲めない条件だと言うのです。小五郎が苦悩する姿を見て、船の名義を長州とし、亀山社中は長州の同意を得た場合のみ運用出来るという条件でまとめた龍馬。失意のまま、長崎に帰る長次郎。」

ユニオン号が下関に到着したのは11月の上旬でした。この船の運用を巡っては、井上聞多の了解の下に亀山社中が運用する事になっていました。ところが、長州藩の海軍局はこの事を了解しておらず、、船の名前は乙丑(いちゅう)丸、船長は中島四郎とするなどと決めていたのです。このため、船の受け入れにあたっては最初から紛糾しました。

龍馬が京都から下関にやって来たのは、慶応3年12月3日の事でした。その目的は京都の情勢を長州藩に伝えて新たな判断を促す事にあった様ですが、ユニオン号を巡って紛糾している事を知り、自らもその調停に乗り出した様です。

最初に決められた取り決めにおいては、船籍は薩摩藩、運用は亀山社中、船長は沢村惣之丞、運用にあたっての諸費用は長州藩が負担するなどと決められました。(第一次桜丸条約。)この取り決めを作るにあたっては長州藩海軍局総監の中島四郎も加わっており、一度はその内容に同意した様です。この条約は長次郎の名で中島と龍馬の両者に宛てた文書としてまとめられており、彼の主導的役割が判るというものですね。

ところが中島一人では長州藩海軍局を押さえられなかったのでしょう、改めてこの取り決めに対して異議が唱えられます。中島は12月24日に山口に出向き、条約の改定を訴えました。小五郎の上洛は12月27日の事で、龍馬もこれに同行したかったのでしょうけど、この問題に足を取られて身動きが取れなくなっていました。

ようやく新たな条約が結ばれたのは、たぶん12月29日の事ではなかったかと思われます。その日付の龍馬の手紙が残っており、今日中に片付くだろうと見込みを語っているからで、小五郎からは上洛を急かされているとも記されています。これは私の想像ですが、上洛を急ぐあまり、条約の内容にはかなり妥協したのではないかという気がしますね。

新しい条約(第二次桜島丸条約)では、船の運用は長州藩が主導する、社中(薩摩藩からの乗込士官)は船の運航のみを行う、長州藩の商用が無い時には薩摩藩の荷物を運んでも良いがそのための費用は薩摩藩持ちであるなどと決められました。この文書は龍馬と中島の連名になっており、長次郎の名はどこにも記されていない様です。ただし、長次郎の主張により、船自体は長崎に戻される(金が支払われるまでは船を長州に引き渡す事は出来ないという主張。いわば長次郎の意地か。)事になっています。

「土佐。楠を数える仕事を終えた弥太郎。象二郎から今度は薩摩の動きを探れと京都行きを命じられます。」

土佐藩が薩長同盟の動きをどこまで知っていたのかは判りません。また、弥太郎が象二郎の命を受けて京都に向かったという事実も無いですね。これはたぶん、弥太郎のために作られた挿話へ繋がる伏線になるのだろうと思われます。

「長崎。下関から戻った長次郎は、桜島丸を自由に使えなくなったと報告します。しかし、その事を事前に知らなかった社中の面々は、利を求めるとは何事かと長次郎を責めました。金が無くては何も出来ないと反論する長次郎ですが、所詮は商人だと蔑まされる長次郎。」

亀山社中の面々が桜島丸条約の内容を知らなかったはずはありません。桜島丸を繰船していたのは他ならぬ社中のメンバーのはずですからね。惣之丞に至っては、その船長を務めていたはずです。そう言えば、ドラマで船を操っていたのは誰なのでしょう?

亀山社中が利益を求めぬ結社だという事はあり得ず、後の海援隊規約には船の運用によって利益を上げ、それを隊の資金とすると明記されています。この性格は亀山社中から引き継いだものと思われ、日本初の商社と謳われる所以ですね。龍馬達がやろうとしいていたのは、ボランティアで事が進められる程甘い仕事ではありませんでした。

「グラバー邸。グラバーから長州からの礼金を示される長次郎。亀山社中としては受け取れないと断った長次郎ですが、グラバーはではあなたが受け取れば良い、あなたには使い道があるのではないかと謎かけの様な事を言います。その言葉を聞き、イギリスへ留学することは出来るのかとグラバーにすがる長次郎。」

長州からの礼金については、井上聞多から桂小五郎宛に出した手紙の中に、その仕事に報いる謝礼として100両か200両位は出しても良いと記されているそうです。ドラマはこの事を踏まえての設定なのでしょうね。

「亀山社中。龍馬を賞賛する仲間の声を背に荷物をまとめて、雨の中を出て行く長次郎。」

「写真館にて写真を撮り、妻の下に手紙を書く長次郎。」

長次郎の写真については、龍馬伝紀行に出てきた様に実在します。「龍馬が行く」においては、長次郎が留学記念に写真を撮ったのですが、その事が社中の同志の知るところとなり、彼の抜け駆けが露見するきっかけとなったという設定になっています。

「暴風雨のために船が出ず、密航に失敗した長次郎。」

「亀山社中に長崎奉行所の役人がやって来ました。昨夜密航を企てた者がおり、土佐なまりだったと言うのです。自分たちにはそんな金が無いと言って役人を追い返した惣之蒸達でしたが、長次郎に違いないと言って探しに出かけます。龍馬に急を知らせる陽之助。」

「小曽根邸。長次郎を匿う乾堂ですが、奉行所と社中の仲間が密航者を捜してやって来たと長次郎を問いただします。それを聞き、とんでも無い事をしてしまったと嘆く長次郎。」

「下関。吉之助に会うべく京都に旅立つ小五郎。同行する龍馬に長州の恩人だと言って、ピストルをピストルを贈る晋作。彼は護衛として三吉慎蔵を引き合わせます。その慎蔵が陽之助の手紙をもたらしました。一読して驚く龍馬。」

龍馬が高杉晋作からピストルを贈られたのは有名な話ですね。後に伏見で幕吏に襲われた時に使ったピストルがこれであり、龍馬が小五郎に宛てた手紙にその旨が記されています。スミス&ウェッソン社製の拳銃で、6連発でした。襲われた際には5発の弾が込められていたと言いますから、ドラマで晋作が一発撃ったのはその数合わせなのかも知れませんね。

「長崎。下関から急遽引き返してきた龍馬。そこで見たのは変わり果てた長次郎の姿でした。彼は密航の罪で車中に迷惑を掛ける事を恐れ、切腹して果てたのでした。その手紙で、やっと武士になれた、日本の将来と家族を頼むと龍馬に宛てた長次郎。」

ドラマでは、上手く長次郎と社中の同志の面目が立つ様にまとめていました。この展開なら、長次郎が死んでもそう不自然ではないですよね。

長次郎の死については二通りの説があり、一つは桜島丸条約が大きく変えられた事について薩摩藩士からとがめられ、その責任を取ったという説です。

もう一つはドラマにあった様にイギリスへの留学を企てたのですが、これが社中の同志の知る所となり、自裁を求められたという説ですね。社中の取り決めには事を行う時には全て同志に計るべしとあり、長次郎の行いはこれに反するものでした。長次郎を問い詰めたのは沢村惣之丞だったと言われます。

また、グラバーが言い残した事として、長次郎は桜島丸の支払い代金のうち2千両を着服しようとしていたとも言われ、それも同志に依る糾問の一因だったともされます。

はっきりとした原因は判りませんが、彼が腹を切ったのは慶応2年1月14日の事とされます。場所は小曽根邸の裏庭にある梅花書屋と呼ばれる小亭でした。このため、墓碑には梅花書屋氏墓と刻まれています。得意の絶頂にあった前年の10月から数えてわずか三ヶ月ほどしか経っておらず、何とも凄まじい運命の変転という気がしますね。

この頃龍馬は上洛の途上にあり、この事実を知ったのは2月10日前後、場所は薩摩藩京都藩邸だった様です。お龍の回顧談では寺田屋に陽之助が知らせを持ってきたとあるのですが、これは事実関係から見ると無理がある様ですね。

「長崎奉行所の調べに対し、白を切り通すグラバーと乾堂。」

「奉行所に赴き、長次郎の切腹について申し開きをする龍馬。彼もまた密航については知らないと言い切るのでした。」

「引田屋。お元を座敷に呼んだ龍馬。彼は長次郎との約束どおり、二人で宴を上げるのでした。」

龍馬がお元と共に追悼の席を設けたというのはフィクションですが、龍馬伝紀行で紹介されていた様に、長次郎の悲報に接した時に「俺が居たら殺しはしなかった」と残念がったと伝えられます。しかしその一方で、「術数余って至誠足らず、近藤氏の身を滅ぼす所以なり」とも記しており、長次郎の人柄に原因があったと考えている節も伺えます。ドラマの長次郎からはそんな側面は伺えないのですけどね、実際はどうだったのでしょう。

近藤長次郎は勝海舟にも認められた人であり、龍馬に次ぐ評価を受けていたらしく、しばしば代理人として使いに出されていた様ですね。桜島丸の購入にあたっては薩長両藩からその活躍が認められ、それぞれの藩主から拝謁を認められるという名誉を与えられました。彼の働きは余程水際立ったものだったのでしょうね。これらの事から推し量って非常な才人であった事は確かであり、もっとスポットを当てられても良い人物だと思われます。

龍馬にとっても惜しい人物だった事でしょうね。享年29歳、何とも若すぎる最期でした。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎

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自分のやった行為が所属しているメンバーに迷惑の掛かることであった場合、自分の身をもって積みを滅ぼす必要がある。それが江戸時代では当たり前の考え方でした。まるで現代では考えられないようなこういう考え方ですが、どんなにその人が所属に対して貢献していても、1回でも失敗したときには死を持って責任をとることが求められるのです。 確かに、長次郎が行なおうとした密航は犯罪ですし、その当時にあって厳罰であることは確かですが、世界を見て学びたいという気持ちに応えることができなかった、これも今では考えられない時代のせい... [続きを読む]

受信: 2010.08.23 00:34

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