龍馬伝25 ~寺田屋の母~
「伏見・寺田屋浜。母にうり二つの登勢を見て驚く龍馬。思わず近づき話し掛けますが、思いを伝えられないまま、寺田屋に泊まる事になります。」
「船頭達で賑わう寺田屋。一人で夕食を食べる龍馬の下に、登勢があいさつに来ました。初めて遭う登勢に、以前土佐に居た事はないか、年の離れた姉は居ないかと矢継ぎ早に聞く龍馬。要領を得ず、曖昧に笑って席を離れる登勢。」
「部屋に引き上げた龍馬。母の記憶が蘇り、眠れぬ様子です。」
「寺田屋浜。川面を見ながら煙管を吸い、小唄を歌っている登勢。そこに龍馬がやって来ました。彼は登勢が母に似ていると告げ、母と呼ばせて欲しいと頼みます。快く願いを聞き入れ、龍馬と呼んでやる登勢。その声を聞き、やはり母とは違うと納得し、吹っ切れた様子の龍馬。」
前回にも書きましたが、寺田屋の登勢と龍馬の母が似ているというのは、配役の流れから来た全くの創作です。ただ、妙に納得の行く設定であり、これを信じてしまう人が沢山出て来るのではないかと気掛かりですね。何とも罪作りな設定ではないかしらん。
なお、登勢の出身地は近江国の大津です。
「神戸海軍繰練所。仲間と訓練に励む龍馬。」
「京都郊外に着いた長州軍。一人、小五郎だけが御所に向かって攻め込む事の無謀さを説いていますが、聞く者は誰一人居ません。」
長州軍が2千の兵力で京都の郊外に着陣したのは、元治元年6月25日の事でした。長州軍は伏見、山崎、天龍寺の3箇所に別れて布陣し、3方から京都に進撃する構えを見せました。対して幕府軍は会津藩と薩摩藩を主力とし、在京各藩にも出陣を命じて御所の周囲を固め、5万の兵力で迎撃の体制を固めました。
しかし、戦いはすぐには始まらず、長州の無実を訴えるための朝廷への陳情が繰り返し行われます。そもそも、この出兵は朝廷への陳情を行う事を名目としており、これは当然の動きでもありました。桂はこの時京都にあって、この陳情が上手く行くように在京各藩の間を周旋して回っていた様です。しかし、会津藩と薩摩藩に押さえられた朝廷の意向を覆すまでには至らず、かえって長州追討令が出され兼ねない状況になってきました。
一方、長州軍の中にあって自重論を説いたのは久坂玄瑞でした。彼は少数で京都に攻め込む愚を悟り、一度大阪に引いて時期を待とうと考えたのです。その一つの根拠として、毛利家の世子が2千の軍勢を率いて上洛の途にあり、この到着を待つべしと主張したのです。
しかし、これに真っ向から反対したのが来島又兵衛でした。彼は2千の兵力が増えたとしても焼け石に水であり、幕府軍の体勢が整い切らないうちに討って出るべきだと主張したのです。そして、遂には単独ででも討って出ると言い張り、石清水八幡宮で行われていた軍議の席を立って天龍寺の陣へ引き上げてしまいます。この動きに引きずられる形で、蛤御門の変は始まってしまったのでした。
「ついに都に攻め入った長州軍。蛤御門で会津藩と衝突し戦いになります。」
「二条城。長州軍が御所に向かって発砲したと聞き、喜色を浮かべながら出陣する慶喜。」
戦いが始まったのは7月19日の事でした。最初に伏見方面で戦いがあり、これはあっさりと長州軍の敗北で終わっています。この戦いの間隙を縫うようにして蛤御門に迫ったのが、来島又兵衛の居る天龍寺の軍でした。ドラマでは、長州軍から発砲した様になっていましたが、実際には幕府軍側から発砲しています。つまり、長州軍にしても御所に向かって銃を撃つ事の非は知っており、相手から撃たれたのでやむを得ず応射したという形を作ったのですね。結果としてこれは何の意味も持たなかったのですが、朝敵にされるという事を何よりも恐れた当時の人達の心情を良く物語っていると思われます。
「神戸海軍繰練所。訓練に励む龍馬達の下に、京都で長州藩が戦を始め、都は炎に包まれているという知らせが入ります。」
「御所で奮戦する来島又兵衛。戦いは長州軍に有利でしたが、薩摩藩の参戦によって形勢が逆転してしまいました。蛤御門の近くで討ち死にする又兵衛。」
「堺町御門。炎の中で自刃した久坂玄瑞。」
来島又兵衛の軍は幕府軍の虚を突く形となり、蛤御門を突破する事に成功しました。そして、幕府軍を押しまくり、御所の南西角にあった清水谷家近くまで攻め込んだのです。そこで、形勢を逆転させたのが薩摩軍でした。彼等は天龍寺の軍を迎撃すべく西に向かっていたのですが、長州軍とはすれ違う形になってしまい、御所への突入を許してしまったのですね。そして、慌てて御所へと引き返し、長州軍へと襲い掛かったのでした。
この軍を率いていたのが西郷隆盛でした。薩摩軍と言えどもいきなり優勢になった訳ではなく、指揮を執っていた西郷が狙撃を受けて落馬するなど、長州軍の勢いは容易に衰えませんでした。しかし、先頭に立って荒れ狂っていた来島又兵衛が狙撃されて倒れると、形勢が一気に逆転しました。彼等は多くの兵を失いながら御所を出て、長州を目指して落ちていったのでした。
一方、山崎から出た軍は、来島又兵衛の軍が崩れ去った後に堺町御門に到着しました。つまり、幕府軍の勢いが最高調に達した所に飛び込んだ訳で、最初から苦戦を強いられます。彼等は御門に隣接した鷹司邸に入り込んで抵抗を試みますが、多勢に無勢であり、遂には壊滅してしまいます。この軍に居た久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えて貰えるよう訴えますが、これを拒否されてしまいました。玄瑞は絶望のあまり、寺島忠三郎と刺し違える形で自害して果てたのでした。
「京都にやって来た龍馬。彼は焼け野原になった都を見て呆然となります。その焼け跡に中に小五郎が居ました。龍馬に長州藩の再起を近い、都を後にする小五郎。」
桂小五郎は、この戦争の直前まで周旋を続けており、戦いが始まった後は藩邸に残っていた兵力を率いて戦場をうろついていた様ですが、最後まで戦いには参加しなかった様です。戦後も暫くの間は京都に潜伏しており、乞食の群に入ったり、幾松に匿われていたりしたのですが、探索の目が厳しくなった為に京都を離れ、但馬へと逃れて行ったのでした。ここから約2年間の潜伏を続け、後に逃げの小五郎という異名で呼ばれる様になります。
「お龍の家の近く。炊き出しの周囲に人が集まっています。その中にお龍達の姿がありました。彼女たちの無事を知り、安堵する龍馬。」
「お龍の家。扇岩が焼け、先の見通しが立たなくなったというお龍。焼け出された人達は何をするか判らない、ここも危ないと危惧するお龍に、寺田屋に行こうと提案する龍馬。」
「寺田屋。お龍達姉弟を連れてきた龍馬。いきなり彼女達を世話しろと言われて、難色を示す登勢。しかし、龍馬の懸命の頼みに折れ、面倒を見ると約束します。こうして寺田屋で働く事になったお龍。」
この戦いの時には、龍馬は江戸に居た様です。そして、戦いが済んだ後に京都に帰って来て、8月1日(この日付には異論もあります)にお龍と祝言を挙げました。そして、この直後に西郷隆盛と会ったらしく、西郷から薩摩藩の定宿である寺田屋を紹介された様ですね。(寺田屋を紹介されたのは、もっと後の事だとする説もあります。)
お龍は確かに寺田屋で働く様になりますが、それは何の伝手もなく転がり込んだのではなく、龍馬に薩摩藩との繋がりがあり、かつ龍馬の妻という立場があったからでした。登勢の人柄はドラマに描かれていたとおりだった様ですけどね。なお、弟妹達はそれぞれ別の場所に預けられており、家族で寺田屋に世話になったという事はありません。
「土佐、高知城。象二郎が容堂候に、半平太を直接責めたい、彼を下士に落として欲しいと願っています。しかし、下賤の者に一々取り合っていられないと相手にしない容堂候。」
「以蔵を責め立てる象二郎。頑として口を割らない以蔵。そこに立ち会わされている弥太郎。あまりの凄惨さに、彼も相当に辛そうです。」
「酒に溺れ、曼荼羅図に耽溺する容堂候。」
この下りは、容堂候が酒浸りだったという以外は全て創作です。半平太を下士に落とそうとした事実はなく、以蔵が殊勝に口を割らなかったということもなく、容堂候が意味不明の行動を取るといった事実もありませんでした。そもそも容堂候はあんな老人ではなく、半平太より2歳上だけでしたしね。どうにも、このドラマの演出には首をかしげたくなるばかりです。
「京都御所。孝明天皇から長州征伐を命じられる慶喜と容保。」
「二条城。幕臣達を前に、長州征伐を宣言する慶喜。唯一人、長州征伐の非を唱えた麟太郎。しかし、その諫言は慶喜の逆鱗に触れてしまいます。神戸海軍繰練所に過激の徒が居る事、中でも池田屋で死んだ亀弥太が居た事を咎められ、軍艦奉行の罷免を命じられてしまいます。」
麟太郎か長州征伐に批判的だったのは確かですが、直接慶喜に向かって諫言したという事実はありません。麟太郎が軍艦奉行を罷免されたのは、長州をも含めた雄藩連合の構想を西郷に語り、自らも幕閣に働きかけたのですが、それが危険思想と判断されたからでした。軍艦奉行は罷免させられたものの、その思想は西郷に影響を与え、後の薩長同盟の布石ともなって行く事になります。
「神戸海軍繰練所。訓練生を前に、軍艦奉行を罷免になり、江戸で蟄居閉門を命じられたと告げる麟太郎。この繰練所はどうなると聞く龍馬に、ここも閉鎖と決まったと答える麟太郎。驚くと共に、口々に麟太郎を責める訓練生達。悔しさを胸に秘めながら、土下座して謝る麟太郎。」
麟太郎の罷免は個人的なものであり、彼の私塾である海軍塾の閉鎖はまだしも、神戸海軍繰練所は幕府の組織である事から、直接には連動しないはずでした。しかし、結果として少し時期は遅れますが、繰練所は閉鎖に追い込まれてしまいます。
「半平太の牢。弥太郎がやって来ました。彼は半平太に、このままでは以蔵が死んでしまう、早く白状したらどうだと迫ります。端で見ている自分も辛いと言う弥太郎に、それなら頼みがあると言って、饅頭の包みを取り出す半平太。それは天祥丸という毒薬を仕込んだ毒饅頭でした。彼は以蔵にこれを渡し、楽にしてやってくれと弥太郎に頼みます。」
半平太は確かに以蔵の死を願っていました。それは以蔵が苦しまない様にという慈悲からではなく、以蔵の自白から同志が次々と投獄されて行く事を恐れての事でした。この天祥丸というのは、ドラマにあったようにアヘンを使った毒薬で、当時は薬問屋に行けば簡単に手に入ったそうですね。
これを最初に使ったのは、半平太の実弟である田内衛吉に対してでした。この毒薬を使う事については同志の間でも賛否があったのですが、拷問にくじけそうになった衛吉は、差し入れたらたこの毒を仰いで自ら命を絶ったそうです。
また、新たに投獄される同志の中には、あらかじめこの天祥丸を手に入れておき、着物に縫い込むなどして牢に持ち込んだ者もあった様ですね。
以蔵の暗殺計画は何度も浮上しては実行されずに居たのですが、何度目かの自白が始まった時、遂に決行される事になりました。衛吉の時のように直接手渡すのではなく、その食事に混ぜようとしたのですね。しかし、その機会を待つ内に以蔵の処刑が実施され、暗殺する必要も無くなってしまったのでした。
「伏見、寺田屋。懸命にはたらくお龍。その彼女に、愛想良くして欲しいと頼む登勢ですが、それは苦手だと逃げるお龍。」
「寺田屋にやって来た龍馬。彼はお龍が仕事に励んでいる所を見て、満足します。」
「寺田屋の二階。お龍に「うみ」と言って見ろと何度も言う龍馬。訳の判らぬまま、懸命に繰り返すお龍。知らずに笑顔になったお龍を見て、それで良いと満足そうな龍馬。彼はお龍の笑顔は誰よりも美しいと言って、寺田屋を去ります。」
密かに笑ったお龍は綺麗でしたね。確かに笑顔の似合う女性です。
「神戸。誰も居なくなった繰練所にやって来た龍馬。行き先を見失い、海に向かって叫ぶ龍馬。」
この頃の龍馬は、海軍の構想と蝦夷地開拓の構想の二つを持っていたのですが、麟太郎の失脚によって両方とも失う事になってしまいました。実際、この後の龍馬の足取りが判らなくなってしまうのですが、どうやら薩摩藩に匿われていた様です。そこには西郷が介在していなければならないのですが、その出会いは来週に描かれる様ですね。
参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉
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